兵営の父から一歳半の私に宛てた一枚のハガキ
(2021年8月16日)
私の父・澤藤盛祐(1914年1月1日生)は2度陸軍に徴兵され、海軍には徴用されている。彼自身が生前に残したメモによるとこんな具合だ。
第1回招集 3年7か月
帰郷 10か月
海軍徴用 9か月
第2回招集 1年3か月
第1回の招集は1939年5月のこと。弘前の聯隊からからソ満国境の愛琿の守備隊に配属されている。除隊になってから長子である私が生まれたが、その直後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用されている。そして、第2回の招集で横須賀から弘前に直行して青森の小さな部落で終戦を迎えたようだ。
父は、兵営から妻(私の母)に頻繁にハガキを出している。達筆でもあり、得意の絵や版画の出来はなかなかのもの。演習の兵隊や現地の風物、動植物を描いている。我が父ながら、実に器用な人なのだ。満州の様子を書いた兵士のハガキは貴重ではないだろうか。ハガキには自分で番号を付けていたようで、№188というものもあるが、残されているものは30枚にみたない。
その中に1枚だけ、「澤藤統一郎殿」という宛名のハガキがある。「昭和20年3月7日」付のもの。差出人は、「青森縣弘前市 東部第五十七部隊本部 澤藤盛祐」となっている。「検閲済」の印があり、文面は次のとおり。
「毎日 お父さんの写眞の前に行って おじぎをしてゐるとは愛い奴ぢゃ 余は満足に思ふぞ」
これに、後年のメモが付されている。
「統一郎はこの頃一歳半。その後赤羽の祖父や光子と毎日のように八幡さんや護国神社にお詣りしたとも聞いた。」
光子は私の母である。旧姓は赤羽。その生家は盛岡の八幡神社や護国神社にほど近い。このあと、盛岡も規模は小さいながらも空襲を受けることになる。2歳に満たない子どもを抱えての銃後。「愛い奴ぢゃ 余は満足に思ふぞ」などと言ってる余裕はなかったろう。「心細かった。必死だった」と、母は繰り返して言っていた。お詣りはその心細さの表れであったろう。
父の残した戦後のメモの中に、こんな一節がある。
「8月15日敗戦
兵器を納め、部隊解散までには少々間があり、村人の作った濁酒を飲み、9月末に貨車に乗って盛岡に帰った。」「軍隊生活とは、私にとってなんであったろうか。
まったく聖戦だと思っていたし、
実弾の下をくぐったこともなく、
白刃をふるったこともなく、
演習につぐ演習。
辛くはあったが、軍隊を地獄と思ったことはない。
身体を鍛えてもらっただけでも、
私は恵まれた星の下において頂けたのだと思う。」
「休憩時の話といえば、召集解除とおいしかった食べもののこと」などいうメモもあるが、父は実戦の惨劇に遭遇することはなく、現地の人々に危害を加えることも加えられることもなく、郷土部隊の中で居心地の悪からぬ軍隊生活を送ったようなのだ。兵から軍曹になり、最後は曹長になった父の軍隊内の地位も影響しているのだろう。
父と母とでは、戦争に対する嫌悪の温度差が大きかった。私も弟たちも、戦争に対する反省の足りない父には大いに不満ではあった。取りわけ加害責任の意識が希薄なことを問題にはした。さりとて、父を責めることはいたしかねた。この微温的な態度が、実は国民的な規模のものであったのかも知れない。今なお、われわれはあの戦争の責任を詰め切れていないのだから。
どの人も、どの家族も、必ずあの戦争の歴史を引きずっている。しかし、その記憶は薄れつつあり、記録は散逸しつつある。今残っているものを意識的に残しておきたい。父の兵営からのハガキなどもそれなりに何らかの形で、保存しておきたいと思う。