ネトウヨ・産経グループの差別記事に負けるなー蓮舫候補にエールを送る
戦争と差別は、緊密に結びついてきた。差別こそは、平和や共生の最大の敵である。人種や民族間の差別意識が憎悪や猜疑を生む、これなくしては戦争も戦争準備も成り立たない。だから、戦争や戦争準備をたくらむ勢力は、必ず差別意識の醸成に狂奔する。かつての日本は、「暴支膺懲」「鬼畜英米」、そして朝鮮人にもロシア人にも根拠のない差別感情をむき出しにした。支配勢力の意識的な操作に民衆が呼応したのだ。同時に何の根拠もない、自民族優越の「信仰」が蔓延した。
それゆえ、平和を望む勢力は、差別を振りまく勢力と意識的に闘わなければならない。永年にわたって民衆の中に培われ刷り込まれた、根強くある人種差別や民族差別の意識の払拭に努めなければならない。
差別とは、内と外の峻別を基礎とする。内なる仲間と、外なる他者との明確な区分が不可欠なのだ。その上で、内には仲間意識を醸成して、外なる他者を排撃する。差別主義者には、内と外との境界上にある存在の取り扱いがやっかいとなる。ときに、内なる仲間の純化のために、境界上にあるものが排撃の対象となる。この境界上にある者の典型が、在日であろう。在日に接する態度において、日本に居住する者すべてが、差別に関する感性や、その立場性を問われている。
民進党代表選に立候補している蓮舫に「二重国籍疑惑」が生じているという。例によって、ネトウヨが騒ぎ立て、産経が尻馬に乗っている。私たちの差別意識払拭の程度が試されていると言わなければならない。
蓮舫が中華民国との二重国籍だったらいったい何がどう問題だと言うのか。日本国民の「お仲間意識」から見過ごせないというのが、実は民族的な差別意識のなせる業というものにすぎない。
未開の時代、皮膚の色が異なり言語を異にする人が接すると、お互いがお互いを恐れた。これを克服して理解し合ってきたのが文明の進歩であったはず。国籍の違いは、取るにたりない人為的に付された記号の違いでしかない。国籍の壁が人間相互間の交流や理解を妨げるわけがない。その違いを大袈裟に言い立てる姿勢自体が、野蛮な差別主義と非難されなければならない。
もっとも、今は国民国家が分立している国際情勢下、それぞれの主権国家が定める国籍の取り扱いに従うしかない。それはやむを得ないとしても、それ以上のものではない。日本国籍を持っている蓮舫が、国会議員としても、政党党首としても、さらには内閣総理大臣としても、なんの差し支えもない。仮に、二重国籍であろうとも欠格要件にはあたらない。法的になんの問題もないのだ。
産経の記事では、「首相の資質の根源に関わる国籍に無頓着だったのは致命的といえる。」という根拠のない断定には驚いた。こういう輩が、戦前には戦争協力や天皇制鼓吹の手先となったのだと不愉快極まりない。蓮舫が日本国籍を持っている以上、首相の資格になんの問題もない。「資質の根源に関わる」「致命的」などと大袈裟にいう根拠はなく、差別感情丸出し以外のなにものでもない。
しかも、経過から見て「蓮舫が国籍に無頓着であった」とはいいがたい。朝日が報じる、「蓮舫氏は85年に日本国籍を取得した際、父とともに大使館にあたる台北駐日経済文化代表処を訪ね、台湾籍の放棄を届け出たと説明してきた。7日の報道各社のインタビューで、台湾籍を放棄する書類を再び代表処に提出した理由について『台湾に31年前の籍を放棄した書類の確認をしているが、「時間がかかる」という対応をいただいた。いつまでに明らかになるかわからない』と説明。あくまで『念のため』だと強調した。」で、十分に説明責任は尽くされている。
私は、民進党に関わりはないが、野党第一党の代表選挙には注目している。いま、産経からの言いがかりに民進党がどう対応するのか、試されており国民が注視している。真偽のほどは定かではないが、産経の報道のとおりに、「代表選で蓮舫氏と争う玉木雄一郎国対副委員長の陣営幹部は『ウソを重ねているように映る蓮舫氏に代表の資格はない』と断言。前原誠司元外相の陣営幹部も『きちんと説明すべきだ』と追及する構えをみせる。」ということであれば、この党に未来はない。むしろ、「差別を許さない」「ネトウヨ・産経グループの不当な介入を許さない」と民進党が挙って声を上げれば見直されるのではないか。
こうなれば、蓮舫候補の圧倒的勝利を期待したい。右翼が騒いでも失敗するだけ、反対の結果となるという実績をもう一つ積み重ねていただきたい。
(2016年9月8日)