澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

嫌いな言葉は「愛国心」。「真の愛国者」はなおさらいけない。

嫌いな言葉は山ほどある。なかでも、「愛国」「愛国者」「愛国心」はその最たるもの。憂国・国士・祖国・殉国・忠義・忠勇など、類語のすべてに虫酸が走る。「真の愛国者」は、なおいけない。生理的に受け付けない。

パトリオティズムやナショナリズムと横文字に置き換えても同じことだ。パトリオティズムは理性の香りあるものとして肯定的に、ナショナリズムは泥臭く否定的に語られることが多いが、大した変わりはない。どちらも胡散臭さに変わりはない。どちらも、個人よりも国家や民族などを優越した存在として美化するもの。まっぴらご免だ。

辟易するのは、「愛国」とは倫理的に立派な心根であると思い込んでいる多くの人びとの押し付けがましい態度である。この愛国信仰者の愛国心の押し売りほど嫌みなものはない。夫婦同姓の強制、LBGTへの非寛容などとよく似ている。要するに、過剰なお節介なのだ。

国家や社会にゆとりがあるときには、「愛国」を叫ぶ者は少なく、邪悪な思惑による愛国心の鼓吹は国民の精神に響かない。愛国心の強制や強調が蔓延する時代には、国家や社会にゆとりがなくなって、個人の尊厳が危うくなっているのだ。とりわけ、政治権力が意図してする愛国心の鼓吹は、国家や社会が軋んでいることの証左であり警告なのだ。まさしく今、そのような事態ではないか。

為政者にとって最も望ましい国民とは、その精神において為政者と同一体となった国民,それも一つの束となった国民である。為政者は国家を僭称して、国民を愛国心の紐で、ひとつの束にくくろうと試みる。それさえできれば、為政者の望む方向に国民を誘導できる。そう。戦争の準備にも。場合によっては開戦にも。

国民の「愛国心」は、易々と為政者の「国家主義」に取り込まれる。あるいは、国家主義が愛国心を作り出す。愛国心に支えられた国家主義は、容易に排外主義ともなり、軍国主義ともなる。結局は、大日本帝国のごとき対外膨張主義となるのだ。愛国心とはきわめて危険なものと考えざるを得ない。

もうすぐ東京五輪である。ナショナリズムとナショナリズムが交錯して昂揚する一大イベント。どの国の為政者も、この場を利用しようとする。国旗国歌が輻輳 する空間が生まれる。旗や歌がもつ国民統合の作用を最大限利用しない手はない。どの為政者もそう考えて実行する。

日の丸が打ち振られる。あの戦争のときのように。今度は旭日旗までがスタジアムに登場するという。形を変えた、擬似戦争であり、ミニ戦争である。

今のままでは、安倍政権下、小池百合子都政が、東京五輪の主催者となる。世が、あげて東京都五輪礼賛であることが、まことに不愉快極まりない。

山ほどある嫌いな言葉に、もう少し付け加えよう。「東京五輪」「日本選手を応援しよう」「日本チームの奮闘が素晴らしい」「日本の活躍が楽しみですね」…。
(2019年9月16日)

大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』への抗議署名に賛同を

複数の友人から、教えられた。子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会》が、ネットで次の訴えをしている。
憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文に賛同をお願いします!
https://blog.goo.ne.jp/text2018

確かにこれはひどい。こんな事態を看過して極右ナショナリズム勢力をのさばらせてはならない。しかも、こういうバカげたことの中心にいるのが、維新政治の申し子というべき「民間人校長」(小田村直昌)である。広く、抗議の声を集約して、インターネット署名を集めたい。ぜひご協力を。以下は、拡散・転載大歓迎というネット記事の転載である。

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  抗議文への団体・個人賛同をお願いします!
  憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での
  『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文
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 5月8日(水)、大阪市立泉尾北小学校において全校の子どもたちが参加する『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』(以下、「児童朝礼」)が行われました。「児童朝礼」では、まず小田村直昌校長が代替わりと新元号の説明をしました。なんと新天皇を「126代目」とまで紹介しています。
 その後、「愛国の歌姫」と呼ばれている山口采希(あやき)氏(「教育勅語」を歌にし、塚本幼稚園でも歌ったことがある)がゲストとして登場しました。そこでは、明治時代の唱歌「神武天皇」「仁徳天皇」を歌いました。どちらも神話上の天皇を賛美し、「万世一系」を印象づける国民主権に反する歌です。さらに「仁徳天皇」を歌う前には、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書に登場する「民のかまど」の話をしました。
 さらには、自身のオリジナル曲「行くぞ!日の丸」「令和の時代」も歌いました。「行くぞ!日の丸!」は、「日の丸」を先頭にしてアジア諸国に侵略した戦前の日本軍の姿を彷彿とさせます。外国籍の子どもたち、中でもかって日本が侵略・植民地支配した国々にルーツを持つ子どもたちは、この歌によって深く傷つくのではないかと私たちは憂慮します。
 小田村校長は同校のHPで山口氏の歌や話を「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛しました。このような「児童朝礼」は、戦前の教育勅語教育を小学校に露骨に持ち込もうとした森友学園の「瑞穂の國小學院」に通じるものがあり、明らかに憲法違反です。公立学校でこのような集会が行われていること自体、全国的に例を見ません。
 私たちは、憲法に反する内容を子どもたちに押しつけた「児童朝礼」を行った小田村校長と、同校長を任命した大阪市教育委員会に対して厳しく抗議したいと思っています。そして同校の保護者・子どもに対してはもちろんのこと、大阪市民に対する説明と謝罪を求めたいと思います。

 大阪市教委に対して抗議の申し入れを行いたいと思っています。
それまでに出来るだけ多くの団体・個人賛同を集めたいと思っています。
ぜひ、ご協力をお願いします。

■下記の要望書への団体・個人賛同を呼びかけます。
◇団体賛同の場合
団体名をお知らせください。
◇個人賛同の場合
お名前
お立場(教職員、保護者、生徒、学生、研究者、弁護士、市民など)
できればで結構です。
お名前の公表(インターネットを含む)の有無
◇締め切りは7月7日(日)
◇送り先
メール iga@mue.biglobe.ne.jp
◇PC・スマホ用署名ページ
http://form01.star7.jp/new_form/?prm=6a6b423%2F2–21-0583fb*********************************

■憲法を無視した大阪市立泉尾北小学校での『「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼』に対する抗議文

5月8日(水)、大阪市立泉尾北小学校において全校の子どもたちが参加する「5天皇陛下ご即位記念」児童朝礼(以下、「児童朝礼」)が行われました。「児童朝礼」では、小田村直昌校長が「天皇陛下がお代りになった話と126代目であること、元号も日本古来から続いているお話」(泉尾北小HP)をしています。新天皇を「126代」とすることは、神話上の神武天皇なども含む数え方をしており、歴史的事実に反し皇室が「万世一系」であるかのように教えることに他なりません。
その後、「児童朝礼」では「愛国の歌姫」と呼ばれている山口采希(あやき)氏(「教育勅語」を歌にし、塚本幼稚園でも歌ったことがある)がゲストとして登場しました。そこで山口氏は、明治時代の唱歌「神武天皇」「仁徳天皇」を歌いました。どちらも神話上の天皇を賛美し、「万世一系」を印象づける国民主権に反する歌です。さらに「仁徳天皇」を歌う前には、教育勅語児童読本(1940年)や修身教科書に登場する「民のかまど」の話をしました。これは、戦前の皇国臣民化教育の定番教材で、子どもたちを「臣民」に仕立て上げていったものです。2015年2月、愛知県一宮市教育委員会は、「建国記念の日」を前にした全校朝会で「民のかまど」の話をした市立中学校校長を注意をしたこともありました。
しかし、大阪市立泉尾北小学校のHPには、この「児童朝礼」の様子が紹介されており、小田村校長は山口氏の歌・話を「とてもいいお話」「とても素晴らしいゲストでした」と絶賛しました。HP記事の最後には、小田村校長が山口氏の書いた色紙をもった写真も掲載されています。その色紙には、「皇紀2679」と書かれています。「皇紀」は神話上の天皇である神武天皇に由来するもので、戦後は公教育でも行政文書でも一切使用されていません。「皇紀」を使った色紙の画像を公立小学校のHPに載せることは不適切です。
山口氏は、自身のオリジナル曲「行くぞ!日の丸」「令和の時代」も歌いました。「行くぞ!日の丸!」は、「日の丸」を先頭にしてアジア諸国に侵略した戦前の日本軍の姿を彷彿とさせます。外国籍の子どもたち、中でもかって日本が侵略・植民地支配した国々にルーツを持つ子どもたちは、この歌によって深く傷つくのではないかと私たちは憂慮します。大阪市がめざす「多文化・多民族共生教育」に反するものです。
公立学校の児童朝会での山口氏の歌や話は、戦前の教育勅語教育を小学校に露骨に持ち込もうとした森友学園の「瑞穂の國小學院」に通じるものがあり、明らかに憲法違反です。公立学校でこのような集会が行われていること自体、全国的に例を見ません。
泉尾北小に山口氏を呼び、「天皇陛下ご即位記念」児童朝礼を行ったのは小田村校長です。小田村校長は大阪市の民間人校長として5年目(泉尾北小では2年目)で、任命したのは市長と教育委員会です。小田村校長は、大阪市立小学校校長になってから、右派団体である「学ぼう会北摂」で講演をしたり、龍馬プロジェクト会長の神谷宗幣氏のインターネット番組に登場し、大阪市の人権教育や歴史教育を「偏向教育」と批判している人物です。今回の「児童朝礼」は、小田村校長が意図的に実施したことは明らかです
私たちは、憲法に反する内容を子どもたちに押しつけた「児童朝礼」を行った小田村校長に対して抗議します。小田村校長を任命し、「児童朝礼」を実施させた大阪市教委の責任を追及します。小田村校長と大阪市教委は、同校の保護者・子どもに対してはもちろんのこと、大阪市民に対する説明と謝罪を行ってください。

(資料)
■山口采希氏が歌った曲
「行くぞ!日の丸!」
喜びと悲しみに
情熱が肩を組む
うつむいた日は過ぎた
時が来た まっしぐら
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
ひたぶるに駆け抜けた
根こそぎのなにくそで
どん底も手を伸ばし
風一つ 掴んだる!
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
揺るがぬ魂 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
ああ勇ましく 日の丸が行くぞ
行くぞ!行くぞ!日の丸が行くぞ!
白地に赤く 日の丸が行くぞ

□「令和の御代
春の訪れ 風も和やかに
薫り高く 梅の花のように
うるわしき日々を
ありのままに
咲き誇る
令和の御代に
和らぎの日々を
それぞれの心
満ち足りて
咲き誇る
令和の御代に
心寄せ合う
令和の御代に

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いやはやなんとも、というほかはない。
大阪市教委は、事態を把握していないのだろうか。見て見ぬふりなのだろうか。府教委はどうなのだろう。

内閣が天皇賛美一色であり、それを可視化した儀式を行うから、こんな校長が出て来るのだ。衆参両院が、全会一致で天皇就任の賀詞決議などするから、こんなことが許されると思う輩が出てくる。

この公立小学校の天皇礼賛行事。ごく例外的な跳ね上がりの孤立した行動と軽視できないのではなかろうか。これを許す時代の空気の反映とすれば、怖ろしいことなのかも知れない。
(2019年6月23日)

「これからは、2度と日章旗の下では走るまい」- 孫基禎、金メダルを得ての思い

昨日(5月25日)、ちきゅう座総会に参加した際に、社会評論社の松田健二さんから「評伝 孫基禎」(寺島善一著)をいただいて、興味深く読んだ。著者の立場は公平である。オリンピックやスポーツだけを切りとるのではなく、日本の朝鮮に対する植民地支配の歴史に目を配っている。それだけに読後感はやはり重い。日本人の朝鮮に対する差別意識の底流が露わになっている今だけに、なおさらである。

著者は、近代オリンピズムの崇高さを強調し、孫と同時代アスリートとの交流を「スポーツで築き上げた友情は、国境を越えていつまでも不変」と讃えている。大島謙吉、オーエンス、ハーパー(英・孫に続いてマラソン2位)らとの交流は確かに感動的なのだが、現実の厳しさの方に圧倒される。

国威発揚のナショナリズム、人種差別、そして商業主義の跋扈というオリンピック事情は、1936年当時も現在も、さして大きな変化はないのではないか。

来年(2020年)の五輪は、歴史修正主義者が首相を務める国の、民族差別主義者が知事の座にある首都で、開催される。本当に、東京五輪開催の積極的意味はあるのだろうか。

プロ・アマを問わずスポーツ隆盛の今、若者たちに訴えたい。かつて理不尽な仕打ちを受けていた朝鮮人アスリートがいたことを。日本が朝鮮を植民地としていたが故の悲劇である。その代表的な人物が、孫基禎なのだ。

孫基禎(ソン・キジョ)、1919年8月の生まれ。当時、既に朝鮮は日本の植民地とされていた。貧苦の中で走り続けて、ランナーとして頭角を表し、世界記録保持者として、1936年8月9日ベルリンオリンピックのマラソンに挑んで、金メダルに輝く。当時のオリンピック新記録。なお、このとき朝鮮人南昇竜も銅メダルを獲得している。

その表彰式では、「日の丸」が掲揚され「君が代」が演奏された。これは、孫には耐えがたい屈辱だった。後年、彼自身がこう語っている。

「優勝の表彰台で、ポールにはためく日章旗を眺めながら、『君が代』を耳にすることはたえられない侮辱であった。…果たして私が日本の国民なのか? だとすれば、日本人の朝鮮同胞に対する虐待はいったい何を意味するのだ? 私はつまるところ、日本人ではあり得ないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身の為、そして圧政に呻吟する同胞のために走ったというのが本心だ…。これからは、2度と日章旗の下では走るまい。この苦衷をより多くの同胞に知ってもらわなければならない」

孫も南も、表彰式では陰鬱な表情をしてうつむいている。孫は、ユニフォームの胸に付けていた日の丸を勝者に与えられた月桂樹で隠している。表彰式での真正面からの写真では、胸の日の丸が見えない。しかし、斜めからの撮影では日の丸が映ってしまう。この日の丸を消した写真を掲載したのが、8月25日付東亜日報だった。よく知られている「消えた日の丸」事件である。

現地の日本軍20師団司令部が激怒し、直ちに総督府と警察に関係者の緊急逮捕を命じた。こうして、5人の関係者が逮捕され、40日余の残酷な拷問が行われた。その上で、東亜日報は無期限発行停止処分、5人は言論界から永久追放となった。

ところで、孫と南の表彰式の後、日本選手団本部は選手村で祝賀パーティを開いたが、両名とも出席しなかった。「差別と蔑視故の抗議であったろう」という。その時刻両名はどこにいたか。ベルリン在住の安鳳根(アン・ボングン)という人物を訪問していたという。あの安重根(アン・ジュングン)の従兄弟である。

孫は、このとき安鳳根の書斎で、生まれて初めて「太極旗」と対面したのだという。

「これが太極旗なのだ。わが祖国の国旗なのだ。そう思うと感電でもしたように、熱いものが身体を流れていった。太極旗がこうして息づいているように、わが民族も生きているのだという確信が沸き起こってきた」

これが、彼の自伝「ああ月桂冠に涙ー孫基禎自伝」(講談社・1985年)の一節。
その後、孫は徹底して警察からマークされる。到底、金メダリストの扱いではない。彼が日の丸を背負って走ることは2度となかった。指導者たらんと東京高等師範と早稲田の入学を志すが、受験を拒否されている。明治大学だけが、暖かく迎え入れたが、当局はこれを許可するに際して条件を付けた。「再び陸上をやらないこと。人の集まりに顔を出さないこと。できる限り静かにしていること」だという。

明治大学は、箱根駅伝で彼を走らせようとしたが、かなわなかった。息子・孫正寅の語るところでは、2002年臨終の際に残した言葉が、根駅伝を走りたかった」だった。

言うまでもなくマラソンは、オリンピックの華である。必ず最終日に行われる最終種目。この特別の競技の勝者には、特別の敬意が捧げられる。1936年ベルリンオリンピックで、10万の観衆が待ち受けるスタジアムに先頭で姿を現し、最後の100メートルを12秒台で走り抜けたスーパーヒーロー。それが、日本人として登録された朝鮮人・孫基禎だった。

孫は朝鮮民族の英雄となった。民族の団結や連帯の要となり得る立場に立った。日本の当局は、その言動を制約せざるを得ないと考えたのだ。孫に、朝鮮人の民族的な自覚や矜持を鼓舞する言動があるのではないかと危惧したのだ。

明治大学名誉教授である著者は、孫基禎と明治大学の親密な結び付きを誇りとして書いている。慶應も早稲田も東京高師も、この明治の姿勢に敬意を表さねばなるまい。

なお、ご注文は下記まで。

http://www.shahyo.com/mokuroku/sports/essay/ISBN978-4-7845-1569-1.php

(2019年5月26日)

「時はだれのものなのか」 ― 朝日「改元社説」を評価する

当ブログでは、元号・改元問題をたびたび取りあげてきた。既に20回を超えているだろう。いずれも、元号の存在自体を批判し、その使用強制をあってはならないとする内容のもの。元号を、天皇制による民衆の精神生活支配の小道具ととらえ、「元号は不要」「元号は有害」「改元というイベントに踊らされるな」「時代の区切りを天皇の在位と結びつけて考えてはならない」「こんな不便なものは廃絶せよ」「元号使用強制などとんでもない」と主張するものである。
最近の主なものは、下記のとおり。

この際、新元号の制定はやめよう。
http://article9.jp/wordpress/?p=8393
(2017年4月7日)

永年の読者の一人として「赤旗」に要望します。元号併記はおやめいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=8367
(2017年4月2日)

真正保守・村上正邦が教える「元号存続の意味」。
http://article9.jp/wordpress/?p=9691
(2017年12月30日)

元号に関する朝日社説を駁する。
http://article9.jp/wordpress/?p=8992
(2017年8月8日)

領土・人民だけでなく、天皇が時まで支配する元号制
http://article9.jp/wordpress/?p=8028
(2017年1月25日)

元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの
http://article9.jp/wordpress/?p=10295
(2018年5月1日)

私の元号に関する言説は、突飛なものでも奇矯なものでも、もちろん過激なものでもない。人権原理と民主制を根本原理とするオーソドックスな憲法体系の理解からは、憲法体系の天皇の存在を可及的に小さなものとして取り扱うことが当然であり、天皇制を支える元号否定は、ごく自然な帰結である。

天皇を不可侵の神聖な存在とする一部の右翼や、いまだに國體の存在にこだわるアナクロ派、そしてこれらの連中を使嗾することで権力を維持している現政権には不愉快なのだろうが、それは、人権原理や民主主義への理解の浅薄なことを表白するに過ぎない。かつては、学術会議も元号廃止を提唱していた。

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介
http://article9.jp/wordpress/?p=9609
(2017年12月16日)

ところが、いまメディアがはっきりものを言わない。菊タブーは健在で、天皇制批判はご法度のごとくである。だから、私のブログ程度の穏健な天皇制批判が、目立つようになってしまっている。

メディアの皇室報道は、舌を噛みそうな敬語を並べたてて、まったく見苦しくもあり聞き苦しくもある。「陛下」も「今上」も死語だと思っていたが、いつからか息を吹き返して至るところに跋扈している。そして、「平成最後の」という枕詞のオンパレード。社説も同じ。「国民生活の利便のために新元号の公表を早く」というのが精一杯で、天皇制と結びついた元号そのものの批判をしない。

下記は、地方紙には珍しく右翼的な論調で知られる北國新聞の本年1月1日号社説である。

 社説 「改元の年に 新しい時代に大きな夢を」
 新しい年が明け、平成最後の正月を迎えた。いつもの年の初めと違う特別な空気感があるのは、4カ月後に新天皇の即位と改元という、歴史の大きな節目が待ち受けているからだろう。
 一つの時代が終わる寂しさと惜別の思い。平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重なり、懐かしい日々と新しい時代への期待が交錯する。

「平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重な(る)」というのが、まさしく、天皇制と結びついた元号制の狙いそのものである。国民一人ひとりの人生の推移を、天皇の在位で区切ろうというのが、元号制の本質。これを肯定する右派言論に、リベラル派メディアが切り込んでいないことをもどかしく思っていた。

ようやくにして、昨日(3月21日)の朝日社説が、この点に触れたものとなった。 社説のタイトルは、「『改元』を考える 時はだれのものなのか」というもの。「時はだれのものなのか」とは、「天皇のものではない、自分自身のものだ」という含意。天皇の都合で、勝手に「時」を区切らせてはならない、ということなのだが、さすがに朝日。物言いの品が良い。そのようにはっきりとは言わない。

その全文は下記でご覧いただくとして、要約は下記のとおりである。      https://www.asahi.com/articles/DA3S13942702.html?

 もうすぐ新たな元号が発表される。
 朝日新聞を含む多くのメディアは「平成最後」や「平成30年間」といった表現をよく使っている。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、と感じる人も少なくないだろう。
 でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか。誰かが時代を決める、あるいは、ある歳月に呼び名が付けられることを、どう受け止めればいいのだろうか。
 歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた。
 日本の元号も、「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に倣ったものである。
 元号には独特なところがある。「改元」という区切りがあるからだ。日本では明治以降、一代の天皇に一つの元号という「一世一元」の仕組みも出来た。天皇が即位することで、起点はその都度、変わる。
 1979年に現在の元号法が成立した際、元海軍兵士の作家、渡辺清は日記に書いた。
 「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇の支配下におかれたということになる」(『私の天皇観』)
 時の流れをどう名付け、区切るかは、個々人の自由の営みであり、あるいは世相が生み出す歴史の共有意識でもあろう。
 人生の節目から国や世界の歩みまで、どんな時の刻みを思い描くかは、その時その時の自らの思考や視野の範囲を調整する営みなのかもしれない。
 もちろん元号という日本独自の時の呼び方があってもいい。ただ同時に、多種多様な時の流れを心得る、しなやかで複眼的な思考を大切にしたい。
 時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのものだから。

 もちろん(というべきだろう)、元号否定ではなく、元号に対する意識の相対化を論じるレベルのものだ。しかし、明らかに半歩の前進である。この論調を評価し歓迎する。
(2019年3月22日)

国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、この社会の根幹にある自由の価値を貶めるものだ。

7月19日最高裁「再雇用拒否」判決の当否を論じた社説として、
 20日朝日「君が代判決 強制の追認でいいのか」
 22日毎日「君が代『再雇用拒否』判決 行政の裁量広げすぎでは」
 23日産経「『不起立教員』敗訴 国旗国歌の尊重は当然だ」
の3点を、既に当欄で紹介した。特に、産経社説については詳細に。
言うまでもなく、朝日・毎日が最高裁判決の立場を非とし、産経が最高裁判決の結論を是として褒めている。最高裁判決のレベルとは、その程度のものなのだ。

さらに、以下の2点を追加したい。
 23日北海道新聞「君が代訴訟 疑問拭えぬ最高裁判決 教育現場が萎縮しないか気がかりだ。」
 25日東京新聞「君が代判決 強制の発想の冷たさ」
いずれも、それぞれの切り口で、最高裁の非寛容の姿勢を批判するものである。その批判の道筋において、それぞれの人権論、教育観、民主主義論を語るものとなっている。

多様な語り口の究極にあるキーワードは「多様性」である。もとより、思想・信条・良心・信仰のありかたは個人の自由である。その必然的な結果として、民主主義社会には、多様な思想・信条・良心・信仰が共存することになる。この多様性こそが社会の強靱さを支えている。権力によって思想を統制された社会は脆弱なのだ。この多様性をどれだけの本気度で尊重しようとしているか、その民主主義的感性の成熟度が国旗・国歌(日の丸・君が代)問題に表れている。

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まずは、道新の7月23日社説

 学校の式典で君が代を斉唱する際に起立せず、それを理由に再雇用されなかった東京都立高校の元教諭22人が都に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁が元教諭側敗訴の判決を言い渡した。
  再雇用を拒否したのは都教委の裁量権の逸脱・乱用に当たるとして賠償を命じた一、二審判決に比べ、強い疑問が拭えない。

 戦争の記憶などと相まって、君が代や日の丸についてはさまざまな考え方があろう。大切なのは異なる意見を認め合うことであり、斉唱や起立を強制したり、処分の対象にすることではないはずだ。

 教育行政も判決を司法のお墨付きと受け止めず、現場の多様性を尊重してもらいたい。

 元教諭は卒業式や入学式で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱するよう求めた学校長の職務命令に従わず、2004~08年に戒告や減給の懲戒処分を受けた。その後、定年退職に伴って再雇用を申請したが、処分を理由に認められなかった。

 最高裁は「職務命令違反は式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう。再雇用すれば、元教諭らが同様の違反行為に及ぶ恐れがある」と、都の対応を容認した。

 しかし、「内心の自由」は憲法が保障する権利である。思想や信条に基づく行為に不利益を課す場合、相当の理由や慎重さが求められるのは当然だ。一、二審判決がそうした原則を考慮し、「式の進行を妨害したわけではなく、職務命令違反を不当に重く扱うべきではない」と判断したことこそ妥当だろう。

 今回の判決は事の本質から目を背けているのではないか。

 忘れてならないのは、最高裁が過去の同種裁判で積み上げてきた慎重な判断である。職務命令は思想、良心の自由を保障する憲法に反するとは言えないとしながらも、間接的な制約と認め、処分は抑制的であるべきだとの考えも示している。行政の行き過ぎにクギを刺す狙いがうかがえる。

 今回の判決は従来の枠組みから大きく後退している。君が代や日の丸を巡る問題で、教育現場が息苦しくなるようなことがあってはならない。

 子どもたちに多様な価値観が共存する意義を教える。そうした教育を推進するためにも、行政には柔軟な対応が求められよう。

この社説が指摘する「今回の判決が目を背けている『事の本質』」とは、「多様な内心のありかたの自由」の価値であろう。「戦争の記憶などと相まって、君が代や日の丸についてはさまざまな考え方があろう。大切なのは異なる意見を認め合うことであり、斉唱や起立を強制したり、処分の対象にすることではない」のだ。最高裁は、民主主義の基本である「異なる意見を認め合うこと」に背を向けたのだ。批判されて当然であろう。

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ついで、7月25日東京新聞社説
 卒業式で君が代を歌わなかったから定年後に再雇用されない。その不当を訴えた元教諭の裁判は一、二審は勝訴でも、最高裁で負けた。良心か職かを迫る。そんな強制の発想に冷たさを覚える。

 もともと1999年の国旗国歌法の成立時には、当時の小渕恵三首相が「新たに義務を課すものではない」と述べた。野中広務官房長官も「むしろ静かに理解されていく環境が大切だ」と。さまざまな思いへの理解と寛容があったのではないだろうか。

 だが、実際には異なった。東京では教育長が2003年に「校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問われる」と通達を出した。強制の始まりである。

 入学式や卒業式は儀式であり、式典としての秩序や雰囲気が求められるのは十分に理解する。一方で国旗国歌に対し、「戦時中の軍国主義のシンボルだ」と考える人々がいることも事実である。教室には在日朝鮮人や中国人もいて、教師として歌えない人もいる。数多くの教員が処分された。

 憲法が保障する思想・良心の自由との対立である。強制の職務命令は違憲でないのか。しかし、この問題は11年に最高裁で「合憲」だと決着している。間接的に思想・良心の自由を制約するが、法令上の国歌の位置付けと公務員の職務を比較衡量すれば正当である。そんな理由だった。

 仮にその判断を前提にしても、重すぎる処分には断固として反対する。最高裁も12年に「減給以上の処分には慎重な考慮が必要だ」と指摘した。思想信条での不利益だから当然である。

 今回の原告22人は07~09年に定年で再雇用を求めたが拒否された。現在の希望者全員が再雇用される制度の前だった。その点から最高裁は「希望者を原則として採用する定めがない。任命権者の裁量に委ねられる」とあっさり訴えを退けた。

 失望する。一、二審判決では「勤務成績など多種多様な要素を全く考慮せず、都教委は裁量権の逸脱、乱用をした」とした。その方が納得がいく。

 再雇用は生活に重くかかわる。君が代がすべてなのか。良心と職とをてんびんにかける冷酷な選別である。日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましいと思う。自然さが不可欠なのだ。高圧的な姿勢で押しつければ、君が代はややもすると「裏声」で歌われてしまう。

この社説は明らかに保守的な心情を基調とするものである。「入学式や卒業式は儀式であり、式典としての秩序や雰囲気が求められるのは十分に理解する」姿勢がまずある。「日の丸・君が代は自発的に敬愛の対象となるのが望ましい」は、園遊会での天皇の発言を思い出させる。「君が代はややもすると『裏声』で歌われてしまう。」は、本来君が代は裏声ではなく堂々と唱われべきものとの思い込みが言わせているのだろう。しかし、その保守的心情から見ても、都教委の「日の丸・君が代」強制の姿勢は異常であり、これを是認した最高裁は批判せざるを得ない。

「良心か職かを迫る。そんな強制の発想に冷たさを覚える。」は、踏み絵を意識しているのだろう。都立校に国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制なく自由の気が横溢していた時代、起立斉唱していたのは、一握りの管理職と風変わりな教員だけだった。いま、強制が、面従腹背の教員を大量に作りあげている。職のために、良心を捨てざるをえないのだ。わが国の権力者が400年前のキリスト教徒に強制した踏み絵が現代に甦っているのだ。

何度か紹介したが、アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例である。

ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。

68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けて逮捕され、起訴されて無罪の判決を得た。

以下が、アイクマン事件・連邦最高裁判決の一節である。裁判官の心情が吐露されているのが興味を惹く。

「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄筑波大大学院教授(当時)作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)

なんと含蓄に富む言葉だろうか。愛国者として国旗・国歌(日の丸・君が代)を大切に思う立場に立っていればこそ、その愛する国を成り立たせている根源的価値である自由を尊重せざるを得ず、その結果、不起立・不斉唱の態度は不愉快ではあっても、これに寛容でなくてはならない、ということになる。

都教委や最高裁の態度こそが、国旗・国歌(日の丸・君が代)を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めているのだ。
(2018年7月26日)

オウム信者の権威主義と、臣民の精神構造

人の生命はこの上なく重い。犯罪者の生命も例外ではありえない。
だから、死刑の判決には気が滅入る。被害者や肉親の被害感情を考慮しても、国家による殺人を正当化することは文明の許すところではない。死刑執行の報道にはさらに辛い思いがする。少なくとも、死刑を言い渡した裁判官も、求刑した検察官も、執行を命じた法務大臣も、死刑執行にはその全員が立ち会うべきだと思う。それが、人の死の厳粛さに向き合う国家の誠実さであろう。

昨日(7月6日)、麻原彰晃以下7名のオウム真理教幹部の死刑が執行された。
偶然の暗合だろうか。1948年12月23日、東条英機以下のA級戦犯処刑も7名であった。この日は、当時の皇太子(明仁・現天皇)の誕生日を特に選んでのこととされている。

A級戦犯7人の遺体は、横浜の斎場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられている。遺骨を軍国主義者の崇拝の対象としないための配慮からである。死刑の執行や遺体・遺骨の処理をめぐっても、政治的な思惑はつきまとうのだ。今回のオウムの場合の政治的な意図の有無や内容はまだよく分からない。しかし、現代においては、他の刑死者と異なる取り扱いが許されるはずはなく、遺体ないし遺骨は、しかるべき親族に引き渡されることにならざるをえない。

私的な感情においては、この事件を坂本堤弁護士一家被害の立場から見ざるを得ないのだが、全体としてのオウム事件は社会史的・文明史的な事件として多様な角度から検証が必要である。

最大の問題として、信者の教祖に対する権威主義的な盲目的信仰のありかたが問われなければならない。あまりにも旧天皇制の臣民に対する精神支配構造に似ているのだ。この点についての精緻な分析の必要を痛感する。

オウムの信者とは、はたして「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた、特別に愚かな被洗脳者集団であったろうか。あるいは、特殊な洗脳技術の犠牲者というべきだろうか。そうではあるまい。70余年前まで、この国の全体が「教祖とされた凡庸な一人の人物」と「浅薄な国家神道教義」に惑わされた被洗脳臣民集団が形づくる宗教国家であったのだから。

当時、支配者が意識的に煽ったナショナリズムが信仰の域に達して、天皇を神とする天皇教が国民の精神を支配した。天皇はその教義に則って現人神を演じ、国民は支配者が作り出した浅薄きわまりない天皇を神と崇める教義を刷り込まれ、信じ込まされた。あるいは、信じたふりを強要された。

当時の平均的日本人は、「万世一系の天皇を戴く神の国日本に生まれ、天皇の慈しみを受ける臣民であることの幸せ」を受け入れていた。この国全体が、オウムと同様に「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた狂信的信者に満ち満ちていたのだ。

天皇や、天皇の宗教的・道徳的権威に対する、国民の批判精神の極端なまでの脆弱さ。その権威主義的精神構造が、「天皇と臣民」の関係をかたちづくった。換言すれば、臣民根性の肥大こそが、神なる天皇と、神聖な天皇に拝跪する臣民の両者を作ったのだ。

敗戦によって、日本国民は天皇制の呪縛や迷妄から解き放されて、自立した主権者になった…はずだった。が、本当に国民は自立した精神を獲得したのだろうか。為政者や権威に対する批判的精神は育っているだろうか。時代は社会的同調圧力に屈しない人格に寛容だろうか。自他の尊厳を尊重する人権意識が共有されているだろうか。自分の精神の核にあるものにしたがって、理不尽な外的強制を拒否する精神の強靱を、一人ひとりがもっているだろうか。

明治150年論争が盛んである。その前半の旧天皇制の支配を許した精神構造を、後半の時代が克服し得ているか。これが最大のテーマのはず。残念ながら、オウムの事件は、これに否定的な答を出しているようではないか。天皇制を許した権威主義的国民精神の構造が、そのまま尊師の権威を尊崇する精神になっているように見えるからだ。

「たとえ人を殺しても、尊師の命令に従うことが正しいことだ」という精神構造は、「天皇のために勇敢に闘え。天皇の命じるところなのだから、中国人や鬼畜米英を殺せ。」という、あの時代の精神が伏流水のごとくに吹き出してきたものに見える。地下水脈は枯れてはいなかった。一億総洗脳の時代のカケラが、部分的洗脳となったに過ぎないのではないか。

オウムの事件は、国民の権力や権威に対する批判精神が、いまだ不十分であることを示している。天皇制を支えた国民の権威主義が払拭されずそのままであるとすれば、象徴天皇制が、いまなお国民を支配するための道具としてすこぶる有用ということでもある。オウムの事件を通じて教訓とすべき最大のものは、権威主義の克服ということであろうかと思う。
(2018年7月7日)

「サッカー日本代表の皆さん。つかの間の安らぎに心からの感謝」 ― アベシンゾー

トランプもすなるツィッターといふものを、アベもしてみむとてするなり。
アベは、1918年7月3日早暁サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会でベルギーに敗れた日本代表チームへの「感謝の言葉」をツイッターに投稿した。

「最後まで全力を尽くし、たくさんの感動を与えてくれたサッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう!」

これは表向きに取り繕っての、余裕ありげな感謝のメッセージ。しかし、ホントのところは敗戦が残念至極。側近がいくつもの素案を作っていた。ボツになったそのいくつかをご紹介しよう。

「新聞もテレビも、森友や加計問題を忘れて、サッカーばかりを報じてくれた夢のような2週間をありがとう! 予選を勝ち抜いた皆さんに心から感謝します。」

「高プロもカジノも、どさくさに紛れてさしたる批判のないままうまくやれました。たくさんの恩恵を与えてくれた日本代表の皆さん、夢のような2週間ありがとう!」

「最後まで全力を尽くし、たくさんの悪法を作ってきました。国民の多くがサッカーに気をとられている隙をねらって大成功です。日本代表の皆さんありがとう!」

「低迷していた支持率も、サッカーW杯をきっかけに上向きそう。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう! 心から感謝します。」

「昔から政治の要諦はパンとサーカス。今の時代は、株高とスポーツ。政治のボロを取り繕ってくれたW杯サッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。」

「ホントのところ、もっと勝ち進んで、日本中の話題がサッカー一色という事態を期待してました。そうすりゃ、改憲発議もできたかも知れないのに。残念。」

「国民栄誉賞の濫発が手っ取り早い人気取り。将棋の羽生に、碁の井山、そしてフィギュアの羽生弓弦。これにサッカーW杯、負けて惜しいことをした。」

「毎日がわくわくで夢のような2週間。我が大和民族の、いざというときの一体感はすごい。これなら十分、ほかの国と闘える。」

「W杯もオリンピックも、ナショナリズム高揚の絶好機。「日の丸」振って、「君が代」唱って、感動を与えてくれた日本代表の皆さんに、心から感謝。」

「最後まで全力を尽くし、私とアキエを守り抜いた官僚の皆さんに、心から感謝します。毎日がドキドキで、悪夢のような一年をご苦労様!」

「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです。お国のために戦った日本代表の皆さん、ありがとう。」

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又、以テナンジ祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」
(2018年7月3日)

これが、教育行政のやることか。都教委の再処分に抗議する。

 一昨日(2月21日)のこと、悪名高い都教委は「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制に服しがたいとした教員2名に、またまたの懲戒処分(戒告)を発令した。これで、「10・23通達」に基づく「不起立懲戒処分」は、延べ482件となった。

今は卒業式直前の時期、入学式も2か月先のことだ。この懲戒処分は、今年の学校行事に関してのものではない。実は昨年のことでも一昨年のことでもなく、驚くべきことだが、2009年と10年の卒業式における不起立が処分理由とされているのだ。8年前と9年前のことが今頃なぜ?

都教委の説明は以下のとおりだ。
「本件服務事故については、平成29年(2017年のこと。つまり昨年-澤藤註)9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。」

何を白々しい。正確にこういうべきなのだ。
「東京都教育委員会は、国家あっての個人という国家主義理念を徹底すること、また明治維新以来天皇制国家が進めた富国強兵の対外膨張政策の歴史的正当性を堅持することこそが都立学校の基本的な教育理念であり、都立校の教員にはこのような国家主義と大日本帝国憲法的歴史観にもとづく教育を積極的に推進する『正しい』思想の持ち主でなくてはならない。当教育委員会としては、かねてからこのような人事方針を明確にしてきたところであり、その見地から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明は極めて重要な集団儀礼として、これを強制してきた。この当教育委員会の施策は、政権政党である自由民主党の政策とも一致するものとして妥当と考えるべきである。
 都立校の教員には、このような都教委の思想と教育方針を受容するか、少なくとも面従腹背すべきことが求められるのであって、不幸にして面従腹背をなしえないという教員には、思想的な転向をしてもらわねばならない。このことは、国家観や、歴史観、教育観においてのことのみならず、自己の信仰上の理由から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意は表明しがたいとする者も当然に包含されるものである。
 そのため、当初当教育委員会は、不起立1回なら戒告とするが、2回目には減給1月の処分とし、3回目には減給6月、そして4回目には停職1月と処分量定を累進加重し、7回目には懲戒免職として、思想の転向ない限り当該教員を教育現場から追放することを企図していた。
 ところが、裁判所の判断がこれに横槍を入れ、最高裁も戒告はともかく減給以上は懲戒権の濫用として取り消しを命じるという、思いがけない事態となった。教員らが、いみじくも名付けた「転向強制システム」が崩壊したのだ。
 本件の2名の教員もその一場面なのだ。この2名には、当初減給1月と減給6月の各懲戒処分を発令したものであるが、人事委員会の口頭審理を経て行政訴訟に至り、平成29年(2017年のこと。つまり昨年-澤藤註)9月15日の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分を違法として取り消す判決が言い渡され、当教育委員会が控訴を断念したことから各処分の取消しが確定した。なお、同日の判決では6名・7件の減給・停職処分が取り消され、その内5名・5件の処分取り消しが確定している。
 これに対して、当然のことながら、各当事者からは過酷で違法な処分をしたことに対して教育委員会は謝罪すべきだという強い要請があったが、当教育委員会はこれを突っぱねて謝罪を拒絶し、在職教員2名について再処分に及んだものである。残念ながら、減給は取り消されたものの、戒告であれば裁判所も容認してくれるはずと考えている。
 当該教員らは、再び人事委員会の口頭審理を経て処分取消訴訟に至ることになって、過重な労力や時間あるいは費用負担を強いられることになると抗議を寄せているが、当教育委員会の知ったことではない。当教育委員会としては税金をもって争訟の費用をまかなうのであるから、闘争資金も労力も無尽蔵で痛くも痒くもないことを付言しておきたい。
 最後に、当教育委員会はこれまでどおり、国家主義にもとづく愛国教育の一環として国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を貫徹することで、自民党や右翼の皆様のご期待に応える所存であることを申し添える。」
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平成30年2月21日

教   育   庁

卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について

東京都立学校で実施された卒業式において、一部の学校で服務事故が発生したことに伴い、以下のとおり教員の懲戒処分を行ったので、お知らせします。

1 処分の事由
平成21年度及び平成22年度に実施された卒業式において、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し斉唱することを校長から職務命令として命じられていたにもかかわらず、起立せず職務命令に違反した。

2 処分の内容
職務命令違反を行った教員について、地方公務員法に基づく懲戒処分を行った。
処分の程度   戒告
該当者数  2校 2名
学校名(当時)
都立○○○○高等学校
都立○○○高等学校

3 発令年月日
平成30年2月21日

4 その他
本件服務事故については、平成29年9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。

【問合せ先】
東京都教育庁人事部職員課 電話03-5320-6798(直通)

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「日の丸・君が代」強制・再処分に抗議する声明

 東京都教育委員会(都教委)は、私たちの「『再処分』を行わないこと」を求める申し入れ(2017年11月15日、2018年1月26日)にもかかわらず、東京地方裁判所(東京地裁)で減給処分を取り消された現職の都立高校教員2名に対して7年前、8年前の事案で、新たに戒告処分を出し直すこと(再処分)を決定し、2月21日付で処分発令を強行した。これにより「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく懲戒処分の数は延べ482名となった。

東京地裁は2017年9月15日、2010年~2013年に都教委が行った減給・停職処分6名・7件が「裁量権の逸脱・濫用」で「違法」として取り消した。都教委はこのうち1名・2件の減給処分取消のみを不服として控訴し、他の5名・5件の減給・停職処分取消については判決を受け入れ控訴を断念し、処分取消が確定した。
しかし都教委は、違法な処分をしたことを反省もせず、該当者に謝罪するどころか現職の都立高校教員2名に改めて戒告処分を出し直した(再処分をした)のである。私たちは、この暴挙に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。

周知のように、2012年1月16日の最高裁判決は、起立斉唱・ピアノ伴奏を命ずる職務命令が「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、減給以上の処分については、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」で「処分が重きに失し、社会観念上著しく妥当を欠き、懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給・停職の懲戒処分を取り消した。その後の最高裁、東京高裁、東京地裁の各判決もこれを踏襲して73件・63名の減給・停職処分を取り消した。

今回の再処分は、減給処分を違法としたこれらの司法の判断を重く受け止めるどころか、その趣旨を無視して、新たに戒告処分を出し直すことで教職員を萎縮させ「屈服」させようとする都教委の異常な「暴力的体質」を改めて露呈した。
今都教委のなすべきことは、東京地裁判決を謙虚に受け止め、違法な処分により筆舌に尽くしがたい精神的、経済的損害を被った被処分者への謝罪と名誉回復・権利回復を早急に行うことである。また、司法により違法とされた処分を行った組織の在り方を点検し、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講ずるとともに、10・23通達に基づく校長の職務命令、懲戒処分、再発防止研修など「日の丸・君が代」強制の一連の施策を抜本的に見直し、反省することである。

私たち被処分者の会・原告団と弁護団は、これまで何度となく、都教育委員会及び教育庁関係部署との話し合いを求めてきた。にもかかわらず都教委は、最高裁判決の補足意見が求めている原告団・弁護団との「話し合い」を拒否して問題解決のための努力を放棄する不誠実な対応に終始している。それどころか、司法の判断をもないがしろにして、処分を乱発しているのである。

私たちは、東京の異常な権力的教育行政の抜本的転換を求めると共に、自由で民主的な教育をよみがえらせるために、「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回まで闘い抜く決意である。「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!

2018年2月21日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会・東京「君が代」が代」裁判原告団

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◆かくも不当な再処分を許さないために、戒告処分の取り消しと損害賠償を求めて粘り強く闘っています。東京高裁判決に何としても勝利するため傍聴支援をお願いします。

◆東京「君が代」裁判第四次訴訟・控訴審判決
~いよいよ判決です。こぞって傍聴に来てください。
4月18日(水)13時15分 東京高裁824号法廷

(2018年2月23日)

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介

なんとなく、ものを言いにくい雰囲気ができつつある。安保条約批判、自衛隊批判、天皇制批判が典型3テーマ。現天皇の生前退位希望による法改正批判などは、その最たるものだろう。批判の言論の萎縮は、ものを言いにくい雰囲気醸成の悪循環を招くことになる。いうべきことを自己抑制してはならないと思う。

特に気になるのは、共闘に支障が生じるからと共闘相手の主張に媚びた言論萎縮、世論に支持を得られないからと無用に世論に諂った形での言論萎縮。堂々と自説を述べるべきだろう。でないと、言論の重心がいよいよ右に傾いていくことになる。

これから、2019年の天皇代わりまで、天皇制の存続や代替わり儀式のあり方、元号、祝日、そして政教分離原則についての議論が続くことになる。一人ひとりが、主権者として自覚をもって発言しなければならない。天皇やその親族に畏れいってはならないのだ。一言の遠慮することは、一歩の後退を意味する。一歩の後退が、その分だけ自分を発言の抑制に追い込むことになる。

まずは繰りかえし、元号問題を語りたい。「日の丸・君が代」・祝日・叙勲・元号が、天皇制護持の小道具4点セットである。中でも、国民生活に最も浸透しているのが、元号であろう。一世一元となって以来、元号は天皇の代替わりと連動してきた。元号こそは、天皇制を国民に刷り込む手段として、最有効な働きを果たしている。
その元号について、日本学術会議が、「元号廃止 西暦採用について(申入)」の総会決議を採択したことがある。1950年5月6日付。衆参両院議長と内閣総理大臣に当てたもの。新憲法制定3年後のことである。

これが、民主主義国家として再生した、戦後日本の知性のあり方というべきだろう。その後に元号法の成立(1979年6月)をみて、その限りでの事情の変化はあるが、そのほかはまったく変わらない。

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衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣

日本学術会議会長 亀山直人

元号廃止 西暦採用について(申入)

本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。

 日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。

理 由

1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。

2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。

3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。

4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係かあったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。

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蛇足だが、第1項は極めて分かり易く、説得力がある。学術振興の立場を前提とするする限り、反論は困難だろう。

第2項は、元号法制定によって事情が変わった。このことは、元号法制定の意図や法制定ない場合の保守派の危機感をあぶり出しているともいえるだろう。

第3項は、「新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない」。この結論に私は大賛成だ。

第4項は、言わずもがなというところ。「アンチ西暦派」への反論だが、いま「アンチ西暦派」はほとんど絶滅している。今対決しているのは、「西暦派」対「西暦・元号併存派」なのだ。もっと正確に言えば、「元号廃止の是非」が問題となっている。

不便で不合理な元号使用の押しつけは、まっぴらご免だ。後期高齢者に近い年齢で、どうでもよいようなものだが、自分の年齢を計算することに元号では煩瑣で混乱を避けられない。

学術関係者だけでなく、ビジネスマンも同じ意見だろう。「西暦・元号の併存」によって、どれだけのビジネス効率の低下を招いていることか。私は、天皇制ナショナリズムよりも、学術会議的で資本主義的な科学的合理性に与する。
(2017年12月16日)

どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。

課題として獲得すべき判決は二つ。「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。

違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。

私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。

歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。

いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。

国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。

この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。

ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。

「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。

いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。

しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。

戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。

かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。

戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。

しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに。国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。

さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)

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