澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国旗国歌強制を当然とする小池百合子は、都知事としてふさわしくない。

世論調査では都知事選での小池百合子優勢が伝えられているが、この人の何が都民にとっての魅力なのか理解に苦しむ。石原慎太郎よりは猪瀬が少しはマシかと思い、石原後継の呪縛から逃れがたい猪瀬よりも舛添が数段マシだろうとも思った。しかし、小池は最悪だ。また、振り出しに戻って、暗黒都政の再来となりかねない。

本日の赤旗が、小池百合子の国旗国歌に対する姿勢を取り上げている。「沖縄での『国旗』『国歌』扱い攻撃」「強制とたたかう人々非難 小池百合子都知事候補」という見出し。その記事の全文を紹介しておきたい。

「東京都知事候補の小池百合子元防衛相が、2013年5月26日に自民党本部内で行った講演で、沖縄県内での「国旗」「国歌」の扱いを批判し、沖縄タイムス、琉球新報の論調を攻撃していたことが分かりました。
 講演は、改憲右翼団体「日本会議」と連携して改憲や「教育再生」を主張する「全国教育問題協議会」が主催した「教育研究大会」で行ったもの。
 当時自民党広報本部長だった小池氏は『日本の教育を変えていく最大のポイントはメディアにある』と主張。サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を記念して安倍政権が政府主催の「主権回復の日」式典を開催したことに関連し、4月28日を祝日にすべきだと述べつつ、沖縄の2紙が同日を「屈辱の日」だとする論調で報じたことを批判しました。

 その上で、『沖縄では国旗が非常に粗末に扱われ、国歌でさえまともに歌われていない』『国歌は当然のことながら、大切に手を胸に当てて歌うものだ。それを立つの、立たないのと裁判をしているような国は私は聞いたことがない。これらをあたかも正当化するような報道をし続けているのがメディアだ』などと、「国旗」「国歌」強制を当然視する発言を繰り返しました。
 小池氏の発言は、沖縄戦で悲惨な被害を出し、戦後もサンフランシスコ平和条約で本土から切り離され、米国の支配や基地問題に苦しめられた沖縄の人々への攻撃であり、憲法が保障する思想信条の自由に基づいて「国旗」「国歌」の強制とたたかう全国の人々まで攻撃するものです。」

国旗国歌は国家の象徴である。個人が、国家をどう認識するかが、そのまま国旗国歌にどのように接するかの態度としてあらわれることになる。国家を大切に思う人は、国旗国歌を大切に扱えばよい。国家一般を、あるいは現政権が運営する国家を、個人の自由の敵対者だと思う者は、国旗国歌に抗議の意志を表明することになる。これは、純粋に思想の自由の問題であり、自由な思想を表現する自由の問題である。

問題は、国旗国歌を尊重する思想を強制したいという「お節介で、困った人びと」が、国旗国歌を大切に扱うよう他人の行動に介入しようということだ。典型的には、戦前の国防婦人会の面々の如くに。この「お節介で、困った人びと」が権力を握ると、「恐るべき超国家主義国家」への歩みが始まることになる。小池百合子は、そのような歩みを進める危険な政治家ではないか。

価値観の多様性への寛容は民主主義社会の中核に位置する。国家に関する価値観の自由はさらにその根幹に関わる。国旗国歌に対する姿勢における寛容度は、その国や社会の民主主義到達度のバロメータと言ってよい。

「国歌は当然のことながら、大切に手を胸に当てて歌うもの」という小池の思い込みは、個人の思想としては自由でそれで咎められることはない。しかし、「国歌は当然のことながら、大切に胸に手を当てて歌う人もいれば、黒い手袋の拳を上げて抗議の意思を表明する人もいる。また、国旗を焼き捨てることが国家への批判を表明する手段となることもある」のだ。

「立つの、立たないのと裁判をしているような国は私は聞いたことがない」ですって? ならば、聞きたい。国歌斉唱時に起立を強制している国をご存じだろうか。かつての文部省が調査をしている。韓国と中国には、そのような強制があるようだ。当然韓国と臨戦状態にある北朝鮮にもあるだろう。しかし、欧米の民主々義を標榜する先進諸国に関する限り、「国家が国民に対して、立てだの、唱えだのと強制をしているような国があろうとは、私は聞いたことがない」。

この点に関心を持って、ちょっと調べたら、次の記事が目にとまった。『文藝春秋』2008年1月号の小池寄稿を引用するウィキペディア記事。
「小池が自由党を離党して保守党に参加し、小沢と決別した理由については、「ここで連立政権を離れて野党になれば、小沢氏の『理念カード』によって、政策の先鋭化路線に再び拍車がかかることは想像できる。一方で、経済企画庁の政務次官の仕事を中途半端に投げ出すことには躊躇した」「少々心細くもあったが、実は『政局』と『理念』の二枚のカードに振り回されることにも、ほとほと疲れていた。」「かつて小沢さんは、自由党時代に取り組んだはずの国旗・国歌法案について、自民党との連立政権から離脱するなり、180度転換し、『反対』に回った。国旗・国歌法案は国家のあり方を問う重要な法案だ。政治の駆け引きで譲っていい話ではない。同じく外国人地方参政権の法案についても自由党は反対だったはずだが、公明党の取り込みという目的のために、『賛成』へと転じたことがある。国家の根幹を揺るがすような重要な政策まで政局運営の“手段”にしてしまうことに私は賛成できない。これが私が小沢代表と政治行動を分かとうと決意する決定打となった」と説明している。

小池にとっては、国旗国歌の強制は、「国家のあり方」を決定づける重要な理念なのだ。かつて「政界渡り鳥」との揶揄に対して、「変わったのは、私を取り巻く環境であって、私の信念は一貫している」と弁明したことがある。一貫している小池の信念とは、ウルトラナショナリズムの理念にほかならない。こんな人物を、いやこの人だけは、知事にしてはならない。
(2016年7月25日)

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