(2020年11月18日)
昨日(11月17日)の毎日新聞夕刊が、「最高裁判事が高校生にオンライン講義 法曹の魅力伝える初の試み」という記事を掲載している。
「若い世代に法曹の仕事の魅力を伝えようと、最高裁の木澤克之判事(69)が16日、須磨学園高校(神戸市)の2年生400人に向けてオンラインで講義した。初の試みで、生徒らは「憲法の番人」と称される最高裁の判事の声に耳を傾けた。」
最高裁と学校の教室をウェブ会議システムで結び、2016年に弁護士から最高裁判事に就任した木澤判事が約50分にわたって語り掛けて、こう言ったという。
「『社会のルールを巡るトラブルを一つ一つ解決するのが裁判の役目。ルールを安定させ、信頼できるものにするのが法律家の仕事』と解説した。『裁判官として一番大事にしていることは』との質問には『結論が正義にかなっているかどうか、よく考えること』と答えた。」
同じ言葉も、誰が言うかで印象は大いに異なる。ほかの判事がこう言えば無難な内容だが、この人が口にすれば大いにシラける。
彼は、1974年に立教大法学部を卒業し77年に弁護士登録をしている。東京弁護士会に所属し、東京弁護士会人事委員会委員長(念のためだが、人権委員会委員長ではない)や立教大学法科大学院教授などを務めたという。それだけなら、なんの問題もない、普通の弁護士。
この人、立教大学で、加計孝太郎という有名人と同級生だったという。その誼で、加計学園という学校法人の監事の役に就いた。これも、まあ、問題とするほどのことではなかろう。
よく知られているとおり、加計孝太郎には、安倍晋三という「腹心の友」がいた。木澤は、加計孝太郎に誘われて、安倍晋三とゴルフを楽しむ仲となった。こうして、加計を介して、「アベ・カケ・キザワ」の濃密な関係ができた、と思われる。濃密の評価は推測だが、少なくも、そう見られる状況ができた。これで、問題を孕むこととなった。もっとも、これだけならまだ問題は顕在化しない。
問題は、木澤克之が最高裁判事に任命されたことだ。任命したのは、もちろん安倍晋三である。これは、大問題ではないか。安倍晋三は、加計孝太郎のために、岩盤にドリルで穴をこじ開けて、加計学園が経営する大学の獣医学部開設に道を開いている。腹心の友のために、不可能を可能としたのだ。これが行政私物化と世の顰蹙を買ったアベノレガシーのひとつである。
その安倍晋三が、加計学園監事の弁護士を最高裁判事に任命したのだ。トモダチのトモダチの任命である。行政の私物化だけではない、司法の私物化ではないか。
この木澤という人、立教大学出身の初めての最高裁判事だという。周囲がその姿勢や人格を評価した結果であれば、その経歴は誇ってよい。しかし、オトモダチのお蔭で加計学園監事となり、オトモダチのオトモダチと懇意になっての、最高裁判事任命はいただけない。子どもたちの前で、正義を語る資格に疑問符が付く。
この人、既に前回(2017年10月)総選挙の際の最高裁裁判官国民審査を経ている。その際の、「最高裁判所裁判官国民審査公報」における経歴欄に、加計学園監事の経歴を掲載しなかったことが、話題となった。最高裁ホームページには、今も明記されているにもかかわらず、である。
私も東京弁護士会所属だが、この人のことは、最高裁判事就任まで知らなかった。知っての後は、とうてい「正義を語る人」のイメージではない。「有力な人、権力をもつ人に擦り寄って仲良くすれば世の中を上手に渡れますよ」と、子どもたちに「教訓」を垂れるにふさわしい人のイメージなのだ。大新聞が、無批判に木澤の行動を報じていることに、違和感を覚える。
(2020年11月15日)
ネットを漂流していると、人々のつぶやきに絶望的な気分になる。日本人の知性や理性や矜持は、どこへ行ってしまったのだろう。人は、かくもたやすく権力の情報操作に欺され操られてしまう愚かな存在なのか。また、かくも権力になびきへつらうみっともない存在なのだろうか。
鈴木宗男という日本維新の会の参議院議員がいる。自ら「私は国策捜査によって逮捕されました」「437日間勾留され」「(刑の確定後)丸1年塀の中におりました」と述べている人。身をもって権力の恐ろしさを体験した人だ。
過日(10月4日)、この人の学術会議会員任命拒否問題についての政権寄りのブログを目にして、以下の記事を掲載した。
鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。
https://article9.jp/wordpress/?p=15743
しかし、効果はなかったようだ。この人が、一昨日(11月13日)のブログに、最高裁裁判官任命問題について、菅官房長官(当時)を擁護するこんな記事を掲載している。
毎日新聞朝刊5面に「最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』」という見出し記事がある。正確を期すために一部活用したい。
「2012年12月の第2次安倍政権発足以降、退官する最高裁判事らの後任人事で、首相官邸への説明方法が変わった。『なんで1人しか持ってこないのか。2人持ってくるように』。官邸事務方トップの杉田和博官房副長官が、最高裁の人事担当者に求めた。
最高裁は以降、2人の後任候補を官邸へ事前に届けるようになった。2人のうち片方に丸印が付いていたのは、最高裁として優先順位を伝える意図があった。しかし、当時の官房長官、菅義偉首相は突き返した。『これ(丸印の方)を選べと言っているのか。今までの内閣がなぜこんなことを許してきたのか分からない』」
最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。当然任命する側の判断があって当然でないか。
当たり前の事を言っていると考えるが、この当たり前の事にクレームをつける頭づくりはどこからくるのか。
これまでメディアが報じてきたことは、すべて正しかっただろうか。19年前、メディアスクラムによる事実でない、真実でない「ムネオバッシング」を経験した者として、厳しく指摘したい。(以下略)
この人は、保守派の議員として、権力から欺されるだけの立場ではなく、国民を欺す立場でもある。本気でこのとおり考えているのか、このように考えているフリをしているのか、よく分からない。
この「鈴木宗男見解」は、社会科授業のよい教材ではないか。高校あるいは中学校の公民の教師の方にお勧めする。三権分立という統治機構の大原則について、教科書的解説をしたあとに、生徒にこう問いかけてみてはどうか。
「最高裁裁判官の選任・任命の実態について、毎日新聞がこのようになっていると報道しています。毎日新聞は、《最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』》と批判する立場で見出しを掲げていますが、鈴木宗男さんという国会議員は、《当然任命する側の判断があって当然でないか》という立場を明らかにしています。本日学習した三権分立という原則に照らして、あなたの意見を述べてください」
想定の典型解答例は、こんなところだろうか。
「私は、毎日新聞の立場が正しいと思います。権力が集中すると行政権が強くなり過ぎて人権を侵害する恐れが大きくなります。これを防ぐのが三権分立で、とりわけ、司法が行政や立法をチェックできなければなりません。でも、行政権の長が、自分の意思のとおりに最高裁裁判官を任命できるということでは、三権分立も司法の独立も形式だけのものになってしまうからです」
「ボクは、鈴木さんの立場が正しいと思います。どうしてかというと、国会議員が間違ったことを言うはずはないからです。それに、『毎日新聞は、反日的な立場が強すぎる』と父が言っていました。だから、毎日新聞は、菅義偉首相の名前を出して、日本を弱くするような記事を書いているのだと思います」
「私は、鈴木宗男さんがきちんと考えて意見を言っているとは、とても思えません。『最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。』は、明らかに間違いです。最高裁判事の任命権が内閣にあるとしても、その任命権の行使には三権分立や司法の独立を保障するような工夫が必要だと思います。行政権内部の公務員と同じように、『任命する側の判断があって当然』という態度は、憲法を良く理解していないからだと思います」
「ボクは、国益を守るということが何よりも大切だと思います。そのためには、強い政府が必要なのですから、司法の役割などはどうでもよいのではありませんか。だから、三権分立は形だけでよいと考えるべきです。きっと、菅首相も、鈴木宗男さんも、ボクと同じ考えのはずです。弱い政府を作るための三権分立は無意味ですから、最高裁裁判官は政府が自分の都合で決めたら良いと思います」
「最高裁裁判官をどう選ぶかは、難しい問題だと思います。内閣は、自分にとって都合の良い、言うことを聞くおとなしい人を裁判官に任命したいと思うでしょうが、それでは三権分立の精神に背くことになります。ですから、内閣の思惑よりは、最高裁の判断を尊重しなければならないと思います。最高裁の推薦を突っ返したという『当時の官房長官、菅義偉首相』は恐ろしい人だと思います。鈴木宗男さんの意見は、菅さんにゴマを摺っているだけではないでしょうか」
(2020年11月14日)
素晴らしい小春日和の土曜日。午後は、引きこもっての「第51回司法制度研究集会」だった。昨年に続いて、今年も自由法曹団/青年法律家協会弁護士学者合同部会/日本民主法律家協会の共催。ズームで参加できるのが、ありがたい。
「今の司法に求められるもの ― 特に、最高裁判事任命手続きと冤罪防止の制度について」を総合タイトルとして、基調報告が豊秀一さん(朝日新聞編集委員)による「今の司法、何が問題か―新聞記者の視点から」。これに、梓澤和幸さんの「司法の民主化のために」と、周防正行さんの「冤罪防止のための制度の実現を」という報告。
今回の集会企画の段階では学術会議問題は出ていなかった。予定されたテーマとして学術会議問題関連のものはない。しかし、当面する最重要課題として学術会議問題を語らざるを得ない。司法を語りながらも学術会議問題を論じ、学術会議問題を論じつつも、司法を語る集会となった。
よく分かったことは、司法の独立侵害の問題と、学術会議の自主性侵害問題とは同質、同根の問題であること。そして、学術会議の会員任命問題と最高裁裁判官任命問題とについては、同じ法理で考えるべきことである。
司法の独立とは、権力分立を実効化するための制度である。司法部のみならず裁判官は、権力とりわけ行政権から独立して、権力の憲法や法からの逸脱を是正する機能をもたなければならない。行政権力から独立していない司法部も、司法官僚の権力から独立していない裁判官も、権力の暴走を止めることができない。
学術会議も、学術の国家的利用の在り方に関して、権力から独立して提言をなすべき存在である。政府からの掣肘を受けることのない、自律性あってこそ、学術を国策に反映させることができる。権力から独立していない学術会議では、権力の暴走を止めることができず、その使命を達することができない。
いま、司法の独立も、日本学術会議の自律性も危うい。ここを持ちこたえないと、大学にも、教育にも、メディアにも、法曹にも、文学や芸術や宗教にも、累が及ぶことになりかねない。そのような危機感をもたざるを得ない。
私も、ズームで短く発言した。次のような内容。
今回の6名の学術会議会員任命拒否は、49年前の23期司法修習からの裁判官希望者7名に対する任官拒否問題の再現という側面を持っている。
あのとき、採用人事を梃子として組織全体を統制する手法の有効性が確認された。司法部は成功体験を持ったのだ。「人事のことだから理由は言わない」という開き直りつつ、それでいて組織全体の萎縮効果を狙う狡猾さ。今度は、同じことを官邸が行っている。49年前のあの時の教訓をどう生かすべきかを総括し直さなければならない。
本日の司法制度研究集会の発言は、いずれ「法と民主主義」に掲載される。是非、ご一読をお願いしたい。
豊さんの基調講演も充実したものだったが、フロアからの岡田正則さんの発言がさすがに印象に残るものだった。その大要をご紹介したい。
6人の任命拒否が、違憲であり違法であることは明らかで、法律解釈論争は既に決着がついている。政権は既に詰んでいるのに、それでも「参った」と言わずに居直っている。そのような違法の居直りを許しているのが今の日本の政治状況なのだ。
自由・平等・連帯という市民革命のスローガンの内、利潤追求の自由のみが神聖化されつづけられる一方、歪んだ政治空間の中で本来の連帯が失われている。既得権益・特権を叩くという名目で、公務員や教員、正規労働者までが攻撃対象とされ、研究者や科学者などの専門家も同じような攻撃対象となっている。
さらに、国民に対する情報操作によって、任命を拒否された6名は、「反政府的傾向の連中」というレッテルを貼られつつあり、それゆえの混沌とした政治状況となっている。このままでは、大学の自治も、メディアの在野性も、日弁連の独立性なども、危うくなってしまいかねない。
(2020年9月17日)
「週刊金曜日」は、毎週木曜日に届けられる。本日(9月17日)、9月18日号が届いた。メインの記事は、菅新政権の下での「与野党対決新時代」。表紙に、「菅『アベのまま』政権の高笑い」の文字が踊る。
その号の「金曜アンテナ」欄に、《本田雅和・編集部》の署名記事がある。本田さん、朝日を退職されて金曜日の編集部に入られたのだ。今後の健筆を期待したい。
本田さんの記事のタイトルは、「青法協・弁護士学者合同部会設立50周年集会」「弾圧との闘い、次世代へ」とボルテージが高い。その一部を紹介させていただく。
戦後の司法反動の流れに抗し、憲法の平和と民主主義、基本的人権の理念を守ろうと若手研究者や弁護士、裁判官らが組織した青年法律家協会(青法協)の弁護士学者合同部会の設立50周年記念集会が、9月4日、東京・神田で聞かれた。
青法協に加入したり、賛同したりしていた裁判官志望の司法修習生への任官拒否が相次いでいたI971年4月の修習終了式で、「任官拒否された人たちの話も聞いてほしい」と発言しただけで「修習生の品位を辱めた」として罷免され、法曹資格を奪われた経験を持つ阪口徳雄弁護士(77歳)=大阪弁護士会=が語った。
司法研修所教官が障害を持つ任官希望者に「君は(障害で)背が低いが、裁判官席に座ったら傍聴席から顔が見えるか」と発言したり、「裁判官に女性は要らない」との考え方で女性修習生へのさまざまな志望変更誘導が行なわれたりした。これらが阪口弁護士ら同期修習生の運動の中で明るみに出され、告発されていった。
「裁判所がまだ古い風土にあったこともあるが、そこに戦前からの思想統制の体質をもつ石田和外という人物が最高裁長官に就任(69年)。直後から青法協脱退勧告などで会員を排除しようとする動きは強まった。法曹が憲法に基づき人権を守ろうとするのは自然な流れで、裁判官の中にも青法協会員は多かったからだ」と阪口氏は分析。法曹資格を取り戻し、弁護士になって以降は、政治家の「闇資金」の情報公開や大企業の「裏金」の追及に力をいれ、森友問題でも実績をあげた。
あれから半世紀にもなるのだ。来年(2021年)4月5日が、阪口君罷免の23期司法修習終了式から、ちょうど50年になる。その終了式に、私も居合わせた一人だ。私は怒りに震えた。この体験が、私のその後の法曹としての生き方を決定した。必要なのは、裁判官の独立であって、司法官僚をのさばらせてはならない。そのために、「司法という権力」と対峙しなければならないのだ。
あの時代の空気も、あの日の出来事も、そして石田和外という人物についても、決して忘れることができない。石田和外については、当ブログでも何度か取りあげている。下記を参照されたい。
反動・石田和外最高裁長官が鍛えた23期司法修習の仲間たち
https://article9.jp/wordpress/?p=9471
石田和外とは ー 青いネズミの存在を許さなかったネコ
https://article9.jp/wordpress/?p=15254
私に法曹としての生き方を教えてくれた、反面教師・石田和外
https://article9.jp/wordpress/?p=11316
いまなお、ニホン刑事司法の古層に永らえている《思想司法=モラル司法》の系譜
https://article9.jp/wordpress/?p=15372
ところで、本田さんの「戦後の司法反動の流れに抗し、憲法の平和と民主主義、基本的人権の理念を守ろうと若手研究者や弁護士、裁判官らが組織した青年法律家協会(青法協)の弁護士学者合同部会の設立50周年記念集会」という一文に、当時渦中にあった者としては、若干の違和感があって、一言しておきたい。
青年法律家協会の設立は1954年である。「憲法の平和と民主主義、基本的人権の理念を守ろうと若手研究者や弁護士、裁判官らが組織した」のは、本田さんの筆のとおりである。設立発起人には、芦部信喜・潮見俊隆・加藤一郎・小林直樹・高柳信一・平野竜一・三ケ月章・藤田若雄・渡辺洋三などの名も見える。とうてい、尖鋭な政治団体などではあり得ない。
この青年法律家協会には裁判官部会があって活発な研究活動をしていた。それが、石田和外を領袖とする司法官僚体制から厳しい弾圧を受けることになる。これをレッドパージになぞらえて、ブルーパージと呼ばれた。その真の原因は、1960年代、とりわけその後半に積み重ねられた、リベラルな最高裁諸判決の傾向である。右翼がこれを攻撃し、自民党がこれに続いた。このとき、石田和外らは、裁判所・裁判官を外部勢力から護ろうとはしなかった。内部で呼応して、裁判所内のリベラル派追い落としをはかったのだ。
もともと、石田は治安維持法体制下の思想判事だった。戦後も、反共・反リベラルの思想を隠さなかった。退官後は天皇に忠誠な右翼として活動した人物である。69年11月には、最高裁内の局付判事補に対する青法協脱退工作を開始する。最高裁が、裁判官の思想・良心の自由や、結社の自由を侵害したのだ。1970年5月2日、石田和外最高裁長官は、恒例の憲法記念日に寄せた長官記者会見で、こう言っている。「極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者が裁判官として行動するためには限界がありはしないか。少なくとも道義的には裁判の公正との関係でこれらの人たちは裁判官として一般国民から容認されないと思う」。
「極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者」などというレッテルで、青法協裁判官を攻撃した。この青法協裁判官部会の切り崩しに対抗するための防衛措置として、同年7月の青法協総会は、青法協本体から、「裁判官部会」を規約上独立させた。そのことが同時に、「弁護士学者合同部会」と「司法修習生各期部会」を設立することとなったのだ。以来50年、ということになる。
石田和外は、権力的に裁判官を統制することに心血を注いだ。彼の裁判官統制は、表面的には成功したかに見える。しかし、作用あれば反作用がある。石田の所業は、多くの法曹や、ジャーナリストや、市民の反対運動を招くことになった。「司法の独立を守れ」という空前の市民運動が生じたのだ。
本田さんの記事のタイトルが、「弾圧との闘い、次世代へ」となっている。阪口徳雄君も、この日同席した梓澤和幸君も、そして私も、気持は元気だが、石田和外が没した齢を超えた。「次世代へ」語り継がねばならない。
(2020年7月26日)
昨日(7月25日)の朝日が、「検察刷新会議 開く以上 本気の議論を」という社説を掲載した。なかなかのトーンの高さである。
正確な名称は、「法務・検察行政刷新会議」というようだ。森雅子法相の私的諮問機関という位置づけ。この人が自分の失態を繕うために急拵えしたという以上の印象はなく、期待度も注目度も低い。この会議設置の趣旨について、法相は、こう説明している。
「法務・検察行政刷新会議(仮称)」は,今回の黒川氏の問題を受けて,私が設けることとした会議です。今回の黒川氏の行動を受けて,国民の皆様から,法務・検察に対して,様々な御指摘・御批判をいただいているところでございます。
国民の皆様からの信頼を回復し,法務・検察が,適正にその役割を果たしていくことができるよう,この会議を,これからの法務・検察行政に関して,しっかりと議論をできる場としていきたいと思っています。…国民の皆様の幅広い御意見をいただいて,検察・法務行政への国民の信頼回復という目的を達成できる形にしてまいりたいと思っています。
不祥事があると、「有識者」を集めて何を反省すべきかを確認してもらうという、今流行りの他人任せ禊ぎの儀式。そんな役割の第1回会議が7月16日に開かれた。「やっぱりね」というほかはない低調な会議の進展で、相変わらずの話題性の低さ。
この会議の経過が、法務省のホームページに掲載されているが、そこで何が行われたのか、実はさっぱり分からない。
http://www.moj.go.jp/hisho/seisakuhyouka/hisho04_00002.html
当日の議事次第は、以下のとおりだが、「1 法務大臣挨拶」以外は非公開だったという。これでは、何をしたのやら、これから何をすることになるのやら、さっぱり分からない。
1 法務大臣挨拶
2 委員等の自己紹介
3 議事の公表等の在り方について
4 検察の在り方検討会議提言及びその後の検察改革の状況等についての説明
5 その他
朝日社説は、「話題性乏しいから無視」ではなく、「本来何をなすべきか」を厳しく問うものとなっている。その書き出しから、言葉がまことに厳しい。
「看板に偽りあり――。先日、初会合が開かれた『法務・検察行政刷新会議』のことだ。
『刷新』を掲げながら、元東京高検検事長の異例の定年延長や、廃案に追いこまれた検察庁法改正案をめぐる諸問題は、会議のテーマにならない見通しだという。到底納得できない。」
続く文章は、さらに厳しい。
「もともと支離滅裂・国会軽視の答弁を重ね、大臣の任に堪えないことが明らかになった森雅子法相が、唐突に設置を表明した会議だ。期待するのが筋違いといえばそれまでだが、せっかく各界の有識者が集まったのなら、議論を公開し、本気で刷新に取り組んでもらいたい。」
厳しいが、まったくそのとおりというしかない。
「森氏は初会合で、(1)検察官の倫理 (2)法務行政の透明化 (3)刑事手続きについて国際的な理解が得られるようにする方策――を検討課題に挙げた。その底意はともかく、三つはいずれも今日的で重要なテーマだ。」
社説は、この3点をそれぞれに点検する。
「(1)まず検察官の倫理である。
まさか賭けマージャンの当否を論じるわけではあるまい。何より問われるべきは、一人ひとりが「公益の代表者」の自覚をもって、捜査・公判・刑の執行に臨んでいるか否かだ。
検察官の責務は単に有罪を勝ち取ることではない。だが実際の裁判、とりわけ再審請求審では、制度の不備をいいことに、自分たちに不利な証拠を隠すことがしばしばだ。職業倫理に照らして正すべき点はないか。実例を踏まえ、この機会に外部の目でしっかり検証してほしい。
(2)の法務行政の透明化は、まさにこの半年間の法務・検察の混乱の根底にある問題だ。
元検事長の定年延長は、従来の政府見解を変更したうえで閣議決定したと森氏は説明する。しかし検討の経過をたどれる文書はなく、重大な変更を口頭で決裁したというから驚く。
森氏は、検察庁法改正案の作成経緯を明らかにする文書を作成すると国会で約束しながら、約5カ月経った今も履行していない。なぜこのような不透明で国民を愚弄した法務行政がまかり通るのか、本質に切り込む議論が求められる。
(3)カルロス・ゴーン被告の逃亡を機に、容疑者・被告の長期に及ぶ身体拘束をはじめ、日本の刑事司法は異様との認識が広がった。(3)の「国際的理解」はこれを受けたものだろう。
たしかに批判の中には誤解に基づくものもある。だが人質司法という言葉が定着するなど、国際人権基準から見たとき、是正すべき点は少なくない。
説明の仕方をあれこれ工夫するのではなく、おかしな制度や運用を実際に見直すことが理解への早道だ。どこを、どう変えるべきか。そこを話し合わなくては刷新会議の名に値しない。」
朝日の社説に大筋合意しながらも、やや物足りなさを禁じえない。
法相の言うとおり、「刷新会議」は,黒川問題を受けてのもの。国民の批判は、黒川が「官邸の守護神」と言われる関係にあったことに集中していた。そのような、時の政権にベッタリの法務・検察の実態を抉り出し、癒着の原因を探り、適切な再発防止策を講じることなくして、国民からの信頼回復はあり得ない。
衆目の一致するところ、糾弾されるべき最大の責任者は内閣総理大臣であり、次いでその意を酌んだ法務大臣である。その各々の責任を明確にしたうえで、刷新会議は、検察倫理に背いて「政権の守護神」と言われた人物と現政権との緊密な関係を「透明化」しなければならない。そこに焦点を当てずしてお茶を濁すようでは、朝日の社説が言うとおり、「看板に偽りあり―」ではないか。
(2020年7月22日)
地方自治法に「住民訴訟」という貴重な制度が設けられている。自治体の首長や幹部職員に財務会計上の違法行為があって自治体に損害を生じさせた場合を典型に、住民が一人でも原告になって、「この損害を自治体に賠償させることを求める訴訟」を提起することができる。
民事訴訟の提起は、原告の私的な権利侵害に関わるものでなくてはならないことが原則。自分の利害とは無関係に、違法の是正を求めて正義を実現しようという訴訟は受け付けられない。却下(門前払い)の判決で終わることになる。住民訴訟はその例外で、自治体の利益のために住民が裁判を起こすことができる。
国立市の住民が原告になって、「上原公子国立市長の行為に違法があって」、「そのために国立市に3124万円の損害が生じた」「だから、国立市は上原公子個人に対して3124万円の賠償を請求せよ」という訴訟を提起し最終的に勝訴した。こうして国立市の財産的損害が回復された。
これと同じ構造で、東京都の住民40人が東京都を被告として、「石原慎太郎都知事の行為に違法があって」、「そのために東京都に578億円の損害が生じた」「だから、東京都は石原慎太郎に対して578億円の賠償を請求せよ」という訴訟を提起した。昨日その一審判決が言い渡され、残念ながら請求棄却の判決となった。こうして東京都の財産的損害は回復されないままである。
問題は、旧築地市場の移転を巡って生じた。都は、市場移転先の豊洲の土地を東京ガスから587億円で購入した。しかし、これは高額に過ぎる。買った土地は深刻な汚染地で、土壌汚染除去対策費を差し引いた適正額でなければならない。この587億円のうちの適正額との差額が、石原慎太郎の賠償責任の対象となる東京都の損害。石原はこれを支払って、東京都に生じた損害を回復せよ、というのが原告の主張だ。
森友事件と根本のところでよく似ている。一方は、国有地を安価に売り渡した事例。もう一方は、都有地を高額に買い入れた事例。どちらも、地下埋設物の除去費用の負担が問題となっている。石原慎太郎事件で裁判所が認めた損害額は156億円である。森本学園事件での8億円とは比較にならない巨額。判決は、「対策費を踏まえると、正常価格よりも約1・37倍高いが、著しく高額とまでは言えない」「購入は裁量の範囲内で、石原慎太郎に賠償責任はない」と請求を棄却した。これは残念。
原告の主張は分かり易い。「適正な土地購入価格」とは、「汚染のない正常土地と仮定した場合の取引価格」から、「当該の汚染物を除去する対策費用」を差し引いたものでなくてはならない。石原は、環境基準4万3千倍のベンゼンなど深刻な汚染があることを知りながら、汚染除去費用をまったく考慮せず、汚染のない土地としての価格(約578億円)で東京ガスから購入して東京都に差額分相当の損害を与えた、というもの。
問題は、この土地を高く買った石原慎太郎の行為についての違法性の有無。地方自治法及び地方財政法は、公金の無駄遣いを明確に禁止している。私人間の取引とは異なり、税金を原資とする以上は購入価格は適正な金額でなければならない。つまりは、原告の主張は「公金の無駄使いは即違法」ということなのだ。
残念だが、裁判所は原告の主張に同意しなかった。「正常価格よりも約1・37倍高い価格で購入した」ことは認めたが、「この価格は著しく高額とまでは言えない」という。「著しい高額に至らなければ裁量の範囲内で違法とまではいえない」との判断。
石原慎太郎は東京都の財産を「正常価格よりも約1・37倍高い価格で購入し」て、東京都には156億円の損害をもたらしたが、「この程度では違法とまではいえない」というのが判決の理由。本当にそれでよいのだろうか。156億円の全部ではなくても、その一部については違法と言えないだろうか。
住民訴訟は、住民の一人ひとりを、自治体の財務会計上の非違行為の監視役とする貴重な制度である。その活用は、自治体財産の保全に裨益するだけでなく、住民の自治意識の涵養にも大きな意義をもつ。一審原告の皆さんと弁護団には、是非控訴のうえ、逆転勝訴に向けて力を傾けていただきたい。控訴審判決での朗報を期待したい。
(2020年7月20日)
ヘイト企業として名を馳せている「フジ住宅」(大阪府・岸和田市)。社内での「ヘイトハラスメント」を苦痛とした、在日3世の女性社員が果敢に会社を訴え、5年の審理を経て、7月2日に大阪地裁堺支部で一審勝訴判決を得た。文字通り、勝ち取ったというにふさわしい。世の中にはたいした人がいるものだ。こんなひどい会社の中でのたった一人の闘いを毅然とやり抜いた人。おそらくは、同僚からの暗黙の支援があったのだろうと想像する。
原告弁護団は、「ほぼ完全勝訴! ご支援ありがとうございました!!」という判決の評価。ただし、原被告双方が控訴の見込みだという。おそらくは、双方の控訴があって、既に大阪高裁に控訴審が係属しているのだろう。
この訴訟は、損害賠償請求事件。原告は、フジ住宅株式会社に勤務する在日コリアン3世の女性、被告はフジ住宅とその創業者で会長の今井光郎。
判決は両被告に連帯して110万円の支払いを命じる請求の一部認容。判決理由で会社の次の行為を違法と認めた。
(1) 被告らが社内で全従業員に対し、ヘイトスピーチをはじめ人種民族差別的な記載あるいはこれらを助長する記載のある文書や今井会長の信奉する見解が記載された文書を大量に反復継続して配布した。この行為は、労働者の国籍によって差別的取扱いを受けない人格的利益である内心の静隠な感情に対する介入として社会的に許容できる限度を超え、違法であるとした。
(2) また、フジ住宅及び今井会長は、地方自治体における中学校の教科書採択にあたって、全従業員に対し、特定の教科書が採択されるようアンケートの提出等の運動に従事するよう動員した。これは、業務と関連しない政治活動であって、労働者である原告の政治的な思想・信条の自由を侵害する差別的取扱いを伴うもので、その侵害の態様、程度が社会的に許容できる限度を超えるものといわざるを得ず、原告の人格的利益を侵害して違法であるとした。
(3) フジ住宅は、本件訴訟の提訴直後の2015年9月に、社内で、原告を含む全従業員に対し、原告について「温情を仇で返すバカ者」などと非難する内容の大量の従業員の感想文を配布した。
会社がこれだけのことをやれば当然にアウトだ。判決は至極当然のこと。但し、判決の認容額はあまりに低額である。ネットに、こんな記事を見つけた。
フジ住宅控訴!!がんばれフジ住宅!!
東京都知事選まであとわずか 桜井誠一択
300万円の和解案を提示された時点で(民族関係なく)まともな人なら和解で済ます。裁判所が昨日認めた慰謝料金額を見ると、この原告は実質的には負けているのでは…弁護士費用だけで100万飛ぶだろうに。フジ住宅側から控訴状キター、民事弁護士費用は自己負担だからさらに費用がかかります。裁判所も「在日の訴訟好き」にあきれていると見た。今回の控訴でフジ住宅は間違いなく注文が立て続けに入りますね。
この匿名ネトウヨ君は、「人は、金を求め、金のために裁判をする」「裁判の目的は金なのだから、金額の最大化のために行動することが合理的」としか考えていない。そんな思考回路の持ち主。人が、ブライドのために、自由や平等の理念を実現するために裁判を起こすことなどは、考えも及ばないのだ。
裁判所から300万円の和解案があったのに、それを蹴って110万円の判決を得た。これは原告の200万円の損。費用をかけて何をしているのか、理解ができないという。
しかし、人はパンのみにて生きるものに非ず。裁判は金のみを求めて提訴するものではない。何よりも、不合理に怒りこれを是正しようとして訴えるのだ。判決が、会社の違法を確認する。メディアがそれを報じる。社会も、正義が女性社員の側にあることを認めることになる。原告は、自分の精神の矜持を保ったのだ。そして、どんな会社も、フジ住宅のようなヘイトハラスメントをしてはならないことを天下に示したのだ。110万円の金額以上に判決の価値は大きい。
とは言うものの、認容額は高いに越したことはない。こんな違法行為を根絶するためには、慰謝料も弁護士費用ももっと高水準にしなければならない。
控訴審、さらなる闘いの成果を期待したい。
(2020年7月17日)
その男、石田和外。反動、弾圧者、私と仲間の反面教師。彼は、1969年1月11日に、佐藤栄作によって最高裁判所長官に任命された。その直後の4月に、私は23期の司法修習生として、司法研修所に入所している。
石田の、長官就任の際のコメントが、「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」というもの。
間違ってはいけない。この男の言う「激流」とは、裁判所に重くのしかかってくる行政や保守政治からの圧力のことではない。当時、澎湃として興隆し定着しつつあった、労働運動や市民運動、あるいは学生運動などの諸運動の流れのことなのだ。「民主化を求める日本の歴史の潮流に毅然と巌のように立ちはだかって、岸・池田・佐藤のごとき保守派国民の信頼をつなぐ」ということにほかならない。
彼は、青年法律家協会を徹底して嫌った。青年法律家協会とは、「1954年、憲法を擁護し平和と民主主義および基本的人権を守ることを目的に、若手の法律研究者や弁護士、裁判官などによって設立された団体」である。私も、修習生になると同時に修習生部会に加盟した。石田の長官就任当時、青年法律家協会裁判官部会の勢力は大きかった。石田は、裁判官会員に対する脱退工作を行ったことで知られる。これを関係者は「ブルーパージ」と呼んだ。
石田は剣道の達人ということだった。私が刑事裁判修習を受けた東京地裁の寺尾正二裁判官が、石田が執筆した剣道談義を面白く語ってくれた。
「あるとき、修行中のネコが集まって、それぞれの腕自慢を語り合った。『私は、一瞬でネズミを倒す必殺技を身につけた』『私は一撃で3匹を捕らえる』『私は、一睨みでネズミを動けなくさせる術を会得した』…。中で悠然と黙っている聞いている老ネコがいた。若いネコが、『あなたにはどんな術が…』と聞くと、こういう答え。『ワシには、特に何の術もない。しかし、私の一里四方には、ネズミは一匹も出てこない』」
寺尾裁判官は、「名人・達人とはそういうもの」と笑った。裁判官や裁判所もそうありたいという思いだったかも知れない。しかし、私には、何とも不気味でやりきれない話に聞こえた。
石田は、「ワシの周りには頭の青いネズミは一匹も存在を許さない」と宣言したのではなかっただろうか。
私が修習を終える1971年の春、石田を頭目とする司法官僚は、青法協活動の中心と目された13期宮本康昭裁判官の再任を拒否し、23期司法修習生からの裁判官志望者7名の任官を拒否した。さらに、1971年4月5日、23期の司法修習修了式で、7名の任官拒否者の発言を求めた修習生代表の阪口徳雄君を罷免処分とした。
1971年4月5日の夕刻から深夜まで、東京弁護士会講堂で任官拒否と阪口罷免抗議の緊急集会が開かれた。その集会に、やや遅れて20期(当時弁護士経験3年)の大森鋼三郎弁護士が駆け込んで報告した。私の記憶では、次のような発言だった。
「私は、阪口君罷免の報を聞いて我慢がならず、先ほど、石田和外長官の私邸に抗議の電話をした。彼は在宅していて電話に出た。酒を飲んでいる様子の彼に抗議の意思を伝えたところ、彼はこう言った。『私は日本ために仕事をしている。今日の出来事も日本のためなのだ』」。
ここまでは記憶に鮮明である。そのあとに続けて、大森さんは、このことはけっして日本ためにはならないと言ったと思うが、はっきりした記憶がない。確かめようと思っている内に、大森さんは故人となった。
定年退官後に、石田は新設された「英霊にこたえる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、彼の言う「日本のため」の内実なのだ。さらに、彼は、自ら「元号法制化実現国民会議」を結成してその議長ともなり、79年3月の防衛大学校卒業式において、軍人勅諭を賛美した祝辞を述べて物議を醸している。石田和外とは、筋金入りの反動なのだ。なお、「元号法制化実現国民会議」の後継団体が「日本を守る国民会議」であり、これが今や右翼の総元締めとなった感のある「日本会議」となっている。
「英霊にこたえる会」とは何であるのか。会自らがこう述べている。
戦後、吉田茂総理から田中角栄総理までの歴代総理は、靖國神社の春秋の例大祭に参拝しており、当時国民もマスメディアもこれを当然のこととして受け止めていました。ところが、昭和50年8月15日の終戦の日に、時の三木武夫総理が「私的参拝」と言って、歴代総理では初めての8月15日に私的参拝をしましたが、個人の資格で参拝したことから、その後の靖國神社をめぐる状況が一変し、以後の総理の参拝時に「公的か、私的か」とのくだらない記者の質問を受けることとなりました。そして、昭和天皇は、戦後これまでに7回ご親拝されておりましたが、三木総理が、この参拝をしたこの年の11月21日のご親拝が最後となられました。
このようなことから「英霊にこたえる会」は、翌昭和51年6月22日、会長に石田和外元最高裁判所長官が就任し、英霊に対する国・国民のあるべき姿勢を確立するための国民運動を展開する任意団体として発足しました。
青法協弾圧を行った最高裁長官とは、かような人物である。
(2020年6月30日)
6月25日、東京高裁(阿部潤裁判長)が、「在外邦人の最高裁裁判官国民審査制限は違憲」という判断を含む判決を言い渡した。当事者は「勝訴」の二文字を掲げて、記者会見に臨んだ。もっとも、一審では認められた慰謝料請求が高裁では棄却となり、主文だけでは「敗訴」の判決。
同判決は理由中に、「次回までに制度の改善なく(原告らが)投票不能なら、国賠法上の違法となる」とわざわざ書き込んでいるという。次回総選挙は目前ではないか。上告の有無にかかわらず、政府はこの判決に応えて、早急に臨時国会を開いて「最高裁判所裁判官国民審査法」の改正を行うべきである。いずれ、この時期に最高裁裁判官の国民審査が話題に上るのは結構なことだ。
この事件の原告になっているのは、米国在住の映画監督想田和弘さんら5人。煩わしさに負けず、費用負担にもめげず、このような提訴をする人がいるから新たな判例も生まれ、制度も改善される。想田和弘さんらの行動に敬意を表したい。
在外邦人の選挙権行使制限の問題については、「在外日本人選挙権剥奪違法確認等請求事件」と名を冠した訴訟の05年9月14日大法廷判決で決着済みである。
96年10月20日総選挙当時において、在外邦人に一切の在外投票を認めなかった公職選挙法の規定は、憲法15条、43条、44条に違反すると判断し、しかも「原告らが次回の選挙において選挙権を有することの確認を求める訴え」の適法性を認めて認容した。のみならず、国会の立法不作為(為すべき立法を怠ること)に過失あることまで認めて、慰謝料5000円の支払を命じた。
この最高裁判決の後、衆参両院の選挙については、在外邦人の選挙権行使が可能となったが、総選挙の際に行われる最高裁裁判官の国民審査には投票できない状態が続いて、2017年国民審査についての合違憲が争われることになった。
昨年(2019年)5月の東京地裁一審判決(森英明裁判長)では、その違憲性を認めた上で、国の立法不作為の責任をも認めて、原告1人当たり5000円の慰謝料を賠償するよう命じていた。
その一審判決によれば、国民審査を巡って2011年に東京地裁で同種訴訟の判決があり、海外から国民審査に投票できないことを「合憲性に重大な疑義がある」と指摘していたという。にもかかわらず、その後も国が立法措置を講じなかったことについて2017年の国民審査で審査権を行使できなかった事態に至ったことを正当化する理由はうかがわれない」と非難。「長期間にわたる立法不作為に過失が認められることは明らか」として、国の賠償責任を認定している。これは、立派な判決。
この度の控訴審判決は、国会の責任(立法不作為)を認めず賠償請求を棄却した。この点、必ずしも立派な判決とは言いがたい。
しかし、控訴審判決には、国民審査の意義を「司法権に国民の意思を映させ、民主的統制を図るための制度だ」との指摘があるという。選挙権の保障と同様、その制限にはやむを得ない事情が必要だとした。
しかも、審査権は選挙権と同様、「権利行使の機会を逃すと回復できない性質を持ち、賠償では十分に救済されない。」「次回審査で審査権が行使できなければ違法になると認めた」。制度の改正を急げとの、メッセージであろう。
とかく影が薄いと言われる最高裁裁判官の国民審査だが、主権者国民が最高裁裁判官を見守っているということを確認する貴重な機会である。
どんな経歴のどんな人物が最高裁裁判官になって、どんな裁判をしてきたのか。有権者によく知ってもらうことが必要である。日本民主法律家協会は、国民審査の都度、その努力を重ねてきた。
そして、裁判官の来歴を知ってきっぱりと×を付けよう。よく分からない場合に、何の印も付けずにそのまま投票してしまえば、全裁判官を信任したことになる。よく分からない場合には、躊躇なく全員に×をつけることだ。何しろ、今や全最高裁裁判官が安倍内閣の任命によるものなのだから。
(2020年6月25日)
本日(6月25日)の朝日社説が、「『森友』再調査 この訴えに応えねば」と訴えている。その姿勢を大いに評価したい。
「森友再調査」の必要は、亡くなられた赤木俊夫さんの手記が遺族によって発表され、この手記が多くの人の魂を揺さぶったことを理由とする。赤木俊夫さんは、自分にとって死ぬほど恥ずべき嫌なことを押し付けられたのだ。これを、自己責任として済ませるわけにはいかない。いったい、誰が、なんのために、どのように、彼に文書の改ざんを押し付けたのか。そして、究極の責任をとるべきは誰なのか。それを、明確にしなければならない。
そのための手段として、ひとつは遺族による民事訴訟が提起されている。また、国会による「予備的調査」も進行している。そして、然るべき第三者機関を設定しての「再調査」要求である。今のままで、よいはずはない。朝日の社説をご紹介して、コメントしてみたい。
国会閉会から1週間。コロナ禍への対応のみならず、様々な課題が積み残された。なかでも、森友問題の再調査を安倍政権が拒み続けていることは見過ごせない。真実を知りたいという遺族の思いに応えずして、信頼回復も再発防止もない。
※ アベ首相は、数々の疑惑が問題となる度に、「ていねいに説明申し上げる」「説明責任を果たす」と言い続けて、その実何もしてこなかった。国民から、「嘘とゴマカシにまみれた」と指弾される珍しい首相。この度も、ごまかして、逃げた。しっかりと調査し、真実を明らかにしてこその信頼回復である。ことさらにそれをしないのは、真実が暴かれることで、政権に不利益がもたらされると考えているのではないのか。
国会が閉じる2日前、35万2659筆にのぼる署名が、安倍首相、麻生財務相、衆参両院議長宛てに提出された。財務省の公文書改ざんに加担させられ、自ら命を絶った近畿財務局の赤木俊夫さんの妻雅子さんが、第三者委員会による公正中立な再調査を求めたものだ。
※35万2659筆とは、たいへんな署名の数である。これだけの人が、公正な第三者委員会を設置して、赤木さんの手記で明らかになった事実を確認せよと言っているのだ。前回の、仲間内による調査ではとうてい信頼に堪えない。公正中立な、信頼できる第三者による再調査が求められているのだ。
雅子さんが3月、国と改ざん当時理財局長だった佐川宣寿(のぶひさ)氏に損害賠償を求める訴えを起こしても、首相や麻生氏は再調査に応じなかった。そこで、雅子さんはインターネットサイトで署名を呼びかけた。「このままでは夫の死が無駄になってしまう」という訴えに、共感の輪が広がったのだろう。
※ 世論はいま、赤木さんのご遺族の訴えに共感の輪を広げている。ということは、アベや麻生を信頼できないとしているのだ。遺された赤木さんの手記は、生前の赤木さんが直接体験したことを記してはいるが、改ざんの方針決定と指示は、赤木さんの知らないところで行われている。赤木さんには、推認された事実ということになる。赤木さんの手記に表れた直接体験事実の真実性を検証し、非体験の推認事実に関しては厳格に関係者から事情を聴取する調査が必要なのだ。国と佐川に対する民事損害賠償請求の訴訟は、判決に至るまで長い期間を要する。早期の調査が必要なのだ。
それでもなお、首相と麻生氏の姿勢は変わらない。なぜ再調査は不要と言えるのか。
麻生氏は記者会見でこう述べた。「財務省として調査を徹底してやり、関与した職員は厳正に処分した」。しかし、その調査は身内によるもので、佐川氏の具体的な指示内容は明らかになっていない。そもそも、国有地がなぜ8億円も値引きされたのか、首相の妻・昭恵氏が学園の名誉校長だったことが影響してはいないのか、問題の核心は一向に解明されていない。
※麻生の調査拒否が理由に挙げる「財務省として調査を徹底」が嘘なのだ。2018(平成30)年6月4日付の財務省報告書は、明らかに政治家の責任追及に至らぬよう配慮されたものなのだ。51頁のこの報告書で、誰もが真っ先に注目するのは、改ざんの目的である。34ページにこうある。「応接録の廃棄や決裁文書の改ざんは、国会審議において森友学園案件が大きく取りあげられる中で、さらなる質問につながり得る材料を極力少なくすることが、主たる目的であったと認められる」。政治家からの指示も、政治家への忖度も出てこない。この点を問題にした調査ではなく、この点の疑惑を糊塗するための調査と疑われて然るべきなのだ。
首相は国会でこう述べた。「最強の第三者機関と言われる検察が捜査をした結果がすでに出ている」。これも筋違いというほかない。刑事責任を追及する捜査と、信頼回復や再発防止につなげるための事実の検証を同列にはできない。
※さて、検察は「最強の第三者機関」であったか。「捜査した結果が出ている」か。はなはだ疑問なのだ。検察は政権から独立した検察ではなく、「アベ政権の守護神を抱えた検察」でしかなかった。「最強のアベ政権守護機関」ではなかったか。その検察も、文書の改ざんに関しては、「嫌疑なしの不起訴」にしたのではない。「嫌疑不十分の起訴猶予」としたのだ。けっして、「結果がすでに出ている」わけではない。
「2人は調査される側で、再調査しないと発言する立場ではない」という雅子さんのコメントを重く受け止め、政府は再調査に応じるべきだ。
※ これこそ名言である。アベも麻生も、「被疑者」である。当然に再調査はしたくない立場。そんな二人の言い訳を聞いている暇はない。したくなくても、させなくてはならないのだ。
国会では新たな動きがあった。衆院財務金融委員会が野党の求めに応じ、公文書改ざんの経緯をつまびらかにするよう、衆院調査局長に調査を命じたのだ。国会のチェック機能を強化するため、97年につくられた「予備的調査」という制度で、委員会審議に役立てるための下調べという位置づけだ。少数会派に門戸を開くため、議員40人以上の要請で実施される。
関連資料の提出など、政府に協力を求めることはできるが、強制力はない。政府は自ら第三者委を設けないのなら、国会によるこの調査に全面的に協力すべきだ。国会もまた、行政監視の本分を果たすために、全力で真相に迫らなければならない。
※ 「民事訴訟」、「予備的調査」、そして然るべき第三者機関を設定しての「再調査」。場合によっては、再告発もあるだろう。あらゆる手段を考えねばならないが、全ては世論の支持にかかっている。