「へそまがり宣言」
有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。
日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。
現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。
これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。
多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。
多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。
もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。
へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。
へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。
へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。
へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。
そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)