澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

60年前の伊達判決に、独立した裁判官像の原型を見る。

60年前の今日、1960年1月19日に「新」日米安保条約が調印された。この条約批准に反対する国民的大運動が「安保闘争」である。高揚した国民運動に岸信介政権と自民党は議会の数の力で対抗した。

5月19日衆議院での会期延長強行採決が国民に大きな衝撃を与え、翌20日衆院での条約批准の単独採決が火に油を注いだ。対米従属拒否の安保闘争は、議会制民主主義擁護の運動ともなった。同年6月が、「安保の季節」となって、全国の津々浦々に「アンポ・ハンタイ」「キシヲ・タオセ」の声がこだました。参院での議決ないままの6月19日自然承認で新安保条約成立となったが、国民的なひろがりをもった大運動が遺したものは大きかった。私は、安保後の世代として学生生活を送り、学生運動や労働運動の熱冷めやらぬ70年代初頭に弁護士となった。

よく知られているとおり、60年安保闘争には、その前哨戦として砂川基地建設反対闘争があり、裁判闘争としての砂川刑特法刑事事件があった。59年12月の最高裁砂川大法廷判決が、安保条約を合憲として在日米軍駐留を認め、同時に司法のあり方についての基本枠組みを決めることにもなった。

砂川大法廷判決と、この判決を支えた司法の枠組みは、日本の対米従属という政治的な基本構造の憲法解釈と司法のありかたへの反映である。そのような事情から、政治的基本構造における「安保後60年」は、安保が憲法を凌駕する「二つの法体系」の60年でもあり、「日本型司法消極主義」の60年ともなった。

言うまでもなく、主権国家の憲法は、最高法規として一国の法体系の頂点に位置する。敗戦以来占領下にあった日本は、1952年4月28日の独立をもって主権を回復した。これに伴い、日本国憲法は、施行後5年を経て占領軍政の軛から脱して最高法規となった。しかし、日本国憲法の最高法規性は形だけのものに過ぎなかった。そのことを深く自覚させられたのが、砂川事件における最高裁大法廷判決であった。

「憲法 ― 法律 ― 命令 ― 具体的処分」という憲法を頂点とする法体系のヒエラルヒーに対峙して、「安保条約 ― 行政協定(現・地位協定) ― 特別法」という矛盾する別系統の安保法体系があって、この両者が激しく拮抗しており、事実上安保法体系は憲法体系を凌駕し、あるいは侵蝕していると認識せざるを得ない。これが、主唱者長谷川正安の名とともに知られた「二つの法体系論」である。

この二つの法体系論は、砂川基地反対闘争におけるデモ隊の米軍基地への立ち入りを、「刑事特別法」(「日米安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法」)違反として起訴したことによって、あぶり出された。

砂川闘争は北多摩郡砂川町(現・立川市)付近にあった在日米軍立川飛行場の拡張反対を巡っての平和運動である。闘争のバックボーンには、憲法9条の平和主義があった。再び、あの戦争の惨禍を繰り返してはならない。そのためには、軍事力の有効性も存在も否定しなくてはならない。日本国憲法が日本の戦力を保持しないとしながら、軍事超大国アメリカの軍隊の駐留を認めるはずはなく、その軍事基地の拡張などあってはならない。これが当時の国民的常識であったろう。

57年7月8日、東京調達局が基地拡張のための測量を強行した際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入った。このことをとらえて、デモ隊のうちの7名が刑事特別法違反として起訴された。

こうなれば、当然に刑特法の有効性が争われることになる。行政協定(現・地位協定)と安保条約そのものの違憲性も問われることになる。それを承知での強気の起訴だった。徹底した平和主義を理念とし、戦力を持たないと宣言した9条をもつ日本に、安保条約に基づく米軍が存在している。誰の目にも、違憲の疑いあることは当然であった。

それでも検察は、安保合憲・米軍駐留合憲を当然の前提として、敢えて刑特法違反での強気の起訴をしたのだ。その法理論の主柱は、憲法9条2項が禁止する「陸海空軍その他の戦力」とは、日本政府に指揮権がある実力部隊に限られ、米駐留軍は含まない、とする解釈論だった。

この刑事被告事件には、対照的な2件の著名判決がある。東京地裁の伊達判決(59年3月30日)と、跳躍上告審における最高裁大法廷砂川判決(同年12月16日・裁判長田中耕太郎)とである。

一審東京地裁では、検察の強気は裏目に出た。主権国家における日本国憲法の最高法規性を当然の前提として、日本国憲法体系の論理を貫徹したのが、砂川事件一審伊達判決であった。59年3月30日、伊達裁判長は、起訴された被告人全員の無罪を宣告する。その理由の眼目である憲法解釈は以下のとおり、分かりやすいものである。
「わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法第9条第2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものといわざるを得ない.」「合衆国軍隊の駐留が憲法に違反し許すべからざるものである以上、刑事特別法第2条の規定は、何人も適正な手続によらなければ刑罰を科せられないとする憲法第31条に違反し無効なものといわなければならない。」

これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告し、舞台は東京高裁の控訴審を抜きにして最高裁に移った。そうしたのは、日米両政府に、急ぐ理由があったからだ。60年初頭には、新安保条約の調印が予定されていた。安保条約を違憲とする伊達判決は、なんとしても59年の内に否定しておかねばならなかったのだ。こうして、最高裁大法廷は同年12月16日判決で、米軍駐留合憲論と、統治行為論を判示した上で、事件を東京地裁に差し戻す。

最高裁では破棄されたが、伊達判決こそは、政治支配からも立法権・行政権からも、そして最高裁の司法行政による支配からも独立した下級審裁判官による判決であった。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。伊達判決を言い渡した3人の裁判官は、まさしく憲法のいう独立した裁判官であった。「法と良心」に従って忖度なしの判決を言い渡したのだ。このような硬骨な裁判官の存在は、政権にも最高裁上層部にも衝撃だった。望ましからざることこの上ない。

以後、最高裁は下級審裁判官の統制を課題として意識し、国民運動のスローガンは、「裁判官の独立を守れ」というものとなった。昨日のブログで取りあげた、伊方原発運転を差し止めた広島高裁の3裁判官も、60年前における伊達コートの後輩である。最高裁司法行政からの統制圧力と、国民運動による裁判官独立激励の狭間にあって、呻吟しつつ良心を擁護してきたのだ。

(2020年1月19日)

独立を貫いた裁判長の原発運転差し止め決定

昨日(1月17日)、広島高裁(森一岳裁判長)は、四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを認める決定を出した。これは、快挙である。3人の裁判官に、敬意を表したい。

事件は、山口県内の住民3人が求めた仮処分申し立てである。本案訴訟の判決言い渡しあるまでの仮の差し止めが認められた。申し立てたのは、伊方原発から50キロ圏内にある瀬戸内海の島の住民。山口地裁岩国支部が昨年3月、その申し立てを却下する決定を出したため、これを不服として広島高裁に即時抗告して、逆転の決定に至った。原発運転を差し止める高裁レベルでの司法判断は2件目だという。

抗告審で問題になったのは、国内最大規模の活断層「中央構造線断層帯」に関連する活断層が原発の沖合約600メートルにある可能性、約130キロ離れた阿蘇山(熊本県)の巨大噴火で火砕流が到達するリスク、あるいは事故が起きた際の島からのは避難の困難性などであったという。

報じられている決定の概要では、「活断層が原発の敷地に極めて近い可能性を否定し得ず地震動評価や調査が不十分」「阿蘇カルデラ噴火による影響についての想定は過小」「原子炉設置変更許可申請を問題ないとした原子力規制委員会の判断は誤りで不合理」と、踏み込んだ判断となっている。その判断の影響は大きい。

私が注目したのは、裁判長の定年の時期である。森一岳裁判長は、この決定の8日後今月25日に65歳の誕生日を迎えて定年退官する。決定を退官後の後任裁判長に先送りすることなく毅然とした判断を貫いたのだ。

あるいは、もう定年間際である。恐いものはないのだから、自分の思うところを貫こうと考えたのかも知れない。「鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し。人の将に死なんとする、その言ふや善し」というが、「裁判官の将に定年になろうとする。その判決や善し」なのだ。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。ところが、独立した裁判官も、独立を貫いた裁判も、実は稀少なのだ。

歯に衣きせずに敢えて言えば、司法の本質は権力機構の一部である。この社会の体制から、あるいは社会の多数派が牛耳る立法権から、そして権力主体としての行政権から、司法は強い掣肘を受けている。それが現実である。

もちろん、法の論理としてはそうであってはならず、すべての裁判官が独立していなければならない。しかし、現実は甘くない。司法が他の権力からの掣肘を受けるだけでなく、個々の裁判官が最高裁当局から監視され締め付けを受けている。

原発の推進は国策である。行政のみならず、司法当局も、原発推進に逆行する判決を歓迎していないことは、誰の目にも明白である。最高裁当局の思惑を忖度して、それに逆らわない判決を書ける人を「賢い裁判官」という。賢いとは、上手に生きる処世の術に長けているということである。

最高裁当局の思惑を忖度せず、敢えてそれに逆らって「その良心に従ひ独立してその職権を行ふ」愚直な裁判官はどうなるか。当然のことながら、出世コースから外される。給料に差が付く。任地で差別される。若い裁判官との接触の機会を求めても裁判長になれない。影響の大きな重要裁判は担当させられない…。

森一岳裁判長がどうであったかは具体的には知らない。しかし、処世術に長けた「賢い裁判官」ではなかったようだ。そして、もう定年間際。恐いものなく、純粋に法と良心のみに従った決定を書いた。そうすれば、政府や財界にも、最高裁事務総局にもおもねりのない、原発運転差し止め決定となるのだ。

裁判官の独立は、真に貴重である。

(2020年1月18日)

三鷹事件と、竹内景助の家族のこと

昨日に続いて、もう少し三鷹事件のこと。

下山・三鷹・松川という、社会を震撼させた大事件が続いて発生したのは1949年夏のこと。むろん,私は当時のことは知らない。私の世代では松川こそが大事件という印象だが、往時を知る人は、東北の一角で起きた松川事件よりは、首都東京での三鷹事件の政治的インパクトが遙かに大きかったという。

7月15日夜8時24分に国鉄三鷹駅構内の無人列車が暴走し、駅内外で死者6名、負傷者20名を出す大事故となった。その翌日16日には、吉田茂首相の「不安をあおる共産党」という長文の談話が発表されている。そのなかで、「虚偽とテロが彼らの運動方法なのである」と言っている。犯人は共産党という決めつけの公報だった。昨今のアベ政権もひどいが、当時の吉田内閣は輪をかけてひどかった。これをマスメディアが批判せず、むしろ政権に呼応した。朝日・毎日・読売ともである。共産党が世論の矢面に立たされ、労働運動の勢いが殺がれた。

こうして、国鉄労働者10万人馘首反対運動の先頭に立っていた共産党が勢力を失い、労働運動内での共産党の影響力も低下した。三鷹事件の全体像は、共産党と、党指導の労働運動弾圧を目的とした政治的謀略事件というべきだろう。下山・三鷹・松川のすべてがそのような性格をもった「事件」だった。

三鷹事件では、その権力のもくろみを貫徹することはできなかったが、竹内景助という犠牲者を生んだ。犠牲になったのは竹内だけでない。その家族も悲惨だった。
逮捕された竹内には,妻の政(まさ)との間に幼い3男2女があった。しかも、竹内は事件前日の7月14日に整理解雇の対象となって馘首されている。その後、政は一人で、5人の子を育てた。並大抵の苦労ではない。しかも、政は竹内の救援運動にも時間を割かなければならなかった。

私は、学生時代に国民救援会に出入りしていた。当時は、愛宕署近くにあった木造の「平和と労働会館」の一室だった。あの建物が火災に遭う直前のある日、そこで一人の中年の女性が事務作業をしていた。山田善二郎さんから、その人が竹内景助さんの奥さんだと教えられた。挨拶程度はあったようにも思うが、言葉を交わした記憶はない。厳しいような、寂しいような,その人の雰囲気を覚えている。

「無実の死刑囚」の中で、加賀乙彦が竹内から聞かされた言葉を紹介している。

もうどうしようもなく、気が滅人っちゃうんです。家族がかわいそうです。もともと貧乏だったのが、おれのおかげでなお貧乏になっちゃってね。うちのヤツ(女房)が生活保護に内職をしても追いつかず、救援会の差人れてくれた金を、おれが渡して何とかやりくりで、ほんとうにかわいそうだ。

竹内政は,1950年4月1日の第7回通常国会「厚生委員会の生活保護法案に関する公聽会」に公述人として出席して、次のように発言している。

私は現在三鷹町に住んでおりまして、生活保護を受けておりますが、今の生活保護料では、とても七人の家族ではやつて行かれないのでございます。ですから、ぜひ生活の保障をしていただけるようにお願いいたしたいと思います。
現在一箇月、額にして六千百四十八円いただいております。家族としては、母が一人おりまして、ほか六人の家族で、七人になりますが、母の分としては、生活保護からはいただいておりませんので、ぜひ母の分も生活保護から出していただきたいと思つております。
第二に、生活状況を簡單にお話したいと思います。食事にいたしましても、一日の食事は、朝はすいとんをいただいたり、お晝は麦のおかゆを食べたり、夜は御飯にみそ汁ぐらいの状況でありますが、主食としまして、一箇月四千円かかります。あとの二千百四十八円は調味料、それから住居と電気の拂いにいたしております。住居の方は、今失業をしておりますので、三百円拂わなれけば、立退きを命ぜられると思つて、むりをしてまで住居の方だけは拂つております。そのほか燃料としての炭やまきに五百円かかります。また二人学校に行つておりますので、教育費が二百二十円かかつております。調味料は一月五百円でございますけれども、今月いただけば、来月はいたたかないようにしても私のところではほかの費用にまわしております。そのほか野菜とか、お魚類は、一月に一回五十円見当のものを七人でいただいております。実際私たちの生活は、ほんとうにみじめで、まして育つ盛りの子供ばかりをかかえておりますので、この生活では、まつたく栄養失調と申しますか、そういうような状態になる次第でございます。
その次に衣料としましては、私たちは一回戦災にあいまして、着のみ着のままでおりますところに、現在の生活に入りまして、下着類も何一つ買えない始末で、子供の下着にしても、継いだ上にまた切れたりしておりまして、まつたく近所の方から見たら、まるでこじきのようなかつこうをしております。それでも私はがまんして子供に済せておりまして、子供たちは別に何とも申しません。今一番小さいのが医者にかかつておりますけれども、民生委員の保護では、注射も一回だし、往診も一回だというような状態なものですから、赤十字病院の方へかかつておりますけれども、その拂いも、どうにかこうにかやつておりまして、食物を節約したりして、医者の方を拂つたりしております。
そういうわけでありまして、私も何か内職をしたいと思いますけれども、小さい子供をかかえておりましては、とうてい内職もできないと思つております。そのほか主人がああいうところに入つておりまして、差入れだの何かの費用もありますけれども、それの方は主人にあきらめてもらつて、月に一回か二回という程度にしておりまして、なるべくなら、生活できるだけの保障を今後お願いしたいと思います。
簡單でございますが、以上申し上げます。

「無実の死刑囚」の中で、高見沢さんは、こう語っている。

竹内は、8月1日に逮捕され裁判にかけられることになるが、逮捕直前の家族との日常生活はどのようなものであったか。
後に竹内は「再審理由補足書」(上)の中で、「7月11日は、徹夜明け休み、12日、13日は月一回の連休だったので、長男(7歳)と次女(4歳)を連れて、国分寺の丘の雑木林を借りて開墾して作っていた畠ヘジャガイモを掘りにゆき、帰りに付近の川で水遊びをしたり、家に居るときは境浄水揚の方へ子供を連れて写生に行ったり、また飼っていた山羊や近くの菜園の作物の世話をしたりして」おり、三鷹事件が発生した7月15日には、「朝のうちは線路の北側に作っていた畠の作物の手入れや山羊の世話をして子供と畠にいて、9時頃帰宅して食事をし」た、と綴っている。
そのような家族との穏やかな生活こそが、竹内の日常生活であった。「春を待ついのち」には、子供への慈愛と妻への深い愛情を綴った手紙が数多く掲載されていて、どれ一つとして涙なしには読めない。

冤罪も弾圧も,多くの人を不幸にするのだ。
(2019年12月15日)

「無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助」を薦める。

高見澤昭治さんの近著無実の死刑囚  三鷹事件 竹内景助(増補改訂版)を読み終えた。読後感は重い。

日本評論社刊のこの書物の発行日は、2019年10月1日。周知のとおり、東京高裁が遺族からの再審請求を棄却したのが7月31日である。この増補改訂版は、「再審開始決定」を想定しての、言わば「再審開始決定・祝賀記念版」として出版準備がなされていたに違いない。それが、弁護団にとっては思いもかけない棄却決定となり、裁判所・検察への抗議と、世論への訴えの書となった。泉下の竹内とその妻(政)は、度重なる試練をどう受け止めているだろうか。

私は、学生時代に松川事件の救援運動の末端に関わった。その関わりの限りで、三鷹事件にも関心をもってはいた。松川も三鷹も、あるいは菅生も、青梅も白鳥も鹿地事件も「階級的弾圧としての謀略」と考えていた。松川の全員無罪を言い渡した仙台高裁門田判決後の時期、三鷹事件でも共産党員被告全員無罪が確定していた当時のこと。

松川も三鷹も、法廷闘争において既に赫々たる成果を上げ得たとの印象が強く、三鷹事件の再審はさほどの規模をもつ運動にはなっていなかった。そのことに、なんとはなしの引け目のような違和感を持ち続けてきた。非党員竹内景助一人を有罪にしながら、11名の党員被告全員無罪を大きな成果と喜んでいることへの引っかかりである。

しかも、竹内は一審判決では無期懲役だったが、控訴審では弁護人の方針に従って事実を争わないままに死刑判決を得た。そして、最高裁判決は8対7で、上告を棄却し竹内の死刑を確定させた。一票の差が生命を奪う判決となったのだ。なんという後味の悪い経過であったろう。

確かに、竹内の供述は揺れ動いた。否認・単独犯行・共同犯行を、法廷の供述で行きつ戻りつし,裁判所は単独犯行と認定した。この供述の揺れはどうしてなのだろうか。三鷹事件の裁判に関心をもつ者がおしなべて謎とするところである。同書は、この点について弁護人からの働きかけの問題点を幾度となく指摘している。たとえば、次のように。

『文藝春秋』1952年2月号に、獄中の竹内からの寄稿が掲載されている。「おいしいものから食べなさい」という題名。文章は次のような書き出しで始まっているという。

「おいしいものから食べなさい。冒頭から、まことにおかしなことを書きはじめたが、正月の料理だの、婚礼祝いの御馳走だの、要するに、日常茶飯の間において、人は御馳走が出たら、一番うまいものから順に食べて、まずいものはなるべく後に残しておくがいい、という至極当たり前のことなのである。ところが、こんな当然過ぎることを、私は齢30過ぎになって、しかも死刑囚という汚名に呻吟する身になって、初めて理解したのだ。」
 奇妙な書き出しであるが、一般の読者に興味を持って読んでもらうために、自分の小さいときからの性癖を紹介し、死刑囚となった原因がそこにあるということを印象づけるねらいがあった。手記には検事の拷問的な取調べについても厳しく糾弾していたが、支援運動などに携わっているものにとって一番衝撃的であったのは、単独犯行であるといい続けることが他の共産党員の被告を救うためにも、また竹内自身のためでもあると弁護人から説得されたことが詳細に書かれ、さらに共産党を批判した部分であった。
その内容については、すでに引用して紹介したので省略するが、上告が退けられた後には、「竹内君、余り心配しなさんな。すぐには殺されないだろうからね…」と弁護人から言われ、「この一点非のうちどころのなき冷酷、非情な一言を聞いて、私ははじめて彼の陰謀に踊らされてきた自分の愚かさを悟ったのである」という思いを書き綴っている。そしておそらく編集部で付けたと思われる「共産党員の背徳」の項では、「想えば彼等に信頼、友情、人間愛などを期待した私は本当に馬鹿者であった。私は彼等を責めるより先に、自分の間抜けさを責めなければならないかも知れない」と記している。それが「おいしいものから食べなさい」という表題をつけた真意だというのだ。

普通、人はまず美味しいものから箸をつける。竹内は、自分もそのようにすべきだったと後悔しているのだ。むろん、美味しいものとは「無罪」である。無実なのだから、揺るがずに無罪を叫び続ければよかった。ところが、優先順位を間違えて、私的な利益に箸をつけることなく、共産党や労働運動への信義という、苦い味のものに箸をつけてしまったというのだ。その結果が、死刑の判決だった。

また、精神科医として竹内と面会した加賀乙彦は、竹内がこう言ったと記している。

「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。それが過ちのもとでした。けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」

竹内は共産党員ではなかったが、明らかに党には敬意とシンパシーをもっていた。その彼の単独犯行自白の維持は、迷いつつも身を犠牲にして党を救おうという意図に出たものだったのだろう。彼なりの使命感であり、ヒロイズムであり、誠実な生き方であったと思われる。しかし、まさかその結果が死刑判決とは思ってもいなかった。

死刑判決の後は、凄まじい覚悟で、上告趣意書を書き、厖大な再審請求書の作成に没頭する。再審請求書とその補充書は併せて60万字にも及ぶという。その執念の再審請求にようやく曙光が当たり、実を結ぶかと思われたそのときに、竹内は獄中で無念の死に至る。

竹内景助。その劇的な生涯は多くのことを語りかけている。この好著を通じて、ぜひ彼の語りかけてくるところに耳を傾けられたい。

ご購入は下記に。

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8055.html
(2019年12月14日)

N国の興亡が教えるもの

思いもかけない現実の出来が、認識を変え意見を変える。「NHKから国民を守る党」なるものの出現が、私には衝撃だった。そして、自分の公共放送に対する見解が、このような人びとと似通って見られることに大いに戸惑い、かつ恥じた。私とN国、どこがどのように意見が違うのだろうか。どのようにすれば、理念の相違を押し出せるのだろうか。

この党の自らの定義が、「NHKにお金を支払わない方を全力で応援・サポートする政党」であり、それがメインのキャッチフレーズにもなっている。「NHKをぶっ壊す!」とともに、これが一定の国民の胸に響いたのだ。

立花孝志は、ホームページの「党首あいさつ」において、「NHKから国民を守る党は、文字通りNHKから国民をお守りする為の党です。NHKが行っている戸別訪問は、勝手にNHKの電波を各世帯に送りつけて、NHKを見ていなくても集金する送りつけ商法です。…」などと言っている。

結局、N国とは「NHK受信料の不当な集金から国民の経済的利益を守る党」である。けっして、「政権の走狗としてのNHKの本質をぶっ壊す」とは言わない。「権力に従順なNHKの基本体質を批判する」とも、「大本営発表放送の偏頗から民主主義と国民を守る」ともいうものではないのだ。

私は、宗旨を変えた。NHKを一塊の均質の組織として見ることを止めよう。そのような批判の仕方を止めよう。NHKを二層の対立物として捉えなければならない。「権力に操作され、権力を忖度し、権力と癒着するNHK上層部」と、「上層部との軋轢の中で、良質の番組を制作しようと努力している現場フタッフ」との二層の構造。上層部を批判し、現場を励まさなければならない。

本年7月の参院選におけるN国の得票は、NHKの受信料徴収に国民の根深い反感があることを教えた。NHKは、そのことに対する反省はすべきだろう。だが、所詮は右翼の別働隊に過ぎないN国の攻撃に萎縮する必要はない。そもそも、N国の賞味期限が長いはずはない。

立花は、売名目的での立候補を繰り返している。最近のものが、今月(12月)8日投票の小金井市長選挙。開票結果は以下のとおり。N国・立花の惨敗である。

1 当 西岡真一郎 無所属 18,579
2 落 かわの律子 無所属 10,759
3 落 森戸よう子 無所属 10,399
4 落 立花 孝志 N国    678

市区長選挙における供託金の金額は100万円で、供託金没収点は有効投票総数の10分の1。今回市長選の投票総数は40,904だったから、その10%は4,090票である。立花は、供託金没収点の6分の1の得票もできなかった。

この選挙における立花を、典型的な「売名目的の泡沫候補」と呼んで差し支えなかろう。立花のごとき泡沫候補にも立候補の権利は保障されている。100万円で公営選挙を利用した宣伝売名行為ができれば安いものである。それでも得票はわずか678。先の長くないことを示唆している。

ところで、こんな裁判例があることを初めて知った。

一昨年(2017年)7月19共同配信の記事。

NHK提訴は「業務妨害」 受信料訴訟原告に賠償命令
受信料の徴収を巡り勝訴の見込みがない裁判を女性に起こさせたとして、NHKが政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表らに弁護士費用相当額の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は19日、請求通り54万円の支払いを命じた。

山田真紀裁判長は判決理由で「NHKの業務を妨害するため訴訟に関与しており、裁判制度を不当に利用する目的があった」と指摘した。

立花氏は元NHK職員。判決によると、2015年8月、NHKが受信料徴収業務を委託した業者の従業員が千葉県内の女性宅を訪問。女性は立花氏に電話で相談し、2日後に慰謝料10万円の支払いをNHKに求め松戸簡裁に提訴した。訴訟は千葉地裁松戸支部に移送され、女性が敗訴した。

千葉県内の女性がNHKからの受信料請求を受けて立花に電話で相談したところ、立花のアドバイスは提訴だった。女性は、立花の指示のとおりに、NHKを被告として10万円の慰謝料支払いを求める損害賠償請求訴訟を提起して敗訴した。ところが、ことはこれで終わらなかった。NHKは、この女性と立花を逆に訴えたのだ。今度の舞台は東京地方裁判所。前訴10万円の請求の棄却を求める応訴の費用として、NHKが委任した弁護士に支払った弁護士費用54万円を支払えという請求。なんと、地裁は、その満額を認めたという記事である。

この裁判は上級審で逆転せずに、確定した。実は、もう一つ同様の裁判があり、NHKは立花に108万円の強制執行が可能だという。NHKは近々執行に踏み切るとも言っている。

繰り返すが、10万円の慰謝料請求という前訴の提起を違法として、提訴者に54万円の応訴費用の損害の賠償を認めたのだ。DHCスラップ「反撃」訴訟の認容額は110万円であるが、応訴費用(弁護士費用)として認められたのは、そのうちの10万円に過ぎない。これが、常識的な水準。N国訴訟の理由には「(立花は)NHKの業務を妨害するため訴訟に関与しており、裁判制度を不当に利用する目的があった」と指摘しているという。

軽々にするスラップの提訴は、ブーメラン効果を伴う。うっかり提訴・いい加減提訴は、損害賠償責任の原因となる。そのやばさを、立花が身をもって教えてくれている。最近では、出資法違反疑惑の金集めまでも。また、教訓を積み重ねてくれることになるにちがいない。それにしても、こんな事態では、N国の明日はなかろう。
(2019年12月13日)

─ 司法の危機の時代から50年─ そして今は。

本日、第50回司法制度研究集会。総合タイトルが、「今、あらめて、司法と裁判官の独立を考える─ 司法の危機の時代から50年─」というもの。よく準備されて充実したシンポジウムであり、盛会でもあった。

もちろん回顧のための集会ではない。あの「司法の危機」あるいは「司法の嵐」と言われた50年前を振り返り、その体験を承継し教訓を確認して司法の今を見つめる。その中から将来を展望しようという企画。

司法の将来に希望や展望を求めての集いなのだが、改めて司法の現状に深刻な危機感を禁じえない。司法の生命は、独立にある。独立の主体は本来個々の裁判官である。司法部が、立法や行政や与党や政治勢力から独立しているだけでは足りない。個々の裁判官が、司法部の司法行政の圧力から独立していなければならないのだ。

その裁判官の独立が危殆に瀕していることを天下にさらけ出したのが、1969年の平賀書簡問題だった。50年前の「司法の危機」の序曲である。

当時、札幌地裁(民事1部)に「長沼ナイキ基地訴訟」が係属していた。ナイキ・ハーキュリー地対空ミサイルを配備するための自衛隊基地建設が目論まれ、その敷地となる馬追山の森林伐採のために、農林大臣による水源涵養保安林指定解除の行政処分がなされた。近隣住民がこれに反対して処分取消の行政訴訟の提起となった。その提訴が同年7月7日のこと。

ことは、自衛隊の存在が憲法9条に照らして合憲かという大問題。この訴訟と、提訴に伴う執行停止申立(民事訴訟の仮処分に相当)事件を担当したのが福島重雄裁判長だった。福島コートは、同年8月22日に執行停止事件についての申立認容決定を出して大きな話題となった。

ところが、後に明らかとなったところでは、地裁所長の平賀健太がこの事件に執拗に干渉し、8月14日にいわゆる「平賀書簡」を福島裁判官の自宅に送っていた。“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモの内容は、訴訟判断の問題点について原告住民側の申立を却下するよう誘導し示唆したもので、明らかな裁判干渉だった。そのため、札幌地裁の裁判官たちは、裁判所法の手続に則った裁判官会議を開いて、平賀所長を厳重注意処分とした。

ところが、この後事態は思わぬ方向に展開する。事件発覚の直後、鹿児島地裁の所長だった飯守重任(田中耕太郎の実弟)が所信を発表して、一石を投じた。何しろ、この人は筋金入りの反共右翼。「青法協は革命団体で、最高裁は青法協会員に対しては昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべきだ」という確信犯。後には、所内の裁判官の思想調査までして地家裁所長職を解職され判事に格下げされ、結局は裁判官を辞めたという人。

この人が、「問題は、平賀にではなく革命団体青法協に所属している福島にこそある」と口火を切った。これ以後、右翼や自民党の青法協攻撃が続くことになる。これに呼応したのが「ミスター最高裁長官」石田和外(在任1969年1月11日~1973年5月19日)だった。裁判官は政治的団体への加入は慎むべきとの立場から、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。

50年前の1969年は、私が司法修習生として研修所に入所した年。その2年後に、同期7人の裁判官採用拒否事件、阪口徳雄君罷免問題などが起き、「司法の嵐」のまっただ中に弁護士として出発することになる。

50年前、「司法の独立を擁護せよ」「裁判官の独立を守れ」という大きな国民運動が巻きおこった。政党としては、社・共だけでなく、当時はまともだった公明党も加わっていた。メディアも連日司法の独立を守れというキャンペーン記事を載せた。多くの市民団体や個人が、司法行政・裁判官人事による裁判内容の後退に関心を寄せた。その運動は、けっして無意味なものではなく、多くの気骨ある法曹を励まし育てたと思う。しかし、半世紀を経た今の裁判所の内部について、元裁判官から報告を受けた内容は、薄ら寒い。

気骨ある裁判官は、徹底して差別され孤立させられて、それに続く者が見えなくなっている。裁判所の中で、司法行政当局に抵抗しうる裁判官集団がなくなり、裁判官が司法行政にものを言わなくなった。先輩裁判官のやり方をそのまま踏襲すべきが当然との空気が支配している。裁判官会議は常置委員会に権限を委譲し、その委員会が所長に権限を委譲し、結局は人事権を握る最高裁事務総局以下の全裁判官を統制する「司法の官僚制」が完成の域に近づいている。

この官僚司法が、予算と最高裁人事を握る政権に従属している。こうして、司法の独立も裁判官の独立も、いまやなきに等しく、それが「劣化した判例」となっている。ことは、結局国民の人権と民主主義の危うきにつながっている。

常々思うのだ。司法の独立とは、幻想にしか過ぎないのではないだろうか。所詮は権力機構の一部として、時の政権に従わざるを得ない運命にあるものではないのか。

韓国の裁判所を見学して最も深く印象を受けたのは、国政の民主化があって初めて、司法の独立や司法の民主化が進んだということである。非民主的な立法府や行衛政府をそのままに、司法部だけが民主化して立法や行政を真に批判する裁判が可能なのだろうか。日本が民主化するまで、司法の民主化も独立も無理なのではないか。

50年前の「司法の危機」とは、実は、何のことはない、それまで比較的まともだった司法が、保守政権による巻き返しによって、立法府や行政府と同じレベルに引き下げられたということなのではなかったか。

メインテーマではなかったが、先進的な台湾、韓国、イタリア、イギリス,ドイツなどの各国の司法独立の現状の報告もあった。日本の司法は、後塵を拝しているというにとどまらず、「ガラパゴス化」しているのだという報告もあった。

立派な日本国憲法にふさわしからぬガラパゴス化した司法。それでも、司法の建前は、立法権・行政権から独立した、憲法の砦であり人権の擁護者である。その建前の部分を守り拡げる努力を重ねるしかない。制度的な提案についても、日々の司法の運営に関しても。

集会の参加者は、あるべき司法の理想と現実との乖離の実態を、多くの国民に訴える努力をする決意をしたはずである。希望はそこから開けてくるだろう。すべてが活字になるわけではないが、集会の模様は、「法と民主主義」12月号に特集される。
(2019年11月23日)

弁護士としての初心を思い起こす旅に ― 23期の仲間たちと

本日(10月24日)から2泊3日、司法修習生時代の同期の仲間と旅をする。どこに出向くか、降るか晴れるかはさしたる問題ではない。久しぶりに、気のおけない仲間と顔を合わせてお互いの健在と変わらぬ立場を確認し、とりとめもなくしゃべる時間があればよい。これが近年恒例の楽しみ。だから、今日から3日間のブログは予定稿のアップということになる。ご承知おきを。

仕事が忙しかった時代には、懐かしい昔の仲間で集まろうとか、一緒に旅をしようなどという贅沢な時間は作れなかった。そんな気分にもなれなかった。いま、みんな年齢相応に第一線からは少し退き、昔を懐かしむだけの余裕ができてきたということだ。

私の司法修習期は23期になる。新憲法下、新法曹養成制度発足以来23年目の採用年度に当たるということだ。戦前の官尊民卑時代には、判検事と弁護士とは、採用選考も研修もまったくの別コースだった。天皇の司法が国民の司法に転換したことを象徴する制度の変化の一つが、統一試験・統一修習の法曹養成制度だった。弁護士・判事・検事の法曹三者を志望する者は、統一の司法試験によって資格を得、最高裁が運営する司法研修所で統一した司法修習を受ける。そのあと、それぞれの志望に従った法曹のコースを選ぶことになる。

当時、修習期間は2年、最初の4か月を東京の司法研修所で授業を受け、全国に散って各地の裁判所・検察庁・法律事務所で1年半の実務修習を受ける。そのあと再び研修所に戻って起案中心の授業の後に、卒業試験(通称「2回試験」)を受けて卒業となる。当時、2回試験は長時間のハードなものながらも、不合格は殆どなかった。

研修所は、紀尾井町にあったオンボロ木造の庁舎。我々がここを最後に使って、次の期からは湯島の新庁舎に移っている。その23期の入所が、1969年4月のこと。同期の修習生は500人だった。あれから、ちょうど50年、半世紀にもなるが、けっして往時茫々ではない。むしろ、茫々にしてなるものか、という思いでの半世紀だった。

当然のことながら、同期の500人がみんな懐かしいわけではない。気の合う仲間は、自ずから限られる。当時、修習生運動として、「司法反動」への反対運動をともにした一味徒党が,今も交流の続く気の合う仲間たちなのだ。

私が、弁護士を志した60年代の半ばには、司法権の独立・裁判官の独立は常識とされていた。それが、23期の修習が始まった頃には、急激に危うくなった。それを「司法反動」あるいは「司法の危機」と呼んだ。23期は、司法反動のただ中にあって、これに果敢に抵抗した。その理念と運動が、同期の紐帯となっている。

司法反動は、明らかに当時の判決内容に対する資本や保守勢力の不満に端を発していた。自民党(その先鋒が、田中角栄幹事長)や、反共・右翼メディアがそのことを露骨に表明していた。そして、裁判所内部からこれに呼応したのが、当時最高裁長官だった石田和外である。今でも、この石田和外という名を目にすると、アドレナリンが噴出する。

裁判所内部の動きが外に見えるようになったのは、1969年9月の「平賀書簡問題」から。23期の実務修習が始まったばかりの頃のこと。この事件をきっかけに、公然たる青法協攻撃が始まる。

当時、札幌地裁に「長沼ナイキ基地訴訟」が係属していた。長沼に新たな自衛隊基地を建設して地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」を配備しようという計画があり、これを阻止しようと地域の住民が提起した訴訟。基地建設のための保安林の解除という処分の取り消しを求める行政訴訟だった。本格的に自衛隊の合違憲を問う訴訟として、全国に注目されていた。

その事件を担当したのが福島重雄裁判長。この人に、当時札幌地裁所長だった平賀健太が“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモを手交した。その内容は、訴訟判断の問題点について原告の申立を却下するよう誘導し示唆したもので、明らかな裁判干渉だった。そのため、札幌地裁の裁判官たちは、裁判所法の手続に則った裁判官会議を開いて、平賀所長を厳重注意処分とした。

ところが、事態は思わぬ方向に展開した。事件発覚の直後、鹿児島地裁の所長だった飯守重任(田中耕太郎の実弟)が所信を発表して、一石を投じた。何しろ、この人は筋金入りの反共右翼。「青法協は革命団体で、最高裁は昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべきだ」という確信犯。後には、所内の裁判官の思想調査までして地家裁所長職を解職され判事に格下げされ、結局は裁判官を辞めた人。

この人が、「問題は、平賀にではなく革命団体青法協に所属している福島にこそある」と口火を切った。これ以後、右翼や自民党の青法協攻撃が続くことになる。これに呼応したのが「ミスター最高裁長官」石田和外(在任1969年1月11日~1973年5月19日)だった。裁判官は政治的団体への加入は慎むべきとの立場から、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。

70年春、22期司法修習修了生の裁判官任官希望者の内、2人が最高裁から任官を拒否された。我々は、所属団体あるいは思想信条による差別と確信し、由々しき事態と認識した。23期にとって明日は我が身のこと。のみならず、このままでは、憲法や人権擁護を口にする裁判官が裁判所にはいなくなるのではないか。ことは、日本の民主主義や人権にかかわる大問題。同期修習生の過半数が青法協の会員であり、当然のことながら裁判官任官希望者も大勢いた。

議論が巻きおこり、「任官拒否を許さぬ会」が結成され、集会が持たれ、そのための同期の署名活動や、弁護士からの支援の署名活動にも取り組んだ。

そして迎えた、71年の春。同期修習生の裁判官志望者7名の任官拒否(うち6名が青法協会員)という惨憺たる結果となった。これに抗議の発言をした阪口徳雄・23期司法修習生の罷免にまで発展した。また、考えもしなった、13期宮本康昭裁判官の再任拒否事件も起こった。

我々23期にとっては、7人の任官拒否と阪口君罷免が、法曹人生出発点における原体験となった。昔の仲間と会うことは、あの頃の自分と出会うこと。あの頃の自分を思い出し、あの頃の志と向かい合うことでもある。

確かに、みな髪は薄くなり、白くはなったが、話を始めればすぐにあの頃に戻る。みんな、昔と少しも変わっていない。その変わりのなさに驚ろかざるを得ない。権力にも資本にも迎合することなく、ひたすら強者に抵抗を試みてきた弁護士たちだ。

昨年の集まりのあと、メーリングリストにこんな発言が重ねられている。
「あの頃、司法行政は我々の運動を弾圧して、7人の裁判官希望を拒否し、さらにその抗議の声をあげた阪口徳雄君の罷免までした。しかし、同時にそれは我々を鍛え、団結させることでもあった。」「23期が初志を貫いてこられたのは、政権と一体になった反動石田和外や最高裁当局のお陰でもある。」「あのときの怒りは、個人としては持続しているが、その怒りを次に伝え切れているだろうか。あの時代と比較して、司法は少しはマシになったと言えるだろうか。」

もう50年に近い昔のことなのに、あの頃のことを思うと、新たな怒りが吹き出してくる。理不尽なものへの憤り。負けてなるものかというエネルギーの源泉。

その男、石田和外。青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。そして、青年法律家協会裁判官には、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」と言った。

ところが、何と彼は、定年退官後に新設された「英霊をまもる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。さらに、彼は、自ら「元号法制化実現国民会議」を結成してその議長ともなり、79年3月の防衛大学校卒業式において、軍人勅諭を賛美した祝辞を述べて物議を醸している。筋金入りの反動なのだ。

なお、「元号法制化実現国民会議」の後継団体が「日本を守る国民会議」であり、これが右翼の総元締め「日本会議」となっている。

私は、学生運動の経験はない。修習生運動の中で、反権力の立場の法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を決定したたとも言える。まぎれもなく石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

さて、2泊3日。久しぶりの懐かしい面々と、そんな来し方をとりとめなく話し合おう。
(2019年10月24日)

第50回司法制度研究集会「今、あらめて、司法と裁判官の独立を考える」─ 司法の危機の時代から50年─

第50回司法制度研究集会へのお誘い

 司法制度研究集会は、今年第50回を迎えます。
50年前の1969年は、自衛隊の違憲性を問う長沼ナイキ基地訴訟が提起され、担当の福島重雄裁判官に対する裁判干渉の書簡が平賀健太札幌地裁所長から渡される「平賀書簡事件」が起こり、政治権力と最高裁が一体となって、憲法を守ろうとする全国の裁判官を攻撃する「司法の危機」と呼ばれる一連の出来事が始まった年でもありました。

あれから50年。いまの司法はどうなっているでしょうか。「司法の危機」の影響は形を変えながら根強く残ってはいないでしょうか。昨年の司法制度研究集会は、「国策に加担する司法」を告発しましたが、司法・裁判官は独立して職権を行使し、立憲主義・人権の砦の役割、戦争の惨禍を二度と繰り返させない役割を果たしているでしょうか。その役割を果たさせるために、法律家は何をすべきでしょうか。

第50回の節目にあたり、司法の問題を皆で考えていく出発点にすることを願い、これまで日本民主法律家協会が主催してきた集会を、今年は、法律家3団体と全司法労働組合の共催で行うこととし、準備を重ねてきました。
50年前を知る弁護士から若手の弁護士、元裁判官、研究者など、多彩な報告者・発言者から多面的な問題提起をしていただきます。ぜひご参加下さい。共に考えましょう。

日 時■2019年11月23日(祝・土)午後1時~6時
会 場■東京・永田町 全国町村会館ホールA・B
参加費■資料代1000円(修習生・学生500円)

主 催■自由法曹団/青年法律家協会弁学合同部会/全司法労働組合/日本民主法律家協会
連絡先■日本民主法律家協会(TEL:03-5367-5430 FAX:03-5367-5431)

 ■基調報告:その1
   長沼事件から50年・我々はいま、何をなすべきか
                           新井 章 弁護士

 ■特別報告
   司法の危機の時代── 何があったのか
                          鷲野忠雄 弁護士

 ■基調報告:その2
   司法の可能性と限界と──司法に役割を果たさせるために
                         井戸謙一 弁護士

 ■特別発言
  岡口裁判官問題から考える裁判官の独立と市民的自由
                          島田 広 弁護士

  刑事法の視点から最近の最高裁を批判する
                    白取祐司 神奈川大学教授

  問われる最高裁の思考様式──行政法の観点から
                                                  晴山一穂 専修大学名誉教授

報告者と報告内容の紹介

※新井章 弁護士 1954年弁護士登録(8期)。砂川・百里・恵庭・長沼など、憲法9条を巡る重要な訴訟を担当し、長沼訴訟を提起した直後に、担当裁判官の福島重雄さんが地裁所長から裁判干渉されるという平賀事件を経験。当時の社会的・歴史的背景を振り返りながら、戦後日本の軍事政策に対する国民の闘いと憲法訴訟の意義、司法の危機をもたらしたもの、そして今後の法律家がいかに行動すべきかを語っていただきます。

※鷲野忠雄 弁護士 1964年弁護士登録(16期)。「司法の危機」の時代、青法協事務局長としてまさに激動の情勢に対応された上、1971年創立された「司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議」の事務局長として司法の独立のための国民運動に大きく貢献されました。「何があったのか」を「今」に繋がる史実として、伝えていただきます。

※井戸謙一 弁護士 1979年裁判官任官、2011年退官、弁護士登録(31期)。裁判官時代、原発差止、住基ネット差止、議員定数不均衡違憲判決等を担当し、弁護士登録後は、原発差止・再稼働禁止、刑事再審事件(湖東事件)等で大きな成果をあげておられます。裁判所の内・外で真摯に事件に取り組んできた立場から、「司法の危機」後の裁判官の意識、いまの裁判所・裁判官の状況、裁判官を動かすものは何か、等々について語っていただきます。

※島田 広 弁護士 1998年弁護士登録(50期)。2018年、東京高裁の岡口基―裁判官がツイッターヘの投稿を理由に東京高裁、最高裁から懲戒処分を受けた件で、「裁判官の表現の自由の尊重を求める弁護士共同アピール」のとりまとめをされました。岡目事件に取り組んだ問題意識、裁判官の独立・市民的自由について、ご発言をいただきます。

※白取祐司 神奈川大学教授 最近、1・2審の判断を覆して大崎事件の再審開始決定を破棄自判したり、死刑囚がハムレットの一節を記した便箋台紙の廃棄処分を適法とするなど、異例・異常とも言える最高裁の判断が続いています。刑事法の研究者として、こうした最高裁の判断・姿勢を批判的に分析していただきます。

※晴山一穂 専修大学名誉教授 行政法・公務員法をご専門とする研究者の立場から、最高裁がいかに権力側の立場を尊重する姿勢に立っているかという問題意識、これとの関係で、安倍内閣による最高裁裁判官の選任についても批判的に論じていただきます。

例年のとおり、質疑・応答・討論の時間も設けられています。ぜひ、ご参加ください。
(2019年10月15日)

宮古島市の市議会議員に申しあげる。うっかりスラップ提訴に賛成すると、その責任が問われますよ。

昨日(9月17日)の午後、沖縄の地方紙記者からの電話取材をうけた。住民訴訟を提起した市民6名を被告として、宮古島市が損害賠償請求訴訟を提起予定という件。これをスラップというべきか意見を聞きたい、という内容。

私が記者に話したのは、基本的には9月2日の下記ブログ記事のとおり。
おやめなさい ― 宮古島市・下地敏彦市長の市民に対するスラップ提訴
http://article9.jp/wordpress/?p=13268

あれやこれや、DHCスラップ訴訟の吉田嘉明との比較で話をしたが、記者が最も興味をもったのは、下記の点だった。

 「客観的に見て、市長がやろうとしていることは、市への批判に対する報復と萎縮を狙った民事訴訟として、典型的なスラップと言わざるを得ない。

 スラップの提訴は、民事訴訟制度本来の趣旨から逸脱した違法行為だ。だから、スラップ提訴の原告は、不法行為損害賠償の責任を負うことになる。当然に反訴あることを覚悟しなければならない。

 その場合、スラップ訴訟の原告となった宮古島市だけでなく、これを推進した下地市長個人も、提訴の提案に賛成の表決をした市議会議員も、共同不法行為者として責任を問われることになる公算が高い。

 憲法51条によって、国会議員はその表決について責任を問われることはないが、地方議員にこの免責特権はない。もちろん、合理的な根拠にもとづく限り、軽々に議員が表決の責任を問われるべきではないが、明らかな市民イジメのスラップでの賛成表決では事情が異なる。

 一連の経過から見て、現在議会に上程されている本件提訴案件は、一見明白なスラップであり、一見明白な違法提訴である。したがって、賛成の表決をした議員も有責となる可能性が限りなく高い。

 スラップの被告とされた住民側の弁護団は、必ず、市と市長だけでなく、賛成討論をした議員、賛成表決をした議員をも被告として、逆襲の訴訟を提起する。そうなると、市議会議員が被告席に座らされて、スラップの痛みを実感する側にまわることになる。

 だから、沖縄県内のメディアが、宮古島市議会議員に「市長の提案に賛成の表決に加わると、被告席に座らされ、個人責任を追及されることになる」という警告の記事を書くことの実践的意味は大きい。うっかり賛成しようとしている議員への親切ともなる。ぜひ、その旨を大きな記事にしていただきたい。

 取材の電話は2度あった。2度目の電話で要点を確認している最中に、記者が突然声をあげた。
「あれ、ちょっと待ってください。今緊急速報が入りました。市長は、議会への提訴案件を取り下げたそうです」

「おや、そうですか。それはよかった」ということとなったが、小一時間の電話での取材が無駄になった模様。

ただ、どうもこの撤回は確定的なものではないようだ。現地紙の報道は、下記のようなものとなっている。

「下地敏彦市長は17日、市議会9月定例会に提出した、市民6人を『名誉毀損』で訴える議案を撤回することを佐久本洋介議長宛てに文書で通知した。撤回の理由を『内容を精査する必要が生じたため』としている。再提案の可能性も含んでおり、野党側は市の動きを注視する考えだ。」(宮古毎日新聞)

「宮古島市議会(佐久本洋介議長)は18日の本議会で、宮古島市(下地敏彦市長)が市議会に提案していた不法投棄ごみ事業を巡る住民訴訟の原告市民6人を提訴する議案について、市側が申し出た議案の撤回を全会一致で承認した。
 下地市長は質疑で、撤回理由につて『(議案の中身を)きちんとする必要があるので、精査する』などと述べた。再提案については明言しなかった。」(琉球新報)

だから、再度申しあげる。市長さん、こんなみっともないスラップはおよしなさい。宮古島市と市民の恥となる。市長個人もスラップの責任を問われて損害賠償請求訴訟の被告となる。それだけではない。スラップの提訴に賛成した市議会議員諸君も、同様に表決の責任を問われて被告となる。誰にとっても、よいことはないのだから。
(2019年9月18日)

第58回日本民主法律家協会定時総会 ― 新たな憲法情勢をめぐって。

昨日(8月4日)、一入暑い夏の盛りに、日本民主法律家協会・第58回定時総会が開催された。自ずと主たる議論は、改憲情勢と、改憲情勢に絡んでの参議院選挙総括に集中した。そして、「相磯まつえ法民賞」受賞対象の各地再審事件弁護団が語るホットな再審審理状況と裁判所のありかた、さらに降って湧いたような「表現の不自由展」の中止問題が話題となった。

冒頭に、渡辺治・元協会理事長から、「参院選の結果と安倍改憲をめぐる新たな情勢・課題」と題した記念講演があった。参院選の結果は安倍改憲を断念させるに至っていない。情勢は引き続いて厳しいという大筋。「法と民主主義」(8・9月合併号)に掲載の予定となっている。

政治状勢も、国際情勢も、憲法情勢も、けっして明るくはない。それでも、総会や法民賞授賞式、懇親会での各参加者の発言が実に多彩で、元気に満ちていた。年に一度、こうして集う意味があることを確認した集会となった。

名古屋から参加した会員が、「表現の不自由展」の中止問題を生々しく語り、誰もが由々しき問題と受けとめた。右翼に成功体験をさせてはならない。現地での取り組みにできるだけの支援をしたい。

伝えられる内容の脅迫電話による展示の中止は、明らかに威力業務妨害である。脅迫電話の音声を公開し、速やかな告訴があってしかるべきで、刑事民事の責任を追及しなければならない。こんなときこそ警察の出番ではないか。この件の経験を今後の教訓とすべく、詳細な報告が欲しい。

採択された、憲法問題と司法問題での2本の「日本民主法律家協会第58回定時総会特別アピール」をご紹介して、総会の報告とする。

**************************************************************************

 2019参院選の成果を踏まえ、市民と野党の共闘のさらなる前進で、安倍改憲に終止符を

 2017年5月3日の安倍首相の改憲提言以来、自民党は、改憲勢力が衆参両院で3分の2を占める状況に乗じて、さまざまな改憲策動を繰り返してきました。しかし、市民の運動とそれに支えられた野党の奮闘により、改憲発議はおろか改憲案の憲法審査会への提示すらできずに2年が過ぎ、この参院選で改めて3分の2の維持をはかるしかなくなりました。選挙戦での安倍首相の異様な改憲キャンペーンは、その証左です。
ところが、改憲勢力は発議に必要な3分の2を維持できませんでした。この3分の2を阻止した直接の要因は、市民と野党の共闘が、安倍政権による改憲反対、安保法制廃止をはじめ13の共通政策を掲げて32の一人区全てで共闘し、前回の参院選並みの10選挙区で激戦を制して勝利するなど、奮闘したことです。また、「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」が提起した3000万署名の運動が全国の草の根で取り組まれ、私たち日民協も参画する「改憲問題対策法律家6団体連絡会」は、自民党の改憲案の危険性をいち早く解明し、政党やマスコミへの働きかけ、バンフの発行や集会などを通じて、安倍改憲に反対する国民世論を形成・拡大する上で大きな役割を果たしてきました。
それでも、安倍首相は改憲をあきらめていません。それどころか、選挙直後の記者会見で「(改憲論議については)少なくとも議論すべきだという国民の審判は下った」などと述べて、改憲発議に邁進する意欲を公言しています。「自民党案にこだわらない」とも強調することで、野党の取り込みをはかり3分の2の回復を目指すなど、あらゆる形で改憲の強行をはかろうとしています。しかし、参院選の期間中もその後も、「安倍政権下の改憲に反対」が世論の多数を占めていることに確信を持ちましょう。
いま、安倍9条改憲を急がせる国内外の圧力が増大しています。アメリカは、イランとの核合意から一方的に離脱して挑発を繰り返した結果、中東地域での戦争の危険が高まっています。トランプ政権は、イランとの軍事対決をはかるべく有志連合をよびかけ、日本に対しても参加の圧力を加えています。こうしたアメリカの戦争への武力による加担こそ、安倍政権が安保法制を強行した目的であり、9条改憲のねらいです。辺野古新基地建設への固執、常軌を逸したイージスアショア配備強行の動きも9条破壊の先取りにはかなりません。
私たち日本民主法律家協会は、こうした安倍改憲の企てに終止符を打つべく、今後とも「改憲問題対策法律家6団体連絡会」や「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」の活動に邁進するとともに、市民と野党の共闘のさらなる前進に協力していくことを、ここに宣言します。

**************************************************************************

「国策に加担する司法」を批判する

 司法の使命は、憲法の理念を実現し、人権を保障することにあります。司法は、立法からも行政からも、時の有力政治勢力からも毅然と独立して、憲法に忠実にその使命を果たさなくてはなりません。その司法の使命に照らして、長く司法の消極性が批判されてきました。違憲判断があるべきときに、司法が躊躇し臆して、違憲判断を回避してきたとする批判です。その司法消極主義は、戦後続いてきた保守政権の政策を容認する役割を果たし、憲法を社会の隅々に根付かせることを妨げてもきました。
そのため、砂川事件大法廷判決(1959年12月16日)に典型的に見られる司法消極主義を克服することが、憲法理念実現に関心を寄せる法律家の共通の課題と意識されてきました。ところが、近時事態は大きく様変わりしていると言わねばなりません。
2018年10月に開催された、当協会第49回司法制度研究集会のメインタイトルは「国策に加担する司法を問う」というものでした。司法は、その消極主義の姿勢を捨て、むしろ国策に積極的に加担する姿勢に転じているのではないか、という衝撃的な問題意識での報告と討論が行われました。
その先鞭として印象的なものが、沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に伴う「海面埋め立ての可否をめぐる一連の訴訟です。とりわけ、国が沖縄県を被告として起こした「不作為の違法確認訴訟」。国は、翁長雄志知事(当時)による「前知事の埋立承認取り消し」を違法として、撤回を求める知事宛の指示を出し、知事がこれに従わないとして提訴しました。一審となった福岡高裁那覇支部への提訴が2016年7月22日、判決が9月16日という異例の超スピード判決。その上告審も、国への手厚い慮りで、同年12月20日判決となり国の勝訴が確定しました。「海兵隊航空基地を沖縄本島から移設すれば、海兵隊の機動力、即応力が失われることになる」とする国の政治的主張をそのまま判決理由とした福岡高裁那覇支部の原判決を容認したのです。
また、同じ時期に言い渡された、厚木基地騒音訴訟最高裁判決は、夜間早朝の飛行差し止めを認めた1、2審判決を取り消し、住民側の請求を棄却しました。「自衛隊機の運航には高度の公共性がある」としてのことで、国策の根幹に関わる訴訟での、これまでにない積極的な国策加担と指摘せざるを得ません。
以来、原発訴訟、「日の丸・君が代」強制違憲訴訟などで、最高裁の「親政権・反人権」の立場をあからさまにした姿勢が目立っています。最近では、地裁・高裁での再審開始決定を破棄した上「再審請求棄却」を自判した大崎事件の特別抗告審決定(2019年6月25日)、また、現職自衛官が防衛出動命令に従う義務はないことの確認を国に求めた戦争法(安保法制)違憲訴訟において「訴えは適法」とした2審・東京高裁判決を「検討が不十分」として破棄し、厳しい適法要件を設定して、審理を同高裁に差し戻した最高裁判決(同年7月22日)があります。
このような最高裁の姿勢は、最高裁裁判官人事のあり方と無縁なはずがありません。既に、最高裁裁判官の全員が第2次以後の安倍内閣による任命となっています。人権擁護の姿勢を評価されてきた弁護士出身裁判官が、必ずしも日弁連推薦枠内から選任されていないとも報道されています。最高裁裁判官の人事のあり方が重大な課題となっています。
私たち日本民主法律家協会は、こうした政権に擦り寄った司法を厳重に監視するとともに、国民のための司法制度確立のために、努力を重ねていくことを宣言します。

 (2019年8月5日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.