ノーベル賞に良いイメージは持ちあわせていない。とりわけ、あの佐藤栄作が平和賞を受章という衝撃以来、「そんな程度のものか」という思いが強い。
しかし、今回のICANの平和賞受賞については、被爆者の運動が世界に注目され、核兵器禁止条約の正当性の強力なアピールとなったものと素直に喜びたい。その意味で、昨日(12月10日)オスロで行われた授賞式でのサーロー節子さんの演説は素晴らしいものだった。誰に遠慮することもなく、「核兵器は必要悪ではなく人類と共存し得ない絶対悪です。」と言い切った。これは、制憲議会で語られた日本国憲法9条の精神ではないか。これをこそ被爆者の魂の叫びと受けとめたい。
「私たちは、被害者であることに甘んじていられません。私たちは、世界が大爆発して終わることも、緩慢に毒に侵されていくことも受け入れません。私たちは、大国と呼ばれる国々が私たちを核の夕暮れからさらに核の深夜へと無謀にも導いていこうとする中で、恐れの中でただ無為に座していることを拒みます。私たちは立ち上がったのです。私たちは、私たちが生きる物語を語り始めました。核兵器と人類は共存できない、と。
今日、私は皆さんに、この会場において、広島と長崎で非業の死を遂げた全ての人々の存在を感じていただきたいと思います。…その一人ひとりには名前がありました。一人ひとりが、誰かに愛されていました。彼らの死を無駄にしてはなりません。
広島について思い出すとき、私の頭に最初に浮かぶのは4歳のおい、英治です。彼の小さな体は、何者か判別もできない溶けた肉の塊に変わってしまいました。彼はかすれた声で水を求め続けていましたが、息を引き取り、苦しみから解放されました。私にとって彼は、世界で今まさに核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表しています。毎日、毎秒、核兵器は、私たちの愛するすべての人を、私たちの親しむすべての物を、危機にさらしています。私たちは、この異常さをこれ以上、許していてはなりません。
私たち被爆者は、苦しみと生き残るための真の闘いを通じて、灰の中から生き返るために、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと確信しました。くり返し、私たちは証言をしてきました。
それにもかかわらず、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいます。彼らは、これは「正義の戦争」を終わらせた「よい爆弾」だったというプロパガンダを受け入れています。この神話こそが、今日まで続く悲惨な核軍備競争を導いているのです。
9カ国が、都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。核兵器の開発は、国家の偉大さが高まることを表すものではなく、国家が暗黒のふちへと堕落することを表しています。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です。
今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を投票により採択したとき、私は喜びで感極まりました。かつて人類の最悪のときを目の当たりにした私は、この日、人類の最良のときを目の当たりにしました。私たち被爆者は、72年にわたり、核兵器の禁止を待ち望んできました。これを、核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。
責任ある指導者であるなら、必ずや、この条約に署名するでしょう。そして歴史は、これを拒む者たちを厳しく裁くでしょう。彼らの抽象的な理論は、それが実は大量虐殺に他ならないという現実をもはや隠し通すことができません。「核抑止」なるものは、軍縮を抑止するものでしかないことはもはや明らかです。私たちはもはや、恐怖のキノコ雲の下で生きることはしないのです。
核武装国の政府の皆さんに、そして、「核の傘」なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。
世界のすべての国の大統領や首相たちに懇願します。核兵器禁止条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去してください。」
この演説は核廃絶の障害となっている犯人を挙げている。まずは核保有の「9カ国」。つまり、米・露・英・独・仏・中の核保有5大国(P5)に、イスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮を加えた「強請9人組」である。いずれの国も、他国の核は危険極まりないもので、自国の核は対抗措置としてやむをえないものであり、平和のための核という。サーローさんは、この核保有9カ国を「都市全体を燃やし尽くし、地球上の生命を破壊し、この美しい世界を将来世代が暮らしていけないものにすると脅し続けています。」と厳しく指弾する。
サーローさんの指摘は、これにとどまらない。「強請9人組」を主犯として、その共犯者に警告を発している。その筆頭が明らかに日本だ。
「『核の傘』なるものの下で共犯者となっている国々の政府の皆さんに申し上げたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、あなたたちは行動することになることを知るでしょう。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。私たちは皆、悪の凡庸さに気づかなければなりません。」
もう少しはっきり言い直してみよう。
「『アメリカの核の傘』なるものの下で共犯者となっている日本の安倍晋三さんと行政府の皆さんに申し上げたい。私たち広島・長崎の被爆者の証言を聞き、私たちの警告を心に留めなさい。そうすれば、必ずや、日本政府も真剣に行動すべきことになるでしょう、核兵器禁止条約を早期に批准しなければならないことを知るでしょう。安倍晋三さん、そして行政府の皆さん。あなたたちは皆、人類を危機にさらしている暴力システムに欠かせない一部分なのです。あなたたちは、自分に言い訳しながら犯している悪事について、その罪の大きさに気づかなければなりません。」
(2017年12月11日)
東京都教育委員会の「10・23通達」とこれに基づく職務命令が、全都の教職員に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立斉唱を強制している。しかも、これが毎年繰り返されている。
これを違憲と主張する教員らの多数の訴訟において、最高裁は、違憲の主張を斥けてきた。学校行事において教員に国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制をしても、強制された教師の思想・良心の自由を直接に侵害するものではないというのだ。
その論理の骨格は、「国旗としての日の丸の掲揚及び国歌としての君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実」という、明らかに誤った事実認識の前提から出発して、以下のように論じている。
「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作としての性質を有するものであり、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである」。
だから、起立斉唱を行わせることが「上告人(教員)らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものとはいえない」という。
大要、「儀式的行事における儀礼的所作」の強制は、「歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することと不可分に結びつくものではない」という論旨である。
この最高裁判決の説示は、近時の下級審判決が挙って模倣ないし追従するところとなっている。教員たちの憲法19条違反の主張を否定する論拠としているだけでなく、東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決では、憲法20条違反を否定する論拠としても明示されている。
同判決は次のように判示する。
「卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為の性質については,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであって,それを超えて宗教的意味合いを持つものではなく,他宗教の信仰の強制などと評価することはできない。
原告らの中には、信仰ゆえに起立できないとする者がいるが、原告らは都立学校の教職員であって,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性等に鑑み,学習指導要領の国旗・国歌条項を含む法令及び校長の職務命令に従うべき立場にあることを踏まえると,同原告らの信仰の自由の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものである。
したがって,卒業式等における起立斉唱行為が,原告らの信仰との関係で著しい精神的苦痛をもたらすものであることなどを理由として,本件職務命令等が憲法20条に違反することをいう原告らの主張を採用することはできない。」
しかし、この説示は、決定的に間違っていると指摘せざるをえない。
ある個人が自発的には行えないとする身体的な行為を権力的に強制することは、原則としてその人の精神の自由を直接に侵害すると考えざるを得ない。当該の個人が「自らの歴史観ないし世界観(すなわち、思想・良心)を否定することになるから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の思想・良心を否定することになる。「自らの信仰に抵触するから従えない」と表明する局面においての強制であれば、その強制は当該の信仰を侵害することになる。極めて常識的な論理の帰結である。
これを「儀式的行事における慣例上の儀礼的な所作」の強制であれば、「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではない」と切断する「論理」の根拠は示されておらず、強弁というほかはない。
当該の最高裁判決は、「儀式的行事における儀礼的所作」を、「宗教性のない、もっぱら世俗的な性格に徹したもの」の意味で使っているごとくであるが、本当に世俗的なものに過ぎないのか。そして、宗教性を欠いた世俗的なものであれば「思想・良心の否定と不可分に結びつくものではないのか」が問われなければなない。
実のところ、儀式的行事への参加や儀礼的所作の強制は、最高裁判決の説示にかかわらず、むしろ信教の自由や、思想及び良心の自由を侵害する典型的な類型といわねばならない。また、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性を持たないものであるにせよ、「儀式的行事における儀礼的所作の強制」は、それ自体が集団への同化強制の圧力となるもので、特定の思想に関連する儀式的行事における、特定の思想に関連する儀礼的所作の強制は、宗教の強制に準じて、これを受け容れがたいとする個人に対して、その思想・良心の自由の侵害をもたらすものとなる。
弁護団は、著名な宗教学者の教示を得て、以下のとおり、控訴理由の主張を準備している。
儀式・儀礼は宗教の不可欠な要素の一つであって、固有の儀式・儀礼をもたない宗教を見出すことは困難である。したがって、「儀式的行事における儀礼的所作」が宗教性と無縁であるとの認識は根本的な誤謬である。「宗教的な儀式や宗教的な行事における宗教儀礼や宗教的的所作」は、至るところに存在する。
しかも、宗教性をまったく捨象した「儀式的行事における儀礼的所作」である場合にも、思想・良心の自由侵害と無縁であることにはならない。儀式・儀礼が政治的機能をもつときに抑圧的機能を果たすことは、宗教学・政治学・社会学で共有されている通説的認識である。特定宗教の枠を超えた世俗国家の儀式・儀礼においても同様である。
とりわけ日本の場合、世俗国家の儀式・儀礼と国家神道由来の儀式・儀礼との境界は分明でなく、この点がしばしば法的争点となる。儀式・儀礼が宗教的あるいは全体主義的な過去を背負っており、そのことが基本的人権を脅かす基礎をなしている。現に日本国憲法を否定し、天皇崇敬や神権的国体論の復活を目指す政治勢力も存在しており、政府や国会で一定の影響力を保持している。
国家が儀式・儀礼を通じて神聖化され、生活の諸方面に及ぶ規制力を発揮することがある。儒教や神道の影響が濃い文化では、このことが起こりやすい。世俗的な儀式・儀礼と、宗教的な儀式・儀礼とが連続的であるのは、儒教の影響を受けた地域には広く見られることである。日本の国家神道、とくにその近代的形態は儒教的な思想の影響を大きく受けている。このような文化的環境と歴史的背景の下で、細かな規定によって身体の画一的統御が課されるとき、精神の自由が著しく脅かされると感じることには相当の理由がある。
以上のとおり、儀式・儀礼は宗教の本質的な要素なのであって、儀式における儀礼的所作だから、その性格がもっぱら世俗的になって宗教性がないなどとというのは明らかな誤りである。しかも、「儀式・儀礼は強い政治的機能をもちうる」のである。儀式・儀礼が宗教の本質的な要素とされるのは、信仰を同じくする者の集団による共通の身体的動作が、相互に信仰と信仰に基づく連帯感の確認行為となるからである。
このことは、世俗的な集団における世俗的な行事においても本質的に変わらない。「起立」「礼」「注目」「斉唱」「唱和」などの身体的行為を集団が同時に画一的に行うことは、その集団の価値観や目的を再確認して、何らかの理念の共有を深化させる機能をもつものである。従って、その集団の価値観に同調しない者にとっては、明らかに思想・良心の侵害とならざるを得ない。
このような、学校行事における宗教的所作の強制は戦前にしばしば起こったことである。憲法第20条の信教の自由の規定は、こうした戦前戦中の経験を踏まえたものであり、『特定の宗教的行為を強制されない自由』だけでなく、『宗教に準ずる信条と関連する行為を強制されない自由』も含まれていると理解しなくてはならない。憲法第19条の『思想・良心の自由』から見れば、特定の信念体系に基づく行為を強制されない自由も含まれるということである。
以上のとおり、「儀式的行事における儀礼的所作」は、典型的な宗教行為そのものであることもあり、宗教的色彩を帯びる宗教に準ずる行為であることもある。「儀式的行事における儀礼的所作」だから、宗教性は払拭されているわけではない。
のみならず、「儀式的行事における儀礼的所作」が純粋に世俗的なものであったとしても、これを強制する場合には、その集団に特有の思想や価値観を個人に押しつけるものとして、「思想・良心の否定と不可分に結びつく」ものとならざるを得ない。
したがって、「10・23通達」関連の最高裁判決の論理は、「憲法が宗教に準ずる一定の思想に基づく儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過したものであって、これに無批判に追随した下級審判決も、憲法19条および20条についての憲法の解釈を誤ったものである。
(2017年12月10日)
私(澤藤)自身が被告とされ、反訴で反撃している「DHCスラップ2次訴訟(反撃訴訟)」。事実上の第1回口頭弁論期日は12月15日(金)。どなたでも、なんの手続も必要なく、傍聴できます。ぜひ、多数の方の傍聴をお願いいたします。
13時30分 東京地裁415号法廷・東京地裁庁舎4階(民事第1部)
反撃訴訟訴状(反訴状)の陳述
光前弁護団長が反訴の要旨を口頭陳述
澤藤が反訴原告本人として意見陳述
閉廷後の報告集会を東京弁護士会504号室(5階)で行います。
報告集会では、木嶋日出夫弁護士(長野弁護士会)から、「伊那太陽光発電スラップ訴訟」での勝訴判決(長野地裁伊那支部2015年10月26日判決)の教訓についてご報告いただきます。
同判決は、「判例時報」2291号(2016年6月11日発行)に、「事業者の、反対住民に対する損害賠償請求本訴の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」と紹介されているものです。「DHCスラップ2次訴訟」に当て嵌めれば、「DHC・吉田の澤藤に対する損害賠償請求本訴の提起が、いわゆるスラップ訴訟にあたり違法とされた事例」ということになります。
同日閉廷後 14時?15時30分 報告集会
東京弁護士会504号室(5階)
光前弁護団長から、訴状(本訴・反訴)の解説。
木嶋日出夫弁護士 伊那太陽光発電スラップ訴訟代理人報告と質疑
澤藤(反訴原告本人)挨拶
☆伊那太陽光発電スラップ訴訟概要
(長野地裁伊那支部・2015(平成27)年10月28日判決)
原告(反訴被告)株式会社片桐建設
被告(反訴原告)土生田さん
被告(反訴原告)代理人弁護士 木嶋日出夫さん
本訴請求額 6000万円 判決は請求棄却
反訴請求額 200万円 判決は50万円認容
双方控訴なく確定
☆木嶋日出夫弁護士紹介。
1969年 司法研修所入所(23期・澤藤と同期)
1971年 司法研修所卒業 弁護士登録(長野県、旧林百郎事務所)
1974年 自由法曹団長野県支部事務局長
1976年 日本弁護士連合会公害対策委員
1979年 長野県弁護士会副会長
1990年 第39回衆院選当選(日本共産党公認・旧長野3区・1期目)
1996年 第41回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・2期目)
2000年 第42回衆院選当選(日本共産党公認・長野4区・3期目)
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当日の木嶋弁護士報告レジメは、以下のとおり。
長野県伊那市細ヶ谷地区・太陽光発電スラップ訴訟報告メモ
2017.12.15 弁護士 木嶋日出夫
1 スラップ訴訟(恫喝訴訟)の提起から判決まで
?2014年2月25日 原告株式会社片桐建設が、被告土生田勝正に対し、6000万円の損害賠償請求訴訟を長野地裁伊那支部に提起。
提訴理由は、被告が科学的根拠のないデマで原告会社の名誉を毀損し、A地区に太陽光発電設備設置を断念させたというもの。その損害は2億4969万円と主張。
?2014年8月4日 被告は、原告会社に対し200万円の損害賠償請求反訴を提起。本訴提起が、被告に対する不法行為(スラップ訴訟)であると主張。要件が狭すぎることは承知の上で、昭和63年1月26日付最高裁判決の論理に拠った。
?2015年10月28日 判決。本訴請求を棄却。反訴請求のうち損害賠償50万円を容認。(判例時報平成28年6月11日2291号)原・被告とも控訴せず、判決は確定。
2 判決の要旨(反訴請求について)
?住民説明会において、住民が科学的根拠なくその危惧する影響や危険性について意見を述べ又はこれに基づく質問をすることは一般的なことであり、通常は、このことを問題視することはない。
?このような住民の反対運動に不当性を見出すことはない。
?少なくとも、通常人であれば、被告の言動を違法ということができないことを容易に知り得た。
?A区画への設置の取り止めは、住民との合意を目指す中で原告が自ら見直した部分であったにもかかわらず、これを被告の行為により被った損害として計上することは不合理であり、これを基にして一個人に対して多額の請求をしていることに鑑みると、原告において、真に被害回復を図る目的をもって訴えを提起したものとも考えがたい。
?本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く。
3 スラップ訴訟を抑止するために?本件判決の意義と問題点?
?最高裁判決の論理にとどまっていては、スラップ訴訟を抑止することは困難
判例時報の評釈でも指摘されているが「もっとも、その発言が、誹謗中傷など不適切な内容であったり、平穏でない態様でされた場合などには違法性を帯びるとの規範を示した」とされていることは、見逃せない問題である。
どこまでが違法性を帯び、どこまでが違法性がないといえるのか、本判決は、なんらの具体的基準を示していない。
本件事案は、その必要性がないほど、被告の行為や発言内容に違法性が認められなかったのであるが、この判決の射程は必ずしも明らかではない。
?反訴請求で認められた慰謝料50万円では、抑止力としてはきわめて不十分
反訴請求で認容される損害額は、経済力を持った企業や行政に対し、スラップ訴訟の提起を抑止させるほどの金額にならない。本件でも、原告会社は控訴せず、すぐに「損害」全額の支払いをしてきた。
本件判決は、地元のマスコミが報道し、建設業界の業界誌でも紹介されるなど、社会的に一定の広がりを見せた。地元伊那市において、太陽光発電設備についてガイドラインを施行し、緩やかな「規制」を始めた。しかし被告会社に真摯な反省は見られない。
?スラップ訴訟の提起を抑止するには、新しい法的枠組みが必要(2016年1月消費者法ニュース106号)
以上
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※木嶋弁護士レジメのとおり、この判決は「昭和63年1月26日付最高裁判決」の論理に拠って、判断し「本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」から違法と結論した。
その結論に至る判断の過程で、
「少なくとも、通常人であれば、被告の言動を違法ということができないことを容易に知り得たといえる」
「(不合理な損害を計上して)一個人に対して多額の請求をしていることに鑑みると、原告において、真に被害回復を図る目的をもって訴えを提起したものとも考えがたいところである」
「以上のことからすると、原告は、通常人であれば容易にその主張に根拠のないことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したものといえ、本件訴えの提起は、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものと認められる」との判示が注目される。
これらの点が、DHCスラップ2次訴訟(反撃訴訟)に生かせる。
※また、木嶋弁護士レジメが、「本件判決は、地元のマスコミが報道し、建設業界の業界誌でも紹介されるなど、社会的に一定の広がりを見せた。地元伊那市において、太陽光発電設備についてガイドラインを施行し、緩やかな「規制」を始めた。しかし被告会社に真摯な反省は見られない。」と言っているのが注目される。
スラップ訴訟を提起した片桐建設は、訴状において、「企業イメージの悪化が直ちに、住宅建設の売り上げ悪化につながる」と主張している。被告の発言によって、「企業イメージが悪化し、営業損害もこうむったというのである。
しかし、スラップ訴訟提起の結果、片桐建設の企業イメージは、「スラップ企業」として有名になって大きく傷ついた。このことが教訓だと思う。
DHCについても、「スラップ常習企業」として、多くの人の批判と非難による社会的制裁が必要であり重要なのだ。
(2017年12月9日)
本日は12月8日、実に感慨の深い日だ。ボクは、この日になると自ずと背筋が伸びる。高揚した気持ちになる。本当は12月8日をこそ国民の祝日にすべきなんだ。12月8日だけでなく、柳条湖事件の9月18日や、盧溝橋事件の7月7日もね。南京陥落の12月13日もいい。8月15日や6月23日、3月10日などはいけない。もちろん、8月6日、9日の両日も。
76年前の今日、日本は世界の大国である米・英両国に宣戦布告をした。なんてったって、世界を相手に戦争をするほどの日本人の気概を示した日なんだ。もっとも、日曜日を狙ったパールハーバー奇襲の方が宣戦布告よりは早かったけどね。
それだけじゃない。今日はNHKが「大本営発表」を始めた日でもある。
昔はよかった。元気に戦争だってできたし、放送の統制だってなんなくできた。天皇陛下の思し召しというだけで、大概のことはできた。本当に天皇って便利だったんだ。「戦争には反対」だの、「放送は真実を伝えなければならない」などとツベコベうるさいのは、「天子様に弓を引く国賊め」としょっぴくことができた。政権運営に便利この上なく大切な天皇制。これこそ、魔法の杖だよね。これはいつまでも大切にしなければいけない。
ボクは、毎年12月8日になると「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」を読むんだ。例の大詔渙発というやつ。天皇陛下が臣民に下したありがたいミコトノリ。原文はカタカナ書きで読みにくいし、漢字が難しい。国会で官僚の作った原稿を「でんでん」と読んだボクの国語能力ではよく理解できないけど、雰囲気は分かる。国民にも敵国にも上から目線で、大威張りの態度。そして、戦争に踏み切ったら、国民の拍手喝采だったというじゃないの。なによりも、そこがうらやましい。
今の憲法は平和主義だ。だから、戦争をやるっていえば猛反対を受ける。だから、ボクはこそこそと少しずつ、戦争のできる国にするために小さなレンガを積んで努力しているんだ。前の憲法の時代はよかった。東条英樹閣下がうらやましい。陛下を使えば、簡単に戦争ができたんだもの。ボクもその時代に総理をやりたかった。それが無理だから、憲法9条を骨抜きにしたいんだ。そのための「アベ9条改憲」のスケジュールを組んだんだ。
「宣戦ノ詔書」の一部をひらがな書きにすると次のようなもの。正確には分からないけど、だいたいのところは分かる。
「朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期せよ。(以下略)」
こんなことも書いてある。
「米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威を加う。」
これって、今の北朝鮮の言っていることとまったく同じ。
「朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従せしめんとす。」
我が国は平和を望んで我慢に我慢を重ねたが、邪悪な敵は少しも譲ろうとしない。だから日本は、今や自存自衛の為、決然と戦争に決起する以外に道はなくなった。ここだよ、感動するのは。「自存自衛の為の決然たる決起」だ。
同じ日に、私が尊敬する東条首相もこう言っておられる。
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。…東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪へず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦(また)、己が身を顧みず、醜の御楯(しこのみたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。」
なんと、胸おどる言葉ではないか。名演説だ。ボクもこう語ってみたい。
「76年前も今も、日本になんの変わりはありません。私たちは正義の旗を掲げています。東洋平和であり、隠忍自重です。にもかかわらず、邪悪な敵が我が国の誠意に応じないときには、蹶然起たざるを得ないのであります。」
ところで、アベ政権は、戦闘機から遠隔地の目標物を攻撃できる複数の「長距離巡航ミサイル」の導入検討を決めた。自衛隊が導入を検討する長距離巡航ミサイルは「JASSM(ジャズム)―ER(イーアール)」、「LRASM(ロラズム)」、「JSM(ジェイエスエム)」。航空自衛隊の主力機F15や最新鋭ステルス機F35に搭載することなどを想定している。
結局のところ、「自存自衛」とは敵の基地を奇襲することさ。パールハーバーを叩いたときのように。今も事情は変わらない。先制的に敵の基地を叩かなければ、こちらがやられちゃうじゃないか。12月8日だ、じっくりと「自存自衛」の戦略を練ろう。今度こそは、絶対に負けないようにしなくては。
その第一歩が、「9条改憲」だ。
(2017年12月8日)
気の置けない同年配(70代)の弁護士数名との歓談の機会があり、話題が天皇のことになった。誰もが、天皇制を歓迎はしていないが、温度差がある。
A 敗戦後の天皇の人間宣言は、当時の人々にどう受け止められたのだろうか。人間宣言後も「天皇の神聖は揺るがず」と思われていたのではないだろうか。
B 天皇の神格化は、戦前の政府がでっちあげた人民統治のための演出に過ぎない。敗戦によって、こんな信仰を維持することができなくなったから、神格放棄を宣言したというだけの話だろう。
C 神風は吹かなかった。誰の目にも神州不滅はウソと分かった。敗戦によって、天皇の化けの皮が剥がれた結果の人間宣言だろう。
A とは言うけれど、戦後も多くの人が天皇制を支持し、天皇に好意を寄せたのはどうしてだろうか。
B 戦後の国民の多くが天皇に好意を寄せていたというのは本当だろうか。天皇に対する深い幻滅から天皇に対する嫌悪感も強かったのではないのか。
C それでも、戦後における天皇の全国各地訪問には大勢の人が集まった。物見高さもあったろうが、刷り込まれた感情じゃないのか。戦前の永きにわたって刷り込まれてきた天皇に対する敬意の国民感情は、軽々に払拭できないということだと思う。
A だから、天皇の戦争責任を厳しく問う国民世論は生まれてこなかったというわけか。
C 昭和天皇が戦争責任を負うべきは当然だ。彼は、戦争遂行のすべてについて報告を受け是認してきた。310万の日本人の死と、2000万人の被侵略地人民の死に責任を持たなければならない。
D 「戦争遂行のすべてについて報告を受け是認してきた」というものの見方は、形式的にはそうかも知れない。しかし、実質的には彼に歴史の流れを変えうる力があったとは思えない。戦争責任は飽くまで軍部にあって、昭和天皇の罪は副次的なものではないか。
E 天皇の例の記者会見での発言にショックを受けた。戦争責任問題を問われて「そういう言葉のアヤについては、よく分からない」と述べ、原爆投下について「やむをえない」という発言。あれには、右翼も幻滅したのではないか。
B 戦後の天皇がやってきたことが最近の資料発掘で明るみに出ている。昭和天皇が反省していたなどとはとうてい考えられない。
A 昭和天皇裕仁の責任は重いとしても、現在の天皇明仁についてはどうだろうか。 明仁については、直接の戦争責任の問題がない。むしろ、憲法擁護の姿勢において、安倍晋三よりもずっとマシだという評価が定着しつつあるように思えるが。
C それは危ない考え方だ。国民に好感を持たれる天皇ほど、実は国民主権の危機となる危険な天皇と考えなければならないと思う。
A 結局、天皇制とは必要なものだろうか。なくしてしまうべきものだろうか。
B 天皇制は国民主権思想と矛盾する。人間の平等にも反する。当然に廃止すべきだと思う。
E なにも性急になくす必要もないのではないか。近い将来、国民の総意によって廃止する日が来るだろう。それまでは、社会の安定のためにあってよいと思う。
C 私は反対だ。天皇とは権威だ。単に、権力に利用される恐れとして危険というだけではなく、社会にこのような権威が存在すること自体が危険なのだ。天皇の存在が、権威尊重の風潮や国民意識の根源となっている。企業や、役所や、地域や、民主団体や、あらゆる部分社会の権威主義を払拭するには、天皇という存在をなくすることか効果的だと思う。
A ところで、日の丸や君が代についてはどう思う?
D 日の丸・君が代ともに、国民の圧倒的支持がある。これを尊重すべきは社会通念としてやむをえないのではないか。
C 「日の丸・君が代」はともに天皇賛美だ。特に君が代の歌詞は馬鹿げている。また、兵士や戦争体験者の憎悪、嫌悪の念が強い。けっして、国民の圧倒的支持があるとは言えないと思う。
B 問題は、価値の多様性を認めるかどうかだ。強制は間違っているということが、多数派ではないだろうか。
A で、生前退位には賛成? 反対?
E 天皇にも人権があるだろう。高齢で公務の負担が大きいとなれば、生前退位は結構ではないか。
B 公務は皇太子が代理できるし、摂政をおいてもよい。生前退位を認める必要はさっぱり分からない。
C 生前退位問題は、天皇制イデオロギー再生産の材料として使われているという印象がある。天皇の「公的行為」や「象徴的行為」という形で、天皇の存在感が拡大することを警戒しなくてはならない。
(2017年12月7日)
「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。
同判決は、減給以上の全処分(原告6名についての7件)を取り消した。この点については評価しうるのだが、戒告処分(9名についての12件)については取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。
原告団・弁護団は、何よりも違憲論を重視している。
《「10・23通達」⇒起立斉唱を命じる校長の職務命令⇒職務命令違反を理由とする懲戒処分》という、行政の一連の行為が違憲だという主張。違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。
立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。
憲法で規定され保障された、思想・良心の自由(憲法19条)、信仰の自由(20条)、教育者の自由(23条)などを根拠に、各原告の基本権が侵害されたことを理由とする違憲の主張が主観的違憲論。特定の思想・良心・信仰を持つ人との関係でのみ違憲となる。
また、必ずしも違憲判断に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことが可能である。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、この不利益も同判決が採用するにはいたらなかった。
事案の全体像のとらえ方を示している同判決の一部をご紹介しておきたい。 *******************************************************************
☆ 事案の要旨
(1) 被告(東京都)の設置する高等学校又は特別支援学校の教職員である原告らが,その所属校において行われた卒業式又は入学式において,国歌斉唱時には指定された席で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを求める校長の職務命令に違反して起立しなかったところ,東京都教育委員会は,かかる不起立は地方公務員法32条及び33条に違反するものであるとしたうえ,同法29条1項1号ないし3号に基づき,原告らに対し,戒告,減給又は停職の懲戒処分を行った。
(2) 本件は,原告らが,起立斉唱命令,その前提とな’った都教委の通達ないしそれらによる原告らに対する起立斉唱の義務付けは,原告らの思想・良心の自由,信教の自由,教育の自由を保障した憲法及び国際条約の規定に違反し,公権力行使の権限を踰越するものであり,「不当な支配」を禁じた教育基本法の規定にも抵触するから,原告らに対する起立斉唱命令は重大かつ明白な瑕疵を帯びるものとして無効であり,その違反を理由とする懲戒処分も違法であることに帰するし,仮に起立斉唱命令が有効であるとしても,その違反に対して戒告,減給又は停職の処分を科したことについては手続的瑕疵及び裁量権の逸脱・濫用があるから違法であるなどと主張して,被告に対し,各処分の取消しを求めるとともに,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償(懲戒処分1件につき55万円)及びこれに対する訴状送達日(平成26年4月14日)の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
☆ 争点
(1)原告Xに対する起立斉唱命令(本件職務命令)の有無
(2)本件職務命令等の憲法19条違反(思想・良心の自由の侵害)の有無
(3)本件職務命令等の憲法20条違反(信教の自由の侵害)の有無
(4)本件職務命令等の憲法26条,13条及び23条違反(教師の教育の自由の侵害)の有無
(5)本件職務命令等の国際条約違反の有無
(6)本件職務命令等の公権力行使の権限踰越ゆえの違憲・違法の有無
(7)本件職務命令等の教基法16条1項(不当な支配の禁止)違反の有無
(8)本件処分の手続的瑕疵の有無
(9)本件職務命令違反を理由として少なくとも戒告処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(10)本件職務命令違反を理由として減給又は停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(11)国賠法1条1項に基づく損害賠償請求の当否
今進めている作業は、上記の(1)?(11)までの原判決の判断に対する反論である。
上記(10)に関する裁判所の判断だけが納得しうるもので、その余の判断は全て納得しがたい。
憲法は、国家と国民の関係を規律する。国家象徴(国旗・国歌)と国民個人の価値的な優劣の関係は、憲法の最大関心事のはず。主権者国民の僕に過ぎない国家が、その主人である主権者国民に向かって、「吾に敬意を表明せよ」と命じることなどできるはずがない。これは憲法価値の序列における倒錯であり、背理でもある。真っ当な憲法判断を獲得すべく弁護団・原告団は努力を重ねている。
(2017年12月6日)
既に師走。はや、今年を振り返る時期になった。恒例の「今年の重大ニュース」「今年の漢字」「今年の一冊」「マン・オブ・ザ・イヤー」等々が話題となる季節。いささか押しつけがましいこれらの企画に、最近は「新語・流行語大賞」(現代用語の基礎知識選)が加わっている。
12月1日発表となった年間大賞を、「忖度」と「インスタ映え」の2語が受章した。「忖度」の受章は、さもありなん。「インスタ映え」の方はさっぱり分からんが。
トップ10の他の8語には、「Jアラート」「フェイクニュース」「プレミアムフライデー」「魔の2回生」「○○ファースト」などが選ばれている。なるほど、今年はそういう一年であった。
この授賞。正確には、「ユーキャン新語・流行語大賞」というそうだ。この1年の間に話題となった「さまざまな『ことば』のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その『ことば』に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの。」だという。
1984年創始だというから、もう30年を超える歴史をもつことになるが、話題になってからは、まだ日が浅いという印象。まずは、『現代用語の基礎知識』収録の用語をベースに、自由国民社および大賞事務局がノミネート語を選出するのだそうだ。
その今年ノミネートされた30語が下記のとおり。
アウフヘーベン/インスタ映え/うつヌケ/うんこ漢字ドリル/炎上〇〇/AIスピーカー/9.98(10秒の壁)/共謀罪/GINZA SIX/空前絶後の/けものフレンズ/35億/Jアラート/人生100年時代/睡眠負債/線状降水帯/忖度/ちーがーうーだーろー!/刀剣乱舞/働き方改革/ハンドスピナー/ひふみん/フェイクニュース/藤井フィーバー/プレミアムフライデー/ポスト真実/魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー/ワンオペ育児
私にはさっぱりの言葉もあるが、アウフヘーベン、炎上○○、共謀罪、Jアラート、人生100年時代、忖度、ちーがーうーだーろー!、働き方改革、フェイクニュース、プレミアムフライデー、ポスト真実、魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー、などと並べると、なるほど2017年の世相が見えてくる。トランプ、安倍晋三、安倍夫妻、安倍チルドレン、そして小池百合子などの愚昧ぶりが想い起こされる。
選考委員会は、「忖度」についてこう述べている。
「今年は、マスコミから日常会話に至るまでのあらゆる場面でこの言葉の登場機会が増えた。きっかけは3月、「直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う」という籠池泰典氏の発言。ネット辞書の検索ランキング(goo辞書)では4カ月間、この言葉が1位を独走したという。2017年最大の政治テーマであった「モリカケ問題」を象徴するこの言葉は、この問題が決着するまでは出番が続きそうである。」
また、「魔の2回生」について。
「2歳になる子どもが第一次反抗期を迎えて「イヤイヤ」を始めることを「魔の2歳児」という。そこから連想して、産経新聞の森山志乃芙さんはこの言葉を記事にしたのだという。務台俊介内閣府政務官、中川俊直議員、豊田真由子議員、武藤貴也議員、宮崎謙介議員…暴言、不倫、重婚…、当選2回の「安倍チルドレンン」たちの不祥事が続発した。それは政権の支持率急落という「魔」の事態を招いたのであった」
「〇〇ファースト」
「まずは、アメリカのトランプ大統領が、選挙の段階からしきりに繰り返していた「アメリカ・ファースト」というフレーズ。日本では、小池百合子都知事による「都民ファースト」が続き、最近では「自分ファースト」な人たちがやり玉にあげられている。」
個人的には、「印象操作」と「丁寧な説明」の併せて一本を期待していた。安倍シンゾーという人物。人の話は「印象操作」。自分に痛いことは「印象操作」。反論できないことも「印象操作」。自分の話は「丁寧な説明をいたします」。これを繰り返してある日突然「丁寧な説明をいたしてまいりました」と変わる。平気でこう言える性格をどう表現すればよいのだろう。狡猾、厚顔、鉄面皮、破廉恥? あるいは卑劣、奸佞、邪悪とでも。もし安倍政権が続いたら、いずれこれらの語も、新語大賞に輝くことになるだろう。
そのほか、印象に残ったアベ語としては「こんな人たち」「でんでん(云々)」「怪文書だ」など。小池百合子関連で強烈だったのが「排除いたします」。
2017年は、「もりかけ元年」だった。そのパーソンズ・オブ・ザ・イヤーは、まず安倍昭恵。次いで籠池泰典、加計孝太郎。そして前川喜平。悪玉・善玉の色分けがくっきりである。
さらに、「もりかけ元年」を象徴する川柳の秀句を朝日川柳欄から。
夫婦して「李下に冠」理解せず 佐藤吉男
詳細は御用新聞読めと言い 下道信雄
記録ない確認できない記憶ない 西村健児
新元号はいらない。「もりかけ」の元号で十分ではないか。来年も再来年も、「もりかけ」問題追求の年にしよう。
いずれにせよ、政治の貧困は流行語に表れる。
(2017年12月5日)
産経新聞の記者から、以下のメールをいただいた。趣旨は、インタビューの申込みである。
「先生に取材をお願いしたく、連絡させていただきました。
弊紙では、今年4月から、「戦後72年 弁護士会」という企画を掲載しております。 弁護士会の戦後の歩みを振り返るというもので、これまでに以下のようなテーマ・概要で記事を掲載いたしました。
第1部 政治闘争に走る「法曹」=近年の会長声明や意見書などから安全保障など各分野への日弁連の姿勢を考察
第2部 左傾のメカニズム=日弁連会長選挙など弁護士会の仕組みを紹介
第3部 恣意的な人権・平和=拉致や国旗国歌など戦後の各問題への日弁連の姿勢を考察
第4部 左傾の源は憲法学=東大法学部が牽引した戦後憲法学が現在の改憲議論などに与えた影響を考察
12月初旬ごろから掲載予定の第5部では「揺らぐ土台」というテーマで、弁護士会の地殻変動につながる可能性のある事象を考察したいと考えております。
具体的には、5回構成で、
?法科大学院世代の逆襲…法科大学院出身で「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える弁護士が、東京弁護士会正副会長選挙に出馬したことなど
?波乱含みの救済制度…弁護士による横領被害者に見舞金を支払う制度をめぐる賛否など
?日弁連VS新興勢力…ウェブ広告をめぐる懲戒処分や、長野県、千葉県弁護士会への入会を求める訴訟など、アディーレと弁護士会をめぐる対立など
?淘汰される法科大学院…学生募集停止が相次ぎ、予備試験に後塵を拝する法科大学院の苦境など
?加速する弁護士離れ、廃業宣言も…司法試験に合格しても弁護士会に登録せずに企業内弁護士として活動するなど
を取り上げたいと考えております。
つきましては、?の記事の関係で、先生に、弁護士自治のあり方などについて、ご意見を伺えないでしょうか。
?では、平成27、28年の東京弁護士会正副会長選挙に立候補した赤瀬康明弁護士(64期)が、
「弁護士会の任意加入制の導入」、「弁護士会費の半減」「委員会活動などの事業仕分け」を訴えたことを取り上げる予定です。
先生は、両年の選挙についてブログで複数回、見解を示されていらっしゃいますが、改めて、
◎そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)
◎「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える候補が立候補したこと、また、その得票数などをどうとらえていらっしゃるか
という点について、ご意見を伺えればと思っております。」
ご親切なことに、第1部から第4部までの過去の記事をPDF添付で送っていただいた。いやはや、なんとも凄まじい日弁連に対する「左傾化」批判。さすがは産経、なのである。
きれいはきたない、きたないはきれい。みぎはひだりだ。ひだりもひだり。産経から見れば、全てが「左傾」。そんな産経と私は折り合いが悪い。これまで何度か、インタビューやコメントを求められたが、全てお断りしてきた。「貴紙の論調に違和感がある」「貴紙に協力したくない」と、明確に理由を述べてのことである。
しかし、今回は自分が書いたブログの記事に目を止められての取材要請。自分の書いたものには責任を持たねばならない。そう考えて、インタビューをお受けし、本日産経の記者に会った。
そのブログが、下記のとおりだ。
今年は平穏無事だー2017年東京弁護士会役員選挙事情 (2017年2月7日)
https://article9.jp/wordpress/?p=8108
東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ(2016年2月1日)
https://article9.jp/wordpress/?p=6329
野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(2016年1月29日)
https://article9.jp/wordpress/?p=6309
東京弁護士会役員選挙結果紹介?理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4409
弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4313
産経と私の間には、越えがたい深い溝がある。私がしゃべったことがどんな記事になるかは、予想しがたい。産経側の意図がどんなものであったとしても、言うべきことは言っておきたい。
当然のことながら、産経にも言論の自由がある。しかし、率直に言って産経にほめられるような日弁連であってはならないし、私の望むところでもない。
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「そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)」
弁護士の弁護士会への強制加入制度は、弁護士自治と表裏一体の関係にある。弁護士会に自治を認め、行政からの統制を遮断して、会に会員の入退会や指導監督の権限を委ねる以上は、一元的な弁護士管理の必要上、単一の弁護士会に全弁護士の所属が求められる。強制加入は、弁護士自治の当然の帰結なのだ。
ではなぜ、弁護士の自治が必要なのか。ことは弁護士という職能の本質に関わる。弁護士とは、基本的人権の擁護をその本務とする。人権を誰から擁護するのか。まずは公権力からである。弁護士は在野に徹し公権力から独立していなければならない。
弁護士が国民の人権の守り手として公権力と対峙するときに、公権力が、その弁護士の活動を嫌って弁護士の行為を制約し、あるいは身分の剥奪をはかるようなことが許されてはならない。弁護士の身分が権力から独立してはじめて、十全の人権擁護活動が可能となる。弁護士の身分は、権力からの統制を完全に遮断した弁護士団体によって保障されなければならない。これが、弁護士の自治である。
国民の人権は、公権力からだけではなく、資本からも、あるいは社会の多数派からも侵害の危険にさらされる。個々の弁護士が人権擁護活動を行うとき、資本や社会の多数派とも果敢に切り結ばねばならない。そのとき、弁護士会はそのような任務を遂行する弁護士を、こぞって支援しなければならない。そのために、会は公権力からだけではなく、資本からも、多数派からも独立していなければならない。
法は人権擁護のためにある。法がなければ、この世は無秩序な弱肉強食の世界だ。法あればこそ、合理的な秩序が形成され、強者の横暴を押さえて弱者の人権が擁護される。人権侵害に対する最後の救済手段が訴訟であり、訴訟の場において人権擁護のために法を活用する専門家が弁護士である。弁護士とは、そのような基本的任務を負うものとして、社会に必要とされる。弁護士会とは、そのような弁護士の活動を相互に支援することを任務とする。社会的な圧力から、個別の弁護士の活動を守るために、弁護士会がある。
戦前、弁護士自治はなかった。弁護士は司法省・検事局の統制の下にあった。人権擁護の守り手としての弁護士の活動は、司法省によって制約された。布施辰治も、山崎今朝弥も、その弁護活動を咎められて懲戒を請求され、弁護士登録抹消となり、あるいは業務停止となった。労農弁護士団事件では、治安維持法違反被告事件を弁護した弁護士が、共産党の目的に寄与する行為があったとして、有罪となり弁護士資格を剥奪された。これに、弁護士会が抗議の声をあげることはなかった。
これは、一握りの弁護士の問題ではない。もっとも厳しく権力との対峙をした局面における象徴的事件なのだ。その余の弁護士にとっての見せしめでもあった。こうして、弁護士が真っ当にその任務を果たすことのできない時代には、国民の人権は惨憺たるありさまとなった。
戦後、弁護士自身の起案による、新弁護士法が制定された。政府はこれを歓迎せず、閣法としなかった。そのため、49年制定の現行弁護士法は議員立法として成立した。言うまでもなく、新弁護士制度の中心には、確固たる弁護士自治が据えられている。
弁護士自治は、弁護士のためにあるのではなく、国民の人権擁護のためにあるのだ。「自治などどうでもよい」「任意加入でよいではないか」など、弁護士本来の任務を忘れた妄言を、軽々しく発してはならない。
(2017年12月4日)
63年入学の澤藤から、幹事の一人として、閉会の辞を申しあげます。
本日は、楽しく有意義な「Eクラス」合同同窓会の集いをもつことができました。お互い、元気な姿で集まることができたことを喜びた合いたいと思います。参加者は、51年入学組から67年組までの48名でした。
自分自身を形づくる時期を青春というのなら、まぎれもなく、ここ駒場に私たちの青春がありました。その青春の時期を想い起こすには、その場所に赴き、その時を共にした友人と語り合うこと。本日は、そのような機会であったと思います。その青春の時期に抱いた理想を想い起こすことは意味あることではないでしょうか。
51年入学の石川忠久さんの開会の辞の中に、当時の想い出として「血のメーデー」で警官に殴打されて負傷した同級生のお話しが出てきたことに驚きました。田仲一成さんのスピーチには大講堂での山村工作隊員募集の件もありました。その後に60年安保の時代があり、フランスの中国承認があって、米中の和解や日中国交回復が「Eクラス」の消長にも大きな影響を与えることになりました。
それぞれの時代の背景事情が、そのときどきの学生に大きなインパクトを与えてきました。その時代を超えて、私たちは、何を共通のバックボーンとしたのでしょうか。おそらくは、思想とか信条というものではなく、権勢にも多数派にもおもねることを潔しとしない心情とか感性であったような気がします。
それは富貴を求めず、名声や権力を指向しない生き方。叛骨・在野の精神を矜持としてもつ生き方の感性ではなかったかと思うのです。本日は、あらためて、そんなことを確認する機会ではなかったでしょうか。
また来年、集まりましょう。それまで健康にお気を付けてお過ごしください。
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本日(12月3日)は、恒例となった学生時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の各期48名が参集して和気あいあいのうちに歓談した。度々の引用となるが、下記の詩のとおりである。
同榜 同僚 同里の客
班毛 素髪 華筵に入る
三杯 耳熱くして歌声発す
猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを
(註 「同榜」は合格掲示板に名を連ねた同窓の意。「素髪」は白髪頭。「班毛」はごま塩頭。いずれも老年を指す。「華筵」はにぎやかな饗宴のこと)
拙訳はころころ変わる。今は、こんなところ。
口角に泡を飛ばしたあのころの
古き友らと宴の席に
飲んではしゃいで語って熱い
おれもおまえも変わらない
教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみで「Eクラス」を作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったのだ。
当時中国語を学ぼうという学生の多くは、49年の中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。もちろん、圧倒的な少数派。それに、工藤篁という特異なキャラクターをもつ教師の個性が加わって、「国家経営の官僚養成学校」の片隅に叛骨の文化がひっそりと咲いたのだ。あれ以来、少数派であり続けてきた思いがあるが、そのことに悔いはない。
(2017年12月3日)
昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。
2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。
天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。
代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。
ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。
見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」
リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。
産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。
私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。
産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」
ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。
産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」
ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。
だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。
「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」
この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。
日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。
天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。
そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)