昨日の当ブログは、教育がビジネスチャンスとされていることを取り上げた。本日は、教育が国民の思想統制手段となる危険について警告を発したい。
文科省は初等中等教育局長名で、各都道府県教育委員会などに宛て3月4日付「学校における補助教材の適切な取扱いについて」と題する通知を出した。同旨通達は1974年9月以来のことという。
この通知を発した動機と趣旨については、こう前置きされている。
「最近一部の学校における適切とは言えない補助教材の使用の事例も指摘されています。このため,その取扱いについての留意事項等を,改めて下記のとおり通知しますので,十分に御了知の上,適切に取り扱われるようお願いします。」「管下の学校に対して,本通知の内容についての周知と必要な指導等について適切にお取り計らいくださいますようお願いします。」
教育は本質的に自由で闊達なものでなくてはならない。専門職としての教師の判断によって、具体的な現場々々に相応しい創意に溢れた手法の採用が尊重されなければならない。かつての天皇制教育は、国定教科書による一方的な知識を詰め込み、思想や価値観までをも画一化しようとした。その反省から、戦後教育改革は国定教科書を排して複数の教科書の採択が可能な体制とし、補助教材の活用も当然のこととした。教育の場に、単一の価値観を押しつけてはならない、ましてや国家によるイデオロギーの注入は許されない。そのような文明世界の常識に従ったのだ。
いま、その原則が揺らいでいる。同通知は補助教材の使用が可能なことは確認している。しかし、決して「検定教科書だけに頼らず社会の多様性を反映した補助教材の積極的活用を」と奨励するものではない。教師による補助教材を活用した授業を牽制し、萎縮させる方向での通知の内容となっている。
たとえば、次のようにである。
「学校における補助教材の使用の検討に当たっては,その内容及び取扱いに関し,特に以下の点に十分留意すること。
・教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従っていること。
・その使用される学年の児童生徒の心身の発達の段階に即していること。
・多様な見方や考え方のできる事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと。」
しかし、これでは何が判断基準なのか不明確極まる。「教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従って」の補助教材使用と言っても、法も学習指導要領の記述も抽象性が高い。もちろん補助教材使用についての具体的な判断基準を意識したものではない。「特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」も同様である。権力が、「特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」と言えば、「時の政権の意見に従え」との意味にほかならないのが常識ではないか。
結局のところ、現場の教師は、上司・校長・教委・文科省、さらには政権の思惑を忖度して補助教材選択の可否を判断することにならざるをえない。萎縮効果は免れず、それこそが文科省の狙いというべきであろう。
さらにこの通知の問題は、次の記述にある。
「教育委員会は,所管の学校における補助教材の使用について,あらかじめ,教育委員会に届け出させ,又は教育委員会の承認を受けさせることとする定を設けるものとされており,この規定を適確に履行するとともに,必要に応じて補助教材の内容を確認するなど,各学校において補助教材が不適切に使用されないよう管理を行うこと。
ただし,上記の地方教育行政の組織及び運営に関する法律第33条第2項の趣旨は,補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく,教育委員会において関与すべきものと判断したものについて,適切な措置をとるべきことを示したものであり,各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること。
なお,教育委員会が届出,承認にかからしめていない補助教材についても,所管の学校において不適切に使用されている事実を確認した場合には,当該教育委員会は適切な措置をとること。」
これは、現場への締め付けであり、恫喝ですらある。
上記記述の第2段落には、確かに「補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく」「各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること」との言い訳は述べられている。しかし、わざわざこの通知が発せられたのはこの部分を強調するためではない。
この通知は、補助教材の使用については、教師は校長に、校長は教委に、事前の伺いを立てるようにせよとの通達として読むこともできる。このようにして、教育現場の管理をさらに徹底しようとする、政権と文科省の意図を読み取らなければならない。
この意図を傍証してくれるのが、本日の産経社説だ。いつものとおりの産経らしく、文科省の意図を忖度して、この通知のホンネを明らかにしてくれている。
タイトルは、「不適切教材 独り善がりの指導やめよ」というもの。その社説の中で、産経が「不適切な教材例」としているのは以下の事例。
「遺体の画像を配慮なく見せるなど教員の良識を疑わせる問題」「公立中学の社会科の授業で教諭が『日本海(東海)』と表記した地図を掲載したプリントを配る例」「高校の定期試験で安倍晋三首相の靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事を問題文に示して、生徒の解答を誘導するような事例」「過激組織「イスラム国」が日本人人質を殺害したとする画像を授業で見せる例」
産経も、「学校教育法で教科書のほかに副読本や教員の自作のプリントなど「有益適切」な補助教材を使うことが認められている」と言い訳めいたことを言っている。しかし同時に、「補助教材の使用にあたり校長の許可を得て教育委員会に届けるルールも守られていなかった」と強調している。
驚いたのは、産経社説の締めくくり。「文科省は通知で適切な教材を有効に活用することも促している。日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材こそ工夫してほしい。独善的な指導は多様な見方や考え方を損なう」というもの。
結局、「靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事」の使用は不可で、「日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材」は可というのだ。前者は独善で不適切、後者は多様な見方や考え方を示すものとして適切。恐るべき産経の独善。おそらくは政権も同意見。
なるほど、ナショナリストには、「日本の豊かな自然、国土や歴史」でなくてはならない。おそらくは、「豊かな」という形容詞は、「自然」だけでなく「国土や歴史」をも修飾するようだ。原発事故で荒れ果てた福島の自然や国土は、教材として取り上げるに不適切ということになろうし、侵略や植民地支配の日本の歴史も「豊か」ならざるものとして「理解を深める」対象から外されることになるのだろう。
教育現場の管理をさらに徹底しようというのがこの通知だが、教育を締めつけて窒息させてはならない。使用教材の適不適の判断には微妙な問題が絡む。最も適切で有効な批判は、現場の教師集団の意見交換の場においておこなわれるべきである。校長や経験豊かな教師、さまざまな信条を持つ教員集団の経験交流や意見交換の充実が何よりの優先課題というべきである。
真に憂うべきは、教育行政が教員の裁量を奪い、教員に対する管理を徹底することによって、教師集団から教育専門職としての力量を奪いつつあることではないか。教育行政は意図的にそのように仕向けているとの憂いを払拭できない。
(2015年3月14日)
昨日(3月12日)は、維新と一体の中原徹大阪府教育長の失態を取り上げた。続いて今日(3月13日)は、安倍政権と一体の下村博文文科相の醜態を取り上げたい。
人格未熟なる者が企業の幹部になったり市長になったりすると、自分がえらくなったと勘違いする。権力行使に伴う快感は麻薬だ。その魔力がパワーハラスメント事件をひき起こす。ナッツ姫によるナッツ・リターン事件に類することは日常的にありふれている。なかなか表面化しないだけ。中原は、なまじ校長や教育長になったのが不幸のもと。大いに傍迷惑ではあるが、こちらは個人的な人格の未熟をさらけ出しただけの事件。
これに較べて文科相の問題は根が深い。構造的な「業界と政界の癒着」「政治とカネ」の問題につながっているからだ。民主党がこの問題をよく追求している。やればできるじゃないか、民主党よガンバレ。
本日配達の赤旗日曜版(3月15日号)トップに、「教育行政利権」「徹底追求」「下村文科相 塾業界と癒着」の大見出し。
「閣僚の「政治とカネ」疑惑が続出する安倍政権。なかでも首相の”盟友”、下村博文文部科学相の疑惑は底無しです。教育行政を動かす力を背景に、塾業界に自分の名前をかぶせた後援組織「博友会」を広げ、票や「会費」などと称する政治資金を集める?。まさに教育分野の”利権あさり”の構図です」とのリード。
法務省や文科省は利権との関わりが小さいような印象だが、どこにだって癒着の対象となる関連業界はある。下村自身が学習塾経営者出身であって、「塾業界」なるものからカネも票ももらっている。世の中、道義を忘れてはならない。とりわけ道徳教育を教科にしようという文科相だ。もらったカネに報いること、「浄財を寄進してくれた篤志の方に真心込めて恩返し」をし、末永く仲良くお付き合いすべきが人としての道、その心得がよく身についているようだ。さすがに立派な教育族。
カネの見返りとしての業界への恩返しの具体的内容が「教育の規制緩和で、ビジネスチャンスを」というもの。カネを媒介にした政治と業界との、持ちつ持たれつのみにくい癒着。折も折、アベノミクスの「第3の矢」である規制緩和策に「学校の公設民営」が盛り込まれている。
指摘されて初めて気が付いた。下村にとっては、また安倍政権にとっても、教育とは何よりもビジネスチャンスなのだ。だから、下村が文科相なのだ。
どの分野でも同じことだが、規制緩和とは業界の要求である。事業者にとってのビジネスチャンス拡大と同義なのだ。だから、下村のような政治家は「教育のビジネスチャンスを」と業者に呼びかけてカネにありつこうとし、また、業者の側は、自分たちに利益をもたらす規制緩和策を実現するために、目星をつけた政治家にカネを提供する。こうして、結局は金ある者のための政治が横行する。
ところで刑法は、第25章を「汚職の罪」とする。その中心に、贈収賄罪が位置している。
「第197条(収賄) 公務員が、その職務に関し、賄賂を収受し、又はその要求若しくは約束をしたときは、5年以下の懲役に処する。
第198条(贈賄) 第197条‥に規定する賄賂を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、3年以下の懲役又は250万円以下の罰金に処する。」
いうまでもなく「公務員」は議員を含む。賄賂とは、金品に限らず「人の欲望を満たす一切」を意味する。そして、贈収賄罪の保護法益は、「公務員の職務の公正とこれに対する社会一般の信頼」とするのが、大審院以来の判例の立場である。
つまりは、職務の公正を守るためだけに贈収賄が犯罪となっているのではない。職務の公正に対する社会の疑惑を払拭して、職務の公正に対する社会の信頼を確保しようというのだ。政治資金規正法も同様の趣旨でできている。
もちろん、犯罪の構成要件は厳格にできているから、職務関連性認定のハードルは高く、政治家が事業者からカネを受けとれば、すべてが贈収賄となるわけではない。しかし、政治や職務の公平性に対する社会の信頼を保護しようとする立法の趣旨には反することにはなる。
赤旗の記事の表現を借りよう。
「もともと、下村氏自身が塾を経営。東京都議を経て国会議員になり、塾業界に『ビジネスチャンス』をもたらす、と叫んできました。『ビジネスチャンス』とは?。公教育のさまざまな規制を緩和して、営利企業である株式会社の学校経営参入を広げ、利益をあげられるような仕組みにすること。下村氏は、今国会で、公立学校の運営を民間にゆだねる『公設民営』の法案提出も目ざしています。その裏で、表とカネが動くのです」
資本主義経済における野放しの企業行動の自由は、社会に害悪をもたらす。その経験から、企業活動には種々の規制が設けられている。教育においても然りである。儲けのためにはこの規制を邪魔とする勢力が規制を緩和しようとする。その手段が、政治家にカネと票とを提供することである。これによって、政治を儲けの手段の方向に誘導しようというのだ。仮に、そのような目的がなくても、あるいはその誘導に成功しなくても、カネで政治が歪められているのではないかという社会の疑惑はいっそう深まることになる。
だから、政治の公正や公務員の職務の公正に対する社会の信頼を擁護するために、上限規制を厳格にした個人献金以外の、企業・団体献金は一切禁止すべきなのだ。
(2015年3月13日)
3・11の昨日は憂鬱な気持の一日だった。その夕刻に、秀逸なブログを開いて少し心が和んだ。紹介しておきたい。
タイトルが、「祝『君が代斉唱口元チェック』の中原徹大阪府教育長(橋下市長のご学友)がパワハラで辞任」ーよりによって口元チェック校長を教育長にしたりするからこうなる。http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake
多くの人の思いを代弁する、胸がすくような筆の冴え。まったくそのとおりと思わずうなずき、思わず笑みがこぼれる。私も、中原徹大阪府教育長辞任には、大いなる祝意を表したい。人権と民主主義とあるべき教育のために乾杯。しかも、この重要なタイミングでの維新の党への政治的打撃は貴重だ。
ブログ筆者の宮武嶺さん(ハンドルネーム)とは旧知の間柄。私の方が年嵩だが、ブロガーとしては彼の方が大先輩。器用に写真やデータをあしらった親しみやすいレイアウトを工夫して多数の読者に愛されているご様子。しばらくブログが途絶えていて心配したが、昨年の暮れに復活し、毎日更新を続けている。恐るべきパワー。
同ブログは、「今回弁護士による第三者委員会が2015年2月20日に公表した報告書で、中原教育長の府教委職員らに対する言動が『パワハラに該当する』と認定されていました」と、経過を丁寧に解説したうえで、こう述べている。
「2月23日から始まった府議会で、公明、自民、民主の野党3会派が、パワハラ問題を相次いで追及し、3月2日に中原氏の辞職勧告決議案を議長に提出。10日には、大阪市と堺市を除く府内41市町村教委が『毅然とした対応』を求める要望書を府教委に提出するなど、中原氏の責任を追及する声が高まり、往生際の悪かった中原氏もとうとう観念したものです。
先ほど行われた辞任会見でも、計5人もの人に対するパワハラで辞任するのに、その方々へ謝罪する前に第三者委員会の報告書にケチをつけるなど、最後まで人格劣等ぶりを見せつけました。
言っていること、やっていることがご学友の橋下市長とそっくりで、笑っちゃいけないけど笑ってしまいます。
辞任会見では「『教育改革が道半ばのまま辞任するのは残念』と言っていたそうなんですが、道半ばで良かったよ、ほんと。」
「この中原氏は橋下市長の大学時代の友人で、橋下氏の府知事時代に公募された府立和泉高校の校長を経て、2013年春に教育長に就任した人です。この人も橋下さんと同じく弁護士です。本当にすみません。
ちなみに、この中原氏は校長時代、2012年3月の卒業式では、大阪府君が代条例で起立斉唱を義務付けられた君が代を教職員が実際に歌っているか、和泉高校の教頭らに教員の口元を監視するよう指示して、まるで北朝鮮のようだと大きな批判を受けました。」
「そもそも、橋下・松井維新の会が君が代条例を作って君が代斉唱を徹底しろと教委や教育現場に言ったのがすべての始まりなのに、いざとなると教委に責任をなすりつける姿勢は、橋下氏に関してはいつもどおりなのですが、中原氏も双子のようで印象的でした。こんな調子の人ですから、中原氏が教育委員会入りして教育長になって、全校長に君が代斉唱口元チェックを指示したら、どんなに殺伐とした全体主義的な入学式・卒業式になるのだろうと暗澹たる気持ちになっていたので、中原教育長辞任万歳です。」
「およそ教育現場や教育行政にこれほど不適切な人格の人物もいないわけで、こういう人を学校長にしたり、ましてや教育長にしてきた橋下・松井両首長の任命責任は重大です。」
以上の宮武ブログの紹介だけでよいようなもの。このあとは私の蛇足。
中原徹教育長辞任を求める署名活動は、東京の教育関係集会でも活発に取り組まれていた。東京の教委がひどいことは既に天下に周知だが、下には下があるもの、と妙に感心した次第。大阪のひどさは、また東京とはひと味違っている。橋下徹を中心にした驕慢なお友だち人事の弊害の露呈ではないか。類は友を呼ぶの例えの通りである。
ところで、教育長という職には、教育委員の一人が任じられる。
教育委員会制度は、戦後教育改革の要の一つだった。戦前の極端な中央集権的教育の反省から、戦後改革は、まず教育と教育行政とを切り離した。更に教育行政の主体を国家ではなく自治体単位の教育とし、更に具体的な行政担当を首長から独立した地方教育委員会とした。しかも、教育委員は公選として出発した。
国家からも自治体の首長からも独立した公選制の教育委員会は、重責を負うことになった。しかし、残念なことに住民の公選による教育委員会制度は1956年に頓挫する。教育委員会法は廃止され、その後身として「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)が制定されて現在に至っている。
現行法の第4条に「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する」と規定されている。
教育委員たる者、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもの」とされているのだ。教育をサポートする任務なのだから、当然といえば当然。人格高潔ならざる中原に務まるはずもない。
地教行法第16条は、「教育委員会に、教育長を置く」とし、「教育長は、当該教育委員会の委員である者のうちから、教育委員会が任命する」とある。その任務は、「教育長は、教育委員会の指揮監督の下に、教育委員会の権限に属するすべての事務をつかさどる」「教育長は、教育委員会のすべての会議に出席し議事について助言する」という強力な権限を与えられている。
維新府政は、よくもまあパワハラ人格を教育長に据えたものだ。責任は重大である。
なお、地教行法はこの4月1日から改正法に移行する。教育行政の責任の明確化という名目で、教育委員長と教育長を一本化した新たな責任者(新教育長)をおいて、教育長の権限は更に強くなる。法改正の失敗が施行前に表れた。
中原は、教育長と教育委員の両方の職を辞任した。これは、維新の党にとって政治的打撃が大きい。しかも、統一地方選挙直前のこの時期、さらには5月に予定されている大阪都構想の住民投票への影響も否定できない。
「中原氏は橋下徹大阪市長の大学時代からの友人で弁護士。橋下氏が知事時代に民間人校長として府立高校に着任し、卒業式での「君が代」斉唱口元チェックで批判を浴びました。2013年4月、松井知事が教育長に任用しました」(赤旗)のだから、通常の任命責任という程度のものではない。言わば、維新ぐるみ共同正犯的な関係にある。中原教育長は、維新教育政策のシンボルであり、このうえないみっともない形でのその破綻が、維新の失政でないはずはない。府政も、市政も、実態はこの程度と誰もが考えざるをえないではないか。だから、橋下も不満たらたらだ。次には自分が同じ目に遭いかねないのだから。
松井知事も府議会の維新も辞職の事態は避けようとずいぶん頑張ったようだ。しかし、報じられているところでは、自・公・民3党の追及は厳しかった。とりわけ、公明が重い処分を求める立場で一貫したことが注目される。公明の維新に対する遠慮の有無は、大阪都構想是非の住民投票に大きく影響するからだ。
朝日に、「パワハラ問題に詳しい脇田滋・龍谷大教授(労働法)」が、第三者委員会の報告を受けた段階でのコメントを寄せている。
「‥パワハラでも相当ひどい部類だろう。『どこのブラック企業か』と感じるような内容だ。反省を深めてほしい。再び起きないよう、教育委員会も組織や意思決定のあり方を見直すべきだ」というもの。松井も維新も、結局はかばいきれなかった。自業自得なのだ。
もう一点指摘しておきたい。この事態は、以下の記事のとおり、内部告発をきっかけに展開したものである。この勇気ある内部告発がなければ、中原教育長は今日も安泰で、4月には「新教育長」となり、もっと大きな権限を持つことになっただろう。中原とともに、維新も安泰であったことになる。
「◆涙の内部告発(朝日)
問題が発覚したのは10月29日。府民に公開される教育委員会議で、立川さおり教育委員(41)が中原氏から同21日に受けたとされる発言内容を公表した。府議会の教育常任委員会の打ち合わせで、府が府議会に提出した幼稚園と保育園の機能を併せ持つ『認定こども園』の定員上限を引き上げる条例改正案をめぐり、立川氏が案の内容に反対する意向を明かしたところ、中原氏が強い口調で次のように叱責したという。
『目立ちたいだけでしょ。単なる自己満足』『誰のおかげで教育委員でいられるのか。ほかでもない知事でしょ。その知事をいきなり刺すんですか』『罷免要求を出しますよ』?。
立川氏は会話内容をメモに書き起こし、出席者に配布して公表。メモを読む声は次第に震え始めて涙声となり、「自由に発言できない状況だった」と訴えた。
立川さんにも五分の魂があった。この魂を傷つけられるとき、人は決意してルビコンを渡る。立川さん、よくやった。
(2015年3月12日)
? 学校教育法施行規則の一部を改正する省令案についての意見
案として示された学校教育法施行規則の一部「改正」と、小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部の各学習指導要領の「改正」に、いずれも全面的に反対し各「改正」案の撤回を求める。
省令の改正案は、「小学校,中学校及び特別支援学校小学部・中学部の教育課程における「道徳」を「特別の教科である道徳」と規定する」ものであるが、公教育において道徳を教科としてはならない。かつては「忠君愛国」「敬神尊皇」「尽忠報国」「滅私奉公」「修身斉家」「長幼の序」「男女の別」「自己犠牲」等々が疑問のない公民の道徳であった。それが崩壊した今、教訓として汲み取るべきは、「普遍的な道徳はあり得ない」ということでなければならない。
とりわけ、国家が子どもに、特定の道徳を刷り込んではならない。徳目の内容如何にかかわらず、国家が子どもに価値観を教科として教え込みこれを評価まですることは、多様な価値観の共存を当然とする憲法原則からは、国家の越権行為と言わざるを得ない。
明日の主権者が身につけるべき最も重要な資質は、批判精神であり抵抗の行動力である。権力を恐れず、富者に阿らず、多数に怯まない精神性である。そして、社会に順応するのではなく、社会を変革しようという姿勢と意欲である。
しかし、このように公教育が教えることはない。教科化された道徳は、時の秩序を維持し、時の政権を擁護し、時の多数に迎合する内容にしかなり得ない。
そのような、体制維持に資する道徳の教科化は、かつての国家主義的な天皇制教育の修身科と同様に、危険で有害なものとして反対せざるを得ない。百歩譲っても、無用、不毛なものとして改正の必要はない。
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?小学校・中学校学習指導要領案【第1章総則】 第1章総則について
「教育課程編成の一般方針」として、学校における道徳教育の「目標」と「留意事項」が掲げられている。
目標は、「人間としての生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」とされている。
これは恐ろしく無内容とか評しようがない。「人間としての生き方」「主体的な判断」「自立した人間」「他者と共によりよく生きる」のそれぞれの具体性こそが問題でなければならないが。これを具体化すれば結局は特定のイデオロギーを注入することにならざるを得ない。ここに、知育とは異なる、徳育の宿命的な矛盾がある。公教育における道徳の教科化や評価がそもそも無理なのだと判断せざるを得ない。
また、道徳教育を進めるに当たっての留意事項に挙げられているキーワードは、「人間尊重の精神」「生命に対する畏敬の念」「豊かな心」「伝統と文化の尊重」「我が国と郷土を愛し」「個性豊かな文化の創造」「平和で民主的な国家及び社会の形成」「公共の精神を尊び」「社会及び国家の発展に努め」「他国を尊重」「国際社会の平和と発展」「環境の保全」「未来を拓く」「主体性のある」であり、これが全て「日本人」に係り、そのような日本人の育成に資することが留意事項とされている。
なにゆえ「日本人」なのか。なにゆえ、人間でも、国際人でも、東洋人でも、都道府県民でも、地域住民でも、家庭人でもない「日本人」なのか。日本で公教育を受ける外国人も多くなっている中で、なにゆえの「日本人」なのか。
なにゆえに「国を愛し」「国家の形成」「国家の発展に努め」なければならないのか。国家とは権力の主体であり、正統な民主主義の伝統からは、信頼ではなく猜疑の対象とすべきものである。
国家にこだわり、「国を愛する」ような道徳の教科化には、恐ろしさを感じる。
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?小学校・中学校学習指導要領案【第3章】 第1「目標」について
ここに掲げられている目標は、「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を広い視野から多面的・多角的に考え,人間としての生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる」という、およそ無内容なものである。
「よりよく生きるための基盤となる道徳性」
「道徳的諸価値についての理解」
「人間としての生き方」
「道徳的な判断力心情,実践意欲と態度」
いずれも漠然として理解しがたい。このような教科には意味がない。評価のしようもない。
「世の中と折れ合ってより巧みに生き抜くための智恵」
「右顧左眄すべしとする処世訓についての理解」
「競争社会を勝ち抜き、企業社会に適合した人間としての生き方」
「多数派と調和する道徳的な判断力、心情と態度」
といえば、わかりよいのではないか。
いずれにせよ、この目標は、けっして何を語るものでもない。
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? A主として自分自身に関することについて
ここに挙げられている徳目は、[自主,自律,自由と責任][節度,節制][向上心,個性の伸長][希望と勇気,克己と強い意志][真理の探究,創造]である。
これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、どのような基準でこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。
また、「自主,自律」は「協調性の欠如」。「自由」は「放縦」。「責任]は「小心」、「節度」は「臆病」、「節制]は「吝嗇」、「向上心」は「足るを知らず」等々、いずれも否定的評価と紙一重である。そもそも、公教育において万人に説くべき徳目などはあり得ない。
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? B 主として人との関わりに関すること
ここに挙げられている徳目は、[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]である。
これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、なにゆえこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。
[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]のいずれも、家庭生活や、地域での交際、仲間との遊び付き合いなどで自然に身につけるべきもので、教師は優れた大人の一人として子どもたちに接することで子どもたちを感化できるだろう。教科で「教える」ことに適しているとは到底考えられない。
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? C 主として集団や社会との関わりに関すること
ここに挙げられている徳目のトップが[遵法精神,公徳心]である。道徳教育教科化のホンネの一つなのであろう。
「法やきまりを進んで守る」「義務を果たして規律ある安定した社会の実現に努める」は、臣民の倫理ではあろうが、民主主義社会の主権者の道徳としては相応しくない。法は自分たちが作るもの、不合理な法は改めるよう努力すべきことに重点が置かれなくてはならない。
ついで、[公正,公平,社会正義]である。「誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること」には、賛意を表したい。とりわけ、家柄や出自による貴賤の差別、人種や民族の別による偏見は、最も唾棄すべきものとして教えるべきである。もっとも、それが道徳の教科においてする必要はない。
[勤労]について、「勤労を通じて社会に貢献すること」は馬鹿げた言い分。どうして勤労の権利(憲法27条)、労働基本権(憲法28条)について語らないのだろうか。どうして、労働組合活動への参加を道徳として教えないのだろうか。
[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努める」ことは、道徳として教科において教え込むべきことではない。
愛国心は、優れて偏頗なイデオロギーである。これを良しとする立場もあり、これを忌むべしとする立場もある。また、衆目の一致するところ、過度な愛国心は危険なナショナリズムとなり、排外主義と結びつく。穏当なバランス感覚からは、今強調すべきは愛国心ではない。むしろ、過度なナショナリズムの抑制であり排外主義への警戒でなくてはならない。
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? D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること
ここに挙げられている徳目は、[生命の尊さ][自然愛護][感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]である。
おそらく、[生命の尊さ][自然愛護]についてだけは、万人に異議がないと思われる。しかし、これを教科化した道徳の時間に教え、評価まですることには違和感を禁じ得ない。
[感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]は、普遍性に欠ける。道徳とも徳目とも言いがたいだけでなく、道徳の名目でここまで人の精神の領域に踏み込んではならない。「人間として生きることの喜び」の具体的内容は千差万別で、それぞれの人に固有の精神生活の在り方に任されるべき問題である。
この無神経には呆れる思いを禁じ得ない
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以上は、私の個人的な意見表明である。形式はまねてもらえば楽だと思う。
ただし、???‥は、跳ねられる。(1)(2)(3)‥に直す必要がある。
締め切りは、3月5日の終了まで。
なお、手続の詳細については、2月26日の憲法日記を。
https://article9.jp/wordpress/?p=4479
(2015年3月3日)
思い切りよく2月のカレンダーを破り捨てて、冷たい雨の日ではあるが今日から3月である。本日は、「3・1ビキニデー」であり、韓国での「三一節」でもある。核廃絶に思いをいたし、我が国の植民地支配の歴史を痛恨の思いで省みるべき日。
私的なことだが、本日は当「憲法日記」700日連続更新という節目の日となった。多少の感慨を禁じ得ない。当「憲法日記」が日民協の軒先間借りから独立して、一人前のブログの体裁となり、新装開店第1号記事を発信したのが2013年4月1日。以来、途切れることなく毎日更新を続けて、本日(2015年3月1日)のブログで700回を重ねた。この期間が、第2次安倍政権暴走の時期とほぼ重なる。安倍内閣の終焉を見ることなく当ブログを擱筆することはできない。連続第700号を通過点として当ブログは今後も続くことになる。
日民協ホームページを間借りしていた当時には植民地支配を受けていた、などとは言わない。しかし、店子という立場は肩身が狭い。遠慮しながら配慮しながらの、当たり障りのないブログではわざわざ時間をかけて書く意味がない。ある人たちにとっては確実に不愉快な内容であっても、敢えて書くことに意味がある。むしろ、物議を醸すようなブログでなければ存在価値はない。「一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ」である。このブログが私の表現の手段であり、私を、憲法(21条)が保障する表現の自由の主体としてくれている。
私のブログが、安倍政権、財界、企業、原発産業、右翼メディア、皇室、靖国、都教委、大阪府市、ネトウヨ…等々の耳に快いはずはない。いや、不愉快でなかろうはずはない。そのような仮借のない批判が必要だ。私は人権・平和・民主主義を大切にする革新の立場に立つ。しかし、同じ違法があった場合に、保守の行為だけを厳しく批判し、革新陣営の違法行為には目をつぶるというダブルスタンダードは取らない。そうでなくては、批判の切れ味を保っておくことができないからだ。
なお、600回のときに、次のように書いた。
「ときに『もの言えばくちびる寒し』と思わぬこともないではない。しかし、常に感じるのは、『もの言わぬは腹ふくるるわざ』の方である」
「当ブログの論評に対する宇都宮陣営(及びその付和雷同者)からの舌足らずな批判や、DHCとこれに類する輩からの過剰な反応も、それなりの彩りである。思いがけなくも、批判よりは、激励や連帯のエールを得ている。ありがたいことだ。そのような反応に接して、いささかの充実感を得ている」
この気持はまったく変わらない。実は「彩り」は、このほかにもいくつかあるが、「彩り」も、にぎわいのうちだ。
さて、700回の積み重ねを省みなければならない。権力や権威を批判する姿勢については変えようもないが、読者への配慮は大いに必要だと思う。以前から言われているとおり、「文章が長過ぎる」「1ブログ1テーマに押さえよ」「冗長で分かりにくい」「写真も絵もなく、親しみにくい」…。これをほんの少しは改めたいと思う。読んでいただだかねば書く意味がない。少しは短めに、もう少しは読みやすく分かり易い、こなれた文章を心掛けよう。あれっ…600回のときも同じことを書いたっけ?
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ところで、本日の「しんぶん赤旗」主張(社説)が、「『君が代』の強制ーいったい誰のための式なのか」を掲載している。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-01/2015030102_01_1.html
3月の初め、卒業式シーズンの幕開けに際しての「主張」掲載。赤旗らしく、品のよい主張となっている。「いったい誰のための卒業式なのか」という切り口も、本質を衝くものとしてなかなかのもの。
政党とは政権を目指すもの。一歩一歩有権者の支持を固めていかねばならない。そのためには選挙に勝たねばならない。有権者の耳にはいることを言わねばならない。有権者の気分を見据えて、反感を持たれるような主張は避けねばならないこともある。民主主義とはそんなリアリスティックな側面をもっている。
だから、共産党の機関誌である赤旗は、天皇制批判や、ナショナリズム、国旗国歌問題への言及に慎重であるように見受けられる。
もちろん、この問題を赤旗の主張が取り上げたのは初めてではない。調べた限りでは以下のとおり春の主張の定番となっていたが、ここ3年は途絶えていた。
2007年3月6日「日の丸・君が代」/強制は教育の営みを台無しに
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-06/2007030602_01_0.html
2008年3月3日「強制おかしい」が国民の合意
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-03/2008030302_01_0.html
2009年3月31日「日の丸・君が代」処分/教育は命令では達成できない
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-03-31/2009033102_01_0.html
2010年3月7日「日の丸・君が代」/鳩山政権は強制方針を見直せ
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-07/2010030702_01_1.html
2011年2月2日「日の丸・君が代」判決/強制を続けていいはずがない
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-02/2011020201_05_1.html
4年ぶりの社説での言及はありがたい。「多様な思想良心の自由」と「教育の自由」を根拠に、「異常な強制」を批判して、「強制はただちにやめるべきです」ときっぱりしている。全文を紹介しておきたい。
「卒業式のシーズンがきました。子どもたちが自らの成長を確かめ合い、新しい旅立ちへと決意を新たにするときです。その門出をみんなで祝う式にしたいものです。
■子どもの思いを台無しに
「日の丸・君が代」への起立・斉唱の異常な強制によって、子どもたちの思いが押しつぶされ、教職員が監視され萎縮するような事態が、各地で起きています。
卒業生と在校生、保護者、教職員が向き合い、壇上には卒業生の作品が飾られる。そんな卒業式が、東京都では教育委員会の2003年の通達で認められなくなりました。壇上には「日の丸」を掲げ、全員がそちらを向かなければならないというのです。
異常な強制は他の地方にも広がりました。大阪府では府教委が13年に、校長らが卒業生をそっちのけにして、教職員が「君が代」を歌っているか口元を確認するよう通知しています。北海道では道教委が、「君が代」を「他の歌と同様」の大声で歌うよう子どもたちに指導しろと校長らに命じています。いったい何のため、誰のための式なのでしょうか。
「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが侵略戦争に突き進んだ日本のシンボルであったことは歴史的事実です。起立したくない、歌いたくないという教職員や子どもは当然います。宗教上の理由で「君が代」は歌えないという人、日本の侵略を受けたアジア諸国出身の人もいます。
政府は1999年の国旗・国歌法制定時に「強制はしない」としていました。「日の丸・君が代」の歴史やそれに対するさまざまな思いを考えると重要なことです。だから03年以前は、式の前に「君が代」斉唱について、「内心の自由がある」ので強制ではないことを子どもや保護者に説明する学校がありました。ところが都教委はこれも禁止してしまいました。
「君が代」斉唱のさいに起立せず処分された東京都の教職員が起こした裁判では、12年1月の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重すぎるとして、取り消す判断が続いています。これらの判決は、強制を「合憲」とし、戒告処分を容認しているという問題はありますが、起立しなかったのはそれぞれの「歴史観・世界観」によるものだということを認め、自らの信念に従って誠実に行動する教職員を重い処分で追い詰めるやり方に、一定の歯止めをかけています。
ところが都教委は、裁判で減給などの処分を取り消された教職員に対して、改めて戒告処分を出して、執拗に強制を続ける姿勢をとり続けています。その執念深さは尋常ではありません。都教委は一連の裁判の結果を真摯に受け止めるべきです。
■教育に自由な雰囲気を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれるべきもので、自由な雰囲気が欠かせません。そのかけがえのない自由を奪うことは許されません。卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの新たな出発にふさわしいものにすることが本来のあり方です。
憲法や子どもの権利条約が保障する思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由を侵し、子どもたちのための式を台無しにする強制は、直ちにやめるべきです。」
なお、2011年2月2日付主張「強制を続けていいはずがない」の中に、「個性豊かな教育のために」と小見出しを付した次の一節がある。
「『日の丸・君が代』の強制は、今では生徒にも及びはじめています。挙手採決さえ禁じられた都立学校の職員会議では自由な雰囲気が影をひそめ、形式主義や事なかれがはびころうとしています。都立校は個性豊かな卒業生を世に送りだしてきました。そのひとりである歌手の忌野清志郎さんは、遅刻の多い自分を困った顔をしながら叱ってくれた先生らしくない恩師を、名曲『ぼくの好きな先生』で歌いました。強制の果てには『ぼくの好きな先生』の居場所がありません。その道を続けていいのか、考える時です」
確かに、『ぼくの好きな先生』の居場所はもうなかろう。なるほど、このような「主張」の書き方であれば、「日の丸・君が代」を語って多くの有権者からの共感と支持とを獲得することができるに違いない。見習いたいと思う。
(2015年3月1日)
道徳の教科化に関するパプコメが募集されている。3月5日(木)の締め切りが間近となった。是非、多くの方に意見を述べていただくよう、呼びかけたい。もちろん、教育本来のあり方を踏まえて、安倍政権や下村博文文科行政に明確なノーを突きつける意見をお願いしたい。
このパブコメは、行政手続法39条にもとづく意見聴取だが、相当に複雑で意見を述べにくいように工夫が凝らされている。そのためやや面倒ではあるが、負けずに意見を述べていただけるよう、以下に手順を説明し、私なりに内容についての意見を述べておきたい。
政府がおこなおうとしていることは、学習指導要領の改正(真の言葉の意味では改悪、以下「改定」という)である。学習指導要領とは、法律(学校教育法)の下位法規である省令(学校教育法施行規則)にもとづく、「文科大臣告示」という法形式。法律事項ではないから、国会の審議を経る必要がない。だから、パブコメが、国会の論戦に代わるものとして重要なのだ。国民の批判がないとして、易々と改正を許してはならない。
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《手続編》
まずは下記URLを開いていただきたい。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000740&Mode=0
「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等に関するパブリックコメント(意見公募手続)の実施について」という、パブコメ募集についての詳細解説ページが出て来る。落ち度なく、パプコメを提出するためには、これを熟読することが必要なのだが、このページの記載だけでは、何に対して、どのようなパブコメが求められているのかわからない。
ご面倒でも、下段の「関連情報」欄の5個のPDFファイルを開いてご覧いただく必要がある。できたら、プリントアウトしてじっくりとお読みするようお薦めする。
まずは、最初のPDFファイルが「意見公募要領」(全2頁)。
その第1頁に、「(改定)案の具体的内容」として、
(1)「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等について(概要)」
(2)「小学校学習指導要領案」
(3)「中学校学習指導要領案」
(4)「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案」を参照とある。
以上の(1)?(4)の資料が、あと4個のPDFファイルの内容となっている。
「意見公募要領」の第2頁に、求める意見の分類項目が???まで、書かれている。パブコメは一括しての意見ではなく、???までのどの分類に属する意見かを特定して提出する必要がある。その面倒さが、コメント提出の意欲を殺ぐものとなっているのだが、めげずにチャレンジしていただきたい。
1通の意見で1分野の意見を提出する。複数の分野についての意見を提出するには、それぞれの分野ごとに各1通の意見提出が必要になる。
???の分類は、「学校教育法施行規則の一部改正案(省令)」と「学習指導要領改定案」についてのもの。細かくは、以下のとおりである。
「第一」学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について
(その改定案の内容は前記「(1)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について」
「第二」小学校・中学校学習指導要領案について
(その改定案の内容は前記「(2)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 第1章「総則」について
意見を求める事項? 第2章「各教科との関連」について
意見を求める事項? 第3章「特別の教科道徳」「第1目標」について
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
A 主として自分自身に関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
B 主として人との関わりに関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
C 主として集団や社会との関わりに関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関することについて
意見を求める事項?
第3章「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」について
意見を求める事項? その他
「第三」特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
(改定案の内容は前記「(4)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
意見を求める事項? 小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部
学習指導要領の特例を定める告示案について
「第四」意見を求める事項? その他
以上の???のどれに意見を述べるかを特定して、意見を書くことになるが、意見は???に集中することになるだろう。とりわけ?が重大ポイントだ。具体的な意見を作成するには、前記「(2)PDFファイル」を開かないと書けない。
もっとも問題となり得る、中学校学習指導要領・第3章「第2 内容」の「C 主として集団や社会との関わりに関することについて」の改定案は以下のとおり。
C 主として集団や社会との関わりに関すること
[遵法精神,公徳心]
法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。
[公正,公平,社会正義]
正義と公正さを重んじ,誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること。
[社会参画,公共の精神]
社会参画の意識と社会連帯の自覚を高め,公共の精神をもってよりよい社会の実現に努めること。
[勤労]
勤労の尊さや意義を理解し,将来の生き方について考えを深め,勤労を通じて社会に貢献すること。
[家族愛,家庭生活の充実]
父母,祖父母を敬愛し,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと。
[よりよい学校生活,集団生活の充実]
教師や学校の人々を敬愛し,学級や学校の一員としての自覚をもち,協力し合ってよりよい校風をつくるとともに,様々な集団の意義や集団の中での自分の役割と責任を自覚して集団生活の充実に努めること。
[郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度]
郷土の伝統と文化を大切にし,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め,地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,進んで郷土の発展に努めること。
[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに,日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努めること。
[国際理解,国際貢献]
世界の中の日本人としての自覚をもち,他国を尊重し,国際的視野に立って,世界の平和と人類の発展に寄与すること。
これに対する意見を、1000字以内で書いて、「意見提出フォーム」を利用して発信する。
意見提出フォームを利用しなくてもよい。
郵送は、〒100?8959 東京都千代田区霞が関3?2?2
文部科学省初等中等教育局教育課程課宛
FAX番号:03?6734?4900
電子メールアドレス:doutoku@mext.go.jp
なお、「判別のため、件名は【省令案等への意見】としてください。また、コンピュータウィルス対策のため、添付ファイルは開くことができません。必ずメール本文に御意見を御記入ください」と注文がなかなか細かい。
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《内容編ーその1》
道徳の教科化については、いろんな問題点が指摘されている。
私も、当ブログにいろいろ書いてきた。この機会に要点を再掲しておきたい。必ずしも、以前書いたとおりではない。
国家よりも社会よりも、「個人の尊厳」こそが根源的な憲法価値です。その尊厳ある個人の主体を形成する過程が教育です。公権力は、教育という個人の人格形成過程に国家公定の価値観をもって介入をしてはならない。これが当然の憲法原則であるはず。国民の価値観は多様でなければなりません。学校の教科として特定の「道徳」を子どもたちに教え込むことが許されるはずはありません。
とりわけ、多様な考え方が保障されなければならない国家・集団と個人との関係について、道徳の名の下に特定の価値観を公権力が子どもたちに刷り込むことには警戒を要します。
国家は、統御しやすい従順な国民の育成を望みます。「国が右といえば右。けっして左とは言わない人格」がお望みなのです。国民を主権者としてみるのではなく、被治者と見て、愛国心や愛郷心、社会の多数派に順応する精神の形成を望んでいるのです。このような、権力に好都合な価値観の注入が道徳教育の名をもって学校で行われることには反対せざるを得ません。
戦後民主主義の中で、道徳教育は、修身や教育勅語の復活に繋がるものとして忌避されてきました。それが、少しずつ、しかし着実に、復活しつつあります。かつて、学習指導要領における国旗国歌条項は、一歩一歩着実に改悪が進み、今や「日の丸・君が代」強制の時代を迎えています。今回の中教審答申も、その恐れが十分。道徳教育の在り方もこのような道を歩ませてはならないと思います。
旭川学テ最高裁大法廷判決は、到底十分な内容とは言えませんが、少なくとも真面目に教育というものに正面から向かい合って考えた内容をもっているとは思います。その判決理由では、教員を、教育専門職であるとともに良質の大人ととらえています。教育とは、そのような教員と子どもとの全人格的な触れあいによって成立する、「内面的な価値形成に関する文化的な営為」とされています。道徳についても、子どもに教科として教え込むのではなく、教師との触れあいのなかから子どもが自ずと学びとるものということでしょう。子どもは、教師からだけではなく、友だちとの触れあいのなかからも市民道徳を学び取っていくものと考えられます。基本的には、これで十分ではないでしょうか。
これを超えて、学校で教科として道徳を教え込むことの是非については、二つの極端な実践例を挙げることができます。そのひとつが戦前の天皇制国家において、臣民としての道徳を刷り込んだ教育勅語と修身による教科教育です。天皇制権力が、自らの望む国民像を精神の内奥にまで踏み込んで型にはめて作り上げようとした恐るべき典型事例と言えましょう。
もう一つが、コンドルセーの名とともに有名な、フランス革命後の共和国憲法下での公教育制度です。ここでは、公教育はエデュケーション(全人格的教育)であってはならないと意識されています。インストラクション(知育)であるべきだと明確化されるのです。インストラクションとは客観的な真理の体系を次世代に継承する営為にほかなりません。真理教育と言い換えることもできると思います。意識的に「徳育」を排除することによって、一切の価値観の注入を公教育の場から追放しようとしたのです。価値観の育成は家庭や教会あるいは私立学校の役割とされました。公教育からの価値観注入排除を徹底することによって、根深く染みついている王室への忠誠心や宗教的権威など、アンシャンレジームを支えた負の国民精神を一掃しようとしたものと考えられます。
おそらく、この天皇制型とコンドルセー型と、その両者を純粋型として現実の教育制度はその中間のどこかに位置づけられるのでしょう。私自身は、後者に強いシンパシーを感じますが、戦後の現実は、一旦天皇制型教育を排斥してコンドルセー型に近かったものが、逆コース以来一貫して、勅語・修身タイプの教育に一歩一歩後戻りしつつあるのではないか。そのような危機感を持たざるを得ません。
とりわけ、第1次安倍内閣の教育基本法改悪、そして今また「戦後レジームからの脱却」の一環としての「教育再生」の動きには、極めて危険なものとして強い警戒感をもたざるを得ません。
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《内容編ーその2》
私は「道徳」という言葉の胡散臭さが嫌いだ。多数派の安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認し内面化するよう「道徳」が求められてきた歴史があるからだ。
強者の支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。
古代日本では、武力と狡猾とをもって割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の正当化神話受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従では足りず、歯の浮くような賛美が要求され、その内面化が道徳とされた。
武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。
明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。その主たる場が義務教育の教室であった。また、軍隊も忠良なる臣民を養成する教育機関としての役割を担った。さらに、権力の片棒を担いだマスメディアもその臣民の道徳涵養の役割を買って出た。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。
恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させた。今なお、精神にその残滓を引きずっている者は恥ずべきであろう。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程である。
戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。
為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。
道徳を説くのであれば、まずは総理大臣にせよ。
「コントロールできています。完全にブロックしています」などと、嘘を言ってはいけない。人の話を聞かずに、「ニッキョーソ!」などと卑劣なヤジを飛ばしてはならない。
次に文科大臣にすべきだろう。政治資金規正法の趣旨を明らかに脱法しておいて、「違反はない」などと開き直ってはならない。この二人を辞めさせることが、子どもたちに、もっとも適切な道徳の教育になることだろう。
(2015年2月26日)
弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、弁護団を代表して冒頭のご挨拶を申しあげます。
石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されたのが2003年。希望の春が憂鬱な春に変わった最初の卒業式が2004年春でした。それから年を重ねて今年は12回目の重苦しい春を迎えることになります。この間、闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。
この間、法廷の闘いでは予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。
法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。
また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。
しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。
法廷で目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審査して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。
また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。
現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言ってもよいのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。
また、違憲とは言わないまでも、大橋判決のように、「真摯な動機からの不起立・不斉唱・不伴奏に対する懲戒処分は、戒告といえども懲戒権の逸脱・濫用に当たり違法」とする手法も考えられます。弁護団は、裁判所に憲法の理念にしたがった判決を出すよう、説得を続けたいと覚悟を決めています。
ところで、この10年余の闘いを続けて思うことは多々あります。最も、印象に強くあることは、闘うことの積極的な意義です。私たちは、先人が作ってくれた近代憲法のシステムの中で権利を享受しているだけではなく、具体的な権利の拡大の運動をしているのです。
歴史的に、思想・良心の自由も、信仰の自由も、表現の自由も、始めからあったわけではありません。文字どおり、血のにじむ闘いがあって、勝ち取られた歴史があるのです。私たちは、今まさしくそのような歴史に参加しているのです。また、憲法に書かれている条文が、現実の社会生活での具体的な権利として生きるためには、それぞれの現場での闘いが必要なのです。
私たちは、国家と対決し、国家に絡め取られることのない思想・良心の自由を勝ち取るべく闘っています。これは国民主権原理を支える重大な闘いだと思います。それだけではなく、次の世代の主権者を育てるに相応しい教育を守り、作り上げる闘いもしているのだと思います。教育を、国家の僕にしてはなりません。国旗と国歌を中心に据えた卒業式とは、生徒一人ひとりではなく国家こそが教育の主人公であることを象徴するものと言わざるを得ません。
闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。
私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2015年2月14日)
私は、「東京君が代訴訟」弁護団の弁護士として、文科省でこの問題を担当しておられる11人の皆様に一言申しあげたい。
先ほどから、国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」という、あなた方の説明の文言をめぐっての応酬が膠着状態に陥っている。教育現場にいる人たちから見れば、「実際のところ内心にまで立ち入って強制しているではないか」「言っていることとやっていることがまったく違う」と言いたいのだ。私もそのとおりだと思う。
これから私が申しあげることは少し違う角度からのものだ。あなた方は、「国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまで教育指導上の課題だ」という。しかし、それはあなた方の独善的な立場においての主観的な言い分に過ぎない。問題は、あなた方がどのような意図や趣旨で指導をおこなっているかではない。国旗や国歌を強制される児童・生徒およびその保護者の側がどのようにとらえるかなのだ。精神的自由にかかわる人権侵害という微妙な問題の有無を考えるにあたって、学校や教委、国は加害者としての当事者だ。生徒が、被害者としてもう一方の当事者となっている。加害者側の意図や趣旨がどうであるかは、実はさしたる問題ではない。あくまで思想・良心・信仰を傷つけられたとする被害者の側に立って問題を考えなければならない。これは、いじめの問題と同じ構造だ。いじめの有無は何よりもまず、いじめられたとする被害者の声に真摯に耳を傾けなければならない。今、あなた方はいじめの加害者側なのだ。自分の意図や趣旨だけを語って済む問題ではない。
よく知られているとおり、神戸高専剣道授業拒否事件においては、最高裁はこのことを明らかにした。確かに、剣道の授業を受けさせようという学校側に、一般論として生徒の思想・良心・信仰を抑圧する意図や趣旨があったとは考えられるところではない。しかし、ある信仰を持つ生徒の側に立てば、問題はまったく違って見える。信仰に反する行為の強制として到底受け入れがたいのだ。学校側の意図や趣旨がどのようなものであろうとも、強制される生徒側の思想・良心・信仰が傷つけられることは珍しくなくあるのだ。
この事件で最高裁は、剣道の授業を強制した学校の行為を、生徒の信仰と相容れない行為を強制したものとして違法だと認めた。「日の丸・君が代」の強制もまったく同じ構造で問題を考えることができる。しかも、最高裁は、「日の丸・君が代」の強制が間接的にもせよ強制される者の思想・良心を侵害するものであることまでは認めたのだ。もっとも、最高裁は司法消極主義の立場から、違憲の判断にまでは踏み込まなかった。懲戒が実害のない戒告を超えて減給以上の現実的な不利益を伴う処分となれば過酷に失するとして違法、取り消すというにとどまっている。これは、ひとえに行政権に対する司法の遠慮でしかない。
文科省が、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」と言っても、児童生徒の側から見れば、内心にまで立ち入っての強制として、思想・良心・信仰を侵害されることは大いにあり得ることなのだ。被害者がいじめを訴え、加害者が「これはいじめではない。愛のムチによる指導だ」と開き直っているのと変りがない。あなた方の説明は、児童・生徒の立場に立ってものを見る姿勢が見られない。おそよ配慮に欠けているとの批判を免れない。
あなた方が、本当に「内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」というのなら、そしてそのことを信用して欲しいというのなら、児童生徒やその保護者に対して、「日の丸・君が代」に対する起立・斉唱はけっして強制ではないことを周知徹底すべきではないか。これが最低限必要な配慮だ。
憲法における至高の価値は、一人ひとりの個人の尊厳なのだということを児童生徒にも保護者にも周知しなければならない。個人が不本意にも国旗国歌への敬意表明を強制される事態があってはならないと国も真剣に考えていることを明らかにしなければならない。個人の尊厳の方が、国旗国歌が象徴する国よりも、あるいは社会よりも大切なのだということを教え、実践しなければならない。私たちの社会は、一人ひとりの思想・良心・信仰の自由を保障している。しかも、国家による強制からの自由を保障しているのだ。だから、けっして国家への忠誠や敬意表明が強制されてはならない。国家を象徴する国旗や国歌への敬意表明が強制されることはあり得ない、と徹底して教えなくてはならない。国旗国歌を儀式に持ち込むとしても、「強制をしようとする趣旨でない」というからには、誤解を招かぬよう、そこまで周知徹底しなければ論理は貫徹しない。
自由主義社会とは、全体主義や国家主義、軍国主義とは違うのだ。戦前の天皇制日本やナチスドイツなどのように、国旗国歌に対する敬礼によって国家への忠誠や団結を誓うような国にしてはならない。
是非とも、個人の尊厳や自由の尊さを教育の根幹に据えていただきたい。そのためにはまず、国旗国歌強制は国の立場ではないことを明確にすることだ。一部の自治体が行っている強制は、本来あってはならない違憲違法なことと明らかにしていただきたい。
本日(1月29日)午後参議院議員会館で行われた、「『日の丸・君が代』強制に反対し、国連勧告実現を求める院内集会」での、文科省の出席者11人に対しての私の発言。もっとも、私の発言予定はなく、とっさのことだったので、こんなに整理された内容ではなかったが、趣旨は変わらない。
(2015年1月29日)
「文京の教育」というミニコミ紙が毎月届く。発行人は元家庭裁判所調査官の浅川道雄さん、発行所は文京教育懇談会となっている。タブロイド版で4頁。いかにも地域に密着した手作り感のある紙面構成。教員中心ではなく地域住民が編集主体。保育・幼稚園から地域の子育て、小中高のあり方まで、テーマは広い。まったく元号を使わないところも私のお気に入りである。
その「文京の教育」の2015年新春号が届いた。なんと、巻を重ねて499号である。次号が500号の記念紙となるという。1970年創刊で、営々と45年間続けて到達することになる500号。この積み重ねはたいしたものだ。
実は、日民協の機関誌「法と民主主義」も今月(15年1月)に495号を発行する。もうすぐ500号なのだ。いま、その記念号のプランを練っているところ。継続が難事であること、それだけに称賛に値するものであることが身に沁みてよくわかる。
発行人の浅川さんが、創刊号の想い出を語っている。1970年暮れに、ガリ版刷り2頁での発行だったという。そのとき以来、題字は東京教育大学教授であった和歌森太郎氏の筆になるものを使っているそうだ。
家永教科書訴訟の一審杉本判決が1970年7月だから、教科書運動の盛り上がりがこのミニコミ誌を産み、以来営々45年も地域の教育運動が受け継がれているのだ。この間、無償の編集や発送の作業担当者が途絶えなかったということだ。たいしたことではないか。
私も執筆を依頼されて何度か寄稿した。自分の寄稿記事を読むと、固くてくどくて七面倒で少しも面白くない。それに較べて、「文京の教育」の他の記事は、軽やかで読みやすい。
なかでも、優れた教育実践の記事が面白い。いま、「元小学校教諭 山崎隆夫」さんが、「心はずむ学びの世界」を連載中、今回が第23回。国語の時間も、理科の時間も、算数の時間も、文字どおり「心はずむ」教師と生徒との交流が描かれている。子どもたちの瞳の輝き、胸の躍りが目に見えるような授業の面白さ。「小学校の先生ってなんて素敵なお仕事だろう」「私もこんな授業を受けてみたかった」と思わせる。
戦争体験記あり、被爆体験記もある。福島の被災地の子どもたちについてのレポートもあり、教育の市場化の問題点や地教行法「改正」問題もある。封切り映画の紹介もなかなかのもの。そして、吉田典裕さん(出版労連教科書対策部長)のような、その世界での著名人の寄稿もある。「今、教科書を考える」シリーズの第7回。今号は「実は大問題の教科書価格」というタイトルの記事。この内容を抜粋してお伝えしたい。
「教科書問題」と聞くと、ほとんどの方は「検定」や「採択」を連想するでしょう。しかし「価格」も「教科書問題」の大きな位置を占めるのです。価格問題はきわめて政治的な性格をもっています。
教科書は民間の発行者がつくり、文部科学省がそれを買い取り、その価格は文部科学省が決めます。文部科学省は、教科書は公共料金的なものなので、できるだけ安い方がよいのだとして、教科書価格を低く抑えてきました。
実は、そのねらいは教科書の種類を減らして国による統制をしやすくすることです。1963年6月衆議院文教委員会で暴露された、「文部省(当時)が自民党文教部会に渡した資料」の内容は、「国定教科書にすると莫大な費用が掛かる、それよりも制度の規制を強化して縛り上げれば、1教科あたり5種程度に絞れるので、安上がりに統制できる」というものでした。
「無償措置法」が導入された1963年以降、教科書の種類は激減してきました。たとえば1965年と2015年用の小学校教科書発行者教(=教科書の種類)を比べると、
国語 8→5
書写 7→6
算数 9→6
社会 6→4
理科 9→6
音楽 8→2
図工 9→2
家庭 8→2
と、軒並み減っています。自民党政府と文部科学省のねらいは、残念ながら実現したといわねばなりません。
私はまったく運営に関係していない。宣伝を頼まれたこともない。が、応援したくなる紙面なのだ。このようなミニコミ紙、このような教育運動が民主々義を支え、未来の希望につながるのではないかと思う。年10回刊の月刊紙、年間購読料は郵送料込みで2500円。「ご連絡は下記へFAXでお願いします」とある。心ある人に、ぜひ、ご購読をお薦めしたい。
03?3690?7440(内田)
(2015年1月23日)
いかなるもの、いかなることについても、好悪や意味づけは人それぞれに自由である。貴重なものとして価値を認めるか否か、神聖なものとして尊ぶか否か、敬意を表すべきものとして畏れいるか否か、その判断や選択は完全に個人の自由の問題であって、これを何人からも強制される筋合いはない。スカル・アンド・クロスボーンズの海賊旗が好きでも嫌いでもよい。ワグナーがお気に入りでもよし、あれだけは勘弁してくれと言ってもよい。まったく同様に、日の丸のデザインも、君が代の歌詞やメロディも、大好きであってもかまわないし、虫酸が走るくらいに大嫌いであってもけっこうなのだ。
ところが、自分の好悪や価値観を他人に押しつけようというお節介な圧力が、やっかいな問題を引き起こす。「日の丸・君が代は、すべての日本国民が敬愛すべきもの」とするお節介族こそが問題の元凶なのだ。
このお節介族は、二種類に分かれる。確信犯派と付和雷同派とである。
この社会において、国家的秩序の構築に利益を見だしている体制派にとっては、「日の丸・君が代」は国民統合の機能をもつ重要なシンボルである。天皇や元号とセットになって、国家や国民の一体感を形成し、アイデンティティー形成のための重要な小道具としての役割が期待されている。その考えからは、すべての国民に「日の丸・君が代」を尊重すべきものと刷り込んでおかなくてはならないことになる。自民党改憲草案などには、その方向が色濃く出ている。
もう一つは、付和雷同派である。この人たちにさしたる「考え」があるわけではない。しかし、「感性」のレベルでのナショナリズムを前提とした国旗国歌への愛着があり、マナーとしての「日の丸・君が代」尊重姿勢をもっている。この人たちには、「良識ある国民は『国旗国歌=日の丸・君が代』に敬意を表すべきだ」という観念が刷り込まれている。これがやっかいなのだ。
確信犯派は一握りに過ぎない。それが、付和雷同派をリードしている。その結果、この世の多数派には、「日の丸・君が代」は日本という国のシンボルとして敬意を表されてしかるべきだ、という抜きがたい先入観念がある。マインドコントロール後遺症である。これが社会的同調圧力を形成している。
この多数派の社会的同調圧力が基礎にあって、これに乗っかるかたちで国旗国歌法というものが成立した。1999年小渕内閣が野中官房長官主導で国旗国歌法案を国会提案したとき、私は共産党が組織を上げて徹底抗戦するかと思ったが、それはなかった。社共が反対し、民主党が完全に半々に割れて半分は反対したが、粛々と審議は進行し法案は成立した。「一般国民に国旗国歌が強制されることはない」と、審議の過程では首相も文相も繰り返したが、教育現場に「日の丸・君が代」が浸透してくるだろうとは誰もが予想し、予想は当たった。
かくして、社会的同調圧力は法律上の根拠を得て、行政通達や職務命令と懲戒処分を通じて教員への権力的強制の手段を獲得した。公教育を通じて、全国民への「日の丸・君が代敬愛刷り込み」の道が拓かれたことになる。国民の自由の幅が切り縮められたのだ。
その先頭に立ったのが、右翼石原慎太郎都政下の東京都教委であった。10・23通達と附属の「卒業式等の実施指針」を出した。これにもとづく起立・斉唱・ピアノ伴奏の職務命令と、その違反を根拠とする懲戒処分の濫発とで、公立校の教員に対する「国旗国歌への敬意表明の強制」が実行されて10年となった。
「日の丸・君が代」への好悪と、「日の丸・君が代」強制の是非に関する見解とは、まったく別の問題である。「日の丸・君が代」好悪の感情分布如何はさしたる大事ではない。教育の場に「日の丸・君が代」の強制は相応しくないという意見が圧倒的多数であったことが重要である。東京の教員の総意が10・23通達には反対だったと言って間違いではない。
当時東京新聞が都民にアンケート調査をしている。学校での「日の丸・君が代」強制には反対という意見は実に都民の7割に近い数字だった。しかし、石原都政とその提灯持ちとなった都教委のメンバーは、異様な情熱を傾けて、「日の丸・君が代」強制を実行し徹底した。
それでも、「自分が自分であるためには、日の丸・君が代の強制にはどうしても服することができない」という人たちがいる。また、「自分が選択した教師という職責を真摯に果たすためには、どうしても日の丸・君が代強制に屈することはできない」とする人々もいる。
不服従を貫いて懲戒処分を受けた教員は、これまで延べ463名に上っている。実は、不服従を貫いた人はこれよりも遙かに多い。また、このような学校の状況に絶望して職を辞した人も少なくない。この人たちは、真面目に思想や良心、あるいは信仰ということを考えた人、教育者としての使命を真摯に考え抜いた人々である。教育委員会だけを見ると日本の教育には絶望せざるを得ない。しかし、処分された教員を見ていると、日本の教育にも希望が見えてくる。
「日の丸・君が代」強制拒否の理由は実に多岐に及ぶ。本来は類型化に馴染まないのであろうが、敢えて典型的なものを挙げれば次のようなものと言えようか。
まずは、日の丸・君が代ではなく、国家のシンボルとしての国旗国歌に着目して、国家シンボルへの敬意の表明の強制があってはならない、との見解は多くの人に見られる。国旗が日の丸ではなく、国歌が君が代でなくなっても、起立も斉唱も強制されてはならないとの考えである。国家が個人を凌駕する地位をもってはならないとする、個人主義思想の表れである。
そして、「日の丸・君が代」の歴史性を問題にする人はもっと多い。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく旧天皇制日本のシンボルとして、旧体制の理念と余りに深く結びついた。天皇主権、国民の軽視、軍国主義、排外主義、侵略主義、非知性、差別と監視の社会、思想弾圧、宗教弾圧。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく「日本国憲法へのアンチテーゼ」と余りに緊密に結びついている。
日本の現代史は、敗戦と日本国憲法の制定によって断絶し、新たな原理の社会が再生したはずなのだ。ところが、この社会は旧悪を引きずっている。天皇制の残滓や元号の使用、そして「日の丸・君が代」である。自民党改憲草案のごとき先祖返りがたくらまれたり、政権にある人物が「戦後レジームを払拭して」「日本を取り戻す」などと叫んでいる現実がある。国も社会も本当には、生まれ変わってはいないのではないか。多くの日本人が自分の意識のなかで旧天皇制社会の名残としての「日の丸・君が代」を払拭し清算し切れていないのだ。主権を天皇から奪い取ったはずの国民が、抵抗感なく「天皇の御代の栄えいつまでも」と口を揃えて唱って怪しまれない、生ぬるい空気に満たされた社会なのだ。
戦前の日本は奇妙な宗教国家であった。明治維新を推進した政治家のプランニングによって、意識的に天皇の宗教的権威が再構成され誇張された。この天皇教は全国津々浦々の小学校を布教所として臣民をマインドコントロールし、恐るべき軍国主義的宗教国家を誕生させた。「日の丸・君が代」は、その宗教国家の生成過程で作られた宗教的シンボルでもある。日の丸とは、天皇の祖先神である日の神・アマテラスの象形、君が代とは、現人神である天皇の御代の永続を寿ぐ頌歌である。信仰を持つ者の視点からは、自らの信仰と相容れない強い宗教的シンボルである。無神論者からも到底受け入れられる余地はない。
問題は、以上のごとき思想・良心・信仰上の理由が、公務員である教員に対する「日の丸・君が代」への起立斉唱命令を拒否する理由となりうるかである。
この理は3局面において考えられる。
公権力行使の矢印を頭に浮かべていただきたい。その根元が教育委員会から発して、その先端が教員に到達する矢印を。この矢印は、職務命令と懲戒処分のセットで出来ている。もっとも、職務命令は形式的には校長が発するものだが、実質的には教委が通達に基づいて校長に強制している。この「日の丸君が代の起立・斉唱・伴奏強制」を矢印でイメージしていただけたら、その矢印の先端が鋭く教員の思想・良心に突き刺さっていることがおわかりいただけるだろう。
第一の局面はその「矢印の先」、人権が具体的に侵害されている局面である。誰もが想定する局面で、誰にも分かり易い。「日の丸・君が代」強制拒否訴訟では、最初から現在に至るまで、主要な論争局面である。
教委と教員とは、上級と下級の公務員関係にある。一般論としては、上級が下級に職務命令を発し、それに従わなければ懲戒処分を発することが可能である。それなくして、効率的な公務員秩序の形成と運用はあり得ない。しかし、矢印の先にある公務員とは実は生身の人間である。公務員という属性をもった人権主体なのであって、公務員という属性に向けられた公権力の行使が、不可避的に人権を侵害する場合には、公権力の行使が違法となり得る。具体的には公務員としての属性に対する「日の丸・君が代」強制が、人権主体である当該公務員の思想・良心・信仰の自由を侵害することになる。このような場合には、人権侵害から当該公務員を防御するために当該の公権力の行使の効果は抑制されなればならない。あるいは、公務員として上級の指示に従う義務が免除されなければならない。
これがこの局面での私たちの主張の概要だが、最高裁は結論としてこれをどうしても認めない。「日の丸・君が代」強制の公権力行使は、当該教員の思想良心の自由に対する「間接的な制約にはなる」ことまでは認めた。しかし「間接的な制約にしか過ぎない」から、厳格な違憲審査基準の適用は必要がない。「公権力の行使に一応の合理性・必要性があれば強制を認めてよい」と大きくハードルを下げて、違憲・違法の主張を斥けている。もちろん、反論が積みかさねられ、論争は継続している。
第二の局面は「矢印の根元」、そもそもそのような公権力を発することができるのだろうか、という問題設定である。
第一の局面では、個別的なそれぞれの公務員の具体的な思想・良心・信仰の内容が問題となり、これと抵触する限りにおいて公権力が制約されることになるが、第二の局面では、公権力の行使それ自体が無効にならないかという問題設定なのだから、誰に対する関係でも、その公務員の思想や良心の如何にかかわらず、違法あるいは無効となる。
第二の局面における「公権力の発動そのものが違憲・違法」だという根拠は、まさしく国旗国歌という国家シンボルを、国民の上に置くところにある。本来、国民の意思によって、便宜こしらえられている立場にあるに過ぎない国家が、国民に対して「我に敬意を表明せよ」と強制することを認めるのは、立憲主義の大原則からは倒錯であり背理であるということなのだ。
また、第二の局面の重要な柱として、教育行政は教育の内容に原則として介入してはならないとする近代憲法の大原則に依拠した主張が積み重ねられてもいる。
しかし、これに対して、まだ最高裁はなんとも答がない。
そして、今、第三の局面の議論を始めている。矢印の先にある人権侵害を問題とするのではなく、また、矢印の根元で発令を認めないとするものでもない。謂わば矢印の全体を考察の対象とし、総合的な全体像を考慮することによる違憲の根拠を構成しようという発想。
たとえば、「教員の職責」論を取り入れようという提案が検討されている。教員の職責は、主観的に決まるものではない。子どもの教育を受ける権利に奉仕するための職責として客観的に内容が決まるものであろう。その職責の中には、無批判に「日の丸・君が代」への敬意表明を肯定することに疑問を呈するべきことも含まれているはずではないか。
関連して、専門職としての教員の矜持の侵害という側面の強調すべきではないかという研究者の提言もある。
またたとえば、思想統制あるいは管理体制強化という「教育委員会の真の目的」をあぶり出す議論なども憲法論に取り込むべきではないか。
最高裁は、「判例変更」には抵抗感が強い。しかし、局面を変え、視点を変え、まだ判断していないことについての新たな問題提起としてであれば、最高裁も耳を傾けやすいのではないか。あらゆる方法を考えてみたい。
(2015年1月17日)