澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

第49回司法制度研究集会 ― 「国策に加担する司法を問う」

本日(11月17日)は、日本民主法律家協会が主催する第49回司法制度研究集会。テーマは、「国策に加担する司法を問う」である。

独立した司法部存在の意義は、何よりも立法部・行政部に対する批判の権限にある。立法部・行政部の活動が憲法の定めを逸脱し国民の人権を侵害するに至ったときには遠慮なくこれを指摘し、批判して国民の人権を救済しなければならない。たとえ、国策の遂行に対してでも、司法が違憲・違法の指摘を躊躇してはならない。当然のことだ。

それが、「国策に絡めとられる司法」「国策に加担する司法」とは、いったいどうしたことだ。日本の司法は、そう指摘されるまでに落ちぶれたのか。

われわれは、違憲審査権行使をためらう裁判所の司法消極主義を長く批判し続けてきた。「逃げるな最高裁」「違憲判断をためらうな」「憲法判断を回避するな」と言って来たのだ。

ところが、最近の判決では、司法部が積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。言わば、「人権侵害に目をつぶり国策遂行に加担する司法」の実態があるのではないか。これは社会の根幹を揺るがす重大な事態である。

冒頭、右崎正博・日民協理事長の開会の挨拶が、問題意識を明瞭に述べている。

これまでの長期保守政権下における裁判官人事を通じて、行政に追随する司法という体質が形成された。その結果として、国策を批判しない司法消極主義が問題とされてきた。しかし、昨今の幾つかの重要判決は、むしろ政権の国策に積極的に加担する司法の姿を示しているのではないか。

国策は民主主義原理によって支えられているが、民主主義原理の限界を画するものが立憲主義の原理、すなわち人権という価値の優越である。日本国憲法は、民主主義原理と立憲主義とのバランスの上に成立している。そのような憲法のもとで、はたして現実の司法は日本国憲法の理念を実現しえているのか。

この問題意識を受けての基調報告が、岡田正則氏(早稲田大学・行政法)。「国策と裁判所―『行政訴訟の機能不全』の歴史的背景と今後の課題」と題する講演。そして、国策に加担した訴訟の典型例として、沖縄・辺野古訴訟と原発差し止め請求訴訟の2分野からの問題提起報告。「国策にお墨付きを与える司法─辺野古埋立承認取消訴訟を闘って」と題して沖縄弁護士会の加藤裕氏と、「大飯原発差止訴訟から考える司法の役割と裁判官の責任」と題する樋口英明氏(元裁判官)の各報告。その詳細は、「法と民主主義・12月号」(12月下旬発行)をお読みいただきたい。いずれの報告も、有益で充実したものだった。参加者の満足度は高かったが、同時に現実を突きつけられて暗澹たる気持にもならざるを得ない。

たいへん興味深かったのは、辺野古弁護団の加藤さんと、大飯原発差止認容の判決を言い渡した樋口さんの語り口が対照的だったこと。淀みなく明晰で理詰めの語り口の加藤さんと、人柄が滲み出た穏やかな話しぶりの樋口さん。鋭い切れ味の加藤さんと、抗いようのない重い説得力の樋口さん。加藤さんは沖縄の民意を蹂躙する政権の国策に加担した判決を糺弾する。樋口さんは国策加担という言葉を使わないが、誰にもそのことが分かる。お二人の話しぶりの対比を聴くだけても、今日の集会に参加の甲斐はあった。

私は樋口さんには初めてお目にかかった。この人なら、当事者の言い分に耳を傾けてくれるだろうという、裁判官にとっての最も必要な雰囲気を持っている。その樋口報告は、私が理解した限りで次のようなものだった。

3・11福島第1原発事故後の原発差し止め訴訟では、認容判決は私が関わったものを含めて2件しかない。棄却判決は十指に余る。「どうして原発差し止めを」と聞かれるが、原発は危険で恐い物だという思いがまずある。差し止めを認めなかった裁判官に、「どうして恐くないのか」聞いてみたい。

また、自分の頭で考えれば当然にこの危険な物の差し止めの結論となるはず。自分の頭で考えず、先例に当てはめようという考え方だから差し止め請求棄却の結論になるのではないか。

危険とは(1)危険が顕在化したときの被害の大きさ
    (2)被害が生じる確率
の2面で測られ、通常この2面は反比例する。一方が大きければ他方が小さい。ところが、原発は両方とも大きい。

原発事故の桁外れの被害の大きさは福島第1原発事故で実証されている。普通、事故の機械は運転を止めれば被害の拡大を阻止できるが、原発はそうはいかない。「止める⇒冷やす⇒閉じ込める」が不可欠で、福島の6基の事故ではそれができなかった。だから、福島第1原発事故の被害があの程度で済んだのは、いくつもの好運の偶然が重なった結果に過ぎない。その僥倖の一つでも欠けていれば、首都東京も避難区域に入っていたはずなのだ。

また、原発事故が起こり被害が生じる確率はきわめて高い。そもそも、基準地震動を何ガルに設定するか極めて根拠が薄い。地震学は未成熟な学問分野というべきで地震予測の成功例はない。気象学に比較してデータの集積もごく僅少に過ぎない。しかも、原発の規準地震動は、通常の木造家屋よりも遙かに低い。その設計において耐震性は犠牲にされている。それが、世界の地震の巣といわれる危うい日本の地層の上にある。

差し止め認容判決の障害は行政裁量といわれるが、既に日光太郎杉事件判決(東京高判1973 年)で十分な批判がなされている。自分の頭でものを考えれば、人格権に基づく原発差し止めも同様の結論になるはず。

会場からは、「日の丸・君が代」強制問題原告からの訴えもあった。これも国策だ。しかも軍隊の匂いがする国策の強制。自分の頭でものを考えず、先例追随のコピペ判決裁判官が、国策加担判決を積み重ねている。「先例追随主義」と「国策加担」とは紙一重というべきものなのだろう。

あらためて思う。事態は深刻である。
(2018年11月17日)

私に法曹としての生き方を教えてくれた、反面教師・石田和外

岡口基一裁判官を被申立人とする分限裁判に関して、東京新聞(「こちら特報部」)からコメントを求められた。
私にコメントを求めてくるのだから「その姿勢や良し」なのだが、若い記者に話しをしていて、こちらは共通の事実認識という思い込みが、実はそうでもないことに気がついた。1970年代初めに、司法の独立を守ろうという幅の広い市民運動ないしは民主主義運動があったことが共通の認識になっていない。だから、話しが長くならざるを得ない。

私は、1971年に司法修習を終えて弁護士になった。当時の最高裁長官が石田和外。「ミスター最高裁長官」(在任1969年1月11日~1973年5月19日)といわれた男。その名前を聞くだけで、いまだにアドレナリンの噴出を意識せざるを得ない。血圧も上がってくる。

この男、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。その象徴的人事が宮本康昭裁判官(13期)の再任拒否てあり、私と同期(23期)修習生の裁判官志望者7名の任官拒否であつた。さらに、最高裁は、これに抗議した阪口徳雄・司法修習生を罷免した。

司法行政がその人事権を行使して第一線の裁判官を統制し、その統制を通じて判決内容を後退させようという意図が目に見えていた。「憲法を守ろう、平和と人権を守ろう」という青年法律家協会に対する攻撃は、自民党(田中角栄幹事長)から始まり、続いた右翼メデイアに、司法行政当局が呼応したものだった。石田和外は、青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。

石田和外が青年法律家協会攻撃に使った「理論的な武器」が、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」というもの。いったい、裁判官に求められる、「中立公正」「中立公正らしさ」とはなにかという論争が巻きおこったが、はしなくも彼自らが決着をつけた。

何と彼は定年退官後に新設された「英霊をまもる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。

もうひとり、定年退官後に公然と右翼活動に邁進した最高裁長官がいる。三好達(在任1995年11月7日 ~ 1997年10月30日)。彼は、2001年から2015年まで、あの「日本会議」会長の任に就いている。言わば、右翼の総元締めである。退任後、現在はその名誉会長。そして、靖国神社崇敬者総代でもある。最高裁とはこんな所だ。最高裁のいう「公正中立」の内実はこんなものなのだ。

当時20代の私は、最高裁当局という権力と対峙していることを肌に感じ、怒りに震えた。当時の多くの同期の法曹が同じ思いだったと思う。私は、学生運動の経験者ではない。修習生運動の中で、反権力の立場で法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を教えてくれたとも言える。石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

**************************************************************************
下記は、先月ある学習会で語る機会あって、作ったレジメである。目を通していただけたら、だいたいのところをお分かりいただけるのではないか。

                                  友愛政治塾講義レジメ 弁護士 澤藤統一郎

      「裁判を通した司法制度の問題点」・体験的司法制度論

第1 権力構造における司法の位置
 1 建前としての司法の役割
   (1) 権力の分立
           立法・行政とのチェック&バランス
      権力抑制のための分立というだけでなく、
      法の支配(法治主義)を前提とした政治・行政のサイクル
   (2) 人権救済を本来の使命とする司法
      「天賦人権」という根本価値の擁護
      司法・行政から独立して、これをチェックする役割
 2 所詮は国家権力機構の一部という本質(実態)
    国家権力からの支配・介入
    常にある社会的圧力
第2 司法の独立とその限界
 1 司法は独立していなければならない⇒が、それは至難の業である。
 2 司法の独立とは、公権力・政権与党・社会的多数派からの独立である。
 3 司法の独立の実体は、個々の裁判官の独立である。
第3 司法行政が司法の独立を侵害している。
 1 裁判官人事が、司法行政による司法の独立侵害の手段
 2 採用・10年ごとの再任・任地・昇進・昇給による差別と支配
 3  司法行政の主体が司法官僚。司法官僚制が諸悪の根源である。
第4 1971年 体験的司法反動論
 1 前史 1960年代の民主主義運動の高揚 労働運動・市民運動・学生運動
    ⇒裁判所の変化  憲法理解の深化と判例の良質化
    ⇒これに対する反動化 自民党・右翼メディア・旧時代裁判官の台頭
 2 石田和外体制の確立
    青年法律家協会攻撃(自民党・右翼メディア・最高裁)
    70年22期任官拒否2名・局付き判事補の青法協会員脱退届
 3 71年4月 23期任官拒否7名。宮本康昭13期裁判官再任拒否。
    修習修了式での抗議を理由に、阪口徳雄司法修習生即日罷免。
 4 全国的な抗議運動⇒「司法の独立を守る国民会議」結成。
        「司法の嵐」といわれた事態に。ヒラメ裁判官の跋扈。忖度裁判。
    ⇒「権力掣肘」「人権の砦」としての裁判所の後退
 5 市民の側からの反撃の課題
    司法官僚制をどう打破するか。
    重いテーマとしての法曹一元。全裁判官を弁護士経験者から。
    裁判官の市民的自由の保障。裁判官生活の閉鎖性打破の重要性。
     (寺西和史・分限裁判での戒告。そして今、岡口基一が)
    最高裁裁判官任用手続の改善。下級裁判所裁判官についても。
第5 幾つかの訴訟経験から
 1 岩手靖国訴訟
    最低最悪の一審判決を書いたのは、元訟務検事(仙台訟務局長)。
    公式参拝違憲の控訴審判決を書いた裁判長は、3日後に退官。
 2 市民平和訴訟
    高額印紙問題が示すもの
    司法の役割とはいったいなんだ。
 3 「日の丸・君が代」強制拒否訴訟
    どうして最高裁は違憲と言わないのか。
第6 韓国憲法裁判所訪問の衝撃
 1 遠慮のない違憲判決 市民のための裁判所を標榜する姿勢
 2 それでもなお、多々限界は見える。
 3 司法だけが民主化することはあり得ない。
第7 司法消極主義批判と(逆)司法積極主義批判
 1 これまでは、最高裁の憲法判断回避の司法消極主義を批判してきた。
 2 今や、司法消極主義がマシ。(逆)司法積極主義を警戒すべきの論調が台頭。

**************************************************************************
この続きは、ぜひ、11月17日(土)の日民協・司研集会にご参加を。

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い
http://article9.jp/wordpress/?p=11283
(2018年10月21日)

憲法の砦としての司法に対する信頼を損ねているのは、いったい誰なのだ - 岡口基一分限裁判批判

一昨日(10月17日)、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人最高裁長官)は東京高裁岡口基一裁判官に対する分限裁判で、同裁判官を戒告した。そのツイッター投稿が裁判所法49条にいう「(裁判官の)品位を辱める行状」に当たるとしたのだ。この決定全文は、下記のURLで読むことができる。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/055/088055_hanrei.pdf

これは看過し難い。何が問題なのか。司法行政が個々の裁判官を過剰に統制していることである。あるべき司法の独立とは、司法府が、立法府や行政府の圧力から独立しているだけでは足りない。司法の独立の神髄は裁判官の独立にある。個々の裁判官は司法府の上層部から、とりわけ司法行政から独立していなければならない。

司法行政は、裁判官の人事権を掌握している。個々の裁判官が、昇進・昇格・昇給・任地・再任等々への影響を懸念することなく、裁判官としての職業的良心にしたがった判断をなし得るよう保障されていなければならない。岡口懲戒は、この要請に反して、個々の裁判官の独立に水を差すものとなった。むしろ、最高裁は裁判官の萎縮という効果を意図してこの決定をしたものと考えざるをえない。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。司法行政からの独立が保障されているのだ。独立とは、統制からの自由ということだ。

しかし、司法行政当局は個々の裁判官を統制したいのだ。個々の裁判官の自由よりは司法府全体の秩序を望ましいとする。裁判官の統制を通じて、判決内容も、自ずから統制されることにならざるを得ない。その統制の方向は、国民の自由よりは国家や社会の秩序重視に傾いた判決である。

問題とされた岡口裁判官の判決批判は、市民的自由の範囲の言論に過ぎない。けっして、非礼でも、奇矯でもない。もちろん、没論理でも非理性的なものでもない。司法行政からの独立を保障されている裁判官として、矩を越えたものとは考えられない。また、そのように考えてはならないものというべきであろう。

司法行政当局は、敢えて岡口裁判官の市民的自由の行使を懲戒することで、裁判官統制の手段に利用した。岡口裁判官ではなく、裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだ。

個々の裁判官の独立のメルクマールは、裁判官の市民的自由保障の有無・程度にある。司法行政当局は裁判の市民的自由行使を嫌うが、裁判所とは、秩序維持の名のもとに自由や人権を侵害された国民がその救済を求める場である。その裁判所で、裁判官の自由や人権の保障が十分でなければ、それこそ裁判所は、国民の信頼を失うことになる。

さすがに最高裁と言えども、裁判官の市民的自由を否定することはできない。戒告の決定の論理構造も、「憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然である」ことを原則とはしいる。しかしながら、「被申立人(岡口)の行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」としている。

では、「一般市民とは異なる裁判官に許容される限度」たる一線はどこにあるのか、それを意識的に示して裁判官の発言の自由を保障しようというものになっていないところが歯がゆい。そして、誰もが関心を示していた、司法行政が個々の裁判官の独立の気概を損ねることになってしまいはせぬかという危惧に対する配慮は見えてこない。

大法廷決定はこう言う。
裁判所法49条…にいう「品位を辱める行状」とは,職務上の行為であると,純然たる私的行為であるとを問わず,およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね,又は裁判の公正を疑わせるような言動をいうものと解するのが相当である。

キーワードは、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」であるごとくである。しかし、「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、裁判批判を封じた権威主義から生まれるものではあり得ない。「他の裁判官の結論にはものを言うな」とは、さすがに大法廷も言えない。だからこう言っている。「その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,…一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えた」から非難に値するというのだ。

大法廷決定が、裁判所法49条を解釈するに際して、憲法76条3項を斟酌した形跡はない。最高裁大法廷は、裁判官が統制に服し秩序を保って社会的発言を控え、確定判決の批判もしないことが、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」に資するものと考えた。しかし、常にものには二面がある。「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、実は裁判官の独立あってのものではないか。果たして市民は、最高裁の顔色を窺うヒラメ裁判官ばかりの裁判所を、憲法の砦、人権擁護の府として信頼するであろうか。

残念だったのは、大法廷決定が、裁判官14人全員一致の意見だったこと。本来、これはあり得ない。寺西分限裁判では5人の反対意見が救いだったが、今回はその救いがない。最高裁大法廷は、全員一致で、国民の司法府に対する信頼を損なう決定をしたとも言えるのだ。
(2018年10月19日)

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い

日本民主法律家協会は、自らを以下のとおり紹介している。

 1961年10月の結成以来、一貫して憲法を擁護し、平和と民主主義と人権、そして司法の民主化を追求する運動の先頭に立ってまいりました。

協会がメインの守備範囲と定めている領域が、憲法と司法である。憲法の分野では、日本国憲法の明文改憲も解釈改憲も阻止して、平和と民主主義と人権を擁護すること。そして、「司法の民主化」とは、日本国憲法が掲げる憲法価値を顕現する司法の実現である。

1970年代の司法反動反対運動でも、2000年代の司法『改革』の時代にも、協会は司法の現実を批判して憲法が想定する司法像を追求し続けてきた。その舞台となったものが、毎年開催される「司法制度研究集会」である。今年は、その第49回目となる。

テーマは「国策に加担する司法を問う」という、かなり悲観的なものだ。これまで、われわれは司法消極主義を批判してきた。「逃げずるな最高裁」「憲法判断を回避するな」と言ってて来たのだ。

ところが、安倍長期政権の継続とともに、最高裁は変わってきたのではないか。むしろ、積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。これは重大な事態ではないか。沖縄・辺野古訴訟と、原発差し止め訴訟を具体的素材に、この問題意識を検証する。ぜひ、ご参加を。

**************************************************************************

国策に加担する司法を問う
第49回司法制度研究集会へのお誘い

日時 2018年11月17日. 午後1時~5時 集会終了後、懇親会
会場 東京・永田町 全国町村会館ホールB( TEL 03-3581-0471(代表))
   有楽町線・半蔵門線・南北線 「永田町駅」3番出口徒歩1分
参加費 1000円(学生・院生・修習生500円)

最近、国の政策の根幹に関わる事件において、国の政策に積極的に加担するような判決が目立っています。
2016年には、厚木基地自衛隊機飛行差止を認める1・2審判決を逆転した最高裁判決(12月8日)、「普天間の危険を除去するには辺野古に新基地を建設するしかない」と断じて沖縄県知事による辺野古埋立承認取消を違法とした福岡高裁那覇支部判決(9月16日)を支持した最高裁判決(12月20日)。

そして今年は、大飯原発差止を認める1審判決を逆転した名古屋高裁金沢支部判決(7月4日)、君が代不起立による再雇用拒否を違法とする1・2審判決を逆転した最高裁判決(7月19日)、国に諫早湾開門を命じる確定判決を無効とした福岡高裁判決(7月30日)、伊方原発差止を認める仮処分決定を取り消した広島高裁決定(9月25日)等々が続いています。

憲法と人権が踏みにじられる政治状況の中で、司法には人権の砦としての役割を果たすことが期待されているにもかかわらず、「司法消極主義」をも踏み越え、国策に積極的に加担するような司法判断が増えていることは重大事態です。

今年の司研集会は、こうした近時の司法判断の概要とその原因を探り、これにどう対抗すべきかを論じ合う集会にしたいと考えています。
行政法の岡田正則教授の基調報告、辺野古関連訴訟の弁護団の中心を担う沖縄の加藤裕弁護士と、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富」という珠玉の大飯原発差止一審判決を書かれた樋口英明元裁判官から問題提起をしていただきます。ふるってご参加下さい。

●基調報告
【国策に加担する司法を問う】(仮) 岡田正則氏(早稲田大学・行政法)
早稲田大学大学院法務研究科教授。専門は行政法。著書に『辺野古訴訟と法治主義─行政法学からの検証』、『判例から考える行政救済法』(ともに共著)、『国の不法行為責任と公権力の概念史─国家賠償制度史研究』など。

●問題提起
【国策にお墨付きを与える司法──辺野古埋立承認取消訴訟を闘って】
加藤裕氏(弁護士)
1992年沖縄弁護士会に弁護士登録(司法修習第44期)。普天間基地爆音訴訟、辺野古埋立承認取消訴訟等、沖縄の基地関連訴訟を数多く担当。
2012年度沖縄弁護士会会長。2017年度日弁連副会長。著書に『憲法と沖縄を問う』(共著)など。

●問題提起
【大飯原発差止訴訟から考える  司法の役割と裁判官の責任】
樋口英明氏(元裁判官)
元裁判官。1983年任官(司法修習第35期)。福岡、静岡、名古屋等の地裁・家裁、大阪高裁等を経て、2012年4月より福井地家裁。2014年5月大飯原発差止判決、2015年4月高浜原発再稼動差止仮処分決定。2017年8月名古屋家裁で定年退官。『世界』2018年10月号に「原発訴訟と裁判官の責任」。

**************************************************************************
お申し込み

下記にご記入のうえ、FAXで 03 – 5367-5431(協会本部事務局)まで送信ください。
※11月12日までにお申込みをお願いします。(当日参加も受け付けますが、準備の都合上、なるべくお申込をお願いします)
■第49回司法制度研究集会に
参加します。

■講演終了後の懇親会に
(会場:1階レストラン・ペルラン/ 会費:4,000円)
・参加します  ・参加しません

TEL FAX

お名前

 

 

日本民主法律家協会
〒160 – 0022 東京都新宿区新宿1-14 – 4 AMビル2F
TEL 03-5367- 5430 FAX 03-5367- 5431
Mail info@jdla.jp URL http://www.jdla.jp/
(2018年10月13日)

49年前は「司法反動阻止」、今や「安倍改憲阻止」。

10月3日気の置けない友人弁護士10名余と函館に宿泊して旧交を温めた。49年前に司法修習同期をともにした同窓会である。「司法反動阻止」や「阪口君罷免撤回」の運動をともにした親しい仲間だけの集まり。

思いがけなくも、集合は立派な会議室だった。宴会の前にまずは「会議」のスケジュール。その議題は二つ。一つは、「森友事件告発」問題。そして、「安倍改憲阻止」の課題。

なぜ、森友事件関連の諸告発がいずれも起訴に至らなかったのか。どうしたら、検察審査会で起訴相当の決議を得ることができるか。有益な情報交換と議論が交わされた。

そして、「安倍改憲」の情勢をどう見るか。阻止の展望がもてるか。その阻止のために、われわれは何ができるか、何をなすべきか。大幅に時間を超過して宴会の開始が遅れた。

それぞれの近況報告が各自各様で面白い。求道者のごとく(ペイしない)仕事に没頭している者もいれば、仕事は妻と子に任せて主夫業専念者もいる。が、初心を忘れている者はない。今の共通の関心は、徹底してアベを叩くこと。アベを叩くことで改憲の危機を乗り越えなければならないということ。深夜まで久しぶりに青くさい議論が続いた。

宿は、湯の川温泉の立派な旅館だったが、ギョッとするものを見せられた。イヤでも見ざるを得ない場所に誇らしげに飾られた黄綬褒章の額装である。珍しいものでもなかろうが、私には初めて見る物。しげしげと眺めた。

この宿の経営者であろう者が、天皇から「褒められたシルシ」として与えられたリボンと賞状。「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する者」に対して授与されるという「黄綬褒賞」。

芥川の「侏儒の言葉」の一節が思い起こされる。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
私にも実際不思議である。なぜこの旅館主は、酒にも酔わずに、こんなオモチャをありがたがって受け取り、飾って人にまで見せることができるのであろう?  接客業者のあまりに無神経なオモテナシ。

褒賞授与状の主語は、「日本国天皇」であった。さすがに、今どき「朕」とは言わないのだ。
「日本国天皇は、某が××として、よく職務に精励したことについて黄綬褒章を授与する」という上から目線の、まことに素っ気ない文章。せめて、「あなたが永年職務に精励され多くの人に尽くされたことに敬意を表し、国民を代表してこの章を授与します」くらいのことが言えないのだろうか。もっとも、こんな物をもらってありがたがる者の支えあっての「象徴天皇制」なのだ。

御名すなわち明仁の署名はなく、国璽が押捺されていた。そして、内閣総理大臣安倍晋三と内閣府勲章局長の副書。

もらう人によっては有り難いのだろうが、こんな物を見せつけられて、私は不愉快。この宿には二度と来るまいと決意を固めた。

もう一泊、少人数で白老の虎杖が浜へ。こちらは、天皇も皇族も無関係。素晴らしい好天と、入り日と星空。そして、翌朝の水平線からの日の出。こちらのホテルは、大いにまた来ようという気になった。
(2018年10月7日)

岡口基一判事に対する懲戒申立はスラップだ。

岡口基一判事に対する「分限裁判」の行方に目が離せない。9月11日、最高裁で開かれた審問のあとの記者会見で、同判事は、「適正手続きが踏まれておらず、ありえないことが起きている」「今回の表現ごときで処分されたら、他の表現もできなくなる」「私からしたら防御しようがない漠然とした申立書と薄弱な証拠で戒告されるようなことがあれば、法治国家と言えない」などと述べたと報じられている。まことにもっともなこと。岡口基一判事を支持する立場を表明しておきたい。

問題とされたのがツイッターの投稿内容なのだから、当然に憲法上の表現の自由制約の可否に関わる重大問題である。さらに、裁判官に対する懲戒処分を行おうというのだから、厳格な手続上の正当性が問題とならざるを得ない。その2点を争点として、懲戒の可否が争われることになるだろう。

岡口は、ツイッターで裁判批判をし、勝訴した女性原告の心情を傷つけたとして、懲戒を申立てられた。懲戒申立書によると、問題とされたツイッターの内容は、下記のごとくである。

公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて「返してください」
え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・
裁判の結果は・・・・

裁判は元の飼い主である原告から、裁判提起当時の飼い主である被告に対する、犬の引渡請求訴訟とのこと。争点は、原告の元飼い主が、「犬を捨ててその所有権を放棄した」と言えるかどうか、だったようだ。判決は、「原告はいったんはこの犬飼えないとして、公園に置き去りにし、被告が保護したときは雨中泥まみれで口輪をされていた状態」と認定はしたが、所有権放棄までは認めず、被告に対して元の飼い主への引渡を命じた。これを、岡口は「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・」と表現した。

犬を飼った経験のある者なら、いったんは犬を捨てた原告の態度を「生命に対する冒涜」と非難するのは当然のこと。車の置き去りの所有権放棄問題と同一視してはならないと思うはず。岡口のこんな表現が懲戒事由になろうはずはない。法律論としても、口輪とリードを付けたまま雨中に放置された犬について死亡の予見可能性あれば所有権放棄の意思と効果を認定してよいと思われる。

しかし、大方の法律家は、もう少し別の視点からこの問題を見ている。法的な論争よりは、司法行政における裁判官統制の是非に関心がある。これは、司法行政による裁判官統制なのだ。その統制の成否こそがこの件の真の問題点である。

私はこの件を、東京高裁長官による岡口基一裁判官に対するスラップだとみる。あながち、的はずれではなかろう。

司法当局は、おとなしい、大勢順応型裁判官がお好みなのだ。出世のために上だけを見ている裁判官を「ヒラメ裁判官」という。司法当局は長年月をかけて「ヒラメ」の養殖に腐心しそれなりの成果を上げてきた。その裁判官統制の成果は、最高裁の思惑の枠をはずれる裁判が極端に少なくなっていることに表れている。裁判官が、自発的に人事権を握る司法当局の意向を忖度した判決を書いてくれるなら、四海波穏やかにすべては丸くおさまり、司法と行政や政権与党との軋轢もなくなろうというもの。

ところが、どこの世界にもやっかいな異端児が現れる。出世に関心なく、まったく上を見ようとしない、忖度とは無縁の裁判官。見方次第で、偏屈でもあり硬骨漢でもある。こういう輩の存在は、司法当局の裁判官統制が有効に機能していないことの証左に映る。当局にとっては、裁判官集団の神聖な秩序を破壊する不届き者であり、これにはお灸を据えなければならない。当該裁判官にたいするお灸は、その余の裁判官にも予防的によく効くのだ。これを「見せしめ効果」という。

ちょうどDHC・吉田嘉明が、自分を批判した発言者に直接の警告を与えようとしただけでなく、社会の他の者へも予防的に間接的な警告を発する思惑を持っていたごとくに、である。DHC・吉田嘉明が私を含む10人にスラップをかけたのは、社会に対する「見せしめ」としての効果を意図してのこと。これと酷似している。あるいは、行政や大企業が、経産省テント前ひろばや祝島の活動家を狙い撃ちで提訴した件と、基本構造が同じである。

DHC・吉田嘉明は、10件の提訴で、「自分を批判すると、このとおり高額損害賠償請求訴訟の被告にされて面倒なことになるぞ。提訴されたくなければ、余計な発言は避けておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この効果のねらいがスラップの本質。

民事訴訟の提訴ではないが、東京高裁長官は、岡口基一を最高裁に懲戒申立をすることで、全裁判官に「当局のおぼえに反すると、このとおり懲戒申立をされて面倒なことになるぞ。その事態を避けたければ、余計な発言は控えておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この見せしめ効果のねらいこそがスラップの本質なのだ。

私は、裁判官が萎縮せずに、市民的自由を行使することの重要性を強調したい。裁判官は、市民としての生活の中で市民感覚を涵養することになる。法廷と官舎を往復するだけで、市民生活から超越した生活では自らの市民感覚は育たず、市民の感覚も感性も感情も理解できなくなる。PTAも、市民運動も、NGOやNPOの活動も、ボランティア活動も、できることなら労働組合活動にだって参加するなどの社会経験が必要なのだ。デモや集会に参加するのもよかろう。それらとまったく無縁なひからびた生活は、市民感覚のない裁判官を作る。その裁判は、ひからびた公用文書の一片に過ぎないといわざるを得ない。

かつて、寺西和史裁判官に対する分限裁判が大きな問題となった。岡口事件とはひと味違う、社会性ある発言が問題とされた。裁判官を政治的に統制する意図が明確な事件だった。

判事補であった寺西は、1997年「信頼できない盗聴令状審査」と題する批判を朝日新聞の読者欄に投稿した。裁判所の令状審査が杜撰である実態を報告するとともに、裁判官の令状審査の適正を前提とした盗聴法(組織犯罪対策法)案に疑問を呈する内容。彼は、この投書で所属地裁所長から厳重注意処分(懲戒処分ではない軽微なもの)を受けている。一方、この時、田尾健二郎判事(法案の作成に関与していた)が寺西に反論し批判する投書をしているが、こちらは何ら注意も受けていない。裁判官の発言が問題なのではなく、発言の内容が当局の意に沿うものか否かだけが問題なのだ。

そして翌98年、寺西は盗聴法反対派主催の集会にパネリストとして出席を依頼されいったんは承諾する。ところが、これを知った当時の勤務先である仙台地裁所長から、裁判官に禁じられた「積極的に政治運動をすること」に該当するとして出席辞退を要請される。そこで寺西は、パネリストとしてではなく一般参加者として出席して、「集会でパネリストとして話すつもりだったが、所長に『処分する』と言われた。法案に反対することは禁止されていないと思う」と発言するに留まった。
 この、当該集会への出席によって、寺西は地裁所長から懲戒を申し立てられ、仙台高等裁判所の分限裁判で戒告処分を受ける。寺西は即時抗告し最高裁判所の判断を仰ぐが、最高裁でも戒告処分が妥当と判断された。

ただし、賛成10と反対5の票差。それぞれに渾身の反対意見を書いたのは、園部逸夫、尾崎行信、河合伸一、遠藤光男、元原利文の5最高裁裁判官。園部は裁判官出身で、その余の4名は弁護士出身である。岡口分限裁判の評決だけでなく、その票差も見守りたい。

寺西にしても岡口にしても、最高裁当局には、うるさくて目障りな裁判官なのだ。しかし、裁判官の独立とは、うるさくて目障りな裁判官だからといって排除してはならないということである。当局の統制に服さない裁判官こそ、実は裁判官の独立を体現した貴重な存在というべきなのだ。岡口基一判事が、その職にあり続けることを期待する。

**********************************************************************

いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を! 賛同署名のお願い。
http://article9.jp/wordpress/?p=11058

安倍政治に即刻の終止符を求める人々の熱い言葉の数々。
http://article9.jp/wordpress/?p=11073

ネット署名にご協力を。そして、是非とも拡散をお願いします。
9月10日に開始して、賛同者は本日(15日)6500筆に近づいています。

署名は、下記URLからお願いいたします。
https://bit.ly/2MpH0qW

(2018年9月15日・連続更新1994日)

憲法と落語(その1) ― 「鹿政談」と違憲立法審査権

文化爛熟の江戸期中期以後、庶民娯楽の舞台として寄席が栄えた。江戸八百八町(実数は千を越えていたとも)のどの町内にも一軒は寄席があったという。色物も隆盛だったが、メインは落とし噺。いまは、落語という語彙で定着している。

噺の庶民生活の隅々に題材がとられたが、その中の1ジャンルとして「お白州もの」がある。そのできのよいものが、現代にまでいくつも語り継がれている。庶民生活にお白州が密接に関わっていたからでもあり、「お白州はかくあれかし」という庶民の願望が強くもあったからでもあろう。

演目だけでそれと分かるのが「政談」が冠されたもの。有名なものが、「鹿政談」「小間物屋政談」「唐茄子屋政談」「遠山政談」「佐々木政談」など。あるいは、「大工調べ」「天狗裁き」「五貫裁き」など。演目だけではそれと分からないが、ストーリーに裁判が出てくる著名なものが、「三方一両損」「帯久」「一眼国」「名人長二」「てれすこ」などなど。

いずれもよくできた面白い噺で、「奉行や代官の裁きはこうあって欲しい」という願望がよく表れている。今日の言葉で言えば、「血の通った裁判」を望む庶民の思いがつくり出したストーリー。

落語に出てくるお白州と日本国憲法下の裁判所とは、似ているようで異質なものとも言えるし、異質なようで実は本質は変わらないようでもある。

今後のブログで、順次取り上げてみたいが、まずは「鹿政談」。

奈良の名物は、「大仏に、鹿の巻き筆、奈良ざらし、春日灯篭、町の早起き」と申します。春日大社のお使いとされる神鹿は、奈良では手厚く保護されて、たとえ過失でも鹿を死なせた者は死罪というのが当時の掟。ですから、自分の家の前で鹿が死んではいないかと、毎朝早起きせざるを得ないというわけで。

興福寺東門前町の豆腐屋、正直者の六兵衛(話者によっては与平)が、早朝商売物のキラズ(おから)をひっくり返した犬に薪を投げると打ち所悪く死んでしまいますな。暗闇でよく見えなかったが、犬と思ったのがまさしく春日の鹿。これは一大事。六兵衛はたちまち捕縛され、目代(代官)の塚原出雲と、興福寺の番僧・了全の二人の調べのうえ、奉行・根岸肥前守の裁きを受けることになります。この根岸肥前守がよくできた名奉行。
 奉行はなんとか正直者の六兵衛を助けてやろうと、「その方は、二、三日前から病気であったであろう」とか、「その方は他国の生まれで、この土地の法には暗かろう」などと誘導しますな。故意を欠くとか、責任能力がなかったとか、あるいは違法性の意識を望むべくもないとして、ことを収めようという苦心の心積もり。
 ところが、正直者の六兵衛は嘘がつけない。そこで奉行は最後の手段。鹿の死骸を引き出させて検分し、「うーん、鹿に似たるが角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」「なるほど、確かにこれは犬でございます」「今、ワンと鳴きました」「犬を殺した者にとがはないぞ」。これは、そもそも構成要件に該当する事実がないとしての無罪放免。
 これで丸くおさまるかと思いきや、空気を読めない奴はどこにでもいるもので、出雲と了全ばかりは、「あいや、しばらく。角がなくても鹿は鹿」と譲りません。そこで奉行は奥の手を出します。
「出雲と了全、その方らが結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある」「そのために空腹となった鹿が盗みをしたのであれば鹿も盗賊同然。打ち殺しても苦しくない」「たってとあらば、その方らから調べねばならない」「さあ、どうじゃ。これは犬か、それとも鹿か」「さあさあ、犬か鹿か」
 結局犬ということで一件は落着。お白州の後、涙を流す六兵衛に奉行が声をかけます。
 「これ。正直者のそちなれば、この度は斬らず(キラズ)にやるぞ」
 「はい、マメで帰ります」

下げの出来栄えはともかく、多くの江戸落語と同様に、これも元は上方噺のよくできた筋立て。善玉奉行が、悪玉の目代に小気味よく畳み込むのが聞かせどころ。正直者が無罪になるハッピーエンドなのだからむろん後味も良い。しかしこの話、やっぱりおかしい。これでよいわけはない。

たまたま「名奉行」の才覚とトンチと腕力が、無理を通しての無罪判決。法の趣旨を生かそうという、真面目な他の奉行であれば、判決は自ずと異なったものになる。奉行に才覚なければ、六兵衛は死罪となったところ。目代に、たまたまの不正がなければ、正論を言う目代側の言い分が通ったところ。そもそも、鹿を犬と真実でない認定の裁判もあるまじきこと。

この鹿政談のストーリーで、なにより納得しがたいのは「鹿を殺した者は死罪」という掟。現代であれば、飼い主のいる鹿を殺傷することは器物損壊罪にあたるが、「奈良公園の鹿」は無主物だから器物損壊での処罰はできない。また、野生の鹿は動物愛護法上の愛護動物に該当しないから、これを殺しても刑法上の犯罪にはあたにない。昔の話とはいえ、「六兵衛死罪」などとんでもない。とんでもないけど、掟は掟。とんでもない掟で人を死刑にできたということ。

奉行は、「過失であろうとも春日大社の鹿を死なせた者は死刑」というこのとんでもない掟を、人倫に反するものとして無効と宣言する裁きをすることができたか。あるいは無視して無罪とすることができたか。それができなかったから、知恵をしぼって、法の枠内で、その適用をまげて庶民感覚に適合する裁きに到達したということになる。奉行とても、法をつくったお上の官僚に過ぎない。法を無視することなどできるはずもない。

さて、お白州でなく、現在の裁判所ならどうなるだろうか。日本国憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と規定して、裁判所に違憲立法審査権を与えている。最高裁だけでなく下級裁判所にも違憲立法審査権があるが、その終審判断は最高裁でなされるとの趣旨と理解されている。

言うまでもなく、法の体系の頂点に位置するものが憲法。その憲法の下に、憲法の定めに従って法律が作られ、さらに法律の許す範囲で条例や政令や行政規則が作られて、整然とした法体系の秩序が形づくられることになっている。法の序列は厳格で、下位の法形式が上位のものに反することは、許されない。単に法秩序の混乱を避けるためということではなく、あくまで、憲法が根源的価値としている人権や民主主義、平和を擁護するためと考えるべきだろう。

法律は、選挙という民主的な手続で選出された国民の代表によって、国権の最高機関とされる国会で作られる(憲法41条)。法律は、主権者の意思を反映するものとして尊重されなければならないことは当然だが、その法律も憲法の定めに違反するとされた場合には、違憲、無効とならざるをえない。裁判所には、その判断の権限がある。

仮に、国会が「奈良公園風致地区内に棲息する日本鹿の保護に関する法律」(略称「奈良鹿保護法」)を制定し、「奈良公園風致地区内に棲息する日本鹿を殺したる者は死刑に処する。過失によって死に至らしめたる者も同罪とする」(「奈良鹿殺害罪」)という条文ができたとすれば、この法律によって被告人六兵衛が起訴され、検察官から死刑を求刑されることになる。

この場合、お白州にはいなかった弁護人が活躍する。この悪法を憲法の人権尊重原則(憲法第13)、あるいは適正手続条項(憲法第31条)に違反するものとして違憲無効と主張して無罪の判決を求める弁論を行う。

その結果、裁判所は違憲立法審査権を行使して、奈良鹿保護法の奈良鹿殺害罪の規定を違憲無効として無罪判決を言い渡すことができる。こうして、裁判所は「憲法の砦」であり、同時に「人権の砦」としての使命を果たすことになる。国会が民主主義原理を代表する機関なら、裁判所は人権原理にもとづく機関なのだ。

 無罪の六兵衛は、記者団に囲まれる。
 「六兵衛さん、無罪放免おめでとう」
 「はい、日本国憲法に感謝です」
(2018年8月22日)

「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」 ― 原発稼働差し止め裁判官インタビュー

昨日(8月4日)の朝日に、樋口英明・元福井地裁裁判長のインタビュー。大飯原発訴訟の1審を担当して差し止め認容の判決を出した人。大きな見出しが、「原発は危険、判決の信念」「規準を超える地震『来ない』根拠なし 再稼働認めぬ判断」。そして、「行政の裁量逸脱 司法の介入やむを得ない」。よくできた良質のインタビューで、多々考えさせられる。

「裁判官は弁明せず」が美徳とされる。しかし、「弁明せず」は場合によっては無責任を意味する。行政に説明責任が求められているのと同様に、裁判官にも批判を恐れずに自分の判決について発言することを求めたい。それこそ裁判官の責任のとりかたではないか。独善や人事権者に追従の判決を改善することにもつながるだろう。同裁判官は既に退官しており、「大飯原発訴訟の控訴審判決が出て確定したので、インタビューに応じました」としている。

このインタビュー記事、ネットでも読むことができる。(もっとも、見出しが少しちがっているようだが)。https://www.asahi.com/articles/DA3S13620670.html

リードは以下のとおり。「福島の原発事故後では初めて、運転差し止めを命じた関西電力大飯原発3、4号機をめぐる2014年の福井地裁判決。しかし、控訴審で名古屋高裁金沢支部は7月、一審判決を取り消し、住民の請求を棄却する逆転判決をした。一審で裁判長を務め、昨年8月に退官した樋口英明さん(65)に、判決に込めた思いを聞いた。」

原発の危険性のとらえ方が随所に語られている。
「私が一審判決で指摘した点について具体的に反論してくれ、こんなに安全だったのかと私を納得させてくれる判決なら、逆転判決であっても歓迎します。しかし、今回の控訴審判決の内容を見ると『新規制基準に従っているから心配ない』というもので、全く中身がない。不安は募るばかりです」

「(日本の原発の現状は)小さな船で太平洋にこぎ出している状況に等しいと思います。運がよければ助かるかもしれませんが、そうでなければ日本全体が大変なことになります。一国を賭け事の対象とするようなことは許されるはずがありません」

「(再稼働を認めぬ方向に心証が傾いたのは)過去10年間に4カ所の原発所在地で、原発の耐震設計の根幹となる基準地震動(想定する最大の揺れ)を超える地震が5回も発生したことを知った時ですね。…争点は強い地震が来るか来ないかという点にあり、どちらも強い地震に原発が耐えられないことを前提に議論しているのです。そのこと自体が驚きでした」

 「わが国で地震の予知に成功したことは、一度もありません。」「将来の最大の揺れを予測する算式は、仮説に過ぎません。それを原発の耐震性の決定に用いることは許されません」「なにしろ大飯原発の(基準地震動)700ガルというのは、私が住んでいる家に対して住宅メーカーが保証している3400ガルに比べてもはるかに小さい値なんですよ。原発は私の家より地震に弱い」

原発差し止め訴訟の現状に関して、次のような注目すべき発言もある。

――「3・11」後、原発の運転差し止めを命じる判決、仮処分は樋口さんの2件を含め4件です。
 「少なすぎます。裁判官が原発の生(なま)の危険性に正面から向き合えば、差し止めの判断が出るはずです。裁判官教育の際に『裁判官は絶大な権限を与えられているので、その行使については謙虚かつ抑制的であれ』と教えられることが、必要以上に裁判官を萎縮させている面があると思います」

――(「裁判所組織は最高裁を頂点とした一枚岩で政権に迎合しているといった、単純な図式は間違い」という発言を承けて)ただ、樋口さんの後任の裁判長を含め、高浜原発の決定に対する異議審を担当した裁判官は3人とも最高裁事務総局付きを経験した「エリート裁判官」。樋口さんが出した運転差し止めの仮処分を取り消しました。
 「2人までは偶然で説明できますが、3人とも事務総局経験者というのは珍しいと思います。人事の意味はよくわかりませんが、何らかの示唆を受けて赴任した可能性はあると思います。ある裁判官が原発立地県の地裁に異動する際に、上司から『裁判官がこうした事件の判断に必要な高い専門技術性は持っていないことはわかっているだろうね』と言われた、という話を聞いたことがあります」

――国のエネルギー政策に関しては、国民から選挙で選ばれた国会や内閣が決めるべきで、裁判所が決めるのはおかしいという意見もあります。
 「今回の控訴審判決も、『その当否を巡る判断は司法の役割を超えるものであり、立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄』と述べています。私は本来、行政の裁量権を重視する立場ですが、原発の危険性を顧みずに運転を認めるのは、裁量権の範囲をはるかに逸脱しています。そういう場合、司法が介入することもやむを得ません」

ところで、このインタビュー記事には「愛国心」が出て来る。次のような使い方で。

 ――「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」の文にも驚きました。
 「これを書かせたのは、自分で言うのもなんですが『愛国心』だと思っています。判決当時、私はネット上で『左翼裁判官』などと批判されましたが、本当の保守は原発に反対すべきだと思います」

ここに出て来るキーワードは、「愛国心」と「左翼裁判官」と「本当の保守」。
国策である原発推進に楯突く判決を書くような者には、「左翼裁判官」とレッテルを貼られる現実があることが語られている。しかし、樋口は、自分にこの判決を書かせたのは「愛国心」だという。左翼的心情からではなく、ということは国家性悪説とでもいう立場からの判決ではなく、自分の内なる「愛国心」が判決と判決書きにおける表現の動機だったのだという。

その判決部分は、「たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが、国富の喪失であると当裁判所は考えている。」というもの。これが「愛国心判決」ないしは、「愛国心的判決説示」というわけだ。

樋口の「本当の保守は原発に反対すべきだと思います」は、「愛国心」とは本来が保守のもの。国富喪失の危険ある原発には、愛国心あるものは反対せよ、本当の保守(愛国心を大切にする立場?)なら当然に反対すべきだというのだ。

個人の自由と民主主義と平和こそが、強靱で豊かな国の姿だ。これを歪める国旗・国歌(日の丸・君が代)強制への反対こそが愛国心のしからしめるところ。「本当の保守は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制に反対すべきだと思います」ともいうべきであろう。
(2018年8月5日)

最高裁と都教委の応援団・産経社説を批判する

7月19日最高裁「再雇用拒否」判決に、朝日が素早く反応した。翌20日の社説「君が代判決 強制の追認でいいのか」。次いで毎日が22日付で続いた。「君が代『再雇用拒否』判決 行政の裁量広げすぎでは」という的確な判決批判の内容。

そして本日(7月23日)、案の定判決肯定の社説が出た。案の定産経である。しかも案の定、ネトウヨ諸君と兄たりがたく弟たりがたい紋切りの論調。ご紹介の上、批判的な解説を試みたい。以下、赤字が産経社説。青字が私の解説文である。

タイトル 「不起立教員」敗訴 国旗国歌の尊重は当然だ
最高裁は、朝日・毎日に批判され、産経には「当然」と褒められる判決を言い渡したのだ。ことはナショナリズムないしは国家主義イデオロギーに関する問題。深刻に自らの立ち位置をよく考えねばならない。やがて、何を言っても「どうせ産経のお仲間だろう」と耳を貸してもらえなくなる。それは、民主主義の危機であり、国民の不幸の事態である。

 国歌斉唱で起立しなかった教職員に対し、定年後の再雇用を拒否した東京都の判断について、最高裁が合法と認めた。当然の判決である。
 「合法と認めた」は正確ではない。「著しく合理性を欠くものであったということはできない」「違法であるとは言えない」が正しい。判決内容を正確に把握していないのだから、「当然の判決」は意味をなさない。

 国旗、国歌に敬意を払わない者が教師としてふさわしいか、考えるまでもない。その地位を与え続けるべきでもない。
 これは暴論。「考えるまでもない」とは、「問答無用」ということ。原告側教師の言い分を聞く耳はもたないということでもある。これでは困るのだ。意見の違う相手の言い分にも、耳を傾けてもらわねばならない。とりわけ「ネトウヨならぬ大新聞」の立場であればこそ。産経が、「国旗、国歌に敬意を払わない者に教師としての地位を与え続けるべきではない。」ということには戦慄を覚える。これは、天皇にまつろわぬ者を非国民とした戦前の苦い記憶、あるいは共産主義者を非米活動として糺弾したマッカーシズムを想起させる。非寛容の社会、一元的な国家主義で染め上げられた窮屈な社会の到来を危惧せざるを得ない。

 訴えていたのは都立高校の元教職員22人だ。東京都教委は卒業式や入学式の国歌斉唱時、国旗に向かい、起立して斉唱するよう、校長を通じ教職員に職務命令を出している。
 事実経過はそのとおり。「職務命令」とは、公権力による公務員に対する強制のこと。職務命令の効果として、何をどこまで強制できるか、公務員側から見ていかなる義務があるかはけっして自明ではない。教科とされているもの授業を行うべき義務があることは当然のことだ。それは、教育が自然科学や人文・社会科学において確認された真実の体系を次世代に継授する営みである以上、教員の本質的責務である。しかし、価値感や信仰についての教育、あるいはイデオロギーについての教育が強制されてはならないし、教員にはそのような強制に応ずべき義務もない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいとする価値感は、信仰と同じでこれを受容できる者もあり、受容し得ない者もある。公立校の生徒は、多様な価値観を尊ぶべき教育を受ける。そのような教育を実践する教員に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいと思え」「思えなければ、教職から去れ」と言ってはならない。それは、既に価値感や思想を統制する社会なのだから。

 元教職員らは在職中、これに従わずに減給や戒告処分を受け、定年後の再雇用選考に申し込んだが、不合格などとされた。1審は都教委の対応が「裁量権の範囲の逸脱・乱用にあたる」などとして賠償を命じ、2審も支持した。背景には、国旗を引きずり下ろすといった妨害行為をしたわけではなく、1~2回の処分などで再雇用を拒否するのは酷だという考えがある。
 1・2審判決の考え方は、形式的には「再雇用を拒否するのは酷」だというものだが、実質的には、価値感や思想の統制に対する強い警戒感がある。日本国憲法の19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、21条(表現の自由)、13条(個人の尊厳)などが、裁判官に「日の丸・君が代」強制を肯定しがたいとしているのだ。

 しかし、最高裁は不起立について「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘し、1、2審の判断を覆した。門出などを祝う重要な節目の行事で、一部教職員が座ったままの光景がどう映るか。生徒らを顧みず、教職員個人の政治的主張や感情を押しつけるもので、教育に値しない行為だ。
 そもそも、卒業式に国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱がどうして必要なのか。かつての文部省の調査では、外国での類似例としては中国・北朝鮮・韓国の3か国しか挙げられなかった。
 歴史的に、日の丸・君が代がはたした役割に否定的な意見を抹殺してはならない。国旗国歌の強制がもつ国家主義イデオロギーは克服されなければならない。

 起立・斉唱の職務命令を「強制」などと言い、相変わらず反対する声がある。しかし、国旗と国歌を尊重するのは国際常識であり、強制とは言わない。
 これは、明らかに論理としておかしい。職務命令は「強制」以外のなにものでもない。国旗国歌を尊重するか否かと、国旗国歌に敬意表明の行為(起立・斉唱)を強制することとは、まったく次元を異にする問題。たとえ、国旗国歌を尊重すべきだとの意見をもっていても、強制はすべきでないとするのが、保守の良識というものだろう。

 自らの思想・良心・信仰のゆえに、国旗・国歌(日の丸・君が代)への強制に服することができないという教員が存在するのが健全な社会。誰も彼もが、国旗・国歌(日の丸・君が代)大好きの社会を国家主義の蔓延した統制社会という。そんな社会、そんな産経好みの国家はおそらくは中・朝の2か国くらいではないか。
 なお、付言しておきたい。国旗と国歌の強制は国際常識に反すること、国家体制が変われば国旗国歌も変わるのが常識であることも。かつての三国同盟の盟友だったナチス・ドイツと、ファシスト・イタリア。敗戦によって体制を変え、それに伴って国旗も国歌も変えた。これが常識。現代日本が、いまだに当時の軍国日本の国旗国歌をそのまま使用しているのは、国際常識からはドイツがハーケンクロイツを掲げているようにも見えるのだ。

 最高裁は別の訴訟でも、都教委の職務命令は「思想、良心を直ちに制約するものではない」などとして合憲の判断を示している。
 さすがの最高裁も、都教委の職務命令をまったく問題がないと言っているのではない。「思想、良心を直ちに制約するものではない」とは、「直ちに」とまでは言えないということなので、間接的な思想・良心に対する制約になることは認めているのだ。最高裁判決の当該部分をそのまま引用する。
「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」
このまだるっこしい判決の解説は、当ブログの下記を参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=10649

 国旗掲揚や国歌斉唱に反対する一部教職員らに対し、校長らは大変な苦労を重ねてきた。
 産経は、どうして一部校長の立場にしか立てないのだろうか。多くの教職員から見れば、「執拗に国旗掲揚や国歌斉唱の強制を企図する、文部省や独立性を放擲した各都府県の教委、そしてこれに迎合する一部校長らによって大変な苦労を重ねざるを得なかった」のである。

 平成11年には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起き、これを契機に「国旗国歌法」が制定された。
 校長の自殺が痛ましい事件であることはそのとおりだ。たかが、国旗・国歌(日の丸・君が代)で人の命が奪われるようなことがあってはならない。問題の根源は、大日本帝国憲法時代の旧天皇制とあまりに深く結びついた旗と歌を、いまだに国旗・国歌(日の丸・君が代)としていること、これを教育の場で強制していることにある。国旗国歌法をつくり、職務命令で強制するのは、面従腹背の教員を増やすだけで、ますます問題を深刻化ることになる。

 職務命令を出すのは、指導に反対して式を混乱させる教職員がいまだにいるからだ。
 都立校に国旗国歌強制のなかった時代。式の混乱はなく、それぞれに工夫を凝らした感動的な式典が行われていた。10・23通達と職務命令によって、生徒を主人公とする卒業式は失われた。それが実態なのである。

それほど国歌が嫌いなら公教育を担う教職につかないのも選択肢だ。
そら出た。これが、挙国一致、尽忠報国派のホンネだ。公立学校の教員には、多様な人材がいてしかるべきなのだ。日の丸・君が代の歴史は、国家主義・戦争・軍国主義・思想統制とともにあったのだから、敬意表明はできないという教員がいてこそ、真っ当な教育の場ではないか。

 都の中井敬三教育長は「今後も職務命令違反には厳正に対処する」とした。それを貫いてもらいたい。
 私は、最高裁が間違った判断をしていると思う。私だけでなく、真っ当に法律を学んだ者の多くが同じ意見だと思っている。しかし、その最高裁も都教委の国旗国歌強制を結構なことだといってるのではない。行政の裁量の範囲の問題としてギリギリのところでセーフとしているに過ぎない。都教委は国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制をあらためるべきである。

東京五輪を控え、先生に国旗や国歌の大切さを教えなければならないのでは、情けない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)問題と向かい合っている教員は、真摯にものを考えている。処遇上のさまざまな不利益を覚悟して、自分の思想や教員としての良心を貫こうとしている人たちがいることに、感動もし、教育に希望をもつこともできる。
 その反対に、何もものを考えず、権力や多数派の圧力に迎合する輩を、心底「情けない」と思わずにはおられない。
(2018年7月23日)

最高裁は、憲法を正しく理解していない。

昨日(7月19日)、「日の丸・君が代強制」問題での新たな最高裁判決があった。後世に、最高裁の汚点として記憶されるべき判決。

運動体が「再雇用拒否撤回第二次訴訟」と名付けている元都立校教員(当初原告数24人)が、都教委を被告として、定年後の再雇用拒否の撤回を求めた訴訟。1・2審判決は、いずれも再雇用拒否を違法として、都教委に総額5370万円余の損害賠償の支払いを命じていた。最高裁はこれを逆転して、原判決を取消し教員の請求を棄却した。5370万円余の損害賠償認容を、ゼロにしたのだ。

1審東京地裁の担当裁判官が3名、2審東京高裁の裁判官が3名、合計6名関与の結論を最高裁第1小法廷5人の裁判官が覆した。少数意見なく、補足意見すらないことが不気味と言わざるを得ない。

虚心に1・2審の判決を読んでいただけば、誰にでも納得しうる無理のない論理。なにしろ、日の丸・君が代関連以外は、どんな懲戒処分を受けた教員も殆どすべてが再雇用合格となっていたのだ。日の丸・君が代に関連して処分歴のある教員だけが、明らかに狙い撃ちにされて不合格となった。いくらなんでも、これは露骨でひどすぎる。「再雇用の要件として多種多様の勤務態様の要素をまったく考慮せず、日の丸・君が代処分歴だけで全員不合格としているのは、再雇用制度の趣旨にも反し、客観的合理性と社会的相当性を欠くもので裁量権の逸脱・濫用に当たる」というのが結論。

最高裁がこれを覆した「論理」は薄弱というほかない。再雇用の採否も、再雇用合格に必要な勤務成績評価の仕方も、行政裁量の範囲にあるというだけで、1・2審の判決理由と具体的に切り結ぶところはない。

最高裁判決の不気味は、人権や教育の本質から説き起こす姿勢が皆無なところにある。人権や自由、教育者の思想・信条・良心・信仰、あるいは教育行政の教育への不当な支配禁止等の原則は語られず、これに代わって語られているのは、「学校の儀式的行事としての式典の秩序や雰囲気」への過剰な尊重である。

人権より公序、自由よりも秩序、個人よりも国家、個よりも全体を優先する姿勢が露骨である。多様な価値観の共存を認めようとしない最高裁の憲法判断は明らかに偏っている。最高裁は憲法を正しく理解していないというほかはない。

この5人の最高裁裁判官の中に2人の「弁護士出身裁判官」がいる。裁判長を務めた山口篤と木澤克之。山口は「弁護士枠」での採用でありながら日弁連推薦を受けた者ではない。また、木澤は周知のとおり加計孝太郎の立教時代の同級生で加計学園の元監事。その経歴を隠していた人物。最高裁裁判官の人選から納得がいかない。

救いは、朝日が本日(7月20日)付で気合いの入った立派な社説を書いてくれたこと。その社説と、昨日付の「原告団・弁護団声明」を引用しておきたい。

**************************************************************************

君が代判決 強制の追認でいいのか

 憲法が定める思想・良心の自由の重みをわきまえぬ、不当な判決と言わざるを得ない。
 入学式や卒業式で君が代が流れる際、起立せずに戒告などの処分を受けた都立高校の元教職員22人が、それを理由に定年後の再雇用を拒まれたのは違法だと訴えた裁判で、最高裁はきのう原告側の敗訴を言い渡した。

 理由はこうだ。
 再雇用はいったん退職した人を改めて採用するもので、その決定にあたって何を重視するかは、雇う側の裁量に任される。原告らが不合格となった06~08年度当時は、希望者を全員再雇用する運用もなかった――。

 物事の本質に踏みこまない、しゃくし定規な判断に驚く。
 戦前の軍国主義と密接な関係がある日の丸・君が代にどう向きあうかは、個人の歴史観や世界観と結びつく微妙な問題だ。
 二審の東京高裁はその点を踏まえ、「起立斉唱しなかっただけで、不合格とするような重大な非違行為にあたると評価することはできない」と述べ、都教委側に損害賠償を命じていた。この方が憲法の理念に忠実で、かつ常識にもかなう。

 原告たちが長年働いてきた教育現場から追われたのと同じ時期に、都教委は、別の理由で減給や停職などの重い処分を受けた教職員を再雇用した。さらに年金制度の変更に伴い、希望者を原則として受け入れるようになった13年度からは、君が代のときに起立斉唱せず処分された人も採用している。
 都教委が一時期、教職員を服従させる手段として、再雇用制度を使っていたことを示す話ではないか。そんな都教委のやり方を、きのうの判決は結果として追認したことになる。
 最高裁は11年から12年にかけて、日の丸・君が代訴訟で相次いで判決を言い渡している。起立斉唱の職務命令自体は憲法に反しないとしつつ、「思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と述べ、戒告を超えて減給や停職などの処分を科すことには慎重な姿勢を示した。再雇用をめぐる訴訟でも、教委側の行きすぎをチェックする立場を貫いて欲しかった。

 個人の尊厳を重んじ、多様な価値観を持つことを認めあう。そういう人間を育て、民主的な社会を築くのが教育の使命だ。そして、行政や立法にそれを脅かす動きがあれば、権限を発動してストップをかけることが、司法には期待されている。

 その両者が役割を果たさなければ、社会から自由や多様性は失われる。この判決を受け入れることができない理由である。

**************************************************************************

声 明

1 本日、最高裁第一小法廷(山口厚裁判長)は、都立高校の教職員ら24名が、卒業式等において「日の丸」に向かって起立して「君が代」を斉唱しなかつたことのみを理由に、東京都により定年退職後の再雇用職員ないし非常勤教員としての採用を拒否された事件(平成28年(受)第563号損害賠償請求事件)について、教職員らの請求を一部認容した控訴審東京高裁判決(2015年12月10日)を破棄して、教職員らの請求を全面的に退ける不当判決を言い渡した。
2 本件は、東京都教育委員会(都教委)が2003年10月23日付けで全都立学校の校長らに通達を発し(10.23通達)、卒業式等において国歌斉唱時に教職員らが国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを徹底するよう命じ、これに従わないものを処分するとして、「日の丸・君が代」の強制を進める中で起きた事件である。
 本件の教職員らは、それぞれが個人としての歴史観・人生観や、長年の教師としての教育観に基づいて、過去に軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた歴史を背負う「日の丸・君が代」自体が受け入れがたいという思い、あるいは、学校行事における「日の丸・君が代」の強制は許されないという思いを強く持っており、そうした自らの思想・良心から、校長の職務命令には従うことができなかった。
 ところが、都教委は、定年等退職後に再雇用職員あるいは非常勤教員として引き続き教壇に立つことを希望した教職員らに対し、卒業式等で校長の職務命令に従わず、国歌斉唱時に起立しなかったことのみを理由に、「勤務成績不良」であるとして、再雇用を拒否したのである。
3 本件において、2015年5月25日の東京地裁判決は、本件再雇用拒否が、国歌斉唱時に起立斉唱しないという行為を極端に過大視しており、都教委の裁量権を逸脱・濫用した違法なものであるとして、東京都に対し、採用された場合の1年間の賃金に相当する金額、合計で約5370万円の損害賠償を命じ、さらに、同年12月10日の東京高裁判決においても、その内容は全面的に維持された。
4 ところが、今回の最高裁判決は、その控訴審判決を破棄し、教職員らの請求を全面的に棄却したものである。
今回の最高裁判決は、東京都の再雇用・再任用手続きにおける裁量につき、あくまで「新たに採用するものであって」などと言いなして極めて広範な裁量を認め、不起立があれば「他の個別事情のいかんにかかわらず」不合格の判断をすることも許されるとした。
最高裁判決は、事件当時において9割を超える高い率で再雇用・再任用がなされていたこと、雇用と年金の連携の観点から原則として採用すべきとされていたことなど、本件における具体的な事実関係を踏まえて検討することをせず、一般的・抽象的な行政の裁量権を是認して第1審及び控訴審における教職員勝訴の判断を覆した。行政の主張に無批判に追随する判決内容であり、司法権の使命を放棄した判決と言わざるを得ない。
5 わたしたちは、このような最高裁の不当な判決に対し、失望と憤りを禁じ得ない。
 教師が教育行政からの命令で強制的に国旗に向かって立たされ、国歌を歌わされ、自らの思想良心も守れないとき、生徒たちにも国旗や国歌が強制される危険がある。
 都立学校の教育現場で続いている異常事態に、皆様の関心を引き続きお寄せいただき、教育に自由の風を取り戻すための努力に、皆様のご支援をぜひともいただきたい。
 
2018年7月19日

「日の丸・君が代」強制反対再雇用拒否撤回を求める第二次原告団・弁護団

(2018年7月20日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.