ナショナリズムに惑わされてはならない(東京「君が代」訴訟から)
(2020年6月19日)
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を違憲違法と主張する、東京「君が代」訴訟の憲法論を見直している。憲法論で、何とか勝ちたいと思うからだ。その見直し作業の中で、短かくまとまった紹介に値する文章をいくつか見つけた。以下はその内の一つ。
教育も、行政も、司法もナショナリズムに惑わされてはならない
ア 本件は、個人と国家との憲法価値の対抗をめぐる憲法訴訟である。
憲法訴訟においては、対抗する複数の憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量の対象とするものは、端的に「個人」と「国家」の憲法価値である。個人とは自然人としての「人権主体」である。これは分かりやすい。一方国家の方は分かりにくい。「統合された国民の集合体」であり、これが「権力主体」となっている。つまりは、「基本的人権としての個人の尊厳」と、「国家の権力作用」ないしは「統合された国民全体」との各憲法価値の衡量である。
言うまでもなく個人の尊厳は、最も基底的な憲法価値である。他方、国家は与えられた権力を行使して憲法が想定する法的・政治的・社会的な秩序を形成して国民の福利に寄与すべき立場にある。両者ともに、憲法的価値を持つと言ってもよいが、両者の憲法価値としてのレベルは、明らかに異なる。個人の尊厳が究極の目的的価値であるのに対して、国家の権力作用はそれに奉仕すべき手段的価値でしかない。
従って立憲主義国家において、その両者の衡量の帰趨は自ずから明らかである。にもかかわらず、この正確な衡量を妨げ、あるいは狂わせるものがある。それがナショナリズムである。
イ 本件訴えは、「原告らに対して、国旗・国歌への敬意表明を強制しうるか」というシンプルな問に回答を求めている。
強制される敬意表明の対象としての国旗・国歌とは、ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている旗と歌である。
原告らは、国家を象徴するものであるがゆえに、国旗・国歌への敬意表明の強制を受容しがたいとする。自らの精神の核をなす思想・良心・信仰との抵触を理由とするものである。
この局面は、国旗・国歌という国家象徴を介して、国家と個人が対峙している構図である。公権力が、原告らに対して、「個人の思想・良心・信仰の如何に拘わらず、国旗・国歌を介して国家への敬意を表明せよ」と命じている。この構図のもとで、「個人」ないしは「個人の思想・良心・信仰」と、「国家」が対抗関係を形成して、その憲法価値の優劣についての衡量が求められている。
衡量の一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする個人の思想・良心・信仰の自由という基本的人権としての憲法価値である。もう一つの秤に載せられるものは、国家そのものの憲法価値である。「国民の国家に対する敬意という価値」と言ってもよい。
一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた衡量の帰趨は、法的判断のレベルでは、自ずから明らかである。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であることは自明の理だからである。
ウ ところが、学校現場の現実はそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国家と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。
日本国憲法を制定した戦後民主主義は、戦前の排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズム復興の過程にある。学校現場において、天皇制国家とまったく同じデザイン、まったく同じ歌詞・曲の「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明が強制されていることがその象徴的なできごとである。
ナショナリズムは政治学的ないしは社会心理学的な概念であるから、その正確な定義があるわけではない。しかし、ナショナリズムは、確実に少なからぬ国民の精神をとらえ、国家への統合に国民の情念を動員するエネルギーを有している。個人と国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力の源泉となっている。ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとし、信仰にも似た尊崇の対象と考える。その結果、国家を象徴する国旗・国歌についても、同様にこれを特別に重大で神聖なものと考えるのみならず、当然にすべての国民がこれに敬意を表明すべきものと考え、国旗国歌に敬意を表することを潔しとしない国民の態度を強く非難する。
エ ナショナリズムに基づく国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。石原慎太郎知事の時代に、東京都教育委員会が発した悪名高い10・23通達は、その最悪の事例である。
愛国心とは普遍的な道徳で、国旗国歌の尊重は全ての人に望まれる態度であるという、信仰にも似た社会心理がこの世を覆っている。ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派とならざるを得ない。その結果、すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が政治的多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は政治的に少数派となる。国旗国歌への敬意表明の強制は、民主主義の問題として放置をしておく限り、解決することはない。
多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。本件の10・23通達と、同通達にもとづく「起立・斉唱」の職務命令はそのようにして、原告らの人権を侵害している。
オ 本件訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求める訴訟である。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎悪の対象とする少数派の思想の自由」である。
以上のとおり、本件において司法の役割が根底的に問われている。司法がナショナリズムという「権力(=多数派)の意思」に迎合し動揺して、少数者の人権侵害をいささかも容認してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、無批判に多数決原理に追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってはならない。まさしく、司法の存在意義が問われているのだから。