神社の社頭掲示に「天壌無窮」の4文字
早朝不忍池の周りを散策。花の季節は去って、遅く開花したダイゴジジュズカケサクラも散りおわった。ハスの浮葉が水面をおおって、既に緑濃い初夏の風景である。インバウンドの人影も少なく、穏やかな連休明け。今月(19年5月)はじめて、五條神社に足を運んだ。
今、境内に見るべき花はない。見たいものは、二つ。その一つは、善男善女が奉納の絵馬。マジックで、健康と病気回復、手術成功などの切実な願文が認めてある。関心は、その年月日の表記。実は、元号が圧倒ということではなく、西暦表記が意外に多いのだ。平成はあったが、令和は目につかなかった。これは面白い。
そしてもう一つ、見たいものは、社頭に月替わりで掲示される「生命の言葉」。実は、東京都神社庁が作成して配布し、傘下の各神社が掲示しているもの。 天皇代替わりの今月はどんな言葉かと、興味津々だった。普通は三十一文字で、代替わりにふさわしいものとして、どの天皇の歌を引いてくるのだろうかと思いきや、歌ではなかった。掲示されていたのは、次の4文字。
天 壌 無 窮
敗戦までは、教育勅語の一節にあったから、全小学生が暗記しなければならなかった言葉。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という一節の中の4文字。
「天壤無窮」は、音で読めば「テンジョウムキュウ」だが、訓で読み下せば「あめつちとともにきわまりなかるべし」と読むのだろう。要するに、天と地とが永遠であるごとく、天皇の治世にも終焉はない、ということ。もう少し付け加えれば、祖先神アマテラスの子孫であり、自らも神であるという神聖天皇の治世の永遠性のことである。
これは、天孫降臨の神話に由来している。天孫とはニニギノミコトのこと。女性神アマテラスの孫である。日本書紀には、アマテラスが、ニニギに語ったという、次の一節がある。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)り無けむ」
分かり易く、意訳すれば、こんなところか。
「ほら、あそこに見える日本という国はね、神様である私の子孫が王となるよう決められたところなの。さあ、私の孫よ。あんたが行って治めるのよ。うまくやってね。私の家系が栄え続けることはね、天地がある限りずっとずっと永遠なの。」
もちろんこれは、たわいもない神話である。どこの世界、どこの民族にも、神を起源とすることで自らを権威付けようと神話を作りあげた一族がいる。他方に、この一族と闘い、あるいは抗って破れた対抗勢力も存在するのだ。
「あの国はお前のものだから、さあ行って切り従えて治めなさい」とは、何とムチャクチャな神さま。天皇一族だけに好都合なこんな荒唐無稽な作り話が史実であるはずもなく、権威や権力の正統性の根拠として語り継がれることは、嗤うべき後進性というほかはない。嗤われているのは、われわれ日本人と知らねばならない。
この天孫降臨の際にアマテラスからニニギに皇位の印として与えられたものが、三種の神器だという。いまだに、剣爾等承継の儀として、神器の承継にこだわる皇室の権威なるものの滑稽さは如何ともしがたい。さらに滑稽なのが、恭しくもったいぶってこれを伝えるマスメディアの醜態。
日本国憲法は、神権天皇制を否定した。天皇は象徴として残したがこれを再び神としてはならないという趣旨で厳格な政教分離の規定を設けた。果たして、宝祚(あまつひつぎ⇒皇位)は、今なお「天壌無窮」なのだろうか。
2019年5月、新天皇即位の月の「命の言葉」は、今なお皇位の承継は「天壌無窮」であるぞ、という宣言なのだろうか。あるいは、憲法や政教分離やらの制約を取り払って、戦前の「天壌無窮」を取り戻したいという願望の表明なのだろうか。
「そんなもの見て、そんなことを考えているのは、あなただけですよ」と、神社のハトが、クククと笑った。そして、こう付け加えた。「実はね、天皇だけでなく、ハトだってカラスだって万世一系で天壌無窮なんですよ」。
(2019年5月9日)