元号に関する朝日社説を駁する。
天皇(明仁)が、高齢を理由に生前退位の希望を公にしたのが昨年(2016年)8月8日。ビデオメッセージで国民に語りかけるという異例の手段でのこと。あれから今日でちょうど1年となる。この間に、政府と国会は、まことに素早い対応で、天皇の希望を実現する法改正を行った。一方、弱い立場にある国民の権利救済立法にははなはだ冷淡である。たとえば、深刻な空襲被害者などへの援護法を作れという立法運動が、戦後70年余を経てまだ実現していない。この国と社会は、明らかにバランスを失している。
天皇の生前退位にともなって、いくつか国民生活に影響を及ぼすことがある。その最たるものが元号の使用に関することだろう。昨日(8月7日)の朝日新聞社説が、この問題を取り上げている。「元号と公文書 西暦併記の義務づけを」というタイトル。内容は、なんとも中途半端な論説だが、公文書への西暦併記の義務づけ」は半歩ほどの前進というべきだろうか。以下に、全文を紹介しつつ、評釈したい。
政府は来月にも皇室会議を開き、天皇陛下の退位と改元の日取りを決めるという。新しい元号の発表はこの手続きとは切り離され、来年になる見通しだ。
代替わりは多くの関心事であり、日常のくらしにも少なからぬ影響が及ぶ。「来年夏ごろまで」とされていた改元時期の決定が早まるのは歓迎したい。
天皇という公務員職の交代が、元号の交代と結びつけられている。一天皇に一元号。この一世一元の制度は近代天皇制の発明品であって、伝統や文化とは無縁の政治的産物である。もっとも、今次の皇室典範改正までは、天皇の死亡だけが天皇の交代原因で、同時に元号の交代原因でもあった。つまり、新天皇の即位からその天皇の死までの期間が、一個の元号によって時の流れを表記することになる。国民意識において、時代を、あるいは時の流れを、ときの天皇の在位と結びつけようという偉大な国民統治の技術である。今回天皇の生前退位を認めたことから、若干の制度変更となって、天皇の死と切りはなされた元号の交代がありうることとなったが、「一天皇の在位と一個の元号」の対応関係は変わらない。
この社説には、天皇制と一体となった元号使用の当否についての問題意識の表明はない。むしろ、「改元時期の決定が早まるのは歓迎したい。」と、問題なしとの認識が述べられている。これがわが国を代表する「リベラルなクォリティ紙」の水準ということなのだろうか。
ところで、「代替わりは多くの関心事」とは意味不明の文節。「代替わり自体が多くの人にとっての関心事」という意味だろうか、あるいは「代替わりには、多くの関心事が伴うことになる」という意味なのだろうか。いずれにしても、「代替わりへの関心」についての朝日の論説には、現代の天皇制や、それを支える国民意識の問題点に切り込む視点はない。
1年前の陛下のビデオメッセージは、象徴天皇のありようや国民との関係について議論を深める良い機会となった。今後の作業においても、常に主権者である国民の視点に立って考えることが欠かせない。
朝日は天皇(明仁)がビデオメッセージ放映という手段で生前退位希望の法改正を実現した、この違憲の疑い限りなく濃い行為の問題性をほとんど認識していない。また、天皇の象徴としての行為拡大の危険性に思い至ってはいないようだ。それでいて、どうして「常に主権者である国民の視点に立って考えることが欠かせない。」などと言えるのだろうか。
中国で始まった元号は皇帝による時の支配という考えに源があり、民主主義の原理と本来相いれないと言われる。一方で長い定着の歴史があり、1979年に元号法が制定された。
ここは、明らかに舌足らず。もう少し正確に述べるべきだろう。たとえば次のように。
「中国で始まった元号は皇帝による時の支配という宗教的観念に源があり、政治的には元号の使用が服属の証しであった。この制度を模倣した古代日本は、元号の制定を天皇の権威の源泉の一つとして利用した。19世紀後半に、絶対君主制国家を築いた明治政府は20世紀中葉まで人民主権を否定して主権者天皇の神権的権威による統治を強行した。新制度としての一世一元は、70年余にわたって、国民意識と国民生活を規律し支配する制度として刷り込まれた。明らかに民主主義の原理と相いれない制度の強制の結果を「定着」と評価すべきではない。1979年に、強い反対運動を抑えて元号法が制定されたのは、法的整備がなければ、いずれは元号使用は消滅してしまうであろうという保守勢力の危機感の表れであった。」
この法律に基づき、新元号は内閣が政令で定める。意見公募をしないことが退位特例法で決まっており、一般の国民がかかわる余地がないのは残念だ。
「一般の国民がかかわる」ことができれば、国民がより緊密に天皇制と結びつくことができるのに、その「余地がないのは残念だ」ということなら、リベラル朝日のためにまことに残念だと言わざるを得ない。
改元の時期は「2019年元日」と「同4月1日」が検討されている。朝日新聞の世論調査では前者を支持する人が70%で、後者の16%を圧倒する。
政府はこうした意見を踏まえて、適切に判断すべきだ。
4月案は、年始は祝賀行事や宮中祭祀(さいし)が重なり、皇室が多忙なことから浮上した。しかし言うまでもなく、優先すべきは市民の日々の生活である。
年の途中で元号が変わるのは不便で、無用の混乱をもたらす。あえて世論に反する措置をとる必要はあるまい。
「改元の時期は『2019年元日』」という表記を元号ではできない。はしなくも、元号使用の不便さが露わになっている。
新元号使用開始の時期を「元日」とするか、「4月1日」とするか。「年の途中で元号が変わるのは不便」で、「優先すべきは市民の日々の生活」というのは、自明の結論であろう。しかし、「何年かに一度、突然元号が変わるのは不便」極まりない。「優先すべきは市民の日々の生活」であるならば、元号使用をやめて西暦表記に統一すべきであろう。
あわせて人々の便宜を考え、公的機関の文書について、元号と西暦双方の記載の義務づけを検討するよう求めたい。
これが、社説のタイトルとなっている「元号と西暦双方の記載の義務づけ」の提言である。もっとも、自ずから社会は西暦一本に絞られつつある。権力で強制しなければ元号とは亡ぶべき宿命をもっている。「せめて、元号と西暦双方の記載を」ということは分からないでもない。しかし、「この機会に元号廃止を」と主張すべきが社会の木鐸の使命ではないか。
既に併記している自治体は多いが、公の文書は事務処理の統一などを理由に元号使用が原則とされる。国民への強制はないものの、西暦に換算する手間を強いられることが少なくない。
併記の必要性は平成への代替わりの際も指摘された。国際化の進展に伴い、公的サービスの対象となる外国人もますます増えている。改元の日をあらかじめ決めることのできる今回は、運用を見直す良い機会だ。
利便性の問題だけではない。政策の目標時期や長期計画に元号が使われる例は多い。国民が国の進路や権力行使のあり方を理解し監視する観点からも、わかりやすい表記は不可欠だ。
事務作業が繁雑になるとの反論が予想される。だが、公的機関は誰のために、何のためにあるのかという原点に立てば、答えはおのずと導き出されよう。
最も望ましいのは西暦表記のみ。次善が、西暦と元号の併記。そして、元号表記のみの公文書が最悪である。朝日は、せめて次善策を、と主張しているわけだ。これは最善策への移行期として位置づけるべきだろう。国民生活の利便の視点からは、西暦表記への統一が望ましいことが自明なのだから。
(2017年8月8日)