学術会議会員任命拒否 ー スガ政権の『真の意図』と『表向きの理由』と。
(2020年10月7日)
政権は、思うとおりにならない科学者・研究者が目障りでならないのだ。世論を二分する重大な政治問題で、有力な学者たちが、反政府側の世論の先頭に立つ。理性や良識をもつ国民に影響力をもつこの人たちを何とか統制したい。その思惑での、菅政権による学術会議会員候補者の任命拒否である。反政府的言動を理由とする学術会議からの排斥であることが明らかと言ってよい。
真の意図を隠して、この度の6人の任命拒否を正当化する理由は、二つに絞られている。一つは、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》という論法。そしてもう一つは、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》というもの。いずれも、ほとんど説得力をもたない。
権力というものは、なんでも意のままにやりたいという危険な衝動をもっている。この衝動が暴走に至らぬよう幾重もの歯止めの装置が必要なのだ。そもそも法の支配や立憲主義が、そのためのものである。権力の分立による相互の牽制も、人権という法技術も、野党の存在も、教育やメディアに権力の介入を禁じる原則も、権力の暴走への歯止めとなっている。
日本学術会議とは、その政策に学術を活用するために設けられた国家の一機関ではあるが、自ずから「独立性」を第一義とするものである。学術というものが、時の政権の思惑から当然に独立している存在であって、忖度のない立論や提言がなければ、そもそも存在価値はない。また、国家は、学者集団の叡智が発する時の政権への苦言に耳を傾けることによって、暴走の誤りを避けることが可能となる。学術会議とは、宿命的に政権に耳の痛い発言をする組織なのだ。
そのような機関の新会員任命権を内閣総理大臣が実質的に握っているというのは、憲法や日本学術会議法の解釈として明らかに妥当でない。学術会議の推薦のとおりに、内閣総理大臣が形式的な任命手続をすべきと解するのが正しい解釈というべきである。仮に、内閣総理大臣の任命権をまったくの形式とは解せないとしても、学術会議の推薦が常識を逸したものであった場合に限定されざるを得ない。そのような例外的な任命拒否について、総理側に厳格な説明責任が課せられるべきは当然である。
果たして、《学術会議が内閣の所轄とされている以上、内閣総理大臣の任命権がまったくの形式に過ぎないと解することはできない》と言えるだろうか。法は、明らかに、学術会議の独立性を認めて、時の政府におもねることのない活動や提言を期待しているのである。政府に批判の言動あった者を任命拒否するなど、あってはならないのだ。
また、《国家が国費を投じている以上、学術会議の完全な独立はあり得ない》などと言ってよいものだろうか。その性質上、国家は国費を投じても、これに介入すべきではない部門はいくつもある。教育・研究機関はその典型である。この論理を認めると、国費が投じられている国立大学・国立研究機関(独立行政法人も)は、時の政権からの介入を受けない「大学の自治」「学の独立」が根底から崩れてしまう。理は政権側にはない。
10月2日、学術会議は、菅首相に対し、
?任命されない理由を説明していただきたい、
?任命されていない方について速やかに任命していただきたい、
の2点を要望する「要望書」を提出した。
この学術会議の要望を支持する国民の意思を積み重ねていく運動の展開が必要となっている。スガ強権政治を許してはならない。