鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。
(2020年10月4日)
たまたま、「花に水 人に心」と表題するあなたのホームページに、「ムネオ日記」というブログを拝見しました。昨日(10月3日)16:19のものです。
https://ameblo.jp/muneo-suzuki/entry-12629162336.html
そこには、あなたのご意見として、次のような記事が掲載されていました。
日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。
そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。
「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。
学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。
一読して、あまりに一面的で乱暴な内容に、これが国会議員の議論かと驚かざるを得ません。おそらく、あなたには、このような分かり易く単純化し、そして結論を明確にした立論が、選挙民からの支持に繋がるのだという計算があるのだと思います。しかし、この問題は、国家の命運にもかかわるといって大仰ではなく、軽々しく扱うには危険に過ぎるテーマではありませんか。是非、再考をお願いいたします。
あなたは、永く「自由・民主」党の政治家でした。現在所属しておられる「日本維新の会」の綱領・基本方針の中にも、依拠する価値観として「自由主義」「民主主義」の理念が書き込まれています。「権力からの国民の自由」と「権力を構成する手続としての民主主義」とは、あなたにとっても、何よりも大切な政治信条となっているものと拝察します。
しかもあなたは、「国策捜査」「国策起訴」によって、あっせん収賄罪など4つの罪で懲役2年の実刑判決を言い渡され、議員資格を剥奪された無念の経験をお持ちの方です。あなたの未決勾留日数は437日の長きを数えています。あなたは権力の集中の弊害や、権力の横暴の恐ろしさを身をもって体験しておられるではありませんか。強力な権力の危険性について、もっと警戒心を持って然るべきと思うのですが、いかがでしょうか。
18世紀末葉のフランス人権宣言(第16条)が、「人権の保障と権力分立の関係」について、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と定式化して以来、「自由主義」「民主主義」の理念からは、全てが集中される強力な権力は危険極まりないものとして、その存在自体が許されません。少なくとも、司法部は独立していなければなりません。形式的には法務省に所属する検察官も、法務大臣の指揮権発動という政治的非難を覚悟することなしには、政権の意のままになってはならないのです。司法だけでなく、学問も教育もメディアも、権力の集中や介入・統制から「自由」でなくてはなりません。
今問題は、学問(学術・研究)に公権力が介入してはならないという大原則が揺らいでいるということです。憲法23条は、「学問の自由はこれを保障する」と定めています。国家に真理を定める権限はなく、政府に不都合な研究やその成果の発表を抑制したり、否定的な評価を加えるようなことはしてはなりません。もちろん、政府に不都合な発言をした研究者を差別したり、不利益を課することは決して許されません。
政権は、いかなる手段によっても、学問の自由に干渉し、影響を及ぼしてはなりません。これまで、学問の自由は、大学の自治に支えられるものとして、公権力が大学の自治を侵害してはならないという文脈で語られてきました。日本学術会議法の第3条は、「日本学術会議は、独立して左の職務を行う。」と明記しています。大学の教員人事に、政府が介入してはならないのと同様に、政府は日本学術会議の運営や人事の独立性を尊重し、介入してはならないのです。以上の観点からは、あなたのご意見には、以下のとおりの問題があるものと指摘せざるを得ません。
日本学術会議が推薦した新会員6人が任命されなかったことを一部新聞、報道機関がことさら大きく取り上げ、野党もそれに沿った発言をしているが過剰反応ではないか。
「一部新聞、報道機関」が「ことさら大きく取り上げ」という評価は不正確ではありませんか。学術会議人事への報道は、決して「一部報道機関」だけのものではありません。客観的に見れば、この問題を「ことさらに取り上げない」報道機関があるとすれば、「何らかの意図をもって、ことさらに無視しているもの」と指摘せざるを得ません。
そもそも推薦する側があり、それを認める任命側がある。規則がある以上、任命側の判断があって当然である。
決して「任命側の判断があって当然」ではないことから、問題が噴出しているのです。とうてい、「当然である」などと一言で切り捨てられる事態ではありません。そのような問答無用の姿勢は、「花に水 人に心」を標榜する政治家にふさわしいとは思えません。
また、あなたの仰る「規則」とは、法規範の全体像を意味しているものと思われます。それは、憲法(23条)→日本学術会議法(3条、7条2項、17条)→法制定経過や立法提案者の国会説明・これまでの前例・慣行、を総合的に勘案しなければなりません。少なくもこれまでは、科学者の自主性や独立性を尊重して、新規会員人事は、学術会議自身が決定し、内閣総理大臣の関与は形式的なものあると、誰もが「規則」を理解していたのです。
「学問の自由」が問われるという報道があるが、任命されないことと、学問の自由とは全く別次元であり、あまりにも飛躍した議論ではないか。
「『学問の自由』が問われる」という報道は至極当然ではありませんか。「任命されないことと、学問の自由とは全く別次元」と仰ることこそ、意味不明で理解不能です。権力を持つ者が、自らに不都合な発言をする研究者を、不利益に差別し、学術会議から排除しようとしているのです。学問的良心に忠実で、政府に不都合な発言をする研究者を権力者が排斥するのですから、まさしく学問の自由の保障が問われている事態なのです。
学術会議が推薦した人を必ず任命するという規則、ルールはどこにもない。任命権者が民主的手続きに沿って判断したことにクレームを付けること自体、唯我独尊(ゆいがどくそん)、自分中心の身勝手な一方的な頭づくりは止めて戴きたいと逆にお願いしたいものである。
少なくとも、これまでは、「学術会議が推薦した人を必ず任命すべきである」ということが当然の「規則、ルール」であると理解され、そのように運用されてきました。1983年5月12日の参院文教委。現行改正法の枠組みができたときの国会答弁は、中曽根康弘首相自身がこう答弁しています。
「これ(学術会議会員の任命)は、学会やらあるいは学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば、学問の自由独立というものはあくまで保障されるものと考えております」
「形式上の任命権者」が、密室で非民主的に突然に解釈を変えたのが、今回の菅義偉政権のやり方なのです。本来、尊重さるべき学術会議の推薦名簿に、政権が「一方的にクレームを付け、まことに唯我独尊、自分中心の身勝手な人事介入をした」のです。このようなムチャクチャは、止めて戴きたいとお願いするしかありません。
ご賛同いただけないでしょうか、鈴木宗男さん。