澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

これが国際社会の良識から見た「日本の言論・表現の自由の惨状」だーデービッド・ケイの暫定調査結果を読む

安倍内閣発足以来、日本の言論・表現の自由は、惨憺たるありさまとなっている。
ほかならぬNHK(NEWS WEB)が、「報道の自由度 日本をはじめ世界で『大きく後退』」と報じている。本日(4月20日)の以下の記事だ。

「パリに本部を置く「国境なき記者団」は、世界各国の「報道の自由度」について、毎年、報道機関の独立性や法規制、透明性などを基に分析した報告をまとめランキングにして発表しています。4月20日発表されたランキングで日本は、対象となった180の国と地域のうち72位と、前の年の61位から順位を下げました。これについて「国境なき記者団」は、おととし特定秘密保護法が施行されたことなどを念頭に、「漠然とした範囲の『国家の秘密』が非常に厳しい法律によって守られ、記者の取材を妨げている」と指摘しました。」

日本は180国の中の72位だという。朝日は、「日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、14年は59位、15年は61位だった。今年の報告書では、『東洋の民主主義が後退している』としたうえで日本に言及した。」と報じた。アベ政権成立のビフォアーとアフターでこれだけの差なのだ。

ところで、72位? 昨年から順位を下げたとはいえ、まだ中位よりは上にある? 果たして本当だろうか。この順位設定の理由は、「特定秘密保護法が施行されたこと」としか具体的理由を挙げていない。しかし、実はもっともっと深刻なのではあるまいか。

昨日(4月19日)、日本における言論・表現の自由の現状を調べるため来日した国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が、記者会見して暫定の調査結果を発表した。英文だけでなく、日本語訳も発表されている。その指摘の広範さに一驚を禁じ得ない。この指摘の内容は、到底「言論・表現の自由度順位72位」の国の調査結果とは思えない。

最も関心を寄せたテーマが、放送メディアに対する政府の「脅し」とジャーナリストの萎縮問題。次いで、特定秘密保護法による国民の知る権利の侵害。さらに、慰安婦をめぐる元朝日記者植村隆さんへの卑劣なバッシング。教科書からの慰安婦問題のが削除。差別とヘイトスピーチの野放し。沖縄での抗議行動に対する弾圧。選挙の自由…等々。

ケイ報告についての各メディアの紹介は、「特定秘密の定義があいまいと指摘」「特定秘密保護法で報道は萎縮しているとの見方を示し」「メディアの独立が深刻な脅威に直面していると警告」「ジャーナリストを罰しないことを明文化すべきだと提言」「政府が放送法を盾にテレビ局に圧力をかけているとも批判」「政府に批判的な記事掲載の延期や取り消しがあつた」「記者クラブ制度は廃止すべき」「ヘイトスピーチに関連して反差別法の制定も求めた」などとされている。また、「(当事者である)高市早苗総務相には何度も面会を申し入れたが会えなかった」という。政府が招聘した国連の担当官の求めがあったのに、担当大臣は拒否したのだ。

今回が初めてという国連特別報告者の日本調査。あらためて、日本のジャーナリズムの歪んだあり方を照らし出した。これから大きな波紋を起こすことになるだろう。

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国連報告者メディア調査 詳報に若干のコメントを試みたい。()内の小見出しは、澤藤が適宜付けたもの。

【メディアの独立】
(停波問題)
「放送法三条は、放送メディアの独立を強調している。だが、私の会ったジャーナリストの多くは、政府の強い圧力を感じていた。
 政治的に公平であることなど、放送法四条の原則は適正なものだ。しかし、何が公平であるかについて、いかなる政府も判断するべきではないと信じる。
 政府の考え方は、対照的だ。総務相は、放送法四条違反と判断すれば、放送業務の停止を命じる可能性もあると述べた。政府は脅しではないと言うが、メディア規制の脅しと受け止められている。
 ほかにも、自民党は二〇一四年十一月、選挙中の中立、公平な報道を求める文書を放送局に送った。一五年二月には菅義偉官房長官がオフレコ会合で、あるテレビ番組が放送法に反していると繰り返し批判した。
 政府は放送法四条を廃止し、メディア規制の業務から手を引くことを勧める。」

事態をよく把握していることに感心せざるを得ない。放送メデイアのジャーナリストとの面談によって、政府の恫喝が効いていることを実感したのだろう。また、安倍政権の権力的な性格を的確にとらえている。権力的な横暴が、放送メデイアの「自由侵害のリスクある」というレベルではなく、「自由の侵害が現実化」しているという認識が示されている。危険な安倍政権の存在を前提にしての「放送法四条廃止」の具体的な勧告となっている。

(「記者クラブ」「会食」問題)
「日本の記者が、独立した職業的な組織を持っていれば政府の影響力に抵抗できるが、そうはならない。「記者クラブ」と呼ばれるシステムは、アクセスと排他性を重んじる。規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し、密接な関係を築いている。」

権力と一部メディアや記者との癒着が問題視されている。癒着の原因となり得る「記者クラブ」制度が批判され、「規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し密接な関係を築いている」ことが奇妙な図と映っているのだ。これを見れば、72位のレベルではなかろう。二ケタではなく三ケタの順位が正当なところ。

(自民党改憲案批判)
「こうした懸念に加え、見落とされがちなのが、(表現の自由を保障する)憲法二一条について、自民党が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との憲法改正草案を出していること。これは国連の「市民的及び政治的権力に関する国際規約」一九条に矛盾し、表現の自由への不安を示唆する。メディアの人たちは、これが自分たちに向けられているものと思っている。」

この指摘は鋭い。自民党・安倍政権のホンネがこの改憲草案に凝縮している。政権は、こんなものを公表して恥じない感覚が批判されていることを知らねばならない。

【歴史教育と報道の妨害】
(植村氏バッシング問題)
「慰安婦をめぐる最初の問題は、元慰安婦にインタビューした最初の記者の一人、植村隆氏への嫌がらせだ。勤め先の大学は、植村氏を退職させるよう求める圧力に直面し、植村氏の娘に対し命の危険をにおわすような脅迫が加えられた。」

植村さんを退職させるよう求める圧力は、まさしく言論の自由への大きな侵害なのだ。この圧力は、安倍政権を誕生させた勢力が総がかりで行ったものだ。植村さんや娘さんへの卑劣な犯罪行為を行った者だけの責任ではない。このことが取り上げられたことの意味は大きい。

(教科書検定問題)
「中学校の必修科目である日本史の教科書から、慰安婦の記載が削除されつつあると聞いた。第二次世界大戦中の犯罪をどう扱うかに政府が干渉するのは、民衆の知る権利を侵害する。政府は、歴史的な出来事の解釈に介入することを慎むだけでなく、こうした深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない。」

安倍晋三自身が、極端な歴史修正主義者である。「自虐史観」や「反日史観」は受容しがたいのだ。ケイ報告は、政府に対して、「歴史的な出来事の解釈に介入することを慎む」よう戒めているだけでない。慰安婦のような「深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない」とまで言っているのだ。

【特定秘密保護法】
(法の危険性)
「すべての政府は、国家の安全保障にとって致命的な情報を守りつつ、情報にアクセスする権利を保障する仕組みを提供しなくてはならない。しかし、特定秘密保護法は、必要以上に情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす。」

特定秘密保護法は、情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす、との指摘はもっともなこと。「市民の関心が高い分野」だけではなく、「国民の命運に関わる分野」についても同様なのだ。

(具体的勧告)
「懸念として、まず、秘密の指定基準に非常にあいまいな部分が残っている。次に、記者と情報源が罰則を受ける恐れがある。記者を処分しないことを明文化すべきで、法改正を提案する。内部告発者の保護が弱いようにも映る。」
「最後に、秘密の指定が適切だったかを判断する情報へのアクセスが保障されていない。説明責任を高めるため、同法の適用を監視する専門家を入れた独立機関の設置も必要だ。」

もちろん、法律を廃止できれば、それに越したことはない。しかし、最低限の報道の自由・知る権利の確保をという観点からは、「取材する記者」と「材料を提供する内部告発者」の保護を万全とすべきとし、秘密指定を適切にする制度を整えよという勧告には耳を傾けなくてはならない。

【差別とヘイトスピーチ】
「近年、日本は少数派に対する憎悪表現の急増に直面している。日本は差別と戦うための包括的な法整備を行っていない。ヘイトスピーチに対する最初の回答は、差別行為を禁止する法律の制定である。」

これが、国際社会から緊急に日本に求められていることなのだ。

【市民デモを通じた表現の自由】
「日本には力強く、尊敬すべき市民デモの文化がある。国会前で数万人が抗議することも知られている。それにもかかわらず、参加者の中には、必要のない規制への懸念を持つ人たちもいる。
 沖縄での市民の抗議活動について、懸念がある。過剰な力の行使や多数の逮捕があると聞いている。特に心配しているのは、抗議活動を撮影するジャーナリストへの力の行使だ。」

政府批判の市民のデモは規制され、右翼のデモは守られる。安倍政権下で常態となっていると市民が実感していることだ。とりわけ、沖縄の辺野古基地建設反対デモとヘイトスピーチデモに対する規制の落差だ。デモに対する規制のあり方は、表現の自由に関して重大な問題である。

【選挙の規制】 (略)
【デジタルの権利】 (略)

さて、グローバルスタンダードから見た日本の実情を、よくぞここまで踏み込んで批判的に見、提言したものと敬意を表する。指摘された問題点凝視して、日本の民主運動の力量で解決していきたいと思う。

但し、残念ながら、二つの重要テーマが欠けている。一つは、学校儀式での「日の丸・君が代」敬意強制問題。そして、もう一つがスラップ訴訟である。さらに大きく訴えを続けること以外にない。

国境なき記者団もこの報告書を読むだろう。さらには、来年(17年)国連人権理事会に正式提出される予定の最終報告書にも目を通すだろう。そうすれば、72位の順位設定が大甘だったと判断せざるを得ないのではないか。来年まで安倍政権が続いていれば、中位点である90位をキープするのは難しいこととなるだろう。いや、市民社会の民主主義バネを働かせて、安倍政権を追い落とし、72位からかつての11位までの復帰を果たすことを目標としなければならない。
(2016年4月20日)

中学校教科書(歴史・公民)の採択状況ー歴史修正主義「育鵬社」版と、その対極の「学び舎」版と

今年(2015年)は、4年に1度の中学校教科書採択の年にあたる。2016年から19年まで使う各教科の教科書を、各地の教育委員会がほぼ決め終わった。

教科書は全15科目。注目は、社会科3科目(地理・歴史・公民)のうちの歴史と公民の両科目。ここに、今回も歴史修正主義者グループの2社が参入しているからだ。「新しい歴史教科書をつくる会」(作る会)から分裂した「教科書改善の会」が教科書の版元として設立した育鵬社(扶桑社の100パーセント子会社)から、本家の作る会は自由社(藤岡信勝らが関与)から、似たような教科書を作って検定には合格している。

もっとも、自由社版の歴史教科書は、「虚構の『南京事件』を書かず、実在した『通州事件』を書いた唯一の歴史教科書が誕生! 自由社の『新しい歴史教科書』が文科省の検定に合格! 『つくる会』教科書の役割はますます重要に」と自賛する代物。

自由社版の、前回2011年公立学校採択は、石原都政下の都教委が特別支援学校10校について100冊(公民のみ)を採択したのが全国でのすべてだった。若干の私立校の採用があって、シェアは歴史が0.07%、公民が0.05%(文科省公表による)と無視しうる数字。今回、国公立校での採択は皆無となった。私立では、常総学院中・東京都市大等々力中・八王子実践中の3校のみの模様。もっとも、私立は集計が進んでいないようで、これからの増はありうる。

これに反して、育鵬社版の前回シェアは、歴史3.7%、公民4.0%と無視しえない。育鵬社は、今回全国で10%のシェアを目指すと豪語して、採択へ向けての運動を展開した。これを阻止しようとするカウンター運動も盛り上がり、この夏は熾烈な歴史・公民教科書採択の戦いでも熱かった。

結果は、まだ全国集計が確定していないが、冊数ペースで育鵬社系教科書が前回4%から6%強にシェアを伸ばした。10%の目標から見ればアチラも不満だろうが、こちらも危機感を持たざるを得ない。育鵬社の歴史・公民教科書は、安倍晋三の歴史修正主義・改憲路線と軌を一にしているからだ。

のみならず、文科大臣が右翼の下村だ。地教行法が改悪されて、首長の意向がストレートに教委に反映する制度ともなっている。その中で6%に押さえたのは、良識派の健闘と言えるかもしれない。

4年前の衝撃は横浜市と大田区だった。この日本最大の都市と大特別区で育鵬社版が採択となった。今年の衝撃は大阪だ。リベラルなはずだった大阪が、維新にかきまわされて、まったくおかしくなってしまっている。橋下・松井らの罪は大きい。

注目地域である東京、神奈川、大阪、愛媛を順に概観する。
まず東京。石原教育行政の遺物である東京都教育行政の右翼精神はいまだ「健在」である。都立の中高一貫校、特別支援学校の歴史・公民教科書に関して、都教委は前回に引き続いて、今年もはやばやと育鵬社版を採択した。しかし、採択は4対2の評決だったとされる。もうひとりが動けば、3対3となるところ。どうにもならないガチガチの都教委体制が、多少の揺るぎを見せてきている。来期に希望をつなぐ経過ではあった。

特筆すべきは、東京23区全部の教育委員会が育鵬社を不採択としたこと。大田区(28校・3500冊)も逆転不採択となった。都教委の動向や日本会議の首長に引きずられるのではないかと懸念されながらも、その他の各区もすべて不採択となった。教員・父母・地域の真っ当な教育を願う声と運動の成果である。

もっとも、都下では武蔵村山市が前回に引き続いて、小笠原村が今回初めて育鵬社を採択した。残念ながら、東京完勝とはならなかった。

次は大阪。前回の育鵬社採択は東大阪市(公民のみ)だけだったが、今回はこれに下記の各市が加わった。
 大阪市、河内長野市(公民のみ)、四條畷市、泉佐野市。
これが、市民・府民の意向の反映とは到底思えない。府政・市政を牛耳った維新勢力の教委への影響力行使の結果と見るしかない。もっとも、大阪市教委は、育鵬社版を採用しながら、帝国書院の歴史教科書と日本文教出版の公民教科書を補助教材として使うことも付帯決議している。育鵬社版の問題点や批判は意識してのことなのだろう。

次いで神奈川である。ここは、松沢成文知事(つい先日次世代を離党)、中田宏横浜市長(これも次世代)という保守政治家の影響下に教育委員が選任されたところ。前回は、県立高2校と、横浜市、藤沢市で育鵬社版が採択されていた。
今回、県教委は県立高の歴史・公民についてともに新たに東京書籍版を採用した。教科書使用部数において日本最大の選択地域である横浜市教委では、今回無記名投票で3対3の同数となり岡田優子教育長の職権で育鵬社版を採択したという。藤沢市も前回に引き続いての採択となった。

次いで、以前から問題の愛媛県。今回は、県都松山市と新居浜市が初めて歴史のみ採択となった。四国中央市と上島町が前回に引き続いての歴史・公民の採択。しかし、今治市は、8月28日歴史・公民とも前回の育鵬社版から変更して東京書籍版を採択している。以上、一進一退のせめぎ合いが続いているとの印象が深い。

なお、都県レベルでの採択は、東京・千葉・埼玉・山口・福岡・香川・宮城(歴史のみ)に及んでいる。神奈川が、逆転不採択となったのは前述のとおり。

また、前回に続いて栃木県大田原市、沖縄県石垣市・与那国町(公民のみ)、広島県呉市、山口県岩国市・和木町、防府市の採択があり、今回新規の採択として、石川県の金沢市(歴史のみ)・小松市・加賀市がある。

一方、逆転して両科目不採択となったのが大田区と今治市だが、島根県益田市では歴史だけについて逆転、広島県尾道市では公民についてだけ逆転不採択となった。

なお、私立での採択は清風中(公民のみ)・浪速中・同志社香里中と、これまでのところいずれも大阪府内の学校のようだ。

全国の公立校の採択地区数は580を数えるという。その内、確認される育鵬社版の採択地区数は、30に満たない。微々たるもののようだが、横浜市・大阪市の比重が圧倒的に大きい。冊数単位では、両市だけで4.1%になるそうだ。それあっての全国シェア6%強である。次回の採択は、自ずから横浜・大阪決戦とならざるを得ない。

もう一つ、今年の特徴として「学び舎」の歴史教科書が出たことがある。「学び舎」版歴史教科書とは何か。下記の産経記事が雄弁に語っている。

「来春から中学校で使われる教科書の検定結果が4月6日に公表された。今回の検定では安倍政権の教科書改革が奏功し、自国の過去をことさら悪く描く自虐史観の傾向がやや改善された。だが、そんな流れに逆行するかのような教科書が新たに登場した。『学び舎』の歴史教科書である。現行教科書には一切記述がない慰安婦問題を取り上げ、アジアでの旧日本軍の加害行為を強調する-。」

産経がそう言っているのだから、よい教科書であることは折り紙付き。太田尭さんが推薦し、教育現場からの評価が高い。残念ながら、今年の公立中学校の採択はならなかったようだが、国立の筑波大付属駒場中、東京学芸大付属世田谷中、私立では、麻布中・獨協中・上野学園中・田園調布学園中等部・青稜中・東京シューレ葛飾中・金蘭会中・建国中・大阪桐蔭中・広島女学院中・活水中が「学び舎」版を採択したという。健闘しているといってよいだろう。こちらは教育委員会ではなく、校長が採択の権限をもっている。この動向が大いに注目される。

「フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です」という育鵬社系のブログでは、「筑駒、麻布といえばわが国有数の進学校で、国家公務員などのエリートを送り出しています。そこが想像以上に左翼体質にむしばまれているのです。教科書改善運動の新たなテーマは学び舎教科書の放逐です」と言っている。彼らなりの危機感である。

4年後の次回採択は、大阪・横浜の大都市地区の奪回と、学び舎版の進出が争点になってくるだろう。教科書が教育のすべてではない。しかし、教科書に何が書かれているかは、すこぶる重要だ。とりわけ、育鵬社の教科書採択運動は、歴史修正主義勢力拡張の運動としてなされていることから、無視し得ない。憲法や民主主義に関心をもつ者にとって、いよいよ歴史教科書・公民教科書の採択は注目すべき運動分野となっている。
(2015年9月3日)

「学び舎」版教科書「慰安婦」記述の受難ー検定基準が不当だ

4月6日に公表された中学校教科書の検定結果において、もっとも注目を集めたのは、「学び舎」版の「慰安婦」問題の記述である。学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社。今回が初めての検定申請となった。

学び舎版はいったん不合格とされ、再提出版が合格となった。合格とはなったが、不本意に大幅削除されてのこと。その結果、傷だらけにもせよ、4年ぶりに教科書に「慰安婦」問題の記述が復活した。その評価について、韓国の2紙(日本語版)が、やや異なった評価をしている。その2紙の抜粋と、教科書ネット21の俵義文氏の談話の一部をご紹介したい。

まずは、ハンギョレ新聞(4月6日)である。
「慰安婦叙述を復活させた『学び舎』教科書」「中学校教科書に4年ぶりに記述」という、肯定的な見出しになっている。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/20225.html

「暗い条件の中でも意味ある変化はあった。子供たちに正しい歴史を教えようと前・現職の歴史教師たちが集まって作った『子供と学ぶ歴史教科書の会』が設立した出版社『学び舎』は、今回検定を通過した教科書で、2011年以後中学校教科書からは消えた慰安婦関連記述を4年ぶりに復活させた。
ハンギョレが入手した学び舎の『社会』(歴史分野)検定通過本の281ページ「人権侵害を問い直す」には「1990年、韓国のキム・ハクスンさんの証言が契機となって、日本政府は戦時の女性に対する暴力と人権侵害に対して調査を行った。そして1993年に謝罪と反省の意を示す政府見解を発表した」と記述された。自身が日本軍慰安婦だったことを初めて明らかにしたキム・ハクスンさんの勇気ある証言を通じて、日本政府が1993年に慰安婦動員過程の強制性と日本軍の介入を認めた「河野談話」が誕生した事実を明確に示しているわけだ。同じページには「朝鮮半島で慰安婦の募集・移送などは概して本人の意志に反してなされた」という河野談話の主要内容も引用されている。…この教科書はまた、日本の植民支配と侵略に抵抗した韓国民衆の主体的な動きに焦点を合わせるなど、民衆史的観点の執筆を試みた。
 …中学校教科書に慰安婦記述が初めてされたのは1993年の河野談話が発表された後に出た1997年度検定教科書からだ。当時は7種の歴史教科書の全てに関連記述が含まれていたが、2002年には3種、2006年には2種に減り、2011年検定では全て消えた。今回文部省は、学び舎の初回原稿を一度不合格処理した後、「強制連行を直接示す資料は発見されなかった」という日本政府の見解を併記する条件で慰安婦関連記述を許容した。」

次は、朝鮮日報(4月6日付)である。
「教科書:文科省、学び舎の慰安婦記載を大幅削除」という記事。こちらは明らかに否定的な評価。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/07/2015040700897.html

「6日、日本の文部科学省による検定をパスした歴史教科書の中には、現役の教師たちが中心になって立ち上げた出版社『学び舎』が作成した教科書もある。
本紙が取材した韓日両国の教科書専門家たちによると、この出版社は当初、旧日本軍の慰安婦に関する内容を約2ページにわたって詳しく記載していたが、教科書検定の過程で不合格の判定を受けたという。
検定をパスする前、この出版社が文部科学省に提出した原本には、元慰安婦の故・金学順(キム・ハクスン)さんの証言が別のページで紹介されていた。金さんが日本政府に謝罪と補償を求めたという内容も盛り込まれていた。韓服(韓国の伝統衣装)姿の朝鮮の少女が日本軍に連行される場面を描いた、故キム・スンドクさんの絵も掲載されていた。東アジア各地に設置された慰安所の地図とともに『慰安婦たちは自らの意思に反して連れていかれた』という河野談話の内容も詳しく紹介されていた。また、国連人権委員会や米国議会で慰安婦問題が取り上げられたという最近の状況についても記述されていた。ところが、一度不合格の判定を受けた学び舎が、検定合格のため再び文部科学省に提出した原稿では結局、このような内容は大幅に削除された。金学順さんの証言やキム・スンドクさんの絵はなくなり、慰安所の地図も消えた。それだけでなく、日本の戦争責任を軽減しようとする日本政府の見解も反映された。河野談話を紹介した内容に続けて『日本軍や官憲による強制連行を直接示す資料は発見されていない』という説明が追加されたのだ。この時点で、慰安婦問題に関する分量は当初の半分程度に削減された。今回検定に合格した日本の中学校用歴史教科書で、慰安婦問題について記述したのは、学び舎の教科書だけだった。」

そして、俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)が、4月6日付の談話を発表している。社会科教科書に限定して今回の検定についての問題点を指摘するもので、「2015年度中学校教科書の検定について 政府の見解を一方的に教科書に強制する検定制度は廃止すべきである」というタイトル。まだホームページには掲載されていない。最大の問題点として、「新検定基準にもとづき政府見解を教科書に強要する検定」のあり方が指摘されている。

学び舎版が不合格となった際に、「欠陥」と指摘された記述は以下のとおりだったという。
「『朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、「慰安婦」として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった』という記述と、『日本政府も「慰安所」の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し』たこと、政府は『賠償は国家間で解決済みで』『個人への補償は行わない』としていること、そのため『女性のためのアジア平和国民基金』を発足させたこと、この問題は『国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになって』いることなどの客観的事実を述べた記述である。

その『指摘事由』は『政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない』ということであり、文科省の説明によれば、ここでいう『政府の統一的な見解』とは、『河野談話』発表までに政府が発見した資料の中には『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』とする辻元清美議員への答弁書(平成19年3月16日閣議決定)と、クマラスワミ報告書について『重大な懸念を示す観点から留保を付す旨表明している』とする片山さつき議員への答弁書(平成24年9月11日閣議決定)であるという。

…政府見解のみが唯一の正しい結論であるとして、政府見解のみを教科書に書かせ、それのみを子どもたちに教え込もうとすることは、民主主義社会ではあり得ない暴挙であり、愚行である。検定によって「慰安婦」記述が削除されたことが明らかになれば、国際社会からも激しい批判をあびることは必定である。このような検定行為はただちに撤回すべきである。」

「政府見解と異なることは教科書には書くな」「政府見解をそのとおりに教科書に書け」。これでは、国定教科書の復活ではないか。教育が教育行政からの不当な支配に服してはならないことは、改悪された教育基本法16条にも明記されている。これこそ教育法体系の根幹を貫く大原則である。それが、教科書検定の名で、ないがしろにされているのだ。
(2015年4月8日)

中学生の君たちに訴えますー教科書を鵜呑みにすることは危険です

中学生の皆さん。君たちは、明日の主権者です。もうすぐ、この社会を背負って立つことになります。今の国や社会のありかたには私たち大人が責任を持たねばなりませんが、バトンタッチは間近です。君たちが責任を持たなければならない時代がすぐそこにやってきます。

この世に生まれたすべての人が人として平等に尊重され、誰もがのびやかに自由に暮らすことのできる国。貧困や暴力に苦しむ人のいない暖かく明るい社会。障がいや病気や家族の不幸があっても、社会全体が困っている人に手を差し伸べるやさしい世の中。そして、国境を越えて、人々が仲良く暮らせる平和な世界。私たち、今の大人が目ざして果たせなかった、そのような輝く未来をつくることができるのは君たちなのです。

君たちは、その輝く未来をつくるために学んでいます。学校は、そのような学びの場としてとても重要です。そこではこれまでの多くの人々が長い年月をかけて確認してきた「真理」や「真実」の基礎を効率よく君たちに伝えようとしています。

君たちは、学校で「真理」「真実」を学ぶだけでなく、今の社会のよいものとよくないものとを区別してよいものを選びとる能力、さらに自分の考えでよりよいものをつくり出す能力を身につけなくてはなりません。それは、自分自身で、ものを見、ものを考え、自分の意見を持ち、自分の意見を堂々と語り、自分の意見のとおりに行動する力です。これは、簡単に身につくことではありません。しかし、とても大切で必要なことなのです。

学校とは、真理を学ぶとともに、自分でものを考え判断し行動する能力を身につけるところ。このことはけっして当たり前のことではありません。1945年の敗戦まで、学校とは真理を教えるところではなく、国家が都合がよいことを教える場所でした。自分でものを考え判断し行動する能力ではなく、国家が教えることを疑わずに従う態度を身につけるよう教えられたのです。一言で言えば、国家が望むような国民(当時は国民ではなく「臣民」と言いました)をつくりあげるための場所だったのです。

当時、日本の主人公は国民ではなく天皇でした。天皇は神であり、神の子孫であるとされたのです。日本は天皇をいただく特別の神の国であると、学校の先生が授業で、大真面目にそう教えたのです。

その頃の教科書は国がつくりました。これを国定教科書と言います。全国の小学校・中学校が、国がつくった同じ教科書を使って、国に都合のよいことを教え込んだのです。真理や真実よりは、国に都合よい考え方でできあがった教科書でした。

敗戦後、日本は国民が主人公の国として生まれ変わりました。教育についての考え方も世界の常識に基づいたものに変わります。「国が教育の内容を決めてはならない」「学校が生徒に教える内容に国が口出ししてはならない」そういう原則を確認しました。戦前の間違いを繰り返してはならないと、国定教科書は廃止されました。こうして、教科書は、出版社が自由に発行することができるようになったのです。

ところが、だんだんと政府は教科書の内容に口出ししてきました。いま、政府を動かしている人々にとって不都合な内容の教科書は書き直しを命じられ、これに応じないときは許可しないとされているのです。次第に、教科書のあり方は国定教科書時代にどんどん近づいて、とりわけ来年から使われる中学校の教科書の内容には批判の声が高くなっています。

いまや、教科書の記載内容が、真理や真実で貫かれているのか、疑うことが必要になっています。かつて、日本の多くの人が国定教科書で洗脳されたように、来年から新しくなる教科書が君たちを洗脳しようとしているのではないか、よく考えなければなりません。

たとえば、どこの国に属するかについて争いのある竹島や尖閣諸島について、「日本固有の領土であると教科書に記述せよ」というのが政府の方針です。多くの教科書出版会社は、悩みながらもこれに従わないわけにはいかなくなっています。

国際的な紛争で、相手方に言い分がないことなどはありません。しかも、領土問題は、こじれれば国際紛争に発展しかねません。お互いが、相手国の言い分にも、耳を傾けなければならない微妙な問題と言わねばなりません。日本の言い分だけが絶対に正しいと断定する教科書の記載は、中国や韓国を刺激することになるでしょう。

日本と同じく第2次大戦の敗戦国だったドイツは、歴史教科書を作成するについて、フランスやポーランドなど戦争被害を与えた近隣諸国の意見を取り入れて作成し、現在では、ドイツ・フランス共通歴史教科書が作成されています。

日本はドイツと違って、侵略戦争を仕掛けたこと、植民地支配をしたことについて、被害国の国民に対する謝罪や反省が不十分との批判が絶えません。この度の教科書作成はさらに、近隣諸国の批判の声を大きくしかねないと心配になります。

教科書に基づいて勉強しないわけにはいきませんが、教科書には真実が書いてあるはずなどと思い込むことは早計です。今の教科書作りには、大きな批判があることをよく知ってください。そして、日本だけが正しいという思い込みを捨てて、相手の言い分にも耳を傾け、何が正しいのかを自分の頭で考える力をぜひ身につけていただきたいと思います。

私たち大人の力が足りないばかりに、中学生の君たちに問題のある教科書しか提供できないことをお詫びするしかありません。それでも君たちには、何が正しいかを見抜く力を身につけて、輝く未来をつくっていただきたいのです。
(2015年4月7日)

教育行政が教員集団の力量を殺いではならない

昨日の当ブログは、教育がビジネスチャンスとされていることを取り上げた。本日は、教育が国民の思想統制手段となる危険について警告を発したい。

文科省は初等中等教育局長名で、各都道府県教育委員会などに宛て3月4日付「学校における補助教材の適切な取扱いについて」と題する通知を出した。同旨通達は1974年9月以来のことという。

この通知を発した動機と趣旨については、こう前置きされている。

「最近一部の学校における適切とは言えない補助教材の使用の事例も指摘されています。このため,その取扱いについての留意事項等を,改めて下記のとおり通知しますので,十分に御了知の上,適切に取り扱われるようお願いします。」「管下の学校に対して,本通知の内容についての周知と必要な指導等について適切にお取り計らいくださいますようお願いします。」

教育は本質的に自由で闊達なものでなくてはならない。専門職としての教師の判断によって、具体的な現場々々に相応しい創意に溢れた手法の採用が尊重されなければならない。かつての天皇制教育は、国定教科書による一方的な知識を詰め込み、思想や価値観までをも画一化しようとした。その反省から、戦後教育改革は国定教科書を排して複数の教科書の採択が可能な体制とし、補助教材の活用も当然のこととした。教育の場に、単一の価値観を押しつけてはならない、ましてや国家によるイデオロギーの注入は許されない。そのような文明世界の常識に従ったのだ。

いま、その原則が揺らいでいる。同通知は補助教材の使用が可能なことは確認している。しかし、決して「検定教科書だけに頼らず社会の多様性を反映した補助教材の積極的活用を」と奨励するものではない。教師による補助教材を活用した授業を牽制し、萎縮させる方向での通知の内容となっている。

たとえば、次のようにである。
「学校における補助教材の使用の検討に当たっては,その内容及び取扱いに関し,特に以下の点に十分留意すること。
・教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従っていること。
・その使用される学年の児童生徒の心身の発達の段階に即していること。
・多様な見方や考え方のできる事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと。」

しかし、これでは何が判断基準なのか不明確極まる。「教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従って」の補助教材使用と言っても、法も学習指導要領の記述も抽象性が高い。もちろん補助教材使用についての具体的な判断基準を意識したものではない。「特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」も同様である。権力が、「特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」と言えば、「時の政権の意見に従え」との意味にほかならないのが常識ではないか。

結局のところ、現場の教師は、上司・校長・教委・文科省、さらには政権の思惑を忖度して補助教材選択の可否を判断することにならざるをえない。萎縮効果は免れず、それこそが文科省の狙いというべきであろう。

さらにこの通知の問題は、次の記述にある。
「教育委員会は,所管の学校における補助教材の使用について,あらかじめ,教育委員会に届け出させ,又は教育委員会の承認を受けさせることとする定を設けるものとされており,この規定を適確に履行するとともに,必要に応じて補助教材の内容を確認するなど,各学校において補助教材が不適切に使用されないよう管理を行うこと。
 ただし,上記の地方教育行政の組織及び運営に関する法律第33条第2項の趣旨は,補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく,教育委員会において関与すべきものと判断したものについて,適切な措置をとるべきことを示したものであり,各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること。
 なお,教育委員会が届出,承認にかからしめていない補助教材についても,所管の学校において不適切に使用されている事実を確認した場合には,当該教育委員会は適切な措置をとること。」

これは、現場への締め付けであり、恫喝ですらある。
上記記述の第2段落には、確かに「補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく」「各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること」との言い訳は述べられている。しかし、わざわざこの通知が発せられたのはこの部分を強調するためではない。

この通知は、補助教材の使用については、教師は校長に、校長は教委に、事前の伺いを立てるようにせよとの通達として読むこともできる。このようにして、教育現場の管理をさらに徹底しようとする、政権と文科省の意図を読み取らなければならない。

この意図を傍証してくれるのが、本日の産経社説だ。いつものとおりの産経らしく、文科省の意図を忖度して、この通知のホンネを明らかにしてくれている。

タイトルは、「不適切教材 独り善がりの指導やめよ」というもの。その社説の中で、産経が「不適切な教材例」としているのは以下の事例。

「遺体の画像を配慮なく見せるなど教員の良識を疑わせる問題」「公立中学の社会科の授業で教諭が『日本海(東海)』と表記した地図を掲載したプリントを配る例」「高校の定期試験で安倍晋三首相の靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事を問題文に示して、生徒の解答を誘導するような事例」「過激組織「イスラム国」が日本人人質を殺害したとする画像を授業で見せる例」

産経も、「学校教育法で教科書のほかに副読本や教員の自作のプリントなど「有益適切」な補助教材を使うことが認められている」と言い訳めいたことを言っている。しかし同時に、「補助教材の使用にあたり校長の許可を得て教育委員会に届けるルールも守られていなかった」と強調している。

驚いたのは、産経社説の締めくくり。「文科省は通知で適切な教材を有効に活用することも促している。日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材こそ工夫してほしい。独善的な指導は多様な見方や考え方を損なう」というもの。

結局、「靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事」の使用は不可で、「日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材」は可というのだ。前者は独善で不適切、後者は多様な見方や考え方を示すものとして適切。恐るべき産経の独善。おそらくは政権も同意見。

なるほど、ナショナリストには、「日本の豊かな自然、国土や歴史」でなくてはならない。おそらくは、「豊かな」という形容詞は、「自然」だけでなく「国土や歴史」をも修飾するようだ。原発事故で荒れ果てた福島の自然や国土は、教材として取り上げるに不適切ということになろうし、侵略や植民地支配の日本の歴史も「豊か」ならざるものとして「理解を深める」対象から外されることになるのだろう。

教育現場の管理をさらに徹底しようというのがこの通知だが、教育を締めつけて窒息させてはならない。使用教材の適不適の判断には微妙な問題が絡む。最も適切で有効な批判は、現場の教師集団の意見交換の場においておこなわれるべきである。校長や経験豊かな教師、さまざまな信条を持つ教員集団の経験交流や意見交換の充実が何よりの優先課題というべきである。

真に憂うべきは、教育行政が教員の裁量を奪い、教員に対する管理を徹底することによって、教師集団から教育専門職としての力量を奪いつつあることではないか。教育行政は意図的にそのように仕向けているとの憂いを払拭できない。
(2015年3月14日)

崔善愛さんだから見えてくること

「子どもと教科書全国ネット21」の機関誌(「全国ネット21NEWS」)が先月15日付で100号となった。会の活動が充実していること、その活発な活動が求められている事態であることがよくわかる。

記事は、教科書採択問題にかかわる情報や運動を中心としながらも、これにとどまらない。教科書の内容を歪める要因となっている関連問題について、要領よくまとまった読み応え十分な記事が掲載されている。前田朗さんの「ヘイト・スピーチと闘うためにー二者択一的思考を止めて、総合的対策を」がその筆頭だろうが、心揺さぶられるものがあって、崔善愛(ちぇそんえ・ピアニスト)さんの寄稿を紹介したい。標題は、「市民にとっての『テロ』と、政府にとっての『テロ』」というもの。

冒頭の一文が、次のような問いかけとなっている。
「安倍政権が『テロとたたかう覚悟』としきりにいうとき、常に『外国人』によるテロ行為から『邦人』を守ることを想定している。しかし国内で、市民団体の平和を求めるデモが、右翼の街宣車に取り囲まれ、『殺すぞ』と大音響でののしられていることや、朝日新聞がたびたび襲撃されてきたテロにたいして『だたかう覚悟』をみせたことがあるだろうか。」
この視点は、少数者として差別される側に立たされ、果敢に差別と闘ってきた崔さんならではのものではないだろうか。

「路上で市民と警官が口論していたら、まずは市民の側に立て」とは、今は亡きマルセ太郎の遺訓である。「市民」に対する「警官」とは強者の象徴。「警官」は、政権・行政・企業・使用者・多数派・組織の上級・情報と権限の独占者・権威・世の常識などと置き換えてもよい。「市民」とは、労働者であり、消費者であり、店子であり、貧窮者であり、公害被害者であり、情報弱者であり、組織の末端であり、マイノリティーとして差別されている者のことである。要するに「弱い立場にある者」と「強い立場にある者」との衝突があれば、それぞれの主張の正邪や当不当を吟味する前に、とりあえずは「弱い立場にある者」の側に立て、という教訓である。

言うには易いが、その実践がたいへんに困難なことを幾度も経験した。「強い立場にある者」にも、それなりの世間に通りやすい言い分があるからだ。「大所高所に立って」「全体の秩序の維持のために」とのまことしやかな理由で、弱い立場にある者が切り捨てられる。弱者の側にこそ身を置こうと、常に意識し続けることは実は至難というべきなのだが、そのような姿勢を持ち続ける者にだけ不当な差別が明瞭に見えてくるのだと思う。

崔さんは続ける。
「わたしも34年前、指紋押捺拒否が報道されるや、脅迫の手紙や電話が実家に多数届いた。いつか後ろから刺されるかもしれない、と思うようになった。わたしのデビューコンサートで父は最前列に座り、右翼の襲撃があるかもしれないから、と言った。楽観的な私は、『彼ら』は遠くの人たちだ、と思うことにした。けれど最近、『彼ら』は決して亡霊でもなく、右翼だけでもなく、同じ共同体で生活する普通の隣人だった、と実感する。政治家、学者、学校、自治会、公共放送にも‥・戦争責任や君が代を問題にしようとすれば呼吸できない空間がせまる。『茶色の朝』は、このことだったのか。そして『彼ら』とは、誰なのか、その人脈が明らかになることをねがってやまない。」

崔さんは、このような視点から、植村隆さん(北星学園大学)とその家族への卑劣な「テロ」に怒り、植村隆さん支援を決意する。

さらに、耳を傾けるべきは、崔さんの実践から語られる、市民の側からの朝日への対応の在り方だ。
「これからも次々おそろしい統制が進むだろう。新聞と市民がもっと近づき応答しあわなければ、道はないのではないか。」というのがその基本姿勢。

崔さんは、最後をこう締めくくっている。
「『朝日新聞には、失望した』『大手新聞はもうだめだ』という声を、市民運動のなかでもよく耳にする。けれどもここで朝日新聞やメディアに失望したまま離れ、見離せば、結果的に朝日バッシングに加担することにもなり、わたしたちの言論の場が失われる。それこそが、『彼ら』の積年のねらい、朝日新聞を『廃刊』に追いこみ、戦争責任も『慰安婦』問題も強制連行もすべてなかったことにするための戦略なのだ。『慰安婦』問題を語るのに、君が代問題を語るのに、いちいち相当な覚悟をしなければ、公の場で語れない。昭和天皇が亡くなったときのような空気が、暗雲のようにこの国を覆いつづける。いつになれば、おもうことを存分に誰にでも話し、心おきなく議論することができるのだろう。その日をねがってやまない。」
私も、まずは崔さんの側に立って、崔さんの言葉に耳を傾けたいと思う。そうすると、指摘されて始めて気付くことが見えてくる。
(2015年3月8日)

道徳教育教科化の学習指導要領改定に反対するパブコメを出そうー実例編

① 学校教育法施行規則の一部を改正する省令案についての意見

案として示された学校教育法施行規則の一部「改正」と、小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部の各学習指導要領の「改正」に、いずれも全面的に反対し各「改正」案の撤回を求める。

省令の改正案は、「小学校,中学校及び特別支援学校小学部・中学部の教育課程における「道徳」を「特別の教科である道徳」と規定する」ものであるが、公教育において道徳を教科としてはならない。かつては「忠君愛国」「敬神尊皇」「尽忠報国」「滅私奉公」「修身斉家」「長幼の序」「男女の別」「自己犠牲」等々が疑問のない公民の道徳であった。それが崩壊した今、教訓として汲み取るべきは、「普遍的な道徳はあり得ない」ということでなければならない。

とりわけ、国家が子どもに、特定の道徳を刷り込んではならない。徳目の内容如何にかかわらず、国家が子どもに価値観を教科として教え込みこれを評価まですることは、多様な価値観の共存を当然とする憲法原則からは、国家の越権行為と言わざるを得ない。

明日の主権者が身につけるべき最も重要な資質は、批判精神であり抵抗の行動力である。権力を恐れず、富者に阿らず、多数に怯まない精神性である。そして、社会に順応するのではなく、社会を変革しようという姿勢と意欲である。

しかし、このように公教育が教えることはない。教科化された道徳は、時の秩序を維持し、時の政権を擁護し、時の多数に迎合する内容にしかなり得ない。

そのような、体制維持に資する道徳の教科化は、かつての国家主義的な天皇制教育の修身科と同様に、危険で有害なものとして反対せざるを得ない。百歩譲っても、無用、不毛なものとして改正の必要はない。

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②小学校・中学校学習指導要領案【第1章総則】 第1章総則について
「教育課程編成の一般方針」として、学校における道徳教育の「目標」と「留意事項」が掲げられている。
目標は、「人間としての生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」とされている。
これは恐ろしく無内容とか評しようがない。「人間としての生き方」「主体的な判断」「自立した人間」「他者と共によりよく生きる」のそれぞれの具体性こそが問題でなければならないが。これを具体化すれば結局は特定のイデオロギーを注入することにならざるを得ない。ここに、知育とは異なる、徳育の宿命的な矛盾がある。公教育における道徳の教科化や評価がそもそも無理なのだと判断せざるを得ない。

また、道徳教育を進めるに当たっての留意事項に挙げられているキーワードは、「人間尊重の精神」「生命に対する畏敬の念」「豊かな心」「伝統と文化の尊重」「我が国と郷土を愛し」「個性豊かな文化の創造」「平和で民主的な国家及び社会の形成」「公共の精神を尊び」「社会及び国家の発展に努め」「他国を尊重」「国際社会の平和と発展」「環境の保全」「未来を拓く」「主体性のある」であり、これが全て「日本人」に係り、そのような日本人の育成に資することが留意事項とされている。

なにゆえ「日本人」なのか。なにゆえ、人間でも、国際人でも、東洋人でも、都道府県民でも、地域住民でも、家庭人でもない「日本人」なのか。日本で公教育を受ける外国人も多くなっている中で、なにゆえの「日本人」なのか。

なにゆえに「国を愛し」「国家の形成」「国家の発展に努め」なければならないのか。国家とは権力の主体であり、正統な民主主義の伝統からは、信頼ではなく猜疑の対象とすべきものである。

国家にこだわり、「国を愛する」ような道徳の教科化には、恐ろしさを感じる。

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④小学校・中学校学習指導要領案【第3章】 第1「目標」について

ここに掲げられている目標は、「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を広い視野から多面的・多角的に考え,人間としての生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる」という、およそ無内容なものである。

「よりよく生きるための基盤となる道徳性」
「道徳的諸価値についての理解」
「人間としての生き方」
「道徳的な判断力心情,実践意欲と態度」
いずれも漠然として理解しがたい。このような教科には意味がない。評価のしようもない。

「世の中と折れ合ってより巧みに生き抜くための智恵」
「右顧左眄すべしとする処世訓についての理解」
「競争社会を勝ち抜き、企業社会に適合した人間としての生き方」
「多数派と調和する道徳的な判断力、心情と態度」
といえば、わかりよいのではないか。

いずれにせよ、この目標は、けっして何を語るものでもない。

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⑤ A主として自分自身に関することについて

ここに挙げられている徳目は、[自主,自律,自由と責任][節度,節制][向上心,個性の伸長][希望と勇気,克己と強い意志][真理の探究,創造]である。

これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、どのような基準でこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。

また、「自主,自律」は「協調性の欠如」。「自由」は「放縦」。「責任]は「小心」、「節度」は「臆病」、「節制]は「吝嗇」、「向上心」は「足るを知らず」等々、いずれも否定的評価と紙一重である。そもそも、公教育において万人に説くべき徳目などはあり得ない。

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⑥ B 主として人との関わりに関すること

ここに挙げられている徳目は、[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]である。

これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、なにゆえこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。

[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]のいずれも、家庭生活や、地域での交際、仲間との遊び付き合いなどで自然に身につけるべきもので、教師は優れた大人の一人として子どもたちに接することで子どもたちを感化できるだろう。教科で「教える」ことに適しているとは到底考えられない。

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⑦ C 主として集団や社会との関わりに関すること

ここに挙げられている徳目のトップが[遵法精神,公徳心]である。道徳教育教科化のホンネの一つなのであろう。
「法やきまりを進んで守る」「義務を果たして規律ある安定した社会の実現に努める」は、臣民の倫理ではあろうが、民主主義社会の主権者の道徳としては相応しくない。法は自分たちが作るもの、不合理な法は改めるよう努力すべきことに重点が置かれなくてはならない。

ついで、[公正,公平,社会正義]である。「誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること」には、賛意を表したい。とりわけ、家柄や出自による貴賤の差別、人種や民族の別による偏見は、最も唾棄すべきものとして教えるべきである。もっとも、それが道徳の教科においてする必要はない。

[勤労]について、「勤労を通じて社会に貢献すること」は馬鹿げた言い分。どうして勤労の権利(憲法27条)、労働基本権(憲法28条)について語らないのだろうか。どうして、労働組合活動への参加を道徳として教えないのだろうか。

[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努める」ことは、道徳として教科において教え込むべきことではない。

愛国心は、優れて偏頗なイデオロギーである。これを良しとする立場もあり、これを忌むべしとする立場もある。また、衆目の一致するところ、過度な愛国心は危険なナショナリズムとなり、排外主義と結びつく。穏当なバランス感覚からは、今強調すべきは愛国心ではない。むしろ、過度なナショナリズムの抑制であり排外主義への警戒でなくてはならない。

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⑧  D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること
ここに挙げられている徳目は、[生命の尊さ][自然愛護][感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]である。
おそらく、[生命の尊さ][自然愛護]についてだけは、万人に異議がないと思われる。しかし、これを教科化した道徳の時間に教え、評価まですることには違和感を禁じ得ない。

[感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]は、普遍性に欠ける。道徳とも徳目とも言いがたいだけでなく、道徳の名目でここまで人の精神の領域に踏み込んではならない。「人間として生きることの喜び」の具体的内容は千差万別で、それぞれの人に固有の精神生活の在り方に任されるべき問題である。

この無神経には呆れる思いを禁じ得ない

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以上は、私の個人的な意見表明である。形式はまねてもらえば楽だと思う。
ただし、①②③‥は、跳ねられる。(1)(2)(3)‥に直す必要がある。
締め切りは、3月5日の終了まで。

なお、手続の詳細については、2月26日の憲法日記を。
http://article9.jp/wordpress/?p=4479
(2015年3月3日)

未来につながる希望の光『文京の教育』購読のお薦め

「文京の教育」というミニコミ紙が毎月届く。発行人は元家庭裁判所調査官の浅川道雄さん、発行所は文京教育懇談会となっている。タブロイド版で4頁。いかにも地域に密着した手作り感のある紙面構成。教員中心ではなく地域住民が編集主体。保育・幼稚園から地域の子育て、小中高のあり方まで、テーマは広い。まったく元号を使わないところも私のお気に入りである。

その「文京の教育」の2015年新春号が届いた。なんと、巻を重ねて499号である。次号が500号の記念紙となるという。1970年創刊で、営々と45年間続けて到達することになる500号。この積み重ねはたいしたものだ。

実は、日民協の機関誌「法と民主主義」も今月(15年1月)に495号を発行する。もうすぐ500号なのだ。いま、その記念号のプランを練っているところ。継続が難事であること、それだけに称賛に値するものであることが身に沁みてよくわかる。

発行人の浅川さんが、創刊号の想い出を語っている。1970年暮れに、ガリ版刷り2頁での発行だったという。そのとき以来、題字は東京教育大学教授であった和歌森太郎氏の筆になるものを使っているそうだ。

家永教科書訴訟の一審杉本判決が1970年7月だから、教科書運動の盛り上がりがこのミニコミ誌を産み、以来営々45年も地域の教育運動が受け継がれているのだ。この間、無償の編集や発送の作業担当者が途絶えなかったということだ。たいしたことではないか。

私も執筆を依頼されて何度か寄稿した。自分の寄稿記事を読むと、固くてくどくて七面倒で少しも面白くない。それに較べて、「文京の教育」の他の記事は、軽やかで読みやすい。

なかでも、優れた教育実践の記事が面白い。いま、「元小学校教諭 山崎隆夫」さんが、「心はずむ学びの世界」を連載中、今回が第23回。国語の時間も、理科の時間も、算数の時間も、文字どおり「心はずむ」教師と生徒との交流が描かれている。子どもたちの瞳の輝き、胸の躍りが目に見えるような授業の面白さ。「小学校の先生ってなんて素敵なお仕事だろう」「私もこんな授業を受けてみたかった」と思わせる。

戦争体験記あり、被爆体験記もある。福島の被災地の子どもたちについてのレポートもあり、教育の市場化の問題点や地教行法「改正」問題もある。封切り映画の紹介もなかなかのもの。そして、吉田典裕さん(出版労連教科書対策部長)のような、その世界での著名人の寄稿もある。「今、教科書を考える」シリーズの第7回。今号は「実は大問題の教科書価格」というタイトルの記事。この内容を抜粋してお伝えしたい。

「教科書問題」と聞くと、ほとんどの方は「検定」や「採択」を連想するでしょう。しかし「価格」も「教科書問題」の大きな位置を占めるのです。価格問題はきわめて政治的な性格をもっています。
教科書は民間の発行者がつくり、文部科学省がそれを買い取り、その価格は文部科学省が決めます。文部科学省は、教科書は公共料金的なものなので、できるだけ安い方がよいのだとして、教科書価格を低く抑えてきました。
実は、そのねらいは教科書の種類を減らして国による統制をしやすくすることです。1963年6月衆議院文教委員会で暴露された、「文部省(当時)が自民党文教部会に渡した資料」の内容は、「国定教科書にすると莫大な費用が掛かる、それよりも制度の規制を強化して縛り上げれば、1教科あたり5種程度に絞れるので、安上がりに統制できる」というものでした。
「無償措置法」が導入された1963年以降、教科書の種類は激減してきました。たとえば1965年と2015年用の小学校教科書発行者教(=教科書の種類)を比べると、
 国語 8→5
 書写 7→6
 算数 9→6
 社会 6→4
 理科 9→6
 音楽 8→2
 図工 9→2
 家庭 8→2
 と、軒並み減っています。自民党政府と文部科学省のねらいは、残念ながら実現したといわねばなりません。

私はまったく運営に関係していない。宣伝を頼まれたこともない。が、応援したくなる紙面なのだ。このようなミニコミ紙、このような教育運動が民主々義を支え、未来の希望につながるのではないかと思う。年10回刊の月刊紙、年間購読料は郵送料込みで2500円。「ご連絡は下記へFAXでお願いします」とある。心ある人に、ぜひ、ご購読をお薦めしたい。
 03-3690-7440(内田)
(2015年1月23日)

「日の丸・君が代」訴訟はまだまだ続く

本日(1月16日)は、東京「君が代」裁判・3次訴訟(東京地裁民事11部)の判決期日。原告50名が、56件の懲戒処分(戒告25件、減給29件、停職2件)の取り消しと、慰謝料の支払いを求めた訴訟。

いつものことながら、判決言い渡しの前は緊張する。広い103号法廷が水を打ったように静かになって、裁判長の主文朗読に耳を傾ける。

「原告らの請求をいずれも棄却する」なら全面敗訴だが、そうではない。朗読は、「東京都教育委員会が別紙『懲戒処分等一覧表』の…」と始まった。少なくとも全面敗訴ではない。処分が取消される原告の氏名が次々と読み上げられる。指折り人数を数えるが、26人の名前で止まった。そして「…の各原告に対してした各懲戒処分をいずれも取り消す」という。結局、50人の原告のうちの26人について31件の減給・停職処分が判決で取消された。

しかし、ここまで。その余の戒告処分者の取り消しはなかった。減給・停職の処分を取り消された原告についても、国家賠償としての慰謝料請求は棄却された。これまでの最高裁判例の枠内での判決。ということは、憲法論については進展がないということだ。

法廷の緊張は解けた。裁判官3名はそそくさと退廷する。満員の傍聴席から、ため息やらつぶやきやらが聞こえてくる。「最高裁判決へのヒラメか」「裁判官はどこを見てるんだ」「裁判所がしっかりしないから、都教委がつけあがる」…。

とは言え、獲得したものもけっして小さくはない。前進の期待があっただけに落胆が前面に出た本日の判決だが、都教委は処分を違法として取り消されたことの重大性を知るべきである。しかも、26人についての31件の処分取り消しである。
行政が、司法から「違法に人権を侵害した」と糾弾を受けているのだ。まずは真摯に謝罪しなければならない。そして、責任をあきらかにせよ、さらにしっかりと再発防止策を策定せよ。その第一歩が、控訴の放棄でなくてはならない。

やがて判決正本と謄本が届いて、弁護団が分担して解読を始める。「素晴らしい判決だ…」「ここが使える…」などという声は出て来ない。弁護団見解まとめ役の植竹和弘弁護士は、「最高裁判決の枠組みから一歩の前進もない判決」「控訴理由書が書きやすい判決」との総括的評価。

で、原告団・弁護団連名の声明は、次のようなものとなった。やや悲観的、否定的なトーンが見て取れるだろう。

「都教委は、2003年10月23日通達及びこれに基づく職務命令により、卒業式等における国旗掲揚・国歌起立斉唱を教職員に義務付け、命令に従えない教職員に対し、1回目は戒告、2、3回目は原則減給、4回目以降は原則停職と、回を重ねるごとに累積加重する懲戒処分を繰り返し、さらに「思想・良心・信仰」が不起立・不斉唱の動機であることを表明している者に対しても反省を迫り実質的に思想転向を迫る「服務事故再発防止研修」を強要するなどの「国旗・国歌の起立斉唱の強制」システムを実施してきた。

2012年1月16日、最高裁判所第一小法廷は、これらの処分のうち、「戒告」にとどまる限りは懲戒権の逸脱・濫用とはいえないものの、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とし、原則として社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとした。本判決は、この最高裁判決の内容を維持したものである。本判決が、原告ら教職員の受けた減給以上の懲戒処分を違法としたことは最高裁に引き続き、「国旗・国歌強制システム」を断罪したものであって、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価される。

しかしながら、2006年度の規則改訂により、2007年度以降に戒告処分を受けた本訴原告らは、2006年以前に減給処分を受けた場合以上の金銭的な損害を受けているのであり、その実質的な検討をしないまま、形式的に2012年最高裁判決に従った判断を下したことは真に遺憾である。

更に、本判決は、10・23通達・職務命令・懲戒処分が、憲法19条、20条、13条、23条、26条に各違反し、教育基本法16条(不当な支配の禁止)にも該当して違憲違法であるという原告ら教職員の主張については、従前の判決を踏襲してこれを認めなかった。また、原告らの予備的主張(国家シンボルの強制自体の違憲性)には何ら言及しないまま合憲と結論づけている。さらに、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国賠法上の過失はないとして、国家賠償請求も棄却した。これらの点は事案の本質を見誤るものであり、きわめて遺憾というほかはない。」

少し、噛み砕いて説明しておきたい。
10・23通達とこれにもとづく職務命令・懲戒処分によって、教職員に、国旗・国歌への起立・斉唱およびピアノ伴奏を強制することについては、これまで、「予防訴訟」、「君が代」裁判、同2次訴訟という大型集団訴訟において争われ、最高裁は一応の判断を示している。「懲戒処分の違憲性は否定しつつも、戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とした。原則として「減給」及び「停職」処分は重きに失して社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものとし、原則違法として取り消してきた。

本件の審理もこの点に集中し、「戒告を超える処分についてこれを正当化する特別の事情があるか」が攻撃防御の焦点となった。結果的には、すべてそのような特別の事情はないとされて、31件の減給・停職事案全部が取り消された、その成果は強調されてしかるべきである。

3次訴訟で最も注目されたのは、戒告処分を受けた原告の懲戒権逸脱濫用の違法がないかということである。実は、規則の変更によって、1次・2次訴訟の減給処分者よりも、3次訴訟の戒告処分者の方が経済的不利益が大きいという逆転が生じていたのだ。

最高裁は、1次・2次訴訟の減給処分者の経済的不利益に着目して「重きに失する」とし、それゆえ「減給は処分権の逸脱または濫用に当る」と判断したのだ。ならば、それ以上の経済的不利益を科されている3次訴訟の戒告処分者についても処分権の逸脱または濫用と判断されるべきが当然ではないか。

これについて、本日の判決は次のように言っている。
「確かに,本件規則改訂の結果,本件規則改訂後においては,戒告処分により,昇給及び勤勉手当について,本件規則改訂前に減給処分を受けた場合よりも大きな不利益を受けていることが認められる。

しかしながら,これらの昇給及び勤勉手当の不利益は,戒告処分自体による不利益ではなく昇給及び勤勉手当について定めた規則上の取扱いによるものであり,当該事情が,戒告処分の選択に係る都教委の裁量権の逸脱・濫用を基礎付けるものとはいえないことは,本件規則改訂前と同様であり,これに反する原告らの前記主張は採用することができない。」

なんという冷たい形式論であろうか。権利濫用論とは、可能な限りのあらゆることを考慮要素とした実質的な総合判断でなければならない。規範的に除外すべき考慮要素がありうるとしても、被処分者に不利益となる経済的事情を除外してよいはずはない。これでは教委のお手盛りで、いかようにも戒告処分の不利益を過酷化できることになるではないか。

また、期待されていたのが、国家賠償請求の認容である。処分取消の違法よりは国家賠償の違法のハードルは高いとされている。それでも、停職処分取消とともに慰謝料の支払いが命じられた前例がある。2件の停職処分取り消しとともに、55万円の慰謝料請求の認容があってしかるべきだった。

これを否定して、判決は次のように言っている。
「原告らは,違法な本件各処分を受けたことにより精神的苦痛を披ったとして,これに対する国家賠償法1条1項に基づく慰謝料の支払を求めている。しかしながら,本件各処分のうち,戒告処分については,前述のとおりこれを違法であると認めることはできない。また,減給処分以上の本件各処分については,…それらについての処分量定に係る評価・判断に問題のあることを確実に認識したのは本件各処分のされた後であると考えられること等からすれば,減給処分以上の本件各処分を行った時点において,都教委がこれらの本件各処分を選択したことについて,職務上尽くすべき注意義務を怠ったものと評価することは相当ではなく,この点について都教委に国家賠償法上の過失があったとは認められない。」

この判断も納得しがたい。国賠法1条1項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と定めている。
賠償の責任が生じるためには、「違法性」と「故意又は過失」が必要とされているところ、判決は「過失がない」(もちろん故意もない)と言って切って捨てたわけだ。

過失とは、注意義務違反ということである。都教委には管轄下にある教員に対して、各教員がそれぞれの思想や良心・信仰を貫徹することができるように環境を整え、各教員に「自分の思想や良心あるいは信念や信仰を貫徹すること」と「職務命令違反としての処分の不利益を免れること」との二律背反に陥って葛藤することのないよう十分な配慮をすべき注意義務があるのに、これを怠った。と言えばよいだけのことなのだ。「最高裁判決を知ったあとでなければ過失がない」などと言うことはあり得ない。「最高裁判決で違法を知ったあとでの減給以上の処分」があれば、過失ではなく故意が成立するというべきであろう。

憲法論のレベルではまったく見るべきもののない判決となった。この点、最高裁の呪縛下の下級審裁判官は、管理者に縛られて自由や裁量を剥奪されている教員の悲哀に思いをいたして判決を書くことができなかったのだろうか。

「日の丸・君が代」訴訟は、まだまだ続く。4次訴訟も係属中であるし、5次訴訟も予定されている。都教委の違憲違法な教育支配の続く限り、闘いも訴訟も続いていくことになる。
(2015年1月16日)

朝鮮学校への補助金支給復活の「公論」を起こそう

昨日(9月2日)の定例記者会見で舛添要一都知事は、現在支給されていない朝鮮学校への補助金の支給について、「万機公論に決すべし」との考えを披瀝した。この言を「一歩前進」と評価すべきであろう。ときあたかも、国連差別撤廃委員会からの勧告がこの問題に言及している。差別を撤廃して朝鮮学校にも補助金を支給し授業料無償化を実現すべく「公論」を興そう。知事は、聞く耳を持っているようなのだから。

この点は、2014年都知事選における重要な争点ではなかったが、政策対決点の一つではあった。都は、2010・11年度と続けて予算に計上した2千万円の朝鮮学校補助金支給を「凍結」し、2012年度以降は予算の計上自体を取りやめている。この事態においての選挙戦で、舛添候補は、田母神候補と同様に、石原・猪瀬都政が布いたレールに乗って補助金不支給の「現状維持」を「公約」とした。昨日の記者会見発言は、この公約に固執するものではないことを明らかにしたのだ。石原都政の継承に与するものではないことの表明としても注目に値する。石原元知事は、田母神陣営応援団の立場。舛添知事は、石原・猪瀬承継に縛られる必要はない。

朝鮮学校補助金支給の「万機公論」発言は、予定されたものではないようだ。都のホームページでの広報によれば、共同通信記者の質問に答えてのもの。その質問と回答の要点は以下のとおり。

「【記者】先日、国連の人種差別撤廃委員会で対日審査会合の最終見解が公表されたのですけれど、その中で地方自治体による朝鮮学校への補助金の凍結などについて何か懸念が示されていたようなのですけれど、東京都では2010年度から補助金の支出、朝鮮学校に対して凍結してまして、昨年、支給しないことを決めて発表されてるのですが、知事はこの政策、どのようにしていくべきだと思いますか。」

「【知事】こういうのはやはり万機公論に決すべしでですね。要するに国益に沿わないことはやはり良くないということは片一方でありますけれども、しかし、どこの国の言葉でも、どこの国の子供でも教育を受ける権利はあるわけですから、そういうものを侵害してはいけない。そのバランスをどうとるのかなということが問題だと思います。
だから、私が今問題にしているヘイトスピーチにしても、これが言論弾圧に使われるということであってはいけませんけれども、人種差別を助長するということであれば、国連の理念にも、我が日本国憲法の理念にもそぐわないので、そこのところをバランスをとってやる。そのためにはやはり皆さん方のメディアを含めて、広く議論をしていくということが必要だと思いますので。…検討したいと思います。」

確認をしておこう。知事の言のとおり、「どこの国の言葉でも、どこの国の子供でも、教育を受ける権利はある」「そういうものを侵害してはいけない」。このあと、「権利は当然に平等を要求する」と続くことになろう。補助金支給に差別があってはならない。石原慎太郎元知事からは、とうてい期待しえない発言。石原後継の猪瀬前知事からも、無理だろう。舛添知事がサラリと言ってのけたことを無視せず無駄にせずに、政策転換の一歩とする世論形成の努力をするべきだろう。

ところで、舛添知事会見の記録を読んでも、知事自身が国連人種差別撤廃委員会の対日最終見解に目を通していたのか否かが判然としない。8月29日採択のこの見解に既に目を通していたとすればその関心は見識と評価しえようし、この見解を読まずして政策転換を示唆したとすればこれもなかなかのものではないか。

国連人種差別撤廃委員会の対日最終見解は35項目。ヘイトスピーチ、慰安婦問題、外国人労働者問題、在日外国人の公務就労制限、外国人女性に対する暴力、アイヌ民族差別、沖縄への差別、朝鮮学校の無償化問題、部落差別問題等々にも触れている。グローバルスタンダードからみれば、日本には差別問題満載なのだ。

共同記者が質問で引用した朝鮮学校差別問題の「第19パラグラフ」を文意が通る程度に訳してみた。もちろん私の語学力だから正確ではない。大意以下のとおりである。
「〔19〕当委員会は朝鮮出身の子どもたちの教育の権利を妨げる立法と政府の以下の行為について懸念している。
(a)高等学校授業料補助からの朝鮮学校の除外
(b)朝鮮学校への地方自治体財政からの支給停止や継続的な減額

当委員会は、「市民権を持たない居住者に対する差別についての一般的勧告」(2004年)を再記して、教育の機会についての法規に差別があってはならないこと、その国に永住する子どもたちが学校の入学に当たって妨害を受けてはならないこと、これらを当事国が保障するという先の勧告を繰り返す。

当委員会は、日本に対し、朝鮮学校が高等学校授業料財源からの支出を受給できるように立場を変えること、同時に地方自治体に対して朝鮮学校への補助金支出を回復するように指導することを勧奨する。

当委員会は日本が1960年の「教育における差別撤廃のユネスコ条約」に加入するよう勧告する。」

国連の委員会勧告は、差別問題に意識の低い日本政府を諭すがごとく、なだめるがごとくである。安倍政権には聞く耳なくとも、せめて舛添都政には国連の良識に耳を傾けてもらいたい。そのような声を上げよう。もしかしたら、「東京から日本が変わる」かも知れない。
(2014年9月3日)

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