澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」 ― 原発稼働差し止め裁判官インタビュー

昨日(8月4日)の朝日に、樋口英明・元福井地裁裁判長のインタビュー。大飯原発訴訟の1審を担当して差し止め認容の判決を出した人。大きな見出しが、「原発は危険、判決の信念」「規準を超える地震『来ない』根拠なし 再稼働認めぬ判断」。そして、「行政の裁量逸脱 司法の介入やむを得ない」。よくできた良質のインタビューで、多々考えさせられる。

「裁判官は弁明せず」が美徳とされる。しかし、「弁明せず」は場合によっては無責任を意味する。行政に説明責任が求められているのと同様に、裁判官にも批判を恐れずに自分の判決について発言することを求めたい。それこそ裁判官の責任のとりかたではないか。独善や人事権者に追従の判決を改善することにもつながるだろう。同裁判官は既に退官しており、「大飯原発訴訟の控訴審判決が出て確定したので、インタビューに応じました」としている。

このインタビュー記事、ネットでも読むことができる。(もっとも、見出しが少しちがっているようだが)。
https://www.asahi.com/articles/DA3S13620670.html

リードは以下のとおり。「福島の原発事故後では初めて、運転差し止めを命じた関西電力大飯原発3、4号機をめぐる2014年の福井地裁判決。しかし、控訴審で名古屋高裁金沢支部は7月、一審判決を取り消し、住民の請求を棄却する逆転判決をした。一審で裁判長を務め、昨年8月に退官した樋口英明さん(65)に、判決に込めた思いを聞いた。」

原発の危険性のとらえ方が随所に語られている。
「私が一審判決で指摘した点について具体的に反論してくれ、こんなに安全だったのかと私を納得させてくれる判決なら、逆転判決であっても歓迎します。しかし、今回の控訴審判決の内容を見ると『新規制基準に従っているから心配ない』というもので、全く中身がない。不安は募るばかりです」

「(日本の原発の現状は)小さな船で太平洋にこぎ出している状況に等しいと思います。運がよければ助かるかもしれませんが、そうでなければ日本全体が大変なことになります。一国を賭け事の対象とするようなことは許されるはずがありません」

「(再稼働を認めぬ方向に心証が傾いたのは)過去10年間に4カ所の原発所在地で、原発の耐震設計の根幹となる基準地震動(想定する最大の揺れ)を超える地震が5回も発生したことを知った時ですね。…争点は強い地震が来るか来ないかという点にあり、どちらも強い地震に原発が耐えられないことを前提に議論しているのです。そのこと自体が驚きでした」

 「わが国で地震の予知に成功したことは、一度もありません。」「将来の最大の揺れを予測する算式は、仮説に過ぎません。それを原発の耐震性の決定に用いることは許されません」「なにしろ大飯原発の(基準地震動)700ガルというのは、私が住んでいる家に対して住宅メーカーが保証している3400ガルに比べてもはるかに小さい値なんですよ。原発は私の家より地震に弱い」

原発差し止め訴訟の現状に関して、次のような注目すべき発言もある。

――「3・11」後、原発の運転差し止めを命じる判決、仮処分は樋口さんの2件を含め4件です。
 「少なすぎます。裁判官が原発の生(なま)の危険性に正面から向き合えば、差し止めの判断が出るはずです。裁判官教育の際に『裁判官は絶大な権限を与えられているので、その行使については謙虚かつ抑制的であれ』と教えられることが、必要以上に裁判官を萎縮させている面があると思います」

――(「裁判所組織は最高裁を頂点とした一枚岩で政権に迎合しているといった、単純な図式は間違い」という発言を承けて)ただ、樋口さんの後任の裁判長を含め、高浜原発の決定に対する異議審を担当した裁判官は3人とも最高裁事務総局付きを経験した「エリート裁判官」。樋口さんが出した運転差し止めの仮処分を取り消しました。
 「2人までは偶然で説明できますが、3人とも事務総局経験者というのは珍しいと思います。人事の意味はよくわかりませんが、何らかの示唆を受けて赴任した可能性はあると思います。ある裁判官が原発立地県の地裁に異動する際に、上司から『裁判官がこうした事件の判断に必要な高い専門技術性は持っていないことはわかっているだろうね』と言われた、という話を聞いたことがあります」

――国のエネルギー政策に関しては、国民から選挙で選ばれた国会や内閣が決めるべきで、裁判所が決めるのはおかしいという意見もあります。
 「今回の控訴審判決も、『その当否を巡る判断は司法の役割を超えるものであり、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄』と述べています。私は本来、行政の裁量権を重視する立場ですが、原発の危険性を顧みずに運転を認めるのは、裁量権の範囲をはるかに逸脱しています。そういう場合、司法が介入することもやむを得ません」

ところで、このインタビュー記事には「愛国心」が出て来る。次のような使い方で。

 ――「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」の文にも驚きました。
 「これを書かせたのは、自分で言うのもなんですが『愛国心』だと思っています。判決当時、私はネット上で『左翼裁判官』などと批判されましたが、本当の保守は原発に反対すべきだと思います」

ここに出て来るキーワードは、「愛国心」と「左翼裁判官」と「本当の保守」。
国策である原発推進に楯突く判決を書くような者には、「左翼裁判官」とレッテルを貼られる現実があることが語られている。しかし、樋口は、自分にこの判決を書かせたのは「愛国心」だという。左翼的心情からではなく、ということは国家性悪説とでもいう立場からの判決ではなく、自分の内なる「愛国心」が判決と判決書きにおける表現の動機だったのだという。

その判決部分は、「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている。」というもの。これが「愛国心判決」ないしは、「愛国心的判決説示」というわけだ。

樋口の「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」は、「愛国心」とは本来が保守のもの。国富喪失の危険ある原発には、愛国心あるものは反対せよ、本当の保守(愛国心を大切にする立場?)なら当然に反対すべきだというのだ。

個人の自由と民主主義と平和こそが、強靱で豊かな国の姿だ。これを歪める国旗・国歌(日の丸・君が代)強制への反対こそが愛国心のしからしめるところ。「本当の保守は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制に反対すべきだと思います」ともいうべきであろう。
(2018年8月5日)

最高裁と都教委の応援団・産経社説を批判する

7月19日最高裁「再雇用拒否」判決に、朝日が素早く反応した。翌20日の社説「君が代判決 強制の追認でいいのか」。次いで毎日が22日付で続いた。「君が代『再雇用拒否』判決 行政の裁量広げすぎでは」という的確な判決批判の内容。

そして本日(7月23日)、案の定判決肯定の社説が出た。案の定産経である。しかも案の定、ネトウヨ諸君と兄たりがたく弟たりがたい紋切りの論調。ご紹介の上、批判的な解説を試みたい。以下、赤字が産経社説。青字が私の解説文である。

タイトル 「不起立教員」敗訴 国旗国歌の尊重は当然だ
最高裁は、朝日・毎日に批判され、産経には「当然」と褒められる判決を言い渡したのだ。ことはナショナリズムないしは国家主義イデオロギーに関する問題。深刻に自らの立ち位置をよく考えねばならない。やがて、何を言っても「どうせ産経のお仲間だろう」と耳を貸してもらえなくなる。それは、民主主義の危機であり、国民の不幸の事態である。

 国歌斉唱で起立しなかった教職員に対し、定年後の再雇用を拒否した東京都の判断について、最高裁が合法と認めた。当然の判決である。
 「合法と認めた」は正確ではない。「著しく合理性を欠くものであったということはできない」「違法であるとは言えない」が正しい。判決内容を正確に把握していないのだから、「当然の判決」は意味をなさない。

 国旗、国歌に敬意を払わない者が教師としてふさわしいか、考えるまでもない。その地位を与え続けるべきでもない。
 これは暴論。「考えるまでもない」とは、「問答無用」ということ。原告側教師の言い分を聞く耳はもたないということでもある。これでは困るのだ。意見の違う相手の言い分にも、耳を傾けてもらわねばならない。とりわけ「ネトウヨならぬ大新聞」の立場であればこそ。産経が、「国旗、国歌に敬意を払わない者に教師としての地位を与え続けるべきではない。」ということには戦慄を覚える。これは、天皇にまつろわぬ者を非国民とした戦前の苦い記憶、あるいは共産主義者を非米活動として糺弾したマッカーシズムを想起させる。非寛容の社会、一元的な国家主義で染め上げられた窮屈な社会の到来を危惧せざるを得ない。

 訴えていたのは都立高校の元教職員22人だ。東京都教委は卒業式や入学式の国歌斉唱時、国旗に向かい、起立して斉唱するよう、校長を通じ教職員に職務命令を出している。
 事実経過はそのとおり。「職務命令」とは、公権力による公務員に対する強制のこと。職務命令の効果として、何をどこまで強制できるか、公務員側から見ていかなる義務があるかはけっして自明ではない。教科とされているもの授業を行うべき義務があることは当然のことだ。それは、教育が自然科学や人文・社会科学において確認された真実の体系を次世代に継授する営みである以上、教員の本質的責務である。しかし、価値感や信仰についての教育、あるいはイデオロギーについての教育が強制されてはならないし、教員にはそのような強制に応ずべき義務もない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいとする価値感は、信仰と同じでこれを受容できる者もあり、受容し得ない者もある。公立校の生徒は、多様な価値観を尊ぶべき教育を受ける。そのような教育を実践する教員に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいと思え」「思えなければ、教職から去れ」と言ってはならない。それは、既に価値感や思想を統制する社会なのだから。

 元教職員らは在職中、これに従わずに減給や戒告処分を受け、定年後の再雇用選考に申し込んだが、不合格などとされた。1審は都教委の対応が「裁量権の範囲の逸脱・乱用にあたる」などとして賠償を命じ、2審も支持した。背景には、国旗を引きずり下ろすといった妨害行為をしたわけではなく、1~2回の処分などで再雇用を拒否するのは酷だという考えがある。
 1・2審判決の考え方は、形式的には「再雇用を拒否するのは酷」だというものだが、実質的には、価値感や思想の統制に対する強い警戒感がある。日本国憲法の19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、21条(表現の自由)、13条(個人の尊厳)などが、裁判官に「日の丸・君が代」強制を肯定しがたいとしているのだ。

 しかし、最高裁は不起立について「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘し、1、2審の判断を覆した。門出などを祝う重要な節目の行事で、一部教職員が座ったままの光景がどう映るか。生徒らを顧みず、教職員個人の政治的主張や感情を押しつけるもので、教育に値しない行為だ。
 そもそも、卒業式に国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱がどうして必要なのか。かつての文部省の調査では、外国での類似例としては中国・北朝鮮・韓国の3か国しか挙げられなかった。
 歴史的に、日の丸・君が代がはたした役割に否定的な意見を抹殺してはならない。国旗国歌の強制がもつ国家主義イデオロギーは克服されなければならない。

 起立・斉唱の職務命令を「強制」などと言い、相変わらず反対する声がある。しかし、国旗と国歌を尊重するのは国際常識であり、強制とは言わない。
 これは、明らかに論理としておかしい。職務命令は「強制」以外のなにものでもない。国旗国歌を尊重するか否かと、国旗国歌に敬意表明の行為(起立・斉唱)を強制することとは、まったく次元を異にする問題。たとえ、国旗国歌を尊重すべきだとの意見をもっていても、強制はすべきでないとするのが、保守の良識というものだろう。

 自らの思想・良心・信仰のゆえに、国旗・国歌(日の丸・君が代)への強制に服することができないという教員が存在するのが健全な社会。誰も彼もが、国旗・国歌(日の丸・君が代)大好きの社会を国家主義の蔓延した統制社会という。そんな社会、そんな産経好みの国家はおそらくは中・朝の2か国くらいではないか。
 なお、付言しておきたい。国旗と国歌の強制は国際常識に反すること、国家体制が変われば国旗国歌も変わるのが常識であることも。かつての三国同盟の盟友だったナチス・ドイツと、ファシスト・イタリア。敗戦によって体制を変え、それに伴って国旗も国歌も変えた。これが常識。現代日本が、いまだに当時の軍国日本の国旗国歌をそのまま使用しているのは、国際常識からはドイツがハーケンクロイツを掲げているようにも見えるのだ。

 最高裁は別の訴訟でも、都教委の職務命令は「思想、良心を直ちに制約するものではない」などとして合憲の判断を示している。
 さすがの最高裁も、都教委の職務命令をまったく問題がないと言っているのではない。「思想、良心を直ちに制約するものではない」とは、「直ちに」とまでは言えないということなので、間接的な思想・良心に対する制約になることは認めているのだ。最高裁判決の当該部分をそのまま引用する。
「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」
このまだるっこしい判決の解説は、当ブログの下記を参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=10649

 国旗掲揚や国歌斉唱に反対する一部教職員らに対し、校長らは大変な苦労を重ねてきた。
 産経は、どうして一部校長の立場にしか立てないのだろうか。多くの教職員から見れば、「執拗に国旗掲揚や国歌斉唱の強制を企図する、文部省や独立性を放擲した各都府県の教委、そしてこれに迎合する一部校長らによって大変な苦労を重ねざるを得なかった」のである。

 平成11年には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起き、これを契機に「国旗国歌法」が制定された。
 校長の自殺が痛ましい事件であることはそのとおりだ。たかが、国旗・国歌(日の丸・君が代)で人の命が奪われるようなことがあってはならない。問題の根源は、大日本帝国憲法時代の旧天皇制とあまりに深く結びついた旗と歌を、いまだに国旗・国歌(日の丸・君が代)としていること、これを教育の場で強制していることにある。国旗国歌法をつくり、職務命令で強制するのは、面従腹背の教員を増やすだけで、ますます問題を深刻化ることになる。

 職務命令を出すのは、指導に反対して式を混乱させる教職員がいまだにいるからだ。
 都立校に国旗国歌強制のなかった時代。式の混乱はなく、それぞれに工夫を凝らした感動的な式典が行われていた。10・23通達と職務命令によって、生徒を主人公とする卒業式は失われた。それが実態なのである。

それほど国歌が嫌いなら公教育を担う教職につかないのも選択肢だ。
そら出た。これが、挙国一致、尽忠報国派のホンネだ。公立学校の教員には、多様な人材がいてしかるべきなのだ。日の丸・君が代の歴史は、国家主義・戦争・軍国主義・思想統制とともにあったのだから、敬意表明はできないという教員がいてこそ、真っ当な教育の場ではないか。

 都の中井敬三教育長は「今後も職務命令違反には厳正に対処する」とした。それを貫いてもらいたい。
 私は、最高裁が間違った判断をしていると思う。私だけでなく、真っ当に法律を学んだ者の多くが同じ意見だと思っている。しかし、その最高裁も都教委の国旗国歌強制を結構なことだといってるのではない。行政の裁量の範囲の問題としてギリギリのところでセーフとしているに過ぎない。都教委は国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制をあらためるべきである。

東京五輪を控え、先生に国旗や国歌の大切さを教えなければならないのでは、情けない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)問題と向かい合っている教員は、真摯にものを考えている。処遇上のさまざまな不利益を覚悟して、自分の思想や教員としての良心を貫こうとしている人たちがいることに、感動もし、教育に希望をもつこともできる。
 その反対に、何もものを考えず、権力や多数派の圧力に迎合する輩を、心底「情けない」と思わずにはおられない。
(2018年7月23日)

最高裁は、憲法を正しく理解していない。

昨日(7月19日)、「日の丸・君が代強制」問題での新たな最高裁判決があった。後世に、最高裁の汚点として記憶されるべき判決。

運動体が「再雇用拒否撤回第二次訴訟」と名付けている元都立校教員(当初原告数24人)が、都教委を被告として、定年後の再雇用拒否の撤回を求めた訴訟。1・2審判決は、いずれも再雇用拒否を違法として、都教委に総額5370万円余の損害賠償の支払いを命じていた。最高裁はこれを逆転して、原判決を取消し教員の請求を棄却した。5370万円余の損害賠償認容を、ゼロにしたのだ。

1審東京地裁の担当裁判官が3名、2審東京高裁の裁判官が3名、合計6名関与の結論を最高裁第1小法廷5人の裁判官が覆した。少数意見なく、補足意見すらないことが不気味と言わざるを得ない。

虚心に1・2審の判決を読んでいただけば、誰にでも納得しうる無理のない論理。なにしろ、日の丸・君が代関連以外は、どんな懲戒処分を受けた教員も殆どすべてが再雇用合格となっていたのだ。日の丸・君が代に関連して処分歴のある教員だけが、明らかに狙い撃ちにされて不合格となった。いくらなんでも、これは露骨でひどすぎる。「再雇用の要件として多種多様の勤務態様の要素をまったく考慮せず、日の丸・君が代処分歴だけで全員不合格としているのは、再雇用制度の趣旨にも反し、客観的合理性と社会的相当性を欠くもので裁量権の逸脱・濫用に当たる」というのが結論。

最高裁がこれを覆した「論理」は薄弱というほかない。再雇用の採否も、再雇用合格に必要な勤務成績評価の仕方も、行政裁量の範囲にあるというだけで、1・2審の判決理由と具体的に切り結ぶところはない。

最高裁判決の不気味は、人権や教育の本質から説き起こす姿勢が皆無なところにある。人権や自由、教育者の思想・信条・良心・信仰、あるいは教育行政の教育への不当な支配禁止等の原則は語られず、これに代わって語られているのは、「学校の儀式的行事としての式典の秩序や雰囲気」への過剰な尊重である。

人権より公序、自由よりも秩序、個人よりも国家、個よりも全体を優先する姿勢が露骨である。多様な価値観の共存を認めようとしない最高裁の憲法判断は明らかに偏っている。最高裁は憲法を正しく理解していないというほかはない。

この5人の最高裁裁判官の中に2人の「弁護士出身裁判官」がいる。裁判長を務めた山口篤と木澤克之。山口は「弁護士枠」での採用でありながら日弁連推薦を受けた者ではない。また、木澤は周知のとおり加計孝太郎の立教時代の同級生で加計学園の元監事。その経歴を隠していた人物。最高裁裁判官の人選から納得がいかない。

救いは、朝日が本日(7月20日)付で気合いの入った立派な社説を書いてくれたこと。その社説と、昨日付の「原告団・弁護団声明」を引用しておきたい。

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君が代判決 強制の追認でいいのか

 憲法が定める思想・良心の自由の重みをわきまえぬ、不当な判決と言わざるを得ない。
 入学式や卒業式で君が代が流れる際、起立せずに戒告などの処分を受けた都立高校の元教職員22人が、それを理由に定年後の再雇用を拒まれたのは違法だと訴えた裁判で、最高裁はきのう原告側の敗訴を言い渡した。

 理由はこうだ。
 再雇用はいったん退職した人を改めて採用するもので、その決定にあたって何を重視するかは、雇う側の裁量に任される。原告らが不合格となった06~08年度当時は、希望者を全員再雇用する運用もなかった――。

 物事の本質に踏みこまない、しゃくし定規な判断に驚く。
 戦前の軍国主義と密接な関係がある日の丸・君が代にどう向きあうかは、個人の歴史観や世界観と結びつく微妙な問題だ。
 二審の東京高裁はその点を踏まえ、「起立斉唱しなかっただけで、不合格とするような重大な非違行為にあたると評価することはできない」と述べ、都教委側に損害賠償を命じていた。この方が憲法の理念に忠実で、かつ常識にもかなう。

 原告たちが長年働いてきた教育現場から追われたのと同じ時期に、都教委は、別の理由で減給や停職などの重い処分を受けた教職員を再雇用した。さらに年金制度の変更に伴い、希望者を原則として受け入れるようになった13年度からは、君が代のときに起立斉唱せず処分された人も採用している。
 都教委が一時期、教職員を服従させる手段として、再雇用制度を使っていたことを示す話ではないか。そんな都教委のやり方を、きのうの判決は結果として追認したことになる。
 最高裁は11年から12年にかけて、日の丸・君が代訴訟で相次いで判決を言い渡している。起立斉唱の職務命令自体は憲法に反しないとしつつ、「思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と述べ、戒告を超えて減給や停職などの処分を科すことには慎重な姿勢を示した。再雇用をめぐる訴訟でも、教委側の行きすぎをチェックする立場を貫いて欲しかった。

 個人の尊厳を重んじ、多様な価値観を持つことを認めあう。そういう人間を育て、民主的な社会を築くのが教育の使命だ。そして、行政や立法にそれを脅かす動きがあれば、権限を発動してストップをかけることが、司法には期待されている。

 その両者が役割を果たさなければ、社会から自由や多様性は失われる。この判決を受け入れることができない理由である。

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声 明

1 本日、最高裁第一小法廷(山口厚裁判長)は、都立高校の教職員ら24名が、卒業式等において「日の丸」に向かって起立して「君が代」を斉唱しなかつたことのみを理由に、東京都により定年退職後の再雇用職員ないし非常勤教員としての採用を拒否された事件(平成28年(受)第563号損害賠償請求事件)について、教職員らの請求を一部認容した控訴審東京高裁判決(2015年12月10日)を破棄して、教職員らの請求を全面的に退ける不当判決を言い渡した。
2 本件は、東京都教育委員会(都教委)が2003年10月23日付けで全都立学校の校長らに通達を発し(10.23通達)、卒業式等において国歌斉唱時に教職員らが国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを徹底するよう命じ、これに従わないものを処分するとして、「日の丸・君が代」の強制を進める中で起きた事件である。
 本件の教職員らは、それぞれが個人としての歴史観・人生観や、長年の教師としての教育観に基づいて、過去に軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた歴史を背負う「日の丸・君が代」自体が受け入れがたいという思い、あるいは、学校行事における「日の丸・君が代」の強制は許されないという思いを強く持っており、そうした自らの思想・良心から、校長の職務命令には従うことができなかった。
 ところが、都教委は、定年等退職後に再雇用職員あるいは非常勤教員として引き続き教壇に立つことを希望した教職員らに対し、卒業式等で校長の職務命令に従わず、国歌斉唱時に起立しなかったことのみを理由に、「勤務成績不良」であるとして、再雇用を拒否したのである。
3 本件において、2015年5月25日の東京地裁判決は、本件再雇用拒否が、国歌斉唱時に起立斉唱しないという行為を極端に過大視しており、都教委の裁量権を逸脱・濫用した違法なものであるとして、東京都に対し、採用された場合の1年間の賃金に相当する金額、合計で約5370万円の損害賠償を命じ、さらに、同年12月10日の東京高裁判決においても、その内容は全面的に維持された。
4 ところが、今回の最高裁判決は、その控訴審判決を破棄し、教職員らの請求を全面的に棄却したものである。
今回の最高裁判決は、東京都の再雇用・再任用手続きにおける裁量につき、あくまで「新たに採用するものであって」などと言いなして極めて広範な裁量を認め、不起立があれば「他の個別事情のいかんにかかわらず」不合格の判断をすることも許されるとした。
最高裁判決は、事件当時において9割を超える高い率で再雇用・再任用がなされていたこと、雇用と年金の連携の観点から原則として採用すべきとされていたことなど、本件における具体的な事実関係を踏まえて検討することをせず、一般的・抽象的な行政の裁量権を是認して第1審及び控訴審における教職員勝訴の判断を覆した。行政の主張に無批判に追随する判決内容であり、司法権の使命を放棄した判決と言わざるを得ない。
5 わたしたちは、このような最高裁の不当な判決に対し、失望と憤りを禁じ得ない。
 教師が教育行政からの命令で強制的に国旗に向かって立たされ、国歌を歌わされ、自らの思想良心も守れないとき、生徒たちにも国旗や国歌が強制される危険がある。
 都立学校の教育現場で続いている異常事態に、皆様の関心を引き続きお寄せいただき、教育に自由の風を取り戻すための努力に、皆様のご支援をぜひともいただきたい。
 
2018年7月19日

「日の丸・君が代」強制反対再雇用拒否撤回を求める第二次原告団・弁護団

(2018年7月20日)

自衛官違憲訴訟―これから改正自衛隊法の本格的な違憲論議が始まることになる。

一昨日(1月31日)、東京高等裁判所が「超弩級の」「たいへんな」判決を言い渡した。第12民事部(杉原則彦裁判長)の自衛官「命令服従義務不存在確認請求」控訴事件。原判決(原告敗訴)を取り消して、東京地裁に差し戻すこれは体制を揺るがしかねない歴史的な判決。

「超弩級」「たいへんな」と大袈裟な形容は、差し戻しを受けた地裁の係属裁判所では、「訴えの利益なし」とか、「抗告訴訟の訴訟要件の具備がない」などとしての門前払い却下判決の道が塞がれてしまったからだ。ガチンコで、自衛隊法の合違憲判断に取り組まざるを得ないからだ。

自衛官に対する「存立危機事態」における出動命令の根拠条文が、「改正後の自衛隊法76条1項2号」。条文は以下のとおり。

第76条1項 内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。
1号 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
2号 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

上記第1号が個別的自衛権の行使に関わる「武力攻撃事態」であり、第2号が集団的自衛権行使に関わる「存立危機事態」である。現職自衛官である原告は、「存立危機事態」に限っての出動命令に服従する義務がないことの確認を求めているわけだ。

2015年9月に安保法制整備の一環として成立したこの改正自衛隊法の条項が憲法に違反して無効である、というのが原告自衛官の主張。だから、「自衛隊法76条1項2号同条同項に基づく出動命令には服従する義務はないことの確認を求める」というのが請求の趣旨。差し戻し審では、この請求に理由があるか否かについて本格的な攻防が行われることになり、裁判所(東京地裁)は合違憲判断から逃れられない。だから、「超弩級」「たいへんな」事態なのだ。

先日、「憲法を武器として 恵庭事件 知られざる50年目の真実」という、ドキュメント映画を観た。恵庭事件は、検察側が、野崎兄弟の通信線切断という器物毀棄行為を敢えて「自衛隊法違反」で起訴することによって、自衛隊の合憲判断を得ようとしたものだ。これに対して、今回の自衛官の違憲訴訟は、違憲判断を得ようという側の提訴。これは、関ヶ原だ。大事件とならざるを得ない。

原告自衛官側は、この訴訟を「命令服従義務不存在確認請求事件」と名付けている。我々が2004年に提訴した、日の丸・君が代強制予防訴訟は、「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件」である。おそらくは、自衛官訴訟の担当弁護士が予防訴訟を参考に命名してくれたのだと思う。どちらの事件も「懲戒処分の予防を目的とする無名抗告訴訟」である。杉原判決は、この無名抗告訴訟の訴訟要件の具備を認めた。だから、差し戻し審では、自衛隊法の合違憲の判断をしなければならなくなる。

裁判所とは、公権力に違憲・違法な行為があったとき、誰でも駆け込んでその是正を求めることができるところではない。権利の侵害を受けた者が、その回復を求めることができるに止まるのだ。その意味では、裁判所は人権の砦ではあっても、必ずしも憲法の砦ではない。たとえ政府に明白な違憲行為があろうとも、そのことによって権利の侵害を受ける者が訴え出なければ、裁判手続を通じての是正はできない。他人の権利侵害での裁判も受け付けてはもらえない。健全なメディアによる健全な世論形成によって、次の選挙で政府をあるいは政策を変えさせることが期待されているのみなのだ。

ことは三権分立の理解にある。「司法の優越」は、司法がオールマイテイであることを意味しない。立法や行政が、国民の権利を侵害するときに限り、その権利侵害を回復する限度で、司法は機能する。杉原判決は、「存立危機事態」における自衛官に対する出動命令について、予めその命令に応ずべき義務のないことの確認を求める訴訟は適法であると宣言したのだ。これは素晴らしいことだ。

この訴訟の原告は茨城県の陸上自衛隊員とのこと。弁護団事件ではなく、弁護士なしの本人訴訟だったが高裁段階では、群馬県太田市の弁護士が一人ついている。ここまで立派なものだと思うが、是非とも、弁護団を組むべきだろう。憲法学者・行政訴訟法学者・政治学者・ジャーナリストなどのの支援を得て、歴史的な大違憲訴訟とすべきだろう。

頃もよし、アベ9条改憲と切り結ぶべき時ではないか。
(2018年2月2日)

DHC・吉田嘉明のスラップ提訴は、「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」ものである ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第119弾

もとより提訴は、国民に等しく認められた権利だ。これを、憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」と人権カタログのひとつとして挙示している。

法や裁判所がなければ、この世は実力だけがものを言う野蛮な社会となる。権力や社会的な強者の横暴に泣き寝入りすることなく、弱者が自分の権利救済の盾とも槍ともするものが法であり、その権利救済を実現する場として駆け込むところが裁判所である。

この本来の目的から逸脱した提訴は、訴権の濫用として違法となり、提訴自体が不法行為として損害賠償請求の責任を生じることになる。スラップとは、そのような問題なのだ。裁判制度の利用まで、カネの力次第として濫用を許してはならない。

今のところ、訴訟提起自体を違法とすることについての基準としては、1988(昭和63)年1月26日最高裁判決がリーディングケースとされている。同判決は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる場合に限られるものと解するのが相当である。」と判示している。そりゃそうだ。通常、提訴は権利だ。提訴して敗訴したというだけでは、違法な提訴をしたことにはならない。しかし、それは通常、あるいは普通の場合。本件は、極めて特別であり特殊な場合なのだ。

この点について、前記最高裁判決はこうも言っている。訴訟提起が違法になる場合として、「…当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起した場合…」。DHC・吉田嘉明の、私に対するスラップ提訴は、「事実的、法律的に根拠を欠くもの」という客観要件を明らかに具備している。しかも、吉田嘉明は、「訴えが事実的、法律的に根拠を欠き敗訴必至なことを知っていた」。少なくも、「通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起した」のだ。なんのために、自分への批判の言論を封殺するためにだ。だから、とんでもない高額訴訟となっているのだ。

従って、DHC・吉田嘉明の私(澤藤)に対する提訴は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる」ものとして、その提訴自体が違法といわねばならない。

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本日の法廷での手続は、DHC・吉田嘉明側が反訴答弁書を陳述し、これに対する反論に必要として、澤藤側から、準備書面(1)の求釈明書(後記)を陳述した。

結局はこの求釈明に対するDHC・吉田側の意見を待って、澤藤側から本格的反論をすることになり、
次回口頭弁論期日は、
2月16日(金)午後1時00分(415号法廷)となった。

なお、裁判長から原告に対して、再度の本訴取り下げ勧告があり、原告訴訟代理人から「次回までに手続をする」との発言があった。

その後、小規模ながら、報告集会兼弁護団会議が行われた。弁護団長から、関連別訴の判決内容について分かっている限りで詳細な報告があり、あらためて、DHC・吉田嘉明の提訴の不当性について、思いを新たにした。

意見交換では、本件スラップ訴訟の違法性について、客観面と主観面の両方から、明らかにしていくべきことが確認された。求釈明に対しては、誠実な回答はなされないだろうことを前提に、対策を講じようということになり、次回弁護団会議を設定した。

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平成29年(ワ)第30018号 債務不存在確認請求事件
平成29年(ワ)第38149号 同損害賠償請求反訴事件
反訴原告(本訴被告) 澤藤 統一郎
反訴被告(本訴原告) 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー

          準備書面(1)

                                                 2018年(平成30年)2月1日
東京地方裁判所民事第1部合議係 御中

反訴原告(本訴被告)訴訟代理人
弁護士 55名

 反訴被告らの答弁書に反論するにあたり、反訴被告らに対し、以下の点を明らかにするよう求める。

1 反訴原告は、反訴被告らの前件訴訟提起が違法であることを、最高裁昭和63年1月26日判決に基づき主張しているが(反訴状7頁)、同判決は、訴訟提起が違法になる場合として、「・・当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる場合に限られるものと解するのが相当である。」と判示している。
同判決は、その事案に即し、訴訟提起が違法(著しく相当性を欠く)となる場合の一例として、「提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的に根拠を欠くものであるうえ、提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえた場合」を挙げているが、もとより、違法提訴がこれに限定されるわけではなく、違法性の判断指標は、「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められる」か否かにあり、この指標に基づき、当該訴訟提起の違法性を、主観、客観の両面から検討し、時代に即した判例法の発展(言論、評論の自由と個人の名誉という対向する権利の困難な調整)が期待されている。
この点において、反訴被告らが、反訴答弁書において、ことさら同判決の例示部分のみを引用する論述は(反訴答弁書5頁)、軽挙な前件訴訟提起の一因を示している。

2 本件において反訴原告は、前件訴訟提起の違法性について、敗訴の客観的予見可能性とともに、反訴被告らの訴訟提起の意図、目的が、裁判による権利回復よりも、意に沿わない公共事項に関する公益目的の言論を封殺することにあったと考え、これを裏付ける事実の一つとして、反訴原告が知りえたものだけでも、反訴被告らが10件の類似の高額名誉毀損訴訟を一括提起し、多数の敗訴を受けているという事実を主張している。

3 これに対し、反訴被告らは、10件の訴訟提起の事実を認め、その一部につき和解調書(甲A17~18)と判決書(甲A19)を提出し、また、反訴被告吉田は、反訴被告会社のブログ(乙9の2)で、多数の訴訟提起に至った経緯について、「渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹謗中傷をインターネットに書き散らかされました。当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に検討した上で、特に悪辣な10件ほどを選んで提訴したものです。やみくもに誰も彼もと提訴したわけではありません。」と述べている。

4 そこで、反訴被告らに対し、以下の各点を明らかにするよう求める。
(1)反訴被告吉田が週刊新潮に告白した事実に関し、反訴被告らを批判(事実無根の誹謗、中傷)する記事やブログは合計何件あったのか。
(2)批判する記事やブログはすべて「反日の徒」なる当事者からのものであったのか。「反日の徒」とはいかなる概念か。
(3)反訴被告吉田が反日と評する当事者以外の者からも、反訴被告らを批判する記事やブログは存在したか否か、存在した場合はその合計件数。
(4)提訴基準とした「特に悪辣なもの」とは、具体的にどのようなものか。「悪辣」の要素に、「反日」なるものが含まれているのか。
(5)「確実に勝訴の見込みがある」ことの慎重な判断には、どの程度の時間と労力を費やし、どのような判断基準を採用したのか。その際、相手方との事前交渉を考慮したことはなかったのか。事前交渉をしたものがあるとすれば、その件数と内容。
(6)必ず勝てるとの判断は、検討に加わった顧問弁護士を含めた全員一致の結論か、それとも、顧問弁護士らの意見を踏まえた上での反訴被告吉田の判断か。
(7)提訴件数は、反訴原告が知り得た10件のみか。提訴した事件の内容とその結末(提訴した全事件の訴状と、結末が分かる判決書もしくは和解調書を提出されたい)。
(8)提訴事件の各損害賠償額と全事件の請求合計額、金額算定の根拠。
以上

司法界に及ぶ「アベノ人事」の実態解説

今年(2018年)の「第2期・友愛政治塾」(西川伸一塾長)については、1月5日付の当ブログでご紹介しました。

歳のはじめに「友愛政治塾」(西川伸一塾長)ご案内
http://article9.jp/wordpress/?p=9715

西川伸一塾長の第1回講義が近づいたので、あらためてご案内申しあげます。

時:1月21日(日)
所:文京シビックセンター 区民会議室4階A
 (看板は「日本針路研究会」とのこと)
①同日 午後1時~3時50分
  講 師  西川伸一(明治大学教授)
    友愛政治塾の2018年第1回講義
  テーマ 最近の裁判官人事の傾向
  参加費:1000円
②引き続き午後4時~6時、同じ会場で新年会
  参加費:2000円 「軽食あり。歓談したいと思います」
  こちらは、「フォーラム社会主義について」の新年会ですが、
  「会員でなくてもどなたでも参加できます」とのことです。

「友愛政治塾」と「フォーラム社会主義について」との異同や関係は私にはよく分かりません。分からないながらも、去年も楽しく歓談した記憶があります。取って食われるようなことは決してありません。

なお、受講には下記に事前申込が必要だそうです。
住所:〒113-0033  東京都文京区本郷2-6-11-301
ロゴスの会   TEL:03-5840-8525

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さて、西川伸一塾長の講義は、「最近の裁判官人事の傾向」というものです。西川さんご自身の惹句は次のようなもの。

 寺田逸郎最高裁長官は2018年1月8日に定年退官し、大谷直人新長官の下、2018年の最高裁はスタートする。最高裁長官は内閣が指名し天皇が任命する。最高裁判事は内閣が任命する。ただ、内閣が専権的に最高裁裁判官を決めてきたわけではない。最高裁の意向をきいてそれを尊重することで司法の独立が担保されてきた。しかし、安倍政権の長期化に伴いこの慣例が崩されつつある。「アベノ人事」は司法にまで及んでいる。報告ではそれを明らかにしたい。

西川講義のキーワードは、「アベノ人事」。省略なしでは、「安倍晋三のオトモダチに対するえこひいき人事」。もう少し、分かり易く言葉を補えば、「安倍晋三のオトモダチと思われる人物、あるいは右翼安倍晋三の思想に親近感をもっていると考えられる人物を特別に優遇して、最高裁判事に推薦することによって、安倍晋三が喜んでくれるであろうと忖度し何らかの見返りあることを期待してのえこひいき人事」である。司法にまで及んでいるという「アベノ人事」の実態解説とあれば興味津々。受講したくもなろうというもの。

アベノ人事として有名なのは、木澤克之氏だ。私はこの件も、最初はリテラで知った。
「安倍首相の親友が経営する“第二の森友”加計学園の関係者を最高裁判事に任命! 司法までオトモダチで支配」という記事。
http://lite-ra.com/2017/03/post-2997.html

このタイトルにある「加計学園の関係者」が木澤克之。「木澤氏は加計理事長と立教大学の同窓で、卒業年も同じ…」だそうだ。安倍のオトモダチでなくても、オトモダチのオトモダチまで、えこひいきが行き届いているというわけだ。

この木澤克之。2018年総選挙の際の「国民審査」公報の経歴紹介欄で、「加計学園監事」という経歴を削除したことが、また話題を呼んだ。

それ以外の露骨な「アベノ人事」については知らない。誰が見ても研究者の山口厚元東大教授が、強引に弁護士枠で最高裁裁判官に推薦されたのも「アベノ人事」なのだろうか。

本年1月9日付で第19代最高裁長官に就任した大谷直人氏と、東京高裁長官から最高裁判事に就いた深山卓也氏はどうなのだろうか。大谷の経歴は、裁判官であるよりは司法行政官というべきだろう。深山も、裁判官出身者というよりは、訟務検事の経歴が重い。

そして「最高裁判事で初の旧姓使用者」として話題の宮崎裕子氏。史上6人目の女性最高裁判事。これまで仕事では旧姓の「宮崎」を使っており、就任後も旧姓を名乗る意向。最高裁は1月8日、人事を戸籍名で発表し、旧姓を併記したが、これに対して宮崎は所属する法律事務所を通じて旧姓での報道を強く求めたという。「旧姓を使うことは当然だと思っています」とメディアに話しているそうだ。

最高裁は昨年(18年)6月に裁判文書で旧姓使用を認めることを発表。全国の裁判官約3800人のうち、実際に運用が始まる9月1日までに18人が旧姓使用を申請したという。その意味では、特に宮崎が先例を作ったというわけではないが、「最高裁判事としては初の」ケースとなる。最高裁判事15人のうち女性は3人だが、「法曹人口に占める女性の割合はもっと多いはず。最高裁の女性判事の割合も上げていく方がいい」と話しているという。「夫婦同姓の強制を合憲」とする判例の変更に一歩近づくことにもなろう。

とはいえ、彼女は典型的な、渉外・企業法務担当弁護士。「世界銀行法務部に勤務後、セブン銀行社外取締役などを歴任」という経歴。決して人権課題に取り組んできた人ではない。日本弁護士連合会が最高裁に推薦した9人のうちの1人だったという。さて、これも「アベノ人事」だろうか。西川さんの解説に耳を傾けたい。

そして、出席者全員での質疑討論を行います。昏迷の時代に、揺るぎない自分自身の考え方、ものの見方の基礎を作るために…。多くのみなさまのご参加をお待ちしています。

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もう一つの集会ご案内
村岡到著『「創共協定」とは何だったのか』出版記念集会

日時:2月4日(日)午後1時
場所:文京区民センター 3C(後楽園駅)
資料代 : 700円
報告 北島義信さん(真宗高田派正泉寺前住職)
   「社会主義と宗教との関係」
司会 佐藤和之さん(高校教員)
主催 ロゴスの会 協賛 社会評論社

長いあいだ社会主義と宗教とは切り離されて理解されてきた。しかし、歴史をたどると実は深い関係があったようである。近年、下斗米伸夫氏の研究によってロシア革命においては「古義式派」というキリスト教の一派が大きな位置と役割を担っていたことが明らかにされている。
日本でも明治時代にはキリスト者が初期の社会主義運動と深く関わっていた

北島義信氏は、浄土真宗高田派の僧侶であり、南アフリカの反アパルトヘイトの闘いでも宗教者と社会主義者が協力したことを明らかにし、近年は韓国の宗教者と交流を深めている。
「人間性社会主義」を長く唱えていた創価学会とは何かも探る必要がある。

北島義信著書:『親鸞復興』同時代社、『坊主の品格』本の泉社
論文:「宗教と平和──霊性を中心に」『フラタニティ』第8号=2017年11月
(参加者には村岡到著『「創共協定」とは何だったのか』を特価1500円で頒布します)
村岡 到SQ選書14   四六判 192頁 1700円+税

「創共協定」とは何だったのか──社会主義と宗教との共振
1964年に創成された公明党は「人間性社会主義」を長く唱えていた。創設者の池田大作は、共産党のトップ宮本顕治との対談で「宗教とマルキシズムの共存は文明的課題だ」とまで語った。彼が主導して1974年に結ばれた「創共協定」とは何だったのか。マルクスの「宗教はアヘンだ」という非難とそれを援用したレーニンによって宗教は排斥されてきたが、〈社会主義と宗教との共振〉こそが求められている。
「創共協定」の歴史的意義とその顛末
社会主義と宗教との共振
愛と社会主義
戦前における宗教者の闘い
親鸞を通して分かること
社会評論社 03-3814-3861
(2018年1月16日)

未決勾留428日の民商職員に、一審有罪破棄(差戻し)の控訴審判決

かつては、松川事件・三鷹事件、菅生事件、白鳥事件、メーデー事件等々の大型「刑事弾圧事件」があった。過半は、権力による謀略事件である。しからずとも、公権力が政治的意図をもって、政治活動や市民運動に打撃を与えるための刑事訴追。逮捕・勾留・捜索・差押え、そして起訴、有罪判決執行までがフルコースだ。

最近は少ない。が、もちろんなくなったわけではない。隙があれば、権力とは牙を剥くもの。私はそう思っている。労働争議への介入、選挙弾圧、集会やデモへの過剰な取締り、そして民主運動諸団体の活動掣肘を狙った刑事事件のでっち上げ。

そのような現在進行中の刑事弾圧事件の典型として、岡山倉敷民商(民主商工会)弾圧事件がある。
その倉敷民商職員に対する、「法人税法違反幇助・税理士法違反」被告事件の控訴審判決で朗報がはいった。一審の有罪判決を破棄して、地裁に差し戻す判決。無罪判決ではないが、無罪に道を開いた判決である。

「山陽新聞」(電子版)の第一報が次のとおり。
「高裁支部 一審破棄差し戻し 倉敷民商職員脱税ほう助
建設会社の脱税を手助けしたなどとして、法人税法違反ほう助などの罪に問われた倉敷民主商工会(倉敷市)事務職員禰屋町子被告(62)の控訴審判決で、広島高裁岡山支部は(1月)12日、懲役2年執行猶予4年とした一審岡山地裁判決を破棄、審理を同地裁に差し戻した。
判決理由で長井秀典裁判長は、一審で鑑定書として証拠採用された広島国税局財務事務官の報告書について『一審が鑑定書に当たるとして事実認定に用いたのは違法。判決に影響を及ぼすことが明らかな手続きの法令違反がある』とした。」(2018.1.12)

一審判決の決め手とされた証拠が、証拠能力のないものとして排斥されたのだ。禰屋さんが、無罪となる可能性はきわめて高い。

この広島国税局財務事務官の報告書については、次のように問題にされていた。
「岡山・倉敷民商弾圧事件・禰屋町子さんの控訴審初公判が(2017年)10月27日、広島高裁岡山支部で開かれました。長井秀典裁判長は、『国税査察官報告書』を鑑定書扱いした一審判決に疑問を投げかける『意見書』を証拠採用しました。裁判の流れが大きく変わる可能性も指摘されています。裁判所が証拠採用したのは、立命館大学大学院法務研究科の浅田和茂教授が刑事法学の観点から検討した『意見書』。岡山地裁判決が『鑑定書』として扱った国税査察官報告書について『必ずしも特別の専門的知識を用いたものとはいえない』とした上で、『査察官は訴追者そのものであって第三者としても鑑定人とはいえない』と指摘。さらに『たとえ書面の内容が鑑定にあたり査察官が第三者に当たるとしても、他の査察官の報告書の利用は再伝聞であって、そのままでは証拠能力を有しない』と断定しています。」(全国商工新聞2017年11月13日号より)

2017年3月3日禰屋裁判の不当判決に対する国民救援会の抗議声明の中に次の言葉が見える。
「禰屋町子さんは本来無罪であり、この事件の真実は、憲法が保障する納税者の自主申告権にもとづき運動をすすめる民主商工会への弾圧である。
禰屋さんは428日間勾留され本犯の建設会社の社長は逮捕も勾留もされず追徴課税があったかも明かされていない。」

また、下記は一審判決以前に書かれた、「週刊金曜日」の解説記事(抜粋)である。筆者は成澤宗男さん。

「逮捕者は428日も勾留――不可解な公安『倉敷民商』捜索
確定申告の際、申告者が作成した決算書の数字を税務ソフトに入力するといった手伝いをしただけで民主商工会(民商)の女性事務局員が脱税がらみの「法人税法違反容疑」等で逮捕・起訴され、しかも当の申告者が逮捕も勾留もされていないのに、何と約1年2カ月間(428日)も勾留される――。こんな異様な事件が、岡山地裁で審理中だ。

この女性は、倉敷民商の事務局員・禰屋町子さん。事件の発端は2013年5月21日、岡山県倉敷市の民商事務所に広島国税局が、当時会員だった建設会社社長夫妻の「脱税容疑」と称して捜索に入ったこと。禰屋さん宅も捜索された。

禰屋さんの容疑は、建設会社の経理担当者の指示に従い、単にパソコンの会計ソフトの入力作業や振替伝票の作成を行なったことが脱税(法人税法違反)を「幇助」し、さらに資格がないのに税理士の業務をした(税理士法違反)というもの。だが、家宅捜索で押収された164点の書類中、この建設会社関連のものはごくわずかで、大半が容疑と関係のない倉敷民商の会議議事録や会員の名簿、スケジュール表といった組織の内部資料で占められていた。

しかも、この種の経済事件とはまったく管轄外のはずの岡山県警公安部は翌2014年1月21日、禰屋さんを「法人税法違反」で逮捕したのに続き、2月には「税理士法違反」で再逮捕。だが、脱税当事者であるはずの建設会社社長夫妻は後に在宅のまま懲役1年6カ月・執行猶予付きの有罪判決が確定したものの、1日も勾留されず、なぜか広島国税局の捜索すら受けていない。

つまり、形式上脱税事件の「主犯」を単に「幇助」した立場の禰屋さんが、「主犯」が免れた国税局の捜索や勾留を強いられた上に、勾留日数も428日にも及ぶという異常な事件だ。さらに検察側は肝心の建設会社の脱税に関し、現在まで重加算税が課せられたのかどうかの事実すらも明らかにしていないという不自然さだ。弁護側は、「禰屋さんが一貫して容疑の否認を貫いたため、裁判所が事実上の制裁を課した人権侵害だ」と抗議している。」

「かりに民商側の行為が違法でも通常は反則金等の行政罰で足りるケースだ。それを管轄外の公安警察が捜索し、「主犯」でもない逮捕者を長期勾留するのは、「中小企業会員の『自主計算・自主申告運動』を続けてきた民商に対する、権力の弾圧」(須増事務局次長)と批判されても仕方ないだろう。」

禰屋さんの428日間の勾留は、有罪判決を前提とした刑の執行の前倒しにほかならない。禰屋さんが無罪判決を受けたとする。無実の者が、確定判決もないままに428日間もの自由刑の執行を受けて、自由を失ったことになる。この自由の喪失は、取返しがつかない。

昨年(2017年)7月31日に逮捕され、以来半年になろうとする長期勾留中の籠池夫妻の場合も同様だ。私たちは、政権の意向を忖度した近畿財務局の関係者の8億円値引きが背任に当たるとして告発した。この公務員らの背任こそが主たる犯罪で、籠池の補助金詐欺容疑はこれに付随する微罪というべきものだろう。

にもかかわらず、近畿財務局の関係者には何のお咎めもなく、籠池側は逮捕されて半年間の勾留。独房の中で年越しを余儀なくされた。このような事件では、もっと柔軟に保釈の活用あってしかるべしである。そうでないと、裁判所までが弾圧事件に加担していることになる。
(2018年1月15日)

江戸期訴訟制度の教科書として百姓一揆の訴状が使われていた

世の中、知らないことばかりだが、ときに、知らなかったというだけでなく、「えっ?」「どうして?」と盲点を衝かれたような事実を知らされることがある。「闘いを記憶する百姓たち:江戸時代の裁判学習帳」 (八鍬友広著:吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2017年9月刊)の読後感がそれ。

この本で、筆者が「目安往来物」と名付けるジャンルがあることを初めて知った。これが、意外なもので興味が尽きない。

「往来物」とは、中世から近世にかけての庶民階層の教科書である。寺子屋は、官製の小学校と張り合って、明治の中期までは盛んだったというから、往来物もその頃までは命脈を保っていたことになる。もともと「往来」とは、「消息往来」の意味で書翰の往復を意味した。模範的な手紙文が、教科書のはじめであったことは容易に肯ける。

やがて、「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」「名所往来」等々の各種往来物が出回り、これによって子どもたちが読み書きを憶え、文章の作法を心得、その内容を通じて算術や商売の基礎や農事を身につけ、地理や歴史や伝承を習い、礼儀や道徳も学んだ。

「目安」とは、訴状のことである。もともとは箇条書きにした「見やすい」文書のことだったが、近世以後はもっぱら訴状を指すという。この用語は8代将軍吉宗の「目安箱」で有名だが、目安箱は江戸城外辰ノ口の評定所(幕府の司法機関)に置かれた。「目安箱」とは、庶民の不満についての「訴状」受け付け窓口だったのだ。

だから、「目安往来物」とは、江戸期の庶民が訴状のひな形を教科書にして、読み書きを習い、同時に「訴状」の書き方を学んでいたというのだ。しかも、この「目安」は、貸金請求や、家屋明渡請求、離婚請求の類の訴状ではない。歴とした現実の百姓一揆の「訴状」なのだ。生々しくも、百姓一同から、藩や幕府への訴状。まずは、具体的な要求を整理して列挙し、その要求の正当性を根拠づける理由を述べるもの。領主や代官の理不尽な圧政、それによる領民の苦しみ、そしてその怒りが暴発寸前にあること、事態がこのまま推移した場合の領民たちの決起の決意、等々を順序立てて説得力ある文章でなくてはならない。これを、江戸期の庶民が教科書として繰りかえし書き写し、その文体を身につけ、さらにはこの訴状を書いた先人を義民と讃える口碑の伝承とともに、反権力の作法を学んでいたのだ。

筆者八鍬友広の見解によれば、苛政に対して庶民が実力での蜂起を余儀なくされていた「一揆の時代」は江戸初期までで、幕藩体制の整備とともに、江戸中期以後は「訴訟社会」になっていたという。そのため、人々は先人の一揆の訴状を教材として、訴訟制度の利用に知恵を磨いたのだという。けっして、幕末に幕政の権力統制が衰退したから、反体制の文書が許容されたという事情ではないとのことだ。

その見解に安易に同意はしがたい。しかし一揆の訴状の教科書化は、連綿として苛政への反抗の精神を承継することに貢献しただろう。何よりも、我が国の近世には反権力的訴訟があったこと、また反権力的訴訟制度を学習してこれを利用しようとする運動の伝統があったとの歴史的事実には、まことに心強いものがある。

権力や強者の苛斂誅求や理不尽があったとき、被圧迫者はけっして泣き寝入りしない。団結し連帯して闘おうとするのだ。訴訟制度があれば訴訟を手段として、訴訟制度を手段とすることができなければ、実力をもってする。これは、万古不易変わらない。

この書物で蒙を啓かれたのは、実力をもってする一揆と、法と理をもってする訴訟制度の利用とが、明確につながっていることだ。そのことが、「闘いを記憶する百姓たち」というタイトルと、「江戸時代の裁判学習帳」というサブタイトルによく表れている。江戸中期以後、苛政にあえぐ庶民たちは、一揆に立ち上がった先人たちの闘いの精神や犠牲を忘れず、これを教材に訴訟制度の利用方法を学習したのだ。

私も、現代の訴訟に携わるものとして、一揆の精神を受継した先人の心意気を学びたいと思う。
(2018年1月14日)

官房機密費訴訟上告審ー最高裁はブラックボックスに光を当てうるか。

国の財政は国民が納めた税金によって成り立っている。国の機関が国民に税金の使途について報告の義務があり、納税者たる国民はすべての税金の使途について知る権利がある。国民が主権者である以上、あまりに当然のことだ。

ところが、これに例外がある。正確に言えば、例外としてまかり通っている「穴」がある。官房機密費(「内閣官房報償費」とも)がその典型。例年14億6000万円が予算計上され、内閣情報調査室の活動に充てる2億円ほど(これも具体的な使途は明らかにされない)を差し引いた残りの12億円余りが、官房長官の一存で使えるカネとされる。

「使途は自由、領収書は不要、会計検査院もノーチェック」だと言われている。国民への報告義務のないカネ。私的な着服があっても、流用があっても、国民の目からは覆い隠されて窺い知ることができない。検証のしようがない、まさしくブラックボックスの世界。

そんなカネだから、昔から疑心暗鬼の対象となってきた。悪いうわさが絶えない。野党工作費として使われた、首相経験者に中元・歳暮として現ナマが渡されている、世論操作のため御用評論家にばらまかれている、外遊する議員への餞別、飲み食いに使われている…。

ときに、官房長官経験者から、「これでよいのか」と問題提起がなされる。小渕恵三内閣の野中広務、民主党野田佳彦政権の藤村修など。

野中広務がメディアに漏らしたところでは、「官邸の金庫から毎月、首相に1000万円、衆院国対委員長と参院幹事長にそれぞれ500万円、首相経験者には盆暮れに100万円ずつ渡していた」という。「前の官房長官から引き継いだノートに、政治評論家も含め、ここにはこれだけ持って行けと書いてあった。持って行って断られたのは、1人だけ」「国民の税金だから、官房機密費を無くしてもらいたい」などとも。

2009年総選挙で自民党が大敗し、政権交代が決まった直後に、麻生内閣の河村建夫官房長官が2億5000万円の官房機密費を引き出したことが話題となり、告発までされた。もう政権がなくなる時点で、いったい何に使おうと言うことだったのだろうか。謎のままである。

このブラックボックスに光を当てようという試みが、市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーによる大阪地裁への情報公開請求訴訟。10年がかりの、1次~3次までの3件の訴訟で、官房機密費支出に関連する各文書の開示を求めて、いま最後の最高裁判決を迎えようとしている。

問題になっているのは、官房長官を安倍晋三が務めた2005~06年の約11億円と、河村建夫の09年の約2億5千万円、そして菅義偉による13年の約13億6000万円の、各官房機密費支出に関連する3種類の文書開示の是非。

開示請求は、5種類の文書に対して行われたが、「支払決定書」「領収書」の2種類については、3件の大阪高裁判決のすべてで原告側の敗訴となり、これは既に最高裁でも確定している。残る「政策推進費受払簿」「出納管理簿」「報償費支払明細書」の3種類の文書では、高裁の判断が割れた。

1次・2次各訴訟での大阪高裁判決は原告側勝訴となって、その開示が命じられた。一部にせよ、官房機密費の使途を明かすよう求めた訴訟での高裁認容判断は初めてだという。しかし、3次訴訟では原告側敗訴となって、原告側と被告・国側の双方が上告した。

昨年暮れの12月22日に、最高裁で弁論が行われ、上告審判決が1月19日第2小法廷(山本庸幸裁判長)で言い渡される。さて、「ブラックボックス」に一筋の光が差し込むことになるだろうか。

政権を信頼する立場からは、行政を円滑に進めるための「ブラックボックス」は必要だから情報開示の必要はない、となろう。しかし、健全な民主主義とは政権に対する国民の猜疑によって支えられるとする立場からは、財政使途のブラックボックスなどあってはならない、ということになる。

果たして、最高裁は、健全な民主主義擁護の立場に立つことができるだろうか。
(2018年1月11日)

「安倍靖国参拝違憲訴訟・関西」最高裁判決について

まずは、以下の「抗議声明」をお読みいただきたい。

「2017年12月20日、最高裁判所第二小法廷は安倍首相靖国参拝違憲訴訟において、不当な上告棄却(および上告不受理)決定を下した。

 そもそも本件参拝は、憲法第20条に明確に禁止されている国家機関(内閣総理大臣)による宗教活動であることは明らかである。また、違法な参拝を受け入れた靖国神社は戦没者を英霊と意味づけることによって国民に対して英霊につづいて国と天皇のために命をささげることを促す戦争準備施設であり、そのことは、被告靖国神社自身が『靖国神社社憲』などで明確に認めていることである。したがって、本件参拝は原告(控訴人)らの内心の自由形成の権利・回顧祭祀に関する自己決定権などを侵害するのみならず、平和的生存権を侵していることも明らかである。本件参拝は、けっして「人が神社に参拝する行為」一般に解消できるものではない。

1981年4月22日に行われた靖国神社の例大祭に対して愛媛県は5000円の玉ぐし料を支出した。支出だけで、知事が東京に出向き例大祭に参拝したわけではない。この件に対して最高裁大法廷は1997年4月2日疑問の余地のない違憲判決を下した。わずか5000円の支出が憲法第89条が禁止する宗教団体への援助になるとしたのではない。県が靖国神社を特別扱いしたことが知れ渡ることが援助になると判断したのである。首相の参拝となれば、この「援助」は絶大である。このことは、本件を審理した地裁・高裁の裁判官も当然熟知している。すなわち、本件参拝はどう考えても違憲というほかはないことを彼らは熟知している。この、愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決に際して尾崎行信裁判官が「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」という警句を以て違憲行為の早目の阻止を示したことや、小泉靖国参拝違憲訴訟福岡地裁判決において亀川清長裁判官が、違憲性の判断回避は行政の違憲行為を放置することになるからとして「当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え」るとしたような憲法擁護の責務を果たす気概は現在の司法には存在しないのだろうか。

本件に対する地裁及び高裁の判決は、それでも屁理屈の理由を付している。最高裁第二小法廷はそれさえしないのである。大阪地裁及び高裁で安倍首相に対する忖度の理屈をこねる役割を担わされた裁判官たちは、最高裁第二小法廷の山本庸幸裁判長らをうらやましく思っていることだろう。そして、どんな明白な証拠が出てきても、忖度を重ね、しらを切り通せば、国税庁長官や最高裁判事に「出世」できると学んだことであろう。

われわれは、こうした日本の行政と司法の現状に怒りを超えて深い悲しみを覚える。
われわれは、この決定を到底容認することはできない。これに対して、強く抗議するとともに、戦争を志向し人権を侵害する行為を見逃さない司法が確立し、今後、閣僚らの靖国参拝が永遠にとどめられるまで、闘いをやめないことを宣言する。

 2017年12月22日
安倍靖国参拝違憲訴訟の会・関西訴訟団
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 安倍晋三が首相として靖国神社を参拝したのは、2013年12月26日、第2次安倍内閣発足後1年を経てのことである。彼は、礼装し公用車を使って靖国に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳して、正式に昇殿参拝している。靖国側も私人安倍晋三として接遇したわけではない。これを私的参拝だから政教分離則に反しないというのは、黒いカラスを白い鷺と言いはるほどの無理があろう。

 要するに、首相としての安倍晋三が靖国という軍国主義を象徴する宗教施設に参拝したことが憲法の政教分離原則に反することは明らかなことなのだ。最高裁は、厳格な政教分離論を排斥して、目的効果基準を編み出したが、この緩やかな基準をもってしても、愛媛玉串料訴訟大法廷判決は、県費からの玉串料支出という形での愛媛県と靖国神社との関わりを、違憲と断じた。しかも、裁判官の意見分布は13対2の圧倒的大差だった。

だから、原告らは勝訴を確信していたか。実はそうではない。問題は、違憲判断にたどり着けるかどうかにあった。その点だけが実質的な争点だったといってよい。喩えて言えば、土俵に上がっての勝負は目に見えていた。問題は、土俵での取り組みができるかどうかだけ。結局は、原告らは土俵に上げてもらえなかったということなのだ。

裁判所とは、違憲・違法な行為があったときに、誰でも駆け込んでその是正を求めることができるところではない。権利の侵害を受け者が、その回復を求めることができるに止まるのだ。その意味では、裁判所は人権の砦ではあっても、必ずしも憲法の砦ではない。たとえ政府に明白な違憲行為があろうとも、そのことによって権利の侵害を受ける者がいなければ、裁判手続を通じての是正はできない。他人の権利侵害での裁判も受け付けてはもらえない。健全なメディアによる健全な世論形成によって、次の選挙で政府をあるいは政策を変えさせることが期待されているのみなのだ。

ことは三権分立の理解にある。「司法の優越」は、司法がオールマイテイであることを意味しない。立法や行政が、国民の権利を侵害するときに限り、その権利侵害を回復する限度で、司法は機能する。とはいえ、具体的事案で、司法が機能する場面であるか否かの判断は、けっして容易ではない。

個人の権利利益の保護を目的とする通常の訴訟(主観訴訟)に対して、例外的に権利侵害を要件としない客観訴訟というものがある。特に、法秩序の適正な維持を目的として訴権が認められたもの。その典型が、地方公共団体の財務会計行為の適正を目的とした住民訴訟である。これは、はじめから立派な土俵が設定されているのだから、違憲判断に踏み込む要件の成否を問題にする必要がない。津地鎮祭訴訟、岩手靖国違憲訴訟、愛媛玉串料違憲訴訟などは、この土俵に上がっての成果だった。

しかし、首相の参拝や、官邸の公用車の管理に関して、住民訴訟の適用があるはずはない。原告として名乗り出る人は、首相安倍晋三の靖国参拝によって、何らかの権利や利益が侵害されたことを主張しなければならない。そのために、原告らが有する「宗教的人格権」や「平和的生存権」が侵害されたという構図を描かなければならない。あるいは、この訴訟では「内心の自由形成の権利」「回顧祭祀に関する自己決定権」の侵害などが主張された。

しかし、大阪地裁も大阪高裁も、これを「原告(控訴人)らの不快感の域を出るものではなく、法的保護に値する利益の侵害とはいえない」と切り捨てられている。

従って、判決は違憲判断を避けただけで、安倍参拝を合憲と判断したわけではない。原告らは、安倍と裁判所を追い詰めたが、体を交わされたのだ。

先に引用した、訴訟団声明中の「本件参拝は、けっして『人が神社に参拝する行為』一般に解消できるものではない。」に触れておきたい。

小泉靖国参拝国家賠償請求訴訟において、最高裁は2006(平成18)年6月、「人が神社に参拝する行為は他人の信仰生活に圧迫、干渉を加えるものではない。このことは内閣総理大臣の参拝でも異ならない」として、損害賠償の対象にはならないと判示した。訴訟団はこれを納得しがたいとしているのだ。外ならぬ内閣総理大臣が、外ならぬ軍国神社靖国に公式に参拝という形での政教分離の破壊行為は、平和や立憲主義に対する極めて具体的で直接的な攻撃というべきものとして、戦没者遺族や宗教者の精神生活・信仰生活の平穏を侵害するものなのだ。

「安倍靖国参拝違憲訴訟・関西」と名付けられたこの訴訟。戦没者の遺族ら765人が原告となって、首相と国、靖国神社を被告として、将来の参拝差し止めと1人1万円の慰謝料の請求をしたもの。最終的に敗れたとはいえ、けっして勝ち目のない訴訟ではなかった。また、この訴訟提起自身が、市民が直接に安倍内閣の憲法破壊行為に異議申し立てをする場の設定として意義あるものと言うべきだろう。

訴訟団声明の末尾には、「戦争を志向し人権を侵害する行為を見逃さない司法が確立し、今後、閣僚らの靖国参拝が永遠にとどめられるまで、闘いをやめないことを宣言する」とある。その軒昂たる意気や良し。
(2017年12月27日)

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