澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

築地にマグロ塚をー署名運動にご協力のお願い

本日(9月23日)が久保山愛吉の命日である。
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で最大級の15メガトン水爆「ブラボー」を大気中で爆発させた。その威力は広島に落とされた原爆の1000倍であったという。そして、その構造から大気中にばらまかれた放射線量もけたはずれのものだった。

たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになった。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が雪のように降った死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。

この死の灰は、島ごと吹き飛ばされた珊瑚礁の破片を主成分とする、高線量の放射性物質だった。23人の乗組員全員が「急性放射線症」で入院した後、最年長の通信士久保山愛吉が半年後の9月23日に亡くなる。その遺言は、「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」というものであった。

久保山の遺言を刻した「久保山愛吉碑」が、夢の島の第五福竜丸展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(第五福竜丸平和協会・初代会長)の筆になるもの。

その「久保山愛吉碑」のとなりに、「マグロ塚」がおかれている。高さ約130センチほどの青みがかった重量感ある石碑。「マグロ塚」の文字は、第五福竜丸乗組員だった大石又七の筆跡である。

東京都名義の解説板に、以下の記載がある。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福龍丸から、放射能に汚染された魚が水揚げされ、消費者の手に渡る前に中央卸売市場築地市場の一角に埋められました。
 このような核の被害が再び起きないことを願って、「築地にマグロ塚をつくる会」は募金活動を行い、募金に参加した大勢の子どもたちと共にマグロ塚を作りました。
 本来であれば、この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることになりました。」

ビキニ事件当時、原爆マグロは世を震撼させた。放射能の脅威、その被害が食の安全を脅かす形で、すべての人の身近なものとなった。その記憶を風化させないで、核の恐怖の警鐘にしよう。そう考えたのが大石で、子どもたちに10円募金を呼びかけて石碑を作ることまではした。しかし、東京都も認めるとおり、「この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしい」のだが、それが実現していない。

築地には石碑ではなく、建物の壁にはめ込まれた金属の「プレート」がある。こちらは、次のように由来が書き込まれている。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被曝した第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。
 全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。
 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子どもたちと共に、この歴史的事実をきろくするため、ここにプレートを作りました。 マグロ塚を作る会」

いま、築地にマグロ塚はなく、市場の整備が済むまで、暫定的に第五福竜丸展示館にある。これを本来あるべきところに移そうという運動が起きている。その運動を担うのが「築地にマグロ塚を作る会」、代表が大石又七である。その会の設立趣旨を記しておきたい。

本会は、「1954年の水爆実験で、放射能マグロ騒ぎが起こり、築地魚市場はもちろん日本中がパニックになりました。457トンものたくさんのマグロが地中や海に捨てられ、魚屋さんや、お寿司さん魚河岸も、お手上げになりました。その教訓を忘れないようにしたいのです。埋められたマグロ、食卓に上ったマグロにも、マグロ好きな日本人らしく、供養と感謝の思いをよせて作りたい」との大石又七さんの呼びかけにもとづき、築地の中央市場への建設の要請と署名及び10円募金活動を行ってきました。その結果署名は2万2千名、募金は約300万円が集まりました。これは全国各地多くの賛同する人たちからの支援、とくに小・中学校の生徒からの支援も多くありました。
 築地の中央市場を管理する東京都からは市場の移転や改修計画を理由にプレートの設置のみが許可され、2000年の1月8日に中央市場の正門にプレートを設置することができました。又、本来ならば築地に置くべき『塚』は暫定的ながら第五福竜丸展示館前に設置する事になりましたが、いずれこの塚は、築地の市場に設置すべきものと考えています。
 97年当初はマグロ塚をつくる会といっても、大石さん一人から署名・募金活動を開始され、その後徐々に支援の輪が拡がってきました。今後とも築地の中央市場への塚の設置実現のためには、大石さんや多くの人たちが協力して持続的で広い活動を行うことが必要とされています。その為にも『築地にマグロ塚をつくる会』の会則等をつくり、機能的に運営し、多くの支援してくれる方にその活動の内容を伝えたいとおもっています。

会は今、東京都に対する要請の署名運動を始めた。要請の趣旨は、「かつてマグロの廃棄地とされた跡地の一画に『マグロ塚』を移設することで、核兵器や放射能の怖さ、そして平和の尊さを多くの人たちに永く訴えたい」ということである。
昨日(9月22日)夢の島で、会が「9・22平和集会」を開催した。82歳の大石が病む体を押して出席し、署名を通じての塚の移設実現を訴えた。

はからずも、今築地から豊洲への市場移転問題が世の大きな関心事となっている。食の安全こそが重大事として再確認されているのだ。60年前の「原爆マグロ」事件は、食の安全が脅かされたことによる国民的な規模でのパニックをもたらした。核兵器の存在が、このような形でも人の生活を脅かすことを忘れてはならない。

下記のURLを開いて、是非ご協力をお願いしたい。
  http://tsukijimaguro.blogspot.jp/2016/09/blog-post_76.html
(2016年9月23日)

詩画人・四國五郎の「辻詩」 ー「福竜丸だより」から

四國五郎(1924~2014)という画家をご記憶だろうか。ウィキペディアには、「広島県広島市出身の画家・挿絵画家・絵本作家・詩人である。広島平和美術展を広島の画家仲間達と創設。絵画と詩を描きながら、広島を拠点にして戦後の平和運動を推進した。特に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』の装丁と挿絵が有名。」とある。峠三吉や山口勇子と組んで仕事をした人だ。

本日配達になった「福竜丸だより・№395」(2016年9月1日)に、ご長男・四國光氏の寄稿がある。「詩画人・四國五郎と『辻詩』」というタイトル。

「辻詩」とは耳慣れない。「辻」は、四つ辻の辻。辻説法・辻占・辻商い・辻籠・辻待ち・辻芝居・辻斬りの、あの「辻」。往来が交差する賑わうところ、巷の意味。辻詩は、「巷の詩」ということになるが、その内容は思想的宣伝物(手描きの反戦反核ポスター)なのだ。これを、単にポスターとかビラあるいは伝単などと即物的に表現せず、「辻詩」と言うところに作成者の思い入れがある。作成者とは峠三吉と四國五郎の両名が中心。峠が文を四國が絵を担当したという。この辻詩の作成と貼り出しは、占領下の広島で当局の言論統制をかいくぐっての逮捕覚悟のものだったという。その表現意欲がすさまじい。

「福竜丸だより」の寄稿を抜粋して紹介したい。これはまた見事な、亡き父へのオマージュでもある。

 父・四國五郎は第五福竜丸の水彩画を残している。また、ビキニ事件の時は、巨大な「原爆マグロ」を作って広島のデモに参加した。行動しなければ、という思いが常に父を突き動かしていた。
 その父の展覧会が「原爆の図一丸木美術館」で、開催されている(9月24日迄)。
父の作品としては「絵本おこりじぞう」の絵や、峠三吉と作った「原爆詩集」の表紙面や挿画が最も知られたものだと思うが、今回の展示の目玉のひとつは、父が峠と作った手描きの反戦反核ポスターだ。父たちはこの表現形式を「辻説法」になぞらえ「辻詩」と呼んだ。1950年の朝鮮戦争の始まる少し前から、峠が入院する53年頃まで、父は100枚から150枚描いたというが、現存するのは父のアトリエにあった8枚のみ。今回の展覧会では初めてこの8枚全てが展示された。
 当時はGHQによる言論統制のため、戦争や原爆に関する表現は厳しく規制されていた。「辻詩」はそのような状況下で作られた、逮捕覚悟の反戦活動であった。「辻詩」が出来上がると、峠が始めた詩のサークルである「われらの詩の会」のメンバーが手分けしてゲリラのように街中に貼り出し、警察が来ると大急ぎで剥して逃げた。「辻詩」の四隅に残る画鋲の穴を数えると、何回逃げたかがわかる。多いもので40個の穴が開いていたそうだ。
 どのようにして「辻詩」を作ったか、父のメモが残されている。それを読むと、ジャズの即興を連想させる。峠と父とでアイデアを持ち寄る。お互いに意見をぶつけ合いその場で「辻詩」の原案をどんどん作っていく。父がそれを自宅に持ち帰り、絵と、絵に相応しい字体で詩を書き入れる。出来上がると街に貼り出し道行く人に訴える。混沌の現実から今もぎ取ってきたような「生の表現」。それこそが人の心に訴え人を動かす、という信念が父たちにはあった。父は自分たちで書くだけでなく、多くの方が参加可能な「表現のプラットフォーム」として、「辻詩」に大きな可能性を見出していた。沈黙から言葉を引き出そうとした。
 仲間たちの中には、父や峠の、あまりに前のめりな姿勢に対して、危険すぎるので止めるべきだ、という反対も多かったと言う。しかし、父の日記を読む限り、この運動を減速したり止めたりする気持ちは微塵もなかったようだ。「辻詩」によって、詩と絵が社会に対してどれだけの働きかけができるのか、そのチヤレンジに全身全霊をかけて没頭していた様子が伺われる。
 「この時代、沈黙してはいけない」。日記を読むと、一連の表現活動による逮捕の可能性も仄めかしており、恐らく覚悟の上だったようだ。「戦争とシペリアを経験したので、それに比べればどんな事でも乗り越えられると思った」と晩年語っていた。
 「辻詩」とは廃棄あるいは押収される事が運命づけられた「使い捨て」の表現物だ。自分が丹精込めた「表現」の痕跡は一切残らない。3年近く、父は「辻詩」の作成に情熱を注いだ。作品として残る可能性の無いものに対して、そこまでのエネルギーを費やし続けることの、執念のような腹の括り方に、 私は改めて驚きを禁じ得ない。
 峠の死後も、父は生涯、戦争と平和のメッセージを伝える事を自分の使命と課し、絵や詩など膨大な作品を残した。その中で、最も父の心を熱く燃やしたものが、若き日の「辻詩」であったと思う。「辻詩」は表現者・四國五郎の原点であった。

なお、東京新聞(16年8月4日)の記事に、次の紹介がある。
「原爆をテーマにした絵本「おこりじぞう」の挿絵や詩人・峠三吉の私家版「原爆詩集」の表紙絵などで知られ、生涯にわたり反戦と平和を表現し続けた画家四国五郎さん(1924~2014年)の画業を振り返る「四国五郎展」が、東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれている。」「復員の翌年、峠三吉と知り合った四国さんは、反戦詩をつづった絵を街頭に張り出す「辻詩」の活動を始める。朝鮮戦争(1950~53年)の最中、占領軍の言論統制下でのゲリラ的な運動だった。50年、丸木位里・俊夫妻も官憲の目をかいくぐりながら「原爆の図」の全国巡回展を始め、出発点となった広島では、四国さんらが展覧会を支えた。」(以下略)

表現の自由が抑圧された時代にも、表現者は黙ってはおれない。「この時代、沈黙してはいけない」という四國の言葉は重い。今の時代、意欲さえあれば、書ける、話せる、出版も、掲示も、メールも、ブログも、ほぼ自由に表現できる。この貴重な自由を、精一杯行使し続けなければならない。表現の萎縮によって自らこれを放棄する愚を犯してはならない。峠や四國の活動を知って、痛切にそう思う。
(2016年9月9日)

核なき世界を求めて第五福竜丸は今なお航海中ー展示館開館40周年

昨日(5月29日)、「第五福竜丸展示館開館40周年記念レセプション」が、賑々しく行われた。主催は公益財団法人第五福竜丸平和協会、参加者は核廃絶運動に真摯に関わってこられた方々。会場はクラシック然たる神田の学士会館であった。

都立第五福竜丸展示館は1976年6月10日に開館している。その都立第五福竜丸展示館の管理を担っているのが、第五福竜丸平和協会。協会の活動に関しては、ぜひとも下記のサイトをご覧いただきたい。私は、浦野広明さんとともに、監事を務めている。
  http://d5f.org/kyokai.html

協会の定款第3条は、「この法人は、昭和29年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする。」と謳っている。船体の保存は意義ある重要なものだが、協会はこれを自己目的化しているわけではない。目的は飽くまで「核兵器禁止・平和思想の育成」なのだ。「育成」という用語が気になる方は、「涵養」「普及」「啓発」あるいは「訴え」「呼びかけ」とでも、読み替えていただきたい。

核爆弾が実戦においてその残虐な威力を示したのは1945年8月の広島と長崎だった。広島投下の原爆はウラン型。長崎のものはプルトニウム型。その7年後、52年にアメリカは南太平洋のエニウェトク環礁で初の水爆実験を行う。そして、1954年3月から5月にかけてアメリカは一連の最大級水爆実験をビキニ環礁で行う。キャッスル作戦と名付けた6回の実験の最初のものが、3月1日の15メガトン水爆「ブラボー」だった。ブラボーの爆発力は、広島に落とされた原爆の1000倍である。なんという脅威、そしてなんというふざけた命名。

たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになる。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が珊瑚礁の死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。「急性放射線症」で全員が入院した後、最年長の通信士久保山愛吉さんが半年後に逝去される。その命日は9月23日、「久保山忌」である。

久保山さんの遺言「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」という言葉を刻した「久保山愛吉碑」が、展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(協会初代会長)の筆になるもの。

こうして、原爆だけでなく、水爆の犠牲者としても日本人の名が歴史にきざまれた。広島・長崎だけでなく、第五福竜丸も核による悲惨な歴史の告発者であり証人なのだ。

昨日のレセプションでは「都立第五福竜丸展示館 40年のあゆみ」と表題した64頁のパンフレットが配布された。同パンフレットには付録「世界の核爆発実験年表」がついている。これによると、これまでの「爆発をともなう」核実験数は2061回。それ以外に「爆発をともなわな」核実験として、「アメリカ39回、ロシア10数回」があるという。

そして、まだ世界には、アメリカ(7200個)」、ロシア(7500個)をはじめとして、イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮が、核弾頭をもっている。核拡散の危険も払拭できない。

現実に被爆した、歴史の証人としての第五福竜丸は、多くのことを語っている。また、多くの人が、この船体を囲んで、多くのことを語りあい、語り継いでいる。まさしく、核なき世界を目指して「第五福竜丸は航海中」(被爆60年記念記録集の表題)なのである。

ところで、この「都立展示館」の開設は、廃船とされ捨てられていた第五福竜丸保存を求める市民運動を当時の都政が受け止めた結果である。当時の美濃部革新都政の姿勢を表明する「歴史的な」一文をご紹介しておきたい。展示館開館の2年前、第五福竜丸保存を目指して第五福竜丸保存協会が発足したときの「平和協会ニュース・第1号」への寄稿である。

憲法や平和運動に敵意を剥き出しにした石原都政や、みっともなさをさらけ出した舛添都政との恐るべき絶対格差に慨嘆せざるを得ない。われわれは再び、美濃部時代の真っ当な都政を手にすることがあるだろうか。

「平和協会に期待する」 東京都知事 美濃部亮吉
 第五福竜丸の保存を通して、平和と人道のためのたたかいを根気よく進めてこられたみなさんが、さらにその活動を拡大発展させるため、去年の暮、新たに財団法人第五福竜丸保存平和協会を設立されました。
 当然のこととはいえ、この運動は何一つ権力や財力に依存しない純粋な市民の善意と勇気だけでおし進められてきたものです。また、居丈高な絶叫や人目を驚かす街頭デモなどでなく、静かな情熱と知的な訴えによってささえられてきたものです。そういうみなさんの活動が、とかく先細りしがちなこの種の運動の中で、多くの困難をのり越えて着実に歩み続けてきたばかりか、今回の設立によっていっそう豊かな展望を持つ新たな段階に進まれたことに心から敬服し、その未来に熱い祝福をお送りいたします。
 いま、狂ったようなインフレの昂進によって、市民の生活は日々深い危機にさらされています。この混乱と不安をもたらしたものが、市民の立場をかえりみず、もっぱら資本の論理と利益に奉仕してきた高度経済成長政策であることは言うまでもありません。かつて私たちをあの悲惨な戦争にまきこんだものも、当時の日本の特殊な条件の下で進められた資本の論理と利益ではなかったでしょうか。私たちは、そのような根が生き続けていることに警戒を怠ってはなりません。
 それにしても、今日、内外の条件はそのころと一変し、戦争を喰いとめ平和を進めようとする各国市民の力は前例のない規模に達しています。みなさんの活動は、その責重な一環をなすものです。この力をますます強めなくてはなりません。第五福竜丸の小さな船体は、人々の心を戦争への怒りと平和への決意に駆りたてる大きなシンボルです。それは、平和をそこない、人間をしいたげるすべてのものに対し、私たちが何をしなければならないかを生々しく語りかけています。私は、みなさんの運動に心からの拍手と連帯をお送りし、協会のご発展に期待いたします。

なお、都立第五福竜丸展示館の開館時間は、9:30-16:00。入場無料である。
協会支援の下記賛助会員の制度がある。会員としてご支援いただけたら幸甚です。
1.賛助会員
第五福竜丸だよりはじめイベントのご案内などを差し上げます。(年会費:個人5千円・団体1万円)
2.ニュース(福竜丸だより)会員
会員様のご自宅へ「福竜丸だより」をお送りいたしております。(年会費:個人2千円 )

協会への連絡方法は下記のとおり。
東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
アクセスは、http://d5f.org/access.html
(2016年5月30日)

元第五福竜丸漁労長・見崎吉男さん逝く

被曝当時の第五福竜丸漁労長だった見崎吉男さんが亡くなられた。一昨日(3月17日)の夜分遅い時刻だったとのこと。1954年3月1日ビキニ環礁での米国の水爆実験によって被ばくしてから62年後の逝去。享年90。ご冥福をお祈りする。

お目にかかったことはない。しかし、第五福竜丸の乗組員23人のリーダーとして、かねてからお名前は伺っていた。漁労長とは、航行と漁労スケジュールの責任者である。ひとたび漁船が出港したあと、いつどこに船を廻しどこで網を下ろすか、その判断を委ねられている。一山当てるも大損するも、漁労長の腕と判断次第なのだ。

夢の島の第五福竜丸展示館には、彼自筆の「船内心得」が展示されている。元は船内の操舵室に貼ってあったもの。一部は剥落しているが、「新しき出発、新しき束縛」と表題した長文のこの掲示物は、筆跡といい、行き届いた文章といい、見事というほかはない。

ごく一部分だが、末尾の文章を抜粋する。
「協同生活に一番大事なことは、才能のある人とか立派な仕事をする人が大勢集まる事ではない。それよりもその人が加入する事によって協同生活が何らかの形でプラスになるような人を一番必要とする。
 そして、信頼と団結によって力強い誇り得る傳統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない。」

次の箇条書きの心得もある。
「時間を厳守すること
 出航及作業前の飲酒を厳禁す
 船中の賭博行為を厳禁す
……
一々の事故に関しては今更説明を必要としない
各々立派な良心の所有者である故」

時に、見崎は28歳。驚くほかはない。なお、乗組員の最年長が無線通信士久保山愛吉の39歳。平均年齢は25歳であった。

被曝後、23人は急性放射線障害で、東大付属病院と東京国立第一病院(現国立国際医療センター)に分かれて入院する。見崎は東京国立第一病院入院中にも旺盛に手記を書いている。リーダーとして、他の乗組員を気遣っていることがよく分かる。展示館の所蔵物のなかに、デパートの包装紙をつなぎ合わせた3メートルもの巻紙に彼が書きつづったものが残されている。その抜粋の次の文章が、展示館が作成した図録に収録されている。
「…あらゆる言論機関はいっせいに立ち上がり、あらゆる角度からこの事件にメスを入れ、世界の世論は沸き立ち、当事者である私は事件のただならぬために苦悩の連日。嵐に飛ばされた木の葉のそんざいそのまま病院に収容され、暖かい日本中の人びとにまもられて日時を経過した。そして、水爆禁止が大きく叫ばれた。…事件以来の米国側の言明に対し無条件で私は叫ぶ。そして悲憤の涙を流す。乗組員の幾多の悲惨なる姿、ニュース、映画、雑誌に新聞はもちろん。私はたまらない、彼らの心中を思うと。我々は無関心ではない。名誉毀損、彼らの言明により全員に与えた心の動揺に対する償いを要求する。」

その見崎も、事件後しばらくは被曝体験を語っていない。「「第五福竜丸」が「ビキニ事件」による被ばくの象徴のように扱われ、船員に対する世間の偏見、無理解にも深く傷ついた。」(静岡新聞)からであろう。時を経て、「地元中学校から依頼を受けたことをきっかけに2002年からは市民や子供たちに自身の経験について語る活動を続けてきた」(同)という。また、「事件から50年となる2004年前後から被曝体験を公の場で語り始め、06年には被曝経験などを手記にまとめて自費出版した。講演などの活動を続けていた」(朝日)

「第五福竜丸展示館30年のあゆみ」に、見崎の次の談話が出ている。全文を掲載する。
「船が夢の島で発見されて保存庫とが話題になったときに夢の島に新聞社の人に連れられていったことがある。改装されていたけれど、まさしく福竜丸の面影は残っていた。しかし、ゴミのなかにもぐってしまって、こりゃ保存するといっても何年もかかるなあ。それだったら解体して海に沈めて最後はきれいにしなさい、私はその時はそう思ったね。
 よく展示館を作ったよね。焼津に保存してはどうか、とかいろんな意見があった。敷地もいるし金もかかる。よほど熱心に保存をすすめないと実現しない。当時いい人がたくさんいたよなあ。都では美濃部さん、保存に協力した。最初、静岡では、被爆者の会の杉山秀夫さんなどが保存の会をつくって尽力した。私も声を掛けられたよ。その当時の焼津のえらい人は、保存に関係したいと思ってなかったね。当時の市長も「焼津の市政と第五福竜丸は何ら関係ない」と市議会でも答弁した。静岡県でもやらない。
 ではどうするか、沈めるか、大平洋のど真ん中へ持ってって沖で放置すりゃ、流されてアメリカに着くか、潮流はそうなってるから。アメリカが拾ってくれりゃいいからね。黒潮へもっていって沈めよう、さっぱりしていいじゃないか。それが焼津の意見だったね。
 でも若い衆の新聞の投書とかあって、保存の運動になった。美濃部さんと部も協力したわけだね。平和運動は本来は国をあげてやるべきことだと思うね。部に「おまかせ」という感じだね。しかし、人に見てもらえるようにしたのは素晴らしい。保存した人たちに感謝したいね。第五指竜丸は一つの漁船にすぎないが、原水爆というのは人類の犯罪ですよ。これをやめようじゃないか、と訴えているその象徴になってる第五福竜丸、それを作った東京都と運営している平和協会の存在は大きいね。保存のだめに、展示館建設のために働いた大勢の人たち、日本全国の人たちが取り組んだね。それを伝えて、この歴史を大事にしていきたいよね。みんなの力、日本の宝だよね。これからも福竜丸が原水爆のことを伝えて、展示館が役割を果たしてくださるこを願ってます。」(
2005年12月4日談)

歴史は貴重な証人を失ったことになる。公益財団法人第五福竜丸平和協会からも、Eメールで見崎さんの訃報が届いた。その末尾に、「現在 元乗組員でご存命の方は5名となりました」とある。

この方たちの存命のうちに、原水爆の廃絶を実現し、核による放射線被害のない世界を到来させたいものと思う。
(2016年3月19日)

「NPT会議はけっして失敗ではなかった」ー第五福竜丸平和協会評議員会にて

公益財団法人第五福竜丸平和協会の定款は、その目的を次のとおり定めている。
「1954(昭和29)年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする」
協会は、この目的のとおりに、「夢の島」展示館での第五福竜丸船体の保管・展示を通じて、「国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与」する諸活動を行っている。

本日は、その第五福竜丸平和協会の評議員会。2014年度の事業報告と決算の承認。それに新年度の理事の選任が主な議題。私は、監事として参加する立場。

評議員は、平和運動や原水爆禁止運動に携わってきた活動家が主だが、他にも多彩な顔ぶれ。物理学者やジャーナリスト、平和学や文化財保存や船の専門家なども加わっている。各分野の人々の発言が楽しい。今日も、NPT再検討会議参加者の報告があって盛りあがった。

昨年(2014年)度は、第五福竜丸がビキニで被爆してから60周年の節目。この1年の来館者は、104,745人と報告された。そのうち団体見学者が約3万人だが、事務局から「小学生の団体来館者が激減していることが心配」とのコメントがあった。本年の小学校の団体来館は92校、5,673名。この数字は10年前の約半数でしかない。どうしてこんなことになっているのだろうか。もちろん、小学生は圧倒的に都内学校。その来館者の減少は、学校や教員の姿勢の変化かと気になるところ。

来館者には、ボランティアの説明員が丁寧に説明をしてくれる。特に小学生は大歓迎。是非、多くの学校からのご参加をお願いしたい。核の恐ろしさ、平和の大切さについての貴重な学習の機会。核実験で死の灰を被った船体の存在感は大きい。この船で、人類最初の水爆実験被害の死者が出た。そのことの印象は強く、得るものは多いはずだ。問合せは、下記のURLを参照いただきたい。
  http://d5f.org/top.htm

また、昨年の来館者のうち確認できる外国籍として、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国・台湾・韓国・シンガポール・インドネシア・ドイツ・オランダ・デンマーク・マーシャル諸島などが報告された。大使館員であったり、ジャーナリストであったり、国際平和団体や教育者、そして留学生や観光旅行者も。

無名の多くの来館者が大切なことは言うまでもない。しかし、できれば各国の元首級や高官の来館も欲しいところ。今次のNPT会議再検討会議では、「被爆70周年の節目の今年。各国の指導者は広島・長崎に足を運んで、被爆の実相を知るべきだ」という決議案が話題となった。原爆の被害を知るための地といえば、広島・長崎だが、水爆の被害を知るための場は第五福竜丸である。各国の要人に、こちらにも足を運んでもらいたいものと思う。広島・長崎は、東京からは遠い。第五福竜丸展示館は都内(江東区・夢の島)で、来やすいはずだ。

ところで、我が国の閣僚や都知事も来館の経験はあるのだろうか。是非とも一度は来館し、船体と展示物を見ながら、充実した説明に耳を傾けてもらいたい。

なお、第五福竜丸の船体も展示館も、東京都が所有している。公益財団法人第五福竜丸平和協会が、東京都から委託を受けて船と建物を管理し、展示の事業を行っている。もちろん入館料は無料で、毎年東京都からの委託料を受領している。石原慎太郎知事時代、この委託料がどうなるかが心配だった。少しずつ、減額され続けたが、「財政難の折からのことで、他の同種事業も同じ」との説明だった。

同知事とその後継が退任し、現知事になってから1年余。昨年度と今年度、減額され続けてきた委託料が久々に増額に転じた。増額と知事の交替との因果関係は明確には分からない。しかし、久々に明るい雰囲気。

NPT再検討会議に参加していた評議員のお一人から、興味深い報告があった。
「日本のマスコミ報道は、最終合意案採択に至らなかったことの評価が否定的に過ぎるのではないか。中東問題が躓きの石となって最終合意に至らなかったことは残念ではあるが、この障害はNPT固有の問題ではなく、これまでの核軍縮の議論が後退したというものではない。会議進行の透明性は格段に進み、どこまでの合意ができていたかは明確になっている。「核兵器の非人道性」がキーフレーズで、この会議で核保有国を圧倒して核兵器を非人道的なものとする合意は形成されつつあるという印象だった。その点、今回の会議には、それなりの意義があったと考えてよいと思う。けっして、落胆するにはあたらない。」

本日の会合で、協会の5人の理事が再任された。評議員会後に新理事会が開かれ、川崎昭一郎理事長(千葉大学名誉教授・物理学)を選任した。労多くしておよそ役得はない。もちろん報酬もない。報いられることはない役職にご苦労様ですと申しあげるしかない。多くの活動が、このようなボランティアによって支えられている。

「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」というのが、亡くなった久保山愛吉さんの遺言だった。第五福竜丸がビキニで被爆し久保山さんが亡くなってから昨年で60周年。今年は61年目となっている。第五福竜丸船体の保存を通じて、反核・平和の世論を喚起し、久保山さんの遺志に応えることが私たちの責務である。

60周年記念事業の一つとして出版した記録集のタイトルが「第五福竜丸は航海中」だった。まだまだその航海は終わらない。受け継ぐ人のバトンをつなぎながら、今後も長く続けなければならない。
(2015年5月24日)

核をもてあそぶプーチンに無数の抗議の声を

ロシアのプーチンが、1年前、クリミア半島併合の際に核兵器の使用準備を検討していた、と自ら明らかにした。米国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)との対決に備えての核兵器の使用準備であったという。おぞましくも戦慄すべき発言。身の毛がよだつ。満身の怒りをもって抗議しなければならない。

人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。誰にせよ、核をもてあそぶことはけっして許されない。ましてや、威嚇の手段にすることなど、狂気の沙汰だ。

核の脅しは、その対抗措置としての核の脅しの連鎖となり、その連鎖が核兵器の実戦使用となりかねない。核兵器の実戦使用は、対抗措置としての核兵器使用の連鎖となって、人類を滅亡に導きかねない。プーチン発言は、人類が許してはならないものなのだ。

「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。ましてや、核兵器による威嚇や行使があってはならない。

昨日(3月16日)の朝日川柳に、次の1句。
  戦闘に歯止めがあると人の言ふ(三重県 大西裕美子)

自衛隊による集団的自衛権行使やグレーゾーンでの戦闘を念頭においての句ではあろうが、歯止めの掛からぬ戦闘の究極の到達点が核戦争である。

私は、戦後間もないころに、広島の爆心地近くの小学校に入校した。幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。

1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」「原爆マグロ」「ガイガー計数管」などに戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器も被曝も、絶対悪として廃絶しなければならないと、骨の髄まで身に沁みている。

現行日本国憲法を採択した制憲国会において、当時の首相・幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」

プーチンが準備したという核兵器は、その破壊力において、広島・長崎に投下された原爆の比ではなかろう。その核兵器の使用の結果には勝者も敗者もない。人類を滅亡にいざなう破壊がもたらされるだけだ。

いかなる理由をこじつけようと、文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。

本日(3月17日)の朝日と毎日が、この問題を社説で取り上げている。
毎日の結びはこうなっている。
来月には核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれる。非核保有国の核保有国に対する視線は厳しい。核削減への努力が求められる中で、核の威力を誇示して自国の主張を通そうとする姿勢は国際社会への背信行為である。」

朝日はこうだ。
「力による国境の変更に加え、核による挑発。プーチン氏の行動は、前時代的な大国意識の表れではないか。これ以上、国際秩序に挑むような言動は慎むべきだ。国際社会のロシアへの警戒心は極度に深まっている。」

両紙のいうとおりだ。プーチンは「核の威力を誇示」し、「核による挑発」をおこなっているのだ。国際的に批判されるべきは当然である。くわえて、私たちも小さくても、無数の声を上げねばならない。核兵器に文明を抹殺されることなど、絶対にあってはならないのだから。
(2015年3月17日)

明日は「3・1ビキニデー」 第五福竜丸平和協会にご協力を

1954年3月1日に、アメリカがマーシャル群島ビキニ環礁でブラボーと名付けられた水爆を爆発させた。広島型原爆の1000倍の威力を持つ恐るべき破壊力。直径4キロの巨大なクレーターは、膨大な量の珊瑚が砕けて飛び散った跡だ。この砕け散った珊瑚片は大空へ舞い上がり、やがて高線量放射能の「死の灰」となって広範な海域に降り注いだ。第五福竜丸乗組員23人は、爆心地から160キロの海上で死の灰を被って被曝した。原爆に続いて水爆についても日本の国民が被害者となったのだ。この「負の大事件」「負の日」を忘れてはならないとするのが「3・1ビキニデー」。

被爆した木造マグロ船第五福竜丸は、美濃部都政の時代に東京の夢の島に展示館を得て船体が保存され、多くの来館者に「この悲劇を忘れるな、繰り返すな。核を根絶せよ」と訴え続けている。

この展示館建設実現は、国民的な原水爆禁止運動の高揚と革新都政の成果である。これを支える世論があって、石原都政の時代を経て展示館は健在である。年間来館者は約12万人。ビキニの悲劇と、その後の国民運動の歴史を語る船体展示は、平和と核廃絶を願う世論を喚起し続けている。

第五福竜丸の船体と展示館の所有権は東京都にある。東京都から委託を受けて、船体の保存と展示の業務をおこなっているのが、公益財団法人第五福竜丸平和協会(川崎昭一郎会長)。船体の展示だけでなく、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示して、「広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与すること」を目的としている。私は、その監事(会社の監査役に相当)の任にある。

核の廃絶が協会に集う者の願い。核兵器だけでなく、原子力発電の「核のゴミ」による被ばくの被害も廃絶しなければならない。ウランの採掘から、原発稼働や再処理、そして廃炉まで、あらゆる過程における被ばくの根絶が課題として意識されつつある。

第五福竜丸の展示を中心とする平和運動は、多くの市民と市民団体に支えられている。が、課題の大きさに比較して、財政基盤も運動参加者も十分な規模とは言えない。是非、この平和運動にご参加、ご協力を御願いしたい。

まずは夢の島の展示館を訪問いただきたい。有楽町線・京葉線の新木場駅から徒歩10分。もちろん無料である。ボランティアの説明員は親切で、水準が高い。子ども連れの散歩にもよい。展示内容は年2回は変更になっている。

それだけでなく、「第五福竜丸の平和を目ざす航海」と財団の活動を支える「賛助会員」になっていただくようお願いしたい。
年会費個人5千円、団体1万円。賛助会員には、「福竜丸だより」が定期的に届けられるほか、各地で行われる催し物のご連絡をする。また、「福竜丸だより」購読だけの「ニュース会員」であれば年2千円。

その会費納入の継続が、平和と核廃絶、そして脱原発にも生きることになる。詳しくは、下記URLをご参照いただきたい。
  http://d5f.org/
  http://d5f.org/kyoukai.htm

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いま、第五福竜丸展示館の展示内容は、ゴジラである。「ゴジラと福竜丸~想像力と現実」というもの。期間は3月22日(日)まで。もちろん、入館料は一切無料、是非お見逃しなく。

以下は、企画の趣旨についてのメッセージである。

国民的人気怪獣、ゴジラが誕生したのは1954年のこと。この年の3月1日、巨大水爆実験により第五福竜丸が被ばく、乗組員は放射線障害に、たくさんの漁船が原子マグロを水揚げし、放射能の雨が全国に降りそそいだ。
そんな中で着想されたのが、核実験により呼び覚まされた太古の怪獣ゴジラ。それは人間に襲いかかり破壊の限りをつくす。吐き出す霧は放射能・・・ゴジラは水爆の化身、ヒトは自らつくり出した破壊の極地ともいうべき核爆弾で滅びるのであろうか・・・。
しかし人びとは声をあげ、水爆実験中止、原水爆反対は世界にひろがった。
かねてから第五福竜丸展示館でゴジラに関する企画をおこないたいと思ってきた。1954年そして2011年が私たちに問いかけるものは・・・画家であり、武蔵野美術大学教授の長沢秀之氏が学生たちと取り組んだ「大きいゴジラ、小さいゴジラ」作品を展示していただく機会を得た。第五福竜丸とゴジラ作品をとおして、今に生きる私たちの「現実と想像力」はどのように広げられていくのだろう。第五福竜丸の被ばく60年最後の企画展とヒロシマ・ナガサキから70年の最初の企画展となる。

■主な展示作品
大きいゴジラ小さいゴジラ、レインボーゴジラ、ゴジラの目、尻尾、腕、着ぐるみ、ぶらりんゴジラ、フィルムとしてのゴジラ、小さいゴジラとRマーク、日常のゴジラ、ビデオインスタレーション・ゴジラ

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協会は、毎年3月1日の前後に記念のイベントをおこなう。ビキニ被爆から60周年に当る昨年は大規模な記念講演・演奏会をおこなった。今年の「記念のつどい」は、坂田雅子監督の最新作ドキュメンタリー映画「わたしの、終わらない旅」を一般公開に先駆けて特別先行上映の企画。そして、映画の後に、同監督と世界の核被害地を写し続けてきたフォトジャーナリスト豊﨑博光氏との対談がおこなわれた。

なお、「わたしの、終わらない旅」の一般公開スケジュールは以下のとおりである。
3月7日(土)~3月27日(金)場所:ポレポレ東中野(中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下)
上映時間:10:30~/12:30~
◎期間中、「核をめぐる」トークイベント開催決定!
<全て10:30の回上映終了後>
3月7日(土)
加藤登紀子さん(歌手)×坂田雅子監督
「母から子へ いのちをつなぐメッセージ」
3月8日(日)
坂田雅子監督 舞台挨拶
3月10日(火)
鎌仲ひとみさん(映画監督)×坂田雅子監督
「福島第一原発の事故から4年を前に、いま伝えるべきこと」
3月14日(土)
後藤政志さん(元・原子力プラント設計者)×坂田雅子監督
「技術者の目から見た原発の安全性/危険性」
3月15日(日)
島田興生さん(写真家)×坂田雅子監督
「ビキニと福島 2つの土地を見つめて」
3月21日(土)
太田昌克さん(共同通信編集委員)
「日米核同盟 原爆、核の傘、フクシマ」

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「わたしの、終わらない旅」は、監督の母である坂田静子さんが遺した一冊の本の問いかけから始まる。静子さんは、1976頃から反原発の運動に深く関わるようになり、1977年5月に「聞いてください」というガリ版刷りのミニコミ誌第1号を発行。92年までの15年間に35号を重ねたという。これが、一冊の合本になって遺されている。なお、静子さんの反原発運動開始のきっかけは、次女雅子さんが、フランスのラ・アーグ核再処理施設の近くに住んで、核の被害への恐怖を語ったこと。

坂田雅子監督は、福島の被害を見つめ、母の遺した訴えを胸に、ラ・アーグ、マーシャル、カザフスタンと、核の被害に翻弄された人々の地を訪ねる。
「福島第一原発の事故がもたらした現実に心震えながら、今は亡き母が数十年前から続けていた反原発運動の意味に、改めて気づいた坂田。彼女は、母親と自身の2世代にわたる想いを胸に、兵器と原発という二面性を持つ核エネルギーの歴史を辿る旅に出る。フランスの核再処理施設の対岸の島に暮らす姉を訪ね、大規模な核実験が繰り返し行われたマーシャル諸島で故郷を追われた島の人々に出会い、そしてカザフスタンでは旧ソ連による核実験で汚染された大地で生きる人々をみつめる。」

私も、本日この映画を観たが、終盤に思いがけない場面に出くわした。
1995年の「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故をきっかけに、原子力委員会が広く国民の意見を聞くとして「原子力政策円卓会議」が開催された。坂田静子も招聘されて、意見陳述をしている。錚々たる肩書の学識経験者にまじって、おそらく一般人としては静子さんが一人だけ。

堂々とこう述べている。
「原子力発電が始まった頃は、原子力羊羹ができるほどの、バラ色の夢が描かれていたのですが、今は、マイナス面も明らかになってきているんですから、国策というものは、もうすっかり状況が違っていると思うんです。それで、原子力基本法、つまり国策を見直すべきではないでしょうか。国策も誤ることがあります。私たちの年代は身を以てそれを経験しました。ドイツは、原子力法を変えて、再処理と高速増殖炉から撤退しました。これから以後のこういう円卓会議は、ぜひ国策としての原子力推進は是か非かというテーマでやっていただきたいと思います。」

オヤと思ったのは、続いて画面は舛添要一(現都知事)の意見陳述をとらえている。20年前の舛添は、こう言っている。

「世界中の原子力発電所を見ても、『もんじゅ』の事故はありましたけど、日本の水準は、極めて安全性は高いし、よその国と比べて、それに携わっている人間の質もそれほどお粗末ではないと思っていますけれども、広東、フウチェン、それから韓国、フィリピン、台湾、いろいろなところでまさに建設ラッシュなんですけれども、その実態を見るとに、チェルノブイルと同じことが起こらない保証はない。こういうことに対する日本の援助ができないのかどうなのか。私は、チェルノブイルというのは、ウクライナですから、遠く離れたヨーロッパの出来事です。10年前にあった。その反省から、原子力サミットが4月にモスクワで行われたばかりですけれども、アジアでもう一遍ああいうことが起こったときに、おそらく日本の原子力発電は全部止めざるを得ないと思います。とても国民感情が許さない」
「アジアでもう一遍ああいうことが起こったときに、おそらく日本の原子力発電は全部止めざるを得ないと思います。とても国民感情が許さない。」まったく、そのとおりだよ、舛添君。アジアどころではない。日本で、「ああいうこと」つまりは、チェルノブイリ級の過酷事故が現実に起こったのだ。「日本の原子力発電は全部止めざるを得ない」「とても国民感情が許さない」のが、今の事態ではないか」

機会があったら、今でもこの通りに思っているのか確認してみたい。舛添さんという人、日本の原発の安全性を盲信していたことはともかく、国民感情の理解の点では、石原慎太郎とは違って案外まともな感覚の持ち主ではないか。
(2015年2月28日)

ビキニの水爆と福島の原発はつながっている

昨日(9月23日)が久保山愛吉忌。第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉がなくなって60年になる。

1954年3月1日に、一連のアメリカ軍の水素爆弾実験(キャッスル作戦)が始まった。ブラボーと名付けられた、その最初の一発によって、第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴びて、全員に急性放射線障害が生じた。各人が個別に浴びた放被曝線量は「最小で1.6シーベルト、最大で7.1シーベルト」と算定されている。そして、被曝から207日後に久保山が帰らぬ人となった。

病理解剖の結果による久保山の死因について、都築正男医師(元東大教授・当時日本赤十字病院長)は、「久保山さんの遺骸の解剖検査によって、われわれは今日まで習ったことも見たこともない、人類始まって以来の初めての障害、新しい病気について、その一端を知る機会を与えられた」と言っている。

聞間元医師は、「久保山の死因は、放射性降下物の内部被曝による多臓器不全、特に免疫不全状態を基盤にして、肝炎ウィルスの侵襲と免疫異常応答との複合的、重層的な共働成因により、亜急性の劇症肝炎を生じたもの」で、「原爆症被爆者にも見られなかった『歴史始まって以来の新しい病気』『放射能症性肝病変』なのであり、『久保山病(Kuboyama Disease)』と名付け、後世に伝えるべき」と述べている(以上、「第五福竜丸は航海中ー60年の記録」から)。

久保山は1914年の生まれ、死亡時40歳。私の父と同い年で、今生きていれば、100歳になる。23人の第五福竜丸乗組員の最年長者だった。妻と3人の幼子を残しての死であった。長女が私と同年輩であろう。

なお、乗組員のリーダーである漁労長・見崎吉男が28歳。以下、ほとんどが20代であって、その若さに驚く。(余談だが、第五福竜丸展示館に、見崎吉男の筆になる長文の「船内心得」が掲示されている。当時、操舵室に張ってあったもの。その文章の格調に舌を巻かざるを得ない)。久保山だけが、召集されて従軍の経験を持っていたのだろう。従軍経験者の常識として、被曝の事実は無線で打電することなく、寄港まで伏せられた。米軍を警戒してのこととされる。

久保山の死は、核爆発によるものではなく、核爆発後の放射線障害によるものである。原子力発電所事故による放射線障害と変わるところがない。だから、久保山の死は、原水爆の被害として核廃絶を訴える原点であると同時に、核の平和利用への警鐘としても、人類史的な大事件なのだ。福島第一原発事故の後、そのことが誰の目にも明瞭になっている。

被ばく当時20歳だった第五福竜丸の乗組員大石又七が今は80歳である。「俺は死ぬまでたたかいつづける」と宣言し、病を押して証言者として文字通り命がけで活躍している。

昨日(9月23日)江東区亀戸中央公園で開催された「さようなら原発全国大集会」で、車椅子の大石が被ばく体験を話した。以下は、本日付東京新聞朝刊社会面(31面)の記事。

「ビキニの水爆と福島の原発はつながっている。核兵器も原発も危険は同じ。絶対反対です」「乗組員には頭痛や髪の毛が抜けるなどの急性症状が出た。この日は被ばくの半年後に亡くなった無線長の久保山愛吉さんの命日。『核実験の反対運動は当時タブーとされ、内部被ばくの研究も進まなかった。福島第一原発事故の後も、同じことが繰り返されようとしている。忘れられつつあるビキニ事件を今の人たちに伝えたかった』と大石さんは語った」

久保山愛吉が遺した言葉が、多くの人々の胸の奥底にある。
「原水爆の犠牲者は、私で最後にしてほしい」

この言葉は、大石又七の「ビキニの水爆と福島の原発はつながっている。核兵器も原発も危険は同じ」の名言と一体のものして理解すべきだろう。

「原水爆であれ原発であれ、核による人類の被害は、久保山愛吉の尊い犠牲を最後にしなければならない」と。
(2014年9月24日)

ビキニ水爆被災60年・連続市民講座第1回「その国内的影響」

 1945年8月 6日
 1954年3月 1日
 2011年3月11日

以上は人類が永久に記憶しなければならない日。とりわけ、日本人である私たちにとって忘れることのできない日。

8月6日は、人類が核という自殺手段を手に入れたことをこの上なく残虐な方法で明示した日。3月1日は兵器としての核の威力が極限に達して、ヒロシマ型原爆の1000倍規模の水爆(「ブラボー」15メガトン)が爆発した日。そして、3月11日は核と人類が共存できないことが明らかとなった日。いずれの日にも日本人が犠牲となった。第五福竜丸の被ばくは原水爆禁止運動の起点となり、また今福島原発事故の放射線被害の教訓ともなっている。核兵器の脅威と、核の放射線被害の恐怖との結節点でもある。

今年は、その第五福竜丸の被ばくから60周年。本日は、記念行事のひとつとしての連続市民講座の第1回。公益財団法人第五福竜丸平和協会と明治学院大学国際平和研究所との共催での「いま水爆の時代を問う~核と向き合い明日へ」の4回シリーズのうちの「第五福竜丸被ばく・ビキニ事件をたどる。その国内的影響」。午後1時に開会して閉会は5時15分。たいへん充実した「講座」だった。いささかくたびれるほどのレベルの高さ。

最初に、20分余の科学ドキュメント「死の灰」が上映された。第五福竜丸の甲板に付着して持ち帰られた「死の灰」の分析と、ビキニ近海の放射線汚染を調査した俊鶻丸のドキュメント。当時の緊迫した雰囲気が伝わってくる。

俊鶻丸は、水産庁が企画した調査船。その第1次の調査航海は、54年5月15日に竹芝桟橋出港となっている。3月1日に被ばくした第五福竜丸が一直線に母港焼津に寄港したのが3月14日。16日に読売が「世紀のスクープ」記事を掲載。乗組員全員が東大附属病院で「急性放射能症」と診断されたのが3月20日である。3月下旬には水産庁がビキニ海域の総合調査企画を開始し、4月に各分野の科学者から成る調査顧問団を編成し、調査船に乗り込む調査団22名と報道班9名を人選、水産講習所の俊鶻丸に測定器具・分析器具、ガスマスクまでを積み込んでの出港であった。その迅速性に驚かされる。帰港は7月4日。

本日の講座の前半は、「被ばくと関わった科学者に聞く」として、当時直接に死の灰の分析に当たった池田長生さんと、俊鶻丸に乗り組み手製の測定器を駆使して環境放射線を測定した岡野眞治さんお二人の講演。お二人とも、もうすぐ90歳。直接お話を聞くことがでたことだけで貴重な体験であった。

「死の灰」の正確な分析と、俊鶻丸の海洋調査とは、「放射線など大したことはない」「日本は大袈裟に過ぎる」と言っていたアメリカに、恐怖の根拠を突きつけるものとなった。遅ればせながら55年2月に、アメリカも調査船タニー号を派遣するが俊鶻丸の調査結果を追認することとなった。

俊鶻丸の調査は、水爆実験への強力な批判の根拠となった。三宅泰雄博士(第五福竜丸平和協会・初代会長)は、次の言葉を残している。
「水爆実験に伴う多くの研究や観測、これらはいかにうまく水爆を使うかというための研究である。俊鶻丸のみが世界でただひとつ、いかにして人類を水爆の危険から守るか、というヒューマニズムに立脚した研究を行った」(「死の灰と闘う科学者」より)

本日の講座の後半はお二人の水産・海洋学専門家の講演と質疑。「ビキニ事件とマグロ」(水口憲哉さん)、「放射能雨と地球環境」(青山道夫さん)。パワーポイントを使っての詳細な講演だった。講演内容は、近々ブックレットとして出版される予定。加筆のうえ表やグラフを添えてのものとなるはず。楽しみに待ちたい。

本日の講演では、当然のことのごとくに、会場からの質問は福島第1原発事故による「海洋汚染」と「水産物の安全性」に集中した。過去の問題でもなく、将来のリスクとしての問題でもない。まさしく現在進行中の放射線被害の恐怖は、核と人類との共存があり得ないことをものがたっている。かつては、原水禁運動にも「原子力の平和利用」というスローガンが掲げられていた。3・11を経た今、兵器としての核利用も、原発としての核利用も、人間の手に負えぬものとの認識が多くの人に共有されている。

第五福竜丸平和協会が、被ばく60周年を記念して出版した記録集の「第五福竜丸は航海中」の帯に、「核なき世界に」としっかり書き込まれている。第五福竜丸の航海が目指すさきは、核兵器も原発もない世界なのだ。

次回の市民講座は、6月14日(日)午後1時30分より。場所は明治学院大学。テーマは、「ビキニ事件、日米関係への影響」、報告者と演題は以下のとおりである。
(1)公開外交文書に見る第五福竜丸被ばくビキニ事件と日米関係・市田真理(展示館学芸員)
(2)ビキニ事件の米政策への影響と日米関係・太田昌克(共同通信編集委員)
(3)ビキニ事件と経済界の動向・山本義彦(静岡大学名誉教授)

今回は専ら理系だったが、次回は社会科学系。これも充実したものになりそうだ。参加希望者は、第五福竜丸平和協会の下記ホームページから事前の申込を。
http://d5f.org/top.htm
(2014年4月20日)

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