転向を強要してはならない。良心に鞭打ってはならない。ー「服務事故再発防止研修」強行に抗議する。
本日、服務事故再発防止研修受講を強いられているT教諭を代理して、代理人弁護士の澤藤から抗議と要請を申しあげる。直接には、東京都教職員研修センター総務課長に申しあげるが、抗議と要請の相手は、東京都教育委員会と都知事だ。これから申しあげる抗議と要請の趣旨をよろしくお伝えいただきたい。
T教諭は、今年(2016年)3月、勤務先の特別支援学校卒業式において「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(減給10分の1・1月)を受けた。これは、憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を蹂躙する暴挙と言わざるをえない。少なくとも、懲戒権濫用として取り消しを要する違法な処分だ。
あらためて申しあげるまでもなく、すべての人は、それぞれ固有の精神生活をもっている。この精神生活の核心にあるものを憲法は、「思想」あるいは、「良心」と表現している。人が人であるために、自分が自分であるために、けっして譲ることのできない、思想と良心とが誰にもある。もとより、その思想および良心は自由でなくてはならない。国家に思想や良心の持ち方に関して、干渉される筋合いはないのだ。
憲法19条が、「思想および良心の自由はこれを保障する」とわざわざ定めたのは、戦前のウルトラ国家主義時代の反省に基づくものである。この時代、天皇を中心とする國体思想が国家公認のイデオロギーとされ、国民にはこの国家公認のイデオロギー受容が強制された。一方、これに反する多様な思想や良心が強権的に排斥された。
とりわけ、国策である富国強兵と植民地拡大に反対する思想や良心は権力に不都合として、徹底した弾圧を受けた。平和を唱え、民族の独立を支援する思想や良心には、非国民・国賊という悪罵が投げかけられた。記憶すべきは、この忌まわしい時代にも、思想や良心の自由をかけがえのないものとして、飽くまでこれを守り抜こうと、権力に抗って弾圧の犠牲となった少からぬ人びとがいたことである。
この、思想・良心や信仰が乱暴に蹂躙された苦い経験の反省の上に、戦後ようやく日本国民は憲法19条を手にしたのだ。けっして、これを絵に描いた餅にしてはならない。思想や良心をむち打つようなことをしてはならない。誰のものであれ、思想や良心を傷つけてはならない。公権力が、特定の思想を価値あるものとしてこれを国民に押しつけ、他方、特定の思想を嫌って、その思想からの転向を迫るような、野蛮なことをしてはならない。
とりわけ、学校で再び国家主義を鼓吹する教育を強行してはならない。教員に対して、ナショナリズムや愛国心を強制するような形で、教員の思想良心を蹂躙するようなことがあってはならない。
T教諭が「日の丸」の前で起立して「君が代」を歌うことができなかったのは、「日の丸・君が代」をかつての侵略戦争や植民地支配のシンボルとして捉えているからだ。あまりに深く、忌まわしい戦争と民族差別に結びついたこの旗とこの歌。これに敬意を表することは、結局のところ侵略戦争や他民族支配に、無自覚・無反省であることを意味することにほかならない。そのことは、国内外の多くの人びとの平和に生きる権利を否定することであり、民族差別を肯定することでもあって、到底、起立斉唱などなしうるものではない。
また、教師である自分が生徒の前で「日の丸・君が代」に起立斉唱することは、生徒に対する「日の丸・君が代」への敬意表明強制に加担することとして、教師としての良心が許すところではない。
T教諭は、自分の思想と、教員としての良心に恥じない姿勢を貫こうとしたのだ。日本国憲法は、このような国民の思想・良心の自由を尊重せよ、侵害してはならないと、公権力に命じている。だから、東京都教育委員会は、T教諭を、その思想・良心に基づく行為に対する偏狭な政治的・社会的圧力から擁護しなければならない。
ところが、都教委はまったく正反対のことをしている。思想・良心にしたがった真面目な教員を擁護するどころかこれを処分し、あまつさえ、これに追い打ちをかけてT教諭に「服務事故再発防止研修」という名目で、思想・良心の転向を強要しているではないか。
都教委と研修センターとは、自己の思想・良心を貫いたT教諭に、いったい何を研修せよ、何を反省せよ、というのか。
日本の行った侵略戦争と植民地支配が、実は正しいものであったと歴史観を変更せよ、というのか。侵略戦争を唱導した天皇制国家に誤りはなかったと認めよ、というのか。戦争や植民地支配を正当化した、日本の優越意識や民族差別を肯定せよというのか。あるいは、教育公務員である以上は、唯々諾々といかなる職務命令にも無批判に従えというのか。教室においては、自らの思想や良心の一切を捨てよ、というのか。思想や良心は捨てなくてもよいから、面従腹背の生き方を教師として子どもたちに模範を示せというのか。あらためて、「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議する。
服務事故再発防止研修には、2004年7月の司法判断がある。「研修執行停止申立に対する東京地裁決定」で、担当裁判官の名を冠して、「須藤決定」と呼ばれているものだ。
須藤決定はこう言っている。「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」
違法の要素とされているものは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ」ること、「自己の非を認めさせようとする」ことである。T教諭は、確固たる自己の思想と良心に基づいて起立斉唱を拒否している。「繰りかえし同一内容の研修を受けさせる」とは、研修実施者において、服務事故とされている被研修者の行為が、実は被研修者の思想・良心にもとづく行動だと分かったあとも、研修を継続するということを意味する。思想や良心に基づく行為に対して、「自己の非を認めさせようとする」ことは許されないのだ。
T教諭に対する、同じ研修の繰りかえしは今日が4度目だ。もはや研修の名による追加処分以外のなにものでもない。既に、研修の名による、転向強制となっているではないか。
古来より、「我が心 石にあらざれば 転ずべからず」「我が心 蓆にあらざれば 巻くべからず」と言われるとおり、思想や信条、良心や信仰というものは、容易にうごかすことはできない。取り去ったり、形を変えることもできない。人が人であり、自分が自分であるための精神の核心に位置するものなのだから、公権力がこれを動かそうなどとしてはならないものなのだ。
本日、あなた方は、T教諭をここ研修センターに呼び出して、いったい何をしようというのか。けっして、教諭の思想を弾劾してはならない。良心をむち打ってはならない。憲法に反する行為に加担することのないよう、厳重に抗議と要請を申しあげる。
(2016年8月29日)