敢えて山本太郎議員に苦言を呈する
山本太郎議員の天皇への書状交付に対するバッシング事件。私のスタンスは、あくまでも天皇の権威を後生大事とする勢力からのバッシングの危険に警鐘を鳴らすもの。自民党の一部に、「世が世であれば不敬罪」という発言があったことが報道されている。これに、世論が靡くようなことあれば背筋が寒くなる。「世は世でない」ことをしっかりと弁えてもらわねばならない。園遊会や、叙勲や、国体や、被災地訪問や‥、天皇の政治利用は山ほどある。これを不問に付したままの山本バッシングは明らかに理不尽といわねばならない。山本議員辞職勧告決議などあってはならない。
だから、昨日のブログでは「敢えて山本太郎議員を擁護する」一文をものした。しかし、同議員の行動を褒めるべきものとは思っていない。本日は敢えて山本太郎議員に苦言を呈したい。
考えなければならないのは、天皇への働きかけのもつ意味についてである。天皇とは、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(憲法4条)存在である。もちろん、選挙権も被選挙権も有しない。政治的な表現の自由すら持たない。したがって、天皇その人に何らかの政治的見解に与してもらうべく働きかけることはまったく無意味である。天皇への働きかけによって、天皇が何らかのメッセージを発することを期待するとしたら、それこそ天皇の政治利用そのものである。つまりは、天皇への働きかけは無意味・無駄であるか、有害であるかのどちらかでしかない。
天皇への働きかけによって天皇の意見に影響を与え、その結果として天皇に何らかの言動を行わせようとすることが典型的な天皇の政治利用であろう。これは、天皇の権威や影響力の利用という点で、本来無力であるべき天皇に政治的な力を確認させる危険な行為である。もちろん、この点は政権を有する勢力に対し、より厳格に回避を求めるべきではあるが、国民すべてに自制が求められる。
そもそも、民主々義とは主権者たる国民間の討議による相互説得の政治過程にほかならない。ここに天皇の権威が介入する余地はない。自らの見解を天皇の賛意によって権威付けようという動機の不純さは徹底して批判されなければならない。天皇への接触によって世間の耳目を集めようとのパフォーマンスも、厳格にこれを排斥しなければならない。そうでなくては政権与党に効果的な天皇の政治利用を許す口実を与えることとなってしまうだろう。
保革を問わず、政治家たるものは民衆に向かってものを言わねばならない。民主々義憲法に夾雑している異物としての天皇に向けての発言は、明らかにそのベクトルを間違えている。
私は、山本議員の反原発の姿勢や情熱を評価するにやぶさかではない。しかし、天皇への語りかけのパフォーマンスは、民衆の立場を標榜する政治家としてなすべきことではなく、天皇の権威の利用はセンスが悪いとしか言いようがない。この点の批判の視点は、今回の同議員の行動が社会人として礼を失するとか、穏当さを欠くからというものではない。あくまでも、民主々義の理解が浅薄で、天皇制批判を軽視する姿勢を問題としているのだ。彼に続いて、愚行を重ねる者が出ることがないよう願っている。
(2013年11月2日)