白井剣弁護士による渾身の弁論ー「日の丸・君が代」訴訟の法廷で
今回の準備書面では,国旗国歌に関する一連の最高裁判決について批判的に論じました。代理人の白井から、その要点を口頭で陳述いたします。
最高裁の各判決は「事案の把握」をしています。「原審の適法に確定した事実関係等の概要」に続く部分です。「『日の丸』・『君が代』の果たした役割に関する上告人ら自身の歴史観・世界観を理由に起立斉唱命令を拒否した事案である」そのように最高裁は事案を把握しました。
個人の歴史観等と職務命令とが対置されています。この二つの対置おいて事案を把握しているのです。
このように事案を把握したからでしょう。最高裁判決は,思想良心の自由に対する制約かどうかを判断するにあたっても,個人の歴史観等と職務命令とを対置させて,両者の関係を論じました。そして,起立斉唱命令は個人の歴史観等を直接に制約するものではないとしました。そのうえで、直接の制約ではない、「間接的な制約」という判断枠組を示しました。
しかし,対置されるものが,個人の歴史観等ではなく,ほかの別のものであれば,直接の制約かどうかの判断も変わるものと考えられます。
2007年2月27日の最高裁ピアノ判決に付した反対意見で,藤田宙靖裁判官は,こう述べています。「君が代」を否定的に評価するかどうかにかかわらず,「公的儀式においてその斉唱を強制することについては,そのこと自体に対して強く反対するという考え方も有り得る」と。そして,この考えは,「(多数意見がまとめた)歴史観ないし世界観とは理論的には一応区別された一つの信念・信条であるということができ,このような信念・信条を抱く者に対して公的儀式における斉唱への協力を強制することが,当人の信条・信念そのものに対する直接的抑圧となることは,明白である」と。
職務命令と何を対置させて事案を把握するのかによって,直接的な制約になる場合もありうるはずですし,そうすれば判断枠組も変わるはずなのです。
本件がどのような事案であるのかを考えるうえで,職務命令と個人の歴史観等とを単純に対置させるのは間違いです。それでは,事案を的確に把握したことにはなりません。
2011年3月10日,東京高裁第2民事部の判決は,10・23通達関係の167名全員の懲戒処分を取り消しました。「大橋判決」と呼ばれています。大橋判決は,職務命令と個人の歴史観等とを単純に対置させてはいません。
もちろん,大橋判決も,「日の丸」・「君が代」の果たした役割に関する個人の歴史観等を無視したわけではありません。しかし,それとは区別される別の側面が,教職員の思いの中にあることを指摘しています。同判決は控訴人らの主張をこう整理しました。
「?日本の近代の侵略の歴史において日の丸,君が代が果たした役割等といった歴史認識から,かつての天皇制国家の象徴である日の丸・君が代を日本国の象徴とすることに賛成できない,
?これまでの教育実践の中で,正義を貫くこと,自主的判断の大切さを強調していたのに,これに反する行動はできないなどの思いから,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱できないという信念を有するものである」
そして,?の方を「教職員としての職業経験から生じた信条」と表現しました。
さらに、こう判示しています。
「控訴人らの不起立行為等は,自己の個人的利益や快楽の実現を目的としたものでも,職務怠慢や注意義務違反によるものでもなく,破廉恥行為や犯罪行為でもなく,生徒に対し正しい教育を行いたいなどという前記のとおりの内容の歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり,少なくとも控訴人らにとっては,やむにやまれぬ行動であったということができる」
大橋判決が明らかにしたものは,最高裁による「事案の把握」とは,明らかに異なります。「生徒に対し正しい教育をおこないたい」という側面に光が当てられています。
最高裁が職務命令に対置させたものは,個々人の歴史観・世界観です。大橋判決はそうではありません。教育条理に従って教育をおこない,学校における自らの教師としての言動のひとつひとつを教育条理に従って考えるということです。教職員としての職責意識と呼ぶべきものです。
大橋判決は,教職員らの思いのなかに,「日の丸」「君が代」に関する歴史観等の側面があることは肯定しつつ,それとは異なる,もうひとつの別の側面として,誠実で強烈な職責意識があることを鮮やかに指摘したのです。
最高裁が描いたのは、職務上の義務に対して自己の自由を主張する人たちの事案です。これに対し大橋判決が明らかにしたのは,自身が教職員であることの意味を突き詰めて考え,その職責意識ゆえに上司の命令に従うことのできなかった人たちの事案です。
ひらたく言いなおせば,最高裁が描くのは,「やりたくないことをやらなかった」人たちです。大橋判決が明らかにしたのは,「教員としてやってはならないことをやれと言われて悩み苦み,できなかった」人たちなのです。
この訴訟で原告らが主張するものは,前者ではなく後者です。
本件がどのような事案であるのか。職務命令と何を対置させるべきなのか。裁判所には,ぜひ原告らの主張に充分に耳を傾け,的確に事案を把握していただきたいと思います。そのことをくれぐれもお願いして,本日の代理人弁論といたします。
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「日の丸・君が代」強制の違憲性をどのように把握するか。常識的には、まず強制される個人の基本権の侵害ととらえることになる。憲法19条で保障させる思想良心の自由が、公権力によって侵害されている。この侵害された権利の救済を求めるとするシンプルな構成が、最も分かり易い。
ことは、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制である。国家観・歴史観・世界観に関わる重要なテーマである。むしろ、憲法が最も関心をもつテーマではないか。日本国憲法は、大日本帝国憲法体制への反省から、そのアンチテーゼとして生まれた。「日の丸・君が代」とは、大日本帝国憲法体制のシンボルである。日本国憲法は、国民に「日の丸・君が代」の強制はあってはならないとする自明の前提でできている。憲法19条の「思想良心の自由」とは、当然に「日の丸・君が代を強制されない権利」のことであるはず。
しかし最高裁は、苦労のすえに、「国旗国歌への敬意を表せよという公務員に対する職務命令は、思想良心に抵触することは否定し得ないが、間接制約に過ぎない」との「理論」を編み出し、躊躇しつつも違憲ではないとした。この最高裁の躊躇は、「実害を伴わない戒告は許容されるが、減給以上の処分は裁量権の逸脱濫用として違法」となって生きている。
もちろん、我々はこれで満足できない。なんとかして、違憲の最高裁判決を獲得したい。本日の4次訴訟の法廷は、その試みの一端である。
最高裁は、本件を「公権力」対「私人の精神的自由権」の対峙と把握した。その論理的な帰結が、間接制約論を媒介とした、緩やかな違憲審査基準を適用しての違憲論排斥となった。 ならば、本件の「事案の把握」の観点を変え、別の側面に光を当ててみよう。「公権力」と対峙し、公権力によって侵害されているものは、私人の自由だけではなく、「教員としての職責」「教員としての職業倫理としての良心」ではないのか。主観的な思想良心ではなく、法体系が客観的なものとして教員に課している職責というべきではないか。
白井剣弁護士渾身の弁論は、「東京君が代裁判」弁護団の現時点での到達点の一端である。
(2014年11月21日)