早急に改めていただきたい「別荘通いの公用車使用」と「良心的不服従者に対する処分の濫発」
舛添要一東京都知事が袋叩きの状態となっている。海外出張での大名旅行批判に加えて、週末湯河原別荘通いに公用車利用である。しかも、居直り開き直りの弁明が、火に油を注ぐことになった。よってたかってのイジメ参加は私の趣味ではないのだが、東京都や都教委と争う立場にある者として、やはり一言いわざるを得ない。
4月27日発売の週刊文春によれば、知事は情報公開による公用車記録簿で確認された限りで、2015年5月1日から16年4月8日までの間に、神奈川県湯河原町の別荘への往または復での公用車利用を48回している。16年4月22日(金)には、文春記者が、都庁から湯河原までの公用車利用を目撃しているとのことなので、これを含めると年間49回である。
知事は、ほぼ毎週金曜日の午後2時半には公務を切り上げ、公費で温泉付き別荘に向かったことになる。片道100キロで1時間半の行程。普通にハイヤーを使えば往復8万円の距離だという。年間に換算すると400万円ほど。これが、「都庁関係者から匿名を条件とした情報提供」によって「発覚」し、2年を経過した今頃初めて問題になっていることが信じがたい。関係者には広く知られたことであったろうに、また会計監査も経ているはずなのに、どうして今頃、なのであろうか。
私が問題にしたいのは、知事の弁明のうちの、「ルール通りで問題はない」という一言。4月27日の記者会見では、「ルール通りで問題はないから、今後も続ける」との趣旨で居直っている。知事が言うルールとは、「都の規則では、移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」ということ。この「ルールに従っているのだから何の問題もない」「あらためる必要はない」という弁明の意味を考えてみたい。
世論は「ルール通り」という知事の弁明に総批判と言ってよい。「ルールに従った知事」を批判し非難する世論の方が間違っているのだろうか。そんなことはあり得ない。世論の、「そんなルールがあろうとなかろうと、知事の弁明は詭弁に違いない。到底納得できない」という感覚の方が正しいのだ。
知事の言は、「本当にルール通り」なのか。そして、「ルール通り」であれば問題はないのか。そう、問い正さねばならない。
ルールもいろいろある。憲法のような根本ルールもあれば、末節のルールもある。法律や条例のような民意によって作られたルールもあれば、行政限りで作られた内部ルールもある。ルールを厳格に解釈しなければならない局面もあれば、そのことが詭弁となることもある。
知事は、ルールをもち出してはいるものの、そのルールに関する詳細な説明はしていない。できれば、「法に基づくルール」あるいは「議会が作った条例というルール」と言いたいところだが、知事は、そうは言えなかった。この「ルール」は、民意を反映して作られたルールではない。だから、そのルールに従っているとするだけでは説得力に乏しい。
東京都には、「東京都自動車の管理等に関する規則」というものがある。この「規則」とは、地方自治体が制定するものだが、国の法令に違反しない範囲で首長が定める。議会の議決を必要とするものではない。要するに、知事自身が作った内部規定に過ぎない。
その第9条によって、知事は「専用車」を使うことができる。その「専用車の使用について必要な事項は財務局長が別に定める。」となっている。通常の庁用車の使用時間は、「通常の出勤時限から通常の退庁時限までとする」とされている(同規則8条)が、専用車にはその時間の限定はない。ここまでは、ネットで容易に検索できるが、その先の「財務局長が定める知事専用車使用についての規則」は、見つからない。もっとも、苦労して見つける努力をするほどのこともない。
多分その「財務局長規則」の中のどこかに、知事が言う「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」という条項があるということなのだろう。
まず、知事の年間49回に及ぶ週末湯河原通いは「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」というルールに適合しているだろうか。
いかなるルールも文言が抽象的であることを免れず、具体的な事例への適用において宿命的に解釈を必要とする。ルールが許容(あるいは禁止)することが明確な範囲を中核として、その周囲に明確性の濃淡をなす部分があって、ルールで許容(あるいは禁止)された範囲の限界は必ずしも一律に決まるものではない。具体的な事例が、その不明確な限界の内なのか外なのか。その判断が解釈である。
知事が言う「ルール通り」は、知事自身の個人的な解釈によるものに過ぎない。それが、唯一の正しい解釈である保障はない。むしろ、かなり怪しい解釈と指摘せざるを得ない。
ルールの解釈は、何よりもそのルール設定の趣旨・目的を把握するところからスタートしなければならない。また、いかなるルールも、高次のルールによって要件や効果が限定される。知事が公用車を利用する趣旨は、知事としての適正・迅速な公務の遂行に資するため、あるいは効率化のためのものであろう。そのことを離れての公用車利用は合理性を持たない。公務から公務への移動を公用車利用とすることの合理性に疑問の余地はなく、また非公務から非公務への移動の非合理性についても明白である。しかし、公務と非公務とをつなぐ移動については、管理規則の文言如何に関わらず、都有の財産である自動車を、都の公務員である運転者を使用して公用車として利用するに際しては、自ずから限度があるものと考えざるを得ない。
手法は二つある。
まずは、規則が「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」としているのは、公務地と知事自宅の移動を認める趣旨であって、自宅以外の遊興先や別荘地は含まないと解釈することができよう。ましてや、100キロ遠方の別荘地に毎週末の利用などは、到底規則の想定するところではない、と断じる手法である。規則が、行政内部で作成されたもので、民意を反映したものでないことがそのような解釈を支えることになる。都民の良識がこのような知事の公私混同の外形を有する公用車利用を許さない、としてよいのだ。
もう一つの手法は、権利の濫用ないしは逸脱とすることだ。規則の文言から言えば、確かに都庁と湯河原の別荘との移動に公用車を利用できることになってはいる。しかし、いくら何でも、知事にそのような形式的な解釈をさせて権利を認めるのは、実質的に法の正義に反する。知事の公用車利用は、権利の濫用ないしは逸脱と解釈するのだ。諸般の事情を考慮した結果とすればよい。諸般の事情の中には、この間に表明された都民の意思も重要なファクターとなる。
さらに、問題は知事の公用車利用が規則の解釈上可能か否かにあるのではない。知事に求められているのは、「自動車の管理規則」という些末なルールに従うことではなく、もっと高次の、「都民の信託に応える行政をなすべきとするルール」ではないのか、と批判することができる。都民から預託された税金の使い方には率先して節約の模範を示し、都民の声には誠実に敏感に対応して都庁10万の職員の範たるべきではないのか。それを、都民のほとんどが知らない「ルール」をもち出して、「ルール通りで問題はない」というのは、高次のルール無視という点で「問題大いにあり」と言わねばならない。高次のルールに違反するとは、法の正義に反すること、形式的には違法ではなくとも不当な行為として、反省と改善が求められるということでもある。
実は、東京都(教育委員会)の、教員に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発が、この知事の姿勢と同じ構造なのだ。形式的にルールに則っているのだから問題はない、という言い分。だから、まったく同じ批判が当てはまる。
都教委が「日の丸・君が代」を強制する根拠としての「ルール」は、学習指導要領のごく一部分の文言である。学習指導要領とは、憲法の下位にある法律の、その下位にある省令の、そのまた下位にある「文科大臣告示」でしかない。当然に、その解釈には上位のルールの制約を受けることになる。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、思想・良心の自由を保障した憲法が許容するものではないというのが、教員側の立場。懲戒処分された教員の訴えに対して、最高裁は今のところ痛み分けとしている。最も軽い懲戒である「戒告」については懲戒は許されるとしたものの、思想・良心に基づく「やむにやまれずの不服従」と認めて、「減給」以上の処分はすべて懲戒権の逸脱濫用として違法と判断し、処分を取り消している。
それだけではない。最高裁は明らかに都教委に対して、違法とまではいえない戒告処分についても、当不当の問題は残るという姿勢を示している。教育を司る行政部門として、懲戒処分を濫発しての「日の丸・君が代」強制は、戒告処分に限れば違法とは言えないとしているものの、それでも決して褒められた行為ではない、という立場なのだ。
今回の批判にさらされている舛添知事の姿勢は、まずは端的にルール違反というべきものである。仮に、下位ルールには違反していないとしても、高次のルールには違反している。さらに、いかに言い訳しようとも、不当な行為であることは明白である。別荘通いの公用車使用の濫用と、良心的不服従者に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発。両方とも、早急に反省して改めていただきたい。
(2016年4月30日)