澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「再雇用拒否第2次訴訟」控訴審でも教員側全面勝訴ー都教委方向転換のラストチャンスだ

昨日(12月10日)、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の関連事件で、「再雇用拒否第2次訴訟」の控訴審判決が言いわたされ、控訴人都教委の控訴が棄却された。またまたの都教委敗訴である。今や、都教委の敗訴はニュースバリューがない。世間の耳目を惹く大きな記事にならない。

社会面のトップに大きく報道した赤旗記事。まず見出しが賑やかだ
「都教委の『君が代』強制 司法が断罪 高裁も再雇用拒否は違法 都に賠償命令 原告『画期的判決』」

そして、リードは以下のとおり。 
「東京都立高校の元教員が、「君が代」斉唱時の不起立のみを理由に再雇用を拒否されたことは違憲であり、東京都と都教育委員会の「裁量権の逸脱・濫用」であるとして損害賠償を求めていた訴訟の控訴審の判決で、東京高裁(柴田寛之裁判長)は10日、一審判決を支持して都の控訴を棄却し、再雇用拒否は違法であり、採用された場合の1年間の賃金に相当する賠償(約5370万円)を都に命じました。」

この記事のとおり一審が教員側の全面勝訴(2015年5月25日)だった。このとき、弁護団の一人が、思わず「正義は必ず勝つ・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある」と迷文句を吐いた。これが率直な感想だったのだ。「憲法の原則からはわれわれこそが正義。われわれが裁判で勝たねばならない。しかし、必ずしも正論が通らないという司法の現実がある。乗り越えるべき壁は大きく高い。今日の判決は、その壁を乗り越えてようやく正義が勝った」という達成感吐露のニュアンスが滲み出ている。

一審判決当時のことは私の下記のブログを参照していただきたい。
  https://article9.jp/wordpress/?p=4927

一審は、教員側の全面勝訴だったから、教員からの控訴はない。全面敗訴の都教委(形式的には東京都)の側だけが、東京高等裁判所に控訴して口頭弁論1回で結審。そして、昨日の控訴棄却の判決となった。今度は弁護団は落ちついている。勝って当然という構えだが、実は内心は躍り上がって喜んでいる。同種の再雇用拒否を争った訴訟は、以前に4件ある。最終的にはいずれも敗訴なのだ。

都教委管轄下の教員に60歳定年制が導入されたのは、65歳の年金受給開始年齢までの5年間を、嘱託として再雇用されることの制度の創設という代替措置との引き替えだった。だから、よほどの事情のない限り誰もが希望すれば再雇用された。また、この再雇用ベテラン教師たちは、力量豊かな重要戦力として教育現場に期待もされたのだ。

ところが、「日の丸・君が代」強制に服しがたいとして職務命令違反による懲戒を受けた教員は、たった一回の戒告処分でも、「よほどの事情があった」と烙印を押されて再雇用を拒否されてくた。

石原慎太郎都政時代の教育行政は、江戸初期に踏み絵を発明した宗門改の役員さながらに、悪知恵を働かせた。「日の丸・君が代」不服従を根絶するために、懲戒処分に伴うあの手この手を編み出した。その種々のいやがらせのトップに君臨するものが再雇用拒否なのだ。

民間企業を被告とする労働事件の感覚では、職場慣行の立証だけで、簡単に勝てる事件。ところが、「再雇用は労働契約の延長にあるものではなく、新たな行政行為として行政の裁量に任される」という「理屈」が裁判所を縛った。

この件よりも以前の同種4件のうち2件は、一審から最高裁まですべて敗訴。残る2件は一審で勝ったが控訴審で負けた。最終的にはすべて敗訴で終わっている。労働者の権利よりも、行政の裁量を手厚く保護しようという馬鹿馬鹿しい判決である。

この先行4事例の最高裁が是認した判決の存在にもかかわらず、本件は一審で全面勝訴した。「でも、たまに勝つことがある」と迷文句の実感がお分かりいただけるだろう。そして、この度の初めての高裁勝訴判決である。

本年5月の一審判決は、東京地裁民事第36部(吉田徹裁判長)が言い渡したもの。
「再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期待権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。」という、画期的なもの。昨日の高裁判決も、この立場を是認し踏襲した。

しかも、先週(12月4日)言い渡しがあった東京「君が代」裁判第3次訴訟控訴審における第21民事部「中西茂判決」が、「本件不起立等は軽微な非違行為であるとか、形式的な非違行為であるということはできない」としたのに対して、昨日の第2民事部「柴田博之判決」は、「本件職務命令違反の非違性が,客観的な意味において重大であるなどと評価することはできない」「再雇用職員等の採用候補者選考の場面において,同事実の存在のみを理由に直ちに不合格等と判断すべき程度に重大な非違行為に当たると評価することはできない」としている。教員の訴えに耳を傾ける姿勢の有無の違いを印象づけている。

原告団・弁護団の声明を引用しておきたい。
本日、東京高等裁判所第2民事部(柴田寛之裁判長)は、都立高校の教職員ら24名が、卒業式等において「日の九」に向かつて起立して「君が代」を斉唱しなかつたことのみを理由に、東京都により定年退職後の再雇用職員ないし日勤講師としての採用を拒否された事件(平成27年(ネ)第3401号損害賠償請求控訴事件)について、東京都の採用拒否を裁量権の逸脱。濫用で違法とし、東京都に対し採用された場合の1年間の賃金に相当する金額の賠償を命じた1審東京地裁判決(2015年5月25日)を支持して、東京都の控訴を棄却し、東京都に対し1審同様の損害賠償を命じる判決を言い渡した。
1審に続き控訴審においても、原判決の判断を踏襲した他、東京都の主張をすべて排斥し、都教委の本件採用拒否を裁量権の逸脱・濫用にあたり違法であると認めたことは、都教委による10.23通達以後の「日の丸。君が代」の強制を司法が断罪し、これに一定の歯止めを掛けたものと評価できる。
本原告団・弁護団は、東京都が本判決を受け入れて上告を断念し、10.23通達に基づく「日の丸・君が代」強制などの諸政策を抜本的に見直すことを強く求めるものである。

この上告断念の要請に都教委はどう応えるだろうか。本日の東京「君が代」裁判4次訴訟閉廷後の報告集会では、都教委は上告受理申立の方針で、その承認を議会に諮っているという。またまた、恥の上塗りをしようというのだ。

乙武氏を含む都教委の面々に、本当にこれでよいのかと問い質したい。あなた方は上告受理申立の方針決定に関与しているのか。いったい、その職に責任をもって行動をしているのだろうか。まったく見えてこないのだ。

特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。これまで、私は中井氏に、「あなたはこれまでの都教委の違法の数々に責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末として、『これまでの都教委のやり方がよくなかった』と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の教育を抜本的に改善することができる。敗訴判決はそのチャンスだ。」と言ってきた。

しかし、おそらくはこれが最後のチャンスだ。この度の惨めなばかりの都教委敗訴判決は都教委反省の絶好機というだけでなく、あなたがイニシャチブをとって都教委の方向を転換する恰好の機会でもある。この判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。

「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員たち」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。しかも、ラストチャンスだ。ぜひとも間違えないようにしていただきたい。
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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、
クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。
ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
午後3時から東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月11日・連続第985回)

あなたが健康でありたいと願うなら、「健康食品」はおやめなさいー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第57弾

この私が被告とされ、6000万円の慰謝料請求を受けている「DHCスラップ訴訟」。その控訴審第1回弁論期日12月24日が近づいてきた。

何ゆえ私は被告にされ、6000万円の請求を受けているか。発端は、下記の3ブログである。これが違法な名誉毀損の言論だとされたのだ。何度でも掲載して、ぜひとも、多くの人に繰りかえしお読みいただきたい。はたして、私の言論が違法とされ、この社会では許されないものであると言えるのか。それとも民主主義政治過程に必要な強者を批判する言論として庇護を受けるべきものか、トクとお読みの上、ご判断いただきたい。

  https://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
  「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判 

  https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
  「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

  https://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
  政治資金の動きはガラス張りでなければならない

以上の私のブログの記事は、政治がカネで動かされてはならないという問題提起であるだけでなく、消費者問題の視点で貫ぬかれてもいる。

例えば、次のようにである。
「(『徳洲会・猪瀬』事件と、『DHC・渡辺』問題とを比較し)徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」
「DHCの吉田は、その手記で『私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した』旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。」(3月31日ブログ)

「たまたま、今日の朝日に『サプリメント大国アメリカの現状』『3兆円市場 効能に審査なし』の調査記事が掲載されている。『DHC・渡辺』事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買いとりたいからなのだと合点が行く。」
「サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、『官僚と闘う』の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。」
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。これが、おそらくは氷山の一角なのだ。」(4月2日)

「DHCの吉田嘉明は…、化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、『官僚と闘う』『官僚機構の打破』にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。」
「自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。」(4月8日)

私は、40年余の弁護士としての職業生活を通じて、一貫して消費者問題に取り組んできた。消費者問題を資本主義経済が持つ固有の矛盾の一つとして把握し、資本の利潤追求の犠牲となる市民生活の不利益を防止し、救済したいと願ってのことである。

もっとも、「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現については、ごく少数ながらも「少し言い過ぎではないか」「ややきつい断定ではないのか」という向きもあるようだ。しかし、これは消費者問題に関心を持つ者の間では、誇張でも言い過ぎでもない。まさしく、常識的な見解なのだ。

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい」は、もちろん、必ずしもDHCだけについてだけのことではない。数え切れないほどの「健康食品販売会社」「サプリメント販売業者」あるいはその業界に通有のことである。

健康食品業界の実態が「利潤追求目的だけの存在」「広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けている」ことを裏付ける政府報告を紹介しておきたい。先日、このブログで「フードファディズム」とサプリメント広告規制を論じた。フードファディズムとは、「特定の食品が特に健康によいと言うことはありえない」という穏やかな主張。本日ご紹介する報告は、「健康食品に安全性は保障されていない」「むしろ、危険なエビデンスがいっぱい」というものなのだ。さすがに、政府機関の報告だから、「健康食品おやめなさい」と結論をはっきりとは言わない。「健康食品摂取の際には、正確な情報に基づいてご自分の判断で」というにとどまっている。しかし、どう考えても、「あなたが健康を願うのなら、健康食品の摂取はおやめなさい」としか読めない。

当ブログは、本日を第1回として今後何度も執拗に、この政府報告と関連情報を紹介し続ける。DHCにダメージを与える目的というのではなく、消費者の利益のために健康食品業界全体と闘いたいということなのだ。

食品安全基本法にもとづく内閣府の審議会として、2003年7月内閣府に「食品安全委員会」が設置されている。「国民の健康の保護が最も重要であるという基本的認識の下、規制や指導等のリスク管理を行う関係行政機関から独立して、科学的知見に基づき客観的かつ中立公正にリスク評価を行う機関」とされている。

食品安全委員会は7名の委員から構成され、その下に12の専門調査会が設置され、職員60人のほかに、食品のリスク評価を行う専門家100人を擁しているという。

その食品安全委員会の「いわゆる『健康食品』の検討に関するワーキンググループ」が、このほど「『健康食品』の検討に関する報告書」をまとめて公表した。一昨日(12月8日)のことである。

このことの報道に気が付いた人は少ないのではないか。ネットでは毎日新聞が、12月9日朝刊の記事として下記を掲出している。
見出し「健康食品 リスクを公開 食品安全委員会」
本文「健康食品の摂取リスクなどを検討してきた食品安全委員会(佐藤洋委員長)は8日、「いわゆる『健康食品』に関する報告書」を公表した。これに合わせ「健康食品で逆に健康を害することもある。科学的な考え方を持って、食品を取るかどうか判断してほしい」とする異例の委員長談話を発表し、注意喚起した。同委員会の専門家グループでは、食品のリスク要因を主に▽製品▽摂取者▽情報−−の3点から分析した。その上で「健康食品は医薬品並みの品質管理がなされていない」「ビタミンやミネラルのサプリメントによる過剰摂取のリスクに注意」など、健康食品を選ぶ時に注意すべき項目を19のメッセージにまとめ、ホームページで公開している。」

この報道内容に誤りはない。しかし、いかにも通り一遍の報道。この報告書の重大性や衝撃性は伝わってこない。健康食品やサプリメントを摂取している人への警告という視点がない。広告料収入に頼り切っているメディアの弱みが露呈しているのではないかと勘ぐられてもやむを得まい。もっと大々的に、全メディアが報道すべきなのだ。

この報告書を作成したワーキンググループの13人は、すべて医師ないし自然科学の研究者。報告書は42頁の大部なもの。117の引用論文が掲載されている。内容は、きわめて意欲的なものだ。健康食品やサプリメントが、アベノミクスの「第3の矢」の目玉などという思惑に対する遠慮は微塵も感じられない。この内容が国民に正確に伝われば、健康食品会社もサプリメント業界も生き残れるとは到底考えられない。業界は顔面蒼白になってしかるべきなのだ。それだけの衝撃性を持っている。

この報告書の要約版として「いわゆる『健康食品』に関するメッセージ」が同時に公表され、具体的な「19のメッセージ」が掲載されている。参考とするには、これが手頃だ。さらに食品安全委員会は分かり易い21問の「Q&A」まで作っている。その意気込みがすばらしいと思う。

ぜひとも、下記のURLをクリックして、「報告書」「メッセージ」「Q&A」をご覧いただきたい。これを読めば、健康食品やサプリメントを買おうという意欲はなくなるはずだ。「これまで払った金を返せ」とも言いたくなるだろう。
  https://www.fsc.go.jp/osirase/kenkosyokuhin.html

「DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。」「スポンサー(DHC)の側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。」などという表現が、けっして「少しも言い過ぎではなく」、「きつい断定というのも当たらない」ことを理解していただけよう。私の見解は、「消費者問題に関心を持つ者」だけの意見ではなく、政府の審議会報告に照らしても、「誇張でも言い過ぎでもない」、まさしく常識的な見解なのである。この報告書の具体的内容については、後日詳細に報告したい。

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   12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、午後3時から東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月10日・連続第984回)

自民党改憲草案「緊急事態」条項は、立憲主義崩壊へのレッドカードだ

梓澤和幸・岩上安身・私、3名の共著『前夜?日本国憲法と自民党改憲案を読み解く・増補改訂版』(現代書館)が刷り上がった。発行日は2015年12月20日となっているその書物のお披露目の集会が本日あって、サインセールなどという慣れないことに手を染めた。150冊に自分の名前を書くのはひと仕事だった。

黒い帯に「危険な緊急事態宣言条項の導入を画策する 自民党のトンデモ改憲案は許さない」の白文字。この帯を外して裏返すと、雨に濡れても丈夫だというつくりのミニプラカードになっている。
このプラカードに、
「自民党改憲案・緊急事態宣言条項は 許さない」
の大きな文字。

この書は、戦争法「成立」が立憲主義を大きく傷つけた事態を踏まえて、さらに来夏の参院選が明文改憲への道を開きかねない重要な政治戦であることを強調している。そしてその明文改憲の具体的なテーマとして「緊急事態」条項に着目している。これが攻防の焦点となり得るとして警鐘を鳴らしているのだ。

自民党改憲草案は、「第9章 緊急事態」を新設し、現行日本国憲法にはない、次の2か条をおいている。

☆改憲草案「第9章 緊急事態」
「98条 緊急事態の宣言
1項 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる

99条 緊急事態宣言の効果
1項 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
3項 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。」

自民党の改憲草案「Q&A」は、第99条3項をつぎのように解説している。
「現行の国民保護法において、こうした憲法上の根拠がないために、国民への要請は全て協力を求めるという形でしか規定できなかったことを踏まえ、法律の定める場合には、国民に対して指示できることとするとともに、それに対する国民の遵守義務を定めたものです。」
自民党改憲草案は、「国家の権限強化」と「国民の遵守義務」が大好きなのだ。

東日本大震災の経験を経て、なんとなく、この「国家の権限強化」と「国民の遵守義務」の創設を許容する雰囲気がありはしないだろうか。

本日の「前夜・増補版」サインセールとなった集会は、主としてこの改憲草案「緊急事態」条項をめぐる議論として設定された。私も、冒頭次のようなレポートをした。

※国家緊急権(規程)は、支配層にとって喉から手の出るほど欲しいものなのだ。
 緊急事態条項は、国家緊急権といわれるものの一態様。戦時・自然災害・その他の非常時の際に、憲法の例外体系を形づくって立憲主義を停止しようというものである。
 言うまでもなく、集中した強い権力は人権尊重理念の敵対物である。人権を擁護するために、権力を規制してその強大化を抑制するのが立憲主義なのだから、国家緊急権は、立憲主義を崩壊せしめて強大な権力を作るための恰好の武器なのだ。もちろん、改憲草案の「緊急事態条項」もそのようなものである。

※明治憲法下では、戒厳大権・非常大権・緊急勅令・緊急財政処分権限の明文規定が手厚く保障されていた。支配者にとって、これでこそ「皇国の安全が保持される」というもの。

☆大日本帝国憲法の国家緊急権規程
第14条(戒厳大権)
 1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
 2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム  
第31条(非常大権)
  本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第8条(緊急勅令)
 1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第70条(緊急財政処分) 
 1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得

※ヒトラーのナチス政権は、全権委任法(授権法)を制定して、政府が立法権を乗っ取った。
☆ナチスドイツの全権委任法(授権法)とは、正式名称を「民族および国家の危難を除去するための法律」(1933年3月23日成立)という。その条文は、全5条。主要な内容は以下のとおり。
「ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。」「ドイツ政府によって制定された法律は、国会および第二院の制度そのものにかかわるものでない限り、憲法に違反することができる。」「ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。」

この法は、1933年から1945年まで猛威を振るった。この13年間に、政府が国会を通さずに作った法律が985件、国会が憲法本来の手続で作った法律は僅か8件だったという。緊急事態法が、立法権を乗っ取ったのだ。この緊急事態法によって、議会制民主主義は死滅した。

※「日本国憲法」は、そのような歴史の教訓を踏まえて、国家緊急権(規程)の一切を駆逐した。
最も徹底した人権保障システムとしての日本国憲法は、人権保障のダブルスタンダードを認めず、例外の体系を作らなかった。また、戦争放棄条項は、戦時の憲法体系を想定する必要がなく、国家緊急権(規程)は無用の長物なのだ。

※自民党改憲草案「第9章 緊急事態」は、大日本帝国か、第三帝国への回帰現象にほかならない。
自民党改憲草案の98条・99条が、旧憲法の緊急勅令制度にも、ナチスの全権委任法にも、瓜二つであることに留意しなければならない。

安倍政権は、旧天皇制政府の戒厳・非常大権規程が欲しいのだ。これは、「戦後レジームからの脱却」の重要テーマの一つである。また、ナチスの全権委任法のような「便利なものがあったらいいな」と思っているのだ。これが、「ナチスの経験に学びたい」のホンネではないか。
しかも、緊急事態に出動して治安の維持にあたるのは改憲草案では、「自衛隊」ではない。堂々の「国防軍」なのである。

※緊急事態条項は、トランプの12×4の安定した秩序の外にあって、1枚で他の48枚の秩序を破壊するジョーカーにたとえられる(大江志乃夫「戒厳令」岩波新書)。このジョーカーの最悪の使用例がナチスの全権委任法だった。

結論として、自民党改憲草案による「緊急事態」条項は
濫用なくても、「戦争する国家」「強力な権力」「治安維持体制」をもたらす。
しかも、その濫用の歯止めは期待しがたく、その濫用の危険は立憲主義崩壊につながる具体的なおそれがあると言わねばならない。来夏の参院選、何としても改憲阻止の結果を出さねばならないと切に思う。
(2015年12月9日・連続第983回)

太平洋戦争開戦の日から74年。再びの戦争を起こさない決意を込めて。

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、こちらは「本郷・湯島9条の会」です。東京母親大会連絡会の方もご一緒に、昼休み時間に平和を守るための訴えをさせていただいています。少しの時間、耳をお貸しください。

今日は12月8日、私たちがけっして忘れてはならない日です。74年前の今日の午前7時、NHKは突然臨時ニュースを開始しました。このときが、NHKの代名詞ともなった初めての「大本営陸海軍部発表」。「帝国陸海軍が本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という、このニュースで国民は日本が米英と戦争に突入したことを知らされたのです。

日曜日の真珠湾に、日本は奇襲をかけました。向こうから見れば、宣戦布告のない卑怯千万なだまし討ち。その戦果は、戦艦2隻を轟沈、戦艦4隻・大型巡洋艦4隻大破、そして2600人の死者でした。この報に日本は沸き返りました。戦争は確実に国民の支持を得たのです。

戦後東大総長になった南原繁は、開戦の報を聞いたときに、こんな愚かな「和歌」を詠んでいます。
  人間の常識を超え学識を超えて おこれり日本世界と闘ふ
この人の学問とは、いったい何だったのでしょうか。政治学者である彼は、何を学んでいたのでしょうか。

1931年の「満州事変」から始まった日中戦争は当時膠着状態に陥っていました。中国を相手に勝てない戦争を続けていた日本は、新たな戦争を始めたのです。今でこそ、誰が考えても無謀な戦争。これを、南原だけでない多くの国民が熱狂的に支持しました。

戦争は、すべてに優先しすべてを犠牲にします。この日から灯火管制が始まりました。気象も災害も、軍機保護法によって秘密とされました。治安維持法が共産党の活動を非合法とし、平和を求める声や侵略戦争を批判する言論を徹底して弾圧しました。大本営発表だけに情報が統制され、スパイ摘発のためとして、国民の相互監視体制が徹底されていきます。

ご通行中の皆さまに、赤いチラシと白いチラシを撒いています。赤いチラシは「赤紙」といわれた召集令状の写です。本物を写し取ったもの。世が世であれば、これがあなたの家に配達されることになるのです。イヤも応もなく、これが来れば戦地に送られることを拒めません。それが徴兵制というもの。

赤いチラシが74年前の社会を思い出すためのもので、白いチラシは現在の問題についてのものです。安倍内閣が憲法を曲げて、無理矢理通した「戦争法」についての解説で、中身は以下のとおりです。

戦争法(安保法制)とは何か
戦争法とは何でしょうか。日本が海外で戦争する=武力行使をするための法律です。地球上のどこでも米軍の戦争に参戦し、自衛隊が武力行使する仕掛けが何重にも施されています。1945年以来世界の紛争犠牲者は数千万人に上り、第二次世界大戦の死者に匹敵します。そのなかで自衛隊は1954年の創設以来、敵との交戦で一発の弾丸を撃つこともなく、一人の戦死者も出さず、一人の外国人も殺してきませんでした。これこそ憲法9条があったおかげです。

来年の3月に戦争法(安保法制)が施行(実施)されます
 戦争法の実施で、真っ先に戦場に行くのは若い自衛隊員です。放置すれば、現在の子どもが大人になるころ、海外での戦闘態勢はすっかり整ってしまいます。ドイツは侵略戦争を禁じた憲法解釈を1990年に変え、2002年アフガニスタンに派兵して55人の戦死者を出し、多くの民間人を殺傷しました。そのドイツが今、対ISの後方支援という名で1,200人派兵することを決定しました。
 そして、憲法9条を無視して戦争法(安保法制)を成立させ実行に移そうとしているのが今のわたしたちの国、日本なのです。

戦争法でテロはなくせません
 ISは、2003年に始まったイラク侵略戦争と2011年からのシリア内戦で生まれ、勢力を拡大してきました。イラク戦争の当事者であるブレア元英国首相は「イラク戦争がISの台頭につながった」と認めています。このことを認めながら英国は、パリ同時多発テロを契機に今シリアの空爆を始めました。わが国においても、戦争法によってISに空爆をおこなう米軍などへの兵站支援が可能になりました。

日本が米国から空爆支援を要請されたら、「法律がない」と言って拒否することはもうできません。今こそわたしたちが戦争法(安保法制)に反対し平和な日本、そしてアジア・世界に 向かって日本国憲法第9条を旗印に平和な日本・世界を実現しようではありませんか

今日12月8日は、なぜ日本は戦争を始めたのか、なぜあの無謀な戦争を止められなかったのか。そのことを真剣に考え、語り合うべき日だと思います。日本人の戦没者数は310万人。そして、日本は2000万人を超える近隣諸国の人々を殺害したのです。戦争が終わって、国民はあまりに大きな惨禍をもたらしたこの戦争を深く反省し、再び戦争をするまいと決意しました。まさしく、今日はそのことを再確認すべき日ではありませんか。

戦争は教育から始まる、とはよく言われます。戦争は秘密から始まる。戦争は言論の弾圧から始まる。戦争は排外主義から始まる。新しい戦争は、過去の戦争の教訓を忘れたところから始まる。「日の丸・君が代」を強制する教育、特定秘密保護法による外交・防衛の秘密保護法制、そしてヘイトスピーチの横行、歴史修正者の跋扈は、新たな戦争への準備と重なります。さらに戦争法による集団的自衛権行使容認は、平和憲法に風穴を開ける蛮行なのです。再びの戦争が起こりかねない時代の空気ではありませんか。

これ、すべてアベ政権のやって来たこと、やっていることです。先ほど、本郷・湯島九条の会の会長が初めて、ここでの演説をおこない、憲法と平和を守るために、アベ政治を許してはならないという訴えをされ、大きな拍手が起こりました。

地元9条の会は、今年一年間、毎月第2火曜日のこの場での宣伝活動を続けてきました。今年は今回で終了です。しかし、年が明けたらまた続けます。「戦争法廃止、立憲主義・民主主義を取り戻す」たたかいは、安倍政権を退陣させ、わが国が9条を復権させるまで、続けざるを得ません。そして来年こそは、しっかりと平和な日本を確立する大きな一歩を踏み出す年にしようではありませんか。ご静聴ありがとうございました。
(2014年12月8日・連続第982回) 

敢えて「皇室タブー」に切り込む心意気ー「靖国・天皇制問題 情報センター通信」

月刊「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の通算507号が届いた。
文字どおり、「靖国・天皇制問題」についてのミニコミ誌。得てしてタブー視されるこの種情報の発信源として貴重な存在である。しかも、内容なかなかに充実して、読ませる。

[巻頭言]は、毎号「偏見録」と題したシリーズの横田耕一(憲法学者)論稿。回を重ねて第52回目である。長い論文ではないが、いつもピリッと辛口。今回は「なんか変だよ『安保法制』反対運動」というタイトルで、特別に辛い。

論稿の趣旨は、「本来自衛隊の存在自体が違憲のはず。武力を行使しての個別的自衛権も解釈改憲ではないか。」「にもかかわらず、集団的自衛権行使容認だけを解釈改憲というのが、『なんだか変だよ』」というわけだ。表だってはリベラル派が言わないことをズバリという。天皇・靖國問題ではないが、タブーを作らない、という点ではこの通信の巻頭言にふさわしい。

要約抜粋すれば以下のとおり。
「かつての憲法学者の圧倒的多数の9条解釈は、一切の戦力を持たないが故に自衛隊は違憲であり、したがって個別的自衛権の行使も違憲とするものであった。この立場からすれば、『72年見解』などは政府による典型的な『解釈改憲』であり、『立憲主義の否定』であった。
 ところが、いまや、現在の反対運動のなかでは、共産党や各地の9条の会などに典型的に示されているように反対論の依拠する出発点は『72年内閣法制局見解』にあるようで、それからの逸脱が『立憲主義に反する』として問題視されている。したがって、そこでは自衛隊や日米安保条約は合憲であることが前提とされている。過去の『解釈改憲』は『立憲主義に反しない』ようである。
 自衛隊・安保条約反対が影を潜める一方、国際協力のために自衛隊が出動することまで認める改憲構想がリべラルの側からも提起され、各地の反対運動で小林節教授が『護憲派』であるかのごとく重用されている現在の状態は、果たして私たちが積極的に評価し賛同・容認すべきものだろうか。私の最大の違和感の存するところである。」

このミニコミ誌ならではの情報を二つご紹介しておきたい。
まずは、「新編『平成』右派事情」(佐藤恵実)の「OH! 天皇陛下尊崇医師の会会長」の記事。

東京・六本木の形成外科・皮膚科の開業医が、向精神薬を不正に販売したとして,麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕された。厚生労働省の麻薬取締部は、この医師は中国の富裕層向けに違法販売を繰り返したと考えている模様、というそれだけのニュース。その医師は、「天皇陛下尊崇医師の会」会長なのだそうだ。

そんな団体があることも驚きだが、この医師と医院の〈関連団体一覧〉が掲載されている。「とくとご覧あれ」とされている。。

靖國神社を参拝する医師の会会長・社団法人神社本庁協賛医療機関・日本会議協賛医療機関・宮内庁病院連携医療機関・東京都医師政治連盟会員・自由民主党協賛医療機関・大日本愛国医師連合会長・日本国の領土「竹島」「北方領土」を奪還する愛国医師の会会長・一般財団法人日本遺族会協賛医療機関・毎上自衛隊協賛医療機関・天皇陛下尊崇医師の会会長・アジア太平洋地区米国海軍病院所属米国海兵隊軍医トレイニーOB・麻布警友会協賛医療機関・全日本同和会東京都連合会協賛医療機関・創価学会協賛医療機関・同和問題企業連絡会(同企連)協賛医療機関・警察友の会協賛医療機関・公益財団法人警察協会協賛クリニック・日米安会保障条約賛同医療機関・米国海軍病院連携クリニック・註日アメリカ合衆国大使館連携医療機関・日本の領土を守るため行動する議員連盟協賛クリニック・公益財団法人日本国防協会協賛医療機関・六本木愛国医師関東連合会長・六本木愛国医師ネットワーク事務局日本国体学会。

もう一つは、「今月の天皇報道」(中嶋啓明)。「Xデーも近いのに、何ゆえ天皇夫妻はフィリピンまで行くのか」という内容。
「明仁は、8月15日の全国戦没者追悼式で段取りを間違えた。参加者の『黙祷』を待たずに『お言葉』を読み上げたとされている。富山で行われた『全国豊かな海づくり大会』では、式典の舞台上で列席者を手招きしてスケジュールを確認し、式の進行が一時、ストップする場面があったという。いずれも高齢化が引き起こす一時的な軽度の認知障害なのだろうが、『デリケートな問題』だとして、在京の報道機関は報道を見送ったという。確かに東京でその記事を見ることはなく、地元地方紙の『北日本新聞』と『富山新聞』でほんわずか報じられただけだった。
 Xデーも間近と思わせる中、それでもまだ、支配層にとっての明仁の利用価値は高い。明仁は美智子と共に来年早々、高齢で体調不安を抱えながらフィリピンを訪問することが発表された。最高のパフォーマンスの裏に秘められた『真の狙い』とは。
元朝日新聞記者で軍事ジャーナリストの田岡俊次が月刊誌『マスコミ市民』の15年10月号に『国会審議もなく進むフィリピンとの「同盟関係」の危険性』と題して書いている。ここで田岡は『政府が国会にもかけずにフィリピンとの同盟関係に入りつつあるという重大な異変がほとんど報じられない』と嘆くのだ。田岡の論考などによると、日比間の防衛協力は民主党の野田政権下で始まった。2011年9月、当時の首相野田佳彦がフィリピンのアキノ大統領との会談で『両国の海上保安機関、防衛当局の協力強化』を約束。それを引き継いだ現首相安倍音三は13年7月、マニラでのアキノ大統領との会談で小型航洋巡視船10隻をODAにより無償供与することを表明した。そして今年6月には東京での会談後、中国が南シナ海で進める人工島建設に『深刻な懸念を共有する』共同宣言を発表した。日本が供与する巡視船は、政府自身も『武器に当たる』ことを認めており、共同宣言には『安全保障に開する政策の調整』や『共同演習・訓練の拡充を通じ相互運用能力の向上』を図ることが表明されている。災害時の救援を口実に派遣される自衛隊の法的地位についての検討を開始することも盛り込まれ、田岡は、日比関係が限りなく同盟関係に近づきつつあると指摘する。
日本は、中国包囲網を築く上での重要なパートナーの一国として、フィリピンとの軍事的な関係の強化に勤しんでいるのだ。明仁、美智子の訪問計画の裏には、日比間のこうした関係を権威付けたいとの安倍政権の狙いがあることは明らかだ。」

最後に、もう一つ。「歌に刻まれた歴史の痕跡」(菅孝行)が、毎回面白い。
今回は、「ラマルセイエーズ」について、歌詞の殺伐と、集団を団結させる魔力に溢れた名曲とのアンバランスを論じたあと、こう言っている。

「君が代と違っていい曲に聴こえるのは、他所の国の国歌であるために気楽に歌えるからともいえるが、やはり音楽性の質の高さによるものだろう。革命が生んだ国歌は、革命がその質を失い堕落した後でも、困ったことに歌だけは美しい。アメリカ国歌もその例に洩れない。ラフマニノフがピアノ曲にしたという。ダミー・ヘンドリクスがウッドストックで演奏して評判になった。名曲といえば、旧ソ連の国歌も心に染みる名曲である。ただ、こうした曲の〈美しさ〉は、保守的な感性に受け入れやすいということと結びついていることを忘れてはならない。」
「ダサイ国歌『君が代』は大いに問題だが、同時に美しい国歌が『国民』を動員する『高級な』装置であることに警戒を怠るべきでない。『ラ・マルセイエーズ』はナショナリズムだけでなく、『高級で文明的な』有志連合国家の団結も組織した。高級で文明的なものほど野蛮だというのは、軍事力だけの話ではない。動員力のある音楽もまた同じである。そういえば『世界に冠たるドイツ』なんていう歌もあった。」

なるほど、君が代は、ダサイ国歌であるがゆえに、集団を鼓舞し団結させる魔力に乏しいという美点を持っているというわけだ。このような指摘も含めて、「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の記事はまことに有益である。
(2015年12月7日・連続第980回)

「フードファディズム」とサプリメント広告規制ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第56弾

先日、私の母校である私立の高等学校が創立60周年を迎え、記念の同窓会を催した。久しぶりに懐かしい友人たちと旧交を温め、それぞれが近況を報告することになった。私はもっぱらDHCスラップ訴訟の経過を話題にした。もちろん、私の旧友は私の味方だ、口を揃えて「吉田嘉明とはひどい奴だ」「DHCがそんな会社とは知らなかった」と大いに憤慨してくれた。この友たちが、またどこかでDHCの所業を口コミで伝えてくれるに違いない。

その場に居合わせたなかに、国立大学で食品科学を教えていた旧友がいた。「調理を科学する」という幸せな研究生活を送って今は名誉教授になっている。私は彼に、「DHC・吉田が私を提訴したのは、健康食品・サプリメント販売の規制緩和問題が絡んでいる」ことを説明した。「吉田嘉明が渡辺喜美に対して、8億円ものカネを提供したのは、DHCのサプリメントを規制なく売って儲けを拡大したいからだ」と私はブログに書いた。そのことが吉田の疳に障って、6000万円の慰謝料請求の原因にされていることを話した。

その彼から、このことに関連した基礎的概念として「フードファディズム」という用語と、その提唱者である高橋久仁子群馬大学教授の存在を教えられた。不明にも、私はこの言葉自体を知らなかった。不思議なもので、教えられると「フードファディズム」なる用語にはその後たびたびお目にかかるようになっている。

「フードファディズム」とは、特定の食べ物や栄養が、健康や病気に与える影響を過大に評価したり信じたりする社会心理現象を言うようだ。巷に溢れる「あやしい食の情報」に消費者の食生活が振り回されている現象を否定的に捉えて、こんなことのないようにと警告を発するために提唱された概念と考えられる。

「納豆を食べるとやせられる」「ココアが高血圧や貧血に効く」「ニガウリが血糖値を下げる」「バナナがよい」「○○が△△に効く」という類の過剰な似非科学情報に踊らされる消費者に、しっかりした消費者マインドと広告リテラシーを持てと警告を発する際に、これは「フードファディズム」だ、という言葉が用意されていることはたいへんに説明に便利なのだ。ちょうど、DHC・吉田嘉明の私に対する提訴を「スラップ訴訟」と表現することで、説明の手間が省け明確なイメージが浮かぶようにである。

「フードファディズム」という概念提唱の前提には、「適当な量を守り適切な食事法を行っていれば、ある特定の食品を摂取した結果、急激に体によい状態、あるいは悪い状態になることはない」という経験科学の知見がある。

高橋久仁子・群馬大学教授によれば、フードファディズムとはアメリカで育った概念なのだそうだが、日本の社会には、フードファディズムが容易に蔓延する土壌が調っているという。まったく同感だ。

当然のことであるが、多くの人の健康志向や美容願望に付け込んでフードファディズムを煽るのは、これを売って儲けようという輩である。そして、一部のメディアがその提灯を持つ。企業の利益のために消費者の食生活に無用無益の混乱をもたらすもの、それがフードファディズムという現象なのだ。

これも当然のことながら、フードファディズムは、狭義の食品だけを問題にしているのではない。健康食品・栄養補助食品・サプリメントと言われる食品関連商品をも警告の対象としている。もしかしたら、こちらの方が弊害が大きく、それゆえメインターゲットなのかも知れない。

健康食品・サプリメントなるものが、気休め以上の効果のないことは常識と言ってよいだろう。少なくとも、科学的検証に堪える効果が確認できて、金を払っても摂取すべきほどの効果はあり得ない。

下記は、手近で手頃な情報源としてのウイキペディアからの引用である。
「健康食品は、健康の保持増進に役立つものであると機能が宣伝され販売・利用されることで、学術的な認識とは独立して社会的な認識においては他の食品と区別される一群の食品の呼称である。健康食品の一部は行政による機能の認定を受け『保健機能食品』と呼ばれるが、それ以外では効果の確認及び保証はなされない。また業界団体である日本健康・栄養食品協会は(旧)厚生省の指導により規格基準を設定し、1986年より『健康補助食品』の認定マーク(JHFAマーク)を発行している。『いわゆる健康食品』や『健康志向食品』などの用語も使用される。『サプリメント』も健康食品に含まれるが、2013年12月にはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授をはじめとする医師らが医学誌アナルズ・オブ・インターナル・メディシン誌上にビタミンやミネラルなどのサプリメントは健康効果がなく、十分な栄養を取っている人にはむしろ害になる可能性があるという研究結果を発表した。」

要するに、健康食品には、限定された「行政による機能の認定を受けた保健機能食品」以外に健康によいというエビデンスはない。むしろ、「サプリメントは健康効果がなく、十分な栄養を取っている人には害になる可能性がある」とエビデンスがあるというのだ。

そのエビデンスとは、下記のとおりである。
「2013年12月にはアメリカのジョンズ・ホプキンス大学の教授をはじめとする医師らが医学誌アナルズ・オブ・インターナル・メディシン誌上に栄養不足のない人にはビタミンやミネラルのサプリメントをとっても慢性疾患の予防や死亡リスクの低減効果はなく、一部の疾患リスクを高める可能性があるという研究結果を発表した。論文によれば、栄養が十分な人においては、心臓血管疾患、心筋梗塞、ガン、認知症、言語記憶、そのいずれに対してもビタミンやミネラルのサプリメントは予防効果はなく、ベータカロチンが肺がんリスクをむしろ高める可能性や、ビタミンEや高容量のビタミンAの摂取が死亡率を高める可能性などを示唆し、それらのサプリメントに明確な利益はなく、有害であるかもしれないとした。ビタミンDに関しては、不足している人にとっては有意な効果がある可能性もあるが、現在は利益が害を上回るという確かな根拠に基づかずに使用されているとした」

以上のとおりサプリメントに効能のエビデンスはない。むしろ害になる可能性さえある。にもかかわらず、あたかも大きな効能ある如き誇大な宣伝がメディアに満ち満ちているのが現実であることは周知の事実。

どの宣伝も、まずは「具体例の効能」を写真入りで大書する。そして、小さな字で、「※コメントは個人の感想です。効果・実感には個人差があります。」(DHCのホームページより)と書き加えるのが定番の手法。

さらに、こんなことも、小さな字で書き加えられる。
「※お名前はご本人の希望により仮名にしてあります。」(DHCのホームページより)

このような宣伝手法にどう対処すべきか。消費者の立場から規制を強化すべきか、あるいは企業の立場に立って規制を緩和すべきなのか。これは優れて消費者問題なのだ。

発達した大量消費社会においては、個々の消費者は大企業に欲望までもが操られた存在となる。高度な企業戦略によって洗練された広告の手法は、消費者の消費意欲を喚起し、不要な商品まで買わされる。場合によっては害になる可能性さえある商品までもなのだ。健康食品・サプリメントはその典型といえよう。

薬事行政・食品行政、そして消費者行政は、恣意に流れると危険であるがゆえに、健康食品・サプリメント企業の行為を規制しなければならない。それは経済的規制とは区別された、弱い立場にある国民の生命・健康や財産を護るために必要な社会的規制である。規制は悪、官僚と闘う、などとして、この必要な規制を緩和してはならないのだ。

DHCスラップ訴訟は、企業の利潤追求の立場から、私のような消費者サイドに立つ意見を封殺しようという側面を持っている。消費者問題としても、私はDHCスラップ訴訟に負けてはならないのだ。
(2015年12月6日・連続第979回)

「再び教え子を戦場に送らない決意宣言」としての『君が代』裁判

昨日(12月4日)、東京「君が代」裁判・第3次訴訟での控訴審判決があった。
この控訴事件は、本年(15年)1月16日東京地裁判決(佐々木宗啓裁判長)を不服として、原告教員側と被告都教委側の双方が控訴していたもの。東京高裁第21民事部(中西茂裁判長)は、一審原告一審被告双方の控訴を棄却した。つまりは一審判決のとおりとしたのだ。その内容と、獲得した成果・問題点を確認しておきたい。

石原慎太郎都政第2期の2003年、悪名高い「10・23通達」が発令された。以来、都内の都立校・区立校では、卒業式・入学式などの学校儀式において、起立しての「君が代」斉唱職務命令が発せられ、これに違反すると懲戒処分となる。既に、その処分件数は474件に達している。

懲戒処分を受けた都立高校・都立特別支援学校の教職員が、東京都教育委員会を被告として処分の取り消しを求めた一連の訴訟が、東京「君が代」裁判。その第3次訴訟は、2007?09年の処分取り消しを求めて10年3月に提訴。都立校教職員50人の集団訴訟で、処分の取り消しと精神的苦痛に対する慰謝料(各55万円)の支払いを求めたもの。

一審判決は、最も軽い戒告処分については取消請求を棄却したが、26人31件の減給(29件)・停職(2件)の処分をいずれも重きに失するとして懲戒権を逸脱・濫用した違法を認め、これを取り消した。但し、慰謝料請求はすべて棄却となっている。

26人31件の処分取消という被告都教委の敗訴は大失態であるが、都教委が控訴したのは敗訴した29件の敗訴処分の内の5件についてのみ。残る24件の処分については控訴しても勝ち目ないとして一審の取消判決を確定させた。都教委は、都教委の目から見て特に職務命令違反の態様が悪いとする5件について未練がましく控訴をしてみたということなのだ。

昨日の判決は、その5件全部について控訴の理由なしとして一蹴した。この都教委の控訴がすべて棄却されたことの意味は大きい。都教委は足掻いて恥の上塗りをしたのだ。都教委よ、大いに反省をせよ。そして、責任の所在を明確にせよ。敗訴について謝罪せよ。同様の誤りを繰り返さぬよう再発防止策を講じよ。

一方、一審原告教職員側は戒告処分も違憲・違法だと控訴をしたのだが、これは斥けられた。国家賠償法に基づく慰謝料の請求棄却を不服とした控訴も棄却された。

3次訴訟では、一審判決と控訴審判決ともに、結論は1次訴訟(12年1月)、2次訴訟(13年9月)の最高裁判決を踏襲する形となった。建前として経済的不利益を伴わない(現実には不利益が伴う)戒告の限度で懲戒を合法とし、経済的不利益を伴う減給以上の処分は原則として違法という線引き。予想されたところではあるが、大いに不満が残る。

まずは、合違憲の判断についてである。原告側は、本件では憲法19条、20条、23条、26条を根拠とした違憲論、教育基本法違反を主とする違法論を展開したが、判決の容れるところとはならなかった。最高裁判決の枠組みに忠実であろうとするに性急で、違憲論の主張に真摯に耳を傾ける姿勢に乏しいと言わざるを得ない。

次いで、裁量権濫用と慰謝料の問題。
東京「君が代」裁判・第1次訴訟の控訴審判決(11年3月10日)は、裁判長の名をとって「大橋寛明判決」と呼ばれている。この判決は、戒告処分を含めて173人全員の処分を懲戒権の逸脱濫用として取り消したのだ。

この判決は、教職員の不起立・不斉唱の動機を、自己の思想と教員としての良心に忠実であろうとした真摯なものと認め、やむにやまれずの行為と評価した。ところが、3次訴訟の、佐々木判決も中西判決も、「不起立行為が軽微な非違行為とは言えない」との立場をとっている。これでは、最高裁の判断を乗り越えようがない。憲法が想定する裁判官像に照らして、頼りないこと甚だしい。

裁判官は公権力の立場から意識的に離れ、社会の多数派の常識からも自由に、憲法の理念に忠実でなくてはならない。何よりも、真摯に苦悶し憲法に期待した原告に共感する資質を持ってもらいたい。少なくとも、原告ら教員の苦悩や煩悶を理解しようとする姿勢をもたねばならない。

本日の赤旗に、原告団事務局長の近藤徹さんのコメントが載っている。「都教委は思想・良心の自由を生徒に説明したなどと減給・停職を(正当化する理由として)主張したが、それが間違っていたことがはっきりした」というもの。裁判で勝ち取った成果は、着実に教育現場に生きることになるだろう。

国旗・国歌、「日の丸・君が代」に不服従を貫く人の思いはさまざまである。もちろん、弁護団員も思想はさまざまだ。統一する必要などさらさらない。私個人は、ナショナリズムを正当化する教育の統制が、再びの軍国主義や戦時の時代を準備することを恐れる気持ちが強い。集団的自衛権行使容認決議に続く、戦争法の成立は、私の危惧を杞憂ではないものとしているのではないか。

ことあるごとに、想い起こしたい。戦後教育を担った教師集団の原点は、「再び教え子を戦場には送らない」という決意だった。

 逝いて還らぬ教え子よ
 私のこの手は血まみれだ   
 君を縊ったその綱の
 端を私も持っていた
 しかも人の子の師の名において
 
 嗚呼!

 「お互いにだまされていた」の言訳が
 なんでできよう
 慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
 それがなんの償いになろう
 逝った君はもう還らない

 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
 涙をはらって君の墓標に誓う
 「繰り返さぬぞ絶対に!」

「東京『日の丸・君が代』処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団」の声明の末尾は次のとおりとなっている。

「私たちは、今後も「国旗・国歌」の強制を許さず、学校現場での思想統制や教育支配を撤廃させて、児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための取組を続ける決意であることを改めてここに宣言する」

「学校現場での思想統制や教育支配」それ自身も恐ろしいが、その先にあるものこそが真に恐ろしい。「日の丸・君が代」強制はその象徴である。これに抗して闘っている教員集団は、実は歴史的な大事業を担っているのかも知れない。
(2015年12月5日・978回)

問題は、「権力からの圧力を感じる能力」の欠如だ

本日の毎日朝刊に、次の見出しの記事。
「籾井・NHK会長:与党聴取『圧力と捉えず』 やらせ疑惑巡り」
「NHKの籾井勝人会長は3日の定例記者会見で、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を巡り自民党が局幹部から事情聴取したことについて、『圧力と捉えるのは考えすぎだ』と述べた。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は11月6日、自民党の聴取を『政権党による圧力』と批判する意見書を出している。
籾井会長は意見書の指摘には『コメントを控える』としたうえで、『(クローズアップ現代の報道に関する)我々の中間報告書が出た時点の話だから、説明に行っただけ』と主張。さらに『自民であろうが野党であろうが、説明に来いと言われれば行くが、そこで《この番組はどうだ》と(内容について)言われても、我々は《聞けません》という話だ』と述べた。」

読売もほぼ同じ内容で、見出しは「自民の事情聴取『圧力は考えすぎ』…NHK会長」。

産経(デジタル)が籾井の言葉を詳しく報道している。その一部。

「自民党の聴取については、あのとき、NHKの中間報告が出ていた。それを説明に行ったということだ。番組について、NHKがプレッシャーを受けたということはない。こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれないが、そういうことではない。NHKの中間報告が出た時点で、それを説明に行ったということ。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。こう言うと反発を食らうかもしれないが、事実はそういうことだ」

「??BPOの意見書などは、政権与党がテレビ局を呼んだことを「圧力」と指摘していた。だが、籾井会長自身は圧力ではないと受け止めているというか
はい。(そう考えてもらって?澤藤補足)結構です。言い過ぎかもしれないが。われわれは不偏不党でやっているので、自民党であろうが、野党であろうが、『説明に来い』と言われたら、説明には行く。そこで『この番組はどうだ』と(注文を)言われたら、NHKとしては聴けません、という話だ。われわれとしてはそういう認識で(説明に)行った」

「??BPOとは考え方が違うということか
BPOと考え方が違うとか、そういうことではなく、NHKとしてはそう思っているということだ」

籾井記者会見の発言は、実は大きな問題を露呈しているのだ。NHKはBPOの指摘をまったく理解していない。理解する能力をもっていない。だから、当然のことながら、BPOの指摘を真摯に受け止める姿勢に欠けている。

BPOはNHK自体の問題として、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を指摘した。さすがに籾井もこの点は理解しているようだ。しかし、BPOの指摘はこれだけでなく、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めている。これが真骨頂。

BPO意見書は、「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、BPOは、NHKの側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促したのだ。

籾井には、BPOから指摘のこの問題点の重要性が理解できない。だから自覚など生じようがないのだ。
「NHKがプレッシャーを受けたということはない。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。」というのは、おそらく彼のホンネなのだろう。

籾井は、自ら「こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれない」としている。自分では「自民党寄り」という程度の自覚なのかも知れないが、実態はとんでもない、そんなレベルではない。「寄り」ではなく安倍自民党と一体の存在なのだ。圧力とは、異質のものからの働きかけについてだけ感じられるもの。籾井は、高市や自民党から何と言われても、身内からの助言としか感じない。これを圧力と感じる能力を欠いているのだ。

言論人は、権力との距離を十分に意識し、自分が権力とは異質であることを自覚しなければならない。権力の行使のあり方には常に敏感でなくてはならない。自分に対するものだけでなく、他者に対するものについても、権力からの圧力は鋭敏なアンテナで覚知して、声を上げ抵抗する覚悟がなければならない。

籾井勝人には、そのような資質が決定的に欠けている。どっぷり浸かった権力との同質感がその妨げとなっている。戦前のメディアの多くは権力からの弾圧を感じていなかった。NHKは大本営発表に汲々とし、新聞は戦意高揚を煽って部数を伸ばした。自らを権力と同質のものとし、権力からの独立や対峙の気概をもたなかったからだ。

籾井勝人は、戦前のNHKとまったく同じ感覚ではないか。BPOの指摘をないがしろにするNHK会長は、やはり不適任。辞めてもらわねばならない。日本の民主主義のために。
(2015年12月4日・連続977回)

けっして、「魂の飢餓感」と「澄み切った法律論」の対決ではないー辺野古代執行訴訟法廷

昨日(12月2日)が、辺野古代執行訴訟の第1回口頭弁論。冒頭、翁長知事自身が被告本人として意見陳述を行った。覚悟のほどを見せたわけである。

翁長さんは、那覇市議から、沖縄県議、そして那覇市長の経歴を保守の陣営で過ごし、その後に「オール沖縄」の支援を得て知事になった人。県民の意を体して、国と対峙して一歩も引かないその姿勢はみごとというほかはない。

もともとは保守の陣営に属しながら、辺野古新基地建設反対のスローガンで当選した翁長知事。就任の当初には、行く行くはぶれるのではないか、県民を裏切りはしまいかという心配がつきまとっていた。知事の耳にもはいるこのような懸念に対して、知事は当選直後に「裏切るなら死ぬ」と述べている。

「ボクは裏切る前に自分が死にますよ。それくらいの気持ちを言わないとね、沖縄の政治はできないですよ。今、予測不可能ななかでね、こんな言い方をされるとね。その時は死んでみせますというね、そのくらいの決意」(「荻上チキSession-22」TBSラジオ、2014年11月17日)

さらに、知事の妻・樹子さんの存在も大きい。琉球新報が、本年11月9日付で報道するところでは、
「新基地建設に反対する市民らが座り込みを続ける名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に7日、翁長雄志知事の妻・樹子さんが訪れ、基地建設に反対する市民らを激励した。
 樹子さんは…市民らの歓迎を受けてマイクを握り、翁長知事との当選時の約束を披露した。『(夫は)何が何でも辺野古に基地は造らせない。万策尽きたら夫婦で一緒に座り込むことを約束している』と語り掛けると、市民からは拍手と歓声が沸き上がった。『まだまだ万策は尽きていない』とも付け加えた樹子さん。『世界の人も支援してくれている。これからも諦めず、心を一つに頑張ろう』と訴えた。座り込みにも参加し、市民らと握手をしながら現場の戦いにエールを送っていた。」

たとえ敗れても、県民とともに抵抗の姿勢を示そうという知事夫妻。県民世論からの絶大な支持を集めて当然であろう。県民世論だけでなく、国民全体の世論の支持も高まっている。政治的には、完全に国に勝っていると言ってよい。国が原告になって裁判に打って出たのは、傲慢なイジメの構図としか見えない。あとは、法廷での勝利を切に期待したい。

その知事が覚悟のほどを見せた法廷の模様は、本日各紙のトップを飾っている。
県と国の双方の主張を手際よくまとめた本日の東京新聞報道を引用したい。
「翁長氏は、住民を巻き込んだ沖縄戦や、米軍に土地を強制接収され、戦後七十年続く基地負担の実態を説明した。『政府は辺野古移設反対の民意にもかかわらず移設を強行している。米軍施政権下と何ら変わりない』と批判し『(争点は)承認取り消しの是非だけではない。日本に地方自治や民主主義はあるのか。沖縄にのみ負担を強いる安保体制は正常か。国民に問いたい』と訴えかけた。」

「国側は主張の要旨を読み上げ、まず『基地のありようにはさまざまな意見があるが、(法廷は)議論の場ではない』と指摘。『行政処分の安定性は保護する必要があり、例外的な場合しか取り消せない』と強調した。移設が実現しなければ普天間飛行場の危険性が除去されず、日米関係が崩壊しかねないなどの大きな不利益が生じるため、取り消しは違法と訴えた。」

朝日も同様に、県と国との主張を要約している。
「翁長氏は陳述で、琉球王国の時代からの歴史をひもとき、沖縄戦後に強制的に土地が奪われて米軍基地が建設された経緯を説明。『問われているのは、埋め立ての承認取り消しの是非だけではない』と指摘。『日本に地方自治や民主主義は存在するのか。沖縄県にのみ負担を強いる日米安保体制は正常と言えるのか。国民すべてに問いかけたい』と訴えた。」

「一方、原告の国は法務省の定塚誠訟務局長が出席し、『澄み切った法律論を議論すべきで、沖縄の基地のありようを議論すべきではない』などと主張。埋め立て承認などの行政処分は「例外的な場合を除いて取り消せない」とし、公共の福祉に照らして著しく不当である時に限って取り消せる、と述べた。」

各紙がほぼ同様の調子で、これに翁長意見陳述の全文を掲載している。「歴史的にも、現在においても、沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされてきた」として、「魂の飢餓感」を訴えた格調の高いものだ。だがなんとなく、原告国側が法的論点を絞り込み、被告県側は論点を拡散させて背景事情ばかりを述べている、そんな報道の雰囲気がなくもない。そのことが気になる。

しかし、その気がかりは不要なのだ。朝日が要約する訴状請求原因の骨子は以下のようなもの。
(1) 公有水面埋立法の埋め立て承認は、承認を受けた者に権利が生じる『受益的処分』だ。処分した行政庁が自らの違法や不当を認めて取り消すには、維持することが公共の福祉に照らして著しく不当だと認められるときに限られる。
(2) 取り消しによって普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になるなど計り知れない不利益が生じる。埋め立てによって辺野古地区の騒音被害や自然環境の破壊などが生じるが、その不利益は極めて小さい。
(3) そもそも承認に法的瑕疵はなく取り消せない。また、米軍施設の配置場所など国の存立や安全保障に関わる国の重要事項について、知事に適否を判断する権限はない。

えっ、これが「澄み切った法律論」? ちっとも澄み切ってはいない。公共性は我にあり、という濁りきった傲慢な姿勢。

こうした国側の主張に対し、県側は「『(埋立て承認を国が知事に求めた根拠の)公有水面埋立法には、国防に関する事業を除外する規定はない』とし、知事が埋め立て承認を審査するのは当然だと訴えた」(東京)。

実はここが重大だ。裁判所がこの争点をどうとらえるかで、訴訟の様相はがらりと変わる。そもそも日本国憲法の平和主義の理念からは、軍事や国防の「公共性」を認めることができない。国は、そのホンネにおいて、「県知事の公有水面埋立承認の取消処分」(要するに、辺野古新基地建設阻止)は、「国防上重大な利益を損なう」と主張しているのだ。しかし、憲法訴訟となることを避けて、あからさまにはホンネを語れない。慎重に「普天間飛行場の危険性除去ができなくなり、日米両国の信頼関係に亀裂が生じかねず、既に投じた473億円が無駄になる」としか言えない。

本来は、軍備による平和や、軍事同盟(安保条約)の公共性を問う議論に発展しうるこの訴訟。その点では、砂川事件と同質のものをもっているのだ。「澄み切った法律論」とは、9条や安保の論議を避けた法律論を指しているのだろう。その思惑のとおりとなるかどうか、予断を許さない。

また、沖縄県側は、けっして「魂の飢餓感」を中心に、「背景事情」ばかりを主張しているのではない。原告国の方から、「公共の福祉」論や利益・不利益の「衡量論」をもちだされたのだ。背景としての歴史的経過は単なる事情にとどまらない。小さくない法的な意味をもちうる。

さらに、県側の積極的な法的主張がある。東京新聞の要約では以下のとおり。
? 辺野古移設強行は自治権の侵害で違憲
? 埋め立て承認は環境への配慮が不十分で瑕疵がある
? 代執行は他に手段がない場合の措置で、国は一方で取り消し処分の効力を停止しているため、代執行手続きを取れない

いずれも重い論点だ。裁判所は真摯に向き合わねばならない。
?は、法が知事の権限としたものを、国が軽々に取り上げてよいのか。県民の圧倒的世論を無視しての辺野古建設強行が許されるのか、という問題。

?は、訴訟の中心となる争点だが、法は「都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」として「国土利用上適正且合理的ナルコト」「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」を挙げている。つまり、「環境保全等に十分配慮されたものであることが確認されるまでは、知事は許可(国に対する場合は「承認」という)してはならないのだ。

そして?。これが一番分かり易い。国が代執行という強権手段をとることができるのは、他にとるべき手段がない場合に限られる。知事が承認を取り消して、「工事を続行するためには、代執行を申し立てる以外に他の手段がない」ことが必要なのだ。ところが、国は行政不服審査法に基づく審査請求申立をし、お手盛りで執行停止まで実現してしまった。現に工事は続行している。結局は、「他に手段がない場合に限る」という要件を欠いている、という指摘なのだ。

これだけの争点があって、証人尋問なしで結論を出せるはずはなかろう。被告の言い分を汲んで、原告の請求を棄却あるいは却下する判決なら証人尋問なしで書ける。しかし、実のある判決を書くためには、証人調べは不可欠だろう。裁判所は、真摯に対応しなければならない。国民はこの訴訟を見守っているのだから。しかも、ぶれない知事と県民の気迫に、エールをおくりつつである。
(2015年12月3日・連続第976回)

スラップ訴訟とは何か。どうしたらスラップ訴訟を根絶できるか。ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第55弾

最近、「スラップ訴訟とは何でしょうか」「スラップの実害はどんなものなのでしょうか」「どうしたらスラップ訴訟を防止できると思いますか」などと、メデイアから聞かれるようになってきた。いくつかの原稿依頼もある。ようやくにして、スラップ訴訟の害悪が世に知られ、問題化してきたという実感がある。

☆スラップ訴訟とは何か
私はスラップ訴訟を、「政治的・経済的な強者による、目障りな運動や言論の弾圧あるいはその萎縮効果を狙っての不当な提訴」と定義している。スラップを、「運動弾圧型」と「言論抑制型」に分類することが有益だと思う。

「運動弾圧型」は政策や企業活動に反対する運動の中心人物を狙い撃ちする訴訟であり、「言論抑制型」は自分に対する批判を嫌忌しての高額損害賠償提訴。どちらも提訴を手段として、強者の意思を貫徹しようとするもの。いやがらせと恫喝、そして萎縮効果を狙う点で共通している。

かつて、同時代社出版の「武富士の闇」の記事が名誉と信用を毀損するとして武富士が訴えた。被告にされたのは、執筆担当の消費者弁護士3名と出版社。そのとき、私は被告代理人を買って出て筆頭代理人を務めた。当時、「スラップ訴訟」という言葉がなかった。あったのかも知れないが知られていなかった。この言葉が知られていれば、訴訟実務にも、世論の理解を得るためにも非常に有益だったと思う。同種訴訟が増えてきた現在、その概念の浸透のための努力が一層必要となってきている。

損害賠償請求の形態を取るスラップは、運動や言論への恫喝と萎縮効果を狙っての提訴だから、高額請求訴訟となるのが理の当然。「金目」は人を籠絡することもできるが、人を威嚇し萎縮させることもできるのだ。

DHC・吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起した。言論封殺を目的とした高額請求訴訟、これが言論抑圧型スラップの本質である。DHC・吉田は、同じ時期に、同じ「8億円授受問題」批判で、私の事件を含めて10件の同種事件を提訴している。莫大な訴訟費用・弁護士費用の支出をまったく問題にせずに、である。被告とされたのは、私のようなブロガーや評論家、出版社など。最低請求額は2000万円から最高は2億円の巨額である。

直接に口封じをねらわれ、応訴を余儀なくされたのはこの10件の被告である。しかし、恫喝の対象はこの被告らだけではない。広く社会に、「DHC・吉田を批判すると面倒なことになるぞ」と警告を発して、批判の言論についての萎縮効果を狙ったのである。

このような訴権の濫用には、歯止めが必要だ。この間、スラップの被害者の何人かの経験を直接に聞いた。皆が、高額請求訴訟の被告となる心理的な負担の大きさについて異口同音に語っている。高額請求訴訟の被告とされた者に、萎縮するなと言うのが無理な話なのだ。弁護士の私でさえ自分の体験を通じて、そのことがよく理解できる。

☆スラップを防止するために
かつて、司法制度改革審議会が司法制度改革を論議した際、民事訴訟に関しての最大の論争テーマとなったのが、弁護士費用の敗訴者負担問題だった。「紛争解決の費用は、有責者としての敗訴者が負担すべきだ」というシンプルな論理に、人権派は敢然と対抗し、「弱者の提訴を萎縮させてはならない」「司法本来の役割である、弱者の裁判利用にハードルを高くしてはならない」と論陣を張った。

弱者の側が提訴する訴訟は、消費者事件にせよ公害事件にせよ、あるいは医療過誤訴訟にせよ、勝訴確実とはいえないものが多い。敗訴の場合には、自分が依頼した弁護士の費用だけでなく相手方の弁護士費用までも負担させられるという制度では、弱者の提訴に萎縮効果がもたらされる。この制度が実現すれば、最も保護されるべき弱者の権利実現が妨げられることになる、と反対運動が盛りあがり、審議会の原案を葬った。

そのときには、強者や富者が民事訴訟制度を濫用することは考慮の内になかった。いま、スラップはまさしく強者や富者が訴権を濫用している。これには、歯止めが必要だが、敗訴の場合の弁護士費用を負担させることがその歯止めとして有効と考えられる。

アメリカ各州の制度とりわけカリフォルニアの反スラップ法を参考に「スラップの抗弁」の制度を考えたい。スラップ訴訟において、被告がこの提訴はスラップであると抗弁を提出すれば、裁判所は本案審理の進行を停止して、スラップに該当するか否かの判断に専念する。裁判所が、スラップの抗弁を認めれば、その効果の一つとして立証責任の転換が行われる。そして、もう一つの効果が、原告敗訴の場合には、原告は被告側の弁護士費用を支払わねばならないということにする。

この弁護士費用の負担額は、被告の現実の負担額である必要はない。政策的な配慮からもっと高額にすることが考えられる。スラップに限っての弁護士費用の敗訴者負担、それも懲罰的にすこぶる高額のという発想である。

また、制度の策定は先のこととして、当面最も現実的で必要な対応策は、一つ一つのスラップ訴訟を勝ちきって、原告にスラップの成功体験をさせないことである。このことを通じて、スラップに対する社会的非難の世論形成をはからねばならない。スラップという用語と概念を世に知らしめなければならない。スラップ提起を薄汚いこととする社会的な批判を常識として定着させることにより、スラップ提起者のイメージに傷がつき、会社であればブランドイメージや商品イメージが低下して、到底こんなことはできないという社会の空気を形成することが重要だと思う。

そのためには、まずはスラップの被害を受けた当事者が大きな声を上げなければならない。いま、私はそのような立場にある。社会的な責務として、DHC・吉田の不当を徹底して批判しなければならない。その不当と、被害者の心情を社会に訴えなければならない。

私は、多くの人の支援や励ましに恵まれた「最も幸福な被告」である。しかし、多くの場合、被告の受ける法的、財政的、精神的な負担ははかりしれない。ありがたいことに恵まれた立場にある私は、そうした被告の分まで、声を大にして、DHC・吉田の不当を叫び続けなければならない。そして、スラップの根絶に力を尽くさなければならない。そう思っている。

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   12月24日(木)控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、東京高裁第2民事部(総括裁判官・柴田寛之(29期))に控訴事件が係属している。

その第1回口頭弁論期日は、クリスマスイブの12月24日午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。ぜひ傍聴にお越し願いたい。
恒例になっている閉廷後の報告集会は、次のとおり。
 午後3時から、東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・B
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月2日・連続第976回)

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