澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

在外国民の最高裁裁判官国民審査制限は違憲(東京高裁判決)

(2020年6月30日)
6月25日、東京高裁(阿部潤裁判長)が、「在外邦人の最高裁裁判官国民審査制限は違憲」という判断を含む判決を言い渡した。当事者は「勝訴」の二文字を掲げて、記者会見に臨んだ。もっとも、一審では認められた慰謝料請求が高裁では棄却となり、主文だけでは「敗訴」の判決。

同判決は理由中に、「次回までに制度の改善なく(原告らが)投票不能なら、国賠法上の違法となる」とわざわざ書き込んでいるという。次回総選挙は目前ではないか。上告の有無にかかわらず、政府はこの判決に応えて、早急に臨時国会を開いて「最高裁判所裁判官国民審査法」の改正を行うべきである。いずれ、この時期に最高裁裁判官の国民審査が話題に上るのは結構なことだ。

この事件の原告になっているのは、米国在住の映画監督想田和弘さんら5人。煩わしさに負けず、費用負担にもめげず、このような提訴をする人がいるから新たな判例も生まれ、制度も改善される。想田和弘さんらの行動に敬意を表したい。

在外邦人の選挙権行使制限の問題については、「在外日本人選挙権剥奪違法確認等請求事件」と名を冠した訴訟の05年9月14日大法廷判決で決着済みである。

96年10月20日総選挙当時において、在外邦人に一切の在外投票を認めなかった公職選挙法の規定は、憲法15条、43条、44条に違反すると判断し、しかも「原告らが次回の選挙において選挙権を有することの確認を求める訴え」の適法性を認めて認容した。のみならず、国会の立法不作為(為すべき立法を怠ること)に過失あることまで認めて、慰謝料5000円の支払を命じた。

この最高裁判決の後、衆参両院の選挙については、在外邦人の選挙権行使が可能となったが、総選挙の際に行われる最高裁裁判官の国民審査には投票できない状態が続いて、2017年国民審査についての合違憲が争われることになった。

昨年(2019年)5月の東京地裁一審判決(森英明裁判長)では、その違憲性を認めた上で、国の立法不作為の責任をも認めて、原告1人当たり5000円の慰謝料を賠償するよう命じていた。

その一審判決によれば、国民審査を巡って2011年に東京地裁で同種訴訟の判決があり、海外から国民審査に投票できないことを「合憲性に重大な疑義がある」と指摘していたという。にもかかわらず、その後も国が立法措置を講じなかったことについて2017年の国民審査で審査権を行使できなかった事態に至ったことを正当化する理由はうかがわれない」と非難。「長期間にわたる立法不作為に過失が認められることは明らか」として、国の賠償責任を認定している。これは、立派な判決。

この度の控訴審判決は、国会の責任(立法不作為)を認めず賠償請求を棄却した。この点、必ずしも立派な判決とは言いがたい。

しかし、控訴審判決には、国民審査の意義を「司法権に国民の意思を映させ、民主的統制を図るための制度だ」との指摘があるという。選挙権の保障と同様、その制限にはやむを得ない事情が必要だとした。

しかも、審査権は選挙権と同様、「権利行使の機会を逃すと回復できない性質を持ち、賠償では十分に救済されない。」「次回審査で審査権が行使できなければ違法になると認めた」。制度の改正を急げとの、メッセージであろう。

とかく影が薄いと言われる最高裁裁判官の国民審査だが、主権者国民が最高裁裁判官を見守っているということを確認する貴重な機会である。

どんな経歴のどんな人物が最高裁裁判官になって、どんな裁判をしてきたのか。有権者によく知ってもらうことが必要である。日本民主法律家協会は、国民審査の都度、その努力を重ねてきた。

そして、裁判官の来歴を知ってきっぱりと×を付けよう。よく分からない場合に、何の印も付けずにそのまま投票してしまえば、全裁判官を信任したことになる。よく分からない場合には、躊躇なく全員に×をつけることだ。何しろ、今や全最高裁裁判官が安倍内閣の任命によるものなのだから。

朝日社説「『森友』再調査 この訴えに応えねば」を評価する。

(2020年6月25日)
本日(6月25日)の朝日社説が、「『森友』再調査 この訴えに応えねば」と訴えている。その姿勢を大いに評価したい。

「森友再調査」の必要は、亡くなられた赤木俊夫さんの手記が遺族によって発表され、この手記が多くの人の魂を揺さぶったことを理由とする。赤木俊夫さんは、自分にとって死ぬほど恥ずべき嫌なことを押し付けられたのだ。これを、自己責任として済ませるわけにはいかない。いったい、誰が、なんのために、どのように、彼に文書の改ざんを押し付けたのか。そして、究極の責任をとるべきは誰なのか。それを、明確にしなければならない。

そのための手段として、ひとつは遺族による民事訴訟が提起されている。また、国会による「予備的調査」も進行している。そして、然るべき第三者機関を設定しての「再調査」要求である。今のままで、よいはずはない。朝日の社説をご紹介して、コメントしてみたい。

 国会閉会から1週間。コロナ禍への対応のみならず、様々な課題が積み残された。なかでも、森友問題の再調査を安倍政権が拒み続けていることは見過ごせない。真実を知りたいという遺族の思いに応えずして、信頼回復も再発防止もない。

※ アベ首相は、数々の疑惑が問題となる度に、「ていねいに説明申し上げる」「説明責任を果たす」と言い続けて、その実何もしてこなかった。国民から、「嘘とゴマカシにまみれた」と指弾される珍しい首相。この度も、ごまかして、逃げた。しっかりと調査し、真実を明らかにしてこその信頼回復である。ことさらにそれをしないのは、真実が暴かれることで、政権に不利益がもたらされると考えているのではないのか。

 国会が閉じる2日前、35万2659筆にのぼる署名が、安倍首相、麻生財務相、衆参両院議長宛てに提出された。財務省の公文書改ざんに加担させられ、自ら命を絶った近畿財務局の赤木俊夫さんの妻雅子さんが、第三者委員会による公正中立な再調査を求めたものだ。

※35万2659筆とは、たいへんな署名の数である。これだけの人が、公正な第三者委員会を設置して、赤木さんの手記で明らかになった事実を確認せよと言っているのだ。前回の、仲間内による調査ではとうてい信頼に堪えない。公正中立な、信頼できる第三者による再調査が求められているのだ。

 雅子さんが3月、国と改ざん当時理財局長だった佐川宣寿(のぶひさ)氏に損害賠償を求める訴えを起こしても、首相や麻生氏は再調査に応じなかった。そこで、雅子さんはインターネットサイトで署名を呼びかけた。「このままでは夫の死が無駄になってしまう」という訴えに、共感の輪が広がったのだろう。

※ 世論はいま、赤木さんのご遺族の訴えに共感の輪を広げている。ということは、アベや麻生を信頼できないとしているのだ。遺された赤木さんの手記は、生前の赤木さんが直接体験したことを記してはいるが、改ざんの方針決定と指示は、赤木さんの知らないところで行われている。赤木さんには、推認された事実ということになる。赤木さんの手記に表れた直接体験事実の真実性を検証し、非体験の推認事実に関しては厳格に関係者から事情を聴取する調査が必要なのだ。国と佐川に対する民事損害賠償請求の訴訟は、判決に至るまで長い期間を要する。早期の調査が必要なのだ。

 それでもなお、首相と麻生氏の姿勢は変わらない。なぜ再調査は不要と言えるのか。
 麻生氏は記者会見でこう述べた。「財務省として調査を徹底してやり、関与した職員は厳正に処分した」。しかし、その調査は身内によるもので、佐川氏の具体的な指示内容は明らかになっていない。そもそも、国有地がなぜ8億円も値引きされたのか、首相の妻・昭恵氏が学園の名誉校長だったことが影響してはいないのか、問題の核心は一向に解明されていない。

※麻生の調査拒否が理由に挙げる「財務省として調査を徹底」が嘘なのだ。2018(平成30)年6月4日付の財務省報告書は、明らかに政治家の責任追及に至らぬよう配慮されたものなのだ。51頁のこの報告書で、誰もが真っ先に注目するのは、改ざんの目的である。34ページにこうある。「応接録の廃棄や決裁文書の改ざんは、国会審議において森友学園案件が大きく取りあげられる中で、さらなる質問につながり得る材料を極力少なくすることが、主たる目的であったと認められる」。政治家からの指示も、政治家への忖度も出てこない。この点を問題にした調査ではなく、この点の疑惑を糊塗するための調査と疑われて然るべきなのだ。

 首相は国会でこう述べた。「最強の第三者機関と言われる検察が捜査をした結果がすでに出ている」。これも筋違いというほかない。刑事責任を追及する捜査と、信頼回復や再発防止につなげるための事実の検証を同列にはできない。

※さて、検察は「最強の第三者機関」であったか。「捜査した結果が出ている」か。はなはだ疑問なのだ。検察は政権から独立した検察ではなく、「アベ政権の守護神を抱えた検察」でしかなかった。「最強のアベ政権守護機関」ではなかったか。その検察も、文書の改ざんに関しては、「嫌疑なしの不起訴」にしたのではない。「嫌疑不十分の起訴猶予」としたのだ。けっして、「結果がすでに出ている」わけではない。

 「2人は調査される側で、再調査しないと発言する立場ではない」という雅子さんのコメントを重く受け止め、政府は再調査に応じるべきだ。

※ これこそ名言である。アベも麻生も、「被疑者」である。当然に再調査はしたくない立場。そんな二人の言い訳を聞いている暇はない。したくなくても、させなくてはならないのだ。

 国会では新たな動きがあった。衆院財務金融委員会が野党の求めに応じ、公文書改ざんの経緯をつまびらかにするよう、衆院調査局長に調査を命じたのだ。国会のチェック機能を強化するため、97年につくられた「予備的調査」という制度で、委員会審議に役立てるための下調べという位置づけだ。少数会派に門戸を開くため、議員40人以上の要請で実施される。
 関連資料の提出など、政府に協力を求めることはできるが、強制力はない。政府は自ら第三者委を設けないのなら、国会によるこの調査に全面的に協力すべきだ。国会もまた、行政監視の本分を果たすために、全力で真相に迫らなければならない。

※ 「民事訴訟」、「予備的調査」、そして然るべき第三者機関を設定しての「再調査」。場合によっては、再告発もあるだろう。あらゆる手段を考えねばならないが、全ては世論の支持にかかっている。

「憲法53条違憲国家賠償訴訟」那覇地裁判決に見る、安倍内閣の憲法無視の姿勢。

(2020年6月15日)
政府・与党が10兆円もの予備費を抱いて6月17日に通常国会を閉じようとしている。国会審議での追及を恐れて、ボロ隠しの逃げに徹する姿勢。これを不当として、野党が「逃げるな内閣・自民党!」「国会閉じるな!」と攻勢的に会期延長の可否が論じられている。

そのさなかの6月10日、なんともタイミングよく那覇地裁で「憲法53条違憲国家賠償請求事件」判決言い渡しとなった。仮に、17日閉会となっても、野党議員による臨時国会招集要求の実効性に大きなヒントを与えるものとなっている。

もっとも、この判決は結果原告敗訴である。問題は、判決理由中の判示をどう評価すべきかだが、そう単純ではない。まず、毎日と朝日との見出しが対照的である。
(毎日) 「臨時国会召集せず不利益」賠償訴訟、国会議員ら敗訴 那覇地裁、請求権認めず
(朝日) 国会召集「内閣に法的義務」 憲法53条めぐり初判決

そして(時事)は、言い渡し直後に《臨時国会不召集、原告側敗訴 「内閣は損賠義務負わず」 那覇地裁》と配信したが、その日の内に原告・弁護団の解説を受けて《原告「一歩進んだ結論」 請求棄却も意義強調―憲法53条訴訟》と原告側の評価を伝えている。また毎日も、6月14日の社説では、「国会召集めぐる判決 憲法上の義務明言は重い」と、ニュアンスを変えている。敗訴判決ではあるが、評価すべき面も無視し得ないということなのだ。

この訴訟の原告は、衆議院議員の赤嶺政権・照屋寛徳、参議院議員の伊波洋一・糸数慶子(当時)の4名。国を被告としての国家賠償請求訴訟である。憲法53条後段に基づいて、臨時国会の召集を内閣に要求したのに、安倍内閣は憲法を無視して、この要求に応じなかった。明らかに違憲・違法な内閣の行為による損害(各1万円)の賠償を求めるという事件である。

まず、関係条文としての憲法53条の条文は以下のとおり。
(前段)内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。
(後段)いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

この後段の条文に基づいて、各議院における臨時会召集要求と要求に対する安倍内閣の対応の経過は、判決によれば以下のとおり、安倍内閣の憲法無視の威勢をあからさまにするものであった。

【臨時会召集の経緯】

ア 原告赤嶺及び原告照屋は,平成29年6月22日,他の衆議院議員118名とともに連名で,憲法53条後段に基づき、安倍内閣に対して,衆議院議長経由で要求書を提出して,臨時会を召集するよう要求した。原告糸数及び原告伊波は,同日,他の参議院議員70名とともに連名で、憲法53条後段に基づき、安倍内閣に対して,参議院議長経由で要求書を提出して,臨時会を召集するよう要求した。
イ 本件衆議院召集要求を行った衆議院議員の総数は,衆議院議員475名中120名であり,本件参議院召集要求を行った参議院議員の総数は参議院議員242名中72名であり,いずれも憲法53条後段所定の(各)議院の総議員の4分の1以上による召集要求がされている。
本件召集要求の理由は,要旨,《平成29年開催の第193回通常国会において,いわゆる森友学園・加計学園問題について十分な審議が尽くされておらず,国民に広がる政治不信を解消するためには,国会が国民の負託に応え,疑惑の真相解明に取り組むことが不可欠であるという国民に広がる政治不信を解消するため》というものであった。
安倍内閣は,平成29年6月22日,本件召集要求の要求書を受領した。安倍内閣は同年9月22日,臨時会を同月28日に召集することを持ち回り閣議で決定し、同日に衆議院及び参議院を召集した。
しかし、安倍内閣は,本件召集に基づいて開催された臨時会の冒頭において衆議院を解散したため,参議院は同時に閉会となり(憲法54条2項),臨時会において原告らが求めるような実質的な審議は行われなかった。

安倍内閣の憲法無視の姿勢が如実に表れているではないか。以上の経過を前提に、判決が述べている【事案の概要】は、大略以下のとおり。

 本件は,国会議員である原告らが,その他の国会議員とともに,平成29年6月22日,内閣に対し,憲法53条後段に基づき,衆議院及び参議院の臨時会の召集を要求したところ,それから98日か経過した同年9月28日まで臨時会が召集されなかったことにつき、内閣は合理的な期間内に臨時会を召集するべき義務があるのにこれを怠ったものであり、その結果,原告らは臨時会において国会議員としての権能を行蜃する機会を奪われたなどと主張して,国家賠償法1条1項に基づき,被告に対し,原告らそれぞれにつき損害金である100万円の一部請求として1万円及びこれに対する臨時会の召集期限といえる同年7月12日の翌日である同月13日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

判決は、次のとおりに、【争点を整理】した。

争点(1) 内閣による臨時会の召集の決定が憲法53条後段に違反するかの法的判断について,裁判所の司法審査権が及ぶか(本案前の争点)
争点(2) 本件召集要求に基づく内閣の召集決定が,本件召集要求をした個々の国会議員との関係において、国賠法1条1項の適用上,違法と評価されるか。
争点(3) 本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえず,または,本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえないとして,憲法53条後段に違反するものといえるか
争点(4) 原告らの損害の有無及びその額

裁判所によって設定された以上の各争点を判決はどう判断したか。
争点(1)の判断においては、被告国の言い分を斥けて、裁判所の司法審査の権限は憲法53条後段違反の有無について及ぶと判断した。被告国は、「そもそもこの件に裁判所の出番はない」「三権分立の在り方から、本件を裁判所が裁くことはできない」と主張したのだが、裁判所の採用するところとはならなかった。
 各紙が報道しているとおり、53条後段にもとづく内閣の臨時会招集義務は、「単なる政治的義務にとどまるものではなく、法的義務であると解され、(召集しなければ)違憲と評価される余地はあるといえる」と判決は言う。これは、今後に生かすべき本判決の積極面。

ところが判決は、争点(2)では被告国の言い分を容れた。憲法53条後段は、議員の臨時会召集要求があれば、内閣には招集決定の法的義務が課せられるものではあるが、その義務は召集要求をした個々の国会議員との関係における義務ではない。従って、その義務の不履行が国賠法1条1項の適用上,違法と評価されることにはならない、というのだ。その結果、争点(3)も(4)も、判断の必要がないとされてしまっている。これでよいのだろうか。

結局、この判決は、こう言ったことになる。
内閣の53条後段違反の有無は裁判所の違憲判断の対象とはなる。しかし、仮に内閣の招集遅滞が違憲と判断されたにせよ、それは議員個人の国家賠償の根拠とはならない。だから、憲法違反の有無の判断をするまでもなく、請求を棄却せざるを得ない。それゆえ、「安倍内閣の本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえない」という原告の主張についても、また「本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえない」ということも、判断の必要はない。

 せっかく、53条後段に違反する内閣の行為(臨時国会招集の不履行)については、司法審査が及ぶとしながら、司法判断を拒否したのだ。理由は、国家賠償の要件としての違法性は認められないから、というものだった。では、いったいどのような訴訟類型を選択すれば、司法判断に到達することになるのか。それが問われることになっている。

もちろん、飽くまで国家賠償の追及は重要である。内閣に違憲違法の作為・不作為がある以上、その違法な不作為との因果関係のある損害は賠償すべきだとする主張である。

もう一つは、国家賠償請求以外の方策の追及である。この訴訟の原告が、抗告訴訟(不作為の違法確認や義務付け等)ではなく国家賠償請求を選択したのは、「処分性」論争を避けた結果であると考えられる。抗告訴訟でもなく、国家賠償でもないとすれば、「実質的当事者訴訟」が考えられる。国を被告としての「違法確認訴訟」ができなければ、せっかくの争点(1)の判断は画餅に帰すことになる。

同種訴訟が、岡山と東京に係属しているという。関係者の衆知を集約すべきであろう。

「黒川弘務法案」今国会では無理でも次期国会で。それが無理でも、黒川検事を検事総長に。

ワタクシ、アベ・シンゾーで、ごじゃます。
例の「黒川弘務法案」の件でごじゃますが、国民の皆様には、いくら丁寧にご説明してもですね、もはや国民の皆様には、理解してはもらえない。まさに、まさにですよ、ここはですね、いったん引くしかない。まさしく、そう考えた、のでごじゃます。ですから、ここは、いったん引くことにしよう。まさにこう決定した、のでごじゃます。

この法案はですね、この法案はですよ。国民の皆様方の理解なくしては前に進めることができない。そこが、ほかの法案とは違うんです。我が国は民主主義の国ですから、一番大切なのは、選挙です。その大切な選挙で、自民党と公明党は、まさしく勝っている、のでごじゃます。国民の皆様から信任をいただき、たくさんの議席を頂戴している、のでごじゃます。この議席の数の力こそが民主主義の力、その力で、消費税も上げ、辺野古の埋立もし、アメリカから兵器の爆買いもしている。いちいち、国民の皆様の理解など、気にする必要もない、わけでごじゃます。

もちろん、この法案も、数の力で押し通そうとしたわけでごじゃまして、自民党と公明党だけでなく、まさにどういうわけか維新の皆様もですね、しっかりと法案の審議促進と成立にご協力の姿勢で、民主主義の手続に従って採決を強行すれば、まさしく成立することは疑いない、のでごじゃます。

だから、ワタクシはですね、法案の内容や本質がですよ、国民の皆様によく知られてしまわないうちにですね、早め早めに粛々と法案の審議を進めてですね、一日も早く上げてしまうよう指示していたところ、なのでごじゃます。ところが、コロナと同じ、対応が後手後手にまわってしまい、気が付いたときには世の中の空気が変わってしまった、というわけなのでごじゃます。

それでも、強行突破すれば国民の皆様は健全な健忘症ばかり、どうせすぐにこの法案への不満などはケロリと忘れてくれるはず、こう高をくくっていたわけでごじゃます。何しろ、コロナ蔓延で、デモなどできっこないこのチャンス。火事場泥棒と言われても、今やるしかないじゃありませんか。

それが、ご存じのとおり、どうにも納得できない不思議な展開となってまいった、のでごじゃます。「twitterデモで、法案の撤回を目指そう」って、いったい何のことやら。理解を遙かに超えた事態の展開になっていった、のでごじゃます。

ワタクシ・アベの支持者としては若年層が多いのが自慢でごじゃました。ところが、今回はスマホやtwitterを操作する若年層が、アベ批判にまわっているというのでごじゃます。また、いくつかの世論調査で、明らかに内閣支持率が低下してきた、のでごじゃます。これは、たいへんなこと。

強行突破すれば、アベ内閣瓦解の危険を感じざるを得ない、のでごじゃます。ワタクシも、まったくバカではごじゃませんから、ここは引くしかない。こう考えたわけでごじゃます。

もちろん、メディアには「国民の声に十分に耳を傾けていくことが不可欠であり、国民のご理解なくして、前に進めていくことはできない」と申しあげました。その真意は、「国民の声に十分に耳を傾けていくポーズをとらざるを得なくなった」ということであり、「いまは、国民の理解を得ることは無理だから、非難の火勢おさまるので法案は引っ込めておくことにする」ということで、ごじゃます。

ですから、「国民の皆様の正確な理解を得るよう、今後しっかりと丁寧な説明をおこなっていこう。そうすれば、なんの問題もない」のでごじゃます。もちろん、法案にはなんの問題もなく、ワタクシの考え方が間違っていたものてもありません。法務大臣の国会での説明が不十分で、国民の皆様に誤解を与えただけなのでごじゃますから、今国会では野党の議員や「デモ」に参加している国民の皆様には頭を冷やしていただき、秋の臨時国会にも、同じ法案を再提出させていただこうと、考えているところでごじゃます。

なお、今国会での法案の審議は断念いたしますが、黒川弘務東京高検検事長の定年延長閣議決定の効力には何の影響もないので、ごじゃます。皆様、ご存じのとおり、閣議決定はなんでもできるのです。

これも皆様ご存じのとおり、検事総長の任期は慣例では2年となります。ですから、現在の稲田伸夫検事総長の任期は、今年2020年7月24日までですね。稲田さんが任期を全うしたあとの、後任人事が問題になります。黒川さんが最適任なのは客観的に明らかなことです。なにしろ、黒川さんは、内閣と軋轢を生じないよう、官邸の意向を忖度してまことに理想的な対応をされる方です。まさしく、日本人の長所である「和」の精神を身につけた得がたい人物。後ろ暗い官邸の守護神とまで言われている方。守護神を頼りたくなるのは、当然のことではないでしょうか。黒川さん以外のそのほかの方では、官邸とギグシャクして、ワタクシが枕を高くして眠ることができない、のでごじゃます。

望ましいのは、早期に「黒川法」を成立させること、今国会は断念やむなしてすが、必ず次の国会で。仮にそれが無理でも、黒川氏を検事総長にすることが、ワタクシ・アベシンゾーの望みであり狙い、なのでごじゃます。
(2020年5月19日)

官邸の検察官定年人事介入法案は、「法の支配」にかかわる重大事。

 おじさん、専門家でしょう。「#検察庁法改正案に抗議します」が大きな話題になっているけど、いったいどんな法案で、何が問題なのか教えて。

 現在衆議院で審議中の検察庁法改正法案は、検察官の定年延長の法案なんだけど、検察官の定年を単純に延長するわけじゃない。幹部検察官について、その役職の定年延長に官邸の意向を反映させる仕組みが織りこまれている。つまり、検察官の人事に官邸が介入できるというところが大問題。

 これまでは、検察官の定年に官邸が介入する余地はなかったの?

 戦後すぐにできた検察庁法では、検察官の定年は63歳、検事総長だけが特別で65歳とされてるけど、定年の定めはない。

 だけど、そのあと、国家公務員法に定年延長の定めができたときに、検察官にも定年の延長ができるようになったと、法務大臣が言ったんじゃなかったっけ。

 そうなんだ。ところが、当時の資料を調べて見ると、検察官の職務の特性に照らして「国家公務員法の定年延長の規定は検察官には適用しない」というのが明確な政府の解釈だった。だから法務大臣答弁は明らかに間違い。

 それでも、今年(2020年)の1月31日に、内閣は黒川弘務東京高検検事長の定年延長閣議決定をしてしまったわけね。違法な閣議決定じゃないの?

 これまでまったく前例のないことで、もちろん違法。この点を追及されて、法務大臣は「解釈を変更した」と回答した。勝手な解釈変更も大きな問題だけど、どんな必要があって、いつ、どのような手続で解釈変更したかは答えられない。決裁文書を示せと言われると、「口頭決裁」だと居直る始末。

 いかにもアベ内閣らしいご都合主義ね。いつものとおりの、嘘とごまかしと公文書管理の杜撰さ。その黒川人事を後付けで合法化するための法案だから問題なの?

むろん、そのこともある。黒川さんは、今年の2月8日で63歳となる。だから、既に失職しているはずだ。政府が、どうしてこんな違法で不自然なやり方にこだわったのかが、問い質されなければならない。

 結局は、後暗いところをたくさん抱えるアベ政権にとって、黒川さんは頼りになる人というわけのようなのね。

そのとおりだ。今日(5月17日)の、毎日新聞「松尾貴史のちょっと違和感」に、「検察庁法改正案に抗議の声 また壊される三権分立」という記事があって、その最後がこう締めくくられている。

 小渕優子元経済産業相の政治資金規正法違反問題、松島みどり元法相の選挙でのうちわ配布問題、甘利明元経済再生担当相のUR口利き問題、下村博文元文部科学相の加計学園パーティー券問題、佐川宣寿元国税庁長官らによる森友学園公文書改ざん問題、これらすべてを不起訴にしたのが黒川氏だと言われているが、つまりは政権と一蓮托生、二人三脚、ということなのだろうか。

 なるほど、分かり易いよね。気に入ったオトモダチ検察官は定年延長を認めて、骨のある厳正な検察官は定年延長しないと、えり好み出来ることになるわけね。結局はそれが、検察官人事に官邸が介入ということね。

 法案の問題点は、官邸が検察官の定年人事に介入できる仕組みとなっているところにあると言ってよいと思う。人事介入は結局仕事の中身への介入につながる。

 アベ内閣のやることだから、どうせ汚いことだろうし、不愉快なことだとも思うけど、官邸による検察官の定年人事介入が、そんなに大きな問題なのかしら。

 実は、そこがポイントだ。これは、法の支配の根幹に関わる重大問題なんだけど、アベ首相も、森法務大臣も、「検察官だって一般職の公務員だ。内閣の人事権に服して当然」という姿勢だが、それが間違っている。

 検察官には、準司法官としての立場もある、という検察官職務の特殊性のことね。

 そのとおりだが、このことの意味するところは重いと思う。法の支配とは、権力も法に服さねばならないという大原則だが、憲法を頂点とする法体系が適正に運用されているかのチェックは司法の役割で、この司法の場で働く実務法律家は、裁判官・検察官・弁護士の三者の職能に分かれている。これを法曹三者と呼んでいるが、それぞれが権力から独立していなければならない。

司法の独立という言葉はよく聞くけど、司法権イコール裁判所だと思っていたし、裁判官の独立は大切だとも思うけど、検察官の独立性も大切だということ? そして、検察官一人ひとりの独立も?

 そのとおりだ。司法権を行使するのは独立した一人ひとりの裁判官で、司法の独立とは裁判官の独立の保障のことでなくてはならない。弁護士の身分も、行政権や司法権から守られなければならない。そして、検察官もだ。

 でも、検察庁は法務省に属する組織でしょう。法務省は内閣に従わなければならない。検察官が独立していては、行政の統一性を損なうことにならないのかしら。

 検察官は、刑事事件で被疑者を起訴する権限をもっている唯一の職能。権力が暴走するときの歯止めの役割を担っている。内閣総理大臣と言えども、犯罪に該当する行為があれば、検察官は躊躇なく捜査し起訴できなくてはならない。常に、権力との緊張関係を保たなければならない。権力からの検察官定年人事への介入によって、権力を忖度し、権力におもねる検察官では、法の支配を保つことができない。

 分かったような気がする。キーポイントは、権力に対してどれだけ厳しい姿勢をもっているかという問題のようね。

 そのとおりだ。その点、アベ政権のやること、とても分かりやすい。これだけは、安倍さんの功績かもしれないね。

(2020年5月17日)

原則は歪められ、理想は地に落ちてゆく。安倍晋三の大罪がまた一つ、積み上げられた。

「会同」という官庁用語がある。「会同」には、「会議」にはない権威主義的な胡散臭い響きがある。「会同」においては、出席者に発言や議論は期待されない。最高幹部から出席者に組織の意思が重々しく伝達される場というイメージ。「高等裁判所長官・地方裁判所長・家庭裁判所長会同」「行政事件担当裁判官会同」「自衛隊高級幹部会同」など、名を聞くだに息苦しい。

2月19日(水)、法務省で「検察長官会同」が開催された。法務大臣、検事総長以下、全国の高検や地検のトップが一堂に会する場。議題は「検察運営上、考慮すべき事項」とされ、冒頭の稲田伸夫検事総長訓示が「質の高い検察権行使により、国民の期待と信頼に応えられる検察であり続けるよう尽力してほしい」という陳腐な内容だったという。これだけでは何の国民の関心も惹かない。

ところが、出席者からの発言や議論は期待されないはずのこの会同において、異例の発言があったことが報じられて、話題となっている。

冒頭を除いて、この「会同」は非公開である。非公開の席での発言が複数メディアの記事になっているのだから、積極的に取材に応じた出席検察官が複数いたということだ。情報源を「複数の出席者が明らかにしたところによると」とする記事もある。

複数メディアの記事の内容は、以下のとおりにほぼ一致している。

「会議の終盤に中部地方の検事正が挙手をし、法務省の首脳に黒川氏の定年延長について質問。『検察は不偏不党でやってきた。政権との関係性に疑念の目が向けられている』といった内容の発言をした上で、『このままでは検察への信頼が疑われる。国民にもっと丁寧に説明をした方がいい』という趣旨の提案をした。」

一部のメディアの記事では、この検事正の発言には、検察庁法14条の引用があったという。法務大臣の検察業務への介入は原則として禁じられている。その原則を破る例外としての「指揮権発動」を定めたものが検察庁法14条である。今回の黒川検事長定年延長は、指揮権発動にも等しい愚挙との指摘であったろう。

これに対して、主催者側の辻裕教・法務事務次官が質問を引き取ったが、「『延長の必要性があった』と答えるにとどめた」と報じられている。

今注目の検察官といえば、稲田伸夫検事総長と、その後任を争う林真琴名古屋高検検事長、黒川弘務東京高検検事長の3名。当然のことながら、「会同」には、この注目の3名も出席している。その面前での、黒川検事長の名を上げての検察庁幹部人事のありかたへの疑念の表明である。インパクトが小さかろうはずはない

通常、検事総長人事も検事長人事も、さしたる国民の関心事ではない。人事に国民の関心や注目が集まる事態が既に異常なのだ。この3名の検察官に国民の注目が集まる理由は、安倍内閣の検察庁最高幹部人事への介入の異常があればこそのことである。

硬骨な検事正の発言は、報じられる限りでは、さすがに抑制の効いた内容である。しかし、本当はこう言いたかったのではないだろうか。

検察は時の政権の走狗ではない。準司法機関として不偏不党が要求される立場にあり、公正性・中立性についての国民の信頼なければ成り立ち得ない。これまでは、営々と国民の信頼を勝ち得る努力を積み重ねてきたところだ。いま、国民からの信頼が崩壊しかねない事態に遭遇している。これは、これまで全国の第一線の検察官が積み上げてきた努力を無にするということにほかならない。検察が現政権の思惑次第で操られているのではないかという疑惑に対する、厳しいが疑念の目が検察・検察官に向けられている。このままでは国民の検察への信頼を維持することができない。場合によると、黒川検事長の定年延長は違法で無効なのかも知れない。そうなる前に、黒川検事長の定年延長閣議決定は撤回すべきだ。あるいは、再度の閣議で、定年延長を打ち切ったらよい。いずれ黒川検事長を検事総長にしてはならない」

これに対する、辻次官の「延長の必要性があった」という弁明はいかにも投げやりで力がない。もしかしたら本音、はこうではないだろうか。

「黒川検事長の定年延長は必要性あってのことですよ。もちろん、その必要性は主として安倍政権にとってのものですが、必ずしも官邸サイドだけのものではない。このご時世、『検察の不偏不党』『国民からの信頼』だけではことはうまく運ばないんですよ。『政権との微妙な間合い』『政権からの信頼』も大切なんで、官邸の意向を飲まざるを得なかった。そんなことはみんなお分かりでしょう。官邸からのゴリ押しに屈したと言わば言え。仕方がないじゃないですか。原則論を振り回しても、無駄なものは無駄。ここは面従腹背でいくしかないんです」

こうして、原則は歪められ、理想は地に落ちてゆく。安倍晋三の大罪がまた一つ、積み上げられた。
(2020年2月22日)

日本の司法制度と裁判官:何故おかしな判決が相次ぐのか 司法のあり方を論争的に考える―講演会レジメ

2月13日に、司法問題での講演を引き受けた。下記の内容である。すこし変わった形のレジメを掲出しておきたい。これをお読みいただいて、なるほど面白そうだと思われた方には、ぜひお越しいただきたい。

ところで、判決は裁判官が言い渡す。裁判官ヒエラルヒーの最上位にあるのが最高裁裁判官である。彼らは裁判体として全判決を統制し憲法と法律の解釈を一元化する役割を担う。それだけでなく、司法行政の主体ともなり、最高裁事務総局を通じて下級裁判所の全裁判官を統制する。

その最高裁裁判官15人が,すべて安倍内閣の任命となった。問題は、その任命方法がはなはだ不透明で、合点がいかないことだ。

新憲法ができて、司法が天皇の裁判所から人権の砦に切り替えられたとき、最初の15人の最高裁裁判官をどう選んだか。これが興味深い。憲法では内閣に任命権が与えられているが、新らしい裁判所法は内閣の専断を防止するために、「最高裁判所裁判官任命諮問委員会」を設けた。その構成は、衆参両院の議長、裁判官4名、弁護士4名、検察官1名、首相指名の学識経験者4名の計15名である。この諮問委員会が、30人の候補者を推薦して、その中から内閣が15名を任命した。この諮問委員会はこのときだけ語り草となる働きをして、その後は消えた。度々、復活すべき声が上がるが具体化しない。

そして、今、最高裁裁判官がどのように選任されるのか、外部からは窺い知れない。いまや、事態は忖度判決がまかり通る危険水域に達しているのではないか。そんな問題意識での報告である。

 

講 師:澤藤統一郎(さわふじ とういちろう)弁護士
1971年東京弁護士会に登録。靖国神社問題関連訴訟、自衛隊海外派遣違憲訴訟(湾岸戦争戦費支出差止請求事件)、東京日の丸君が代強制違憲訴訟などに関わった。元日弁連消費者委員長。

次 第
日 時:2月13日(木)18時~21時(開場17時30分)
会 場:スペースたんぽぽ 参加費(資料代含む):800円(学生400円)
たんぽぽ舎のあるダイナミックビルの4階 JR水道橋駅西口から5分
水道橋西通りを神保町方面に向けて左折、グローバルスポーツビル、
GS跡地(セブンイレブン)を過ぎて鉄建建設本社ビルを過ぎたら左折。
東京都千代田区神田三崎町2-6-2  tel 03-3238-9035 fax 03-3238-0797
Email: nonukes@tanpoposya.net URL: http://www.tanpoposya.com/

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☆司法の使命は?
A そもそも、憲法の理念を実現するのが司法本来の使命。立法からも、行政からも、時の政治勢力からもきっぱりと独立した司法が、憲法の平和主義、国民主権、人権保障を実現しなければならない。そのために実効性のある裁判所が必要で、違憲判断に躊躇しない積極姿勢の裁判官が求められている。

B そう力むこともなかろう。司法ばかりが目立つようでは困るのだ。この国の基本は民主主義ではないか。国会は国民の意思によってつくられ、議院内閣制をとる行政も民主的手続で出来ている。しかし、司法は民主的な基盤を持たない。司法がしゃしゃり出ることは、けっして望ましいことではなく、立法や行政の違憲審査に関しては、できるだけ消極的な司法の姿勢が望ましい。

C 司法消極主義は三権分立のタテマエに適合しているようで、実は、日本の政治状況に照らすと、憲法理念に理解のない保守政治をのさばらせている結果を招いている。こと人権侵害の問題については司法積極主義を大胆に貫きつつ、それ以外の問題では司法消極主義でよいのではないか。

B それはおかしい。日本の政治状況が保守に傾いているのは国民意識を反映しているだけのことで、司法のありかたとは無関係だ。それに、司法の守備範囲は原則として人権に関わる分野についてだけのはず。その他の憲法分野に司法が介入できるのは人権侵害を救済する必要あっての最小限度に限られる。司法積極主義か、司法消極主義かの争いは、そもそも人権論に関しての論争で、Cの意見はAと変わらない。

A 人権と制度(統治機構)とは、密接に絡み合っている。Bのように、厳格に人権救済だけを司法の役割と限定すると、実は、平和や国際協調や民主主義などの憲法理念の破壊あっても、その予防も修復もできなくなってしまう。それでよいのかという問題だ。私は、人権救済を基本としつつも、関連する制度運営に関しても、幅広に司法の役割を認めるべきだとする司法積極主義を支持する。

C 私は、日本国憲法の司法の役割は、あくまで人権というキーワードが最重要で、司法は人権擁護に徹すべきだという立場だが、人権侵害の予防・救済には、裁判所は積極的であるべきだと考えている。制度運営の違憲・違法が人権侵害の原因になっているとすれば、制度運用の違憲・違法を糺すのが司法の役割だろう。

☆現実の司法のあり方は?
A 具体的な問題で考えて見たい。多くの市民が原告となって「安保法制違憲訴訟」を提起している。憲法9条に照らして、集団的自衛権を容認する安保法制が違憲であることは明白ではないか。にもかかわらず、裁判所は、そのような実体審理に入ることもなく、合違憲の判断からも逃げて、形式的な却下判決や、国家賠償については法的な損害の存在を否定して棄却判決を繰り返している。これは、実質的に司法が政権の違憲政策に加担する図として許されない。しっかりと踏み込んだ違憲判断をして、憲法を活かすべきが司法の役割ではないか。

B そうではあるまい。原告の諸氏は、その訴えの窓口を間違えていると言わざるを得ない。一国の安全保障や外交・防衛政策は、民主的に国民全体の意思で決定すべき課題なのだから、裁判所ではなく国会に働きかけるべきがスジなのだ。あるいは、街頭でメディアで、世論形成に動くべきだろう。政治的な少数派が、選挙を通じての民主的手続を放棄して、裁判所に助力を期待するのは筋違いなのだ。

C 裁判所は「人権の砦」「憲法の番人」だ。国民の一人ひとりに、平和のうちに生きる権利がある。この紛れもない基本的人権が侵害された場合、あるいは危殆に瀕した場合には、裁判所に駆け込んで判決を求めることができるはずだ。安保法制違憲訴訟ではこの人権救済を求めている。それは、三権分立のありかたから見て裁判所の越権行為ではない。

B そういう個別の人権の立て方には無理がある。結局「~権」という人権があるという形を整えることによって、すべての憲法問題を裁判所マターにしてしまうことになる。これは憲法が想定していることではなかろう。

A いや、憲法は人権の体系なのだ。すべての制度違憲はそれに対応する人権侵害をもたらす。そう考えてこそ、「人権の砦」「憲法の番人」としての司法が機能することになる。立法・行政があまりに憲法を無視している現実があり、その是正を司法に期待して当然で、すべてのテーマに、可能な限り司法判断が及ぶことこそ望ましい。

☆では、憲法裁判所の設置はのぞましいか?
C なかなかに議論はまとまらない。日本国憲法での司法裁判所が違憲審査権を行使するには、どうしても附随的違憲審査制にしばられることになる。それなら、この制約を外したドイツ型の憲法裁判所設置という案はいかがだろうか。韓国の憲法裁判所の評判はよいようだし、野党の一部からの制度改正の要求もある。

A 日本での憲法裁判所の設置は、憲法改正を伴うものとして賛成しかねる。しかも、今の日本の政治情勢で憲法裁判所がつくられれば、立法・行政と一体となって、安易に違憲の立法や行政に、合憲のお墨付きを与える機関となりかねない。

B 具体的な紛争の有無に関わりなく、抽象的な違憲審査を可能とする憲法裁判所は、法や行政行為の合違憲を迅速に判断する機関として、歓迎したい。Aが、司法裁判所には広く憲法判断を求めながら、憲法裁判所の設置に反対するのはご都合主義ではないか。

☆権力分立における司法の位置づけは?
C 現在の司法の役割についても憲法裁判所の設置についても、Aは日本の現状におけるその機能を考え、Bは法体系の一般論として発言しているのが興味深い。A、Bそれぞれは、そもそも司法を、権力の全体構造において、政治的あるいは法的にどのような存在として位置づけているのだろうか。

A 政治学的には、所詮司法も権力機構の一部に過ぎない。司法が権力から独立しているという幻想に欺されてはならない。司法が相対的に権力から独立しているという側面はあるが、これに期待しすぎることが間違いの元なのだ。問題に満ちた今の司法のあり方は、その本質を露呈しているだけのことだ。

B 政治的な立論としてはそのような見解もあろうが、憲法論からは、独立した司法が立法や行政を監視し是正しなければならない。そうなっていない現実があれば、司法を正す努力をすべきが当然である。

C A論は、司法の現状を当然のこととして批判しないということか。また、B論は、立法や行政を直接に正すことと司法を正すことを、どう整理しているのか。

A 私は、権力の全体状況の中で、司法だけが取り立てて「反動化」することもなければ、「民主化」することもないのだろうと思う。その国民の水準に相応の国会がができ、内閣があり、その内閣が指名する最高裁裁判官が内閣を忖度した裁判をしている。なにより大切なのは、現安倍政権のごとき反憲法的権力に対する批判を集中することで、司法部批判はその一部と考える。

B それは、司法独自の課題をネグレクトする浅薄な考えだと思う。権力分立も司法の独立も、人類の叡智が生み出した貴重な理念だ。権力構造の中で、司法は独自の立場と課題をもっている。権力そのものとは異なる司法の本質に焦点を当てた批判が必要でもあり、有益でもある。

☆ 司法の独立の歴史と現状は?
C 司法特有の課題の中心にあるものは、「司法の独立」と言って異論はないだろう。
司法の独立には、「司法権が、他の立法権や行政権あるいは政治的圧力から独立している」ことと、「個々の裁判官が、司法上層部から独立している」ことの二重の意味がある。今の日本に司法の独立の理念は現実化しているだろうか。

A そんなものは影も形もない。かつてその萌芽はあったが、摘まれてなくなった。
戦前の「天皇の裁判所」を、新憲法は「国民の人権の砦」としたはずだった。しかし、裁判官には公職追放の適用はなく、治安維持法や不敬罪に親しんだ「天皇の裁判官」が戦後の司法を発足させた。
そして戦後司法の構造を決めた「ミスター最高裁長官」が2人いる。2代目の田中耕太郎(1950~1960)と5代目の石田和外(1963~1969)。どちらも、ゴリゴリの反共主義者。
それぞれに象徴的な訴訟を抱えた。
田中 砂川刑特法事件 伊達判決→砂川大法廷判決 安保合憲 統治行為論
石田 長沼ナイキ訴訟 福島重雄 平賀書簡 青法協攻撃 ⇒ 司法の危機
石田は定年退官後、「英霊にこたえる会」の初代会長となった。
裁判官の自主的な組織は潰され、最高裁当局から望ましくないとされる裁判官希望者は任官を拒否され、裁判官も出世や給与・任地に徹底した差別を受けている。その結果、上ばかりを見ている「ヒラメ裁判官」の「忖度」判決が横行している。

B それほど極端な状況でもなかろう。砂川大法廷判決も裁判所内のブルーパージ(青法協攻撃)も、立場によって評価の分かれるところだ。
最高裁当局の威光で判決の内容が決まるかというと必ずしもそうではない。愛媛玉串料訴訟では、後に日本会議の会長になる三好達長官が13対2の少数派にまわって敗れている。原発が国策であることは明確であっても、運転差し止めの判決も出ているじゃないか。総理のお友達の山口敬之に対する損害賠償請求事件では、原告伊藤詩織さん勝訴の判決となっている。消費者被害や医療事故に関する訴訟の救済水準も、まずまずというところではないか。

☆最高裁裁判官の任命制度について
C 消費者被害や医療事故、労災・職業病訴訟のような政権の根幹に関わらない事件については、真面目な裁判が行われているという印象だ。しかし、政治の根幹にかかわる事件では、忖度判決となってしまう。沖縄と国との訴訟がその典型だろう。教員に対する「日の丸・君が代」強制の可否をめぐる裁判もそうだ。裁判官の独立がもっとも必要とされる事件で、裁判官の独立が感じられない。どうすればよいだろうか。

A 安倍政権が長期化したことで、15人の最高裁裁判官全員が安倍内閣の任命によるものとなった。とりわけ、第1小法廷にその矛盾が表れている。
池上政幸(大阪高検検事長) 小池裕(東京高裁長官) 菅野博之(大阪高裁長官) 木澤克之(弁・加計学園監事) 山口 厚(弁・弁護士会推薦無し)
結局、《政権⇒最高裁⇒下級審裁判官》という、統制の構造ができあがっている。最高裁は、裁判体として判例を作ることだけでなく、その下級審裁判官に対する人事権をもって統制している。政権の恣意的な意向次第で最高裁判事の任命ができる現制度に、歯止めを掛けなければならない。
日弁連が提案している、「最高裁判所裁判官任命諮問委員会」の設置はその一案だと思う。

B とは言うものの、憲法の規定が「最高裁長官は内閣が指名(任命は天皇)」「長官以外の最高裁裁判官は内閣が任命」することになっているのだから、これを制約するような制度作りは難しいのではないか。もともとが、憲法は理性的で憲法に親和的な内閣を想定していたのだろう。そうなっていない現実が嘆かわしいのだが、内閣の最高裁裁判官任命人事には透明性を確保し世論の批判と、国民審査を実効的なものとする以外に方法はないのではないか。

☆日本の司法にどう展望を見出すか。
A 現行の司法制度を、上から変えようという発想が最高裁裁判官の任命制度改革だとれば、裁判官を下から変えていこうというのが、法曹一元の制度だ。
現行のキャリアシステムにおいては、司法修習生から判事補を採用するが、これを改めて、まず法曹の第一歩はすべて弁護士とする。経験を積んだ弁護士の中から、在野精神を備えた適任者を裁判官として選任する。英米法はこうなっており、韓国も先年このように制度を改革した。こうすれば、ヒラメ裁判官を駆逐して、官僚統制に服しない裁判官の裁判を期待できる。
法曹一元の制度実現以外に,日本の司法の将来展望を描けない。

B 法曹一元は、誰もが表だって反対はしない。これまで何度も、「優れた制度」であり「望ましい制度」として議論され、意見も上げられてきた。しかし、いっこうに具体化しない。制度実現までの道筋が見えてこない。法曹一元熱は、間歇的に上がることがあってもやがて冷めてしまう。法曹内部にも切実な必要性が感じられず、なによりも国民的要求になっていない。それは、司法の現状に堪えがたいほどの不満がないからではないか。

C 現制度を前提の「司法の独立」問題にしても、現制度をこえての「最高裁裁判官」任命制度作りや、「法曹一元」にしても、それが必要と熱く語る人びとが、専門分野に限られて、国民的運動の高まりがない。
しかし、裁判所のありかたは、すべての国民の権利の実現に密接に結びついている。その裁判所のありかたが、国民の関心事でないはずはない。憲法の理念を実現するのも裁判所の役割なのだから、憲法に関心をもつ多くの人にとって、裁判所のありかたに切実な関心が寄せられるべきは当然のことではないか。
ぜひとも、多くの方に裁判所のありかたに関心を寄せていただき、真に司法の独立を実現する運動に助力をお願いしたい。

(2020年2月8日)

2020年日弁連会長選挙事情

2年に1度の日弁連会長選挙が迫っている。来週の金曜日2月7日が投票日となっている。立候補者は以下の5人。かつてない乱戦である。

 武内更一(東京弁護士会・38期)
 及川智志(千葉県弁護士会・51期)
 荒  中(仙台弁護士会・34期)
 山岸良太(第二東京弁護士会・32期)
 川上明彦(愛知県弁護士会・34期

私は、弁護士会の選挙は会内の私事ではないと考えている。公法人であり、公的な任務を持つ弁護士会である。その重要な社会的役割にふさわしく、弁護士会の姿勢はもっと社会の関心事となるべきだし、会内でどのような政策が争われているか社会に知ってもらいたいと思う。

あらゆる団体のリーダー選出においては、選挙権を持つその団体のメンバーの利益向上を最大限化する政策の選択が争われる。弁護士会選挙の場合も例外ではない。しかし、弁護士会の場合は、それにとどまらない。弁護士会が弁護士の使命をいかに遂行すべきか、その理念や具体化のありかたの選択も争われる。

会員の直接的な利益向上に関するテーマの最大のものが法曹人口抑制問題だろう。かつて年間500人だった司法試験合格者数が,今は1500人となっている。弁護士の急増は弁護士の窮乏化を招いている。法曹人口を適正規模に調整しなければ、弁護士の経済的利益が損なわれる。ことは弁護士の経済的利益侵害にとどまらず、弁護士の質を変えることになりかねない。不祥事が増えるというだけでなく、資本の意のままにカネで動く理念なき弁護士が跋扈することになると語られている。

そして、会員の直接的な利益を超えた理念的なテーマの最大のものが,今の時点では憲法改正問題だろう。全員加盟制の弁護士会の中では、なかなか「憲法改正反対」は口にしにくい。改憲の是非は政治的な臭いのする問題と捉えられ易いからだ。そこで、「現行憲法の理念擁護」とか、「立憲主義の堅持」と言い換えられることになる。

今年の5名の候補者の中に、国民の人権擁護や社会正義実現に無関心の候補者はない。弁護士自治を不要と広言する「理念なき弁護士」は見あたらない。各々が、人権を語り、法の正義や平和を語っている。心強いというべきだろう。権力の横暴を抑止するため、在野に徹することを使命とする分野として、《メディア》と《大学》と《法曹》とがある。《教育》もこれに加えてよい。他の分野はともかく、弁護士の世界は、まだまだ在野派健在なのである。

ところで、これまでの選挙で投票先を迷うことはほぼなかった。「革新」と「保守」、あるいは「理念派」対「業務派」の色合いが、分かり易かったからだ。今回は違う。一見しておかしな候補はない。誰か一人を選ぶことが、なかなかに難しい。

各陣営から、投票依頼の電話が頻繁にかかってくる。とりわけ、山岸良太候補と荒中候補。各々の陣営で、信頼できる人が選挙運動に携わっている。例年なら、同じ陣営にいるはずの活動家が、今回に限っては割れているのだ。

私が所属している、東京弁護士会・期成会は、激論の末に今回は推薦者なしと決議した。異例のことである。

それぞれの選挙公報の冒頭の一部を並べて比較してみよう。

山岸良太候補(元二弁会長・日弁連憲法問題対策本部長代行)

一 立候補するにあたって
 「憲法・人権・平和」と「業務基盤の確立」。この2つの課題に日弁連のリーダーとして正面から取り組み、「頼りがいのある司法」を築くため、日弁連会長選挙に立候補することを決意しました。

1 憲法・人権・平和で頼りがいのある司法を築く  
 私は、幼い日に父を亡くし、母子家庭で育ちました。多くの困難に遭いながらも、弱者の 痛みを自分のこととして感じることができました。幼い頃目にした傷痍軍人の姿を通して、 戦争が引き起こす悲惨さを心に刻みました。中学の時に日本国憲法について解説した『あたらしい憲法のはなし』で憲法と出会い、憲法の3つの原理、特に平和主義の理念に新鮮な息吹を感じました。これらが私の人権感覚、平和への強い思い、憲法観を形作りました。憲法・人権・平和を弁護士としての出発点とし、登録当初から袴田事件の再審弁護団で活動し、二弁、 日弁連で憲法問題等に取り組んできました。
 議論が本格化しつつある憲法改正問題は、まさに次の日弁連会長の時に正念場を迎えます。この問題に法律家団体として正面から取り組まなければ、日弁連は、市民・国民の信頼を大きく損なうことになりかねません。日弁連は、これからも憲法・人権・平和の分野で「頼りがいのある司法」の中心とならなければなりません。

荒中候補。(元仙台会会長・日弁連事務総長)

 私は、これまで全国の数多くの会員の皆さんと日弁連の抱える課題について徹底的な議論を重ねました。立候補に当たり、次の7つの重点政策の実現を掲げます。

①弁護士の誇りの源泉である人権擁護活動をより充実させるとともに、立憲主義を堅持する。
②国・自治体・法テラスと連携し、権利擁護活動を持続可能な業務に転換するための取組を強化する。      
③「法の支配」を全国津々浦々に確立するため、民事司法改革、司法過疎対策に取り組む。 
④次代を担う若手弁護士が夢を持って存分に活躍できるよう、きめ細やかな支援策を実施する。
⑤弁護士自治を堅持する施策を企画し実践するとともに、小規模会の支援をさらに推進する。
⑥法曹の魅力を発信して法曹養成問題と法曹人□問題に取り組む。
⑦日弁連の財政と予算を常に見直し、さらなる減額も含めた会費の在り方を検討する。

やや乱暴なくくりだが、喫緊の改憲阻止を弁護士の使命として重視する向きは山岸を日弁連会長が大単位会の大会派(派閥)の回り持ちで決まることは許せないとする組織内民主主義を重視する向きは荒を推しているように見える。

(2020年1月31日・連続更新2496日)

本日「DHCスラップ『反撃』訴訟」控訴審結審。判決言い渡しは3月18日(水) ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第172弾

 本日(1月27日)、DHCスラップ「反撃」訴訟の控訴審が、第1回口頭弁論で結審となった。
 判決言い渡しは、3月18日(水)13時15分から。東京高裁511号法廷で。
DHC・吉田嘉明の控訴を棄却し、私からの附帯控訴では一審の110万円を上回る損害賠償命令が期待される。

 本日の進行は以下のとおり。
  DHC・吉田嘉明側 控訴状・控訴理由書の陳述
  澤藤側       控訴答弁書の陳述
  澤藤側       附帯帯控訴状の陳述
  DHC・吉田嘉明側 附帯控訴に対する答弁書の陳述
  DHC・吉田嘉明側 1点の書証提出
  澤藤側       4点の書証提出
  被控訴人(附帯控訴人)本人 口頭での意見陳述
  当事者双方とも新たな人証や追加の証拠提出の予定はなく、
 結審して判決言い渡し期日の指定

私の意見陳述は、以下のとおり。

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2020年1月27日

意見陳述要旨

東京高裁第5民事部御中

澤 藤 統一郎    

 2014年5月、私は突然に不法行為損害賠償訴訟の被告とされました。吉田嘉明という人物が、私のブログでの批判を快く思わぬことからの提訴で、2000万円の慰謝料を支払えというものです。

 裁判官の皆様には、違法とされた私の3本のブログの全文に改めて目を通していただきたいのです。万が一にも、私のこのような言論が違法とされるようなことがあれば、誇張ではなく民主主義は死滅してしまいます。また、このような言論を民事訴訟を道具として攻撃することが許されてはならないことをご確認いただきたいのです。

前件提訴が、私を恫喝して批判の言論を封殺しようという典型的なスラップ訴訟であることは明らかというべきです。私は、大いに怒りました。こんな訴訟を起こす人物にも、そしてこんな訴訟提起の代理人となる弁護士にも、です。
そして、怒るだけでなく徹底して闘うことを決意しました。これは私一人の問題ではない。けっして、この恫喝に屈してはならない。この提訴が違法であることを法廷で明らかにしなければならない。DHC・吉田嘉明のスラップ提訴の試みを失敗させ、反省させなければならない。まさしく、表現の自由を守るために。

私は、自分のブログに、「DHCスラップ訴訟を許さない」というシリーズを猛然と書き始めました。そうしたら、代理人弁護士からの警告に続いて、DHC・吉田嘉明は請求を拡張しました。2000万円の請求を6000万円にです。DHC・吉田嘉明も代理人弁護士も、言論封殺の目的を自白しているに等しいと指摘せざるを得ません。

当然のことながら、前件訴訟は請求棄却の判決となり確定しました。そして、前件訴訟の提訴を違法とする本件訴訟の提起となり、その一部認容の原判決を得るに至っています。原判決の責任論に異存はありません。吉田嘉明のスラップ提訴を明確に違法と断じた判断には、半分までは提訴の目的を果たし得たとの感慨があります。

しかし、問題は損害論です。経済的強者によるスラップを違法とする判決の認容額がわずか110万円では、ペナルティとしてあまりにも低廉で、十分な違法行為の抑止効果を期待し得ません。とりわけ、応訴費用をまったく認めていない点は、原判決の誤りとして是正されなければなりません。これには、最近の「N国」という政党関係者のスラップに対する判決例が参考になります。N国側がNHKを被告として提起した《10万円請求のスラップ訴訟》に対して、東京地裁は応訴のための弁護士費用54万円満額を損害として認容しているのです。こうした判断あってこそ、DHC・吉田嘉明らスラップ常習者に対する適切なペナルティとなり、スラップ防止の実効性のある判決となりえます。

スラップの本質は「民事訴訟という《市民の公器》を、《強者の凶器》として悪用する」ことにあります。司法が毅然たる態度で、公共的言論をして「不当な裁判から免れる権利」を保障しなければなりません

まさしく、本件において司法の役割が問われています。控訴審判決が、スラップの害悪を防止し、表現の自由を保障するものとなるよう期待してやみません。

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これまでの経過概要は以下のとおり。

2020年1月27日

DHCスラップ訴訟・反撃訴訟経過の概略

 発端は、吉田嘉明自身の週刊新潮手記の掲載である。
自らの渡辺喜美への8億円裏金提供を暴露する記事となっている。その直後に、私がブロクで吉田嘉明を批判する3件のブログ記事を書いた。この「言論」を封殺する意図で、吉田嘉明と株式会社DHCの両名が原告となって、私を被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟を提起した。これが先行の「DHCスラップ訴訟」。同訴訟の請求額は提訴時2000万円だったが、提訴直後に請求が拡張されて6000万円となった。
DHCスラップ訴訟では、東京地裁一審判決が請求を全部棄却し、東京高裁の控訴審が控訴を棄却、さらにDHC・吉田嘉明は最高裁に上告受理を申立てたが不受理となって私の勝訴が確定した。
確定後、私からDHC・吉田嘉明の両名に、スラップ提起を違法として訴訟外で600万円の損害賠償請求をしたところ、この両名から債務不存在確認請求訴訟が提起され、再び私は被告の座に着くこととなった。
「反撃」訴訟はその反訴としてなされたもので、「DHCスラップ訴訟」の提起を違法として、私からDHC・吉田嘉明に損害賠償請求を求めたのもの。判決は、手堅くきっぱりとスラップの違法性を認定した。
なお、私の吉田嘉明批判は、吉田自身の週刊誌の手記の内容を対象とするもので、同様の批判の言論は数多くあった。吉田は、そのうちの10件を選んで、同時期にスラップの提訴をしている。時系列での経過は下記のとおり。

2014年3月27日 吉田嘉明手記掲載の週刊新潮(4月3日号)発売
2014年3月31日・4月2日・4月8日 違法とされた3本のブログ掲載
2014年4月16日 DHCスラップ訴訟提起(請求額2000万円)
7月13日 ブログ「『DHCスラップ訴訟』を許さない」開始
8月29日 請求の拡張(2000万円から6000万円に増額)
2015年9月 2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2016年1月28日 控訴審控訴棄却判決言い渡し 被控訴人全面勝訴
2016年2月12日 最高裁DHC・吉田嘉明の上告受理申立に不受理決定
2017年 9月 4日 DHC・吉田嘉明が債務不存在確認請求訴訟を提起
2017年11月10日 澤藤から反訴提起。その後、吉田嘉明ら本訴取り下げ
2019年10月 4日 反訴について判決言い渡し。スラップの違法を認める。
2019年10月15日 反訴被告ら控訴。
2020年1月14日 澤藤側、附帯控訴状提出
2020年1月27日 (本日)控訴審口頭弁論期日 結審
2020年3月18日 控訴審判決(予定)

(2020年1月27日・連続更新2492日)

60年前の伊達判決に、独立した裁判官像の原型を見る。

60年前の今日、1960年1月19日に「新」日米安保条約が調印された。この条約批准に反対する国民的大運動が「安保闘争」である。高揚した国民運動に岸信介政権と自民党は議会の数の力で対抗した。

5月19日衆議院での会期延長強行採決が国民に大きな衝撃を与え、翌20日衆院での条約批准の単独採決が火に油を注いだ。対米従属拒否の安保闘争は、議会制民主主義擁護の運動ともなった。同年6月が、「安保の季節」となって、全国の津々浦々に「アンポ・ハンタイ」「キシヲ・タオセ」の声がこだました。参院での議決ないままの6月19日自然承認で新安保条約成立となったが、国民的なひろがりをもった大運動が遺したものは大きかった。私は、安保後の世代として学生生活を送り、学生運動や労働運動の熱冷めやらぬ70年代初頭に弁護士となった。

よく知られているとおり、60年安保闘争には、その前哨戦として砂川基地建設反対闘争があり、裁判闘争としての砂川刑特法刑事事件があった。59年12月の最高裁砂川大法廷判決が、安保条約を合憲として在日米軍駐留を認め、同時に司法のあり方についての基本枠組みを決めることにもなった。

砂川大法廷判決と、この判決を支えた司法の枠組みは、日本の対米従属という政治的な基本構造の憲法解釈と司法のありかたへの反映である。そのような事情から、政治的基本構造における「安保後60年」は、安保が憲法を凌駕する「二つの法体系」の60年でもあり、「日本型司法消極主義」の60年ともなった。

言うまでもなく、主権国家の憲法は、最高法規として一国の法体系の頂点に位置する。敗戦以来占領下にあった日本は、1952年4月28日の独立をもって主権を回復した。これに伴い、日本国憲法は、施行後5年を経て占領軍政の軛から脱して最高法規となった。しかし、日本国憲法の最高法規性は形だけのものに過ぎなかった。そのことを深く自覚させられたのが、砂川事件における最高裁大法廷判決であった。

「憲法 ― 法律 ― 命令 ― 具体的処分」という憲法を頂点とする法体系のヒエラルヒーに対峙して、「安保条約 ― 行政協定(現・地位協定) ― 特別法」という矛盾する別系統の安保法体系があって、この両者が激しく拮抗しており、事実上安保法体系は憲法体系を凌駕し、あるいは侵蝕していると認識せざるを得ない。これが、主唱者長谷川正安の名とともに知られた「二つの法体系論」である。

この二つの法体系論は、砂川基地反対闘争におけるデモ隊の米軍基地への立ち入りを、「刑事特別法」(「日米安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法」)違反として起訴したことによって、あぶり出された。

砂川闘争は北多摩郡砂川町(現・立川市)付近にあった在日米軍立川飛行場の拡張反対を巡っての平和運動である。闘争のバックボーンには、憲法9条の平和主義があった。再び、あの戦争の惨禍を繰り返してはならない。そのためには、軍事力の有効性も存在も否定しなくてはならない。日本国憲法が日本の戦力を保持しないとしながら、軍事超大国アメリカの軍隊の駐留を認めるはずはなく、その軍事基地の拡張などあってはならない。これが当時の国民的常識であったろう。

57年7月8日、東京調達局が基地拡張のための測量を強行した際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入った。このことをとらえて、デモ隊のうちの7名が刑事特別法違反として起訴された。

こうなれば、当然に刑特法の有効性が争われることになる。行政協定(現・地位協定)と安保条約そのものの違憲性も問われることになる。それを承知での強気の起訴だった。徹底した平和主義を理念とし、戦力を持たないと宣言した9条をもつ日本に、安保条約に基づく米軍が存在している。誰の目にも、違憲の疑いあることは当然であった。

それでも検察は、安保合憲・米軍駐留合憲を当然の前提として、敢えて刑特法違反での強気の起訴をしたのだ。その法理論の主柱は、憲法9条2項が禁止する「陸海空軍その他の戦力」とは、日本政府に指揮権がある実力部隊に限られ、米駐留軍は含まない、とする解釈論だった。

この刑事被告事件には、対照的な2件の著名判決がある。東京地裁の伊達判決(59年3月30日)と、跳躍上告審における最高裁大法廷砂川判決(同年12月16日・裁判長田中耕太郎)とである。

一審東京地裁では、検察の強気は裏目に出た。主権国家における日本国憲法の最高法規性を当然の前提として、日本国憲法体系の論理を貫徹したのが、砂川事件一審伊達判決であった。59年3月30日、伊達裁判長は、起訴された被告人全員の無罪を宣告する。その理由の眼目である憲法解釈は以下のとおり、分かりやすいものである。
「わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第9条第2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ない.」「合衆国軍隊の駐留が憲法に違反し許すべからざるものである以上、刑事特別法第2条の規定は、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し無効なものといわなければならない。」

これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告し、舞台は東京高裁の控訴審を抜きにして最高裁に移った。そうしたのは、日米両政府に、急ぐ理由があったからだ。60年初頭には、新安保条約の調印が予定されていた。安保条約を違憲とする伊達判決は、なんとしても59年の内に否定しておかねばならなかったのだ。こうして、最高裁大法廷は同年12月16日判決で、米軍駐留合憲論と、統治行為論を判示した上で、事件を東京地裁に差し戻す。

最高裁では破棄されたが、伊達判決こそは、政治支配からも立法権・行政権からも、そして最高裁の司法行政による支配からも独立した下級審裁判官による判決であった。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。伊達判決を言い渡した3人の裁判官は、まさしく憲法のいう独立した裁判官であった。「法と良心」に従って忖度なしの判決を言い渡したのだ。このような硬骨な裁判官の存在は、政権にも最高裁上層部にも衝撃だった。望ましからざることこの上ない。

以後、最高裁は下級審裁判官の統制を課題として意識し、国民運動のスローガンは、「裁判官の独立を守れ」というものとなった。昨日のブログで取りあげた、伊方原発運転を差し止めた広島高裁の3裁判官も、60年前における伊達コートの後輩である。最高裁司法行政からの統制圧力と、国民運動による裁判官独立激励の狭間にあって、呻吟しつつ良心を擁護してきたのだ。

(2020年1月19日)

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