澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。

私は、当ブログで、「宇都宮健児君」「宇都宮選対」「人にやさしい東京をつくる会」に「宣戦布告」をします。今日はその第1弾。

念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。

昨夜、私は「数の暴力」というべき「強行採決」によって、「人にやさしい東京をつくる会」の運営委員から解任されました。「追い出された」というのが正確なところです。さすがに、「お・も・て・な・し」を期待はしていませんでしたが、まさか「だ・ま・し・う・ち」に遭うとは思ってもいませんでした。もちろん、ここまでにはいろんな経過があります。当然、宇都宮君側にも、それなりの言い分はあろうというもの。詳細は、おいおい当ブログでご説明します。

外野からは、誰にも、つまらぬ「内ゲバ」と見えることでしょう。「相互に相手の弱点を暴露し合って双方とも得るものはない」「それこそ利敵行為ではないか」などというご批判は当然に予想されるところです。私も、そのように思って1年の我慢の期間を、自浄作用が働くことを期待して忍耐強く待ちました。その結果が「だまし討ち解任」です。よほどうるさいと疎まれたのでしょう。私は岐路に立ちました。この仕打ちを甘受して物わかりよく何も言わず黙って身を退くべきか、それとも不合理に声を上げ敢然と闘うべきか。迷いがなかったわけではありませんが、熟慮の末に後者を選択しました。

「宣戦布告」の動機の半分は私憤です。一寸の虫にも五分の魂。私の五分の魂が叫ばずはおられません。その五分のうち三分ほどは、これまでの自分の言動との整合性を貫徹したいとの思いです。私は、「少数者の人権」や「個の尊厳」をこの上なく大切なものと思い、これを圧殺する国家や社会、あるいは企業や集団の多数派と闘うべしと言ってきました。その集団が、政党や民主団体あるいは選挙対策本部であっても原則に変わりはありません。誰かの代理人としてのことではなく、いま、私自身が闘わねばならない立ち場にあることを自覚しています。改めて、たった1人で、組織や社会と闘っている人の気持ちを理解できたように思います。私も、公益のためにホイッスルを吹き鳴らす覚悟です。

五分の魂の残りの二分ほどは、私のプライドの叫びです。感情的に屈辱を受け容れがたいとと言ってもよいし、汚いやり方への怒りと言っても良い。これはこれで、きわめて強固な動機になっています。

「宣戦布告」の動機のもう半分は、私憤とは無縁の公憤です。冷静に客観的に見れば、「惨敗」と「泡沫」の烙印を押された魅力のない候補者、そして無為無策の取り巻き連では、選挙に勝てるはずもない。また、勝敗は別としても、せめてリベラル・民主派陣営の団結や力量を高める選挙であって欲しいと思いますが、前回の教訓からはこれも無理。目前に迫っている都知事選を、「急なことで他の適切な候補者の選定が間に合わないから、やむを得ず再度宇都宮候補で」として、前車の轍を踏み、あの屈辱的な惨敗の愚を繰り返すことのないように願っています。

私を解任した宇都宮君とその取り巻きは、問答無用の数の力を誇示しています。彼らの論理は、明らかに、「多数決が民主々義で正義だ」というもの。その考えこそ、私が忌避し続けてきた体制側の論理なのです。しかし、数で劣る者、力のない者は実力で対抗すべき術をもちません。できることは、言論で対抗すること。多数派の横暴・不当を、広く社会に訴えるしか方法がありません。

幸い、私にはブログというツールがあります。「貧者のツール」でもあり、「弱者のツール」としても機能します。また幸い、この社会には、真摯な見解に耳を傾けてくれる人々もいると信じています。そのような思いで、当ブログを手段として、「宇都宮健児君」「宇都宮選対」「人にやさしい東京をつくる会」の非を明らかにして、皆様の公正な判断を仰ぎたいと思います。

私の目的は、宇都宮君は2014年都知事戦候補者としてふさわしくないことを明確にして、立候補を断念してもらうこと。少なくとも、社会に十分な警告を発して、彼を支援するには、それなりのリスクを引き受ける覚悟が必要であることを心得ていただくことです。

私は、昨年の選挙では、宇都宮君の同期の友人弁護士として、彼を積極的に支持し、柄にもなく選対委員にもなって、同君を素晴らしい候補者だと率先して説いてまわったのですから、今回は豹変したことになります。昨年、私の話しに耳を傾けていただいた多くの皆様には、たいへん申し訳ないと謝るしかありません。自分の不明を恥じいるばかりです。それだからこそ、今は、宇都宮君の候補者不適格を敢えて発言しなければならない責任を痛感しています。私は、信頼すべきでないものを信頼し、もっと強く発言すべきときに躊躇してきました。自分の迂闊さと、人を見る目のなさ、判断力の欠如と優柔不断に、いまさらながら臍を噛んでいます。

経過は込みいっており、問題の根は深く、考えねばならない問題点は多々あります。私は、宇都宮君が立候補を断念するまで、順次丁寧に一つ一つ問題点を明らかにして行くつもりです。ぜひ、今日からの私のブログに、ご注目ください。そしてぜひとも、ご理解をお願いします。

「宣戦布告」第1弾の今日、お知らせし、お考えもいただきたい最初の問題は、前回宇都宮陣営選対(上原公子選対本部長・熊谷伸一郎事務局長)がした複数の選挙違反容疑の一端についてです。私は、公職選挙法上のつまらぬ手続規定の形式違反や、弾圧立法としての選挙運動の自由制限規定の違反などを言挙げするつもりは毛頭ありません。市民選挙と銘打った宇都宮選挙が、そのような市民主体の選挙にふさわしいものであったかを問題にしたいのです。民主々義の根幹に関わる選挙のあり方についての問題だけを取りあげます。

いうまでもなく、公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としています。選挙の主体は、主権者国民です。一人ひとりの国民が、自分の支持する候補者を当選させるため、あるいは支持しない候補者を当選させないように、有権者に働きかける行為が選挙運動です。その選挙運動は、原理的に金をもらってやることではありません。また、選挙の公正が金の力でゆがめられてはなりません。金がものを言うこの世の中ですが、選挙運動が金で動かされるようなことがあってはなりません。経済的な力の格差を、投票結果に反映させてはならないのです。

市民選挙においてこそ、そのような健全な民主主義的常識が生かされるのだと思います。そのような思いを一つにする多くの人々が、前回宇都宮選挙にボランティアとして参加しました。私も知っている方々が、あの選対事務所に長時間張り付いて、黙々と証紙張りをしたり、ビラ折りをしたり、宛名書きをしたり、選対事務局員の指示に従って労務を提供しました。また、多くの人が、都内各地でポスティングやビラ配りも分担しました。そのようなボランティア参加者は当然のこととして、交通費自弁、手弁当で無償でした。ところが、これに指示をする側の選対事務局員の多くは有償、交通費支弁、弁当支給でした。これは、健全な市民的常識からおかしいことではありませんか。同じ部屋で、同じ仕事を同一時間して、どうして有償と無償の区別が出て来るのでしょうか。これは健全な市民感覚にてらして合理的なことでしょうか。

極めつけは、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者が、報酬を受領していたことです。支出の目的は二人とも「労務者報酬」と明記されています。私は、選挙が終わって約半年後の6月17日付で東京都選管から選挙運動報告書の写しをもらって、初めてこのことを知りました。さすがに、これには驚きました。多くの無償(ただ働き)ボランティアを募集し運動をお願いする立ち場の人が、ちゃっかり自分は報酬をもらっているのです。お手盛りと言われても、返す言葉はないでしょう。

「おまえも選対の一員でありながら、どうしてそんな不正を許したのか」という、お叱りはもっともなことと甘受せざるを得ません。こんなことになっているとは夢にも知りませんでした。おそらくは、このことを知っていたのは、選対本部長と事務局長、出納責任者、その他のごく少数者だけだったと思われます。情報も会計も極めて透明性の低い選対の体質でしたから。

私に印象が深いのは、「日の丸・君が代」強制に服従できないとして訴訟を継続中の退職教員の方が大挙して選対事務所に詰めて、黙々と労務の提供をしていたことです。もちろん、交通費自弁、手弁当、無報酬です。それだけではありません。たとえば、Fさんは、定期収入のない身で10万円の選挙カンパをしています。都政の転換を願ってのことです。同じ事務所で、上原公子選対本部長や服部泉出納責任者が、隣り合わせで働いていました。Fさんのカンパは、一度選挙会計をくぐって、「労務者」として届けられた上原公子選対本部長の懐にそっくり移転したのです。

市民選挙における選挙カンパとは、選対事務局員への報酬のカンパではないはずと思うのです。少なくとも、選挙カーでマイクを握る選対本部長への報酬のカンパであろうはずはありません。そもそも市民選挙の選挙運動は皆無償、皆同じ資格で運動に参加しているはずではありませんか。

どなたでも、東京都選挙管理委員会で選挙運動費用収支報告書が閲覧できます。都庁第第一本庁舎N39階。担当職員は親切で、嫌がる顔などしません。少し時間がかかりますが、コピーもとれます。ついでに、猪瀬や石原宏高(総選挙東京3区)の報告書も入手できます。ぜひ、選対本部長(上原公子)・出納責任者(服部泉)が「労務者」として報酬の支払いを受けていた旨の報告届出と、添付の領収証をご確認ください。

上原公子選対本部長に限ってお話しを進めます。選対本部長がマイクを握って選挙演説をしていたことは誰でも知っていることですし、たくさんの写真も残っています。明らかに選挙運動者にあたります。けっして「労務者」ではありません。この人に金銭が支払われたのですから、選挙運動無償の原則に反し、公職選挙法上の犯罪に当たります。この報酬を支払った者が買収罪、支払いを受けた者が被買収罪にあたります。報酬を支払った者は、選挙運動収支報告書には直接の記載はありません。その実質において、おそらくは選対事務局長ということになるでしょう。報酬を受けとったのは、上原公子選対本部長と明記されています。

公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(者)買収」との2種類があります。「投票買収」は直接に金で票を買うという古典的な形態ですが、いまどきそんな事案はありえません。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」の方です。これは、「人に金を渡して選挙運動をさせる」ということ。あるいは、同じことですが、「選挙運動員に金を渡す」ということです。これを許せば、選挙運動無償の原則は崩れて、金のある者が、金にものを言わせて、経済的な格差を選挙結果に反映することができるようになります。

なによりも、市民がカンパした浄財の一部を、金額の大小にかかわらず選挙対策本部長が報酬として受けとるということは、市民選挙に参集したボランティアや、カンパ提供者の感覚から見て批判さるべきことではないでしょうか。

当不当の議論は別として法律上は、車上運動員(ウグイス嬢)・手話通訳者と、ポスター貼り・封筒の宛名書きなど純粋に単純労務を提供する者には、所定の日当を支払っても良いことになっています。この人たちの氏名と日当額とは事前に選管に届出ることになっています。選対本部長も、出納責任者もこのような名目で「労務者」として届け出て、「労務者報酬」を受領したのです。明白な脱法行為です。もし、「労務者」として届けられた人が、単純労務の範囲を超えて、少しの時間でも人に働きかける実質的な選挙運動に携わっていれば、運動買収(日当買収ともいう)罪が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となります。総括主催者が有罪となれば、場合によっては、連座制の適用もあるのです。

適用条文を引用すれば、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪です。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)だけでなく、3項(加重要件)にも該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たります。多数回の行為があったとされれば、さらに加重されて5年となります(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪です。

以上のとおり、宇都宮選挙を支えた選対には、選対本部長が「労務者」として届出て貴重なカンパから金をもらうという市民感覚に反した不当な金銭の扱いがあっただけでなく、明らかな公職選挙法違反の犯罪もあるのです。宇都宮君も、自分自身の陣営の違法については、政治的道義的な責任を免れません。しかも、弁護士であり、元弁護士会長ではありませんか。みっともなく、「ボクは知らなかった」「選対本部長か事務局長に聞いてくれ」などという、猪瀬のような弁明は通用しません。

だから、宇都宮君に忠告します。再度の立候補はおやめになることが賢明ですよ。
(2013年12月21日)

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