─ 司法の危機の時代から50年─ そして今は。
本日、第50回司法制度研究集会。総合タイトルが、「今、あらめて、司法と裁判官の独立を考える─ 司法の危機の時代から50年─」というもの。よく準備されて充実したシンポジウムであり、盛会でもあった。
もちろん回顧のための集会ではない。あの「司法の危機」あるいは「司法の嵐」と言われた50年前を振り返り、その体験を承継し教訓を確認して司法の今を見つめる。その中から将来を展望しようという企画。
司法の将来に希望や展望を求めての集いなのだが、改めて司法の現状に深刻な危機感を禁じえない。司法の生命は、独立にある。独立の主体は本来個々の裁判官である。司法部が、立法や行政や与党や政治勢力から独立しているだけでは足りない。個々の裁判官が、司法部の司法行政の圧力から独立していなければならないのだ。
その裁判官の独立が危殆に瀕していることを天下にさらけ出したのが、1969年の平賀書簡問題だった。50年前の「司法の危機」の序曲である。
当時、札幌地裁(民事1部)に「長沼ナイキ基地訴訟」が係属していた。ナイキ・ハーキュリー地対空ミサイルを配備するための自衛隊基地建設が目論まれ、その敷地となる馬追山の森林伐採のために、農林大臣による水源涵養保安林指定解除の行政処分がなされた。近隣住民がこれに反対して処分取消の行政訴訟の提起となった。その提訴が同年7月7日のこと。
ことは、自衛隊の存在が憲法9条に照らして合憲かという大問題。この訴訟と、提訴に伴う執行停止申立(民事訴訟の仮処分に相当)事件を担当したのが福島重雄裁判長だった。福島コートは、同年8月22日に執行停止事件についての申立認容決定を出して大きな話題となった。
ところが、後に明らかとなったところでは、地裁所長の平賀健太がこの事件に執拗に干渉し、8月14日にいわゆる「平賀書簡」を福島裁判官の自宅に送っていた。“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモの内容は、訴訟判断の問題点について原告住民側の申立を却下するよう誘導し示唆したもので、明らかな裁判干渉だった。そのため、札幌地裁の裁判官たちは、裁判所法の手続に則った裁判官会議を開いて、平賀所長を厳重注意処分とした。
ところが、この後事態は思わぬ方向に展開する。事件発覚の直後、鹿児島地裁の所長だった飯守重任(田中耕太郎の実弟)が所信を発表して、一石を投じた。何しろ、この人は筋金入りの反共右翼。「青法協は革命団体で、最高裁は青法協会員に対しては昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべきだ」という確信犯。後には、所内の裁判官の思想調査までして地家裁所長職を解職され判事に格下げされ、結局は裁判官を辞めたという人。
この人が、「問題は、平賀にではなく革命団体青法協に所属している福島にこそある」と口火を切った。これ以後、右翼や自民党の青法協攻撃が続くことになる。これに呼応したのが「ミスター最高裁長官」石田和外(在任1969年1月11日?1973年5月19日)だった。裁判官は政治的団体への加入は慎むべきとの立場から、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。
50年前の1969年は、私が司法修習生として研修所に入所した年。その2年後に、同期7人の裁判官採用拒否事件、阪口徳雄君罷免問題などが起き、「司法の嵐」のまっただ中に弁護士として出発することになる。
50年前、「司法の独立を擁護せよ」「裁判官の独立を守れ」という大きな国民運動が巻きおこった。政党としては、社・共だけでなく、当時はまともだった公明党も加わっていた。メディアも連日司法の独立を守れというキャンペーン記事を載せた。多くの市民団体や個人が、司法行政・裁判官人事による裁判内容の後退に関心を寄せた。その運動は、けっして無意味なものではなく、多くの気骨ある法曹を励まし育てたと思う。しかし、半世紀を経た今の裁判所の内部について、元裁判官から報告を受けた内容は、薄ら寒い。
気骨ある裁判官は、徹底して差別され孤立させられて、それに続く者が見えなくなっている。裁判所の中で、司法行政当局に抵抗しうる裁判官集団がなくなり、裁判官が司法行政にものを言わなくなった。先輩裁判官のやり方をそのまま踏襲すべきが当然との空気が支配している。裁判官会議は常置委員会に権限を委譲し、その委員会が所長に権限を委譲し、結局は人事権を握る最高裁事務総局以下の全裁判官を統制する「司法の官僚制」が完成の域に近づいている。
この官僚司法が、予算と最高裁人事を握る政権に従属している。こうして、司法の独立も裁判官の独立も、いまやなきに等しく、それが「劣化した判例」となっている。ことは、結局国民の人権と民主主義の危うきにつながっている。
常々思うのだ。司法の独立とは、幻想にしか過ぎないのではないだろうか。所詮は権力機構の一部として、時の政権に従わざるを得ない運命にあるものではないのか。
韓国の裁判所を見学して最も深く印象を受けたのは、国政の民主化があって初めて、司法の独立や司法の民主化が進んだということである。非民主的な立法府や行衛政府をそのままに、司法部だけが民主化して立法や行政を真に批判する裁判が可能なのだろうか。日本が民主化するまで、司法の民主化も独立も無理なのではないか。
50年前の「司法の危機」とは、実は、何のことはない、それまで比較的まともだった司法が、保守政権による巻き返しによって、立法府や行政府と同じレベルに引き下げられたということなのではなかったか。
メインテーマではなかったが、先進的な台湾、韓国、イタリア、イギリス,ドイツなどの各国の司法独立の現状の報告もあった。日本の司法は、後塵を拝しているというにとどまらず、「ガラパゴス化」しているのだという報告もあった。
立派な日本国憲法にふさわしからぬガラパゴス化した司法。それでも、司法の建前は、立法権・行政権から独立した、憲法の砦であり人権の擁護者である。その建前の部分を守り拡げる努力を重ねるしかない。制度的な提案についても、日々の司法の運営に関しても。
集会の参加者は、あるべき司法の理想と現実との乖離の実態を、多くの国民に訴える努力をする決意をしたはずである。希望はそこから開けてくるだろう。すべてが活字になるわけではないが、集会の模様は、「法と民主主義」12月号に特集される。
(2019年11月23日)