軍隊とは、本質的に民主主義の敵対物である。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。