宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその30
本日は、「活憲左派」の集会で10分間だけ「立候補をおやめなさい」の理由を語った。ブログ以外で語る唯一の例外の機会。私に続いて吉田万三さんが、やはり10分間の宇都宮陣営からする「反論権」行使のスピーチをした。
下記が、私のスピーチの原稿。主張の全体象のまとめとなっている。
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※私は「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を毎日執筆している。いま、そのブログに「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズを連載中。
12月21日に「宣戦布告」して書き始め、今日が30回。まだまだ続く。
宇都宮君と選対のダメで汚い実態と、公選法違反疑惑を指摘している。
私の表現手段はブログだけ。唯一の例外が、今日のこの10分間の発言。
口を揃えての安倍批判は楽だ。宇都宮批判は、相当の覚悟の上でのこと。
今、私は覚悟して宇都宮批判に踏み切った意味があったと考えている。
反響は大きい。共感・共鳴の声が寄せられている。
私自身が、民主主義を自分の問題として深く考えるきっかけとなった。
民主運動や組織の、非民主的な体質を見直す問題提起となっている。
※ほかならぬ私が宇都宮君を批判していることの重みを知っていただきたい。
私は、彼とは同期の弁護士で、修習生以来40年余の付き合い。
前回選挙では誰よりも熱心に彼を支持した。「素晴らしい候補者」と歯の浮くような、無責任な推薦をしてまわった。家族総出で選挙運動もした。
しかも、今なお、私の都政改革に対する願望は誰よりも強い。
その私が、自分の「人を見る目のなさ」に臍を噛んでいる。ダメでダーティな候補者を推薦したことお詫びし、「宇都宮君、立候補はおやめなさい」と言い続けている。
私の内部批判は約1年間。彼は聞く耳持たず、無反省のママ再出馬しようとしている。
※私が宇都宮君を批判する具体的理由は次のとおり。
(1) 候補者として不適格。都知事候補としての資質・能力に著しく欠ける。
有権者を惹きつける魅力がない。「惨敗」実績の候補。勝負にならない。
論争・対話・交渉・調整の政治手腕に無能。これでは知事は務まらない。
(2) 「勝てなくても推すべき候補」ではない。
人権侵害に対する感度の鈍さ。弱者へ共感し寄り添う姿勢を持たない。
負けを覚悟で次のために橋頭堡をつくる選挙の候補者としても不適格。
(3) 批判を封殺する反民主主義的体質。「だまし討ち」手口の汚さ。
前言を翻して恥じない無責任な品性は、革新共闘候補者に不適切。
(4) 法律家にあるまじきコンプライアンス意識の欠如。法への無理解。
その結果、4点の公選法違反疑惑のリスクを抱えている。
*上原公子選対本部長他の「労務者」報酬名義での運動員買収疑惑。
*宇都宮君自身による法律事務所職員への運動員買収疑惑。
*岩波書店の熊谷選対事務局長(岩波勤務)への運動員買収疑惑。
*選挙運動員慰労会での供応(飲ませ喰わせ)疑惑。
そのリスクは、候補者だけではなく、推薦した政党や団体・個人にも及ぶ。
公選法には言論活動に対する「弾圧法規」部分と、経済力で選挙や選挙運動を歪めてはならないとする「民主的」側面とがある。両者を混同してはならない。
革新陣営は、公選法の「民主的」側面を活用して、保守の金権・企業ぐるみ選挙を批判してきた。批判する革新の側には、徹底したクリーンな選挙が要求される。
私が指摘する4点の疑惑は、弾圧とは無縁。徳洲会と同質なもの。
※私が宇都宮君を批判する本質的理由
(1) 人として譲ることの出来ないものは、「一寸の虫にも五分の魂」の矜持。
この「人間の尊厳」が、憲法上の人権(13条)として究極的な価値なのだ。
人権侵害の主体が、国家権力であろうと、企業・暴力団・市民運動組織、また「宇都宮ブラック選対」であろうとも、断固として闘わねばならない。
宇都宮君と選対は、私と私の息子の、人間としての尊厳を傷つけた。
だから私は徹底して闘う。妥協の余地はない。人権侵害を受けた者は、声を上げなければならない。これを私憤と切り捨ててはならない。
(2) いかなる組織にも幹部批判の自由は絶対に必要。批判のないところに組織の発展はない。民主主義を標榜する組織において批判の言論封殺はもってのほか。
宇都宮選対と宇都宮君は、汚い手口でそれをやった。私は徹底して闘う。
※私が闘う手段は言論のみ。不当な仕打を社会に知ってもらうことが対抗手段。
どのような理由であろうとも、対抗手段としての言論の封殺は許されない。
ブログは、言論の自由が重んじられる社会における素晴らしいツールだ。
相互批判の自由を尊重しなければならない。宇都宮陣営は、3弁護士連名の「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」(1月5日付)を公表している。私の主張と読み較べていただきたい。
http://utsunomiyakenji.com/pdf/201401benngoshi-kennkai.pdf
※私のブログ発言に、裏から聞こえる批判のパターン。
★大所高所に立つべきだ。大局を見誤るな。
⇒被害者は「大所高所」論に怯んではならない。叫ぶべきである。
⇒人権侵害への抗議に耳を傾ける寛容こそ「大所高所」に立つ姿勢。
★利敵行為ではないか。「敵」に塩を送るな。
⇒「敵」とは人権を侵害する加害者である。
人権侵害を放置し、被害者の声を封殺する行為が「利敵行為」。
★選挙とは「よりマシな候補」を選ぶもの。宇都宮は「よりマシ」だ。
⇒被害者にとって、人権侵害者が「よりマシ」ではあり得ない。
⇒「よりマシ」論は、「脱原発候補一本化」につながる。
★批判は結構だが、今はまずい。選挙が終わってからやるべきだ。
⇒無力の被害者が声を上げるのだ。最も効果的な時期を選んで当然。
⇒私は前回選挙後問題提起を1年続けて無視され、だまし討たれた。
☆どれもこれも、権利侵害された弱者の側に「泣き寝入りせよ」との立論。
批判・異論を許さぬ「小さな権力と、それに迎合するミニ翼賛体制」という、
運動の体質が問われている。批判の自由のない組織・集団は衰退する。
☆さらに、一人一人の個としての自立の姿勢が問われている。
小さな権力を支えるミニ翼賛体制に与するのか、拒絶するのか。
※私は、意義のある問題提起をしえたと考えている。
詳しくは、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」(https://article9.jp/wordpress/)を参照ください。
(2014年1月19日)