澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

春宵のまどろみにラジオのニュースがこう聞こえたー韓国憲法裁判所大統領罷免決定のインパクト

2012年4月26日、「日民協 韓国司法制度調査団」は韓国憲法裁判所を訪問した。我が国の、高邁な憲法理念と高邁ならざる最高裁判決との落差に臍を噛んでばかりの日本の弁護士には、韓国憲法裁判所の判決は驚嘆の内容。行政に対する厳格なこの姿勢はいったいどこから生まれてきたのだろう。その疑問ゆえの韓国憲法裁判所訪問であった。

韓国憲法裁判所では、見学者に対する応接の親切さと説明の熱意に驚いた。まずは15分ほどの憲法裁判所のプロモーションビデオを見た。みごとな日本語版であった。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所の、国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという強い自負が伝わってくる。日本の最高裁が、「社会を変える素晴らしい瞬間」を作ったという話は滅多に聞けない。そのような発想があるとすら思えない。

ビデオを見たあと、最高裁調査官にあたる憲法研究員(判事)二人から憲法裁判所の理念や仕組みそして、その運用の実態や社会的評価について2時間にもわたって懇切な説明を受け、充実した質疑応答があった。研究員の一人は、日本に留学(東北大学)の経験ある方で、完璧な日本語での説明だった。その気取らない応対の姿勢にいたく感心し、わが国の最高裁のあの威圧的で横柄な対応との懸隔を嘆いたものだった。

その日、法廷の見学もした。日本の最高裁大法廷よりは、一回り小さいものだが、権威主義的ではない明るい印象があった。屋上庭園にも案内され、青瓦台を遠望もした。後年、ここで大統領の訴追に対する弾劾の裁判が行われるとは思いもよらなかった。

その韓国憲法裁判所が、本日(3月10日)朴槿恵大統領に、罷免の審判を言い渡した。憲法裁判所は、強い司法積極主義を印象づけた。

今日の夕刻、ラジオのニュースを聞きながら多少まどろんだ際に、次のようなニュースが耳に跳び込んできた…ように聞こえた。

我が国のアベ首相に対する国会の弾劾訴追を審理していた最高裁判所大法廷は10日、アベ氏の思想的同志である籠池泰典氏による小学校建設をめぐる一連の権力濫用疑惑(いわゆる「アベ友疑惑」)事件について、違法・違憲と断定し、それが在任期間の全般にわたって続いたとして、アベ氏の罷免を言い渡した。アベ氏は即座に総理大臣と国会議員としての職を失するとともに、今後7年間公民権を停止され、公職に関する選挙権と被選挙権を失うことになる。
 これに伴い憲法54条の規定に準じて40日以内に衆議院総選挙が行われることとなり新たな首班指名の段取りとなると思われるが、この際投開票日を敢えて5月3日の憲法記念日として、国民が立憲主義の基本を再確認すべきとする案も有力視されている。
 我が国憲政史上、弾劾による首相の失職は初めてのこと。この歴史的決定は、最高裁裁判官15人全員の一致した意見となった。国民の8割近くが首相の弾劾に賛成していた世論を反映した形だが、アベ氏を支持する少数派右翼層は強く反発しており、我が国社会の混乱は続きそうだ。

 テラダ最高裁長官は決定文を読み上げ、アベ友疑惑事件について、アベ氏が「首相の地位と権限を濫用した」と断定。疑惑解明のための関係者の国会招致や特別検察官などの捜査に応じなかったことについて「もともと、被訴追者アベは、立憲主義思想理解の素養に欠け、違法・違憲行為を繰り返して行政府の長として意を尽くすべき憲法遵守の姿勢の片鱗も窺えない」と厳しく指摘した。そのうえで「(アベ氏の)違憲、違法行為は国民の信任に背き、重大な違法行為だ。その違法行為が我が国の憲法秩序に与える否定的な影響と波及効果は重大」として罷免が妥当だとした。

籠池氏による極右教育を売り物とした小学校建設に伴う、アベ政権の口利き疑惑の数々は、2017年2月初旬以来我が国メディアの報道するところとなり、国民のアベ弾劾の気運は急激に高まって、各地でのアベ氏退陣を求める市民による大規模集会が行われた。

我が国国会は先日、アベ友学園疑惑に関するアベ氏の行動は、限りなく違憲濃厚として弾劾訴追案を圧倒的多数で可決。
最高裁は、
(1)国民主権主義や立憲主義・法治主義に違反したか
(2)首相の口利きや職権濫用の事実があったか
(3)籠池氏と共謀共同正犯となり得る刑事犯罪があったか
(4)メディア弾圧を行ったか
(5)教育勅語など違憲内容の教育助長の意図があつたか
の五つの争点について、違憲もしくは重大な違法行為にあたるかを審理してきた。アベ氏側は「選挙で選ばれたのだから、私が国民の意思であり法律だ」「口利きや忖度というが、正しいことをしている」「教育勅語のどこが悪い」「すべては、メデイアのでっちあげ」などと全面的に否定してきた。

政権を支えてきた保守層は既にアベ氏を見放し支持率は5%まで下落している。しかし、コアな極右勢力5%がアベの支持を継続している。トーキョー市中心部では毎週金曜日、退陣を求める大規模集会が開かれてきた。

アベ氏はこれまで、首相としての立場で逮捕を免れていたが、失職したことで近く検察に逮捕、起訴されると見られている。

心地よい夢から覚めてうつつの世界に戻ったが、さてあれは正夢か。それとも逆夢なのだろうか。
(2017年3月10日)

事件名提案ー「豊中アベ疑惑事件」・「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだろう

言葉は大切だ。用語の選び方次第で、同じものを逆にも見せることができる。そう考えて、自民党は11本の戦争法案を、「国際平和支援法」(1本)と「平和安全整備法」(10本一括)と命名した。「国際平和」であり、「平和安全」である。これが、集団的自衛権行使や海外での自衛隊の武器使用を可能とする戦争法なのだ。そのほかにも、「積極的平和主義」だの、「一般的には戦闘だが法的には衝突」だの、枚挙に暇がない。自民党に倣って、ネーミングには工夫をしよう。

今、ようやく話題となりつつあるあの事件。正確にいえば、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ事件」をどうネーミングするか。この問題に火をつけた朝日は、「森友学園問題」といっているが、随分と腰の引けたネーミング。「森友学園」は覚えにくいし、覚えるに値しない。これではダメだ。毎日の本日の朝刊は、「大阪市の学校法人『森友学園』が小学校用地として大阪府豊中市の国有地を鑑定額より大幅に安く取得した問題」だ。これも長すぎて使えない。運動の中で使えるような事件名作りに、知恵を寄せ集めよう。

ネーミングは、この事件のどこをどのように主要問題点として把握するかによる。問題点が多岐にわたるとき、そのすべてを盛りこむことはできない。ネーミングに盛りこむべき要素を書き出してみよう。

その1 「アベ関与疑惑」
これが本質的なメインファクターだ。アベが極右勢力と親密で、極右復古主義教育に賛辞を呈していることが何よりの問題。国会でも「学園の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」とまで述べている。国有財産ただ同然払い下げという、国からの不当きわまる極右学校法人に対する便益供与。その原因としてアベの関わりが疑われるところ。アベ疑惑として徹底した解明を要するところだ。

その2 「アベ妻疑惑」
臆面もなく、右翼幼稚園教育礼賛を繰りかえし、その広告塔となることで、アベと極右学校法人との橋渡しとなっていたのがアベ妻。「こちらの教育方針は、たいへん主人(安倍晋三)も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」として、新設予定とされた小学校の名誉校長就任を引き受けた。これが、近畿財務局や航空局に影響なかったはずはない。

一昨日(2月23日)に森友学園のホームページから削除された記事では、アベ妻が名誉校長として「理事長の教育への熱い思いに感銘を受け、(名誉校長に)就任させていただいた」「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ子どもを育てます」と記していた。疑惑を追及されて「名誉校長」の任を放棄して逃げ出したのは不可解。右翼勢力との関係を究明するとともに、アベの取引への関わりの有無について徹底して疑惑を解明しなければならない。

その3 「極右学校法人」疑惑
森友学園が経営する塚本幼稚園の極右復古主義教育の内容はすさまじい。理事長の個人的な政治的主張のために、子どもたちに皇室や自衛隊礼賛の旗振りをさせて手駒として使っている。また、極右にふさわしいヘイト文書や、児童虐待等々が報道されている。その一つ一つを徹底して事実究明していくことが必要だ。すなわち、アベ夫妻が共鳴し褒めたという教育の実態を明らかにしなければならない。

その4 「国有財産ただ同然払い下げ」疑惑
当初は右翼法人が定期借地権を設定して国から借地し、土地の汚染除去を理由に1億3200万円を国に支払わせ、次いで埋設ゴミ除却費用分8億円を値引かせて1億3400万円で払い下げを受けたという。結局のところ、この右翼法人は、わずか200万円で9億5000万円相当の不動産を手に入れた。当初は、隠蔽されていたこのような国有財産管理のからくりの究明が必要だ。アベの存在あればこそ、このような破格の、あるいは通常は考えられない馬鹿げた不当取引が実現したのだろうと考えざるをえない。何らかのかたちでアベが口を利いたのか、あるいは、学校側がアベの存在をチラつかせたか、それとも近畿航空局側が勝手にアベの意向を忖度したか。徹底して洗い出す必要がある。

その5 「私立小学校設立認可(予定)」疑惑
財政状態劣悪な森友学園がどうして、私学審で「認可適当」となったのか。この点も、きちんと解明されなければならない。また、入学希望予定生徒の保護者は、広告塔として利用された安倍夫妻の推薦によってこの学校を選択したのか否か。そして、既に入学金や寄付金を支払っているのかどうか。

その6 その他にも、豊洲同然の校地土壌汚染問題あり、南スーダンPKO同然の書類破棄問題あり、公開請求に棄却決定の問題まである。

これらの「疑惑点」を繋げると、寿限無の如く、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ・その他付随疑惑事件」となる。思い切ってハサミを入れよう。

飽くまで中心のテーマは、学校法人が右翼的思想で安倍首相と通じていたから、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的な疑惑。

当ブログでは、最初「学校法人『森友学園』の『アベ友疑惑小学校』設立認可問題」とし、その後「『アベ疑惑小学校』設立問題」とした。最終的には、学校認可問題と思ったのだが、修正しなけばならない。

「国有地ただ同然払い下げアベ友疑惑事件」ではどうだろうか。長すぎるのなら、「国有地払い下げアベ関与疑惑」。これでも長ければ、「豊中アベ疑惑事件」「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだ。
(2017年2月25日)

無給の司法修習制度は、苦学生を閉め出すことになる

  わが抱く思想はすべて
  金なきに因するごとし
  秋の風吹く

よく知られたこの啄木の歌。詩的な情緒に欠けて無味乾燥ではあるが、この世の真理を衝いている。自分の身に当て嵌めて思い当たる。私の抱く思想も、すべて金なきに因して形づくられた。金あるものは金あるにふさわしい考えを、金なきものは金なきが故の思想を抱くのが、世の常ではないか。

私は、典型的な苦学生だった。その苦学生に、法曹は魅力的な進路だった。司法試験の受験資格は誰にも開かれている。法学部の学生ではなかった私も受験に差し支えはなかった。これに合格すれば、司法修習生として採用され、給与を得ながらの修習ができる。その身分は、準公務員である。修習専念義務を課せられるが、その見返りに定額の給与を保障されて、みっちり2年間、法曹としての見習いができるのだ。

費用のハードルを意識することなく、苦学生だった私は司法修習生となり、修習終了時に弁護士への途を選択して職業生活を開始することになった。こうして、金なきに因して形づくられた思想を抱いたまま私は弁護士となることができた。今は昔の話である。

金なきに因した思想を抱いた若者を法曹にさせたくないとすれば、法曹資格の取得までに多額の金がかかるような制度設計をすればよい。そうすれば、金のない苦学生などは、費用のハードルに足をすくわれてゴールできなくなる。法曹界への「悪い思想」侵入に対する防御策となり得る。

制度設計の意図はいざ知らず、現在の法曹養成の制度は、貧乏学生を閉め出すものとなっている。そもそも苦学生は、法曹を目指す意欲をもてないだろう。私も、今の制度では弁護士を目指さなかった。仮にその意欲あっても、実現できたとは思えない。

今、法曹を志す者は、大学卒業後に法科大学院での2年ないし3年の就学を必要とする。もちろんこの間の学費の支払いが必要である。司法試験に合格さえすれば給料がもらえたのが昔の話。今は、法科大学院の入学試験に合格すれば、学費を支払わねばならない。

法科大学院を卒業すれば、司法試験の受験資格を得ることができる。首尾よく司法試験に合格して司法修習生となっても給与はない。修習専念義務だけがあって、アルバイトは禁止だが、生活費の保障はない。希望者に生活費の貸与はあるが、当然借金となり返還の義務を負うことになる。

貧乏学生は、「学部時代の奨学金」「法科大学院での奨学金」、そして「司法修習時代の貸与金」返済の債務を背負って職業生活を始めることになる。その額1000万円を超える者もいるという。債務弁済のために、若手の弁護士が金の儲かる割のよい仕事を漁ることにもなり得よう。

司法修習が無給になったのは、2011年からである。私はこの制度変更は、法曹の性格と修習生の意識を変えたと思う。それまで、裁判実務に携わる法曹(裁判官・検察官・弁護士)とは、公的な理念に支えられ、公費で養成されるにふさわしい使命を持った職業と位置づけられていた。司法修習生には、自ずからその自覚が求められた。

ところが、2011年以来、司法修習生の給費制度が廃止されるや、弁護士はビジネスになった。人権擁護と社会正義を擁護する使命はかたちだけのものとなり、司法修習生の意識も、「弁護士となって高給を食み、弁護士になるまでのコストを回収しなけばならない」と変わった。

だから、日弁連も、心ある市民も、司法修習の給費制復活を願った。ことは、けっして法曹志望者に酷だからというにとどまらない。国民の権利擁護に直接携わる実務法律家の質や意識に関わる問題なのだ。法曹の出身階層を、一定以上の経済的地位にある者に限定して、経済的に困窮の立場にある階層を閉め出すことの問題性は明らかではないか。

この問題に、ようやく明るさが見えてきた。一昨日(12月19日)、来年の司法試験合格者から「給費制」を事実上復活することを法務省が発表した。現在の案では、月額に一律13万5000円を支給し、アパートなどを借りる必要がある修習生に対しては、住居費として月額3万5000円を上積みするという。制度導入にあたり必要となる裁判所法改正案を、来年(2017年)の通常国会に提出予定とのこと。

これを受けた、日弁連会長談話の抜粋を引用しておきたい。

2011年に司法修習生に対する給費制が廃止され、修習資金を貸与する制度に移行してから5年が経過した。この間、司法修習生は、修習のために数百万円の貸与金を負担するほか、法科大学院や大学の奨学金の債務も合わせると多額の債務を負担する者が少なからず存在する。近年の法曹志望者の減少は著しく、このような経済的負担の重さが法曹志望者の激減の一因となっていることが指摘されてきた。

司法制度は、三権の一翼として、法の支配を社会の隅々まで行き渡らせ、市民の権利を実現するための社会に不可欠な基盤であり、法曹は、その司法を担う重要な役割を負っている。このため国は、司法試験合格者に法曹にふさわしい実務能力を習得させるための司法修習を命じ、修習専念義務をも課している。ところが、法曹養成の過程における経済的負担の重さから法曹を断念する者が生じていることは深刻な問題であり、司法を担う法曹の人材を確保し、修習に専念できる環境を整備するための経済的支援が喫緊の課題とされてきたものである。

このような状況を踏まえ、法務省が新たな経済的支援策についての制度方針を発表した意義は重要である。日弁連はこれまで、法曹人材を確保するための様々な取組を行ってきており、その一環として、修習に専念しうるための経済的支援を求めてきたものであり、今回の司法修習生に対する経済的支援策についてはこれを前進と受け止め、今後も、法曹志望者の確保に向けた諸々の取組を続けるとともに、弁護士及び弁護士会が司法の一翼を担っていることを踏まえ、今後もその社会的使命を果たしていく所存である。

修習生の側が、社会からの拠出を原資とする給付であることを自覚して、職業生活を通じて社会に還元すべき責任を果たさなければならないことは当然である。が、法曹を志す者だけの問題ではなく、国民の裁判を受ける権利をよりよく実現する制度設計の問題として、また、裁判を受ける際には接することになる実務法律家の質をどう確保するかの問題としてお考えいただきたい。金なきに因する思想を持つ法律家を閉め出すような法曹養成制度は甚だしく歪んでいるのだから。
(2016年12月21日)

司法は権力から独立しているのか。ー辺野古訴訟最高裁判決の示すもの

「あたらしい憲法のはなし」を、ときおり読み返す。今日は、辺野古訴訟の最高裁判決を受けて、その「十一 司法」を読んでみた。

日本国憲法の施行が1947年5月。その年の8月に、新制中学校1年生用の社会科教科書として文部省が編纂したのが、この「あたらしい憲法のはなし」。当時、文字通り、できたての「あたらしい憲法」だったのだ。その後副読本に格下げされ、1952年以後は使われていない。

内容は細部を見れば不十分ではあるが、「民主的な平和憲法」の精神を国民に普及しようという、時代の空気や清新な意気込みが伝わってくる。全十五章。各章の標題は以下のとおり。
「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」

「十一 司法」は短い。全文をご紹介する。
 「司法」とは、爭いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、じぶんの生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という國の仕事は、國民にとってはたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで國には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
 裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と國会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出しをすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきいたりすることができるのです。これは、國会と同じように、裁判所の仕事が國民の目の前で行われるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、國会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
 みなさん、私たち國民は、國会を、じぶんの代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません。

新憲法の特徴として違憲立法審査権が解説されているほか、「公平」という裁判の理念を実現するために、「司法権の独立」(その内実としての「裁判官の独立」)の重要性が強調されている。さて、「司法権の独立」は70年後の今日、現実のものとなっているだろうか。

司法の独立とは、最高裁を頂点とする裁判官たちが、国家や公権力からの有形無形の圧力から自由であることを意味する。今の司法が、国や政権におもねることなく、法と良心のみに従った裁判ができているか。答は「ノー」というしかない。

日本の裁判官諸氏の廉潔性は信頼に足りる。裁判官の私的利益獲得の思惑で判決の内容が左右されることはない。しかし、その廉潔な裁判官が、権力からの圧力に屈せぬ気概をもち、現行の支配の秩序が求めるものから自由であるかといえば、到底肯定し得ない。

最高裁だけでなく下級審の判決も、丁寧で精緻ではある。しかし、支配の秩序の根幹に関わる事案においては、どうしても「反権力」とはなり得ない。九条・安保・基地・沖縄・天皇・日の丸・君が代・家制度などに関わるテーマとなれば、憲法の理念を貫くという姿勢が腰砕けとなってしまう。

本日(12月20日)の最高裁辺野古訴訟判決はその典型と言ってよい。さすがに、原審・福岡高裁那覇支部判決のような「安保公益論」の思い込みの説示はなかったものの、4人の裁判官の全員一致の結論で反対意見も補足意見もなかったという。

先に引用した、「あたらしい憲法のはなし」は、国民に、
  國会には信頼を
  裁判所には尊敬を
求めている。これは、間違いだろう。民主主義本来の理念からは、
  國会には国民の猜疑を
  裁判所には国民の監視を
こそ、求めねばならない。

しかし、当時の文部省は、裁判所を「じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかた」と描いたのだ。いざという時の「国の味方」としての裁判所は想定外だったのだ。国の肩をもって、戦争のための恒久的な海兵隊の揚陸艦接岸基地建設を認め、環境破壊も治安の悪化も騒音も我慢せよという、住民いじめの判決を書く裁判所が現れようとは思いもよらなかったのだ。

まことに、権力から独立した「そんけいにあたいする最高裁」が切実に求められている事態ではないか。
(2016年12月20日)

軍事立法でも、治安立法でもなく、誤判防止の刑事司法を

一昨日(11月19日(土))、日本民主法律家協会の「第47回司法制度研究集会」が開催された。メインタイトルは、「治安国家化・監視社会化を問う 何のための刑訴法・盗聴法「改正」、共謀罪法案か?」というもの。

主催者の案内が、次のようになっている。
「今回の集会では、本年5月24日に成立した「改正」刑訴法・盗聴法の内容の危険性を暴くとともに、法律家団体と市民が協働しながら反対運動を展開してきた成果を共有したいと考えています。
 また、一昨年に施行された特定秘密保護法、「改正」刑訴法・盗聴法、そして、来年通常国会への上程が取り沙汰される共謀罪等が総体としてもたらすであろう監視社会・治安国家への対応には、「改憲」反対のすべての運動の結集が急務であると考えます。
『改憲』に向けた現政権の謀略に対峙していくための法律家運動の課題を模索するとともに、法律家運動の果たすべき役割を改めて確認し、市民とともに、大きな国民的運動を展開する決意を誓い合う司法制度研究集会になるよう、皆さまのご参加をお待ちしています。」

討論の素材となった報告は3件。「刑訴法『改悪』阻止の闘いと今後」小池振一郎、「盗聴法・共謀罪の本質」海渡雄一、そして「秘密保護法,盗聴法・刑訴法,共謀罪と治安国家・監視社会化」白取祐司(神奈川大学法科大学院教授)。前2件は、報告のタイトルで内容が推察できる。しかし、3件目の白鳥報告だけはよく分からない。集会主催者の注文で、メインタイトルに合わせた内容。

この白鳥報告が明晰で面白かった。クローズアップで問題を見極めようとする報告の中で、カメラを引いてロングでものを見ることによって、背景事情やものごとの関連性が見えてくる。そんな印象の報告だった。いずれ「法と民主主義」に掲載されるが、私流に把握した要点をかいつまんでご報告したい。

☆最近の刑事立法を概観すると、特定秘密保護法成立以来、とんでもない悪法の目白押しである。
 ・特定秘密保護法(2014年)
 ・通信傍受法改正法(2016年)
 ・刑事訴訟法改正法(2016年)
 ・共謀罪法案(2017年?)
どうしてこんなことになっているのか。政治状況の変化、端的に言えば安倍政権がもたらしたものだが、それだけではない。これまで悪法の成立に歯止めを掛けてきた勢力の変容があるように思われる。日弁連と研究者集団の変質を指摘せざるを得ない。
増員の影響か、弁護士のノブレスオブリージュの気概が希薄になってきたのではないか。また、かつて刑法改悪阻止運動の先頭に立った平野龍一のごとき存在が消え、政権や法務省にすり寄る研究者が増えている。真剣な検討を要する。

☆21世紀にはいって以来、「最近」以前の主要刑事立法を概観すれば、以下のとおり。
・少年法改正(検察官関与・原則逆送)(2000年)
・裁判長法・刑事訴訟法改正法(2004年)
・刑事収容処遇法(2005年)
・犯罪被害者参加法(2007年)
・公訴時効廃止法(2010年)
これらの刑事諸立法を貫徹する共通の理念を把握したり、傾向を指摘することが難しい。立法の背景が見えにくくなっていると言わざるを得ない。

☆一方、望ましいとして立法課題と意識されてきた下記の法は成立に至っていない。
・死刑廃止法
・再審法改正法
・監視型捜査規制法
・ミランダ法(弁護人立会権確立立法)

☆以上のごとき現在の状況を歴史的視座に置いてみると、以下の治安維持法の時代との類似性が指摘できるのではないか。
・治安維持法(1925年)
・治安維持法改正(1941年)
・軍機保護法(1937年)(1941年全面改正)
・国防保安法(1941年)*1940年大政翼賛会結成
1925年から敗戦までは、刑事法的には「治安維持法の時代」と言ってよい。上記各法は戦時法であり、戦争準備の立法であった。軍機保護法は1889年日清戦争後日露戦争を見据えて制定された。1937年に全面改正され、さらに1941年にも戦争の進展に応じて改正された。

☆特定秘密保護法は軍事立法であり、戦争準備の法と認識しなければならない。そして、「治安維持法の時代」の諸刑事立法が、改正を重ねていることに留意しなければならない。新規の立法はそれなりの抵抗に遭う。政権は妥協した形でマイルドに修正して立法に漕ぎつけ、頃合いをみてハードに法を改正する。新規立法よりは改正の方が世論の関心事とならず、抵抗は小さい。この事情は、戦前も今も同じこと。だから悪法反対運動は、立法成立後も改悪反対運動としての持続が大切なのだ。

☆分析のための視座として、
1 軍事法制下の刑事法
2 治安立法としての刑事法
3 監視社会と刑事立法
という、観点が必要だろう。

☆軍事法としての特定秘密保護法が危険で問題というだけでない。非常事態宣言下のフランスにおける刑事手続のように、テロ対策という名目の非常時立法は、常に軍事法としての危うさを警戒しなればならない。

☆いま、体感治安の悪化が煽られている。刑法犯は減少し、凶悪犯も著しく減っているにかかわらず、意図的に不信不安が醸成された結果である。警察依存型の刑事政策が意図されているからとみるべきだろう。このような策動に、どこかで歯止めが必要だ。

☆むのたけじが、自分の記者時代を振り返って語っている。
「治安維持法も国家総動員法も、法の具体的な適用の有無が問題であるよりは、そのような法律が作られ存在すること自体が大きな問題だった。」
今、そのような時代状況になろうとしているのではないか。必要なのは、軍事立法でも治安立法でもない。積極的に「誤判を防止し誤判被害者を救済する」ための、刑事司法改革こそが必要ではないか。
(2016年11月21日)

「こんな裁判所なら不要」ではなく、「こんな判決は有害」というべきだ。

沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が沖縄県の翁長雄志知事を訴えた「辺野古違法確認訴訟」で福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)は(9月)16日、国側の請求を認め、県側敗訴の判決を言い渡した。(朝日から引用)

沖縄タイムスが、法廷での裁判長の発言を、「裁判長『ほっとした ありがとう』異例の感謝」「憤る傍聴席」の見出しで、次のように報じている。

「ほっとしたところであります。どうもありがとうございました」。16日午後2時、多見谷寿郎裁判長は、約4分間の国側勝訴の判決言い渡しを安堵の表情で締めくくり、県側代理人に一礼した。
 翁長雄志知事が敗訴した場合に『確定判決には従う』考えを明言したことへの異例の“感謝”に、県側代理人は硬い表情を崩さなかった。傍聴席からは『出来レースとしか思えない』と憤りの声が上がった。」

裁判長の言い渡しとこれに続く発言は以下のとおりとのこと。

それでは、いま読み上げました事件(平成28年(行ケ)第3号地方自地法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件)の判決を致します。
主文
1、原告が被告に対して平成28年3月16日付「公有水面埋立法に基づく埋立承認の取り消し処分の取り消しについて(指示)」によってした、地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて、被告が公水法42条1項に基づく埋立承認を取り消した処分を取り消さないことが違法であることを確認する
2、訴訟費用は被告の負担とする。
請求認容です。理由については、判決の骨子と要旨を作成している。ご覧ください。

なお、この場で2点だけ説明致します。
まず1点目は、協議と判決との関係。協議は政治家同士の交渉ごとでまさに政治の話。訴訟は法律解釈の話。両者は対象とする問題点は同じでも、アプローチがまったく違うもので同時並行は差し支えないと、考えた。
2点目。裁判所が被告に敗訴判決に従うかを確認した理由に関係する。国は敗訴しても変わらない。国は何もできないことが続くだけ。
これは弁護士の方はよくご存じだと思うが、平成24年の地方自治法改正を検討する際に問題になった。

不作為の違法を確認する判決が出ても、地方公共団体は従わないのではないか。そうなれば判決をした裁判所の信頼権威を失墜させ、日本の国全体に大きなダメージを与える恐れがあるということが問題になった。
そういう強制力のない制度でも、その裁判の中で、被告が是正指示の違法性を争えるということにすれば、地方公共団体も判決に従ってくれるだろうということで、そういうリスクのある制度ができた。
それで、その事件がこの裁判にきたということになる。そういうことで、そのリスクがあるかを裁判所としてはぜひ確認したいと考えた。もしそのリスクがあれば、原告へ取り下げ勧告を含めて、裁判所として日本の国全体に大きなダメージを与えるようなリスクを避ける必要があると考えた。もちろん代執行訴訟では、被告は「不作為の違法確認訴訟がある。そこで敗訴すれば、従う。だから、最後の手段である代執行はできない」と主張されまして、それを前提に和解が成立しました。
ですから当然のこととは思いましたけれども、今申し上げたように理解があるということでしたので、念のため確認したものの、なかなかお答えいただけなくて心配していたんですけども、さすがに、最後の決断について知事に明言していただいて、ほっとしたところであります。どうもありがとうございました。判決は以上です。じゃあ終わります。

裁判所が作成した判決骨子というものは以下のとおり。これだけ読めば、裁判所の考え方が、あらかた解る。

判決骨子
1 事案の概要
 本件は,原告が,被告に対し,普天間飛行場代替施設を辺野古沿岸域に建設するために受けていた公有水面埋立ての承認の取消しを敢り消すよう求めた是正の指示に従わないのは違法であるとして,その不作為の違法の確認を求めた事案である。
2 当裁判所の判断
(1) 知事が公有水面埋立承認処分を取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要し,その違法性の判断について知事に裁量は存しないので,取消処分の違法性を判断するに当たっては,承認処分の上記違法性の有無が審理対象となる。
(2) 公有水面埋立法(以下,「法」という。)4条1項1号要件の審査対象に国防・外交上の事項は含まれるが,これらは地方自治法等に照らしても、国の本来的任務に属する事項であるから,国の判断に不合理な点がない限り尊重されるぺきである。
(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。
(4) 承認時点では,十分な予測や対策を決定することが困難な場合は引き続き専門家の助言の下に対策を講じることも許されるなどの点に照らすと法4条1項2号要件を欠くと認めるには至らない。
(5) よって,承認処分における要件審査に裁量権の逸脱・濫用があるとは言えず,承認処分は違法であるとは言えない。仮に,承認処分の裁量権の範囲内であってもその要件を充足していないという不当があれば取り消せると解したとしても,承認処分に不当があると認めるには至らないし,仮に不当があるとしても,知事の裁量の範囲内で埋立ての必要を埋立てによる不利益が上回ったに過ぎず,承認を取り消すべき公益上の必要がそれを取り消すことによる不利益に比べて明らかに優越しているとはいえないなど,承認処分を取り消すことは許されない。よって,被告の取消処分は違法である。
(6)その他,被告がする是正の指示が違法であるとの主張は,その前提とする地方自治法の解釈が失当である。
(7)遅くとも本件訴え提起時には,是正の指示による措置を講じるのに相当の期間は経過しており。被告の不作為は違法となった。また,地方自治法の趣旨及び前件和解の趣旨から,被告は自ら是正の指示の取消訴訟を提起するべきであった。

もっとも、めったにない形式の訴訟。経過を追っていないと、何が争われているかが分かりにくい。読者に分かっていただけるように解説したい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。この埋め立てには公有水面埋立法に基づく県知事の承認が必要となっている。国といえども例外ではない。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。問題となった法の条項は、公有水面埋立法4条1項の1号と2号である。

第四条 都道府県知事ハ埋立ノ免許ノ出願左ノ各号ニ適合スト認ムル場合ヲ除クノ外埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ
一 国土利用上適正且合理的ナルコト
二 其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)13年12月27日、仲井眞前知事が承認した。(これを「仲井眞承認」と言うことにする)
(2)15年10月13日、翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。(これを「翁長取消」とする)
(3)16年3月16日、国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国は県に対して、「翁長取消を取り消せ」と是正指示をしている。翁長取消が取り消されれば仲井眞承認が復活して、現在中断している埋立工事を再開して続行できるとになるわけだ。

国にいわせれば、(1)法に照らして「仲井眞承認」が正しく、(2)「翁長取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「翁長取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、という訴訟を提起したのだ。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞承認」はいい加減な審査でなされた違法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

判決は、国の完勝、県の完敗である。判決言渡し後の報告集会で、被告県側の弁護団長は「考えられる中では最も悪い判決」と言い切ったと報道されている。まったく、そのとおりだろう。判決書は全文180頁を越す大部なもので、全文は手許にないが、目次や沖縄タイムスが報道している下記の「詳細要旨」で十分に中身が分かる。裁判所が整理した、争点(1)~争点?のいずれについても、裁判所はなんの悩みもなく国側の肩をもっている。

 http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/62573

まず、判決理由は、「仲井眞承認は広範な裁量権にもとづくもので、これを取り消すには,承認処分に裁量権の逸脱・濫用による違法があることを要する」とし、一方「翁長取消の判断に、仲井眞承認の違法性判断に裁量はない」と言いきる。これで、事実上勝負あったということになる。

続いて、判決は仲井眞承認の適法性を積極的に述べている。公有水面埋立法4条1項の1号と2号の各要件を充足しているというのだ。この判断には、問題が大きい。とりわけ、「国土利用上適正且合理的ナルコト」に関して、国の防衛政策上の適正・合理性の主張に過剰にコミットしている点が問題となろう。事実上、日米安保を基軸とする国の防衛政策を過度に重要視して、これに反する自治体の判断を許さないものとなっており、地方自治をないがしろにするものと言わざるを得ない。(3) 普天間飛行場の被害を除去するには本件埋立てを行うしかないこと,これにより県全体としては基地負担が軽減されることからすると,本件埋立てに伴う不利益や基地の整理縮小を求める沖縄の民意を考慮したとしても,法4条1項1号要件を欠くと認めるには至らない。また、埋立承認の条件としての環境保全の必要性については、その重要性が没却されている。

「普天間飛行場の被害を除去するには本件埋め立てを行うしかない」などと国の主張に積極的な賛意を表するその筆致は、公正性を疑わせるに十分である。

なお、争点6の「国が行える是正の指示の範囲について」の判示が引っかかる。

「本件指示は国土交通大臣の権限を逸脱する」という、知事側の見解を一蹴して、判決はこう言っている。
「是正の指示の要件は、『各大臣は、その所管する法律、またはこれに基づく政令に係る都道府県の法定受託事務の処理が法令の規定に違反していると認めるとき』(同法245条の7第1項)と定めている。これは、法定受託事務に関する是正の指示については、都道府県が処理する法定受託事務に係る法令を所管する大臣であることだけが要件とされている。自らの担任する事務に関わるか否かに関係なく、法定受託事務の処理が違法であれば、是正の指示の発動が許される趣旨と解される。よって、この点において知事の主張に理由がないことは明らかだ。」

この見解だと、仮に仲井眞承認の先行なく、翁長知事が国(防衛局)の埋立申請を不承認とした場合でも、国(国交相)は承認するように是正の指示が出せることになる。これでは、国と自治体との対等性はまったく否定されてしまうではないか。

多見谷コートに関しては、沖縄現地の報道は、非常にネガティブなものだった。「15年10月に多見谷裁判官が福岡高裁那覇支部長に異動したのは、国寄りの判決を書いてきた姿勢を見込まれて、辺野古訴訟対策に送り込まれたのではないか」「国側代理人は法務省の定塚訟務局長だが、定塚氏は高裁支部の多見谷裁判長と連絡をとっていた」など。判決は、危惧されたとおりのものとなった。

裁判とは紛争解決の役割を持つ制度だが、どのような判決でも、ともかくどちらかの主張に軍配を挙げること自体に意味があるというものではない。公正な立場から法的正義を実現しているとの国民からの信頼を得ることによって、社会の秩序形成に資することになる。しかし、これだけ露骨な政府摺り寄りの判決となっては、沖縄県民だけでなく、沖縄の問題に関心を寄せるあらゆる人に、説得力を持ち得ないものとなった。

「こんな裁判所なら不要」のレベルではない。「こんな判決は有害」というべきだろう。これでは国と沖縄県との紛争解決に益するものとはなりようがない。
(2016年9月17日)

「辺野古・違法確認訴訟」ーはたして公正な裁判が行われているのか。

国が沖縄県を訴えた「辺野古・違法確認訴訟」が昨日(8月19日)第2回口頭弁論で結審した。7月22日提訴で8月5日に第1回口頭弁論。この日、判決までの日程が決まった。そして、決まった日程のとおりわずか2回の期日での結審。9月16日には判決言い渡しとなる。異例の早期結審・早期判決というだけではない。極めて問題の大きな訴訟指揮が行われている。果たして公正な裁判が行われているのだろうか。納得しうる判決が期待できるのだろうか。

問題は、やや複雑である。まずは、どんな裁判なのか確認しておきたい。

国(沖縄防衛局)は、沖縄県名護市辺野古の大浦湾を埋め立てて、広大な米軍新基地を建設しようとしている。公有水面を埋め立てるには、国といえども県知事の承認が必要となっている。そこで、国が県に対して埋立の承認を求めた。承認の是非は、主として環境保全の観点から判断される。

国の公有水面埋立承認申請に対して、
(1)仲井眞前知事が承認した。
(2) 翁長現知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した。
(3)国(国土交通大臣)が県に対して、『翁長知事が、「仲井眞前知事がした承認」を取り消した」のは違法だから、この取消を取り消すよう』是正の指示をした。
(4)県が是正の指示に従わないから、国(国交大臣)は県を被告として「是正の指示に従わない不作為が違法であることの確認を求める」という訴訟を起こした。

つまり、国にいわせれば、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」が正しく、(2)「翁長現知事の承認取消」が違法。だから、(3)国の是正の指示にしたがって、県は「承認取消を取り消す」べきだがこれをしないから、(4)県の不作為(国の指示に従わないこと)の違法確認を求める、ということになる。

これに対して、県の側からは、(1)「仲井眞前知事の埋立承認」はいい加減な審査でなされた不適法な承認で、(2)翁長現知事の「承認取消」は環境保全問題を精査して出された適法な取り消し。だから、(3)国の県に対する是正の指示は不適法なものとして、従う必要はない。したがって、(4) 裁判では、違法確認請求の棄却を求める、ということになる。

以上の説明だと、新旧各知事の「承認」と「その取り消し」の適法違法だけが争点になりそうだが、現実の経過はより複雑になっている。それは、本件訴訟の前に、国から県に対する代執行訴訟の提起があって、その和解がなされていること、その和解に基づいて国地方係争委員会の審査があり、結論として「真摯な協議」を求められていること、である。

代執行訴訟の和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとする立場を明らかにしている。しかし、この間における国の協議拒否の姿勢の頑なさは尋常ではない。

代執行訴訟の和解は今年の3月4日金曜日だった。誰もが、これから県と国との協議が始まる、と考えた。ところが、土・日をはさんで7日月曜日には、国は協議の申し入れではなく、県に対して「承認取消を取り消す」よう是正の指示を出している。国は、飽くまで辺野古新基地建設強行の姿勢を変えない。

「代執行訴訟における和解も、係争委員会の決定も、国と県との両者に真摯な協議による自主解決が望ましいとしているではないか。県は一貫して国との間に真摯な協議の継続を求めており、不作為の違法と評される謂われはない」とするのが県の立場。

衆目の一致するところ、先行した代執行訴訟での原告国の勝ち目は極めて薄かった。この訴訟での国の敗訴で国が辺野古新基地建設を終局的に断念せざるをえなくなるわけではないが、国にとっては大きな痛手になることは避けられない。裁判所(福岡高裁那覇支部・多見谷寿郎裁判長)は、強引に両当事者に和解案を呑ませて、国を窮地から救ったのではないのだろうか。

国は敗訴を免れたが、埋立工事の停止という代償を払わざるをえなかった。以来、工事は止まったままだ。国は新たな訴訟での勝訴確定を急がねばならない立場に追い込まれている。裁判所の審理促進は、このような国の立場を慮り、気脈を通じているのではないかと思わせる。

裁判所が異様な審理のあり方を見せたのは、まずは被告となった県側が答弁書を提出する前に争点整理案を提示したことである。裁判の大原則は当事者主義である。裁判所は両当事者の主張の範囲を逸脱した判決は書けない。だからまずは両者の言い分によく耳を傾けてからでなくては争点の整理はできない。答弁書提出前の争点整理など非常識で聞いたことがない。これではまるで昔のお白州並みだ。原告の審理促進の要望に肩入れしていると見られて当然なのだ。

本日(8月20日)の沖縄タイムスは、「『辺野古訴訟』結審 異様な裁判浮き彫りに」と題する社説を掲げている。そのなかに次の一文がある。

「2回の口頭弁論で見えてきたのは裁判の異様さである。
 この日も国側代理人は翁長知事に「最高裁の判断で違法だと確定した場合に是正するのは当然だという理解でいいか」と繰り返し尋ねた。多見谷裁判長も「県が負けて最高裁で確定したら取り消し処分を取り消すか」とただした。
 審理中の訴訟について、県が敗訴することを前提に最高裁における確定判決に従うかどうかを質問するのは裁判所の矩を超えている。
 多見谷裁判長と国側代理人の示し合わせたような尋問をみると、3月に成立した国と県の和解は、国への助け舟で仕組まれたものだったのではないかとの疑念が拭えない。

 多見谷裁判長は昨年10月30日付で福岡高裁那覇支部に異動している。国が代執行訴訟に向けて動き始めていた時期と重なっていたため、さまざまな臆測を呼んだ。
 同裁判長と国側代理人を務める定塚誠・法務省訟務局長は成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた「成田訴訟」で、それぞれ千葉地裁、東京高裁の裁判官を務めていたことがある。定塚氏は和解条項の案文や和解受け入れにも深く関わっている。」

本来、裁判所は両当事者から等距離の第三者でなければならない。国の代理人が仲間の裁判官という構図で裁判が進行しているのだ。」

また、本日(8月20日)の琉球新報は、こう述べている。
「原発問題など地方自治体の民意と国益の衝突は全国にあり、今後、地方と国の対立が司法に持ち込まれる場面は増加するとみられる。不作為の違法確認訴訟は今回が制度創設以来初めてのケースだ。多見谷寿郎裁判長が、まだ煮詰まっているとは到底言えない議論をどう整理するのか。訴訟の判決は、司法が地方自治とどう向き合うかを問う試金石となる。」

そのとおりだ。試金石の意味を敷衍すれば、こうなるだろう。
9月16日判決で沖縄県が勝訴すれば、公正な司法が地方自治と真っ当に向き合ったことの証しとなる。しかし、もし国が勝訴するようなことがあれば、裁判の公正に対する国民の信頼は地に落ちることになる。司法は真っ当に地方自治に向き合っていないと評せざるをえないということだ。

そんな裁判で、仮に沖縄県が敗訴したとしよう。知事が、確定判決に従わざるをえないことは当然としても、そのことが「辺野古新基地建設を阻止する」手立てを失うことにはならない。訴訟は、「あらゆる手段を尽くして辺野古新基地建設を阻止する」という手立のひとつに過ぎない。しかも、法的手段がまったくなくなるというわけでもない。

民意が新基地建設反対という以上は、本来国は無理なことをやっているのだ。強引になればなるほど、傷を大きくするのは国でありアベ政権とならざるを得ない。自民党だけではない。国交相を出している公明党にとっても大きな打撃となるだろう。
(2016年8月20日)

那覇地裁「沖縄戦・国賠訴訟判決」の冷酷さには承服しかねる。

昨日(3月16日)那覇地裁(鈴木博裁判長)で「沖縄戦被害・謝罪及び国家賠償訴訟」の判決が言い渡された。請求棄却。沖縄戦で筆舌に尽くしがたい被害を受けたとして、住民とその遺族79人が、国を被告としてその責任を問い、被害に対する謝罪と慰謝料の賠償を求めた訴えはすべて斥けられた。空襲被害国家賠償訴訟も同様だが、原告となった被害者の無念の思いはいかばかりであろうか。

あらためて、国家とは何か、国家が引き起こす戦争という罪悪とは何か、国家は国民にいかなる責任を負っているのかなどを考えさせられる。

我が国のは、戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという決意を原点として新たな国を作った。その戦争の惨禍が、具体的な被害実態として法廷に持ち込まれたのだ。この被害をもたらした国家の責任を問うために、である。この課題に司法は、正面から向き合っただろうか。

2014年3月に、高文研から「法廷で裁かれる日本の戦争責任」という大部な書籍が刊行されている。戦争の被害と国家の責任について法廷で争われた各事件について、担当弁護士のレポートを集大成したもの。大きく分類して、日本軍の加害行為によって対戦国の被害者が原告になっている事件と、日本人の戦争被害者が原告になって国家に被害救済を求めた事件がある。前者の典型が、従軍慰安婦・強制連行・住民虐殺・細菌兵器・毒ガス兵器・住民爆撃事件など。後者は、原爆投下・残留孤児・東京大空襲・大阪空襲訴訟・シベリア抑留訴訟などである。その編者が、瑞慶山茂君。私と同期で司法修習をともにした、沖縄出身の弁護士。今回の「沖縄国賠訴訟」の弁護団長でもある。

私は、たまたまこの書の書評を書く機会を得て、民間戦争被害者が被害の救済を得られぬままに放置されている不条理への瑞慶山君の並々ならぬ憤りと、国家の責任を明確にしようという訴訟への情熱を知った。判決には注目していたが、彼の無念の思いも察するに余りある。

日本人の戦争被害は、軍人・軍属としての被害と、民間人の被害とに分類される。いずれも、国家が主導した戦争被害として、国家が賠償でも補償でも、救済を講じるべき責任をもつはず。しかし、「軍人・軍属としての被害」に対する国の救済姿勢の手厚さと、民間人被害に対する冷淡さとには、雲泥の差がある。いや、「雲泥の差」などという形容ではとても足りない、差別的取り扱いとなっているのだ。

昨日(3月16日)付の弁護団・原告団声明のなかに、次の1節がある。
「被告国は、先の大戦の被害について恩給法・援護法を制定して、軍人軍属には総合計60兆円の補償を行ってきたが、一般民間戦争被害に対しては全く補償を行ってこなかった。沖縄戦の一般民間戦争被害については、その一部の一般民間人については戦闘参加者として戦後になって認定し補償を行ってきたが、約7万人の死者と数万人の後遺障害者に対しては謝罪も補償も行うことなく放置している。ここに軍人軍属との差別に加え、一般民間人の中にも差別が生じている(二重差別)。そこで、この放置された一般民間戦争被害者のうち79名が、人生最後の願いとして国の謝罪と補償を求めたのがこの訴訟である。
 にもかかわらず、那覇地方裁判所は原告らの切実な請求を棄却したのである。基本的人権救済の最後の砦であるべき裁判所が、司法の責務を放棄したものと言わざるを得ない。」

戦後の日本は、軍人軍属としての戦争被害には累積60兆円の補償をしながら、民間被害にはゼロなのである。「60兆円対0円」の対比をどう理解すればよいのだろうか。これを不合理と言わずして、何を不合理と言えるだろうか。

過日、福島第1原発事故の刑事責任に関して、3名の最高幹部が強制起訴となった。
「あれだけの甚大な事故を起こしておいて、誰も責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」という社会の常識がまずあって、しかる後にこの社会常識に応える法的構成や証拠の存在が吟味されたのだ。私は、このようなプロセスは真っ当なものと考える。

同じことを国家の戦争責任と民間被害救済についても考えたい。「あれだけの甚大な戦争被害を生じさせておいて、国家が責任を取ろうとしないのはおかしいではないか。到底納得できない」から出発しよう。

国家が違法な戦争をした責任のうえに、個人の戦争被害救済をさせるのに障害となる大きなものが二つある。一つは、日本国憲法によって国家賠償法ができる以前の常識的な法理として、「国家無答責」の原理があったこと。国家権力の行使に違法は考えられない。損害賠償などあり得ないということ。昨日の判決もこれを採用した。そもそも損害賠償の根拠となる法がないということなのだ。

そして、もう一つの壁が消滅時効の成立という抗弁である。仮に、戦争被害に損害賠償債務が生じたとしても、時効が完成していて70年前の被害についての法的責任の追及はできない、ということ。

この両者、「国家無答責の壁」と「時効の壁」を乗り越える法的構成として、「立法不作為」の違法が主張されている。軍人軍属への補償だけではなく、民間人の戦争被害についても救済しなければならないにもかかわらず、これを放置したことの違法である。

軍人軍属にばかり手厚く、民間に冷淡なこの不公平は、誰が見ても法の下の平等を定めた憲法14条に違反する、違法な差別というべきだろう。「人の命に尊い命とそうでない命があるのか。救済が不十分なのは憲法の平等原則に反する」というのが、原告側の切実な訴えである。不当な差別があったというだけでは、賠償請求の根拠にはならないが、立法不作為の違法の根拠には十分になり得る。

ところが、昨日の那覇地裁判決はこの、「60兆円対0円」差別を不合理ではないとしたのだ。「戦争被害者は多数に上り、誰に対して補償をするかは立法府に委ねられるべき。軍の指揮命令下で被害を受けた軍人らへの補償は不合理ではない」と判断したという。

もう一度、常識的感覚に従って、全体像を眺めてみよう。
「『軍官民共生共死の一体化』の方針の下、日本軍は住民を戦場へとかり出し、捕虜になることを許さなかった。陣地に使うからと住民をガマから追い出したり、スパイ容疑で虐殺したり、『集団自決(強制集団死)』に追い込むなど住民を守るという視点が決定的に欠けていたのである」「判決は「実際に戦地に赴いた」特殊性を軍人・軍属への補償の理由に挙げるが、沖縄では多くの住民が戦地体験を強いられたようなものだ。(沖縄タイムス3月17日社説)」

にもかかわらず、軍人軍属にあらざる民間人の救済は切り捨てられたのだ。血も涙もない冷酷な判決と言うしかなかろう。こんな司法で、裁判所でよいものだろうか。健全な社会常識を踏まえた「血の通った裁判所」であって欲しい。このような判決が続けば、裁判所は国民の信頼を失うことにならざるを得ない。
(2016年3月17日)

内閣法制局はねじ伏せた。裁判所が相手だこれからは。

3月11日の各紙に溢れた被災関連記事の中で、もっとも心に響いたのが朝日川柳欄の次の一句。
  泣くなとは無理をいうなよ千の風 (神奈川県 石井彰)
どんな説明も蛇足とする鎮魂の歌。心に刻んでおきたい。

3・11関連ではないが、並んだもう一句が目にとまった。
  野党より司法が相手これからは (東京都 田中通祐)
こちらの句は、大いに説明を要する。議論の出発点にもなる。

この句をつぶやいているのは、与党というよりは政権である。アベがこうつぶやいているだろうという思い做しの句。その内容の大意は二通りに読むことができよう。

一つは、弱小野党の力量不足で国会には向かうところ敵なし。ところが、意外にも司法が政権の思惑実行の壁になっている。今後は野党ではなく、司法を政敵と意識して政治を構想しなければならないという諧謔。

もう一つは、政権の意思を貫徹するために司法が邪魔になっている。司法を政権のいうことに従順な機関につくり変えてゆかねばならない、という恐るべきたくらみ。

まずは前者。
「平家物語」には、権勢を誇った白河法皇の「わが心にかなわぬもの」が挙げられている。「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の「三不如意」。アベにしてみれば、さながら司法が目の上の「山法師」というところなのだ。邪魔でしょうがないが、これだけは「賀茂川の水、双六の賽」と同様に、手を付けられない。だから、憲法の枠内での適法な政策をしようと考えるのなら、結構なことだが…。

アベの意に適わない司法の働きの具体例として、3月9日の大津地裁仮処分決定が挙げられる。稼働中の関西電力高浜原発原子炉が、29人の住民の申立を裁判所が認めたために運転停止を余儀なくされた。野党の力及ばず、国会では原発再稼働を阻止できないが、裁判所が稼働を停止する力量を持っているということを見せつけられた。

沖縄の辺野古新基地建設もそうだ。国家権力が、民意に支えられた沖縄県政を無視して強行した海水面埋立工事の続行ができなくなっている。福岡高裁那覇支部を舞台の訴訟で、3月4日政府は敗訴必至となって屈辱の和解に応じ、工事続行の停止を約束せざるを得ない事態となっている。

原発再稼働と米軍基地の建設、いずれも本来は最重要の政治課題である。政治のレベルではアベの暴走をストップできず、かろうじて司法が政権にブレーキをかけているのだ。川柳子は、これを皮肉な図として嘆いていると読める。

もう一つの解釈。
狷介なアベ政権が、司法を相手にこれを骨抜きにしようと画策していないはずはない。そういう川柳子の危惧が読み取れる。

アベは、憲法改正を悲願とする人物である。明文改憲ができなければ、憲法の理念を蹂躙することに躊躇する人物ではない。「司法権の独立」「裁判官の独立」は日本国憲法の理念実現を担保するための重要な大原則である。しかし、憲法を邪魔と考えるアベ政権が、憲法に従った裁判を忌み嫌い、司法を膝下におきたいと狙っていると考えざるをえない。

集団的自衛権行使容認の解釈改憲のためには、内閣法制局見解が邪魔として、異例の長官人事を強行までした安倍内閣である。「裁判所だけは意のままにならぬ」と嘆いているだけではなく、最高裁や下級裁判所の裁判官人事を通じての、司法の独立に挑戦することを警戒しなければならない。

1960年代の終わりから70年代の初頭に、「司法の嵐」が吹き荒れた。自民党政権の意を受けた最高裁内部の司法官僚(石田和外がその頭目だった)の裁判官人事を通じての裁判内容統制が行われた。具体的には、裁判官の思想差別による採用拒否・再任拒否、そして嫌がらせ配転等々である。当時、このことが国民的な憲法運動、民主主義運動の課題となった。

諸悪の根源は、アベ政権の非立憲主義にある。「アベ政治を許さない」は、あらゆる分野で必要なのだ。
(2016年3月12日)

表現の自由を護るための、スラップ防止対策シンポジウム構想 -「DHCスラップ訴訟」を許さない・第71弾

先週の木曜日、1月28日にDHCスラップ訴訟控訴審の判決が言い渡されて本日でちょうど1週間が経過した。上告ないし上告受理申立期間は本来は来週の木曜日、2月11日までだが、この最終日が休日(「建国記念の日」)なので、2月12日(金)となる。DHC・吉田嘉明は、おそらく期限ぎりぎりまで考え続けるのだろう。

上告も上告受理申立も、これが受理され審理されるのはきわめて制限された狭い門である。本件の場合も、この高いハードルを乗り越えての逆転など万に一つの目もない。そのことは、一審・二審と完全な敗訴を続けたDHC・吉田側もよく分かっているはず。いや、最初から勝訴の見通しなど持っていなかったというべきなのだろう。勝訴の見通しなくても、提訴自体の言論封殺効果をねらっての典型的スラップ訴訟。だからこそ、威嚇として十分な非常識高額請求訴訟となったのだ。

DHC・吉田の当初の請求は2000万円だった。私が、この訴訟をスラップ訴訟として当ブログで反撃を開始した途端に、請求額は6000万円に跳ね上がった。当初は2000万円の請求金額で威嚇効果十分と考えたのが、予想外の反撃を受けてこの程度の金額では提訴の持つ威嚇効果不十分と認識したからこその請求の拡張、それもいきなりの3倍化ということなのだ。

DHCスラップ訴訟の被害者は、被告とされた私だけではない。社会の多くの人が、「DHCや吉田嘉明を批判すると、やたらと訴訟を提起されて面倒なことになる」ことを恐れてDHC・吉田に対する批判を自制している現実がある。言論の萎縮効果が蔓延しているのだ。

私は、当事者として、また弁護士という職業上の使命において、このような言論の萎縮をねらった社会悪に立ち向かわなければならない。いかに面倒であっても、逃げるわけにはいかない。飽くまで闘うのみである。

DHC・吉田の上告(受理申立)可否についての考慮の構図は、次のようなものだ。

積極方針の根拠。
「最初から覚悟していたことではあるが、こんなみっともない敗訴には腹が立つ。万に一つでも逆転の可能性があるのなら最高裁まで争ってみたい」「それだけではない。もともとが澤藤に負担をかけることを目的とした提訴だ。少しでも長く、被告の座に坐らせ、少しでも大きな財政的心理的な負担をかけようという初心にたちかえって最高裁に上訴すべきだろう」「幸い、我が方にはカネの力がある。弁護士費用なぞはいくらかかってもかまわない。上告の手数料(貼用印紙)は、わずか40万円余だという。貧乏人には高いハードルとして評判悪いが、私にはなんの負担感もない」

消極方針の根拠。  
「最高裁でもほぼ確実に敗訴を重ねる公算が高い。3度めの恥の上塗りはみっともなさを天下に曝すことになる」「スラップだ、濫訴だ、不当提訴だと、また叩かれることになる」「渡辺喜美に8億円を提供したことをまた蒸し返され、結局は規制緩和を求めて裏金を渡したと世間に印象づけることになってしまう」「化粧品やサプリメントを販売している当社にとって、ダーティーな商品イメージにつながって商売に影響を及ぼすことが心配だ」「結局は、上告をやめてこのトラブルを早めに終息させた方が経営上は得策だろう」

どちらでも、よく考えてみるがよい。どちらにしても針のムシロ。自分で播いた種だ。自分で刈り取るしかない。

スラップ訴訟は、訴権を濫用して、表現の自由を萎縮させる深刻な社会悪である。スラップ訴訟の提起者には、相応の制裁があってしかるべきだ。控訴・上告に至ったスラップには、比例原則にしたがった制裁措置がなくてはならない。制裁の方法や制裁が及ぶべき範囲についてはいろいろと考えられるが、まずはその方法を考える大きなシンポジウムを開催したい。仮称「スラップ訴訟とDHC」である。

シンポジウムは2部構成とする。
第一部は、スラップ訴訟一般について。スラップの何たるか、その実態と弊害。憲法的な問題点、訴訟法的な問題点、米国のスラップ事情、どのように、スラップ防止の仕組みを構築すべきか。そしてスラップ提起者や代理人弁護士に、どのような実効性ある具体的制裁が可能か。

第二部は、もっぱらDHC問題。DHCが過去に起こしたスラップ訴訟の総ざらい。そして、DHCスラップ訴訟対澤藤事件における、上告(受理申立)理由の徹底検証を公開の場で行う。

メディアも招待して、自分の問題として考えもらうきっかけとしたい。記録を映像化し、また書籍化して、多くの人に広めたい。

先日、「バナナの逆襲」というドキュメント映画を製作したフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と対談の機会があった。世界的な大企業であるドールフードからの「上映差止請求スラップ訴訟」との闘いを、そのままドキュメントにしたもの。このスラップ訴訟を取り下げさせた監督の述懐として、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」とのこと。

バナナとサプリメントでは商品の違いも、流通経路の違いもあるだろう。対DHC不買運動の提起が有効かどうか。どのようなやり方があり得るか。この点も大いに議論したいところ。

シンポジウムでは、上告(受理申立)から50日を期限として、上告(あるいは上告受理申立)理由書が出て来る。これを徹底して検討し叩く場にしたい。連休明け頃がこのシンポジウムの時期となるだろう。ぜひお楽しみにしたいただきたい。
(2016年2月4日)

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