「天皇の胸中を重いものとして受けとめるべきだ」とする投書への違和感
千葉県船橋市の男性(72)会社顧問のNさんに申しあげます。
本日(12月7日)の毎日新聞「みんなの広場」欄に、あなたの「専門家の意見に違和感」という投書が掲載されており、興味深く拝読いたしました。
あなたは、天皇退位に関する有識者会議のヒアリングにおける「専門家」のうち生前退位を否定した保守派の意見に対する違和感を述べていらっしゃいます。この「保守派」批判のあなたのご見解は、おそらく現在の日本社会では常識的なものであり、もしかしたら良識派に属するとされるものかも知れません。
しかし、私は、あなたの「保守派に違和感」というその姿勢には同感で敬意を表しますが、その理由として述べておられるところには、どうしても「疑問」と「違和感」を拭えないのです。以下のとおり、あなたの立論に私の意見の対置を試みることで、論点を明確にしてみたいとおもいます。お気を悪くなさらずに、お読みください。
あなたの投書の全文は以下のとおりです。
「専門家の意見に違和感」
天皇陛下の退位についての専門家たちの意見のうち、保守派と言われる方々の意見に違和感を感じている。
象徴としての天皇は、実質的には今の天皇陛下からといえるだろう。その陛下が、自ら象徴天皇はいかにあるべきかを模索しつつ行動し、今日に至っている。その経験をもとに今回のおことばを発しているのだ。ところが、保守派の専門家たちの意見は、そのような事実を全く考慮せず、自分の意見を述べている。天皇陛下は、いてくださるだけでよいとか、宮中で国民のために祈ってくだされば十分だなどとの意見には首をかしげざるをえない。被災地で天皇陛下のお見舞いを直接受けた人たちが語るありがたみや勇気づけられた気持ちは、とても大きなものだと思う。専門家が意見を述べるに当たっては、過去の知識はもちろんのこと、天皇陛下の行動や、これに対する国民の気持ち、あるいは諸外国の王室の状況など、幅広い視野に立ってほしかったと思う。
最初にお断りしておきますが、私は「陛下」という敬称は、意識的に使用しないことにしています。あなたの投書の短い文章の中に「陛下」は6回も繰り返されていますが、すべて不要であるだけでなく、この敬称は用いるべきではないというのが私の立場です。
大日本帝国の時代には、天皇は主権者であり、かつ神聖な存在とされていました。天皇を支配の道具として最有効に活用しようとした当時の政治権力は、国民に天皇への敬意を強制しました。その時代に作られた主権者天皇への敬称である「陛下」は、日常の国語感覚からはあまりにへりくだった言葉として、主権者が使うにはふさわしくない言葉ではないでしょうか。
もし、戦前同様に、天皇に「陛下」を付けなければならないとする社会的な圧力があるとすれば、これに屈したり加担したりすることなく、意識的に「陛下」を死語とすべく努力することが主権者のあるべき姿だと思います。
なお、大日本帝国憲法と同時に制定された旧皇室典範は「第4章 敬称」において、「天皇・太皇太后・皇太后・皇后ノ敬称ハ陛下トス」(17条)、「皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王ノ敬称ハ殿下トス」(18条)と定めました。もっとも、皇室典範自体には敬称使用を強制する文言はなく、不敬罪やら治安維持法が皇室への敬意を強制していました。戦後、その敬称使用強制の法的根拠はすべてなくなりました。不敬罪も治安維持法も、また特高警察や憲兵や思想検事など、不敬の言動を取り締まる法的仕組みもいまや存在しません。もちろん、大切なのは法的な根拠の有無よりも、主権者としての意識の成熟度の問題だと思います。投書にまで「陛下」の濫発は、主権者意識と批判的精神の欠落を表してはいないでしょうか。
あなたの投書におけるご意見の主旨を要約すれば、「保守派専門家意見には、天皇がその経験から発した天皇自身の見解の重みが考慮されていない」「天皇や国民の気持ちを酌んでもらいたかった」となりましょう。「天皇自身の意見は重い。天皇の気持ちを酌むべきだ」という点に、どうしても賛同いたしかねます。
昔から、皇帝や国王、あるいは領主や藩主等々の取り巻き連中は、自分こそ君主の意向を正確に認識しているものと競い合ってきました。忖度合戦にほかなりません。そこに持ち出されるのは、「今の政治がよくないのは君主が悪いのではなく、君側の奸が君主の意向をねじ曲げているのだ」という論法です。何のことはない。自分こそが君主の気持の真の理解者だとして、君主の権威を自分のものにしたいということなのです。
尾崎行雄の桂太郎内閣に対する弾劾演説を思い起こしてください。
「彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。」
玉座も詔勅も、いや天皇の存在自体が政争の具でしかなかったのです。
天皇が主権者であったその時代における政争は、天皇の政治力や権威の争奪戦として行われました。天皇の意向を忖度して、自分こそが天皇を正しく理解しているのだとアピールしたのです。そんなことを、国民主権の今、繰り返してることは情けないことだとはお思いになりませんか。天皇や天皇制のあり方は、主権者である国民が決めることです。天皇の胸中を忖度してそれを実現することではありません。
私は、「保守派専門家」連中を心の底から軽蔑しています。しかし、彼らが天皇の主観に反して天皇制のあり方を論じていることには違和感がありません。「保守派専門家」連中を批判しているあなたの、「天皇の胸中を重いものとして受けとめるべきだ」とするご意見にかえって違和感があるのです。
さらに、私の違和感は、「被災地で天皇陛下のお見舞いを直接受けた人たちが語るありがたみや勇気づけられた気持ちは、とても大きなものだと思う。」の一文にあります。人びとは本当にありがたいと思っているのでしょうか。マスコミはありがたがっている人々の映像だけを放映しているのではないでしょうか。天皇のありがたみの押しつけになってはいないでしょうか。ありがたいと言わざるを得ない圧力はないのでしょうか。また、なぜ、ありがたいと思わされてしまっているのでょうか。無批判に、天皇の見舞いをありがたがってよいのでしょうか。
なお、天皇制を論じるに際しては、「幅広い視野に立ってほしかったと思う。」には、同感です。その際には、フランスやアメリカやロシアや中国や韓国など王政のない国の状況も参考にすべきですし、天皇制廃止論者の意見も、現行憲法下で天皇の公的行為は認めがたいとする憲法学界の有力説も参考にすべきだと思います。
私が申しあげたいのは、国民の主権者としての自覚の大切さです。戦後70年を経てなお、天皇主権の時代を引きずったごとき卑屈な国民意識を残念と思わずにはおられないのです。意のあるところを酌んでいただけたらありがたいと存じます。
(2016年12月7日)