季刊『フラタニティ』創刊号に「私はいかにして弁護士となったか」
季刊『Fraternity フラタニティ』が創刊され、明日(2月1日)が発行日となる。
フラタニティとは友愛のこと。フランス革命のスローガンとして知られている「自由・平等・友愛」の内、「自由・平等」は普遍的原理として世界に定着したものの、友愛が不当に軽視されている。日本国憲法の理念として友愛を根付かせることによって、憲法をよりよく活かそう、というコンセプト(だと思う)。雑誌のモットーが副題として「友愛を基軸に活憲を!」となっている。私も賛同して、編集委員のひとりとなった。編集長が村岡到、編集委員に西川伸一、吉田万三などの名がある。
資本主義社会の「競争」に対峙する原理としての「協同」の奥あるいは基礎に「友愛」がある。私は個人的にそう理解している。「友愛」を理念とする市民が、「競争」を行動原理とする企業をコントロールすることが、夢想ではなく可能ではないか。その基本は民主主義による企業統制だが、それ以外にも現実にいくつかの手法が成功しているように思う。
創刊号が刷り上がっているが、なかなかの出来だと思う。読ませるこの内容で、一冊600円は割安感がある。
ぜひ、下記のURLを開いていただいて、出来れば定期購読していただけたらありがたい。
http://logos-ui.org/fraternity.html
創刊号の特集が「自衛隊とどう向き合うか」で、次の3本の記事がメインとなっている。
村岡 到 「非武装」と「自衛隊活用」を深考する
松竹伸幸 護憲派の軍事戦略をめぐって
泥 憲和 安保法制批判側が国民の支持を得られない理由
そのほかに、
編集長インタビュー 孫崎 享 東アジア共同体が活路
TPPを何としても止めよう! 山田正彦
沖縄は今
脱原発へ
高野 孟 ジャーナリストの眼?
地域から活憲を? ねりま9条の会
ロシアの政治経済思潮 ?
友愛を受け継ぐ人たち? 友愛労働歴史館
わが街の記念館? 賢治とモリスの館 等々
創刊号の裏表紙に、編集長の「季刊『フラタニティ』創刊アピール」が掲載されている。「季刊『フラタニティ』は、「友愛を基軸に活憲を!」をモットーに刊行されます。」ではじまる創刊の辞は、かなりの長文で意気込みに溢れたもの。最後が「ともに〈活憲〉の時代を切り開いていきましょう」に収斂する。しかし、何よりもこの雑誌の性格をよく物語っているのは、欄外に小さな活字で書かれた編集長自身の次の文章である。
「〈付〉上記のアピールは小さな編集委員会でもいろいろ異論があります。一つの方向として、深く考える素材として発せられたものです。」
こういう、まとまりのなさを率直に明示しているところがこの雑誌の魅力である。多様な書き手のそれぞれの個性が、まとめられたり整理されたりすることなく、素のまま表れているのだ。
私も連載を引き受けた。「私がかかわった裁判闘争」というタイトル。5頁というスペースをもらっている。執筆を引き受けて、自分のこれまでの弁護士生活を振り返るよい機会だと思っている。編集長からの注文があって、その第1回で「岩手沿岸の『浜の一揆』訴訟」を取り上げた。自分で読み直してみて、結構面白いと思う。
その連載第1回の冒頭に、「私はいかにして弁護士となったか。」を書いた。
フラタニティ創刊号の予告編として、その一部を抜粋して引用しておきたい。抜粋でなく全文に興味が湧けば、ぜひ雑誌の購読をお願いしたい、という魂胆。
実は、私こそが法が求める弁護士であると自負している。密かに自負していれば穏当なのだが、執拗に広言してやまない。
「資格を持っているだけの弁護士」と「法が想定する弁護士」とは一致しない。「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は、在野・反権力に徹し、かつ資本の支配に抗することによって初めて可能となる。それだけではない。この社会においては、権力は社会の多数派によって担われる。だから、社会の多数派が形づくる常識が、権力のイデオロギーとなる。毅然として権力と対峙するには、社会の常識に絡めとられてはならない。私は、意識的にこの社会の常識を排する。「和の精神」も、愛国心や国旗・国歌も大嫌い。民族の歴史・伝統・文化には馴染めない。その中核をなす國體思想には生理的嫌悪を禁じ得ない。
そのような私だからこそ、最も弁護士らしい弁護士なのだ。現行法制度は人権擁護のために「弁護士という国家権力から独立した法技術者の職能集団」をつくった。その法の趣旨にもっとも適合的な弁護士像が、在野に徹し、資本に抗い、天皇制批判に躊躇しない私だと思っているのだ。
啄木の「一握の砂」に、「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」という一首がある。啄木が詠んだから「歌」になっているが、散文にすれば唯物論の基本に過ぎない。「この社会において人が抱く思想は、すべて金なきに因する」か、あるいは「金あるに因する」かのどちらか。私が抱いた思想も、基本的に「金なきに因する」ものだった。
「苦学生」とは今は死語になっているのだろうか。私はまさしく古典的な苦学生だった。高校卒業後はいっさいの仕送りなしの生活。奨学金とアルバイトだけでの自活だった。
今はなき東大駒場寮に居住していた当時、寮生の自治運営だった寮食堂は格安だったが、その安い食費の捻出ができない寮生も多かった。そのような寮生に、「残食」という制度があった。夜8時頃だったろうか。ダンピングの「残食」にありつこうという寮生が列をなすのだ。経済的下層の学生が、「残食」グループを形成する。ところが、下には下がある。私ほか数名は、その列を尻目に、自由に掬える汁類をごっそりと漁るのだ。こちらは一汁だけだがタダの夕食。これを咎められた覚えがない。誰もが暖かく見守ってくれていたはずはないが、大目には見てくれていた。
そんな学生だった私には、自分が企業への就職活動をするなどとイメージできなかった。公務員になることも考えられなかった。「資本の走狗にも、権力の尖兵にもならない」などと言えば格好は良いのだが、務まりそうはないというのがホンネのところ。芸術や文筆の才能あれば、その道で生きていきたいところだが、所詮は夢のまた夢。アルバイトで明け暮れた大学生活4年間が過ぎるころに、弁護士になろうと腹を決めた。
志望の動機の最大のものは消去法である。他人に使われての勤めは自分には無理だ、と思い込んでいた。その自分にも、弁護士という自由業なら務まるのではないか。憧れたのは、飽くまで自由な生き方。誰にも束縛されず、他人におもねることなく生きる自由である。
1969年3月に6年間在学した大学を中退し、4月に最高裁管轄下の司法研修所に入所して司法修習生、つまりは法曹の卵になった。当時の司法研修所は牧歌的で、少なからず学生生活の延長の雰囲気があった。私は、正規のカリキュラムよりは、課外の自主活動で有益な研修をした。その過程で、世の中の紛争はさまざまであり、弁護士も誰の利益を代弁するか、実にさまざまであることを知った。
こうして、いくつかの「別の道」の選択もあったのだが、結局「金なきに因するわが抱く思想」に忠実であろうと心に決めて弁護士実務に就くことになった。権力の側、資本の側には就かない。強い側、多数派には与しない。こう心に決めての職業人生の出発だったが、しばらくして気が付いた。権力も資本も、私に事件の依頼などして来ない。だから、格別改めての決意など不要で初心を忘れずにいられる。こうして45年が過ぎ、いつの間にか、過去を語る齢になった。
これまで私が携わってきた分野は比較的広い。それだけ、専門性は低いとも言える。労働・労災職業病・消費者・医療過誤・薬害・差別・政教分離・選挙運動の自由・教育・平和訴訟・「日の丸君が代」強制反対等々。なんとなく、「思想・良心の自由」のフィールドがライフワークとなっている感がある。その中から、今後いくつかの事件を拾って報告の連載をしてみたい。第一回は、私の故郷岩手で、始まったばかりの「浜の一揆」訴訟である。
(2016年1月31日)