澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその12

世の習いにしたがって、新年のご挨拶を申し上げます。
 明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いします。

とはいうものの、さして目出度い正月ではない。
特定秘密保護法、靖国神社参拝などで、大きな批判を受けて支持率を下げながらも、安倍自民の暴走は止まりそうにない。2月9日都知事選は、これに一矢報いるチャンスであるが、まだ宇都宮君は立候補断念に至ってはいないようだ。

本日の「しんぶん赤旗」7面に、大きく宇都宮君の紹介記事が掲載されている。その見出しを拾えば、「安倍政権の暴走ストップ」「暮らし第一清潔な都政に」「希望を持てる東京へ」そして、小さく「猪瀬疑惑の解明」となっている。赤旗自身の解説記事欄には、知事選の意義を「国の悪政の防波堤に」「福祉優先に転換を」とされている。

まことにそのとおりだ。諸手を挙げて大賛成。ぜひ、そのような選挙を闘い抜いて、そのスローガンが結実する都政の実現を心から願う。「安倍政権の暴走ストップ」を「石原後継の暴走ストップ」と書き換えさえすれば、前回選挙の私の思いそのままである。家族総出で宇都宮君を応援した。その結果が、猪瀬圧勝と宇都宮惨敗であった。それだけでなく、宇都宮君自身の「人にやさしくない」本性と、コンプライアンスの欠如を知った。

「安倍政権の暴走ストップ」は、私の心から願うところ。しかし、宇都宮君にはその力がない。単に選挙に勝つ見込みがないと言っているのではない。宇都宮君を候補者とした選挙では、その選挙を「安倍政権の暴走ストップ」の大きな運動とすることも、大きな運動のきっかけとすることもできない。

「暮らし第一清潔な都政に」も、誰もが願うこと。しかし、宇都宮君には、「清潔」を語る資格がない。君の道義性を欠いた汚い手口や、約束を反故にして平気な気質、そしてコンプライアンス欠如の姿勢には、目に余るものがある。むしろ、彼には大きなリスクがある。政党や市民団体が彼を推すことには、その大きなリスクを引き受けることの覚悟が必要だ。

再三申し上げているとおり、コンプライアンスの欠如には、宇都宮君だけでなく、選対に結集した各弁護士の責任も大きい。もちろん、私が責任を免れることもできない。自分の不明を恥じてお詫びする。そのうえで、私ができることは、こうして事実を明らかにして革新陣営の今後の選挙に警鐘を鳴らすこと、そして、私も含めて、前回選挙に深く関わったものは今回の選挙に関わるべきではないことを進言することだと思っている。

赤旗の記事の中には、党としての宇都宮君への支持表明の記事はない。慎重に避けている印象だ。前回宇都宮君支持を表明した政治勢力のうち、宇都宮君の支持を表明したものはない。よくお考えいただきたい。本当に、推すに値する候補者なのか。推して大丈夫な候補者なのかを。

問答無用で人を切るブラック選対である。問答無用でメンバーを騙し討ちにする「人にやさしい東京をつくる会」である。切られた痛みを訴える運動員の権利救済(名誉回復)を放置し、1年後に放り出した宇都宮君である。かれに、ブラック企業対策などできようか。弱者に優しい都政を期待できようか。宇都宮君と一緒に、ブラック企業批判など笑止の沙汰ではないか。

宇都宮陣営の選挙違反疑惑を自ら解明し摘発することのできない宇都宮君である。自分自身の選挙違反疑惑も抱えている。このような候補者と一緒に、「清潔な都政」を目指すというのは自己矛盾でしかない。「猪瀬疑惑」追及の以前に、「宇都宮疑惑」の追及の声があがるはず。宇都宮君には、徹底した猪瀬追及はできない。

本日の「毎日」社説が読み応えある。「民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう」というもの。その中の一節を引用する。

「民主主義とは、納得と合意を求める手続きだ。いつでも、誰でも、自由に意見を言える国。少数意見が、権柄ずくの政治に押しつぶされない国。それを大事にするのが、民主主義のまっとうさ、である。」

「『統治する側』が自分たちの『正義』に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見『強い国』に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。」

ここでは「国」が語られているが、あらゆる組織、あらゆる集団にあてはまる。私は、この社説の「統治する側」を「宇都宮君とその選対」に置き換えて読み込んで、我が意を得たりと、新春の笑みをこぼしている。

2014年の年頭。新しい時代を切り拓きたいと思う。なによりも、個の確立が必要だ。特定秘密保護法反対運動の中で確認したはずだ。束ねられた国民が国の主人公ではない。一人ひとりの個人こそが、民主主義政治過程の主人公だ。「政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら」、それは民主々義の風上にも置けない。

宇都宮君、君は敢えてそれをやってのけた。しかも、騙し討ちの手口で、だ。だから君は、革新統一の候補者としてふさわしくない。

だから、ご忠告申し上げる。宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2014年1月1日)

宇都宮健児君、立候補はおやめなさい?その11

大晦日である。4月1日に開設した当ブログ「憲法日記」は、1日の休載もなく年を越すこととなった。引越前の日民協ホームページ間借り時代の3か月間と併せて、この1年、それなりの水準の、「読んでいただくに値するもの」を書き続けてきたつもりだ。ひとえに、昨年総選挙の「自民圧勝」に危機感を覚えての、私なりに精いっぱいの改憲阻止の意思表示であり、運動への参加である。

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、そのうちのわずか11回に過ぎない。とはいえ、私の渾身の覚悟の表現である。私は、このシリーズでこれまで「憲法日記」に綴ってきた問題意識と無縁の些事を発言しているのではない。宇都宮君や選対メンバーだけに呼び掛けている訳でもない。憲法の理念を実現するための実践はどうあるべきかを考え訴えている。そして、宇都宮君が一日も早く立候補を断念して、もっと適格な革新統一の候補選定が進行することを願ってやまない。

今年を締めくくる今日、宇都宮君に立候補断念を求める理由と、私が宇都宮君に立候補断念を呼び掛ける意味についてこれまで述べてきたことを整理しておきたい。新たな事実の摘示や本格的な意見の叙述は新年にまわすことにする。当然のことながら、「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、同君の立候補断念の確認まで、年を越しても続くことになる。

彼が、今回の都知事選に、革新統一(あるいは革新共闘)候補者としてふさわしくない理由を4点にまとめて確認しておく。

(1)宇都宮君は都知事選候補者としての資質・能力に著しく欠け、まったく勝ち目のない候補者である。
(2)宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
(3)彼は、薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口を辞さない。清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、ふさわしくない。
(4)前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑があって推薦者にも責任が及ぶことになる。

(1) 前回の96万余票の宇都宮君の得票を「善戦」と評価する向きがあるが、正確に「大敗」「惨敗」と言わねばならない。共闘候補としての相乗効果をまったく生かせず、支持政党の基礎票の合計数さえ得票できなかった原因には、候補者の選択の誤りが大きかった。彼には、有権者を惹きつける魅力がない。論争力もない。しかも、前回惨敗のイメージが余りに強い。勝てる見込みがないというレベルではなく、およそ最初から勝負にならないことが分かりきった候補者なのだ。どんな立派な政策を旗印にしたところで、陣営の勢いも元気も出るはずがない。
 今、本気で彼を素晴らしい候補者だとは言う者はさすがに見あたらない。しかし、「彼しか立候補者がいないのだからしょうがない」「立つことを決めたら推すしかないだろう」という雰囲気。そんな候補者でよいのか。しかも、彼の立候補の不自然な唐突さは、他の革新陣営からの立候補者選任の動きに先手を打って、牽制する形で行われている。到底、宇都宮君が革新統一の候補者として適格であるはずがない。

(2) 宇都宮君は、弱者の立場に寄り添おうという誠実さに欠けている。そもそも彼を人権派弁護士と呼ぶべきではない。だから、「勝てないとしても推すべき候補」との評価もなしえない。
弱者の側から権利侵害の訴えがあったときには、まず「被害者」の側に寄り添って、その言い分に十分に耳を傾けなければならない。それが人権派たる者の基本姿勢。そのうえで、「加害者」の側の言い分を批判的に検討して、解決策を探らなければならない。前回選挙の最終盤で生じた、二人のボランティア運動員に対する「随行員任務外し」の訴えには、真摯に耳を傾けるべきが当然であった。しかし、宇都宮君は、その訴えを真摯に聞こうとはしなかった。「せめて企業に不祥事があった際に設けられる第三者委員会なみの、公正な三面構造を作って自分たちの訴えを聞いて欲しい」という当事者の要求すら、彼は斥けた。そして、公衆の面前で「このまま放置しません。何とかします」と約束しながら、結局問題を1年間放置して何の解決もせずに放り出した。
彼は、「二人を切ったのは選対がやったことで、自分は知らない」という姿勢のようだが、自分の選対だという自覚に欠ける。また、事後の権利救済(名誉回復)の訴えには解決を約束し、責任をもつ立ち場にあった。彼も、「秘書が」「妻が」「事務局長が」と言い逃れする人物と同列なのだろうか。

(3) 12月19日の夕方に20日午後9時からの会議を設定して、議題は伏せておいて、口裏を合わせた運営会議メンバーによって、事実上の澤藤解任決議の「騙し討ち」をしたことは、既に詳細にお知らせした。これに対する各自の評価において倫理性が問われている。こんな道義に欠けた候補者を推薦できるのだろうか。
彼がやってのけた薄汚い「騙し討ち」の姑息な手口は、清廉潔白、正々堂々でなくてはならない革新統一候補者として、まったくふさわしくない。道義性に問題のある候補者の推薦は、推薦する政党・政治勢力・市民団体、各個人の責任を生じる。推薦者自身の道義性が問われることになる。

(4) 前回選挙において、彼と彼の取り巻きのした行為には下記の公職選挙法違反の違法(犯罪行為)の疑惑がある。仮に彼が当選した場合には、今度こそ百条委員会が成立して、その追及の場で脂汗をかかなければならない危険な立ち場にある。このような疑惑を抱えた候補者を、天下の公党や、まっとうな労組、民主団体が責任をもって推薦できるだろうか。
その1は、宇都宮君自身の「運動員買収」疑惑。具体的内容は、自分が経営する法律事務所の事務職員を選対に派遣して給与を支給しながら選挙運動をさせた行為の違法の疑惑。
その2は、総括責任者(おそらくは選対事務局長)の選対本部長ら選挙運動員に対する「運動員買収」と、選対本部長ら選挙運動員の「被買収」疑惑。これは、外形的には選挙運動収支報告書と添付の領収書で明らかとなっている。
その3は、選対事務局長が勤務先からの給与を受領しながら、選挙運動を行っていた運動員「被買収」疑惑。
今回宇都宮候補を推薦する団体・個人にとっては、候補者や選対の違法行為の疑惑の存在は、決定的な推薦障害事由となるはず。道義的に問題というだけでなく、このような違法の疑惑を具体的に指摘されてなお推薦すれば、推薦者自身の有権者への責任が生じることになる。そのようなリスクを引き受けてでも宇都宮君を推薦する必要があるとは到底考えがたい。
宇都宮君は、その2、その3の疑惑については、「自分は知らない」、「事務局長が…」「選対本部長が…」というのだろうか。それも、みっともない話しだが、その1の疑惑については他に転嫁しての言い逃れはできない。

ところで、私の覚悟のブログに対して、理解を示してくれる人が多数いることはまことに心強い。しかし、予想されたとおりに批判の意見も当然にある。私は、その批判の意見を一蹴しようとは思わない。真剣に議論するに値する問題点を含んでいると思う。

まず、批判のパターンとして「大所・高所」論がある。「随行員の任務外しなど、大したことではない。もっと大所高所に立って、革新統一の選挙の成功に尽力すべきだ」というもの。

「大所・高所」論とは、弱者の権利救済をネグレクトし、泣き寝入りを強いることを合理化する論理だと私は思う。将の論理であって、兵の論理ではない。体制の側の論理であって、弱者の側の論理ではない。「大所高所」論には、個別の権利侵害に対する怒りで対抗しなければならないと思う。

よく似たものに、「利敵行為論」がある。「そんな内輪の争いをしていると、保守派に漁夫の利を得しめることになる」というもの。
不思議なことに、こんなことを口にする人々は、権利侵害をした「加害者側」にはものを言わない。必ず、弱い立場の「被害者」側に向かって、泣き寝入りを強いるのだ。これにも、反論しなければならないと思う。なによりも、「争い」という捉え方が間違っている。問題は、「争いがあること」ではない。「権利侵害があったのかどうか」なのだ。

「宇都宮君が立候補決意までの批判ならよい。しかし、立候補を決めたからには、もう批判をよして、彼を推すべきだ」という立論もあるようだ。これは、開戦以前のインターナショナリズムが、開戦とともにナショナリズムに転向した、あの敗北の思想だ。非常事態だからという「大政翼賛思想」でもある。また、自民党改憲草案にある「緊急事態には人権制約もやむを得ない」という、あの挙国一致の論理だ。

とにもかくにも「共闘の形を大切にしよう」という立論もあるようだ。弱者の権利侵害の訴えに耳を傾けようとしない候補者を推しての「共闘」に、何の価値があるというのだろうか。内実を伴わない形だけの共闘は、将来に繋がるものはない。

さらに、「私怨論」というべき批判がある。私が、自分の息子のことだから、怒っているのだという指摘だが、これが「批判」になり得ているのだろうか。不当な権利侵害があれば、被害者側に「私怨」「私憤」が生じるのは当然だ。「私怨」論は、傍観者の自己正当化の理屈でしかないだろう。「大所高所」論に対応するには、「私怨」「私憤」重視論である。私は、人権侵害を批判するには、被害者の「私怨」「私憤」に共感する感性が必要だと思う。これについては、自分でも考えを整理しつつ、おいおい記事にしてみたい。

これまでも繰り返したとおり、私の関心は「個の確立」と「個の確立を阻むもの」との対立構造とその克服にある。個の確立の敵は、国家権力だけではない。多重の階層をなしている集団、あるいはその多数派も個を圧迫する。その各階層の各集団に成立する「小さな権力」への抵抗なくしては、個の確立はない。

詳細は、越年してからのものとしたい。このブログの「おやめなさいシリーズ」は、まだまだ続く。だから、宇都宮君、都知事選への立候補はおやめなさい。
(2013/12/31)

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