澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「君が代斉唱時の不起立」は、「わいせつ」「傷害」「公金横領」よりも悪質だというのか-東京高裁永野厚郎判決に怒る

敗訴判決の味は、この上なく苦い。一昨日(4月26日)の午後1時30分。東京高裁511号法廷で、弁護団の一人として、東京「再雇用拒否」第3次訴訟で敗訴判決の言い渡しを受けた。

事案は、定年後の再雇用申請に対する拒否を違法と争うもの。卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことを理由に「職務命令」違反として懲戒処分を受けた教員は、定年退職後に再雇用を申請しても拒否されるのだ。再雇用希望者は、ほぼ全員が採用されているのだから、再雇用拒否は事実上の解雇に等しい。「君が代斉唱時の不起立者」だけに対する懲戒処分に重ねての不利益。これは、思想差別だ。

最高裁は、「日の丸・君が代」処分を違憲とはしていない。しかし、戒告はともかく減給も出勤停止も、処分対象の行為の悪質性に比較して処分の量定が過酷に過ぎて、著しく均衡を欠くものとして裁量権の逸脱濫用であり、違法と認めている。最高裁の立場は、「君が代斉唱時の不起立は確かに職務命令違反ではあるが、自らの良心の発露としてやむにやまれぬ行為なのだから、法的に何の不利益も伴わない戒告であればともかく、実質的な不利益をもたらす減給や出勤停止の処分は、重きに失して著しく妥当性を欠く」ということなのだ。この理は、当然に定年退職後の再雇用時にも貫徹されなければならない。

都職員の再雇用制度は、定年制導入とセットになったもので、職員の定年時から年金支給開始年齢までの雇用と生計を確保することが主たる目的。だから、処分歴ある者を含めて原則として希望者全員が採用されてきた経過がある。ところが、「日の丸・君が代」処分者なのだ。

東京「再雇用拒否」第2次訴訟(一審原告22名)での結論は、最高裁判例の意を酌むものとなり、一審東京地裁判決(2015年5月)、二審東京高裁判決(2015年12月)とも、君が代斉唱時の不起立を理由とした再雇用拒否は、原告らの「期待権を侵害」し「(都の)裁量権の逸脱濫用で違法」として、東京都に約5370万円の損害賠償を命じた。この高裁判決に対する東京都からの上告受理申立に、最高裁はまだ判断を示していない。

判決のうちの「平等原則違反」の主張に対する部分を引用する。読み易いように段落を付けるが、当該部分全文の引用である。誰が読んでも、「これっておかしい」と同意してもらえると思う。

控訴人(「君が代斉唱時に不起立の教員」)らは,
非常勤教員制度ができた平成19年度から平成26年度までの間に再雇用教員合格者と非常勤教員合格者のうち過去に懲戒処分をされた者は83人であり,争議行為(31件),わいせつ行為(2件),体罰(2件),公金横領(2件)を行って懲戒処分を受けた者であっても,また免職・減給という重い懲戒処分を受けた者であっても,合格しており(甲84の1, 2, 3の1から3の83),特に,都教委は,
①男子児童に対してわいせつ行為を行い,停職3か月の懲戒処分を受けた者,
②親睦旅行の際に女性教諭にわいせつ行為をして停職3か月の懲戒処分を受けた者,
③生徒の登校態度を理由として生徒に暴行を加え,傷害を負わせたことを理由に停職の懲戒処分を受けた者,
④宿泊助成金を不正受給するという公金横領で減給処分を受けた者
のように破廉恥又は明白な犯罪行為を理由に重い停職・減給の懲戒処分を受けた者を合格させながら,自らの思想・良心及び信仰を理由に,本件職務命令に従わなかっただけである控訴人らを不合格にするのは,著しく社会通念に反する
と主張する。

さらに,控訴人らは,
都教委は,地方公務員法37条に違反した争議行為禁止違反の者を非常勤教員に採用しているが,その理由は,公務員の争議行為が,本来,憲法28条に保障された基本的人権であるという側面を有していることから,その行為のみを殊更重大視して,それだけで「勤務成績が良好でない」と判断しなかったものにほかならないところ,不起立行為を法律上禁止した規定は存在しておらず,不起立行為が,思想良心及び信仰の自由の行使であるという側面を有しているにもかかわらず,これを殊更重大視して,採用拒否の理由とすることは,争議行為禁止違反の者と比較して,平等原則に著しく反するものである
とも主張する。

しかし,非違行為に対する評価は,懲戒処分の量定の場合と非常勤教員の採用の場合とでは,考慮、の仕方や裁量の範囲が異なりうることは既に述べたとおりであり,また,非常勤教員の採用の場面で過去の懲戒処分歴の評価に平等原則違反があるか否かの判断に当たっては,懲戒処分の種類,理由及び処分量定を個別に比較するほか,懲戒処分後の期間の経過も考慮に入れる必要があることから,控訴人らが主張する事例をもって,直ちに平等原則に違反するとはいえない。

永野判決の「論理」がお分かりいただけるだろうか。
同判決は、
①児童へのわいせつ行為によって停職3か月の懲戒処分を受けた者
②女性教諭にわいせつ行為をして停職3か月の懲戒処分を受けた者
③生徒に暴行を加え,傷害を負わせたことを理由に停職の懲戒処分を受けた者
④宿泊助成金を不正受給するという公金横領で減給処分を受けた者
⑤争議行為禁止違反で懲戒処分を受けた者
が再雇用されている事実を認めた。それでもなお、君が代不起立者に対しては一律不採用とすることを「平等原則に違反するとはいえない。」というのだ。

これは、「君が代斉唱時の不起立」は、「わいせつ」「傷害」「公金横領」よりも悪質だといっているに等しい。「わいせつ」も「傷害」も「公金横領」も、教員として不適切なことは自明ではないか。「君が代斉唱時の不起立」は、思想や信仰がやむにやまれぬものとしたものであり、教員としての良心の発露でもある。裁判官の憲法感覚が、世間の常識と大きく外れているものと指摘せざるをえない。

永野さんよ。この判決を高校生に向かって説明してみてはどうか。はたして、生徒諸君の納得を得られる自信をお持ちだろうか。私は、あなたのこの判決に、高校生からの合格点は付かないと思う。

「怒るべきときに、泣いていてはならない」とは至言である。落胆せずに、怒りを燃やして前進のエネルギーとしたい。
(2017年4月28日)

上原公子さん「その4500万円!(+金利5%)、あなたひとりでお支払いを」

本日(4月4日)自由法曹団東京支部から、月例の「支部ニュース」が届いた。憲法問題や共謀罪への取り組み、労働事件の報告など、各法律事務所、各地域での弁護士の熱心な働きが頼もしい。こういうニュースに目を通すのは楽しいひととき。

ところが、同封されたリーフを見て驚いた。「その4500万円!(+金利5%)、上原元市長ひとりに払わせない!」というタイトル。郵便振替払込取扱票まで同封されている。えっ、何だこれは?

たった一人でも、公権力の不正を糺すことを目的に提訴できるのが住民訴訟。その制度を形骸化させることなく活用し、活性化しなければならない。市民が、権力の違法を是正すべくコントロールするためにである。その住民訴訟における首長の責任認容判決は、貴重な成果であり財産だ。多くの人権派弁護士が、住民訴訟の活用に苦労して首長の横暴と闘ってきた。政教分離など憲法理念に関わる住民訴訟の実例も多い。せっかくの住民側勝訴判決の意義を否定するこのキャンペーン。到底自由法曹団が賛同できるカンパの要請ではなかろう。冷静にみて、この運動にはネガティブな側面が大きい。少なくも、大義に欠ける。後々に禍根を残すことにもなのかねない。

言うまでまでもないことだが、景観保護運動へのカンパなら、明らかに生きたカネの使い方だ。しかし、元市長の違法行為の個人責任の肩代わり。こんなカンパは捨て金に過ぎない。大事なお金だ。もっと意義のあるカンパ先は無数にある。

このカンパの呼びかけ主体は、「上原ファンド1万人の会」と記されている。趣意書に当たる部分は、次のとおりだ。これが全文である。

「最高裁判所は、昨2016年12月13日、上原公子元国立市長が国立市から4500万円(プラス金利5%)の支払いを求められている訴訟について、上原さんの上告を不当にも棄却。これにより、司法判断としては、上原さんの支払い義務が確定してしまいました。しかし、当時、オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした市民として、その賠償金を上原さんひとりに払わせるわけにはいかない!と決意し、100人の呼びかけとともに「くにたち上原景観基金1万人の会」(通称:「上原ファンド1万人の会」)を立ち上げました。全国の皆さんに、4500万円の基金づくりの訴えをしています。」

訴えの趣旨は、単に「オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした市民として、その賠償金を上原さんひとりに払わせるわけにはいかない!と決意し」というだけのこと。なるほど、お仲間の助け合い運動なのだ。それならば、「オールくにたちで大学通りの景観を守ろうとした仲間」だけでお支払いを分担されてはいかがか、というほかはない。「お仲間」以外にまで、カンパを要請するのはすじちがい。

在任中の上原氏に市長としての違法な行為があって、有責判決となったのはご承知のとおり。私の問題意識については、下記のブログをお読みいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=7749
http://article9.jp/wordpress/?p=3589

裁判で確定した、国立市に対して「4500万円+遅延損害金」を支払うべき元市長の法的義務。これを、元市長一人に支払わせずに、みんなで負担しましょうというカンパの呼びかけ。私には、その趣旨も意義も皆目理解できない。

このリーフレットに同氏のコメントがある。私の印象としては、高飛車で乱暴なもの言い。念のために、コメントの全文を引用して、私の意見を対置しておきたい。

「本件高裁判決のいう、『法的な規制を及ぼす手続きのみをしていれば、国家賠償法上の違法といわれることはなかった』ということでは、自立した地方創生など実施することはできません。どんなに公益のためであっても、国家賠償法で個人の求償が認められることになれば、首長はもちろん、職員はさらに委縮して、一層狭い法解釈の殼の中に閉じこもり、住民の声には耳を貸さず、行政に市民自治は期待できないということにもなりかねません。
これまで、憲法で保障する第13条(幸福追求権)第25条(最低生活の保障)は、「国民のための政治」、「国民による政治」を、人の暮らしの一番身近なところで地方自治として政治がなされてきたからこそ自治体の英断で進んできたものです。
かように、住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。もっと言えば、法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。民主政治は、「国民のための政治」でなけれぱならないがゆえに「国民による政治」の必要があるからこそ、あえて日本は二元代表制をとっていると私は考えています。これこそが、地方の時代における、地方自治の根本精神であり、憲法の要求する政治の在り方だと思います。」

「本件高裁判決のいう、『法的な規制を及ぼす手続きのみをしていれば、国家賠償法上の違法といわれることはなかった』」とは、「市長として法的に可能な規制だけをしていれば問題なかったのに、法的な許容範囲を越えたことをしたから国家賠償法上の違法といわれることになった」という意味で、至極当然なこと。これに文句を言う筋合いはない。

「どんなに公益のためであっても、国家賠償法で個人の求償が認められることになれば、首長はもちろん、職員はさらに委縮して、一層狭い法解釈の殼の中に閉じこもり、住民の声には耳を貸さず、行政に市民自治は期待できないということにもなりかねません。」
この文意は、「自分は公益のために働いたのに、個人としての責任を負わされた」「だから不当」と言いたいようだ。さらに、「これでは、首長や職員の萎縮をもたらし、行政に市民自治は期待できない」という。この行間には、「公益のためであれば、違法が問題とされるべきではない」という乱暴な「論理」が介在している。これが、同氏の本音のようだ。100人の呼びかけ人や応援者の人々はこんな、「論理」に本当に賛同しているのだろうか。

首長や職員が公益のために働くべきことは当前のこと。元市長は、公益のために働いたから弾圧されたのではない。市長として与えられた権限の範囲を越えて、違法なことをしたから責任をとらされたのだ。主観的に公益のために働いたつもりでも、法令の遵守がなければ違法となる。いまさら、いうまでもないことだ。

「これまで、憲法で保障する第13条(幸福追求権)第25条(最低生活の保障)は、『国民のための政治』、『国民による政治』を、人の暮らしの一番身近なところで地方自治として政治がなされてきたからこそ自治体の英断で進んできたものです。」
やや文意不明瞭ではあるが、「自治体の英断で憲法理念が充実してきた」事例の指摘は可能だろう。だからといって、首長の違法が許されるという論拠とはなり得ない。また、あたかも自分に「自治体の英断」の実績があると言わんばかりの姿勢には、読む方が気恥ずかしくなる。

「かように、住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。もっと言えば、法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。」
「住民の立場に立って、職員にはできない判断をし、交渉をするのが首長の仕事なのです。」は、文理としては言わずもがなのこと。ところが、続く文脈に照らし合わせると、「職員は法に従った判断しかできないが、職員にはできない法を超越した判断をし交渉をするのが首長の仕事なのです」ということのようだ。だから、「法的解釈の範囲内で手続きをするのが行政の仕事であるならば、首長を選挙で選ぶ必要もないのです。」と、首長には違法があってもよいと、乱暴で独善的な断定となっている。この高飛車なものの言い方では、確信犯的に法を無視して違法を犯したと批判されてもやむを得まい。

首長は、住民から負託された住民の意思を実現する責務を負うが、法が許容する矩を超えてはならない。現実には難しい局面もあろうが、首長には専門家としての高度の判断力を求められる。けっして、これが市民の多くの意向だからとして、法を無視した行動があってはならない。

この首長の判断が誤った場合、責任を負うべきは専門家として判断を誤った首長個人でなくてはならない。その責任にふさわしい待遇も保障されているはずではないか。その地位にはなかった第三者がこれを分担して負担することは、結局は首長の職責遂行に伴うべき厳格な遵法意識を弛緩せしめることにつながる。個人責任を徹底してこそ、コンプライアンス意識が育つ。個人責任を曖昧にすることは、モラルハザードをきたすこととなるだろう。

元市長は、法の遵守には重きを置かない姿勢である。しかし、今、われわれの課題は、法をもって強者の横暴をコントロールしようということではないか。どこの自治体も、実は保守派が圧倒している。法の遵守を軽視することは、強者である保守派の横暴を許すことになりかねない。あくまでも、法を遵守しつつ住民の利益を最大限化する努力を重ねるしかない。
だから、小なりとはいえ権力者である首長の違法行為の責任は、自分おひとり(とお身内と)でとるべきなのだ。
(2017年4月4日)

肥田舜太郞医師の証言に感動した元裁判官の新聞投稿

昨日(3月29日)の毎日新聞「みんなの広場」欄に、元裁判官・森野俊彦さんの投書が掲載されている。「肥田舜太郎さんの遺志生かせ」という表題。全文を転載させていただく。

「広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎さんが亡くなられた。私は裁判官時代、原爆症認定訴訟に関与し、肥田さんの証言録に接した。自らの被爆体験を出発点として、長きにわたる被爆者の治療経験と、海外の文献研究に基づく証言内容に強い感動を覚えた。

 裁判官退官後、肥田さんの講演会があることを知り、会いに行ったことがある。訴訟に関与した者ですと名乗った私に、肥田さんは「よくぞ会いに来られた」と言われ、私の手を力強く握られた。

 肥田さんはその後も被爆者全員の救済実現のために貴重な提言を続けられた。残念なことに原爆症認定問題は司法判断と行政認定との間の溝が埋まらないままだ。仄聞するところ、被爆者側が相応の歩み寄りを示したものの、国側は従前の認定手法にこだわっているという。原爆投下から70年以上経過した今こそ、肥田さんの言葉に真摯に向き合い、全面的な解決を図るべきではなかろうか。」

森野俊彦さんは、私と司法修習同期生(23期)で裁判官として任官された方。定年退官の後に現在大阪で弁護士をされている。親しい間柄ではないが、身近な懐かしさを覚える。

森野さんのこの投書の動機を忖度してみたい。いま、「忖度」のイメージが悪いから、「考察」でも「推理」でも、あるいは「推測」でも「推量」でもよい。

森野さんは、「裁判官も感動する」ことをみんなに知ってもらいたいと考えたのだろう。少なくとも、「感動する裁判官もいる」ということを。裁判官とて、血の通った生身の人間だ。なかには、熱い血をたぎらした裁判官もいるのだ。投書の内容からすると、森野さんは法廷で直接に、肥田さんの謦咳に接したということではないようだ。他の法廷で作成された「肥田俊太郎証言録」を読んで感動したのだ。民事訴訟では、書証として提出された証言録が法廷で読み上げられることはない。森野さんは、裁判官室であるいは自宅に持ち帰って読みふけったのだろう。

その証言録には、「ヒバク医師肥田舜太郞自らの被爆体験を出発点として、長きにわたる被爆者への治療経験と、海外の文献研究の成果」が記録されており、これが森野裁判官を強く感動させたのだ。

おそらく、森野さんはこう言いたいのだと思う。あるいは知ってほしいのだ。「法廷でのあなたの声に、懸命に耳を傾ける裁判官もいるのですよ」ということを。そして、退官後も、その感動を持ち続け、その感動に基づいて行動し発言する裁判官もいるのだと。

同じ朝刊の紙面に、「高浜原発再稼働へ」「大阪高裁 稼働停止仮処分覆す」の記事が出ている。社会面に、住民サイドの弁護団長として、井戸謙一さんが高裁決定を強く批判している。井戸さんも、元裁判官。金沢地裁の裁判長として担当した事件で、志賀原発2号機運転差し止め認容判決を出したことで知られている。裁判官として原発訴訟を担当し、そのときの知見から反原発の立場をとるようになった。退官後弁護士となってからは、住民サイドでの原発訴訟をライフワークとしておられる。

家永教科書裁判の東京地裁杉本判決(1970年)を起案したことで知られる中平健吉さんも、退官後は著名な人権派弁護士として活躍された。「人間裁判」と言われた、朝日訴訟第一審判決(1960年)を起案した小中信幸裁判官も、退官後は朝日訴訟判決の意義を語り続けた。当事者の熱意は、裁判官を動かし得る。そのような例は、探せばいくらもあるだろう。

森野さんは、私に語りかけているのではないか。「担当裁判官に共鳴し感動してもらえるような、そんな語りかけを工夫した訴訟活動をしなさいよ」「裁判官を味方につけるようでなくては、人権の擁護も憲法の理念尊重も絵に描いた餅」。その忖度、多分当たっていると思う。
(2017年3月30日)

春宵のまどろみにラジオのニュースがこう聞こえたー韓国憲法裁判所大統領罷免決定のインパクト

2012年4月26日、「日民協 韓国司法制度調査団」は韓国憲法裁判所を訪問した。我が国の、高邁な憲法理念と高邁ならざる最高裁判決との落差に臍を噛んでばかりの日本の弁護士には、韓国憲法裁判所の判決は驚嘆の内容。行政に対する厳格なこの姿勢はいったいどこから生まれてきたのだろう。その疑問ゆえの韓国憲法裁判所訪問であった。

韓国憲法裁判所では、見学者に対する応接の親切さと説明の熱意に驚いた。まずは15分ほどの憲法裁判所のプロモーションビデオを見た。みごとな日本語版であった。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所の、国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという強い自負が伝わってくる。日本の最高裁が、「社会を変える素晴らしい瞬間」を作ったという話は滅多に聞けない。そのような発想があるとすら思えない。

ビデオを見たあと、最高裁調査官にあたる憲法研究員(判事)二人から憲法裁判所の理念や仕組みそして、その運用の実態や社会的評価について2時間にもわたって懇切な説明を受け、充実した質疑応答があった。研究員の一人は、日本に留学(東北大学)の経験ある方で、完璧な日本語での説明だった。その気取らない応対の姿勢にいたく感心し、わが国の最高裁のあの威圧的で横柄な対応との懸隔を嘆いたものだった。

その日、法廷の見学もした。日本の最高裁大法廷よりは、一回り小さいものだが、権威主義的ではない明るい印象があった。屋上庭園にも案内され、青瓦台を遠望もした。後年、ここで大統領の訴追に対する弾劾の裁判が行われるとは思いもよらなかった。

その韓国憲法裁判所が、本日(3月10日)朴槿恵大統領に、罷免の審判を言い渡した。憲法裁判所は、強い司法積極主義を印象づけた。

今日の夕刻、ラジオのニュースを聞きながら多少まどろんだ際に、次のようなニュースが耳に跳び込んできた…ように聞こえた。

我が国のアベ首相に対する国会の弾劾訴追を審理していた最高裁判所大法廷は10日、アベ氏の思想的同志である籠池泰典氏による小学校建設をめぐる一連の権力濫用疑惑(いわゆる「アベ友疑惑」)事件について、違法・違憲と断定し、それが在任期間の全般にわたって続いたとして、アベ氏の罷免を言い渡した。アベ氏は即座に総理大臣と国会議員としての職を失するとともに、今後7年間公民権を停止され、公職に関する選挙権と被選挙権を失うことになる。
 これに伴い憲法54条の規定に準じて40日以内に衆議院総選挙が行われることとなり新たな首班指名の段取りとなると思われるが、この際投開票日を敢えて5月3日の憲法記念日として、国民が立憲主義の基本を再確認すべきとする案も有力視されている。
 我が国憲政史上、弾劾による首相の失職は初めてのこと。この歴史的決定は、最高裁裁判官15人全員の一致した意見となった。国民の8割近くが首相の弾劾に賛成していた世論を反映した形だが、アベ氏を支持する少数派右翼層は強く反発しており、我が国社会の混乱は続きそうだ。

 テラダ最高裁長官は決定文を読み上げ、アベ友疑惑事件について、アベ氏が「首相の地位と権限を濫用した」と断定。疑惑解明のための関係者の国会招致や特別検察官などの捜査に応じなかったことについて「もともと、被訴追者アベは、立憲主義思想理解の素養に欠け、違法・違憲行為を繰り返して行政府の長として意を尽くすべき憲法遵守の姿勢の片鱗も窺えない」と厳しく指摘した。そのうえで「(アベ氏の)違憲、違法行為は国民の信任に背き、重大な違法行為だ。その違法行為が我が国の憲法秩序に与える否定的な影響と波及効果は重大」として罷免が妥当だとした。

籠池氏による極右教育を売り物とした小学校建設に伴う、アベ政権の口利き疑惑の数々は、2017年2月初旬以来我が国メディアの報道するところとなり、国民のアベ弾劾の気運は急激に高まって、各地でのアベ氏退陣を求める市民による大規模集会が行われた。

我が国国会は先日、アベ友学園疑惑に関するアベ氏の行動は、限りなく違憲濃厚として弾劾訴追案を圧倒的多数で可決。
最高裁は、
(1)国民主権主義や立憲主義・法治主義に違反したか
(2)首相の口利きや職権濫用の事実があったか
(3)籠池氏と共謀共同正犯となり得る刑事犯罪があったか
(4)メディア弾圧を行ったか
(5)教育勅語など違憲内容の教育助長の意図があつたか
の五つの争点について、違憲もしくは重大な違法行為にあたるかを審理してきた。アベ氏側は「選挙で選ばれたのだから、私が国民の意思であり法律だ」「口利きや忖度というが、正しいことをしている」「教育勅語のどこが悪い」「すべては、メデイアのでっちあげ」などと全面的に否定してきた。

政権を支えてきた保守層は既にアベ氏を見放し支持率は5%まで下落している。しかし、コアな極右勢力5%がアベの支持を継続している。トーキョー市中心部では毎週金曜日、退陣を求める大規模集会が開かれてきた。

アベ氏はこれまで、首相としての立場で逮捕を免れていたが、失職したことで近く検察に逮捕、起訴されると見られている。

心地よい夢から覚めてうつつの世界に戻ったが、さてあれは正夢か。それとも逆夢なのだろうか。
(2017年3月10日)

事件名提案ー「豊中アベ疑惑事件」・「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだろう

言葉は大切だ。用語の選び方次第で、同じものを逆にも見せることができる。そう考えて、自民党は11本の戦争法案を、「国際平和支援法」(1本)と「平和安全整備法」(10本一括)と命名した。「国際平和」であり、「平和安全」である。これが、集団的自衛権行使や海外での自衛隊の武器使用を可能とする戦争法なのだ。そのほかにも、「積極的平和主義」だの、「一般的には戦闘だが法的には衝突」だの、枚挙に暇がない。自民党に倣って、ネーミングには工夫をしよう。

今、ようやく話題となりつつあるあの事件。正確にいえば、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ事件」をどうネーミングするか。この問題に火をつけた朝日は、「森友学園問題」といっているが、随分と腰の引けたネーミング。「森友学園」は覚えにくいし、覚えるに値しない。これではダメだ。毎日の本日の朝刊は、「大阪市の学校法人『森友学園』が小学校用地として大阪府豊中市の国有地を鑑定額より大幅に安く取得した問題」だ。これも長すぎて使えない。運動の中で使えるような事件名作りに、知恵を寄せ集めよう。

ネーミングは、この事件のどこをどのように主要問題点として把握するかによる。問題点が多岐にわたるとき、そのすべてを盛りこむことはできない。ネーミングに盛りこむべき要素を書き出してみよう。

その1 「アベ関与疑惑」
これが本質的なメインファクターだ。アベが極右勢力と親密で、極右復古主義教育に賛辞を呈していることが何よりの問題。国会でも「学園の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」とまで述べている。国有財産ただ同然払い下げという、国からの不当きわまる極右学校法人に対する便益供与。その原因としてアベの関わりが疑われるところ。アベ疑惑として徹底した解明を要するところだ。

その2 「アベ妻疑惑」
臆面もなく、右翼幼稚園教育礼賛を繰りかえし、その広告塔となることで、アベと極右学校法人との橋渡しとなっていたのがアベ妻。「こちらの教育方針は、たいへん主人(安倍晋三)も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」として、新設予定とされた小学校の名誉校長就任を引き受けた。これが、近畿財務局や航空局に影響なかったはずはない。

一昨日(2月23日)に森友学園のホームページから削除された記事では、アベ妻が名誉校長として「理事長の教育への熱い思いに感銘を受け、(名誉校長に)就任させていただいた」「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ子どもを育てます」と記していた。疑惑を追及されて「名誉校長」の任を放棄して逃げ出したのは不可解。右翼勢力との関係を究明するとともに、アベの取引への関わりの有無について徹底して疑惑を解明しなければならない。

その3 「極右学校法人」疑惑
森友学園が経営する塚本幼稚園の極右復古主義教育の内容はすさまじい。理事長の個人的な政治的主張のために、子どもたちに皇室や自衛隊礼賛の旗振りをさせて手駒として使っている。また、極右にふさわしいヘイト文書や、児童虐待等々が報道されている。その一つ一つを徹底して事実究明していくことが必要だ。すなわち、アベ夫妻が共鳴し褒めたという教育の実態を明らかにしなければならない。

その4 「国有財産ただ同然払い下げ」疑惑
当初は右翼法人が定期借地権を設定して国から借地し、土地の汚染除去を理由に1億3200万円を国に支払わせ、次いで埋設ゴミ除却費用分8億円を値引かせて1億3400万円で払い下げを受けたという。結局のところ、この右翼法人は、わずか200万円で9億5000万円相当の不動産を手に入れた。当初は、隠蔽されていたこのような国有財産管理のからくりの究明が必要だ。アベの存在あればこそ、このような破格の、あるいは通常は考えられない馬鹿げた不当取引が実現したのだろうと考えざるをえない。何らかのかたちでアベが口を利いたのか、あるいは、学校側がアベの存在をチラつかせたか、それとも近畿航空局側が勝手にアベの意向を忖度したか。徹底して洗い出す必要がある。

その5 「私立小学校設立認可(予定)」疑惑
財政状態劣悪な森友学園がどうして、私学審で「認可適当」となったのか。この点も、きちんと解明されなければならない。また、入学希望予定生徒の保護者は、広告塔として利用された安倍夫妻の推薦によってこの学校を選択したのか否か。そして、既に入学金や寄付金を支払っているのかどうか。

その6 その他にも、豊洲同然の校地土壌汚染問題あり、南スーダンPKO同然の書類破棄問題あり、公開請求に棄却決定の問題まである。

これらの「疑惑点」を繋げると、寿限無の如く、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ・その他付随疑惑事件」となる。思い切ってハサミを入れよう。

飽くまで中心のテーマは、学校法人が右翼的思想で安倍首相と通じていたから、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的な疑惑。

当ブログでは、最初「学校法人『森友学園』の『アベ友疑惑小学校』設立認可問題」とし、その後「『アベ疑惑小学校』設立問題」とした。最終的には、学校認可問題と思ったのだが、修正しなけばならない。

「国有地ただ同然払い下げアベ友疑惑事件」ではどうだろうか。長すぎるのなら、「国有地払い下げアベ関与疑惑」。これでも長ければ、「豊中アベ疑惑事件」「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだ。
(2017年2月25日)

無給の司法修習制度は、苦学生を閉め出すことになる

  わが抱く思想はすべて
  金なきに因するごとし
  秋の風吹く

よく知られたこの啄木の歌。詩的な情緒に欠けて無味乾燥ではあるが、この世の真理を衝いている。自分の身に当て嵌めて思い当たる。私の抱く思想も、すべて金なきに因して形づくられた。金あるものは金あるにふさわしい考えを、金なきものは金なきが故の思想を抱くのが、世の常ではないか。

私は、典型的な苦学生だった。その苦学生に、法曹は魅力的な進路だった。司法試験の受験資格は誰にも開かれている。法学部の学生ではなかった私も受験に差し支えはなかった。これに合格すれば、司法修習生として採用され、給与を得ながらの修習ができる。その身分は、準公務員である。修習専念義務を課せられるが、その見返りに定額の給与を保障されて、みっちり2年間、法曹としての見習いができるのだ。

費用のハードルを意識することなく、苦学生だった私は司法修習生となり、修習終了時に弁護士への途を選択して職業生活を開始することになった。こうして、金なきに因して形づくられた思想を抱いたまま私は弁護士となることができた。今は昔の話である。

金なきに因した思想を抱いた若者を法曹にさせたくないとすれば、法曹資格の取得までに多額の金がかかるような制度設計をすればよい。そうすれば、金のない苦学生などは、費用のハードルに足をすくわれてゴールできなくなる。法曹界への「悪い思想」侵入に対する防御策となり得る。

制度設計の意図はいざ知らず、現在の法曹養成の制度は、貧乏学生を閉め出すものとなっている。そもそも苦学生は、法曹を目指す意欲をもてないだろう。私も、今の制度では弁護士を目指さなかった。仮にその意欲あっても、実現できたとは思えない。

今、法曹を志す者は、大学卒業後に法科大学院での2年ないし3年の就学を必要とする。もちろんこの間の学費の支払いが必要である。司法試験に合格さえすれば給料がもらえたのが昔の話。今は、法科大学院の入学試験に合格すれば、学費を支払わねばならない。

法科大学院を卒業すれば、司法試験の受験資格を得ることができる。首尾よく司法試験に合格して司法修習生となっても給与はない。修習専念義務だけがあって、アルバイトは禁止だが、生活費の保障はない。希望者に生活費の貸与はあるが、当然借金となり返還の義務を負うことになる。

貧乏学生は、「学部時代の奨学金」「法科大学院での奨学金」、そして「司法修習時代の貸与金」返済の債務を背負って職業生活を始めることになる。その額1000万円を超える者もいるという。債務弁済のために、若手の弁護士が金の儲かる割のよい仕事を漁ることにもなり得よう。

司法修習が無給になったのは、2011年からである。私はこの制度変更は、法曹の性格と修習生の意識を変えたと思う。それまで、裁判実務に携わる法曹(裁判官・検察官・弁護士)とは、公的な理念に支えられ、公費で養成されるにふさわしい使命を持った職業と位置づけられていた。司法修習生には、自ずからその自覚が求められた。

ところが、2011年以来、司法修習生の給費制度が廃止されるや、弁護士はビジネスになった。人権擁護と社会正義を擁護する使命はかたちだけのものとなり、司法修習生の意識も、「弁護士となって高給を食み、弁護士になるまでのコストを回収しなけばならない」と変わった。

だから、日弁連も、心ある市民も、司法修習の給費制復活を願った。ことは、けっして法曹志望者に酷だからというにとどまらない。国民の権利擁護に直接携わる実務法律家の質や意識に関わる問題なのだ。法曹の出身階層を、一定以上の経済的地位にある者に限定して、経済的に困窮の立場にある階層を閉め出すことの問題性は明らかではないか。

この問題に、ようやく明るさが見えてきた。一昨日(12月19日)、来年の司法試験合格者から「給費制」を事実上復活することを法務省が発表した。現在の案では、月額に一律13万5000円を支給し、アパートなどを借りる必要がある修習生に対しては、住居費として月額3万5000円を上積みするという。制度導入にあたり必要となる裁判所法改正案を、来年(2017年)の通常国会に提出予定とのこと。

これを受けた、日弁連会長談話の抜粋を引用しておきたい。

2011年に司法修習生に対する給費制が廃止され、修習資金を貸与する制度に移行してから5年が経過した。この間、司法修習生は、修習のために数百万円の貸与金を負担するほか、法科大学院や大学の奨学金の債務も合わせると多額の債務を負担する者が少なからず存在する。近年の法曹志望者の減少は著しく、このような経済的負担の重さが法曹志望者の激減の一因となっていることが指摘されてきた。

司法制度は、三権の一翼として、法の支配を社会の隅々まで行き渡らせ、市民の権利を実現するための社会に不可欠な基盤であり、法曹は、その司法を担う重要な役割を負っている。このため国は、司法試験合格者に法曹にふさわしい実務能力を習得させるための司法修習を命じ、修習専念義務をも課している。ところが、法曹養成の過程における経済的負担の重さから法曹を断念する者が生じていることは深刻な問題であり、司法を担う法曹の人材を確保し、修習に専念できる環境を整備するための経済的支援が喫緊の課題とされてきたものである。

このような状況を踏まえ、法務省が新たな経済的支援策についての制度方針を発表した意義は重要である。日弁連はこれまで、法曹人材を確保するための様々な取組を行ってきており、その一環として、修習に専念しうるための経済的支援を求めてきたものであり、今回の司法修習生に対する経済的支援策についてはこれを前進と受け止め、今後も、法曹志望者の確保に向けた諸々の取組を続けるとともに、弁護士及び弁護士会が司法の一翼を担っていることを踏まえ、今後もその社会的使命を果たしていく所存である。

修習生の側が、社会からの拠出を原資とする給付であることを自覚して、職業生活を通じて社会に還元すべき責任を果たさなければならないことは当然である。が、法曹を志す者だけの問題ではなく、国民の裁判を受ける権利をよりよく実現する制度設計の問題として、また、裁判を受ける際には接することになる実務法律家の質をどう確保するかの問題としてお考えいただきたい。金なきに因する思想を持つ法律家を閉め出すような法曹養成制度は甚だしく歪んでいるのだから。
(2016年12月21日)

司法は権力から独立しているのか。ー辺野古訴訟最高裁判決の示すもの

「あたらしい憲法のはなし」を、ときおり読み返す。今日は、辺野古訴訟の最高裁判決を受けて、その「十一 司法」を読んでみた。

日本国憲法の施行が1947年5月。その年の8月に、新制中学校1年生用の社会科教科書として文部省が編纂したのが、この「あたらしい憲法のはなし」。当時、文字通り、できたての「あたらしい憲法」だったのだ。その後副読本に格下げされ、1952年以後は使われていない。

内容は細部を見れば不十分ではあるが、「民主的な平和憲法」の精神を国民に普及しようという、時代の空気や清新な意気込みが伝わってくる。全十五章。各章の標題は以下のとおり。
「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」

「十一 司法」は短い。全文をご紹介する。
 「司法」とは、爭いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、じぶんの生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という國の仕事は、國民にとってはたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで國には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
 裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と國会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出しをすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきいたりすることができるのです。これは、國会と同じように、裁判所の仕事が國民の目の前で行われるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、國会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
 みなさん、私たち國民は、國会を、じぶんの代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません。

新憲法の特徴として違憲立法審査権が解説されているほか、「公平」という裁判の理念を実現するために、「司法権の独立」(その内実としての「裁判官の独立」)の重要性が強調されている。さて、「司法権の独立」は70年後の今日、現実のものとなっているだろうか。

司法の独立とは、最高裁を頂点とする裁判官たちが、国家や公権力からの有形無形の圧力から自由であることを意味する。今の司法が、国や政権におもねることなく、法と良心のみに従った裁判ができているか。答は「ノー」というしかない。

日本の裁判官諸氏の廉潔性は信頼に足りる。裁判官の私的利益獲得の思惑で判決の内容が左右されることはない。しかし、その廉潔な裁判官が、権力からの圧力に屈せぬ気概をもち、現行の支配の秩序が求めるものから自由であるかといえば、到底肯定し得ない。

最高裁だけでなく下級審の判決も、丁寧で精緻ではある。しかし、支配の秩序の根幹に関わる事案においては、どうしても「反権力」とはなり得ない。九条・安保・基地・沖縄・天皇・日の丸・君が代・家制度などに関わるテーマとなれば、憲法の理念を貫くという姿勢が腰砕けとなってしまう。

本日(12月20日)の最高裁辺野古訴訟判決はその典型と言ってよい。さすがに、原審・福岡高裁那覇支部判決のような「安保公益論」の思い込みの説示はなかったものの、4人の裁判官の全員一致の結論で反対意見も補足意見もなかったという。

先に引用した、「あたらしい憲法のはなし」は、国民に、
  國会には信頼を
  裁判所には尊敬を
求めている。これは、間違いだろう。民主主義本来の理念からは、
  國会には国民の猜疑を
  裁判所には国民の監視を
こそ、求めねばならない。

しかし、当時の文部省は、裁判所を「じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかた」と描いたのだ。いざという時の「国の味方」としての裁判所は想定外だったのだ。国の肩をもって、戦争のための恒久的な海兵隊の揚陸艦接岸基地建設を認め、環境破壊も治安の悪化も騒音も我慢せよという、住民いじめの判決を書く裁判所が現れようとは思いもよらなかったのだ。

まことに、権力から独立した「そんけいにあたいする最高裁」が切実に求められている事態ではないか。
(2016年12月20日)

軍事立法でも、治安立法でもなく、誤判防止の刑事司法を

一昨日(11月19日(土))、日本民主法律家協会の「第47回司法制度研究集会」が開催された。メインタイトルは、「治安国家化・監視社会化を問う 何のための刑訴法・盗聴法「改正」、共謀罪法案か?」というもの。

主催者の案内が、次のようになっている。
「今回の集会では、本年5月24日に成立した「改正」刑訴法・盗聴法の内容の危険性を暴くとともに、法律家団体と市民が協働しながら反対運動を展開してきた成果を共有したいと考えています。
 また、一昨年に施行された特定秘密保護法、「改正」刑訴法・盗聴法、そして、来年通常国会への上程が取り沙汰される共謀罪等が総体としてもたらすであろう監視社会・治安国家への対応には、「改憲」反対のすべての運動の結集が急務であると考えます。
『改憲』に向けた現政権の謀略に対峙していくための法律家運動の課題を模索するとともに、法律家運動の果たすべき役割を改めて確認し、市民とともに、大きな国民的運動を展開する決意を誓い合う司法制度研究集会になるよう、皆さまのご参加をお待ちしています。」

討論の素材となった報告は3件。「刑訴法『改悪』阻止の闘いと今後」小池振一郎、「盗聴法・共謀罪の本質」海渡雄一、そして「秘密保護法,盗聴法・刑訴法,共謀罪と治安国家・監視社会化」白取祐司(神奈川大学法科大学院教授)。前2件は、報告のタイトルで内容が推察できる。しかし、3件目の白鳥報告だけはよく分からない。集会主催者の注文で、メインタイトルに合わせた内容。

この白鳥報告が明晰で面白かった。クローズアップで問題を見極めようとする報告の中で、カメラを引いてロングでものを見ることによって、背景事情やものごとの関連性が見えてくる。そんな印象の報告だった。いずれ「法と民主主義」に掲載されるが、私流に把握した要点をかいつまんでご報告したい。

☆最近の刑事立法を概観すると、特定秘密保護法成立以来、とんでもない悪法の目白押しである。
 ・特定秘密保護法(2014年)
 ・通信傍受法改正法(2016年)
 ・刑事訴訟法改正法(2016年)
 ・共謀罪法案(2017年?)
どうしてこんなことになっているのか。政治状況の変化、端的に言えば安倍政権がもたらしたものだが、それだけではない。これまで悪法の成立に歯止めを掛けてきた勢力の変容があるように思われる。日弁連と研究者集団の変質を指摘せざるを得ない。
増員の影響か、弁護士のノブレスオブリージュの気概が希薄になってきたのではないか。また、かつて刑法改悪阻止運動の先頭に立った平野龍一のごとき存在が消え、政権や法務省にすり寄る研究者が増えている。真剣な検討を要する。

☆21世紀にはいって以来、「最近」以前の主要刑事立法を概観すれば、以下のとおり。
・少年法改正(検察官関与・原則逆送)(2000年)
・裁判長法・刑事訴訟法改正法(2004年)
・刑事収容処遇法(2005年)
・犯罪被害者参加法(2007年)
・公訴時効廃止法(2010年)
これらの刑事諸立法を貫徹する共通の理念を把握したり、傾向を指摘することが難しい。立法の背景が見えにくくなっていると言わざるを得ない。

☆一方、望ましいとして立法課題と意識されてきた下記の法は成立に至っていない。
・死刑廃止法
・再審法改正法
・監視型捜査規制法
・ミランダ法(弁護人立会権確立立法)

☆以上のごとき現在の状況を歴史的視座に置いてみると、以下の治安維持法の時代との類似性が指摘できるのではないか。
・治安維持法(1925年)
・治安維持法改正(1941年)
・軍機保護法(1937年)(1941年全面改正)
・国防保安法(1941年)*1940年大政翼賛会結成
1925年から敗戦までは、刑事法的には「治安維持法の時代」と言ってよい。上記各法は戦時法であり、戦争準備の立法であった。軍機保護法は1889年日清戦争後日露戦争を見据えて制定された。1937年に全面改正され、さらに1941年にも戦争の進展に応じて改正された。

☆特定秘密保護法は軍事立法であり、戦争準備の法と認識しなければならない。そして、「治安維持法の時代」の諸刑事立法が、改正を重ねていることに留意しなければならない。新規の立法はそれなりの抵抗に遭う。政権は妥協した形でマイルドに修正して立法に漕ぎつけ、頃合いをみてハードに法を改正する。新規立法よりは改正の方が世論の関心事とならず、抵抗は小さい。この事情は、戦前も今も同じこと。だから悪法反対運動は、立法成立後も改悪反対運動としての持続が大切なのだ。

☆分析のための視座として、
1 軍事法制下の刑事法
2 治安立法としての刑事法
3 監視社会と刑事立法
という、観点が必要だろう。

☆軍事法としての特定秘密保護法が危険で問題というだけでない。非常事態宣言下のフランスにおける刑事手続のように、テロ対策という名目の非常時立法は、常に軍事法としての危うさを警戒しなればならない。

☆いま、体感治安の悪化が煽られている。刑法犯は減少し、凶悪犯も著しく減っているにかかわらず、意図的に不信不安が醸成された結果である。警察依存型の刑事政策が意図されているからとみるべきだろう。このような策動に、どこかで歯止めが必要だ。

☆むのたけじが、自分の記者時代を振り返って語っている。
「治安維持法も国家総動員法も、法の具体的な適用の有無が問題であるよりは、そのような法律が作られ存在すること自体が大きな問題だった。」
今、そのような時代状況になろうとしているのではないか。必要なのは、軍事立法でも治安立法でもない。積極的に「誤判を防止し誤判被害者を救済する」ための、刑事司法改革こそが必要ではないか。
(2016年11月21日)

「こんな裁判所なら不要」ではなく、「こんな判決は有害」というべきだ。

沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が沖縄県の翁長雄志知事を訴えた「辺野古違法確認訴訟」で福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)は(9月)16日、国側の請求を認め、県側敗訴の判決を言い渡した。(朝日から引用)

沖縄タイムスが、法廷での裁判長の発言を、「裁判長『ほっとした ありがとう』異例の感謝」「憤る傍聴席」の見出しで、次のように報じている。

「ほっとしたところであります。どうもありがとうございました」。16日午後2時、多見谷寿郎裁判長は、約4分間の国側勝訴の判決言い渡しを安堵の表情で締めくくり、県側代理人に一礼した。
 翁長雄志知事が敗訴した場合に『確定判決には従う』考えを明言したことへの異例の“感謝”に、県側代理人は硬い表情を崩さなかった。傍聴席からは『出来レースとしか思えない』と憤りの声が上がった。」

裁判長の言い渡しとこれに続く発言は以下のとおりとのこと。

それでは、いま読み上げました事件(平成28年(行ケ)第3号地方自地法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件)の判決を致します。
主文
1、原告が被告に対して平成28年3月16日付「公有水面埋立法に基づく埋立承認の取り消し処分の取り消しについて(指示)」によってした、地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて、被告が公水法42条1項に基づく埋立承認を取り消した処分を取り消さないことが違法であることを確認する
2、訴訟費用は被告の負担とする。
請求認容です。理由については、判決の骨子と要旨を作成している。ご覧ください。

なお、この場で2点だけ説明致します。
まず1点目は、協議と判決との関係。協議は政治家同士の交渉ごとでまさに政治の話。訴訟は法律解釈の話。両者は対象とする問題点は同じでも、アプローチがまったく違うもので同時並行は差し支えないと、考えた。
2点目。裁判所が被告に敗訴判決に従うかを確認した理由に関係する。国は敗訴しても変わらない。国は何もできないことが続くだけ。
これは弁護士の方はよくご存じだと思うが、平成24年の地方自治法改正を検討する際に問題になった。

不作為の違法を確認する判決が出ても、地方公共団体は従わないのではないか。そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがあるということが問題になった。
そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた。
それで、その事件がこの裁判にきたということになる。そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた。もちろん代執行訴訟では、被告は「不作為の違法確認訴訟がある。そこで敗訴すれば、従う。だから、最後の手段である代執行はできない」と主張されまして、それを前提に和解が成立しました。
ですから当然のこととは思いましたけれども、今申し上げたように理解があるということでしたので、念のため確認したものの、なかなかお答えいただけなくて心配していたんですけども、さすがに、最後の決断について知事に明言していただいて、ほっとしたところであります。どうもありがとうございました。判決は以上です。じゃあ終わります。

裁判所が作成した判決骨子というものは以下のとおり。これだけ読めば、裁判所の考え方が、あらかた解る。

判決骨子
1 事案の概要
 本件は,原告が,被告に対し,普天間飛行場代替施設を辺野古沿岸域に建設するために受けていた公有水面埋立ての承認の取消しを敢り消すよう求めた是正の指示に従わないのは違法であるとして,その不作為の違法の確認を求めた事案である。
2 当裁判所の判断
(1) 知事が公有水面埋立承認処分を取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要し,その違法性の判断について知事に裁量は存しないので,取消処分の違法性を判断するに当たっては,承認処分の上記違法性の有無が審理対象となる。
(2) 公有水面埋立法(以下,「法」という。)4条1項1号要件の審査対象に国防・外交上の事項は含まれるが,これらは地方自治法等に照らしても、国の本来的任務に属する事項であるから,国の判断に不合理な点がない限り尊重されるぺきである。
(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。
(4) 承認時点では,十分な予測や対策を決定することが困難な場合は引き続き専門家の助言の下に対策を講じることも許されるなどの点に照らすと法4条1項2号要件を欠くと認めるには至らない。
(5) よって,承認処分における要件審査に裁量権の逸脱・濫用があるとは言えず,承認処分は違法であるとは言えない。仮に,承認処分の裁量権の範囲内であってもその要件を充足していないという不当があれば取り消せると解したとしても,承認処分に不当があると認めるには至らないし,仮に不当があるとしても,知事の裁量の範囲内で埋立ての必要を埋立てによる不利益が上回ったに過ぎず,承認を取り消すべき公益上の必要がそれを取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越しているとはいえないなど,承認処分を取り消すことは許されない。よって,被告の取消処分は違法である。
(6)その他,被告がする是正の指示が違法であるとの主張は,その前提とする地方自治法の解釈が失当である。
(7)遅くとも本件訴え提起時には,是正の指示による措置を講じるのに相当の期間は経過しており。被告の不作為は違法となった。また,地方自治法の趣旨及び前件和解の趣旨から,被告は自ら是正の指示の取消訴訟を提起するべきであった。

もっとも、めったにない形式の訴訟。経過を追っていないと、何が争われているかが分かりにくい。読者に分かっていただけるように解説したい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。この埋め立てには公有水面埋立法に基づく県知事の承認が必要となっている。国といえども例外ではない。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。問題となった法の条項は、公有水面埋立法4条1項の1号と2号である。

第四条 都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ
一 国土利用上適正且合理的ナルコト
二 其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)13年12月27日、仲井眞前知事が承認した。(これを「仲井眞承認」と言うことにする)
(2)15年10月13日、翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。(これを「翁長取消」とする)
(3)16年3月16日、国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国は県に対して、「翁長取消を取り消せ」と是正指示をしている。翁長取消が取り消されれば仲井眞承認が復活して、現在中断している埋立工事を再開して続行できるとになるわけだ。

国にいわせれば、(1)法に照らして「仲井眞承認」が正しく、(2)「翁長取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「翁長取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、という訴訟を提起したのだ。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞承認」はいい加減な審査でなされた違法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

判決は、国の完勝、県の完敗である。判決言渡し後の報告集会で、被告県側の弁護団長は「考えられる中では最も悪い判決」と言い切ったと報道されている。まったく、そのとおりだろう。判決書は全文180頁を越す大部なもので、全文は手許にないが、目次や沖縄タイムスが報道している下記の「詳細要旨」で十分に中身が分かる。裁判所が整理した、争点(1)~争点?のいずれについても、裁判所はなんの悩みもなく国側の肩をもっている。

 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/62573

まず、判決理由は、「仲井眞承認は広範な裁量権にもとづくもので、これを取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要する」とし、一方「翁長取消の判断に、仲井眞承認の違法性判断に裁量はない」と言いきる。これで、事実上勝負あったということになる。

続いて、判決は仲井眞承認の適法性を積極的に述べている。公有水面埋立法4条1項の1号と2号の各要件を充足しているというのだ。この判断には、問題が大きい。とりわけ、「国土利用上適正且合理的ナルコト」に関して、国の防衛政策上の適正・合理性の主張に過剰にコミットしている点が問題となろう。事実上、日米安保を基軸とする国の防衛政策を過度に重要視して、これに反する自治体の判断を許さないものとなっており、地方自治をないがしろにするものと言わざるを得ない。(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。また、埋立承認の条件としての環境保全の必要性については、その重要性が没却されている。

「普天間飛行場の被害を除去するには本件埋め立てを行うしかない」などと国の主張に積極的な賛意を表するその筆致は、公正性を疑わせるに十分である。

なお、争点6の「国が行える是正の指示の範囲について」の判示が引っかかる。

「本件指示は国土交通大臣の権限を逸脱する」という、知事側の見解を一蹴して、判決はこう言っている。
「是正の指示の要件は、『各大臣は、その所管する法律、またはこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき』(同法245条の7第1項)と定めている。これは、法定受託事務に関する是正の指示については、都道府県が処理する法定受託事務に係る法令を所管する大臣であることだけが要件とされている。自らの担任する事務に関わるか否かに関係なく、法定受託事務の処理が違法であれば、是正の指示の発動が許される趣旨と解される。よって、この点において知事の主張に理由がないことは明らかだ。」

この見解だと、仮に仲井眞承認の先行なく、翁長知事が国(防衛局)の埋立申請を不承認とした場合でも、国(国交相)は承認するように是正の指示が出せることになる。これでは、国と自治体との対等性はまったく否定されてしまうではないか。

多見谷コートに関しては、沖縄現地の報道は、非常にネガティブなものだった。「15年10月に多見谷裁判官が福岡高裁那覇支部長に異動したのは、国寄りの判決を書いてきた姿勢を見込まれて、辺野古訴訟対策に送り込まれたのではないか」「国側代理人は法務省の定塚訟務局長だが、定塚氏は高裁支部の多見谷裁判長と連絡をとっていた」など。判決は、危惧されたとおりのものとなった。

裁判とは紛争解決の役割を持つ制度だが、どのような判決でも、ともかくどちらかの主張に軍配を挙げること自体に意味があるというものではない。公正な立場から法的正義を実現しているとの国民からの信頼を得ることによって、社会の秩序形成に資することになる。しかし、これだけ露骨な政府摺り寄りの判決となっては、沖縄県民だけでなく、沖縄の問題に関心を寄せるあらゆる人に、説得力を持ち得ないものとなった。

「こんな裁判所なら不要」のレベルではない。「こんな判決は有害」というべきだろう。これでは国と沖縄県との紛争解決に益するものとはなりようがない。
(2016年9月17日)

「辺野古・違法確認訴訟」ーはたして公正な裁判が行われているのか。

国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。

問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。

代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。

代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。

「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。

衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。

国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。

裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。

本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。

「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
 この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
 審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
 多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。

 多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
 同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」

本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」

また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」

そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。

そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。

民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)

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