「こんにゃくえんま」境内の「汎太平洋の鐘」と「南洋群島平和慰霊像」。
コロナ風の吹くさなかではあるが、昨日(3月21日)は上野に、本日(22日)は小石川植物園に花を見に出かけた。明日の夕方は六義園の予定。今年は、新宿御苑にだけは、絶対に行かない。
上野は、例年とはうって変わった「宴会禁止」「席取り無用」「アルコール不可」。騒々しさのない、常の花見らしからぬ花見。やたらと多いマスクの人びと。そして、激減したインバウンド客。日本語ばかりが聞こえてくるのが新鮮な印象。好天に恵まれて、青い空に映えた花が実に美しい。「長屋の花見」や「花見の仇討ち」のイメージからはほど遠いが、清潔な花見も悪い趣向ではない。
小石川植物園は、まったく例年と変わらない。もともとが、アルコールとは一切無縁の異界。会社のグループはもともとない。町内会も、長屋連中の花見もない。もっぱら家族連れか老夫婦の穏やかな花見。コロナどこ吹く風のしばしの別世界である。
上野公園は、寛永寺境内の跡地である。戊辰の上野戦争で戦場となって焼失した広大な境内の跡地を、新政府は大病院建設の敷地とする計画だった。これが、オランダ人医師ボードウィンの献言によって、1873年に西洋式公園に指定されたという。「上野恩賜公園」として1876年に完成・開園されたというが、何ゆえ「恩賜」であるかの説明に接したことはない。戦後も、この馬鹿馬鹿しい正式名称は生き残って今日に至っているが、この正式名称は死語になっているといってよい。
小石川植物園の正式名称は、「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」という。もとは、館林藩主だった当時の徳川綱吉の別邸「白山御殿」のあったところ。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は幕府の「小石川御薬園」(薬草園)となった。これが、明治維新後、帝大の植物園となる。こちらには、「帝大」の尊大さの残滓はあっても、「恩賜」の臭みはない。
ところで、植物園から我が家への帰途の途中に、「こんにゃくえんま」で知られた、浄土宗源覚寺がある。さして広くはない敷地に、「汎太平洋の鐘(PAN PACIFIC BELL)」と、「南洋群島平和慰霊像」がある。その由来について、書き留めておきたい。
この釣り鐘は元禄年間に鋳造されたもの。それが、1937(昭和12)年にサイパン島ガランパン市郊外の「南洋寺」に贈られた。海外植民地には神社だけでなく、佛教寺院も建立されたのだ。サイパン守備隊は1944年6月に玉砕する。多くの民間人が犠牲となり、この寺も焼失した。
ところが、戦後20年を経て、この鐘がテキサス州オデッサ市にあることが判明した。「市内の金属商の倉庫にある」とのことだった。当初は、経済的事情から躊躇したものの、新住職が鐘を寺に戻そうと決意を固める。
「戦争の悲哀に泣き、さまよえる鐘、砲弾に傷つける鐘は、我が手許に在れば、『ノー・モア・ウォー』即『平和の偉大なシンボル』となる。これが寺の姿勢でなければならない」と。
多くの人の努力が実を結び、鐘は源覚寺に里帰りすることになり、1974年4月サンフランシスコでの「桜まつり」の期間ここに展示公開され、日米の関係者が集まって、法要が営まれたという。その後、オークランドからの船便で鐘は太平洋を渡り、「汎太平洋の鐘(PAN PACIFIC BELL)」と命名されて源覚寺に復山した。
さらに、同寺の歴史はこう語っている。
「サイパンの鐘、寺に帰る」の事実は、更に原覚寺境内「南洋群島平和慰霊像の開眼」を促すことになった。サイパン島玉砕の悲劇の丘「スーサイド・クリフ(自殺の断崖)」頂上に現存する「十字架を背にしたみろく菩薩青銅立像」は、1972年1月、…「太平洋戦争の際最も激しい戦場となった」地に、「国籍の如何を問わず、亡くなられた方々の霊を慰め、この世に再びおろかで悲惨な戦争が起りませんように、永遠の平和を祈願するため」に建立されたものである。これら善意の人々は、このとき「日本内地にも場所を選んで遥拝所を」と願って、同形一体を更に同時製作してこれを保管して居り、新聞報道を誘因に、原覚寺に代表を差向けて「平和慰霊像」の境内安置を要請したのであった。ときに1974年12月、同じ目的を以て「サイパンの鐘」に執心した寺側に異存のあろうはずはなく、1975年7月「南洋群島平和慰霊像」が源覚寺境内の「サイパンの鐘」の傍らに開眼した。
上野大仏は顔面だけあって胴体がない。戦時中に金属回収の資源として供出したからだという。桜の時期ではあるが、どこを歩いても、まだまだ戦争の爪痕に突き当たることになる。
(2020年3月22日)