澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介

なんとなく、ものを言いにくい雰囲気ができつつある。安保条約批判、自衛隊批判、天皇制批判が典型3テーマ。現天皇の生前退位希望による法改正批判などは、その最たるものだろう。批判の言論の萎縮は、ものを言いにくい雰囲気醸成の悪循環を招くことになる。いうべきことを自己抑制してはならないと思う。

特に気になるのは、共闘に支障が生じるからと共闘相手の主張に媚びた言論萎縮、世論に支持を得られないからと無用に世論に諂った形での言論萎縮。堂々と自説を述べるべきだろう。でないと、言論の重心がいよいよ右に傾いていくことになる。

これから、2019年の天皇代わりまで、天皇制の存続や代替わり儀式のあり方、元号、祝日、そして政教分離原則についての議論が続くことになる。一人ひとりが、主権者として自覚をもって発言しなければならない。天皇やその親族に畏れいってはならないのだ。一言の遠慮することは、一歩の後退を意味する。一歩の後退が、その分だけ自分を発言の抑制に追い込むことになる。

まずは繰りかえし、元号問題を語りたい。「日の丸・君が代」・祝日・叙勲・元号が、天皇制護持の小道具4点セットである。中でも、国民生活に最も浸透しているのが、元号であろう。一世一元となって以来、元号は天皇の代替わりと連動してきた。元号こそは、天皇制を国民に刷り込む手段として、最有効な働きを果たしている。
その元号について、日本学術会議が、「元号廃止 西暦採用について(申入)」の総会決議を採択したことがある。1950年5月6日付。衆参両院議長と内閣総理大臣に当てたもの。新憲法制定3年後のことである。

これが、民主主義国家として再生した、戦後日本の知性のあり方というべきだろう。その後に元号法の成立(1979年6月)をみて、その限りでの事情の変化はあるが、そのほかはまったく変わらない。

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衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣

日本学術会議会長 亀山直人

元号廃止 西暦採用について(申入)

本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。

 日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。

理 由

1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。

2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。

3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。

4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係かあったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。

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蛇足だが、第1項は極めて分かり易く、説得力がある。学術振興の立場を前提とするする限り、反論は困難だろう。

第2項は、元号法制定によって事情が変わった。このことは、元号法制定の意図や法制定ない場合の保守派の危機感をあぶり出しているともいえるだろう。

第3項は、「新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない」。この結論に私は大賛成だ。

第4項は、言わずもがなというところ。「アンチ西暦派」への反論だが、いま「アンチ西暦派」はほとんど絶滅している。今対決しているのは、「西暦派」対「西暦・元号併存派」なのだ。もっと正確に言えば、「元号廃止の是非」が問題となっている。

不便で不合理な元号使用の押しつけは、まっぴらご免だ。後期高齢者に近い年齢で、どうでもよいようなものだが、自分の年齢を計算することに元号では煩瑣で混乱を避けられない。

学術関係者だけでなく、ビジネスマンも同じ意見だろう。「西暦・元号の併存」によって、どれだけのビジネス効率の低下を招いていることか。私は、天皇制ナショナリズムよりも、学術会議的で資本主義的な科学的合理性に与する。
(2017年12月16日)

どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。

課題として獲得すべき判決は二つ。「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。

違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。

私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。

歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。

いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。

国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。

この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。

ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。

「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。

いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。

しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。

戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。

かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。

戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。

しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに。国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。

さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)

大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」

毎日新聞の牧太郎という記者の語り口が、何とも魅力的で心地よい。およそ拳を振り上げることなく、肩肘張らず、すこしシャイに、それでいて遠慮なく言いたいことを思う存分言ってのける。その文章の読後に爽快感がある。肺がんの手術を受けてから間もないとのことも、私には同病相憐れむの親近感。

毎週火曜日の夕刊に、「牧太郎の大きな声では言えないが…」を連載していて、これが楽しみ。ところが、ちょうど一月前の8月7日付コラムを見落としていた。これは失態だった。このことをある集会で配られたビラで知った。
久米宏だけではない。おお、牧太郎よ、あなたも。よくぞ言ってくれた。

東京五輪返上の声は、今や小さくない。金がかかり過ぎ。そんな金は被災地の復興に回せ。国威発揚の五輪だ。過剰なナショナリズム鼓吹。猛暑の時期、アスリートに酷。政権や都知事の人気取りに使われている。改憲にまで利用の悪乗りではないか。過剰な商業主義の横行。東京の喧噪が我慢しかねる。愚民政策…。反対理由はいろいろだが、少なくない人々が「東京五輪反対!」「東京五輪返上!」論に賛成している。五輪をダシにした世論操作の胡散臭さへの反発が大きいのだ。

牧太郎の“東京五輪病”を返上!のコラムの書き出しは、おずおずと始まる。
 東京五輪を返上しろ!なんて書いていいのだろうか? 何度もちゅうちょした。毎日新聞社は東京五輪オフィシャルパートナー。いわば、五輪応援団である。
 でも、恐る恐るサンデー毎日のコラム「牧太郎の青い空白い雲」(7月25日発売)に「日本中が熱中症になる“2020年東京五輪”を返上せよ!」と書いてしまった。すると、意外にも、知り合いの多くから「お前の言う通り!」という意見をもらった。返上論は僕だけではないらしい。

そして反対論の幾つかの理由が述べられる。
 その最大の理由は「非常識な酷暑での開催」である。日本の夏は温度も湿度も高い。太陽の熱やアスファルトの照り返し。気温35度、もしかして40度で行われるマラソン、サッカー、ゴルフ……自殺行為ではあるまいか? 沿道の観客もぶっ倒れる。
 サンデー毎日では書かなかったが、日本にとって最悪な季節に開催するのは、アメリカの3大ネットワークの“ゴリ押し”を国際オリンピック委員会(IOC)が認めてからである。メディアの「稼ぎ」のために健康に最悪な条件で行う「スポーツの祭典」なんて理解できない。

 もう一つの理由は「異常なメダル競争」である。日本オリンピック委員会(JOC)は「金メダル数世界3位以内」を目指しているそうだが、オリンピック憲章は「国家がメダル数を競ってはいけない」と定めている。日本人力士を応援するばかりに、白鵬の変化技を「横綱にあるまじきもの」とイチャモンをつける。そんな「屈折したナショナリズム」が心配なのだ。
 「東京五輪のためなら」でヒト、モノ、カネ、コンピューター……すべてが東京に集中している。地方は疲弊する。ポスト五輪は「大不況」……と予見する向きまである。

そして、久米宏同様、今からでも東京五輪返上は遅くないとして、こう言う。
 返上となると、1000億円単位の違約金が発生する。でも、2兆、3兆という巨額の予算と比較すれば、安いものではないか。

さらに、最後に牧太郎の真骨頂。
 東京五輪は安倍晋三首相が「福島の汚染水はアンダーコントロール」と全世界にウソをついて招致した。安倍内閣は「東京五輪のため」という美名の下で、人権を制限する「共謀罪」法を無理やり成立させた。東京五輪を口実に、民主主義が壊されようとしている。
 少なくとも、我々は“東京五輪病”を返上すべきだ!

「1000億円単位の違約金…、安いものではないか。」
牧太郎がそう言えば、私も同感だ。自信を持って1000億など安いものと言える。

「大きな声では言えないが…」などと、おそるおそる語る必要はない。大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」「2020年東京五輪は、熨斗をつけてお返しだ!」
(2017年9月7日)

つぶやきームンフバト・ダバジャルガル青年の深刻な悩み

私、ムンフバト・ダバジャルガル。通称はダヴァ。32歳。職業は日本のプロ相撲選手。こちらでは、大相撲の力士と言うんだ。力士としての登録名は、「白鵬」。「鵬」は中国の古典に出て来るとてつもなく大きな伝説の鳥だ。一昔前に「大鵬」という強い力士がいて、それにあやかったネーミング。15歳でモンゴルのウランバートルから東京に来て、心細い思いをしながらも、我ながらよく頑張った。グランドチャンピオン(横綱)に上り詰めただけでなく、とうとう昨日(7月21日)通算1048勝という大相撲史上の新記録を樹立した。名力士「大鵬」さんもできなかったことだ。これまでの苦労を思えば、感慨一入。涙も出る。

記録達成後のインタビューの様子を、メディアは、「目を閉じて数秒間の沈黙の後に、『言葉にならないね』と喜びをかみ締めた。胸に去来するのは、努力を重ねて地位を築いた土俵人生。そして、将来の夢だ。」などと報じている。「喜びをかみ締めた」は嘘ではない。しかし、思いはもう少し複雑で微妙なんだ。

私は社会人としては若いが、現役の力士としては盛りを過ぎている。引退は先のことではない。その後は、大相撲協会の役員となり、自分の経験を生かして後輩を育成したい。そう、次の舞台の人生を描いている。日本人力士にとっては、なんの問題もないことだが、私の場合には国籍という壁が立ちはだかっている。日本相撲協会の役員として残るには、日本に帰化して日本国籍を取らねばならないとされている。しかし、日本国籍を取るということは、モンゴルの国籍を捨てるということだ。これが悩みなんだ。

私の父、ムンフバト・ジジト(76才)はモンゴル相撲の大横綱で、モンゴル人初の五輪メダリスト(1968年メキシコ五輪レスリング銀メダル)という母国の国民的英雄なんだ。その子の私にも、モンゴル民族の期待は大きい。これまで熱狂的な声援を受けてきた。私も母国の声援に応えようと、努力を重ねてきた。モンゴル国籍の離脱は、母国を裏切るものととらえられかねない。だから、かねてから父は私の帰化には反対してきた。作今、その父の体調がすぐれない。日本国籍を取得して引退に備える、という気持にはなかなかなれない。

国籍問題さえクリヤーできれば実績に文句のつけようはない。「白鵬」の名のまま相撲協会に残って、後進を指導する「年寄」になれる。そう、みんなに言っていただいている。

しかし、公益財団法人日本相撲協会の規則には、「年寄名跡の襲名は日本国籍を有する者に限る」と明示されている。現在の八角理事長(元横綱・北勝海)は「白鵬だから例外ということはない」と言っているそうだ。

私は、自分に流れるモンゴル民族の血にも、栄誉ある父の子であることにも、誇りをもっている。モンゴルの人々のこれまでの恩義も大切にしたい。モンゴルの国籍を捨てるようなことはしたくない。

また、私を育ててくれた日本という国も、大相撲も大好きだ。妻も日本人で、引退後の人生は大相撲の「年寄」として、「白鵬部屋」から立派な力士を輩出する夢を描いている。

できれば帰化などせずに、モンゴルの国籍をもったまま、「白鵬部屋」の年寄りになりたい。そう願って、この問題を考え続けてきた。

問題はふたつあると思う。一つは、大相撲協会の規則。どうして、「年寄」(親方)の資格を国籍で縛ろうというのだろうか。聞くところでは、「日本の伝統文化である以上、(規定を)変えることはありません」ということのようだが、正直のところよく分からない。伝統文化を支えているのはむしろ力士ではないだろうか。力士については日本国籍であることを要求されていない。力士として日本の伝統文化を支えた人が、年寄りになろうとすると、どうして日本の国籍が必要となるのだろうか。私の、これまでの日本の伝統や文化との関わり方を見ないで、帰化するかどうかだけが「日本の伝統文化」を大切にすることの証しなのだろうか。

大相撲は、いち早く尺貫法を捨ててメートル法に切り替えたり、伝統の四本柱をなくして釣り天井にしたり。外国人力士を受け入れたり。伝統文化を大切にしながらも、合理性は取り入れてきたと聞いている。私が帰化しさえすれば、「日本の伝統文化」が保たれたことになるというのだろうか。

私は心の底から思うのだが、私にモンゴル籍のまま力士として活躍の場を与えてくれた相撲協会のあり方こそが「日本の伝統文化」というものではないだろうか。年寄籍問題についても、もっと大らかで解放的に考えていただくことこそが「日本の伝統文化」の立場ではないだろうか。

もう一つは、法律の問題だ。私は、モンゴルの国民でありたい。しかし、場合によっては日本の国籍を取得しなければならない。そのとき、どうしてモンゴルの国籍を捨てなければならないのだろうか。どうして、両方の国籍を取得してはならないのだろうか。必ず、どちらか一つだけを選ばなければならないというのは、私の場合とても難しくつらいことだ。日本とモンゴル、どちらか一方を捨てろという選択を強いられることは、私の心を裂くに等しい。本当に何とかならないものだろうか。
(2017年7月22日)

東京オリンピックは、日の丸・君が代抜きで願いたい。

アツイ。あつい。暑い。熱い。いふまいとおもへどけふのあつさかな。「暑い」という以外に言葉はなく、話題もない。

3年後の夏、この暴力的な猛暑の東京で、オリンピック・パラリンピックが開催されるという。マラソンの日程は男女とも8月上旬だとか。恐るべき炎熱下の試練。愚かしくも非人道的な「地獄の釜」の中の苦役。東京の夏に五輪を誘致した諸君よ。キミたちはクーラーの効いた部屋で、剣闘士たちの酷暑の中の死闘を眺めようというのか。アスリート諸君よ、奴隷の身に甘んじることなかれ。

オリンピックといえば、国威発揚であり、ナショナリズムの鼓吹である。あたかも当然のごとくに国旗国歌が大きな顔をして鼻につく。どこの国の国旗国歌も愉快なものではないが、とりわけ日の丸・君が代は不愉快極まる。わが国の天皇制支配や軍国主義や侵略や植民地支配の負の歴史を背負って、歪んだ保守派ナショナリズムのシンボルとなっている。天皇教によるマインドコントロール下の大日本帝国とあまりに深く結びついたその旗と歌。今なお、日本人が無邪気にこの旗を振り、この歌を唱う感性が信じがたい。

ところで、最近こんな文章にお目にかかった。筆者を伏せて、ご一読願いたい。
《優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめようというブランデージ(当時のIOC会長)提案に私は賛成である。(略)私は以前、日本人に稀薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるがその以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい》

民族意識や祖国意識よりも、「真の感動」、「人間的感動」をこそ重視すべきだという。「真の感動」、「人間的感動」の何たるかはこの短い文章に盛りこまれてはいないが、国威発揚やナショナリズム鼓吹の対立物としてとらえられている。だから、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」という提案に賛成だというのだ。真っ当な見解ではないか。

この一文は、1964年10月11日付読売新聞に「人間自身の祝典」との標題で掲載されたものだという。筆者は、何と石原慎太郎。スポーツライターの玉木正之さんのサイトに紹介されていたもの。石原慎太郎とは、その40年後に東京都知事として、公立学校の教職員に、国旗国歌を強制する「10・23通達」を発出した張本人である。

石原に倣って、私はこう言いたい。
《学校の卒業式に国旗掲揚や国歌斉唱をとりやめようという良識ある教員たちの提案に私は賛成である。少なくとも、天皇(明仁)が米長邦雄に語ったとおり「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」というべきだろう。
私は以前、日本人に稀薄な民族意識や祖国意識、そして秩序感覚をとり戻すのに卒業式の国歌斉唱は良き機会であるというようなことを思ったことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も愛国心も秩序感覚も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、自立した人格の形成、精神的な自由の確立、斉一的な集団行動の強制ではなく、国家や集団に絡めとられない個の確立、そして教育の場での真の感動、人間的感動というものを確認する卒業式であることこそが希ましい》

オリンピックであろうと、卒業式であろうと、国旗・国歌は個人と対峙し、個人を呑み込む。アスリートよ、国の栄光のために競うな。自分のために輝け。それこそが、真の感動ではないか。卒業式の若者よ、国歌を歌うな。自分自身の魂の詩を語れ。それこそが人間的感動を確認する手段ではないか。

国威発揚の五輪に成功したのがヒトラーだった。そのドイツ民族を主役とする大祭典は第2次大戦を準備するものでもあった。2020年東京五輪が、その亜流であってはならない。国旗国歌の氾濫する20年夏は暑苦しく息苦しい。せめて、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」くらいの五輪であって欲しい。日の丸・君が代抜きの東京五輪であれば爽やかとなろうし、少しは涼やかな東京の夏となるだろう。
(2017年7月21日)

まあ聞け。むかーし、むかしのことじゃ。

人の命の値打ちは紙くずみたいなものじゃった。模様を描いた布きれが人の命よりも大切でな、この布きれを敵に奪われると本当に腹を切ったということじゃ。で、当時の世の中がおかしくってな。「腹を切るとは立派なものだ」と褒めそやしたということだ。バカげた話よのう。

またな、人の顔を映した写真が国中の学校にあってな。この写真が校長の命よりもはるかに大事だとされていたんじゃと。それでな、火事だの地震だの、台風だのというときに、この写真を守ろうとして命を失った校長が何人もいたんだそうな。写真は何枚でも同じものが作れるだろう。何枚でもある写真の値打ちって、所詮は紙っぺら一枚よ。紙っぺら一枚のために、かけがえのない人の命を捨てることはあるまいに。バカげた話よのう。

一人ひとりの人間を大切にしない世の中ではな、所詮は布きれの旗やら、所詮は紙一枚の写真やらが、人の命やプライドよりも、大事だとされることになるわけじゃな。ホンにバカげた話よのう。

もう少し聞け。今度はむかしのことじゃない。昨日(4月13日)のことじゃ。
あの、産経新聞が騒いでおる。NHKがな、日の丸の位置をば下に、中国の五星紅旗を上にした画面構成で放送をしたんだと。これが大きな問題なんじゃそうだ。

産経はこう言っておる。
「NHKが3日に放送した番組『ニュースウオッチ9』の中で、日本の国旗を中国の国旗の真下に表示していたことが13日、わかった。岸信夫外務副大臣は同日の参院内閣委員会で、独立国の国旗を上下に位置させることについて『下の国旗は下位、服従、敵への降参などを意味し、外交儀礼上、適切ではなく、あってはならない』と答えた。

自民党の有村治子参院議員の質問に答えた。映像は航空自衛隊の戦闘機の緊急発進(スクランブル)急増に関する特集の中で使用された。有村氏は『NHKはどこの国の公共放送か』と述べて批判した。

NHK広報部は産経新聞の取材に対し『上空を飛行する中国機に対し、スクランブルをかける自衛隊機のイメージをわかりやすく示すため、両国の国旗と機体の画像を使って放送した。国の上下関係を示す意図はなかった』と説明した。」

所詮は血の通わない旗と旗。布切れと布切れ。上でも下でも、右でも左でも斜めでも、たいしたことではない。騒ぐほどのことでもなかろうに。どうしてこんなことが大ごとだというのか。こんなことを国会議員が国会で議論をする、その方がよっぽど大ごとだろう。何とも、バカげた話よのう。

本当の問題は、布切れと人との関係じゃな。旗と生身の人間と、どちらが上でどちらが下か。いったいどちらが大事なのかと言うこと。

さすがに、開けた今の世じゃ。旗や写真のために、命を懸けよというバカげたことをいう者はない。ところが、「おまえの思想や良心や信仰などは投げ捨てて、いやでも起立し旗に向かって頭を下げろ」と、大真面目に命令する知事や教育委員が本当にいるんじゃ。有村治子も外務省も産経もその尻押しじゃ。

旗の上に旗を置くことが「怪しからん」「大問題だ」とは、ちゃんちゃらおかしい。主権者である人の上に、日の丸を置いて、「これを仰ぎ見よ」「頭を垂れよ」という方が、はるかに「怪しからん」「大問題」じゃな。これこそ、「下の人は、上の旗に対して下位、服従、降参などを意味し、適切ではなく、あってはならない」というべきじゃろう。ところが、こんな面妖なことが、東京でも大阪でも、訳の分からん知事の出現以来何年も続いているんじゃ。ホンにホンにバカげた話よのう。いや、腹の立つことよのう。
(2017年4月14日)

この際、新元号の制定はやめよう。

本日(4月7日)複数のメディアが報じている。天皇(明仁)の生前退位と代替わりに伴う新元号について、政府は複数の学者に選考を依頼し、既に複数の元号案が提出されて「内閣官房で案を管理している」という。ただそれだけのことが、大新聞の一面トップの記事になっている。その記事の取扱いの大きさ自体がニュースというべきだろう。

なお、改めての感慨は中国文化の圧倒的な影響力である。「天皇」も「元号」も、所詮は中国文化からの借り物。古代中国文化の根幹から生じた枝葉、あるいは、中国文化本流からの末節なのだ。前回の天皇代替わりでの政府依頼の学者は、山本達郎(東洋史)、宇野精一(中国哲学)、目加田誠(中国文学)だったという。今回も、中国史、中国古典文学、日本古典文学などの学者に、「中国や日本の古典をもとに漢字2文字の組み合わせ」だとか。日本の古典も漢字文化の末裔。日本では、文化的な国粋主義は成り立ちえないことを痛感する。

元号とは、「もともと古代中国で皇帝が時を支配するという思想から生まれた」といえばもっともらしいが、なに、皇帝の政治的影響力誇示のパフォーマンスに過ぎない。本家の中国には、今こんなものはない。日本が、旧態依然にこんな不便なものをありがたがっている必要はない。せっかくの天皇(明仁)の生前退位。これで平成が終わる。元号法を廃止して、新元号などやめてはどうか。西暦表示一本に統一して、誰も困らない。

世の中は、着実に西暦表示派が優勢になりつつあるが、これに逆行して話題となったのが、「しんぶん赤旗」の題字脇の元号併記。今年の4月1日から突然に始まって、今日で1週間になる。一昨日(4月5日)の紙面、「知りたい聞きたい」欄に、読者の疑問に答えるかたちで、「『赤旗』が元号併記したのは?」という、釈明記事を載せている。私にとっては大事な問題なので、全文を引用しておきたい。

 「しんぶん赤旗」が4月1日付から日付に元号を併記したことにいくつかの質問、意見が寄せられています。
 今回の措置は、「西暦だけでは不便。平成に換算するのが煩わしい」「元号も入れてほしい」など読者のみなさんからの要望をうけた措置です。これらは折に触れ、手紙やファクス、メールで編集局に寄せられていました。
 元号そのものについては、西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべきで、法律による使用の強制には反対するというのが、日本共産党のかねてからの主張です。1979年の元号法制化に際しては、天皇の代替わりごとに改元する「一世一元」は、主権在民の憲法下ふさわしくないとして、その法制化・固定化に反対しました。そのさい、元号の慣習的使用に反対するものではないこと、「昭和」後の元号についても慣習的使用の延長として憲法の範囲内で法的強制力をもたない適切な措置を検討する用意があることも表明していました。
 なお、「赤旗」は昭和天皇が死去した1989年1月7日付まで西暦に加え「昭和」の元号を併記していました。
 今回の元号併記の措置は、こうした経緯と考え方も踏まえてのものです。

残念だが、読者の疑問に真摯に答えるものとなっていない。もっと丁寧に、もっと率直に語るべきだと思う。なによりも、「西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべき」と言うだけでは、何も語っていないに等しい。「歴史と国民の選択」の是非が問われているのではなく、赤旗自身の見解が問われているのだ。元号というものを歴史的にどうとらえ、今それが国民生活や国民意識にどう関わっていると認識しているのか。ことは、明らかに天皇制の評価に関わる。同様の問題を、「日の丸」も「君が代」も、叙位叙勲も祝日も抱えている。

いったいなぜ、「1989年1月7日付まで西暦に加え元号を併記し」ていたのか、なぜ「1989年1月8日付から2017年3月31日まで元号併記をやめた」のか、そしてなぜ「2017年4月1日から元号併記を復活した」のか、赤旗の原理原則との関わりで説明が必要と考えざるを得ない。

私は本心で提案したい。この際、赤旗も「新元号は不要だ」という社説を書いてみてはどうだろうか。

元号維持派の論理というのはまことに脆弱である。霞ケ関カンツリー倶楽部の男性優位論程度のもので、いとも簡単に崩れ落ちる体のもの。

元号維持派の、まとまった論稿にはなかなかお目にかかれない。典型として、毎日新聞論説陣の保守派で、安倍晋三の寿司友の一人としても知られる山田孝男のコラム「風知草」の「元号について」(毎日新聞2017年1月16日 東京朝刊)を取り上げてみよう。山田孝男の元号維持肯定説は、驚くべき貧弱な「論理」である。

「新元号など無用、という声は出ていない。」
少なくも、私は声を出している。無視しないでいただきたい。

「天皇の戦争責任が問われた第二次大戦直後は、元号廃止論が優勢だった。元号は『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』と腐された。」
その点は、認識が一致する。

「曲折を経て元号廃止論は鳴りを潜めたが、元号が社会にどう定着したかといえば微妙だ。元号を否定しないにせよ、『なくたっていい』と考える人も少なくないのではないか。」
「元号廃止論は鳴りを潜めた」には異論がある。「元号が社会にどう定着したかといえば微妙」はそのとおり。むしろ、『なくたっていい』と考える人が優勢になりつつある、というべきだろう。

「なくたっていいか。私はそうは思わない。」
ほう。その積極理由をお聞かせいただきたい。

「元号…廃止派の論拠の一つは『日本でしか通用しない遺物』といった、今で言うグローバリズム。」
そのとおり。「日本でしか通用しない遺物」であることが「論拠の一つ」であることに異論はない。この「論拠の一つ」への反論の論拠として引っ張り出されるのは、「the保守」福田恒存を引用するだけのこと。

「それに対し、そういう議論は『明治以来、相も變(かわ)らぬ、拝外心理の現れ』に過ぎぬとかみついたのが評論家の福田恒存(12~94年)である。拝外心理=欧米コンプレックスということだろう(読売新聞76年12月6日付の寄稿「元号と西暦、両建てにすべし」)。」
福田もお粗末だが、今頃これを引用して何かを言ったつもりになっている山田も山田。グローバリズムを、「拝外心理=欧米コンプレックス」というのだ。保守が共有する劣等意識のなせるところなのだろうか、それとも福田と山田に固有のものか。いずれにしても、一顧だにする必要のない愚論というほかはない。

その愚論の具体的論拠として、福田が挙げているものが3点ある。
▽元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。たとえば元禄、天明の文化--と言えばイメージできるものも、西暦表記では分からない。
この程度のつまらぬことが元号維持論の論拠なのだ。既に、歴史は西暦で語られているではないか。元号使用以前の紀年は元号では語れない。改元は偶然の産物で長短不揃い。歴史を既述するツールとして不合理・不便この上ない。「元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす」とは、誇張も甚だしい。
なお、将来に元号を廃止することは、過去の歴史を改竄することではない。新元号がなくなった時代でも、歴史を語る際に「元禄の芭蕉、天明の蕪村」と言ってなんの差し支えがあろうか。

▽西暦一本化論は、「酒1合」と言わせず、「180ミリリットル」を強要するようなもので、情緒を奪い、世の中を窮屈にする。
今、尺貫法はほぼ駆逐された。不便だからである。メートル法と尺貫法の併用による社会的コストの負担には耐えがたいからでもある。相撲界でさえ、力士の身長や体重を尺貫法からメートル法表示に変えてなんの不都合もない。すっかり馴染んだではないか。これを、情緒を奪い窮屈になったという声は聞かない。元号も同じだ。昭和の終わり頃、天皇が病牀にあった時期に、和解調書には「昭和73年12月末日限りの履行」などと書いていた。だれの目にも不合理が明らかだったのに、である。いま、50年間の定期借地権の期間を、「平成29年から、平成79年まで」と表記するのは滑稽ではないか。そして、不便で不合理なのだ。

▽第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラブ人が、なんでキリスト教紀元にのみ付き合わねばならぬのか……。
日本人が中国人のつくり出した漢字をなぜ使わねばならないか。便利だからである。西暦は世界標準歴として、これを使うことの利便性がすぐれているから使うのだ。さらに、元号との並立・両建は、反民主的で、社会生活上の不便をきたすから賛成できないのだ。

山田は、この文章の最後をこう結んでいる。
「元号はカビのはえた記号ではない。飛鳥朝以来、通算247回目の改元まであと715日。」
敢えて言おう。「元号はカビのはえた記号」だ。それも、『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』有害なカビだ。カビは、きれいさっぱりなくした方が良い。放置しておくと蔓延して人畜に害をなす。よい潮時だ。新元号の制定はやめるに越したことはない。
(2017年4月7日)

永年の読者の一人として「赤旗」に要望します。元号併記はおやめいただきたい。

私は、長年の習慣として赤旗は丹念に読む。貴重な情報が提供されているからでもあるし、同紙の意見や論評に敬意を有してもいるからだ。

昨日(2017年4月1日)も、いつもと同じように赤旗に目を通したが、問題となった紙面の変化には気付かず、各紙夕刊の報道で初めて知った。あらためて読み直して各紙報道の正確性を確認し、いささか落胆した。第1面「しんぶん赤旗」の題字の右横、号数を特定する「2017年4月1日 土曜日 日刊第23800号」の表記に、小さな活字で「(平成29年)」と添えられていたのだ。

さらに注意して紙面に目を通すと、第2面の左下に小さな囲み記事。7行の「お知らせ」があった。「『しんぶん赤旗』は、読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」という、事務的な文章。

これは、いけない。いただけない。小さく目立たないようで、原則に関わる重大な変化。赤旗に元号は似つかわしくない。是非とも、元に戻して、赤旗紙面から元号を駆逐していただきたい。でなくては、赤旗に対する共感も敬意も失せてしまうことになりかねない。

私は1971年弁護士登録以来10年間は、業務として作成する書面の作成日付を慣行に従って元号で表示していた。作成日付だけでなく、文面の内容でも年の特定は元号で行っていた。引っかかるものはあったが、読み手のある文章。私だけが西暦表示では、独りよがりでもあり裁判所や相手方にも不便とも考えてのことであった。

転機は1981年に岩手靖国違憲訴訟を受任したことだった。この訴訟を通じて、あらためて天皇制や国家神道、それを支える諸々の大道具小道具のことを学び直し、真剣に考えた。明治維新をなし遂げた中央集権政府は、人民の精神の内奥にまで立ち入った支配のシステムを構想し、国家神道という時代錯誤の天皇教を作りあげた。この宗教国家を維持するために、硬軟さまざまな手法が編み出されたが、一世一元の制もその一つである。

敗戦によって天皇主権と、国家神道は制度上なくなったが、その残滓は至るところにある。日の丸・君が代・元号の存在が大きい。それだけでない。叙位・叙勲・祝日・賜杯・天皇賞・恩賜・「皇室御用達」の類。すべては、権威に従順な国民意識涵養のための小道具である。その影響力を可能な限り小さくすることが、憲法の理念を実践しようとする者の努めだと思い至った。

それ以来、陛下や殿下の呼称を拒否しよう。叙勲を祝うことはやめよう。君が代斉唱時には起立しない、そして元号使用をやめようと決意した。思想が変わったわけではない。思想を行動に移さなければならないと思いを定めたわけだ。私は弁護士だ。社会から行動の自由を与えられている。この自由を、憲法の理念を全うする方向で行使しなければならないという意識もあった。

こうして、元号使用をすっぱりとやめた。訴状も準備書面も、弁論要旨も告訴状も、内容証明郵便も、すべて西暦で書くようになって、既に35年ほどにもなる。元号使用をやめて西暦表示に切り替えた最初は、いろいろ面倒なこともあった。なにしろ、元号使用一色の世界に、強引に西暦表示を持ち込むという雰囲気。裁判官からいやな顔をされたことも再三ある。あからさまに、「西暦だと感覚的に分かりにくい。相手方の主張との対比も面倒なので、元号表示にしていただけないか」といわれたことが、記憶の限りで2度ある。もちろん、これを拒否して元号使用を強制されることはなく、そのことが私の依頼者の不利益となることは皆無だった。

いま、明らかに世の空気は変わった。ビジネスの世界では、世界標準である西暦の利便性が元号を圧倒している。メディアの世界も、NHKと産経だけはいざ知らず、西暦表示が席巻している。これを旧に復する愚を犯してはならない。

苦労して西暦表示に切り替え実践していたころ、思想的に同じ姿勢を貫いていた最有力勢力が赤旗だった。旧天皇制に最も苛烈な弾圧を受け、最も果敢に闘ったのが日本共産党だったのだから、当然といえば当然。その一貫した姿勢が、頼もしかった。

報道では、「赤旗は1947年以降、西暦と元号を併記してきたが、昭和天皇の死去以降、西暦のみにした」とのことだが、どの新聞よりも、西暦表示統一に熱心だったし、元号使用の強制に反対する立場だった。

それを、今頃元号併記に逆戻りとは情けない。西暦表示使用にがんばっている多くの人に失望を与える。政治的なインパクトは小さくない。赤旗は、軽々に動かしがたい原理原則をもつことで、固定層としての読者を獲得してきたはず。「利便」や「読者の要望」で、その原理原則をゆるがせにしていくと、核となる読者層から見離されることになりかねない。「この程度は原理原則とは関係なかろう」と譲歩を重ねていくと、ラッキョウの皮を剥いていくように芯が見えなくなってしまうのではないか。そのときは、誇り高き前衛の旗がしおたれてしまうことになる。

昨日の赤旗は、「読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」とあった。私も「読者のみなさま」の一人として申しあげる。
「天皇制に対するこれ以上の迎合も譲歩もやめ、国民主権や立憲主義の原理原則を徹底する立場を堅持して、元号表記はすっぱりとおやめいただきたい」
(2017年4月2日)

卒業式直前・五者(原告団・元原告団)総決起集会で

弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、冒頭のご挨拶を申しあげます。
本日はやや冷えておりますが、確実に春が近づいています。春は万物にとっての希望の季節。とりわけ学校にとっては、若者たちの巣立ちを祝い、また新しい生徒たちを迎え入れる、慶事の季節。

しかし、石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されて以来、希望の春は憂鬱な春に変わってしまいました。それから年を重ねて今年は14度目の憂鬱な春。

この間、梅が咲けば重苦しい卒業式が間近となり、桜が咲けばまた重苦しい入学式。これは、きっと短い悪夢だ。いつまでもこんなことが続くはずはないと念じつつ闘いを続けながら、時を過ごしてまいりました。

この間、屈することなく闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。

この恐るべき事態がこんなにも続くとは、当初は思ってもみないことでした。これは、極右の知事が選挙で思いがけなくも308万票もとって舞い上がり、教育委員会を側近で固めてやってのけた、突出したできごとだと思っていたものです。知事が代わるまで教育委員が交替するまでの我慢…。ところが、今その知事の権勢は地に落ち、3代目の後継知事となっています。「10・23通達」発出当時の教育委員は、一人も残っていません。それでも、日の丸・君が代強制の「10・23通達」と卒業式入学式の「実施指針」は生き延びています。

じつは、私たちは「トンデモ知事」や、「トンデモ都教委」と闘ってきたのではなく、安倍政権の基本性格に見られるような、この時代の趨勢と切り結び闘ってきたのではないかと思うのです。

安倍政権は、明らかにこれまでの保守政権とは違います。従前の自民党の改憲案とは明確に質を異にする「自民党改憲草案」を掲げて、戦後レジームからの脱却を呼号する右翼政権。特定秘密保護法を成立させ、内閣法制局長官の更迭までして集団的自衛権行使容認の解釈改憲を強行し、戦争法成立を強行採決した暴走内閣。

このような国民主権や平和主義に背を向けて暴走する政治勢力が必要とするのが、ナショナリズムにほかなりません。ナショナリズムがもたらす、自国の優越意識と、他国への差別感情と排外主義。これらがなくては、改憲も軍事大国化もできることではありません。

ナショナリズムの第一歩。それこそが、日の丸・君が代の強制なのです。今は、そのようなナショナリズム鼓吹の時代なのではないでしょうか。

東京都に限らず、全国にナショナリズム鼓吹の風が吹いています。国旗国歌は小中学校高校だけでなく、保育園・幼稚園から国立大学にまで、事実上の強制が行われています。国家主義横行の時代には、平和も人権も蹂躙されていく。「国権栄えて民権亡ぶ」の図となるのです。

私たちの、日の丸・君が代強制との闘いは、そのような国家意思と切り結ぶ重大事なのだと考えざるをえません。

この間、法廷の闘いでは、まず予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。

法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。

また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。

しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。

時あたかも、第4次処分取消訴訟の東京地裁審理が結審を迎えます。来たる3月15日が結審の法廷となります。2月末〆切で、今弁護団は最終準備書面を作成中です。

その事件の判決が目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審理して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。

また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。

国旗国歌は、国家と等値できる存在です。国旗国歌への敬意表明とは国家に対する敬意表明にほかなりません。ですから、公権力が国民に国旗国歌への敬意表明を強制することは、国家が主権者である国民に対して「オレを尊敬しろ」と強制していることなのです。主権者国民によって作られた国家が国民に向かって「オレを尊敬しろ」と強制することなどできるはずがない。それは、憲法的には背理であり倒錯だというのが、私たちの主張です。

現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言うべきなのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。

第4次訴訟では、ほぼ全員の原告が法廷で意見陳述をし、原告本人として証言しました。毎回の法廷が感動的なもので、裁判官も真面目によく聞いてくれたという印象でした。原告のみなさんが、悩みながらも、生徒の前で教師としての生き方が問われているとの思いから、不当な職務命令には従えないとした心情をよく理解してもらえたのではないかと思っています。

闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。

私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2017年2月18日)

「国旗国歌(日の丸・君が代)とは何か」

東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。

私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。

これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。

第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。

「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。

「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。

また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。

以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。

そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。

国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。

国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。

「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。

それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。

原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。

憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。

国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。

私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。

集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。

そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。

そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)

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