澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

象徴天皇制とは、誰をも幸福にしない制度である。

(2021年10月26日)
 秋篠宮の長女が本日婚姻届を提出した。本来結婚は私事でしかない。当事者の周囲だけが祝意を表すれば良いだけのこと。にもかかわらずの、なんという大騒ぎ。そして、目出度い様子はない。

 婚姻当日の新婦が、記者の質問に対して、「一番大きな不安を挙げるのであれば、私や私の家族、圭さん(夫)や圭さんのご家族に対する誹謗中傷がこれからも続くのではないかということ」とコメントをせざるを得ない事態。これは穏やかではない。意地の悪い大衆の非情さの所為か、あるいは愚かな天皇制のしからしむるところなのか。

 いずれにせよ、竹の園生に生まれた出自が、決して幸福にはつながらないのだ。なんの苦労もなく「特権を享受する立場にある人物」にも、宿命的にデメリットがつきまとう。楽あれば苦あり。良いとこ取りは許されない。

 身分差別の残滓としての象徴天皇制である。天皇や皇族は、生まれながらにしてその地位に縛られ、『その立場からの脱出の自由』はない。天皇制とは誰をも幸せにしないシステムである。一刻も早くなくするに越したことはない。

 旧憲法は天皇の正統性の根拠を神の末裔であることに求めた。いい大人たちが、本気でそう考えていたとしたら噴飯物で滑稽至極というほかはない。日本国憲法が国民主権原理を宣明したとき、天皇制を廃棄すべきが至当であったが、いくつもの思惑が重なって、天皇制は生き延び戦犯裕仁も天皇位を保持した。

 日本国憲法は、天皇の地位を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」とし、その根拠を「主権の存する日本国民の総意に基づく」とした。が、天皇の人権に関する規程はない。

 天皇の具体的な人権の保障とその制約のあり方は、可能な限り国民と同一のものとすべきであろう。「象徴」とは特別の権限も権能もないことを表現するための用語で、「象徴」から演繹される特権も不利益もない。

 なにせ、神であることを否定した「生身の人間」を無理やりに象徴としたのだ。天皇の私的生活の領域を認めざるを得ない。その私的領域においては、天皇も私人として当然に権利義務の主体となり得る。

 裁判所も、できるだけ天皇の私人としての権利を認めてやればよいのにと思うが、現実には、その逆の立場をとっている。その典型が、前回の天皇交代の際に、天皇を被告として起こされた「不当利得返還代位請求訴訟」(住民訴訟)の判決。天皇は民事訴訟の被告たり得ないと判断された。論理の必然として、天皇は原告として民事訴訟を提起する資格もないとされたことになる。事件は、次のようなもの。

 昭和天皇(裕仁)は1988年9月に吐血して重体に陥った。このとき千葉県知事沼田武は1988年9月23日から1989年1月6日までの間、昭和天皇の病気快癒のために県民記帳所を設けた。当然そのための公費の支出を要し、その支出の合法性が争われた。天皇(裕仁)は1989年1月7日に死亡し、その地位は長男である明仁が継承した。

 千葉県民である原告は当該公費支出は違法であり、明仁(第125代天皇)は記帳所設置費用相当額を不当に利得したとして、地方自治法第242条の2第1項第4号に基づいて、千葉県に代位して裕仁の相続人である明仁に対して損害賠償請求の住民訴訟を提起した(現在は少し制度が変わっている)。曲折はあったが、結局天皇の裁判を受ける権利が否定された。

 1989年7月19日に東京高裁は「仮に天皇に対しても民事裁判権が及ぶとするなら、民事及び行政の訴訟において天皇と言えども被告適格を有し、また証人となる義務を負担することになるが、このようなことは日本国の象徴であるという天皇の憲法上の地位とは全くそぐわないものである。そして、このように解されることが天皇は刑事訴訟において訴追されるようなことはないし、また公職選挙法上選挙権及び被選挙権を有しないと一般に理解されていることと整合する」として控訴を棄却した。説得力のない相当に無理な説示である。

 1989年11月20日に最高裁判所はこれを基本的に是認して、「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることに鑑み、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものであるが、本件訴えを不適法とした第一審判決を維持した原判決はこれを違法として破棄するまでもない」として上告を棄却した。

 「象徴」という言葉からこのような結論を引き出したことにおいて、この判決は学説から頗る評判が悪い。評判は悪いが、この「記帳所事件」判決は、天皇に民事裁判権がないとした判例として語られている。

 天皇予備軍としての皇族の立場は天皇とは違ったものではある。が、その私的な領域を狭められ否定されることによって、非人間的な境遇を強いられることにおいては同様である。国民の人権意識の成熟までは、同じような皇族バッシングが続くことにならざるを得ない。

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