「コロナだから、やむなく中止」という消極論ではなく、「五輪への本質的批判」としての積極的中止論を。
(2021年3月5日)
昨日(3月4日)の当ブログを読み返してみた。最終行が「声を上げよう。『東京オリパラは、早急に中止せよ』『政府も自治体もコロナ対策に専念せよ』」と結論を述べている。これが、なんとなく物足りない。
読みようによっては、「東京オリパラ自体は本来素晴らしい意義をもったイベントなのだが、今コロナ禍という特別の事態では、国民の健康保持や公衆衛生を優先せざるを得ない。残念だが、オリパラは開催中止として、コロナ禍対応に注力しなければならない」と意味をとられかねない。もちろん、これは誤読・誤解である。
オリパラ中止へ多くの人の賛同を得るには、以上の文脈でもよいのだろうが、そのように受け取られるのは、私の本意ではない。私は、コロナ禍なくとも、東京オリパラの開催自体に積極的に反対である。「アスリートにはリスペクトを惜しまないし、その無念さには同情するが、今の事態でのオリンピックはコロナ蔓延に拍車をかけることになる」「世論調査で、多くの人がコロナ禍を理由に東京オリパラ開催は無理だと言っている」、だから開催反対という及び腰の消極的反対論では不十分だと思う。国家・国民を総動員しようというこのイベントの本質に切り込んで、積極的反対論を展開しなければならないと思う。
以下は、最近の当ブログの記事。「五輪ファシズム」をキーワードに、積極的オリンピック反対論を展開し、「東京五輪を中止せよ」「北京冬季五輪も中止を」と声をあげている。こちらが私の本意。
鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る(2021年2月14日)
article9.jp/wordpress/?p=16323
聖火リレーは「五輪ファシズム」の象徴(2021年2月17日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16341
政治的な国民精神総動員システムとしてのオリパラを「五輪ファシズム」と呼ぶとすれば、経済面で大資本の収奪を可能とするオリパラの機能を「祝賀資本主義」と呼ぶ。「惨事便乗型資本主義」からの着想で生まれたという「祝賀資本主義」。『週刊金曜日』2月26日号の特集「五輪はオワコン」の中の一編。鈴木直文「オリンピックに経済効果なし」が、この点を、短く、読み易く、手際よくまとめている。
鈴木直文論稿は、積極・消極の東京五輪中止論の区別を意識してこう言っている。「今回の東京大会は、あまりにもお粗末で醜悪な舞台裏の状況がかなり溢れ出てきていますが、それでもまだオリンピックそのものの構造的問題への批判というよりは、新型コロナウイルス感染拡大への懸念から中止、または最延期するべきであるという意見が多いようです。」
「オリンピックそのものの構造的問題への批判」として、鈴木が論じるのが、「祝賀資本主義」である。下記が核心部分である。
「際限なく膨張した開催費用の用のほとんどは税金です。納税者は長年にわたり多大な負担を強いられるが、大企業とIOCはその利益を独占するのです。
米国の政治社会学者ジュールズ・ボイコフはこの原理を「祝賀資本主義」と呼び、これが、20世紀後半以降のオリンピックの歴史を通じて肥大してきたと言っています。招致をめぐる政治的意思決定の舞台裏が大衆の目にふれることはなく、表では官民が一体となったプロモーションでお祭り気分を盛り上げる。そして、大衆が世界的なスポーツの祭典に酔っているうちに、実はさまざまな形で公共の資産が民間の大企業へと移転される構造がっくられます。」
政治的には「五輪ファシズム」、経済的には「祝賀資本主義」。これこそが、五輪に対する構造的批判と言えよう。
なお、週刊金曜日2月26日号特集「五輪はオワコン」に掲載された下記4本の論稿は、いずれも積極的反対論を展開しており、教わることが多い。
本間龍(インタビュー) 「五輪は『負けてやめられなくなったパチンコ』」「莫大な税金の無駄遣い」「沈黙するメディア」「投資ビジネスの五輪」
鈴木直文 「オリンピックに経済効果なし」「都市経済は成長せず、貧富の差が拡大する」
來田享子 「差別を克服し未来を開くという五輪の意義を知って招致したか」「ジェンダー平等目指す五輪の方針と逆行」「五輪の歴史に汚点残したバッハ会長」
武田砂鉄 「五輪は中止すべき。以上」
武田砂鉄執筆記事の中に、「2013年9月、2020五輪の開催都市が東京に決まった瞬間の安倍晋三氏、森喜朗氏ほか」という、今となっては恥ずかしい限りの例のバンザイの写真が掲載され、みごとなキャプションが添えられている。
体を痛めている人が
路肩に倒れている。
その人に向けて
「俺たち、これからカラオケに
行くんで、歌声を聞いて
元気になってくださいよ」と
告げる人たち