桐野夏生が描く「表現の不自由」のデストピア『日没』
(2021年2月20日)
話題の桐野夏生「日没」を先ほど読み終えた。読後感を求められれば、「この本を手にするんじゃなかった」というのが正直なところ。まだお読みでない人に、親切心から警告しておきたい。これは、読み始めたら途中で止められない。普通の神経の持ち主には耐え難いほどの精神的苦痛をもたらす。希望も救いもない。「日没」に、明日の夜明けの気配はまったくないのだ。それでも、恐い物見たさの誘惑に克てない人には、「自己責任でお読みなさい」と言うしかない。
小説の冒頭、主人公の作家が正体不明の施設に収容されるまでの展開は不自然で、出来のよくない平凡な小説風。時代や社会という背景がまったく描かれていないから、ここまではリアリティに欠けるのだ。ところが、このデストピア施設での生活が始まると巻を置けなくなる。読み進むのが苦痛なのだがやめられない。結局、最後まで引っ張られることになる。
「私」が収容されるのは、千葉と茨城の県境近くにある「療養所」。実は、国家が運営する反体制・反道徳の作家を「更生」させる施設。被収容者は、読者からの「告発」によって選定される。被収容者は徹底して他人と切り離され、孤立した状態で、圧倒的な力を持つ弾圧者と対峙する。弾圧者は、「私」について、私も知らない隠された事実をいくつも知っている。監視社会・管理社会・密告社会の極限状態が、この小説の舞台設定となっている。
章立ては以下のとおり、みごとなタイトル付けである。
第一章 召喚
第二章 生活
第三章 混乱
第四章 転向
己の無力を自覚せざるをえない状況で、プライドを堅持して抵抗するか、あるいは屈するか。「私」は、その両者の間で、揺れ動くことになる。「面従腹背」や「転向のフリ」が、奏功するような状況ではない。初め、反抗すれば「減点」が加算され、減点1ごとに、収容期間が1週間延長されることを宣告される。それでも、「私」は抵抗を試みもするが、また空腹から従順になったりもする。
やがて、この施設から「娑婆」へ戻ることは不可能なことがほのめかされ、多数の自殺者があることも分かってくる。権力側は収容者の自殺をむしろ歓迎しているしいう。「私」は、渾身の抵抗を試みるが、成功はしない。そして…。
小説の巧拙に関わりなく、この小説にリアリティを与える状況のあることが恐怖の源泉なのだろう。体制を礼賛し、反中・嫌韓の表現には寛容でありながら、反体制・反日・反道徳というレッテルを貼られた作家や作品にについての「表現の不自由」という現実をこの社会は現出している。学術会議の任命拒否問題しかり、である。
作中の設定では、「ヘイトスピーチ法」の成立とともに、「有害図書」の作家の更生の必要を定める法律が制定されたという。以来、国家が有害作家の更生に乗り出し、何人もの作家が消されていくことになる。これは絵空事ではない。権力をもつ者には、羨望の事態だろう。
恐怖に震えた「私」が、この施設の精神科医に「先生、転向しますから、許してください」と懇請する場面がある。これに対して、精神科医が笑って言う。「転向って小林多喜二の時代じゃないんだから、人聞きが悪い」。この小説は、多喜二の時代の再来が、夢物語ではないことを語っている。
この「落日」が描いているのは、作家に対する弾圧である。しかし、文学や芸術が権力から攻撃される以前に、政治活動や社会的活動、あるいは労働運動、ジャーナリズムや学術・教育に対する弾圧が先行しているに違いない。「日没」の描く風景が恐ろしいだけに、あらためて自由を擁護しなければならないと思う。