また出た『忖度』ー「我が意の忖度不十分で不満」というパターン。
昨今おおはやりの「忖度」。またまた出てきた。今度は新バージョンだ。しかも、憲法問題として、事態は重大である。
アベ友学園事件でも、腹心の友学園事件でも、「忖度」されたとする意向の当人は、「忖度あったとの疑惑は迷惑、忖度されるような意向は断じてなかった」という否定の文脈で語っている。ところが今度は、「どうして私の意向を忖度してくれないのか」「もっと忖度あってしかるべきではないか」という文脈の語り口なのだ。これが、「新バージョン」という所以。
本日(5月21日)の毎日新聞トップ記事。「陛下・公務否定に衝撃」という大見出し。サブの見出しを拾ってみると、「有識者会議での『祈るだけでよい』」「『一代限り』に不満」そして、「『象徴』実践と不可分」「陛下の祈り 全身全霊」などというもの。
なお、デジタル版の報道には、「宮内庁幹部『生き方否定』」という見出しもつけられている。
「宮内庁幹部は、有識者会議での保守派メンバーによる『祈るだけでよい』という発言に、天皇は『生き方を否定』されたと衝撃を受けている、と語っている」という文脈。
この記事、記者の署名がはいってはいるが、単なる報道ではない。内容からみて、社説に準ずる新聞社の意見と見てよかろう。その姿勢、看過し得ない。大いに問題ではないか。
記事は、一面と三面にまたがっている。三面の記事は「皇室考」という続き物の第1回という体裁。毎日新聞の、天皇の「ご意向」への忖度であふれた内容。その中に、天皇の「世間は、どうして私の意向を十分に忖度してくれないのか」との嘆きが、ことこまかく書き連ねられ、毎日が賛意を表している。さながら、不遇の天皇を支える「忠臣メディア・毎日新聞」という趣である。
一面・トップの記事を引用しておきたい。
『天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。
陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。
宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。
ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。
陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。(中略)
陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。』
********************************************************
事実関係がこの記事のとおりであるとすれば、問題はすこぶる大きい。天皇は自分の意向が法の整備に反映されて当然と考えているようなのだ。忖度不十分との不満を言える立場と思い込んでいるだけでなく、実際に宮内庁幹部(ないし「関係者」)を通じて内閣に不満を伝えている。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とまで、メディアにリークもしている。これは天皇の越権、というよりは叛乱というべきではないか。
私は、平川祐弘も渡部昇一も、虫酸が走るほどに大嫌いだ。しかし、平川も渡部も主権者たる国民の一人として、天皇制や天皇のあり方についてはどのようにも意見を述べる権利がある。国民の誰もがその意見に賛否を示し批判し反論する自由をもつが、天皇にだけはその自由がない。天皇は、国民の総意に基づいて存在する。天皇のあり方は、天皇制の廃止を含めて、すべて国民の議論にゆだねられていることを自覚しなければならない。天皇の立場で、「不満だ」「失礼だ」と言ってはならない。
もっとも、毎日のスタンスについては、原則論からではない別の角度から忖度することが可能だ。
毎日は、現天皇を護憲リベラル派の一員と見て、改憲右翼勢力の先頭にあるアベ政権と対峙させる図式を描いている。平川や渡部は、アベ政権の手先との位置づけで、その意見が批判されているのだ。
所詮天皇とは、政治の道具。幕末の西南雄藩連合と幕府方との拮抗の中で、「玉」と言われた天皇の取り込み合戦が行われた。たまたまそれに勝って、「玉」を手にした方が、「官軍」となったに過ぎない。そう考えれば、いま、リベラルな天皇という「玉」を最大限活用して、アベ改憲勢力に対峙しようとする合理性は納得できなくもない。
毎日は、この政治的プラグマティズムの視点や実践を意識的に貫いているのかも知れない。しかし、天皇制とは、そもそも民主主義にはなじまない危険物である。取り扱いはすこぶる難しい。取り扱いを誤れば、制御しきれず暴走し暴発しかねない。私は、詭道を衒わず、原則論に徹すべきだと思う。
(2017年5月21日)