澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

司法の二面性 ー「国民支配の道具としての一面」と、「権力を抑制して人権を擁護する一面」と。

(2021年2月19日)
S君、長くお目にかからないが、久しぶりにご意見のメールをいただくと50年前の修習生時代を思い出す。真っ直ぐな問題提起の仕方に、つくづくと、人は変わらないものと思う。

弁護士生活50年を記念する出版にともなう集会をどう持つか。私は、「戦後75年の司法を俯瞰する」ものとしようと提案した。「われわれが経験したのは、この50年の司法だが、その出発点を見据えるには、戦後からの分析というスパンが必要ではないか」という趣旨だ。

それに対して、貴君から、「澤藤意見では、出発点を見据えるには戦後からの分析というスパンが必要と述べているが、本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と『戦前』(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」「裁判官の意識・考え方は旧憲法のままだと感じている。」と、ご意見をいただいた。これは、貴君の受任事件を通じての切実な見解ということがよく分かる。

「戦前の裁判官の意識(考え方)がそのまま引き継がれているものとして、公権力の行使による加害に対しては責任を負わないとする『国家無答責論』(判例法理)が問題」「戦後補償訴訟では、裁判所は、反人道的不法行為事実を認定しながら、国家無答責論を無批判に適用して重大な基本的人権の蹂躙行為を免罪した」「私は、担当裁判官の公権力の行使による加害行為を安易に免罪するという考え方が、他の事件を判断する場合でも、権力や強者の責任を免除する方向に繋がっていることを強く感じる」

なるほど。事件を通じての、皮膚感覚の裁判所論は、痛いほどよく分かる。「本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と「戦前」(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」とのご意見には、私も異論がない。

私たちの修習生時代に長官だった「石田和外」などは、戦前の「天皇の裁判官」の精神構造を、そのまま戦後に引き継いだ裁判官群の代表だった。大日本帝国憲法に馴染んだ戦前の裁判官が、パージのないことを奇貨として、そのまま戦後の日本国憲法下の裁判官になりおおせたことを記憶に留めておかなくてはならない。

とは言え、天皇制下の司法がどう現在に引き継がれているかについての認識には、多少の齟齬があるようだ。あれから50年。70年代以後現在につながる司法のありかたを、「その本質において戦前と同じ」という切り口で評することが有効だろうか、疑問なしとしない。

天皇制下の司法は、イデオロギー的には「天皇の裁判所」であり、「天皇の裁判官」が担った。組織的にも司法省に従属した裁判所であった。違憲立法審査権はなく、国家は悪をなさずの思想のもと、国家賠償は認められず、国家無答責は言わずもがなの大原則であった。

戦後の新憲法は、戦前の司法を清算し、人権の砦として新たな出発をしたはず。私は、ここが出発点と思っている。戦後75年、憲法が想定する司法はできていない。これを、戦前を引き摺っているからと捉えるべきだろうか。

修習生時代から、「所詮司法といえども権力の一部」「司法の独立なんぞは幻想に過ぎない」というシニカルな意見はあり、私は「権力機構の一部としての司法の独自性を理解しない極論」「人権や民主主義擁護の運動に有害」と反発してきた。

言うまでもなく、法には、国民支配の道具としての側面と、権力抑制の側面とがある。司法にも、権力機構としての国民支配の道具として作用する一面と、権力を抑制して人権を擁護する側面とがある。

私たちは、その後者を大切なものとし、国民の人権意識や民主主義の発展とともに、「人権の砦」としての裁判所の実現は可能と考えて、「司法の独立」というスローガンを掲げてきた。

しかし、それは残念ながら、現在のところは見果てぬ夢に過ぎない。権力機構の一部としての司法がまかり通っているのが現実だ。問題は、その憲法との乖離という現実が司法だけのことではないということ。保守政党が支配する立法府にも、粗暴に権力を振るう行政府にも、さらには自治体にも社会全体の法意識にも当てはまることではないか。

「所詮司法といえども権力の一部」という論を、シニカルにではなく、もう一度捉え直す必要もあるのではないか。日本の社会全体に人権や民主主義が根付かぬ限りは、司法だけが憲法の想定する理念を実現することは現実には困難ではないだろうか。

とはいえ、そのことが司法に関する独自の運動を否定することにはならない。権力機構の中で司法部には、独自の役割や機能をもっているはず。
「憲法の砦としての司法」「司法の民主化」「司法の独立」「裁判官の独立」「司法官僚の現場裁判官操作を許すな」というスローガンの有効性は揺るがないと思う。

少し長くなった。その後のことは、次のメールにしよう。

「救援新聞・みんなのひろば欄」に見る、《裁判のIT化反対》の声。

(2021年2月12日)
「日本国民救援会」の機関紙『救援新聞』は旬刊である。毎月、5日・15日・25日付の各号が発行され郵送されてくる。最新の2月15日号が届いた。通算で1975号になる。その持続性に脱帽するしかない。

もちろん記事の中心は、救援会本来の活動分野である冤罪被害者救援や、冤罪を生む土壌となっている権力の横暴を抑止する運動についてのもの。だが、原発訴訟や労働訴訟などにも目配りを怠らない。改憲や悪法制定への警戒を呼び掛ける記事も充実している。

2月15日号の一面は、「『もの言う』自由守ろう」「警察庁の尋問実現を(岐阜地裁)」と見出しを打った、大垣警察市民監視違憲訴訟の報告記事。

 岐阜県で風力発電建設をめぐり勉強会を開いた住民2人と、勉強会と無関係の市民2人の個人情報を警察が収集し、企業に提供していた事件。4人は監視等は違憲として警察(国と県)を相手に国家賠償請求と情報の抹消請求を求めています。
 1月27日におこなわれた進行協議で原告側が求めている警備公安警察官らの証人尋問がおおよそ決まりました。次回の口頭弁論で正式決定されます。

 本文では、大垣警察署の警備課長ら2名に岐阜県警警備部の1名を加えた計3名の警察官の証人採用と日程がほぼ決まった。しかし、原告側は真相を究明するためには、さらに警察庁警備局長の尋問が必要としてその採用を求めているという。予てから注目されていた国家賠償訴訟だが、いよいよ山場なのだ。

特にお伝えしたいのは、毎号読者の投稿を掲載している「みんなのひろば」欄。今号には10名の「お便り」があるが、《裁判のIT化》に触れているのが冒頭の3通。

愛知・古谷延男

 裁判のIT化がおこなわれようとしているそうですが、容認できません。法廷での口頭弁論を開かずに。「ウェブ会議」で代替するとなると、裁判は形骸化し事務的となると思います。真実は人間と人間との直接の対話と傍聴者がいてこそ明らかにされます。その関係を阻害する法律には賛成できません。

   *   *

北海道・宮越栄

 民事裁判手続のIT化が法制審議会で見直し議論が進められているとのこと。それは、過去国民救援会などが中心にたたかってきた様々な裁判闘争を嫌う権力が法廷外での国民の支援闘争を押さえるためのもの以外考えられません。一般人には全く知らされておらず、救援新聞の果たす役割は大きいです。

   *   *

東京・佐々木治代

 「民事裁判手続きのIT化」の記事を続んで。口頭弁論をウェブ会議で代替して実施できるよう検討しているということですが、裁判の中身を見えなく化していくことに通じると思います。デジタル庁はその実施のための布石なのでしょうか。

まったく同感である。訴訟とは、単に紛争処理の手続ではない。政治的・経済的・社会的強者の理不尽を糺して、弱者を泣き寝入りから救済する場なのだ。その本来役割を果たすためには、裁判官は当事者の悩みの深刻さに共感できなくてはならない。法廷で間近な距離で、全身全霊をもって必死に訴える者の肉声に耳を傾けなくてはならない。デジタルやOn-lineではなく、生身の声をきけ。記号となった陳述書の文字で足りると考えてはならない。民事裁判手続のIT化反対の的確さは、国民救援会ならではのものであろう。

「法と民主主義」1月号購読のお願い

(2021年1月31日)
1月28日発行の「法と民主主義」1月号が、通算555号となった。毎年10号の発刊を、1号の欠落もなく50年余にわたって積み上げての555号である。編集に参加してきた者の一人として、いささかの感慨を禁じえない。

自らの画に自ら讃の趣ではあるが、最近の本誌は充実していると思う。本号も<第51回司法制度研究集会>特集を中心に読み応えあるものになっていると思う。

51回目となる司研集会のテーマは、「今の司法に求めるもの ─ 特に、最高裁判事任命手続きと冤罪防止の制度について」である。その趣旨は、以下のとおり。

第49回司研集会のテーマは、「国策に加担する司法を問う」。そして昨年の第50回は「いま、あらためて司法と裁判官の独立を考える、ー 司法の危機の時代から50年」であった。この両シンポジウムで、安倍政権になってからの最高裁の重要判決の中に、国の政策に積極的に加担するものが散見されると指摘され、共通認識となった。これにともなって、安倍政権下での最高裁判事任命の恣意性がクローズアップされてきた。
こうした流れを受けて今回は、最高裁判事任命のありかたを中心に、司法の独立や司法の人権保障機能強化のための提言ができないかという問題意識をもって集会を準備した。結局は、今回の実行委員会で具体的な政策提言などを作ることは困難として、集会の中で方向性が見いだせればということになった。
そこに10月1日菅首相が日本学術会議会員候補者6名の任命を拒否するという前代未聞の事態が起きた。この政権の問題性は今回の司研集会に色濃く反映され、非常に緊張感のある充実した集会になった。

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法と民主主義2021年1月号【555号】(目次と記事)

●特集のリード(PDF) ●時評(PDF) ●ひろば(PDF)
特集●今の司法に求めるもの ─ 特に、最高裁判事任命手続きと冤罪防止の制度について<第51回司法制度研究集会から>
◆特集にあたって … 日本民主法律家協会事務局長・米倉洋子
◆基調報告・今の司法、何が問題か ── 新聞記者の視点から … 豊 秀一
◆報告①・最高裁判事任命の問題点
── その基本構造及び安倍政権下の問題、改革の方向性 … 梓澤和幸
◆報告②・冤罪防止のための制度の実現を … 周防正行
◆質疑応答・発言
… 近藤ゆり子/明賀英樹/岡田正則/晴山一穂/西川伸一/森野俊彦
平松真二郎/澤藤統一郎/毛利正道/瑞慶覧淳/白取祐司
◆集会のまとめと閉会の挨拶 … 新屋達之

◆連続企画●憲法9条実現のために〈33〉
日本学術会議会員任命拒否と「科学技術・イノベーション基本法」… 南典男
◆司法をめぐる動き〈62〉
・大飯原発設置許可取消判決の意義と展望──大阪地裁2020・12・4判決 … 冠木克彦
・11/12月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2021●《政治とことば》
問われる政治家、リーダーの資質 「迷走」の要因はどこにあるのか? … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ2─〈№1〉
被爆者として、被爆者によりそって … 田中熙巳さん×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈No.30〉
「ずさんな議論」で改正改憲手続法案の早期採決を求める自民・公明・維新・国民民主党 … 飯島滋明
◆BOOK REVIEW●ティモシー・ジック著、田島泰彦監訳、森口千弘ほか訳
『異論排除に向かう社会─トランプ時代の負の遺産』(日本評論社) … 澤藤統一郎
◆インフォメーション
新型インフルエンザ等対策特措法等の一部を改正する法律案に反対する法律家団体の声明
◆時評●沖縄の米軍基地撤去は日本の歴史的責務 … 加藤 裕
◆ひろば●カジノ関連法の廃止を … 新里宏二

記事の紹介は下記URL
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集会でのメインの各報告は、本誌をお読みいただくとして、「フロア発言」の2件の抜粋をご紹介させていただく。森野俊彦さんと私のもの。

学術会議任命拒否と重なる裁判官の任命拒否

森野俊彦(弁護士・大阪弁護士会)

 私は、いまは弁護士ですが、40年間裁判官をしていた者です。今回、日本学術会議の被推薦者6名の方が任命拒否をされましたが、私はそれを聞いて、50年前に私たちが経験した「任官拒否」を思い出しました。私たち60数名の任官希望者のうち7名が裁判官任官を拒否されました。私はその方たちと一緒に修習し、いかなる裁判官になっていくかを真剣に考え、任官し得たあかつきには、ともに少数者の権利を擁護する司法権の担い手として頑張っていこうと誓い合っておりました。
その方たちは、裁判官になって当然とも言うべき人で、裁判官にふさわしい人でありました。こうした人たちが拒否されたことは、本当に驚きでありました。せめてその拒否理由を明らかにすべきであると考えて、裁判官内定者55名のうち45名の不採用理由開示を求める要望書を最高裁に持っていきました。
拒否された人のうち六名が青法協に入っており、また経歴や人柄から推測しますと、おそらく最高裁はそういう方たちが裁判官として存在し活動することを絶対に避けたいと考えたのだと思います。つまり最高裁判所は、裁判所にとって都合が悪くなる可能性がある人は基本的には入れない。特に任官拒否は採用の問題ですから、入場門に立って入場を拒否すれば足りると考えたのです。
その年、私たちの10期上の13期の宮本裁判官の再任拒否もありました。私は紛れもなく思想信条を理由とする差別であったと考えます。その後、再任問題については、下級裁判官指名諮問委員会が設けられて一定の改善を見たのですが、それで裁判所の中が良くなったかというと、そうは言えないところがあるのです。残念なことに、裁判所内の民主化をめざす運動は、いまは風前の灯火です。われわれの時代には任官者の中にも結構骨太な、あるいは少数者の権利擁護こそ司法権の任務だと力説する方がいたのですが、現在そういった方が裁判官として入ってこれるかというと、それが難しい。採用の段階で選別されてしまうわけです。
最高裁判所の判事の任命は、まだ弁護士出身などいろいろなところから入ってくる部分があるのですが、国民の権利を擁護する、あるいは政府にノーと言える裁判官がどれだけ最高裁の判事になれるかということになると、これは極めて否定的なのですね。裁判官時代はともかく面従腹背して、それなりに出世をしないとだめなのです。だいたい現職で最高裁判所の判事になろうと思ったら、最高裁事務総局経験者、司法研修所の教官、最高裁の調査官などにならなければならない。それには、言いたいことも言わずに、しかし時々はこれはという判決も書かなければならない。残念ながら、今の裁判官にそんなことができるはずがない。
私の場合で言えば、青法協の会員でもありましたし、全国裁判官懇話会にも入りました。日本裁判官ネットワークを一緒にやって、そういう問題を市民とともに考えようと頑張ったのですが、残念ながら、裁判所自体を根本から変えるということにはなり得なかったのです。
どうしたらいいかということは、本当に難しい問題なのですが、ある日突然、いい裁判所ができるはずはないですね。時々いい裁判官が出るときがある。そういう裁判官を盛り立てるということも私は大切ではないかなと思っています。あとは、弁護士からの最高裁判事、少数意見がちゃんと書ける裁判官にもっともっと入っていってもらうとか、いろいろな方策が考えられます。どれも、けっこう厳しいこととは思いますが。(拍手)

50年前の苦い経験を繰りかえさないために

澤藤統一郎(弁護士・東京弁護士会)

 私も森野さんと同じ23期で、50年前に同期の裁判官志望者7名が任官を拒否された事件に立ち会いました。このときの衝撃は非常に大きかった。
当時私たちは、私たちなりの常識的な裁判官像、あるいは裁判所、司法像を描いていました。憲法の理念を厳格に守る裁判所、これが当然のありかただと考えていたのが、どうもおかしい。そうではない権力の意のままになる裁判所がつくられてしまうのではないかという違和感と衝撃です。私たちが理解していた、三権分立とか司法の独立とか、あるいは裁判官の独立などとはまったく異質のものが、いま目の前に立ち上がろうとしている。そういう恐怖心を、50年前に感じたことを思い出します。
その同じ悪夢が、また今年の10月1日に繰り返され、現実の出来事として受け止めざるを得なくなりました。さきほど森野さんが発言されたとおり、50年前に私たちがいったい何を考えて何をし、それがどうしてうまくいかなかったのか。その教訓をもう一度きちんと整理すべきなのだと、あらためて思います。
50年前の苦い総括ですが、私は最高裁が成功体験を積み上げたのだと思っています。つまり最高裁は、判事補採用の段階で数名の任官志望者を拒否することによって、自らの思惑は公にせずとも、誰にでも忖度可能な状況をつくり出した。そして人事の問題だからと言う理屈で、決して採用を拒否をした理由を明らかにしない。それでいて、自分の組織の隅々にまで、トップが何を考えているか、トップに忖度をせず逆らえばどうなるのかを見せつける。そういうやり方で、巧妙に組織全体を動かしたのです。採用人事を梃子にして、全裁判官を統制し、裁判の内容まで変えてしまった。それをいま司法官僚ではなく、内閣総理大臣、行政のトップが真似てやろうとしている。
私たちは50年前の苦い経験から、その轍を踏まないように、いまの学術会議問題について、発言を継続していかなければならない。それが私たちの使命であろうと思っています。

「私はA天皇の時代に生まれ、B天皇の時代に弁護士登録をし、C天皇の時代に立候補しました」と表示される大いなる違和感。

(2021年1月30日)
例年2月は弁護士会選挙の時期。だが、今年(2021年)は2年任期の日弁連会長選挙はない。そして、私の所属する単位弁護士会である東京弁護士会(会員数8700)も選挙がない。会長・副会長(定員6名)・常議員(定員80名)・監事(定員2名)の座を争って、華々しい選挙戦があってしかるべきだが、どこでどう調整がつくのか立候補者が定員で収まって選挙はなくなった。

本来であれば2月5日(金)が投開票である。勝れて理念的な存在である弁護士会には、弁護士のありかた、弁護士会のありかた、司法や司法行政のありかた、そしてこの社会の人権や民主主義のありかたについても、選挙を通じての熱い議論があってしかるべきだが、それがないのはややさびしい。

私は、弁護士のありかたは市民社会の関心事であるべきだと思っている。選挙戦における主張の応酬はできるだけお伝えしたいところだが、今年はそれができない。とは言え、東弁の選挙公報には、会長・副会長・監事各候補者のなかなか熱い公約が掲載されている。弁護士会、なかなかの水準だと思う。

今年の特徴として、多くの候補者がコロナ対策に触れている。コロナ禍にともなう会員の減収と会の財政問題にも。しかし、それだけにはとどまらない。弁護士自治の堅持、立憲主義の擁護、憲法価値の実現、人権の尊重、弱者の司法アクセス等々についての理念を語っている。

会長候補者は矢吹公敏氏。事実上の次期会長である。この人の所信(選挙公報に掲載した公約)は決して熱くはないが、真っ当と評価できよう。その一部を引用させていただく。

弁護士全体の課題への対応
(1)弁護士自治の充実を
 弁護士の自治は弁護士の独立を保障する制度です。この弁護士自治を守るために、法テラス、弁護士費用保険、法曹人口(特に、女性の法曹人口)、貸与制世代の会員などの課題に向き合っていかなければなりません。また、組織内弁護士の方々とも意見交換をしていく必要があります。さらに、会務も透明性があり、説明責任を果たせるような運営が求められます。

(2)司法の独立の中心となる活動を
 司法が市民からより信頼され司法の独立を守るために、裁判所や検察庁と、時に厳しい意見を率直に述べ合うためにもさらに相互に信頼関係を深めていく必要があります。また、弁護士会が掲げる政策の実現には、立法府や行政府とも連携する取り組みが大切だと考えます。

(3)市民とともに歩む活動を
 弁護士自治が弁護士法を通じて国民から負託されたものである限り、市民社会と連携する弁護士会でなければなりません。NGOなどとの協力も必要であり、またメディアへの適切かつ幅の広い対応も求められます。加えて、ジェンダー、LGBTQ、子ども、高齢者、障がい者の方々への法的サービスを欠かしてはなりません。
 また、市民社会が政府や経済界に対して監督的な役割を持てるように、市民社会の側に立ってその活動を支援する取り組みが必要です。例えば、ビジネスと人権にかかわる取り組みが考えられます。

(4)憲法的価値の維持と民主主義の堅持へ
 立憲民主主義は、我が国の憲法の拠って立つ礎です。加憲問題、憲法改正問題(改正手続規定に関するものを含む)、国家緊急権の問題など立憲主義にかかわる問題に積極的に意見を述べる必要があります。また、報道の自由や表現の自由など、民主主義の根幹にかかわる人権問題にも積極的に意見を述べていくべきです。

(5)法の支配の強化に向けた活動を
 我が国の法手続は他国に比して遅れている課題があると言われています。IT化を含む民事司法改革や弁護人の立会い権などの被疑者・被告人の権利拡充含む刑事司法改革など弁護士会が取り組むべき課題に積極的に関与していきたいと考えています。犯罪被害者支援の拡充(犯罪被害者の権利保障、被害者参加制度の拡充、損害回復手段や経済的支援制度の拡充等)もその一つです。

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もう一つ、東弁選挙公報についてのご報告を。

9名の立候補者が所信(公約)を寄せている。経歴の紹介を西暦表示だけで行っている人が8名。たった一人だけが、西暦表示を主として元号表示を括弧に入れている。いったい何のための西暦・元号併記なのだろうか。この人も、本文では全て西暦表示である。そろそろ、元号使用は廃絶されつつあるとの実感。

ところが、公的な場面となるとガラリと変わる。選挙公報の選管作成部分の記載は全部元号表示で統一されている。昭和・平成・令和、3元号混在の摩訶不思議の世界。それぞれの候補者が、「私はA天皇の時代に生まれ、B天皇の時代に弁護士登録をし、C天皇の時代に立候補しました」と表示されている。こういう愚劣な事態は一刻も早く止めようではないか。

DHCスラップ訴訟・「反撃」訴訟 勝訴確定の記者レク ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第181弾

(2021年1月21日)
本日午前11時、東京地裁司法記者クラブで、DHCスラップ訴訟確定の記者レクを行った。登壇者は下記の3名
当事者(DHCスラップ訴訟被告・『反撃訴訟』原告)である私
訴訟経過と判決を解説した弁護団長 光前幸一弁護士
解説と司会を担当した、弁護士澤藤大河

★ まず伝えたことは、DHCスラップ訴訟・DHCスラップ「反撃」訴訟が、私の勝訴、DHC側の完敗で確定したこと。
1月14日 最高裁(一小)が下記の決定をして、翌日通知が届いた。
   DHC・吉田嘉明の上告を棄却
   DHC・吉田嘉明の上告受理申立を不受理
この決定によって、東京高裁第5民事部(秋吉仁美裁判長)の2020年3月18日 判決(DHC・吉田嘉明のスラップ訴訟提起を違法として、165万円の損害賠償認容の判決)が確定した。

★ これは、表現の自由妨害を企図するスラップ常習企業に痛打であり、表現の自由顕現を目指すわれわれには欣快の至りである。

★ DHCとは、スラップ常習企業であるだけでなく、政治家への裏金提供、オーナー吉田嘉明の在日差別発言、文春On-lineで明らかとなった消費者への欺罔など、問題だらけの企業である。

★ スラップ訴訟とは、自らの権利の救済や実現のためではなく、被告を威嚇・恫喝して、その言論や行動を萎縮せしめる目的の民事提訴を言う。

★ DHC・吉田嘉明は、対澤藤事件と同じ時期に、計10件のスラップを提訴している。これに反撃して最後まで闘い抜いたのは、残念ながら、澤藤一人であった。

★ 確定した判決ではスラップ違法の要件は、次のように定式化された。
下記の「Aを前提に、B1かB2」であれば、提訴は違法となる。
A 「その提訴は客観的に勝てない」
B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
B2「常識的に勝てないことが分かるはず」
つまり、スラップ違法の方程式がこれ。
 A+(B1 or B2)=違法スラップ

★ その上で、一審判決も二審判決も「DHC・吉田嘉明のスラップの提訴は客観的に勝てるはずのものではなく、しかも、提訴者が、勝てないことを知っていたか、勝てないことが容易に分かるはずの提訴」だったことを認定した。次のとおりである。

「この(スラップ)訴訟における被告ら(DHC・吉田嘉明)の請求は事実的・法律的根拠を欠くものという他はない」(A要件

「(DHC・吉田嘉明らは)請求が認容される見込みがないことを通常人であれば容易にそのことを知り得たと言えるのにあえて訴えを提起したものとして、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものということができ、原告(澤藤)に対する違法行為と認められる」(B2要件

★ スラップ訴訟の損害論
一審判決は、慰謝料100万円+反撃訴訟の弁護士費用10万円=110万円
控訴審審判決は、スラップ応訴費用50万を損害として認め下記にあらためた。
慰謝料100万+スラップ応訴費用50万+反撃訴訟弁護士費用15万=165万円

★ この事件の教訓は、「スラップの恫喝を恐れての言論の萎縮などあってはならない。」「スラップには反撃訴訟で徹底して闘うべし」ということである。

★ 最後に私が強調したのは、DHCを典型とする問題企業には、社会からの制裁が必要であること。反撃訴訟での勝訴だけでは足りない。訴訟を切っ掛けに、明るみに出た、このDHCという違法体質の批判には、DHC製品不買運動が必要だと言うこと。あらゆる人々の日々の消費生活における商品選択の積み重ねで、世の中を少しずつ変えることができる。「DHCの製品、私は買いません」という、一人ひとりの消費者の自覚的な意識と行動が、デマやヘイトやスラップや政治家への裏金提供や、ステルスマーケティングなどの不当・違法行為をなくしていくことにつながる。これが、消費者運動のあるべき姿であり、正しい意味における「消費者主権」の意味である。

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   DHCスラップ訴訟・DHC『反撃訴訟』経過の概略

☆スラップ提訴以前
2013年4月1日 ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」新装開店
(以来毎日連続更新・昨日で2851回)
2014年3月27日 吉田嘉明手記掲載の週刊新潮(4月3日号)発売
「さらば器量なき政治家」 渡辺喜美に8億円の裏金提供を自ら暴露
2014年3月31日 澤藤・違法とされたブログ(1)掲載
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日  違法とされたブログ(2)掲載
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日  違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
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☆DHCスラップ訴訟の経過
(原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤統一郎
東京地裁民事24部 H26年(ワ)第9408号)
2014年4月16日 提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪・削除請求)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」 以下続く
8月20日 705号法廷 実質第1回弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額)
新たに下記2ブログ記事が名誉毀損とされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月1日 第8回(実質第7回)弁論 結審(阪本勝裁判長)
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2015年12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年1月28日 控訴審控訴棄却判決言い渡し 被控訴人全面勝訴
2016年10月4日 最高裁DHC・吉田嘉明の上告受理申立不受理決定
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☆DHCスラップ「反撃」訴訟の経過
(本訴 原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤 ⇒本訴はすぐ取り下げ)
(反訴 原告 澤藤、反訴被告 DHC・吉田嘉明)
2017年9月4日 DHC・吉田嘉明が澤藤を被告として
債務不存在確認請求訴訟を提起   H29年(ワ)第30018号
東京地方裁判所民事1部に係属⇒裁判長 後藤健(41期)
2017年11月10日 澤藤から反訴提起 H29年(ワ)第38149号
損害賠償請求660万円
2018年10月26日 裁判長交代・前澤達朗(48期)
2019年1月11日 人証採用決定(3名)
澤藤と吉田両本人と 証人内海拓郎(DHC総務部長)
2019年4月19日 吉田呼出に応ぜず不出頭 澤藤と内海拓郎尋問
2019年7月4日  結審
2019年10月4日 判決言い渡し勝訴110万円の請求認容
損害認容はスラップの慰謝料100万円と反撃訴訟弁護士費用10万円
2020年3月18日 東京高裁第5民事部(秋吉仁美裁判長)控訴審判決
50万円の応訴費用を認めて、165万円の認容判決とした。
2021年 1月14日 最高裁(第1小法廷)上告棄却・上告受理申立不受理

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私は何を書いて、DHC・吉田嘉明からスラップの標的とされたか。

DHC・吉田嘉明スラップ事件資料 6000万円請求の根拠とされた5本のブログ

2019年10月4日、スラップ「反撃」訴訟の一審勝訴判決以来、会う人ごとに「おめでとう」「よかったね」と言われ続けている。とても気分は良い。そして、「この裁判を知ってからDHCは買ってないよ」「ウチは、DHCは以前から買ってない」と,多くの人から聞かされる。面倒を厭わず闘い続けた甲斐があったと思う。本当によかった。弁護団や支援の皆様には感謝の言葉しかない。

しかし、なかには、「いったい、DHCと吉田嘉明にどんな悪口を言って、裁判までされたの?」という質問をする方もいる。かすかに、「裁判までされたのは、よほどの悪口雑言を言ったからでしょう」というニュアンスが感じられる。

そこで、私が、名誉毀損として訴えられたブログのすべてを掲載しておきたい。そのブログは全部で5本。名誉毀損とされた表現の個所は合計16個所ある。これを並べてお読みいただきたい。私のブログは吉田嘉明を厳しく批判するものだ。吉田の耳に痛いことは当然として、この私の言論が許されざる違法なものであるかどうか、読者ご自身の憲法感覚でご判断いただきたい。

2014年3月27日、吉田嘉明の独占手記「さらば器量なき政治家・渡辺喜美」掲載の週刊新潮(4月3日号)が発売になった。私は、これを批判するブログを3本書いて、DHC・吉田嘉明から、2000万円の損害賠償請求の訴えの提起を受けた。損害賠償請求と併せて、ブログ記事の削除と謝罪文掲載の請求もあった。私のブログ記事掲載は、同年3月31日、4月2日、4月8日のこと。これを違法とするDHC・吉田嘉明の訴え提起は、4月16日のことだった。

その3本の「2000万円相当ブログ」は下記のとおり。

http://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

http://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

http://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

この提訴の訴状に不備があったのか、訴状の私への送達は遅れて、5月16日となった。友人と相談して、弁護団態勢を組む目途が付いた頃から、私は不退転の決意で反撃に出た。当ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの掲載を開始したのだ。その第1回が、同年7月13日のこと。
2014年7月
13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
18日 第5弾「この頑迷な批判拒否体質(1)」
19日 第6弾「この頑迷な批判拒否体質(2)」
20日 第7弾「この頑迷な批判拒否体質(3)」
22日 第8弾「グララアガア、グララアガア」
23日 第9弾「私こそは『幸せな被告』」
25日 第10弾「『表現の自由』が危ない」
27日 第11弾「経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ」
31日 第12弾「言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型」
同年8月
3日 第13弾「スラップ訴訟は両刃の剣」
4日 第14弾「スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。」
8日 第15弾「『政治とカネ』その監視と批判は主権者の任務だ」
10日 第16弾「8月20日(水)法廷と報告集会のご案内」
13日 第17弾「DHCスラップ訴訟資料の公開予告」
20日 第18弾「満席の法廷でDHCスラップの口頭弁論」
21日 第19弾「既に現実化しているスラップの萎縮効果」
22日 番外「ことの本質は『批判の自由』を守り抜くことにある」
31日 第20弾「これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事」
同年9月
14日 第22弾「DHCが提起したスラップ訴訟の数々」
15日 第23弾「DHC会長の8億円拠出は『浄財』ではない」
16日 第24弾「第2回口頭弁論までの経過報告」
17日 第25弾「第2回口頭弁論後の報告集会で」
(以下略、現在181弾まで)

以上のとおり、私は猛烈に書き続けた。怒りこそが、エネルギーの源泉である。私のブログを検索していただければ、すべてを読むことができる。「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの最初の方ものは、読み物としてもできのよい面白いものではないか。

しかし、吉田嘉明にしてみれば、黙れと恫喝したのに反撃されたことが面白くないものと映ったようだ。8月29日付の書面で、2000万円の損害賠償請求金額は6000万円に跳ね上がった。その根拠とされたものが、第1弾と、第15弾の2本のブログ、第1弾の5個所と、第2弾の1個所が名誉毀損の表現部分だという。

http://article9.jp/wordpress/?p=3036(2014年7月13日)
いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾

http://article9.jp/wordpress/?p=3267 (2014年8月8日)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾

以上の経過で、損害賠償請求の根拠とされた私のブログは、合計2000万円相当の3本と、合計4000万円相当の2本となった。これを以下のとおり、再掲しておきたい。なお、赤字部分が名誉毀損表現として特定された文章である。

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「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

「徳洲会・猪瀬」5000万円問題が冷めやらぬうちに、「DHC・渡辺喜美」8億円問題が出てきた。2010年参院選の前に3億円、12年衆院選の前に5億円。さすが公党の党首、東京都知事よりも一桁上を行く。

私は、「猪瀬」問題に矮小化してはならないと思う。飽くまで「徳洲会・猪瀬」問題だ。この問題に世人が怒ったのは「政治が金で動かされる」ことへの拒否感からだ。「政治が金で買われること」のおぞましさからなのだ。政治家に金を出して利益をむさぼろうという輩と、汚い金をもらってスポンサーに尻尾を振るみっともない政治家と、両者をともに指弾しなければならない。この民衆の怒りは、実体法上の贈収賄としての訴追の要求となる。

「DHC・渡辺喜美」問題も同様だ。吉田嘉明なる男は、週刊新潮に得々と手記を書いているが、要するに自分の儲けのために、尻尾を振ってくれる矜持のない政治家を金で買ったのだ。ところが、せっかく餌をやったのに、自分の意のままにならないから切って捨てることにした。渡辺喜美のみっともなさもこの上ないが、DHC側のあくどさも相当なもの。両者への批判が必要だ。

もっとも、刑事的な犯罪性という点では「徳洲会・猪瀬」事件が、捜査の進展次第で容易に贈収賄の立件に結びつきやすい。「DHC・渡辺喜美」問題は、贈収賄の色彩がやや淡い。これは、知事(あるいは副知事)と国会議員との職務権限の特定性の差にある。しかし、徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。

DHCの吉田は、その手記で「私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した」旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。

もうひとつの問題として、政治資金、選挙資金、そして政治家の資産状況の透明性確保の要請がある。政治が金で動かされることのないよう、政治にまつわる金の動きを、世人の目に可視化して監視できるように制度設計はされている。その潜脱を許してはならない。

選挙に近接した時期の巨額資金の動きが、政治資金でも選挙資金でもない、などということはあり得ない。仮に真実そのとおりであるとすれば、渡辺嘉美は吉田嘉明から金員を詐取したことになる。

この世のすべての金の支出には、見返りの期待がつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの。上限金額を画した個人の献金だけが、民意を政治に反映する手段として許容される。企業の献金も、高額資産家の高額献金も、金で政治を歪めるものとして許されない。そして、金で政治を歪めることのないよう国民の監視の目が届くよう政治資金・選挙資金の流れの透明性を徹底しなければならない。

DHCの吉田嘉明も、みんなの渡辺喜美も、まずは沸騰した世論で徹底した批判にさらされねばならない。そして彼らがなぜ批判されるべきかを、掘り下げて明確にしよう。不平等なこの世の中で、格差を広げるための手段としての、金による政治の歪みをなくするために。
(2014年3月31日)

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「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

「ヨッシー日記」と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。そして、もう一点は、DHC吉田嘉明のやり口に触れているところ。こちらは、金を持つ者への政治家の諂いと、金で政治が歪められている実態の氷山の一角を見せてくれる。いずれにせよ、貴重な読み物である。

渡辺の法的弁明は、一読して相当に腹の立つ内容。おそらくは、弁護士の代筆が下敷きにある。「本件は法の取り締まりの対象とはならない」という挑戦的な姿勢。政治倫理や、政治資金の透明性の確保などへの配慮は微塵もない。要するに刑事制裁の対象となる違法はないよ、という開き直りである。法的に固く防御しているつもりで、政治的には却って墓穴を掘っている。

ここでの渡辺の「論法」は、「吉田嘉明から渡辺喜美が、みんなの党各候補者の選挙運動資金調達目的で金を借りたとしても、その借入を報告すべき制度上の義務はなく、法律違反の問題は生じない」ということに尽きる。謂わば、法の隙間の処罰不能な安全地帯にいるのだという宣言である。

もちろん、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」には違反している。この法律は、「(第1条)国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資することを目的とする。」として、政治家の資産と所得の公開を求めている。しかし、これには処罰規定がない。倫理の問題としては責められても、強制捜査も起訴も心配しなくて済む。

では、公職選挙法上の選挙運動資金収支として報告義務の違反にはならないか。渡辺は、「選挙資金として(渡辺から吉田に対する)融資の申し込みをしたというメールが存在すると報道がありました。たとえそれがホンモノであったとしても法律違反は生じません。」と開き直る。自分の選挙ではないからだ。報告義務を負うのは各候補者であり、各陣営の会計選任者だからということ。

では、政党の党首が選挙運動費用として党員候補者に使わせる目的で金を借りたら、その借入の事実を政治資金収支報告書に記載すべきではないか。これも、「党首が個人の活動に使った分は、政治資金規正法上、政治家個人には報告の義務はありません。そのような制度がないということです。個人財産は借金も含めて使用・収益・処分は自由にできるからです」とここでも開き直っている。

もっとも、渡辺がDHCの吉田から借りた金を、党の政治資金や候補者の選挙運動資金として貸し付ければ、その段階で、借り入れた側に、借入金として報告義務が生じる。この点はどうしても逃げ切れない。8億の金がどう流れたのか、調査の結果を待って辻褄が合うのかどうか検討を要する。

今の段階では、「一般的に、党首が選挙での躍進を願って活動資金を調達するのは当然のことです。一般論ですが、借り受けた資金は党への貸付金として選挙運動を含む党活動に使えます。その分は党の政治資金収支報告書に記載し、報告します。」という、開き直りでもあるが貴重な言質でもあるこの言葉を胸に納めておこう。

いずれにしても、みんなの党は総力をあげて渡辺の8億円の使途を追求しなければならない。でなければ、自浄能力のない政党として国民の批判に堪え得ず、全員沈没の憂き目をみることになるだろう。

興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。

それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。

たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。

同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。

サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。

大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。

これが、おそらくは氷山の一角なのだ。
(2014年4月2日)

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政治資金の動きはガラス張りでなければならない

本日(4月8日)の、朝日・毎日・東京・日経・読売・産経の主要各紙すべてが、みんなの党・渡辺喜美の党代表辞任を社説で取りあげている。標題を一覧するだけで、何を言わんとしているか察しがつく。

朝日新聞  渡辺氏の借金―辞任で落着とはならぬ
毎日新聞  渡辺代表辞任 不信に沈んだ個人商店
東京新聞  渡辺代表辞任 8億円使途解明を急げ
日本経済  党首辞任はけじめにならない
読売新聞  渡辺代表辞任 8億円の使い道がまだ不明だ
産経新聞  渡辺代表辞任 疑惑への説明責任は残る

各紙とも、「政治資金や選挙資金の流れには徹底した透明性が必要」を前提として、「渡辺の代表辞任は当然」としながら、「これで幕引きとしてはならない」、「事実関係とりわけ8億円の使途に徹底して切り込め」という内容。渡辺の弁解内容や、その弁明の不自然さについての指摘も共通。

毎日の「構造改革が旗印のはずだった同党だが最近は渡辺氏が主導し特定秘密保護法や集団的自衛権行使問題など自民党への急接近が目立ち、与党との対立軸もぼやけていた。いわゆる第三極勢自体の存在意義が問われている。」と指摘していること、東京が「『みんなの党は自慢じゃないけど、お金もない、組織もない、支援団体もない。でも、しがらみがない。だから思い切った改革プランを提示できる』と訴え、党勢を伸ばしてきた。党首が借入金とはいえ8億円もの巨資を使えるにもかかわらず、『お金がない』と清新さを訴えて支持を広げていたとしたら、有権者を欺いたことにならないか」と言及していることが、辛口として目立つ程度。これに対して、産経は「新執行部は渡辺氏にさらなる説明を促し「政治とカネ」の問題に率先して取り組み、出直しの第一歩にしてもらいたい」と第三極の立ち直りにエールを送る立ち場。

もの足りないのは、巨額の金を融通することで、みんなの党を陰で操っていたスポンサーに対する批判の言が見られないこと。政治を金で歪めてはならない。金をもつ者がその金の力で政治を自らの利益をはかるように誘導することを許してはならない。

DHCの吉田嘉明は、その許すべからざることをやったのだ。化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには、厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、「官僚と闘う」「官僚機構の打破」にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。

自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。

政治資金規正法違反の犯罪が成立するか否かについては、朝日の解説記事の中にある、「資金提供の方法が寄付か貸付金かは関係なく、『個人からのお金を政治資金として使うのであれば、すべて政治資金収支報告書に記載する必要がある』として、違法性が問われるべき」との考え方に賛意を表したい。

仮に、今回の「吉田・渡辺ケース」が政治資金規正法に抵触しないとしたら、それこそ法の不備である。政治献金については細かく規制に服するが、「政治貸金」の形となれば一切規制を免れてしまうことの不合理は明らかである。巨額の金がアンダーテーブルで政治家に手渡され、その金が選挙や党勢拡大にものを言っても、貸金であれば公開の必要がなくなるということは到底納得し得ない。明らかに法の趣旨に反する。ましてや本件では、最初の3億円の授受には借用証が作成されたが、2回目の5億円の授受には借用証がないというのだ。透明性の確保に関して、献金と貸金での取扱いに差を設けることの不合理は明らかではないか。

主要6紙がこぞって社説に掲げているとおり、事件の幕引きは許されない。まずは「みんなの党」内部での徹底した調査の結果を注視したい。その上で、国会(政倫審)や司法での追求が必要になるだろう。

政治と金の問題の追求は決しておろそかにしてはならない。
(2014年4月8日)

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いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾

当ブログは新しい報告シリーズを開始する。本日はその第1弾。
興味津々たる民事訴訟の進展をリアルタイムでお伝えしたい。なんと、私がその当事者なのだ。被告訴訟代理人ではなく、被告本人となったのはわが人生における初めての経験。

その訴訟の名称は、『DHCスラップ訴訟』。むろん、私が命名した。東京地裁民事24部に係属し、原告は株式会社ディーエイチシーとその代表者である吉田嘉明(敬称は省略)。そして、被告が私。DHCとその代表者が、私を訴えたのだ。請求額2000万円の名誉毀損損害賠償請求訴訟である。

私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。

DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。

私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。

http://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

http://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

http://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。

DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。

原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。

万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。

本来、司法は弱者のためにある。政治的・経済的弱者こそが、裁判所を権利侵害救済機関として必要としている。にもかかわらず、政治的・経済的弱者の司法へのアクセスには障害が大きく、真に必要な提訴をなしがたい現実がある。これに比して、経済的強者には司法へのアクセス障害はない。それどころか、不当な提訴の濫発が可能である。不当な提訴でも、高額請求訴訟の被告とされた側には大きな応訴の負担がのしかかることになる。スラップ訴訟とは、まさしくそのような効果を狙っての提訴にほかならない。

このような訴訟が効を奏するようでは世も末である。決して『DHCスラップ訴訟』を許してはならない。

応訴の弁護団をつくっていただくよう呼びかけたところ、現在77人の弁護士に参加の申し出をいただいており、さらに多くの方の参集が見込まれている。複数の研究者のご援助もいただいており、スラップ訴訟対応のモデル事例を作りたいと思っている。

本件には、いくつもの重要で興味深い論点がある。本日を第1弾として、当ブログで順次各論点を掘り下げて報告していきたい。ご期待をいただきたい。

なお、東京地裁に提訴された本件の事実上の第1回口頭弁論は、8月20日(水)の午前10時30分に開かれる。私も意見陳述を予定している。

是非とも、多くの皆様に日本国憲法の側に立って、ご支援をお願い申しあげたい。「DHCスラップ訴訟を許さない」と声を上げていただきたい。
(2014年7月13日)
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「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾

政治資金規正法は、1948年に制定された。主として政治家や政治団体が取り扱う政治資金を規正しているが、政治資金を拠出する一般人も規正の対象となりうる。政治資金についての規正が必要なのは、民主主義における政治過程が、カネで歪められてはならないからだ。

政治資金規正法第1条が、やや長めに法の目的を次のとおり宣言している。
「この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。」

立派な目的ではないか。これがザル法であってはならない。これをザル法とする解釈に与してもならない。カネで政治を歪めることを許してはならない。

改めて仔細に読み直すと、うなずくべきことが多々ある。とりわけ、「議会制民主政治の下」では、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」と述べていることには、我が意を得たりという思いだ。

キーワードは、「国民の不断の監視と批判」である。法は、国民に政治家や政権への賛同を求めていない、暖かい目で見守るよう期待もしていない。主権者国民は、政党・政治団体・公職の候補者・すべての議員への、絶えざる監視と批判を心掛けなければならない。当然のことながら、政治家にカネを与えて政治をカネで動かそうという輩にも、である。

砕いて言えば、「カネの面から民主主義を守ろう」というのが、この法律の趣旨なのだ。「政治とカネの関係を国民の目に見えるよう透明性を確保する。金持ちが政治をカネで歪めることができないように規正もする。けれども、結局は国民がしっかりと目を光らせて、監視と批判をしてないと民主主義の健全な発展はできないよ」と言っているのだ。

「政治資金収支の公開」と「政治資金授受の規正」が2本の柱だ。なによりもすべての政治資金を「表金」としてその流れを公開させることが大前提。「裏金」の授受を禁止し、政治資金の流れの透明性を徹底することによって、カネの力による民主主義政治過程の歪みを防止することを目的としている。

今私は、政治とカネの関係について、当ブログに何本もの辛口の記事を書いた。そのうちの3本が名誉毀損に当たるとして、2000万円の損害賠償請求訴訟の被告とされている。私を訴えたのは、株式会社DHCとその代表者吉田嘉明である。

どんな罵詈雑言が2000万円の賠償の根拠とされたのか、興味のある方もおられよう。下記3本のブログをご覧いただきたい。

http://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

http://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

http://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」とする批判を内容とするものである。

私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。

事実上の有権解釈を示している、『逐条解説 政治資金規正法〔第2次改訂版〕』(ぎょうせい・2002年)88頁は、法の透明性の確保の理念について、「いわば隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」と解説している。

にもかかわらず、3億円、5億円という巨額な裏金の授受を規正できないとする法の解釈は、政治資金規正法をザル法に貶めることにほかならない。

この透明性を欠いた巨額カネの流れを、監視し批判の声を挙げた私は、主権者として期待される働きをしたのだ。逆ギレて私を提訴するとは、石流れ木の葉が沈むに等しい。これが、スラップなのだ。明らかに間違っている。

憲法と政治資金規正法の理念から見て、恥ずべきは原告らの側である。本件提訴は、それ自体が甚だしい訴権の濫用として、直ちに却下されなければならない。(2014年8月8日)

 

私に「6000万円支払え」と訴訟を提起した根拠が、以上のブログ記事である。これを違法として「6000万円支払え」と請求した人物が、DHCの吉田嘉明。そして、弁護士今村憲が、「その提訴は却ってあなたの不名誉になるから止めなさい」とアドバイスすることなく、代理人として提訴した。読者諸賢の読後感はいかがだろうか。

問題は2段階ある。まずは、私のこの内容の言論が違法とされてよいのか、ということ。そして、この内容の言論を違法として提訴し、表現者に応訴の負担をかけることが許されてよいのか、ということ。

 私は、自分の記事を読み直して、いずれの記事も正鵠を射たものであると確信する。私は、民主主義社会の主権者の一人として、なすべき正統な言論を表明したのだ。DHC・吉田嘉明のスラップ提訴の違法と悪質さについて、改めて憤りを深くしている。

 

 

 

仏教者としての信念から、死刑執行をしなかった法務大臣がいた。

(2021年1月12日)
左藤恵さんが亡くなった。享年96と報じられている。保守の政治家ではあったが、私にとっては気になる人だった。

この人、もとは郵政官僚だったが、1969年に中選挙区時代の旧大阪6区から自民党公認で立候補して当選。以来10期連続して当選を続けた。地盤が、私に土地勘のある天王寺・阿倍野・住吉という大阪市南部であったことから、手強い保守陣営の敵という思い込みだった。が、この人が法務大臣となって印象が変わった。

周知のとおり法務大臣は死刑執行を命じる。法務大臣の執行命令なしには、死刑執行はない。ところが、この人は真宗大谷派の僧侶でもあった。仏の戒め給ふ殺生戒という戒律を守るべき宗教者なのだ。山川草木悉皆仏性、この世に生を受けたもの全ての命は尊ばれるべきが当然で、その命を奪ってはならない。ましてや死刑という名の殺人は、仏教者としての戒律に反する。

言わば、ここに義務の衝突が生じた。法務大臣としての職務上の死刑執行義務と、自らが信じる宗教的信念が命じる不殺生の戒律との葛藤である。

この人が、第2次海部改造内閣で法相を務めたのが、1990年12月~91年11月のおよそ1年間。その在任期間中に死刑執行命令書への署名をせず、この間死刑は行われなかった。「人が人の命を絶つことは許されない」との宗教的信念によるものと報じられていた。

「そのような信念を持つ者に、法務大臣の任はふさわしくない。辞令を受けるべきではなかった」という意見は、当然にあるだろう。しかし、この人は死刑制度存続の是非を問いたいと、問題提起の意図をもって敢えて法務大臣職を拝命したのだ。そして、自らの宗教的信念を貫いた。

この人の信仰を理由とする死刑不執行は、神戸高専剣道実技拒否事件を想起させる。エホバの証人信者であった高専生は、宗教上の信念から剣道実技の授業を拒否し、遂には退学処分となった。最高裁は、真摯な宗教的動機による剣道実技授業の拒否を理由とする退学処分を違法と判断した。一定の条件あることは当然として、信仰の自由という人格的利益を擁護した。

また、この法務大臣の信仰を理由とする死刑不執行は、ピアノ伴奏命令拒否事件を想起させる。戦前の歴史において、軍国主義教育に「日の丸・君が代」が果たした役割に鑑み、自分の思想と良心に懸けて「君が代」伴奏はできないとした音楽科教員がいた。この思想・良心に基づいた君が代斉唱の伴奏命令拒否を理由とする戒告処分の違憲・違法が争われた事件で、この教員は敗訴している。これは、大きな憲法課題である。

思想・良心・信仰を理由とする義務不履行の制裁を甘受せざるを得ない立場の者には、かつて、宗教上の信念からその期間中死刑不執行を貫いた法務大臣がいたことを心に留めておきたい。

左藤恵は、法務大臣退任後は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を務めるなどして、死刑廃止を訴えた。政界引退後は、大阪弁護士会に登録した弁護士だったが、年が明けた1月9日、慢性心不全のため逝去。合掌。

石田和外、睦仁の教えを守り抜いた守旧の人。

(2021年1月1日)
年が変わった。しかし、「おめでとう」などという気分にはなれない2021年の年頭である。

去年今年を貫いているものは、内外ともに猖獗収まらぬコロナ禍、そして安倍から菅へと続く邪悪な政権。加えて、東京五輪強行という愚策というところ。

とはいうものの、今日の東京はこの上ない好天。空は飽くまでも青く澄み、風はない。散り敷いた落ち葉の黄や赤の色が鮮やかである。コロナ禍がウソのよう。

不忍池には氷が張り、遊歩道には霜が降りていた。インバウンドはなく、行き交う人は少ない。静かな中に、雀の群がかしましい。東京の風景も捨てたものではない。

例のごとく、五條天神で今月の「生命の言葉」を見る。新たに掲示されているのは、明治天皇(睦仁)の次の歌。

 あらし吹く世にも動くな人ごころ いはほに根ざす松のごとくに

御製というものは、御製であるというそのことだけで感興を殺ぐつまらぬものだが、とりわけこういう「上から目線教訓歌」には、虫酸が走る。どうせ不愉快に決まっているのだから、わざわざ掲示を読みに行くこともないのだが、「恐いもの見たさ」「つまらぬもの見たさ」という、不条理な誘惑に勝てない。

さて、いったい何だ? この歌は?

一見すれば、「たとえ、どのように嵐が吹きすさぶ、はげしい世の中の変動に会っても、巌の上に、どっしりと根を張っている松の木のように、しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません。」という、昔あちこちにいた偏屈なじいさまのタワゴトのごとくではある。

しかし、これが「明治天皇御製(明治37年)」となると偏屈なじいさまのタワゴトでは済まない。明治37年とは1904年、日露開戦の年である。この歌が詠まれたのが、その年の何月であるかは知らないが、戦争と無関係ではあり得ない。

睦仁は、上から目線で臣民に対して教訓を垂れているのだ。「動くな 人ごころ」とは、決して「しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません」などと、一般論を述べているのではない。「臣民たちよ。朕に対する忠誠の気持を揺るがせてはならない。その忠誠心をもって、この危急の時にロシアに対する闘争心を研ぎ澄ませ続けなければならない」と煽っている。そう、読むべきであろう。でなければ、気の抜けたサイダーのごとき、詠むにも聴くにも値しない意味のない駄歌・駄文に過ぎない。

もう一つ、思い出すことがある。1969年1月、かの石田和外が、5代目の最高裁長官になったときのメッセージ。彼は、こう言ったのだ。

 「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」

睦仁の歌での「吹く嵐に動かない、巖に根ざす松」が、「激流のなかに毅然とたつ、巌」となっているが、案外、和外の言葉は、この睦仁の歌を下敷きにしたものではなかったか。石田和外は、戦前だけでなく戦後も、時代錯誤の天皇崇拝者であったことで知られる。

この石田和外の言の表面を読んで、彼を「司法の独立」の擁護者と誤解してはならない。当時、戦後民主主義の結実として澎湃たる労働運動・平和運動・市民運動・学生運動等々が昂揚していた。この運動を押さえ込んで旧来の秩序を守ろうとする陣営との熾烈な軋轢が事件化し、種々の裁判闘争を生んでいた。そして、時代の潮流は裁判官をも巻き込みつつあった。これに歯止めを掛けたのが、骨の髄までの旧秩序派であり、天皇主義者でもあった、反動石田和外である。

彼の言葉は、こう読まねばならない。「日本の裁判官は今、日本国憲法の理念に忠実に人権や民主主義を守れという国民の声の激流のなかにある。しかし、それに押し流されてはならない。裁判官は、民主主義昂揚の潮流の中に毅然とたつ巌のような姿勢で、それを押しとどめ、これまでどおり自民党や財界や皇室などの厚い信頼をつながねばならない」

そして、彼はその言のとおり、司法の内部をパージしたのだ。石田和外、戦前の治安維持法裁判官であったが、戦後も実は何も変わらなかった。大日本帝国憲法下から日本国憲法に変わった世にあっても、睦仁の「あらし吹く世にも動くな人ごころ」という教えを守り抜いたのだ。「いはほに根ざす松のごとく」である。

今年も、多難な年になりそうだが、また1年このブログを書き続けたいと思う。

宮地義亮が記録した ー23期司法修習生阪口徳雄君の罷免から 再採用までー

(2020年12月18日)
宮地義亮という熱血漢がいた。早稲田を出て都庁に入り、その後司法試験に合格して23期の司法修習生となった。私と、同期・同クラス、実務修習地(東京)と班まで同じだった。それだけでなく、「青年法律家協会」や、同期で作った「任官拒否を許さぬ会」の活動をともにした。私よりは7才年長だが、気の合った間柄だった。その宮地義亮が、青年法律家協会の機関紙に掲載した、「あの日から2年 ー 阪口君の罷免から 再採用まで」のドキュメントをお読みいただきたい。

1971年4月5日、23期修習修了式当日の夕刻、阪口徳雄君は修習生罷免となり、2年後の1973年1月31日最高裁は彼の再採用を決定した。いったい何があったのか、どのようにして資格回復が実現したのか。最高裁の体質とはいかなるものか。「準当事者」としての立場で、当時弁護士になっていた宮地が綴っている。阪口君の修習生としての資格回復の1週間後に書かれたもので、当時の同期の心情をよく表している貴重な記録である。

23期の司法修習生集団は、権力機構としての最高裁当局、なかんずく司法官僚の頭目・石田和外とたたかった。その最前線に立った阪口徳雄君は、報復措置としての苛酷な罷免処分を受けた。阪口君の資格回復は、最高裁批判で盛り上がった国民運動の成果であったが、2年の期間を要した。

なお、ここで描かれている青法協裁判官任官拒否事件は、いま生々しい学術会議の任命拒否によく似ている。いずれも、不公正極まる採用人事を通じてトップの権力を誇示し、組織全体を萎縮せしめる手口なのだ。

この文章を書いた宮地義亮は、その後享年40で早逝している。悔やまれてならない。

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「青年法律家」1973年2月15日号 
 ◇ドキュメント◇あの日から2年ー阪口君の罷免から再採用までー

23期 宮地義亮(73・2・8記)

◇来なかった電報◇
2年前の(1971年)3月30日は23期の裁判官志望者たちにとって長い一日だった。
この日のうちに裁判官採用の決定を知らせる電報が届くことになっていた。
しかし夜がふけ、やがて朝が白みはじめてもついに待ち望んだ電報が届けられなかった人たちがいた。青年法律家協会の会員6人と「任官拒否を許さぬ会」の会員1名とである。
いずれも裁判官としてのすぐれた資質、豊かな憲法感覚、青年らしい正義感、信念にもとずいて行動する勇気をもちあわせていた。それ故にこそ、最高裁は彼らに対してその扉を開こうはしなかったのである。

◇冷たい最高裁の扉◇
こうした不採用決定は青法協への加入や任官拒否反対運動への参加という不当な理由によるものと疑がえる十分な状況にあった。その理由をただすため不採用者とともに、採用になった数十名の人たちが、場合によってはその採用決定を取り消されるかも知れない不利益をもかえりみず、不採用の「理由」をただすため最高裁に出むいたが2度も相手にされず追い返されてしまった。

◇残された唯一の機会◇
急をきいて帰省先より修習生が続々と上京してきた。いたるところで熱っぽいクラス討論が行なわれ、「終了式が最高裁および研修所に任官拒否の理由を公的にただす唯一の残された機会だ」ということで一致していった。
かくして彼らはクラス委員長の阪口君にその使命を託したのである。

◇運命の4月5日◇
式場にあてられた研修所の大講堂の雰囲気は例年と全く異なっていた。式次第も掲示されず、式場としての飾りつけもなく最高裁長官などの来賓の招待も取りやめになっていた。研修所側の判断は修習生の怒りを正当に(?)評価して式中止に傾いていた。だがこのことに気づいた者はいなかった。

◇誰一人制止する者なくあらしの拍手のなかで=500人の目撃者◇
守田所長が式辞をのべようと登壇したときだった。阪口君が式場のほぼ中央の自席から挙手し起立した。
同時にあらしのような拍手が式場を埋めた。
所長が手を耳にあてて聞えないというしぐさをしたので、誰かが「前にでろ」というと拍手は一段とました。彼は1瞬ためらったが拍手の波に押しだされるように前にすすみで所長に向って2度3度と礼をした。また誰かが「きこえないからマイクで話せ!」とさけんだ。
不思議なことに式場には前方に50名からの教官と事務局員10数名が席を占めていたが誰一人として彼の前進を阻む者もその行動を制止しょうとする者もいなかった。加えて、所長はにこやかな微笑(えみ)さえうかべて彼に対応した。こうした許容の状況のなかで彼は一礼して静かにマイクをとり、くるりと向きをかえて所長に背を向けた形で、「今日の喜ぶべき日に悲しむべき7人の不採用…その理由につき10分間釈明のため発言する機会を与えてあげてほしい。……」
所長はすでに演壇をおりて自席にもどっていた。
1分15秒が経過した。
突然中島事務局長が「終了式を終了しまーす」と落着いた口調で宣言した。
教官たちも一斎に席を立って退場しょうと出口に向かっだ。
誰かが「ワナにかかった!」と叫んだ。あまりにも唐突な終了宣言という卑怯なやり方に憤激した数名の修習生が事務局長につめより、これを制止しようとするクラス委員たち、取材の記者、カメラマン、退席しようとする教官などの間に混乱が起った。こうして500人の目撃者の前で、研修所は自らの手で式を混乱に陥入れたのである。

◇強権の発動◇
その日のうちに、緊急の最高裁裁判官会議が開かれ阪口君の罷免処分が決定された。
夜8時半大講堂で待機していた修習生の前で気丈にも彼は涙一つこぼさず罷免の辞令を一気に読み上げた。「罷免!」ということばが大講堂の静寂を破ってすみずみにゆき渡ったとき、彼のそばにいた一人の修習生が「阪口!」と悲痛な叫び声をあげて、阪口君をしっかりと抱きしめた。それは任官拒否を許さないたたかいを1年有余にわたって共にしてきた友をいとおしむ抱擁であった。

◇国民の良識は最高裁を許さなかった◇
最高裁に対する国民の批判はきびしかった。処分の苛酷さはもとよりのこと、教官会議の「罷免に値しない」という多数意見を無視し、一言の弁明の機会も与えることなく、何が何んでも彼に制裁を加えようと自ら終了式の終了を宣言しておきながら、当日の夜の0時までは修習生の身分ありとする狡猾な論法をあやつり、しかも間違った事実認定をもとに…。
4月13日衆議院法務委員会で最高裁の矢ロ人事局長は「制止をきかず約10分間混乱させ式を続行不能にした」と説明し、500人の目撃者に挑戦した(あとで訂正を余議なくされることになったが…)ーーその夜のうちに処分を決定してしまったのだから、国民がこの不当から違法なスピード判決にただあ然とし、非難を集中して、良識の健在を示したのは当然といえば当然であった。

◇北から南へかけめぐる◇
阪口君のもとには全国からおびただしい数の激励電報電話、手紙がよせられた。団地の主婦、工場で慟く労働者、学生、サラリーマンETC。
こうした国民の反響は阪ロ君への実情報告の要請になってあらわれた。彼はびっしり詰ったスケジュールをやりくりして、それらの1つ1つに誠実に応えていった。あるときは1000名をこえる聴衆を前に講演をしあるときは4、5人とお茶をのみながら夜半に及ぶことさえあった。
こうした北から南への列車をのりついでの報告の旅は各地で大きな共感をよんでいった。
裁判所のあり方がこれほど国民の間で語られ、現実の生活とのかかわり合いをひとりひとりが感じたことがかってあっただろうか。
好漢阪口も聴衆の拍手が鳴りやんで、ひとり津軽海峡をわたる青函連絡船のデッキにたたずみふと郷里の老いた母のことや、同期の仲間が弁護士として第一線で活躍していることをおもい一まつの淋しさがよぎることもあった。
こうしたさまざまな哀歓を伴ないながら、36都道県をかけめぐり約10万の人々にことの真相を伝えていった。

◇法曹界のなかでも◇
46年5月8日日弁連は臨時総会において、阪口君の処分につき「不当かつ苛酷なものであり断じて容認できない」旨の決議を圧倒的多数で可決した。
次いで47年2月「阪口徳雄君を守る法曹の会」が創立され、長老から若手まで約1000名の弁護士が参加し「法曹資格」実現への大きな足がかりができた。
同年4月10日には23期の弁護士の九0%をこえる352名の署名が全国からよせられ「阪ロ君の法曹資格を回復させよ」という趣旨の要望書を最高裁に提出した。

◇ゆらぐ赤レンガの巨塔◇
こうした法曹内外の阪口君に対する熱い共感や暖かな支援と最高裁に対する不信で最高裁の権威は大きくゆらぎはじめていた。
国民からの信頼を失ったとき最高裁の存在価値は急速に低下していかざるを得なない。とくに事実認定の重大な誤りはおおうべくもなく、最高裁の最大の弱点でありアキレス腱とさえなっていった。

◇選択◇
こうした状況のなかで彼を1日も早く弁護士にという声は、同期生をはじめ先輩弁護士、国民の間に急速に広がり高まっていった世論であった。
訴訟の提起、弁護士会への登録という回復方法についてはもとより真剣な検討が行なわれた。
しかし一日も早く法曹資格を実現するという目標にてらし、いずれも非現実的ななものであった。
こうしたなかで浮び上ってきたのが「再採用」の道だった。
最高裁が「懲戒」罷免した者を再採用した先例はないがこれをさせるという方法の選択であった。最高裁は厳しい国民的批判と、運動の広がりにつつまれ、失墜した権威と信頼を何とか回復しようと腐心する一方、このまま切り捨て御免にしてしまおうとの冷酷な姿勢との間を往き来しているような形跡がみられた。
そうした権力側の自己矛盾のなかに解決のカギが秘められていた。
彼は多くの同僚先輩の説得と最後には彼自身の選択において、一日も早く法曹資格を得、真に国民の立場に立つ法律家としての役割に積極的意義を認め、再採用の道をえらんだのである。
かくして昭和47年7月小池金市弁護士の事務所に入り法律実務の研さんを積むこととなった。来るべき日にそなえて……。

◇国民審査の結果、最高裁に大きな衝撃◇
国民の最高裁に対する批判は国民審査のなかに確実にあらわれ、最高裁に大きな危機感を与えた。
司法の反勧化を許さず、民主主義を守る国民運動のうねりは衆議院総選挙にも反映し、法務委員会での鋭い追及という不吉な予感が最高裁を支配しはじめていた。

◇再採用決定!◇
 1月31日、最高裁裁判官会議は阪口君の再採用を決定した。阪口君の「上申書」とひきかえに。
 それは礼儀作法についての反省にとどまり、その背景にある思想、信条、それにもとずく行動という、「聖域」に権力がふみことを許さなかった。
 そして最高裁に「再採用」(罷免処分という自己決定の否定)という大きな譲歩を余儀なくさせ、法曹資格獲得への大きな1歩を切り開いた。かくて権力との和解という儀式のなかでわれわれは、彼らに形ばかりの名を与え大きな果実を手にすることができたのである。

司法の独立を確立するために、最高裁裁判官人事の透明化を。

(2020年12月9日)
「トランプ氏、ペンシルベニア州で敗北確定 米最高裁が訴えを棄却」という記事が踊っている。今回の大統領選挙では天王山となった激戦州ペンシルベニア(選挙人数20人、全米5番目)での選挙争訟に決着が付けられたということだ。

悪あがきというほかはない、ここまでのトランプの醜態。大統領選挙の敗北を認めがたく、あきらめの悪い訴訟を濫発してきた。その数30件に及ぶというが、連戦連敗で疾っくに勝ち目のないことは明らかになっている。それでも、連邦最高裁に持ち込めば、自分が任命した保守派の判事が逆転の判決を書いてくれるのではないか…、という一縷の望みもここに来て断ちきられた。往生際の悪いトランプも、自らが選任した保守派の判事に引導を渡されたかたち。もうお終いなのだ。

アメリカは連邦制の合衆国、訴訟の審級制は分かりにくい。ペンシルベニア州の最高裁での判決を不服として、トランプ陣営が連邦最高裁に申し立てた上訴が、12月8日あっけなく棄却となった。上訴の申し立て手続が完了した直後の棄却決定だったとほうじられている。反対意見のない9裁判官全員一致の判断。そして、この決定は理由の説示もない三くだり半。トランプの悪あがきに対するトドメに、いかにもふさわしい。

この訴えは、「大統領選をめぐってペンシルベニア州の共和党議員らが、開票集計結果の認定差し止めを求めた」もの(CNN)だったようだ。所定の期日までに、各州が開票集計結果を認定する。認定されれば確定して、それ以後は争うことができなくなるという制度なのだという。そのデッドラインが12月8日。それまでに、差し止めの判決を得なければトランプの選挙の敗北が確定することになる。結局、トランプの訴訟戦術は失敗したことになる。

この訴訟で、トラプ陣営が差し止めの根拠としたものは、選挙の不正ではなく、「郵便投票は無効」という手続の定めを争うものだった。ペンシルベニア州の地裁から、同州の最高裁まで争い、さらに連邦最高裁にまで上訴したもの。

この訴訟とは別に、最初から連邦地裁に訴えた訴訟もあったようだ。トランプ陣営は、「バイデン側に詐欺があって私たちが勝っていた」「バイデンが8000万票も獲得するはずはない」などと訴えた。が、ペンシルベニアの連邦地裁は11月21日、不正を訴える陣営の主張を「法的根拠のない推測」と一蹴。「『フランケンシュタインの怪物』のように場当たり的に縫い合わされたもの」とまで非難したという。陣営は控訴したが、連邦高裁もトランプ政権で任命された判事らがわずか数日で棄却した。

さて、問題は連邦最高裁裁判官の人事にある。トランプ劣勢とみられていた大統領選の直前、たまたまリベラル派の最高裁判事ギンズバーグが死亡した。トランプは、その後任に保守派のバレットを押し込んだのだ。露骨にジコチュウ剥き出しの大統領選対策である。これで、全9人の判事のうち保守派6人とし、選挙後に法廷闘争に持ち込んだ際に有利な最高裁を作ったのだ。

このとき、営々と築かれてきた米国の司法の権威は、国民の信頼を失って大きく傷ついた。連邦最高裁は、公正でも中立でも政治勢力から独立してもいない。司法の姿勢は政治的な思惑で左右されることを、国民は知ってしまった。今回の選挙争訟で、仮にも連邦最高裁がトランプの意向を忖度するようなことをしていたら、司法の権威についた傷が致命傷となるところだった。連邦最高裁の威信は、大きく傷つきながらも、かろうじて最悪の事態は免れたと言えよう。

一方、香港である。裁判所に毅然としたところがない。香港の高等法院(高裁)は9日、無許可のデモを組織して扇動した罪に問われ一審で禁錮10月の実刑判決を受けた民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)の控訴にともなう保釈申請を却下した。その理由として、裁判官は「警察本部を包囲した行為は重大だ」と判断したという。これは信じがたい。犯罪行為の違法性の大小や、重大性は判決の量定において考えるべきこと。今問題となるのは、証拠隠滅と逃亡の恐れの有無ではないか。要するに、裁判所は中国の威光を恐れ、中国におもねって、周庭に判決確定前に制裁を科しているのだ。

米国の司法の独立は、露骨な裁判官の任命人事で揺れている。香港の場合は、裁判所全体が中国の意向に逆らえない。質もレベルも格段の差はあるが、両者とも司法の独立は不十分と言わざるを得ない。その両者の中間当たりに、日本の司法の基本性格があり、最高裁裁判官任命問題があろうか。現在の最高裁裁判官15名の全員が、嘘と誤魔化しで国政を私物化してきた安倍晋三の政権の任命によるものとなっている。それ自体で、最高裁の権威は薄弱となっている。最高裁裁判官任命手続、とりわけ推薦手続を、納得できる合理的なものとし透明化しなければならない。それこそ、法の支配、立憲主義、民主主義と人権擁護の第一歩である。

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