澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

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Published in 日曜日, 3月 21st, 2021, at 23:27, and filed under 司法制度, 教育, 日の丸君が代.

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