澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍晋三の反知性。情けないだけではなく、恐ろしいといわねばならない。

2016年2月15日(月)の衆議院予算委員会の議事の記録を掲記する。政権与党の総裁であり、内閣総理大臣となっている安倍晋三という人物の反知性とそれを必死で覆い隠そうという低俗な人間性がよく表れている。これは国民必見の内容である。こういう人物が、日本の政治と行政のリーダーになっているという現実を、国民は見つめねばならない。

歴史を美化すること、歴史の恥部から目を背けることは許されない。過去に目を閉ざすものは未来に盲目となって、過ちを繰り返すことになるのだから。同様に、安倍晋三を美化し、アベ政治の恥部から目を背けることは許されない。政治の現状にも改革すべき未来にも盲目とならざるを得ないのだから。

正式な会議録はまだ公表されていない。しかし、中継動画で発言の正確性を確認することが出来る。質問者は民主党の山尾志桜里議員。以下は抜粋だが、出来るだけ恣意に陥らないように心掛けての掲載である。

○安倍首相
 …それと、テレビ番組に出演していて、私は当然、自民党総裁として呼ばれているわけであります。私も呼ばれれば、他の党の人たちも呼ばれる。その中にあっては、党として、この編集の仕方はどうなんですかということは当然言う。これは、言えば、いや、そんなことは安倍さん、ありませんよ、こうこうこうですよと反論すればそれで済む話じゃないですか。
私は、当該番組に大分昔に出たことはありますが、そのときも、拉致問題について、大きな大会をやってもおたくの番組は全然取り上げませんでしたねということを言って、当時の、筑紫さんだったかな、全く黙り込んでしまったこともございました。私は、必ずしもテレビ番組の制作方向、こういう番組をつくりたいという方向に常に協力するわけではありません。私の考え方を勇気を持って申し上げますよ。
テレビ局に対して物を言うというのは結構大変なことなんですよ。私は、それを言ったがために、当該番組から、かつて総裁選挙のときに、七三一部隊の石井中将と顔をリンクさせられて、イメージ操作されたこともあったんですよ。そういうことすらあったんですよ。これは、私にとっては相当のダメージだった。それは、私が議論をしたからなんですよ。議論をすればそういうこともあるんですよ。そういうこともあるということは、どちらの方が大きな権力を持っているか。
私は別に総理大臣として、裏において、権力を行使するときにこの番組は問題があるからといって行政組織に指示したんじゃないんですよ。この番組に一出演者として出ていて議論をしているわけであります。そういう議論がおかしいということ自体が私は、全く間違っているな、このように思います。

○山尾委員
 安倍総理がそういった答弁をされるのは、自分自身が内閣総理大臣であり、そしてまた政権与党のトップであるということ、自分がどういう力を持っているのか、政治権力とは何なのかということに全く無自覚であるから、そういう答弁ができるんだと思いますよ。
もし、自覚しておられてそういう答弁をしているのなら、総理は、憲法、特に21条、表現の自由について全く理解が足りないのではないかと思いますので、これに関して質問をさせていただきたいと思います。
総理、そもそも、時の政治権力がテレビ局の政治的公平性の判断権者となり、電波停止までできる、この制度解釈自体が検閲に当たり、許されないのではないか、こういう懸念の声もあります。総理、この電波停止ができるということは検閲に当たりますか、当たりませんか。

(高市が延々と答弁をする。)

○山尾委員
 委員長が3回注意されて、私が尋ねてもいないことを延々と述べられて、それに与党が大拍手でこの質疑を遮るというこの運営、委員長、どうなっているんですか。質疑妨害もいいかげんにしてください。
私は、憲法の21条、表現の自由、これに対する総理の認識を問うているんです。総理がちゃんと憲法21条をわかっているかどうか、国民の皆さんの前で説明をしていただきたいと思っているんです。
尋ねます。
総理、この前、大串議員に、「表現の自由の優越的地位って何ですか」と尋ねられました。そのとき総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由のあかし」という、かみ合わない謎の答弁をされました。
法律の話をしていて自由のあかしという言葉を私は聞いたことがありません。
もう一度尋ねます。優越的地位というのはどういう意味ですか。
私が聞きたいのは、総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたいんです。どっちですか。表現の自由の優越的地位って何ですか、総理。言論の自由を最も大切にする安倍政権、何ですか。
事務方がどんどんどんどん後ろから出てくるのはやめてください。

○安倍首相
 これは、いわば法的に正確にお答えをすれば、経済的自由より精神的自由は優越するという意味において、この表現の自由が重視をされている、こういうことでございます。

○山尾委員
 今、事務方の方から教わったんだと思います。
なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのですか。優越的地位だということは何をもたらすのですか。

○安倍首相
 いわば表現の自由が優越的であるということについては、これはまさに、経済的な自由よりも精神的な自由が優越をされるということであり、いわば表現の自由が優越をしているということでございますが、いずれにせよ、そうしたことを今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか。
それと、もう一言言わせていただくと、先ほど、電波について、とめるということについては、これは民主党政権、菅政権において、当時の平岡副大臣が全く同じ答弁をしているんですよ。その同じ答弁をしているものを、それを高市大臣が答弁したからといって、それがおかしいと言うことについては、これは間違っているのではないか、このように思うわけでございます。

○山尾委員
 総理、ふだんは民主党政権よりよくなったと自慢して、困ったときは民主党政権でもそうだったと都合よく使い分けるのは、いいかげんやめてもらえませんか。
ちなみに、民主党政権では、個別の番組でも政治的公平性を判断し得るなどという解釈はしたことがありませんし、放送法四条に基づく行政指導もしたことがございません。明らかに、安倍政権と比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、穏やかに向き合ってきました。
総理、もう一度お伺いします。
精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は、優越されるから優越されるんだと今おっしゃいました。これは理由になっておりません。これがわからないと大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。

○安倍首相
 内心の自由、これは、いわば思想、考え方の自由を我々は持っているわけでございます。

○山尾委員
 総理は知らないんですね、なぜ内心の自由やそれを発露する表現の自由が経済的自由よりも優越的地位にあるのか。憲法の最初に習う基本のキです。
経済的自由は大変重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれは直すことができるんです。でも、精神的自由、特に内心の自由は、そもそも選挙の前提となる国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのはやめていただきたいというふうに思います。

(略)

○山尾委員
 最後に、報道の自由度ランキングを御紹介して終わりたいと思います。
自民党時代、報道の自由は、42位、37位、51位、37位、29位。そして、民主党政権になって、メディアに対して大変オープンになり、11位まで上がりました。現在の安倍政権は61位、最悪のランキングです。憲法と人権に関する総理の認識を聞くと、ある意味当然の結果ではないかと私は思いました。
ぜひ、総理、もう一度憲法の趣旨をしっかり考えていただいて、本当の意味で豊かではつらつとした議論をしていただきたいと思います。
以上です。

山尾議員の問題関心は、「首相が、憲法の最初に習う基本のキがわからないでは大変心配」「総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたい」ということだった。これは、山尾議員ならずとも、国民の大きな関心事である。

国会で、権力によるメディアへの弾圧が話題とされているときに、一国の首相の憲法認識がこんな情けないレベルでは困るのだ。いや、情けないにとどまらない。実は、国民にとって恐ろしい事態といわざるを得ない。

安倍は、「今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか」と逃げを打ったが、これは「クイズ」ではない。国民が知りたい「首相の資格」の当否である。権力を預かる地位にある者が、委託されるにふさわしい資質を持っているか否かの確認であり検証なのだ。

結果は、明らかに落第である。安倍晋三には、表現の自由の重さ貴さに対する認識がないのだ。我が国の首相が、事務方のメモ(カンニングペーパー)に助けられてもなお、法学部1年生終了時の憲法理解のレベルに達していないことも明らかとなった。所轄の大臣が「歯舞」を読めないとか。環境大臣が放射線量の規制基準根拠を知らないとか、かつての首相が「未曾有」の読みを間違えるとか、そんなレベルの問題ではない。国民の基本的人権にとって、恐るべき事態が、現にここにあることを認識しなければならない。

なるほど、知らないということは恐ろしい。同時に、知らないということほど強いこともない。アベ政権が、表現の自由攻撃にかくも果敢であり、憲法改正にかくも積極的な理由も、無知ゆえとすれば合点が行く。

事態はおそるべきものであることを正確に認識しつつも、このような反知性の蛮勇に負けていてはならない。
(2016年2月23日)

アベ君、キミはいったい何のために英語を学んだのかー老英語教師の慨嘆

アベ君。私は恥ずかしい。キミに英語を教えたのは私だ。例によって、「昔々ある学校で」のこと。キミは、目立たない生徒だったが、英語だけは人並みの成績だった。英語の勉強はよくしていたように見受けた。だが、キミの英語を学ぶ姿勢には、最後まで違和感を禁じ得なかった。キミほど実用と方便としてだけの英語を身につけようとした学生をほかに知らない。

私は、英語の学びを通じて、生徒には揺るぎのない教養を身につけて欲しいと願い続けてきた。ことあるごとにその旨を語ったはずだ。英語を入り口として、その奥にひらけた英語圏の豊穣な文化は、教養として人格の核になり得るものだ。また、英語を入り口として、英語圏以外の多様な文化とも触れあうことができるようにもなる。

日本の伝統・文化・歴史を真に理解するためには他国の文化を知らねばならない。日本を相対化して見つめる姿勢を持たなければ、独善に陥って日本を正確に見極めることができない。夜郎自大の姿勢を避けつつ、しかも自分の属する文化に誇りを持つためには、教養としての英語が必須だと私は思っている。しかし、この考えはキミには一顧だにされなかった。

あらゆる学問に通じることだ。いったい何のために学ぶのか。何のために科学者となるのか。何のために医学を志し、どのような姿勢で臨床に臨むのか。誰のどのような利益への奉仕を目指して法を学び実践するのか。英語を学ぶキミには、まったく目的意識というものが感じられなかった。

あれから随分と時を経た。キミにジェントルマンとしての教養が身についていないなどと、無い物ねだりをして嘆いているのではない。英語の教師としての私から見て、キミは政治家として不思議な立ち位置にある。私が生徒に望んだことの正反対がキミの今の姿なのだ。

私が望んだことの一つは、日本文化や日本の歴史を相対化して見る眼の育成だ。英米流の普遍的な合理主義に照らして、日本の戦前の神権天皇制や国体思想の非合理を多少なりとも批判する眼をもって欲しいということだ。そうすれば、個人主義や人権思想あるいは抵抗権思想などによく理解が及び、社会的同調圧力に流され易い日本の文化に疑問を持つことができるだろう。「和を以て貴しとなす」などという日本の伝統に叛旗を翻すことまでは望み薄としても、間違っても、戦前指向や偏狭なナショナリズムに染まって、失笑を買うようなことがあってはならない。

もう一つは、英語によるコュニケーション能力を鍛えることで、欧米人に対する無用のコンプレックスを払拭し、堂々と対等意識で対峙する精神を鍛えてほしい、ということだ。

今のキミは、いったいどうなっているのだ。キミの国内政治の基本姿勢は、「戦後レジームからの脱却」であり、「日本を取り戻す」ということだという。これは、英語圏文化から見て非合理極まる戦前指向であり、偏狭なナショナリズムを基本理念としているということ以外のなにものでもない。

もう一つは、キミのアメリカに対する姿勢の問題だ。キミは国内では偏狭なナショナリストとして傲岸きわまりないが、アメリカにはまことに卑屈ではないか。こういう精神性はアンビバレントであるように思えるが、独善と卑屈とがキミの精神の両面として矛盾がなく収まっている。

沖縄問題や思いやり予算がその典型だったが、戦争法案がにわかにクローズアップされてきた。キミは、アメリカ議会の演説で戦争法案の成立をアメリカ合衆国に公約した。まだ、日本の主権者に法案の形も見せていない時点でだ。「アメリカに約束してしまったのだから、もう引き返せない。その約束を守るために、日本の国民を説得する。説得できなければ強行採決をしてでも戦争法を成立させなければならない」というのがキミの姿勢だ。おかしくはないか。

キミは、私が英語を教えた二つの目的を、みごとに二つとも正反対の結果で答えたのだ。教師としては、これにすぎる落胆はない。情けなくも嘆かわしい。

私は、意識的に生徒の教養の核とするにふさわしい英語教材を選んで学習させた。その中の一つに、リンカーンのゲティズバーグの演説があったことを覚えているだろうか。短いものだが、名演説とされているものだ。

その最後のフレーズが、日本国憲法の前文にも取り入れられた次のもの。
…these dead shall not have died in vain―that this nation, under God, shall have anew birth of freedom―and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
(これらの戦死者の死をむだに終らしめないことを、ここで堅く決意することである。この国に、神の下で、新たに自由の誕生をなさしめることである。そして、人民の、人民による、人民のための政治が、この地上から滅びることがないようにすることである。本間長世訳)

キミは、「民意に反してでも、強行採決をしてでも戦争法案を成立させることが、国民のためになるものと後世理解を得ることにきっとなる」という趣旨のことを言ったそうではないか。おそらくは、「私が正しい。だから、民意を無視してもよい。だから憲法解釈を変えたってよい。だから、違憲法案だといわれても意に介さない」

キミは、リンカーンから何も学ばなかった。思い上がりも甚だしい。アメリカの独立宣言も、キング牧師の演説も、キミの人格形成にはかすりもしなかったのだ。私はますます肩身が狭い。

TPPや集団的自衛権は、新たな植民地支配の形ではないか。キミはグローバル化にえらく熱心だが、結局はご主人様への奉仕と、そこからのおこぼれ頂戴に熱心だということだ。私は、世界の誰とも対等な人格としてコミュニケーションができるツールとして、キミに英語を教えたつもりだった。ところがキミは、奴隷主の言葉として英語を学び、上手にご主人の機嫌をとって見せたのだ。この齢でこんな嘆きをしなければならならぬとは、…ああ、無念極まる。
(2015年7月26日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2015. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.