「沖縄に民族自決権を」ー 東アジアの平和のために
(2023年1月30日)
旧友小村滋君から、『アジぶら通信?』第10号(2023年1月25日号)が届いた。
彼とは1963年と64年の2年間を、大学の教養課程中国語クラス(Eクラス)の同級生だった仲。学生時代に勇ましいことを言う人ではなかったが、卒業後は朝日に就職し、新宮支局時代に大逆事件の調査と紹介にのめり込んだ。それだけでなく何度も沖縄に足を運び、今やすっかりウチナーンチュの心情である。
友人はありがたい。分けても、昔と変わらぬ姿勢を持ち続けている友は。自分を映す鏡として、これ以上のものはない。
彼は、朝日退職後に、ネット配信の極ミニ紙『アジぶら通信』の発刊を始めた。「編集発信・小村小凡」として、「アジアは広くニホンは深く」という標語を掲げ続けている。飽くまで沖縄を中心とする視点で、アジアを見つめ、日本を見つめ直そうという姿勢が窺える。
『アジぶら通信?』のシリーズとなって、発刊がちょっと途絶えていたが、目出たく復刊したようだ。下記のメッセージが添えられている。
「小村滋です、こんにちは!
BCCでお送りしています。2021年の秋以来ですから、2年ぶりですかね。
2、3か月おきになると思いますが、復活したいと思っています」
その【アジぶら通信? 第10号】は、A4・3頁。記事は一本だけ。大きな見出しで、「東アジアを戦場とする勿れ」「沖縄に自決権を」という長文のもの。あらためて思う。今沖縄は、たいへんな事態なのだ。沖縄を、先島を、「台湾有事」の際の軍事拠点としてはならない。
小村君の問題意識は、次のように語られている。
「『プーチン・ロシアのウクライナ侵攻』の無法で乱暴な戦争の衝撃は大きい。しかし、それに便乗、平和憲法を無視して戦争できる軍事大国になろうという岸田政権は、いつか来た間違った道へ進んでいないか」
そのための方策として何が考えられるだろうか。彼が挙げるのは、「先住民族の権利に関する国連宣言」の活用である。
「国連は日本政府に対して『アイヌと琉球の人々を先住民族として認め、その権利を保障するように』との勧告を5回も出した。日本政府は、08 年アイヌ民族については勧告を受け入れ、同年6月6日、国会でアイヌ民族を先住民族とする決議をした。福田康夫内閣の時だった」
さらに、国連はめげずに、「昨年11月3日、国連の自由権規約委員会(B規約人権委員会)は、『沖縄の人々を先住民族と認めて人権保障を』と日本政府に勧告した」という。
この勧告の実現にどのような意味があるのか。沖縄国際大学講師の渡名喜守太さんの解説が次のように、紹介されている。
「『先住民族の権利に関する国連宣言』30条では、『先住民族の土地で軍事活動の勝手な使用が禁止されている』として『東アジア共同体構想など多国間による地域の安全保障も考慮されるべき』としている」
沖縄が国際人権規約に掲げられている意味での「先住民族」になり、自決権を回復することは、日本全体の平和に関わることなのだ。「先住民族」とは、植民地にされたために自決権を奪われた民族、つまり人権を奪われた人たちであり、ファースト・ピープルとして尊敬されるべき民族だ。
以下は、「アジぶら」の記事の一節。「沖縄は、どのようにして日米の植民地になったか」という部分。今、沖縄は「日米の植民地」としてある、という認識での要領の良い歴史的解説である。
***********************************************************
中山王の世子(世継ぎ)だった尚巴志が1429年、初めて三山を統一して「琉球国王」となった。江戸時代初め 1609 年 3 月、幕府の了解を得た薩摩藩島津氏が兵3千人と軍船 100 隻で琉球王国に侵攻、1 か月余りで降伏させた。尚寧王と重臣約 100人は薩摩に 2 年間抑留された。以降、琉球王国は明・清の中国とヤマトに両属だった。明治になった 1872 年、琉球処分と称して琉球藩を置き、尚泰王を華族として東京に迎えた。こうして沖縄は日本の一県にされた。
日本は太平洋戦争で連合国に敗れ、米国に占領された。沖縄は 1945 年 6月 23 日までに米軍に占領され、米軍の本土への出撃基地となった。52 年 4月 28 日、サンフランシスコ講和条約3条で「南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)と南方諸島(小笠原群島、西之島および火山列島を含む)並びに沖の鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は……以下略」と書かれている。第二次大戦後アジア・アフリカの植民地は次々に独立した。米国は信託統治制度の下におく提案を国連にしなかった。奄美大島と南方諸島は日本に返したが、沖縄本島以南は返さなかった。米軍にとって沖縄はアジア支配の要だった。信託統治領はいづれ独立するから、米軍は放さなかったのだ。だが沖縄の反基地運動に手を焼いた米軍は、日本に返して、安保条約で自由に使うことを選んだ。沖縄は基地のない平和憲法の日本に帰りたかったのに、自己決定権(以下、自決権)がないまま 72 年に本土復帰した。沖縄は、こうして日米の植民地にされた。