最近、鏡に映る自分の姿がどうもはっきりしない。後ろの壁がぼんやりと透けて見えるんだ。久しぶりに陽の当たる道を歩いてみたら、自分の影だけが妙に薄いことに気がついた。こんなこと、以前にもあったっけ。そうだ、2007年夏に第1次アベ政権が崩壊したあのあたりのことだ。また胃が痛い。いや腸がキリキリと痛んできた。
内政外交とも八方ふさがりだ。森友・加計・南スーダンだけでない。イラク日報、財務省セクハラ問題で、内政は最悪だ。嘘つき内閣・改ざん政権・公私混同首相・行政私物化総理とさんざんだ。「アベ・やめろ」とうるさくてならない。こんなにまで言われる私には人権はないとでもいうのだろうか。とりわけ、右腕と便りにしてきた麻生さんが、セクハラ次官をかばって火だるまだ。それに、元首相秘書官だった柳瀬が国会で洗いざらいしゃべったら私はいったいどうなることか。どちらも気が気でない。
これまでは、内政の失敗を外交で挽回してきた。安倍得意の外交とさえ言われてきたが、そのメッキが完全に剥げ落ちてしまった。北朝鮮問題こそが私の独壇場だった。トランプ政権と一緒に、ヒトツオボエで「圧力・圧力」「最後までアツリョク」と言ってりゃよかったのだから、楽なもんだった。それで、選挙に勝てたのだから、北朝鮮様々だ。南の文政権に出過ぎたことをするなと釘を刺す役を馬鹿正直に務めていたんだ。
ところが、なんてこった。トランプの奴め、こっそり北と水面下の対話を進めていたんだ。アベの面子など眼中になく、「国際信義よりは中間選挙ファースト」と言うことだった。これまでトランプを「一貫して支持」し、「日米は100%共にある」と繰り返してきたことが、われながら情けなくも恥ずかしい。トランプも金正恩も馬鹿ではなかった。馬鹿を見たのは、私ばかり。今や、トランプが上機嫌で、「南北対話を100%支持する」「アメリカとそのすべての国民は今、朝鮮半島で起きていることをとても誇りに思う」なんて言っている。文在寅の株が大いに上がった。トランプは抜け目なく、習近平まで持ち上げている。私の面目は丸つぶれじゃないか。
さりとて、スネ夫の宿命としてジャイアンには逆らえない。トランプには「拉致問題をよろしく」って、辞を低くしてお願いするしかない。そのお願いはトランプにだけじゃない。南北会談の設定で意気揚々の文在寅にも、頭を下げるしかない。これまで、「最終的かつ不可逆的な合意と言ったろう」などと居丈高な物言いをしてきたように思うんだが、あれは夢の中のことだったのか。
トランプには、頻繁に電話をして日米の緊密をアピールするしかないが、奴はその電話の最中に、ツイートを発信していることがあとになって分かった。私だって、一国の首相だ。あまりに無礼な態度だとは思うが、抗議もできないことがなんとも歯がゆい。
そんなことから、南北会談の前には、「拉致問題が前進するよう、私が司令塔となって全力で取り組む」と言ってみたし、事後には「南北首脳会談はわれわれが決めていたラインにのっとって行われたことが確認できた」と虚勢をはってもみたんだ。こう言わざるを得ない私の立場は、支持者の右翼の諸君には理解も同情もしてもらえるだろうという読みでの発言。右翼以外の「あんな人たち」や「こんな人たち」には、さぞやバカにされることになるんだろうな。だから、キリキリと腸が痛い。
関係国は、みんなそれぞれ主体的に問題に関わっている。中朝首脳会談を皮切りに、南北会談、そしてもうすぐ米朝会談だ。日本だけが蚊帳の外。私の影がうすーくなっている。何とか蚊帳の中に入れてくださいと言わなきゃならないのが癪のタネ。拉致問題の解決には、ピョンヤンに行かねばならないのだが、気が重い。腰も重くなる。うまく行くだろうか。なんと言っても、植民地支配の清算ができていない相手だ。どんな条件を持ち出されることになろうやら。「最終的かつ不可逆的」などと一方的に言って通じる相手ではなさそうだ。
何よりも、思惑外れは北の核やミサイルについての態度の豹変だ。これには心底困った。昨年10月の総選挙は、「国難選挙」と名付けて闘うことができた。与党が勝てたのは、核やミサイルで挑発的な姿勢をとり続けた北朝鮮のお陰だ。Jアラートは頼もしい武器になった。ところがどうしたことだ。南北会談で一気の平和ムードだ。これでは、軍拡の口実もなくなる。防衛予算の拡大もできない。9条改憲進展も棚上げになってしまうではないか。下手をすると、国民世論は、「安倍こそ国難」と盛り上がりかねない。
今こそ、自衛隊増強と改憲の絶好の機会だったはずではないか。「アベのいるうち」「両院の改憲派議席が3分の2あるうち」が千載一遇のチャンスだったはず。このままでは、みすみすとその好機を逃してしまいそうだ。何とかしなければならないが…、よい考えも浮かばない。ああ、腸がキリキリ痛むばかりだ。これが、断腸の思いというものだろうか。
(2018年4月30日)
「ひろばユニオン」(発行・労働者学習センター)という労働運動誌がある。その2017年4月号から18年4月号まで、「施行70年 暮らしと憲法」を連載する機会を得た。原則4頁、ときに5頁の紙幅。時々の憲法に関わる話題を語って、1年で憲法の全体像をつかもうという企画。読者と編集者の期待に応えられたかはともかく、締め切りに追われながらも13回滞りなく楽しく執筆できた。
望外なことに、さらに1年連載継続をとの依頼を受けた。今度は、「憲法改正の危うさ」「憲法を破壊する『安倍改憲案』」の表題で、改憲問題の進展にしぼった新シリーズ。こんな執筆の機会をいただけるのはありがたい。
その第1回分掲載の5月号が本日届けられた。4頁分の字数指定だったが、おさまらず5頁となってしまった。その最後が「毎月この改憲問題レポートをお届けし、来年の5月号あたりで、改憲阻止の勝利宣言をもって連載を終了したいものと願っています。」となっている。是非とも、こうありたいもの。
原稿掲載誌として贈られた5月号。特集は、「2018年春闘の成果と課題」。俄然著名になった上西允子さん(法政大学教授)が、「『働き方改革』とどう向き合うか」という連載を担当している。他にも、沖縄問題、ベルギー便り、メーデー事情など充実しているが、最も興味深く読んだのは「韓国最賃事情と労組の活動(上)」という記事。金美珍という人の執筆。
リードが「韓国の最低賃金が大幅にアップした。日本と同様に非正規雇用の増大が社会問題となる韓国で、何が起きているのか。そして韓国労組の取り組みは。2回の連載でお伝えする。」というもの。
「社会が注目最低賃金」という小見出しで、こう書かれている。
?韓国ではいま最低賃金をめぐる社会的な関心が高い。過去最大の引き上げ幅(1060ウォン=約100円)を記録した18年度の最賃(時給7530ウォン=約740円)が年明けから適用されたからだ。今回の引き上げによって全賃金労働者の18%、約277万人が直接影響を受けると推定される。主に若年層、60歳以上の高齢層、女性、非正規労働者がこれに含まれる。
えっ? ホント? それはすごい。18年度の最賃(時給7530ウォン)は、17年度の最賃6470ウォンから14%のアップとなる。統計を見ると、2013年以後の日韓両国の消費者物価の変動率は、韓国が若干上回る程度でほぼ変わらない。それで、最賃14%のアップは驚愕すべき数値だ。
東京都の現在の最低賃金は、時給958円。17年10月1日に引き上げられているが、その額26円。率にして2.79%である。韓国の最賃引き上げ率は、東京の5倍となるわけだ。かなり無理な引き上げではないか、との思いが先に来る。社会に歪みをもたらしている面も多々あるのでは。もちろん、雇用の機会を狭めているとの批判も免れないだろう。それにしても、底辺の労働者にはこの上ない朗報。
記事は解説する。
? 18年の最賃額はなぜ大幅に引き上げられたのか?
? その背景としてまず、17年に誕生した文在寅(ムン・ジエイン)政権による新たな経済政策パラダイムヘの転換があげられる。当選直後から、文政権は経済不平等の克服を重要な政策課題と提示し、「人が中心となる国民成長の時代を開く」ため「所得主導の成長」を主要経済政策の方向として打ち出した。
? 「所得主導の成長」とは、質の良い仕事を提供することで家計の所得と消費を増やし、これが企業の生産と投資の増大、ひいては国家経済の健全な成長につながるという好循環経済のビジョンである。
文大統領は、選挙期から「2020年最低賃金1万ウォン(約1千円)」を公約として掲げ、政権交代後にも「所得主導の成長」の核心政策として最賃引き上げを強調し、家計所得の増大を試みている。
なるほど、アベノミクスとは正反対の発想。大企業と富者が儲かるように経済をまわせば、いずれは底辺の労働者にも、おこぼれがまわってくるというトリクルダウン論はとらない。真っ先に、最底辺の労働者の賃金を押し上げることで経済全体の活性化をはかろうというのだ。日韓、まったく逆の実験が進行していることになる。こんなことは初めて知った。これなら、韓国の民衆は、自分たちの政府、自分たちの政権と考えることができるだろう。日本の大企業が、安倍政権を、自分たちの政府、自分たちの政権と考えている如くに。
? 実際、2020年までに「最低賃金1万ウォン」を達成するためには、年平均15.7%ずつ引き上げなければいけない。今回の引き上げは大統領選挙の公約を守るだけでなく、「所得主導の成長」を本格的に展開するために踏み出した第一歩として意味づけることができる。
続く記事によると、実のところこの政策はけっして政権の独走ではない。「最低賃金1万ウォン」の要求は、韓国で高い支持を得て、労働運動の主要テーマとなっているのだという。17年6月には、「最低賃金1万ウォン」を求めるストライキに多くの参加があったともいう。
この記事は、文政権の政策よりは、韓国の労働運動が、なぜ、どのように、「最低賃金1万ウォン」を目指しているかを描いている。
それにしても、われわれは(私は、というべきか)韓国のことを知らな過ぎる。これほどに学ぶべきことが多いにもかかわらず、である。
(2018年4月28日)
先月(18年3月)韓国訪問の印象が強く、南北首脳会談の成り行きには期待をもって注目していた。その期待は裏切られず、本日(2018年4月27日)は歴史的な日となった。今日の日が、軍事緊張から平和へ、北東アジア国際情勢転換の記念日として、後日長く記憶されることを願う。
南の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と、北の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長。最初は多少の硬さもあったようだが、打ち解けて和やかな笑みがこぼれる会談となった。その演出はみごとで、両国の平和と統一への熱意を世界にアピールするものとなった。
あらためて思う。同じ民族の南と北が、何ゆえ骨肉相食むの悲劇に陥ったのだろうか。犠牲者500万と言われる朝鮮戦争は、いったいなんのための殺戮だったのか。本日の両首脳の笑顔を見ていると、過去の歴史が信じがたい。
いいや、「過去」のことだけではない。ヒステリックに、Jアラートで北への警戒を叫んでいたのは、つい先日のことではないか。現実は、願望をはるかに超えた。夢想だったことが、実現しつつある。
また、あらためて日本国憲法9条とその精神を述べた前文とを噛みしめる。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
相手国に対する不信は、自国に対する不信となって返ってくる。憎悪は憎悪を生むばかり。自衛の名による軍備も、互いに相手国の軍備を凌駕しようとして軍拡競争に陥ることになる。これを断ち切るのが、9条の精神ではないか。「平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼」こそが平和の根源なのだ。南北の宥和が進展しつつある今、9条改憲などとんでもないことではないか。
本日の会談後両首脳は「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」に署名した。「平和」と「繁栄」と、そして「統一」の文字がまぶしい。
朝鮮半島の「完全な非核化」という目標だけでなく、直通電話での話し合いの継続や、5月1日からの軍事境界線一帯で拡声器放送とビラ散布の停止など、具体的な事項も折り込まれている。今秋、文氏が平壌を訪問することも。
最も関心を集めた「非核化」について、「南北は完全な非核化を通じて、核のない韓(朝鮮)半島を実現するという共同の目標を確認した」「南北は半島の非核化のため、国際社会の支持と協力のため、それぞれ努力していく」と明記している。
ところで、恒久的な平和の構築に向けて、「南と北は停戦協定締結65年になる今年、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制構築のための『南・北・米3者』または『南・北・米・中4者』会談の開催を積極的に推進していく。」としている。けっこうなことだが、どうやら日本の出る幕はなさそうなのが、気にかかる。
ここは、南・北両国に積極的な外交的接触が必要な局面ではないか。そのときには、憲法9条を持つ国として、平和外交を押し進めていただきたい。9条改憲にこだわる政権では、なんとも権威に乏しいと嘆かざるを得ない。
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「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」
大韓民国の文在寅大統領と朝鮮民主主義人民共和国の金正恩国務委員長は、平和と繁栄、統一を念願とする全同胞の一致した志向を込めて、朝鮮半島の歴史的な転換が起こっている重要な時期に、2018年4月27日に板門店・平和の家で、南北首脳会談を行った。
両首脳は、朝鮮半島ではもはや戦争は起きず、新しい平和の時代の到来たことを8000万わが同胞と全世界に厳粛に闡明した。
両首脳は、冷戦の産物である長い分断と対決を一日も早く終息させ、民族の和解と平和、繁栄の新時代を果敢に作り出しながら、南北関係をより積極的に改善し発展させていかなければならないという確固たる意志を込めて、歴史の地、板門店で次のように宣言した。
1.南と北は南北関係の全面的で、画期的な改善と発展を遂げることにより、分断された民族の血脈をつなぎ、共同の繁栄と自主統一の未来を早めていく。
南北関係を改善し発展させることは、全同胞の一様な望みであり、これ以上、先送りできない時代の差し迫った要求である。
(1)南と北は、わが民族の運命はわれわれ自身が決定するという民族自主の原則を確認し、既に採択された南北宣言とすべての合意を徹底的に履行することにより、関係改善と発展の転換的局面を開いていくことにした。
(2)南と北は高位級会談をはじめとする各分野の対話と交渉を早期に開催し、首脳会談で合意された問題を実践するための積極的な対策を立てていくことにした。
(3)南と北は当局間協議を緊密に行い、民間交流と協力を円滑に確保するために、双方の当局者が常駐する南北共同連絡事務所を開城(ケソン)地域に設置することにした。
(4)南と北は民族の和解と団結の雰囲気を盛り上げていくために、各界各層の多様な協力と交流往来と接触を活性化することにした。
内においては6.15をはじめ、南と北の双方において意義ある日を契機に、当局と国会、政党、地方自治団体、民間団体など各界各層が参加する民族共同行事を積極的に推進して和解と協力の雰囲気を盛り上げながら、外においては2018年のアジア競技大会をはじめとする国際競技に共同で進出し、民族の英知と才能、団結した姿を全世界に誇示することにした。
(5)南と北は民族分断により発生した人道的問題を早急に解決するために努力し、南北赤十字会談を開催し、離散家族・親戚の再会をはじめとする諸問題を協議解決していくことにした。
当面、来たる8.15を契機に離散家族・親戚の再会を進めることにした。
(6)南と北は民族経済の均衡ある発展と共同の繁栄を達成するために、10.4宣言で合意された事業を積極的に推進して行き、一次的に東海線および京義線鉄道と道路を接続して近代化し、活用するための実践的な対策を取っていくことにした。
2.南北は、朝鮮半島で尖鋭な軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するために共同で努力してゆくものである。
(1)南と北は、地上と海上、空中をはじめとするすべての領域で軍事的緊張と対立のもととなる相手に対する一切の敵対行為を全面停止することにした。
当面、5月1日から軍事境界線一帯で拡声器放送とビラ散布をはじめとするすべての敵対行為を停止し、その手段を撤廃し、今後の非武装地帯を実質的な平和地帯にしていくことにした。
(2)南と北は黄海の北方限界線一帯を平和水域とし、偶発的な軍事的衝突を防止し、安全な漁労活動を確保するための実際的な対策を立てていくことにした。
(3)南と北は、相互協力と交流、往来と接触が活性化されることによるさまざまな軍事的保障対策を取ることにした。
南と北は双方の間に提起された軍事的問題を遅滞なく協議解決するために、国防相会談をはじめとする軍事当局者会談を頻繁に開催し、5月中にまず、将官級軍事会談を開くことにした。
3.南と北は朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制の構築のために積極的に協力していく。
朝鮮半島で非正常な停戦状態を終息させ、しっかりとした平和体制を樹立することは、これ以上先送りできない歴史的課題である。
(1)南と北は、いかなる形態の武力も互いに使用しないことについての不可侵合意を再確認し、遵守していくことにした。
(2)南と北は軍事的緊張が解消され、互いの軍事的信頼が実質的に構築されるのに従って、段階的に軍縮を実現していくことした。
(3)南と北は停戦協定締結65年になる今年、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制構築のための南・北・米3者または南・北・米・中4者会談の開催を積極的に推進していく。
(4)南と北は、完全な非核化を通じて核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した。
南と北は、北側がとっている主動的な措置が朝鮮半島の非核化のために非常に意義あり、大きい措置だという認識を共にして、今後それぞれ、自己の責任と役割を果たすことにした。
南と北は、朝鮮半島の非核化のための国際社会の支持と協力を得るために積極的に努力することにした。
両首脳は、定期的な協議と直通電話を通じて、民族の重大事を頻繁かつ真剣に議論して信頼を強固にし、南北関係の持続的な発展と朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた良い流れをさらに拡大していくため共に努力することにした。
当面して文在寅大統領は、今年の秋に平壌を訪問することにした。
2018年4月27日
板門店
大韓民国大統領 文在寅
朝鮮民主人民共和国国務委員会委員長 金正恩
? (デイリーNKジャパン編集部訳)
(2018年4月27日)
人類の歴史は、1945年8月6日午前8時15分で、2分される。人類の絶滅という危機を自覚せずに過ごすことができた「前史」と、核によって人類の絶滅という危機の実感とともに過ごさねばならなくなった「後史」とにである。
人類絶滅の危険は瞬間的な核爆発によるものだけではない。核爆発のあとに、長く継続する放射線被害によってももたらされる。地球史の長い長い黎明期は、高放射線環境で生物が生息できる環境ではなかった。ようやく、生物の住める状態にまで自然放射線量が減少したのに、人類は自らの手で、人類の存続を危うくしているのだ。
繰りかえし言われているとおり、核兵器は絶対悪である。核兵器と人類は、共存し得ない。まずは核兵器をなくさなければならない。これが喫緊の課題。そして、核兵器を生み出す戦争をなくさなければならない。さらに、次元の異なる高度放射線被害をもたらす原子力発電も廃絶しなければ、人類の未来はない。
核廃絶運動の最前線に立つ人々が、被爆者である。あの悲劇の瞬間から70余年を経て、悲惨な被爆の実体験者はその数を減らしつつある。実体験を語る活動に参加も難しくなりつつある。我々は、その体験を継承し、その声を伝承しなければならない。
広島・長崎の被爆者は、日本国内だけでなく、韓国にも多くいる。当時、朝鮮は日本領とされていたのだから不思議はないが、朝鮮から渡って広島・長崎に居住していた人の数は、驚くほど多い。そして、戦後帰国した被爆者数も。このことが、あまり認識されていないのではないか。
3月下旬のピース・ツアー参加者の事前学習会で、以下のことを知った。
☆ 1945年8月の被爆直前、日本本土に居住していた朝鮮人数は230万人。うち、広島・長崎の居住者が約10万人だった。
☆ そのうち、約7万人が被爆している。約4万人が死亡、3万人が傷害を負いながらも生存した被爆者となった。被爆者の内2.7万人が韓国に帰国し、約3千人が日本に残った。
☆ 1954年ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆し、その後に原水禁運動が興隆した。1956年には、「 被爆者団体協議会(被団協)」が結成され、今日まで約40回に渡る法改正が行われ、運動はさまざまな被害補償制度をつくってきた。
☆ 被爆者運動は、当然のこととして在日の被爆者も加わり、その成果の適用において、在日朝鮮人被爆者は日本人と同等であった(健康管理手当、被爆者手帳、生活保障手当等)。しかし、韓国に帰国した被害者には、何の補償もなかった。彼らは、働くこともできず、疎外され続けてきた。
☆ 1956年以後、日本人の平和団体、被爆者団体から被爆者への支援カンパや自立的な運動のよびかけがなされ、徐々に韓国でも被爆者団体の運動が始まった。
☆ 韓国の被爆者は、日本政府に対し、日本人被爆者と同等の補償や支援を要求したが、日本政府はほとんど何もしなかった。
☆ 繰り返しの運動の「成果」として、”日本政府は、在韓被爆者のうち、日本に来て治療を受ける人への若干の支援をはじめた。しかし、日本に行く費用もない人が多く、実質的に支援を受けることができないまま亡くなっていく人が多かった。
☆90年代に入って、日本政府は韓国政府に対し、40億円の支援を一括して行った。韓国政府は、そのうち20億円で陜川(ハプチョン)に被爆者支援施設を作り、生活困難な被爆者が入居(約70人)できる施設を作り、残金で韓国全土の生活支援基金にした。なお、陜川(ハプチョン)には広島に住んでいた帰国被爆者が多く、『韓国の広島』と呼ばれていた。古い統計ではあるが、1974年に原爆被害者援護協会の陜川(ハプチョン)支部が行った被爆者実態調査によると、同地域の当時の被爆生存者は3867人であった。
☆2015年、日本政府は世界中の被爆者に日本人被爆者と同等の補償をすることになり、日本政府から直接本人に送金する制度になった。厚労省によると、2015年3月現在、日本外に住んでいる被爆者手帳の所持者は約4300人で、このうち韓国居住者は約2500人(北朝鮮居住者1人)だという。被爆者の9割が亡くなってから、ようやく日本政府は腰をあげたことになる。
3月28日(水)、ピース・ツアーは慶尚南道の陜川(ハプチョン)を訪れた。「韓国の広島」の異名をもつ町。
昨年(2017年)完成した原爆資料館の生々しい展示の見学を終えて、前庭で休んでいたら、体格のよい老人に声をかけられた。「どちらからいらっしゃいましたか」。訛のない、正確な日本語だった。14、5分の話しが弾んだ。というよりは、「私の話を聞いてくれ」という熱意がほとばしる対話だった。
私自身が被爆者ですよ。広島で被爆したときは10歳だった。市内の国民学校に通っていました。
代々ハプチョンで暮らしていましたが、幼いころ父と兄に連れられて広島に渡りました。ハプチョンの近くからは、たくさんの人が広島に行きました。兵役で行った人も、徴用で行った人もいましたが、自分の意思で家族と一緒に広島に渡った人が多かったはずです。
自分の意思と言っても、本当の意思ではないと思いますよ。その頃、この辺の農家はみんな貧しかったんです。兵役や徴兵で若い者が少なくなって、なかなか農業が思うようにはできなくなった。日本に行けば何とか仕事があって食っていけると言われて、出かけた者が多かったんです。
で、日本のどこへ行くか。村の人で、広島に行った人が多かった。知っている人が先に行っているから、その人をたよりにして、なんとなくみんな広島に行きましたね。
広島で日本語も覚えましてね、国民学校に上がったけど、勉強どころではなかった。もう少し、きちんと勉強させてもらえたらよかった、あとあとそう思いましたね。
私は学校で被爆しました。爆心地から2キロと少しのところです。あの体験は忘れられません。でも、私自身は大きな怪我をしなかった。幸い、父と兄がすぐ来てくれて、私を連れて火災を避け西の方向に逃げました。6日の晩は野宿して、7日に己斐(こい)中学校の校庭で炊き出しを受け、手当もしてもらうことができました。そのときは、もう裸足でした。
行き道、道路に死体がごろごろと転がっていたんです。死体を踏まないように、除けて歩くという感じでした。そして、死んでいる人だけでなく、死にそうな人が大勢。幽霊みたいに歩いていました。本当に地獄の風景でしたね。
終戦後、間もなく親に連れられて韓国に帰りました。でも、やっぱり生活は苦しかった。そのあと、また日本に行きました。最初は宮崎、そしてそのあとはやっぱり広島。で、またハプチョンに戻りました。そうこうしているうちに、齢を取った。
いまは、陜川原爆被害者福祉会館に住んでいます。この会館は、日本の被爆者の運動で、日本政府が金を出してつくったものです。情けないのは、韓国の政府が十分な動きをしてくれないこと。
それから、もう一つ。どうしても言っておきたいのは、原発のことですよ。福島の事故には震えあがりました。あんな危険なものは絶対に作ってはいけない。私は被爆者一世ですが、子や孫の将来のために、核兵器も原発も絶対になくして欲しいと思います。
この方のお名前を伺ったところ、キム・ドシギと名乗られた。ゆったりと咲く白いモクレンの花の下でのキムさんのお話しを忘れることはないだろう。
(2018年4月9日)
済州島(チェチュド)は東西に広い楕円の形をなしている。その島の北半分が済州(チェジュ)市であり、南半分が西帰浦(ソギポ)市となっている。この島の最南部に、韓国海軍が大きな軍港を建設した。軍艦だけでなく、15万トンの超大型客船2隻が同時に寄港できるという規模の「軍民複合型観光美港」との触れこみだった。この基地建設に地元の反対運動が息長く続いている。しかも激しく。
地図を見ても、この軍港は書き込まれていない。元来が軍事基地とはそのようなもので、うっかり基地の写真を撮るとトラブルになると教えられた。この基地が建設されたところ、そして反対運動の拠点が、カンジョン(江汀)村である。必ずしも水に恵まれないこの島で、水が豊富なことが地名のゆかりだという。農業にも漁業にも恵まれた土地柄。行政区分は、済州道(チェチュド)西帰浦市(ソギポ)カンジョン村である。
2007年4月に、突然この地が基地の候補地とされたのは、ここなら抵抗運動もあるまいと侮られたからのようだ。同年8月村民は、当時の村長を解任し、基地建設に反対の立場のカン・ドンギュン氏を新村長に選任した。その直後の海軍基地建設の是非を問う住民投票では、賛成36、反対680だったという。以来、村民の反対運動は粘り強く継続されている。にもかかわらず、政府と軍は、基地建設を強行した。この点、辺野古とよく似ている。
建設現場の海岸には、住民の心のよりどころだったクロンビ岩という自然の名物があった。長さ1.2kmにもおよぶ巨大な玄武岩の一枚岩。20カ所もの泉が湧き出し、様々な絶滅危惧種などが生息する貴重な生態系があるとして、韓国の天然記念物保護区域やユネスコの生物圏保全地域に指定されていた。またここは住民たちの祈りの聖地として大切にされてきたところであり、貴重な歴史的文化遺産の場所でもあった。ここがダイナマイトで爆破され、海軍基地となったのだ。
地元住民や全国の平和団体が熾烈な反対運動を繰り広げたが、2016年2月、基地は完成した。政府は住民や団体員9人を「北朝鮮を利する行為」として国家保安法で起訴した。
それだけではない。政府は運動体にスラップ訴訟を提起した。工事遅延による損害賠償として34億ウォンを要求して民事訴訟を提訴したのだ。このことが私の最大の関心事。以下は、昨年(2017)年1月31日付ハンギョレ新聞記事の日本語訳である。
「竣工当時、朴槿恵(パク・クネ)大統領は「地域社会と共生し和合する意味深い契機となることを願う」と述べた。しかし、海軍はサムスン物産が工事遅延による損失賠償金を要求すると、273億ウォン(約27億円)を弁償し竣工式から1カ月後に住民と村会など個人116人と5団体を相手に34億5千万ウォン(約3億4千万円)の求償権を請求し、住民たちに不意打ちを食わせた。
海軍基地建設過程で住民たちに大きな傷を負わせた政府は、葛藤の解消どころか住民の怒りをさらに膨らませている。与野党国会議員165人が昨年10月、「政府が国民との訴訟を通じて主権者である国民を苦痛の崖っぷちに追いやることがあってはならない」とし、求償権の撤回を要求する決議案を提出した。ウォン・ヒリョン済州道知事と済州道議会はもちろん、済州地方弁護士会まで立ち上がり求償権の撤回を建議・要求したが、政府の態度は微動だにしない。「国策事業に反対するとどうなるのか見ておけ」と、国民に“警告”するかのようにだ。」
「『国策事業に反対するとどうなるのか見ておけ』と、国民に“警告”する」提訴がまさしく、スラップ訴訟なのだ。これが朴槿恵政権下の事態であった。
文在寅(ムン・ジェイン)政権となってから、空気は大きく変わっている。昨年(2017年)12月、国はこのスラップ訴訟を取り下げた。また、個人加盟の平和団体「平和と統一を開く人々」の、国家保安法違反で起訴事件は、昨年12月、最後の一人が無罪判決を勝ち取り、9人全員の無罪が確定したという。
反対運動は、まだ続いている。このことがすごい。3月27日正午、私たちピース・ツアー一行も参加して、基地前の路上で集会が開かれ、デモ行進が行われた。人数は、50?60人くらいだろうか。女性が多い。子ども連れもけっこういる。白人もイスラム教徒も混じっている。大きな音響で音楽を流し、大声で歌を唱い、幟を振り、踊るような行進。そして、基地のゲートの真ん前で、みんなが踊り始めた。弾けるような明るいリズムの踊り。これはいったい何なのだ。面食らうような雰囲気。私は、大きな赤いカニを描いた旗を振りながら、踊りの輪を見つめているだけ。基地の警備は、じっとこちらを見ているが、何も言わない。何もしようとはしない。ひとしきりの平和を願う歌と踊りの後、デモは引き上げた。
ひとりの女性が、片言の英語で話しかけてきた。「私たちは、日曜を除く、毎日毎日このパフォーマンスを続けてきました」「これまで、もう何年も。そしてこれからも」。なんと返事をすればよいのだろうか。「あなた方を支持します」「平和のために連帯しましょう」。お互い英語は下手だが、気持は通じ合ったように思う。
なるほど、歌と踊りなのだ。長い闘争だ。難しいことばかり、苦しいことばかりの運動では続かない。はじけるように、唱って踊ることが大切なのだ。自分を励まし、仲間との連帯を確認するのだ。今は、基地の拡張や、関連施設を作らせない闘いが方針だという。ここに、着実に粘り強く闘い続ける人たちがいる。
(2018年4月5日)
本日は4月3日。済州島でのいわゆる「四・三事件」に触れておかねばならない。本日が、1948年の「四・三」から70周年となる。現地の平和公園で、文在寅大統領も参加した追悼集会が行われた。
済州島(チェジュド)は気候温暖で、ピースツアー訪問時の3月26日には、桜もほぼ満開だった。のどかな田園風景が広がる島である。行政区域としては、済州特別自治道。島ではあるがとても広い。淡路より、佐渡より、沖縄本島よりも広い。島の最高峰・漢拏(ハルラ)山(標高1,950m)は、韓国の最高峰でもある。この島は、この山の噴火でできたという。金石範か「4・3事件」を題材に書いた日本語小説の題名が「火山島」である。「済州火山島と溶岩洞窟群」が、2007年に韓国初の世界自然遺産に登録されている。
この、美しくものどかな、今は観光地となっている火山島で、70年前に大虐殺があった。最も信頼できる「済州四・三平和財団」のパンフレットによれば、「7年にわたる過程での人命被害は、2万5000?3万余名」という。しかし、公的に特定された被害者数は1万4231名(後遺障害者163名を含む)。この犠牲者調査は2002年に開始された。それまでの半世紀間、事件は闇に葬られていたのだ。犠牲者の遺族は、「連座」制に苦しめられてきた。韓国民主化の過程で、ようやく真相解明と犠牲者や遺族の名誉回復が実現しつつあるのだ。
この玄武岩の島は、大戦時には全島が日本軍の要塞となっていた。中国への渡洋爆撃の飛行場があり、特攻艇震洋の基地があった。敗戦時には、7万と言われる将兵が地下要塞を張り巡らして、米軍の上陸に備えていたという。
終戦によって日本の支配から脱した朝鮮は、その南部がアメリカの軍政下に置かれた。そして、全半島一体の独立を望む勢力と、北とは分かれてアメリカ軍政下地域(現在の韓国)だけの独立国を作ろうという勢力とが厳しく対立した。チェジュ島「4・3事件」は、その対立の中で生じた悲劇である。アメリカ軍政部と、その傘下にあった李承晩政権とによる、左派ないしは統一派に対する大弾圧。それがこの事件の基本的性格と言ってよい。
実は、この「事件」に対する公式の名称はまだない。いま、漢拏山の麓に立派な記念館が建設されており、その1階の最初の展示室に、「無銘の碑」が横たわっている。「事件」に公式の名称が付されたら、それを刻するのだという。もっとも、2014年以来、「四・三犠牲者追念日」は国の法定記念日とされ、盛大な追悼行事が行われるようにはなっている。しかし、「4月3日の事件」と言うにふさわしいか疑問なしとしない。
1948年4月3日は、左派(南朝鮮労働党)の蜂起による警察署襲撃事件があった日である。もちろん、それまでの米軍政・警察・右翼による左派弾圧の前史があり、4月3日以後の、官憲と右派勢力からの残虐な報復があった。
事件の直接のきっかけは、前年47年3月1日(独立節)に起きた。デモ隊への警察の発砲によって6人の死者が出た。これに、大規模な抗議のゼネストが敢行されると、警察は左派幹部の「検束」で応じた。47年の「三・一」から、48年「四・三」までの1年間での検束者数は2500人にも上ったという。
4月3日以後、警察と軍では、蜂起派に対する対応が異なっていた。
軍隊(第9連隊)は、蜂起が極右勢力の横暴によって惹起されたものとの見方から、平和的な解決を方針とした。蜂起派に帰順を呼びかけ、山中にあった左派に帰順を呼びかけ、いったんは「武装解除と下山すれば罪を問わない」との合意が成立したが、米軍政司令官の武力鎮圧方針決定で壊れた。
大韓民国独立のための「単独選挙」は1948年5月10日に行われ、チェジュ道のみが投票率が過半数に達せず無効となった。李承晩政権は同年8月に発足したが、「赤い島」を徹底して弾圧した。
そのやり方は、「日本軍の三光・三尽作戦」に範をとったと言われる「焦土化作戦」であった。海岸線から、5キロの線を引き、それ以内の山林にひそむ者を皆殺しにするという苛烈なもの。焼かれて廃墟になった村は300余。消失棟数は4万に及んだという。
この事態は、1950年6月の南北戦争(朝鮮戦争)間も続き、1954年9月道警察が、漢拏山禁足地域指定を解除したことで終熄したとされる。47年3月1日から数えて、7年半である。しかし、その後も事件の後遺症が継続したことは前述のとおりである。
本日配信の共同記事は、要領よく次のとおりまとめている。
【済州島共同】韓国南部の済州島で1948?54年、島民数万人が軍などに虐殺された「4・3事件」の発生から70年となる3日、済州島で犠牲者の追悼式が開かれた。惨劇を知る遺族ら約1万5千人が参列。文在寅大統領は「国家の暴力によって苦痛を与えたことを改めて深く謝罪する」と演説した。日本からも遺族の在日韓国・朝鮮人らが参列した。
大統領の出席は、2006年の盧武鉉大統領以来2回目。事件は、朝鮮半島の南北分断体制の固定化に反対する左派勢力の一部が蜂起したことが発端で、長らく「共産主義者の暴動」と見なされ、遺族も社会的に疎外されてきた。」
また、昨日(4月2日)の毎日の記事。
「日本の植民地支配からの解放後、朝鮮半島北部は旧ソ連、南部は米国が統治していた。新しい国造りを巡り、南部だけの単独選挙が実施されれば分断が固定化するとして反対する勢力が武装蜂起し、警察署や選挙事務所を襲撃。これに対し軍や警察が「焦土化作戦」で鎮圧に乗り出し、村を焼き払い住民を虐殺した。
その後、軍事独裁政権が続き、事件は「共産主義者の暴動」と見なされ、犠牲者の遺族も社会的に疎外されてきた。高さんは「学校を出ても『連座制』で出世できず公務員にもなれない。どこへ行っても『アカ』呼ばわりされた」と振り返る。
今年に入り南北関係は急速に好転し、南北首脳会談も予定される。政府の調査委員会で真相究明に当たった経験を持つ済州4・3平和財団の梁祚勲(ヤン・ジョフン)理事長は「70年前の済州島民は統一された祖国を望んだことで、おびただしい犠牲を払った」と指摘。「今後、南北問題が平和の方向に向かえば、4・3事件は(統一を望んだ蜂起と)再評価されるだろう」とみる。」
まさしく、「70年前の済州島民は統一された祖国を望んだことで、おびただしい犠牲を払った」というのが、今の韓国社会の良識が寄せる評価なのだろう。
70年前には、島民(左派)が武装蜂起を余儀なくされた。蜂起の勢力の武器は、小銃30丁だけだったという。徹底して鎮圧され、焼かれ、拷問され、殺された。その痛ましさに胸が痛む。いま、我々は、もっと強大な社会変革の「武器」をもっている。それが、表現の自由であり、政権交代のルールである。
小銃ではなく弾丸でもなく、投票用紙と言論・出版・放送の自由をこそ大切にしよう。そのことを教えてくれた、「四・三」の犠牲者を心から悼みたい。
(2018年4月3日)
皆様、ようこそいらっしゃいました。
「HEEUM(ヒウム)」とは、「希望を集めて花を咲かせる」という意味です。この歴史館は、地元の元日本軍「慰安婦」被害者の資料展示を中心に、この方たちの痛苦の歴史を忘れずに記憶し、日本軍「慰安婦」問題の正当な解決を目指す「実践型歴史館」であり活動拠点なのです。その活動を通じて、ハルモニ(おばあさん)たちの願いであった《平和》と《女性人権》が尊重される、「希望の花」咲く社会を作ることを目標にしています。
大邱(テグ)の中心街に建設されたこの歴史館の開設は、2015年12月です。日本軍「慰安婦」被害を記憶しておこうという趣旨の施設としては全国で4番目のものになります。
最初の日本軍「慰安婦」被害関連の歴史館は京畿道広州(クァンジュ)の「ナヌムの家」にある「日本軍慰安婦歴史館」で、1998年にできたもの。次が、釜山水営(スヨン)区の「民族と女性歴史館」(2004年)。そして、ソウル麻浦(マポ)区の戦争と女性人権博物館(2012年)。大邱のヒウム歴史館は、これらに続くものです。
元「慰安婦」被害者には法にもとづく登録制度があります。これまでの登録者は累計238名となっています。その内、大邱近郊の方が28名いらっしゃいますが、そのうちの過半の方が家族のないままに寂しい暮らしをして来られました。私たちは、ボランティアとして、そのようなハルモニの生活のお手伝いをすることから始めて、「挺身隊ハルモニと共にする市民の会」を作り、市民運動としてこの歴史館建設を思い立ちました。
「市民の会」は2009年12月に「歴史館建設推進委員会」を立ち上げ、翌年から市民募金活動を始めました。ヒウムのブレスレットやバッグを販売して収益金を集めました。10年1月に大邱の病院で亡くなったハルモニのお一人、故キム・スンアクさんは生前、「大邱に日本軍慰安婦歴史館を作ってほしい」と5千万ウォンを遺言で寄付されました。国と大邱市がそれぞれ2億ウォン、大邱中区が4千万ウォンを拠出し、他のハルモニも寄付をされて、合計13億ウォン(約1億3000万円)を超す資金を得ました。こうして、6年後に会館建設に漕ぎつけました。
大邱は、ソウル・釜山・インチョンに次ぐ韓国第4の大都市です。その中心部中区西門路に1920年代の2階建日本風建物を購入して、展示館に改修しました。敷地が214.45平方メートル、歴史館の1階181平方メートルは展示室と事務室、2階101平方メートルは展示室や教育館として作られています。展示室には、日本軍慰安婦に関連する写真など歴史資料が備えられています。また慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)たちの写真や証言を含め、日本軍慰安婦問題解決過程も説明されています。
この歴史館開館までに、相当数のハルモニの方が亡くなられています。また、当然のことではありますが、生存者も高齢化しています。何とか早期に、正義に則った解決を願っています。
この歴史館の開館は、ハルモニたちの慰めになっていると思います。また、韓国社会が被害者たちの苦痛を忘れず記憶することに寄与していると思います。大切なことは戦争をなくし平和を築くこと。そして、女性の人権が尊重される社会を作ることだと考えています。
いまご質問がありました「日本軍『慰安婦』問題の正当な解決」についてですが、開館以前は、この歴史館の設立の趣旨を、「日本軍『慰安婦』問題の解決」としていました。開館建設運動の議論の中で、単なる「解決」ではなく、「正当な解決」が必要だと考えるようになりました。皆様に配布したリーフレットには、「正当な解決」と記載されています。
ところが、開館直後の2015年12月28日に、慰安婦問題「韓日合意」が成立したと報じられて以来、議論を継続しています。「正当な解決」では不十分ではないか、端的に「正義の解決」が必要ではないか。あるいは「人類の目指す方向に基づく解決」ではどうかという議論です。
具体的な要求は、誰に対するどんな内容かということですが、2014年6月2日に採択された「第12回・日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議決議」が韓国だけでなく、関係各国の市民運動の共通スローガンとなっています。その内容は、当歴史館に展示もしていますが、日本政府に対するもので次のとおりです。
日本軍「慰安婦」問題解決のために日本政府は
1.次のような事実とその責任を認めること
? 日本政府および軍が軍の施設として「慰安所」を立案・設置し管理・統制したこと
? 女性たちが本人たちの意に反して、「慰安婦・性奴隷」にされ、「慰安所」等において強制的な状況の下におかれたこと
? 日本軍の性暴力に遭った植民地、占領地、日本の女性たちの被害にはそれぞれに異なる態様があり、かつ被害が甚大であったこと、そして現在もその被害が続いているということ
? 当時の様々な国内法・国際法に違反する重大な人権侵害であったこと
2.次のような被害回復措置をとること
? ? 翻すことのできない明確で公式な方法で謝罪すること
? ? 謝罪の証として被害者に賠償すること
? ? 真相究明:日本政府保有資料の全面公開
? 国内外でのさらなる資料調査
? 国内外の被害者および関係者へのヒヤリング
? ? 再発防止措置:
? 義務教育課程の教科書への記述を含む学校教育・社会教育の実施
追悼事業の実施
誤った歴史認識に基づく公人の発言の禁止、
および同様の発言への明確で公式な反駁等
この具体的な要求に照らして、15年12月28日の韓日合意は、まったく不十分なものだと思っています。何よりも大切なことは当事者である被害者本人の意思を尊重することのはずですが、そのような配慮はまったくなされていません。被害者の意思の反映なき合意は無効だというのが、運動体の意見と言ってよいと思います。
私たちは、韓国政府に、「韓日合意」の無効化を宣言せよと要求しています。折良く政権も交代し、事実上合意の無効化はできていると言ってよいのではないでしょうか。
なお、ご質問のありました強制性の問題ですが、狭い意味での「暴力的強制」の有無を問題することは、極めて意図的な議論の仕方ではないでしょうか。日本軍「慰安婦」とされたきっかけとして圧倒的に多いケースは、就労詐欺です。貧しい女性の勤め口をあっせんすると言って連れ出して、戦地に送るという手口です。いったん、戦地に送られてしまえば、拒否の自由などあり得ません。これが、強制でなくて何でしょうか。
また、ご質問がありました世代間の記憶承継の問題ですが、何よりも勇気をもって、被害を受けたご本人が名乗り出たことが大きな役割を果たしたのだと思います。
1991年金学順さんが、名乗り出たハルモニの第1号となりました。それまで、どなたも名乗り出ることはできなかったのです。それ以来、問題は解決済みだとする日本側との厳しい対決が始まりました。若い人々にも、関心が高い問題となりました。
そして、憲法裁判所の果たした役割が大きかったと思います。
2011年8月30日、韓国の憲法裁判所は、韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者の賠償請求権に関し、具体的解決のために努力していないことは「被害者らの基本権を侵害する違憲行為である」との注目すべき決定を出しました。それ以来、政府には「具体的解決のために努力すること」が義務づけられ、小学校5年生、6年生の教科書にこの問題が掲載されるようになりました。
また、もう1300回を超えたソウルの水曜デモですが、一時は参加者が2?300人の規模でした。それが、憲法裁判所決定のあとは、10倍の規模になっています。韓国では、若者もこの問題はみんな知っています。関心をもっています。この歴史館を建設する運動にも、多くの若者が関わっています。
本日おいでの日本の皆様を拝見すると、高齢の方が多いご様子で。日韓の若い世代の意識のギャップがこれ以上広がらなければよいのですが…。
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上記は、日本平和委員会が主催する「韓国ピース・ツアー『4.3事件』から70年」の旅の4日目。18年3月29日・木曜日の大邱「HEEUM(ヒウム)日本軍『慰安婦』歴史館」館長の説明に、若干の補充をしたもの。
展示の資料の中に、故キム・スンアクさんの「日本軍『慰安婦』認定証」が飾られていた。彼女は、生前からこれを額に入れて大切にし、毎日これを清掃していたと、説明を受けた。この認定証に対する思いは、ハルモニそれぞれに複雑であるという。中には、認定を受けたことを秘密にしている人もあるという。もちろん、日本軍「慰安婦」であったことをひたすら隠し通したのが、圧倒的多数なのだ。
キムさんは、不幸な過去を隠すのではなく、この繰り返してはならない不条理な出来事を多くの人に知ってもらおうと決断したのだ。その決断の重さは、余人には計り知れない。認定証は、キムさんの後戻りできない決断の証しであったろう。キムさんは、自分の決断の正しさを認定証の清掃で確認し続けたのではないだろうか。
この旅のあちこちで、「両国政府はともかく、両国市民の連帯と友好を深めよう」と語り合った。この日も、館長の説明に、ピースツアー参加者一同、大いに肯いた。アベ政権の「これをもって不可逆的解決」という傲慢さに対する批判が、日本側から次々と発言された。
私には、「女性の人権尊重」が、常に「平和」とのセットで語られていたことが印象に深かった。「戦時のことだから仕方がない」などという言い訳を許してはならない。最も弱い立場にある者の人権を悲惨に蹂躙する戦争を許してはならないのだ。
(2018年4月2日)
日本領事館の正門側にあると思っている方が多いようですが、このとおり、領事館の裏側になります。この歩道に面した高い擁壁の上が領事館の裏庭です。いま、桜が満開ですね。あっ、桜の木の陰に隠れて領事館員がカメラで皆さんを見下ろして、写真を撮りましたね。そして直ぐに隠れました。皆さん、注目されているようですね。
この少女像の髪形は、当時の女性の短髪ですが、こんなに短くなっているのは、家族や社会から縁を切られたという悲しみを表現したものだそうです。また、靴がなく裸足で、しかも踵が浮いていますね。歩いて行く宛のない、不安定な気持と立場を象徴していると聞いています。となりには、椅子があります。力を貸してくれる方、寄り添っていただける方にお座りいたくための椅子です。どうぞ、あなたもこの椅子に座って写真を撮ってください。
ソウルに続いて、釜山のこの少女像が大変有名なりましたが、この像は全国にどんどん増えていますから、いくつあるのか誰も正確には分からないじゃないですか。国内だけで100近く。アメリカやヨーロッパなど、外国にもいくつかできていますよね。
2015年12月の日韓合意で、「韓国政府はこの少女像を撤去しなければならない」とされたようですが、それはもう絶対に無理なことですね。日本の安倍さんたちが韓国の政府に、「この像を撤去しなさい」と言えば言うほど、像の数は増えることになると思いますよ。
私思うんです。人間って、面白いもんですね。ああしろ、こうしろと、押しつけられれば、却って反発するじゃないですか。激しく燃え上がるじゃないですか。ロミオとジュリエットだって、両家に反対されたから、あんなに燃え上がったじゃないですか。
日本の安倍さんが、「国家と国家の約束を守りなさい」とか、「約束だから像を撤去しなさい」なんて言うのは、ますます韓国の人々を刺激するだけですね。何にも言わず、じっとしているのが、安倍さんにとっては、一番いい方法じゃないですか。どうして、そんなことが分からないですかね。
また安倍さんが何か言ったり、何かしたりすればですよ。その都度に「なぜ、こんな像が造られたのか」「こんな像を造らなければならない理由は何だったのか」と、韓国のみんなが、また改めて思い出すことになるじゃないですか。
あっ、韓国のポリスが2人出てきましたね。さっき上から皆さんの写真を撮っていた領事館員が通報して、ポリスが出てきたんですよ。皆さん、やっぱり注目されているんですね。
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4泊5日の韓国ピースツアーを昨夕で終えた。
韓国民衆のさまざまな運動を垣間見てきた。その熱気の一端に触れて、もらった熱い思いが冷めやらない。韓国の運動から、枯渇しかかっていたエネルギーの補充を受けた感がある。どこの運動にも、さまざまな歌と踊りがあった。ともに唱い踊ることで、自分を励まし連帯を確認するのだ。その歌と踊りが、底抜けに楽天的なことが、印象に残った。追々、当ブロクに韓国市民運動見聞録を掲載したいと思う。
上記は、釜山領事館の「少女像」についての、ガイドの解説の概要。軽妙で洒脱な日本語の語り口を堪能した。この「テーマのある旅」の充実度を決定する要素の半分は企画の出来具合で、あとの半分は現地ガイドの能力といってよい。韓国本土を担当したこの旅のガイドの通訳能力だけでなく、社会や政治の論評の確かさに脱帽した。
この旅行の企画は、ユーラスツアーズ
http://www.euras.co.jp/
http://www.euras.co.jp/tour/korea-peacetour2018/
もともとは、「旧ソ連・ロシアへの旅行、留学に特化したサービスで57年以上の実績」という旅行社で、「ロシア旅行を知り尽くした当社だけが出来る”わがままツアー”を実現します」と、ロシア旅行が専門だが、ヨーロッパも、中東も、中国も韓国もベトナムのツアーも企画している。
現地の運動体との連絡や交流の設定は難事だと思うがよくやってくれたと思う。そして得がたい現地ガイドも、この旅行社を通じて依頼できる。観光旅行ではない、テーマのある旅行を望む方にお薦め。
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旅を終えて、日常が戻ってきた。
本日(3月31日)は、都立学校教員らの「日の丸・君が代」強制問題についての、卒業式総決起集会。そこで、「憲法的価値の根源は個人の尊厳であって、国家ではない」「個人のために国家があるのであって、国家のために個人があるのではない」「にもかかわらず、国民個人に対して、国家の象徴である『国旗・国歌(日の丸・君が代)』に敬意表明を強制できるはずはない」と発言。
夕刻は、加藤良雄著「学校がキライな君へ」の出版記念会。
加藤さんは、東京「君が代」裁判・第4次訴訟の原告団代表。定時制高校勤務時代の生徒との交流を語り、その生徒との関わりが、生徒の卒業後も加藤さんが定年退職後も連綿と続くことに驚く。その本の帯に「先生の生徒で本当によかった」というある生徒からのメールの一節が記されている。この一言、教師の勲章と言ってよい。
「学校というものの存在価値の根源は生徒の学ぶ権利であって、経営主体ではない」「生徒のために学校があるのであって、学校のために生徒があるのではない」「だから、生徒に対して、学校の都合を押しつけてはならない」
私も、学校が好きではなかった。今にして思えば、その理由は束にされて扱われることに抵抗感があったからだ。
この著書に表れた教師・加藤良雄の、手のかかる生徒に対する向き合い方は、なかなかできることではない。束にしたクラスを相手にするのではなく、一人ひとりの生徒の人格に向きあう。その実践記録である。定時制とは、こうも個性にあふれた生徒を擁しているのだ。
「日の丸・君が代」強制に服することができないという教師には、このような真面目な教育実践をしている人が多いのだ。でもしかの教師には「日の丸・君が代」強制に服従しがたいという動機があり得ない。もちろん、訴訟にはこの書物を丸ごと書証として提出している。
(2018年3月31日)
2018年3月30日・金曜日。日本平和委員会が主催する「韓国ピース・ツアー『4.3事件』から70年」の旅の5日目で最終日。本日は釜山の町を見学し、夕刻釜山空港から成田に。本日のブログも出発前に東京で書いた5件目の「予定記事」。
本日のテーマは、重い「日本軍『慰安婦』を中心とする歴史認識問題」。話題の総領事館前「少女像」との面会。そして、もう少し時代を遡った、「朝鮮通信使博物館」の見学などがスケジュールに入っている。
思えば、我が国にとって、長く朝鮮半島は文化薫る、尊敬すべき地であった。応神天皇の昔、百済の王仁博士が「論語」と「千字文」をもたらしたことをもって、我が国の文字文化の発祥とする伝承が定着している。上野公園の散歩では、清水観音堂の裏手に立つ、「王仁博士記念碑」とその由来を記した副碑を見ることができる。
やや下って、桓武天皇の生母も、百済の武寧王を先祖とする氏の出身と古事記にある。その内容の正確性如何が問題ではなく、そのように公定の歴史書に書かれていること自体が重要なのだ。
ところが、この先進文化の地というイメージは江戸時代までのことで、明治期にガラリと変わることになる。侵略先として、まずは朝鮮をターゲットとした公権力が意識的に、朝鮮に対する差別意識を醸成したのだ。日本人に、その根が深いことが恥ずかしい。日本に最も近い大都会・釜山で日本との交流の跡を見つめたいと思う。
いま、韓国の自立した市民運動には、学ぶべきところが多々ある。この5日間で、多くのことを吸収しよう。
その旅も、今日で終わる。さて、5日間で少しは見聞を広め得ているだろうか。少しは賢くなっているだろうか。夕刻釜山を発って成田に無事到着の予定。明日からは、仕事が待っている。リアルタイムでのブログの掲載もはじめよう。
(2018年3月30日)
2018年3月29日・木曜日。日本平和委員会が主催する「韓国ピース・ツアー『4.3事件』から70年」の旅の4日目。本日は大邱から釜山へ。今日のブログも出発前に東京で書いた4件目の「予定記事」。
本日のテーマは、午前中が「歴史認識問題?日本軍『慰安婦』について」、そして午後が反原発である。今日も大忙しの日程。
午前中は、大邱「ヒウム日本軍慰安婦歴史館」見学と運動団体との交流。そして、午後は陸路釜山へ。到着後、古里(コリ)原発の見学と反原発団体との交流。
「ヒウム日本軍慰安婦歴史館」は2015年の建設。市民運動の成果が結実したものだという。「ヒウム」とは、「希望を花咲かせる」という意味とのこと。慰安婦被害者26人の苦難の生涯と活動が紹介されているという。
慰安婦問題の市民運動に携わっている人々との意見交換が楽しみ。日韓合意問題や、真の解決のありかたについて、現地の声に耳を傾けたいと思う。
韓国・古里(コリ)原発は、韓国初の商用原発。これが、1990年から97年まで、「世界で最も多く放射性物質を排出した原発」とのこと。その事故の隠ぺいを告発し、廃炉を求める運動の主体となっているのが、環境団体「環境運動連合」。原発事故の問題と影響についての意見交換が予定されている。
これは韓国ピースツアーに、意外なテーマ。とても興味深い。本日は釜山泊(の予定である)。
(2018年3月29日)