澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

愚かな文科大臣から、邪悪な文科大臣へ。

またまた安倍内閣の新装開店セールである。11か月前の「在庫一掃内閣」の組閣で払底したはずの在庫商品を、またどこからか引っ張り出しての並び替えである。こんな目先幻惑商法に乗せられてはならない。

11か月前、私は在庫一掃内閣を象徴する「愚かな人材」として、教育勅語への思い入れをアピールした新文科大臣・柴山昌彦を取りあげて論じた。2018年10月4日の下記ブログをぜひお読みいただきたい。安倍内閣の性格とその閣僚のレベルとを的確に描写し得ていると思う。

柴山昌彦くん、愚かなキミには文科大臣は務まらない。
https://article9.jp/wordpress/?p=11246

その柴山昌彦くんは、今回店先からは外される商品のお一人となって庫に戻る。その彼が去るにあたってまったく無視をするのも礼を失する。なにか言わねばと思っていたところ、やっぱり言うべきことが出てきた。

本日(9月11日)朝刊各紙の見出しはこうだ。「高校での政治談議、柴山文科相『適切な行為?』と投稿」(朝日)、高校生が友人相手に政権批判、違法ですか? 柴山文科相のツイートに波紋広がる(毎日)、英語民間試験、反対投稿に文科相異議 高校生は政治議論禁止!? 専門家『飛躍しすぎ』」(同)。

アベ内閣の一員である柴山くんとしては、若者の政治意識が向上することはたいへんに憂慮すべきことなのだ。20才だった選挙権年齢を18才に引き下げたのは、若者の保守化著しいことを見極めてのこと。近年の教育行政の成果ようやくにして結実し、若者は黙っていても自民党に投票してくれる存在となった。いや、正確に言えば、周囲が黙ってくれる限りは自民党に投票してくれるのだ。下手に政治意識を刺激されて、アベ政権のウソやゴマカシを論じるようになられては困る。人権や平和や民主主義や、あるいは憲法や、憲法の理念形成の歴史などを議論し合うようになられてはなおのこと。取り返しのつかないことにならぬうちに手を打たねば、せっかくの若者保守票が野党に流れてしまうではないか。そんなことになったら、安倍チームの一員としての柴山の面子が丸つぶれだ。

もっとはっきり言えば、こういうことだ。高校生に政治を議論する必要はない。その資格もない。むしろ、政治的な意見交換は有害だ。黙って、自民党に投票するだけでよい。そのための18才選挙権ではないか。政治とは何か、アベ政権とは何か、その利権との結び付きはどうだ、などとつまらぬ入れ知恵をする大人や教員の存在こそが諸悪の根源なのだ。もひとつ大事なことは、「柴山はこんなにガンバっていますよ」という姿のアピール。それが、ツイッターでの発信となった。

ことの発端は、2020年度の大学入試への英語民間検定試験導入を巡る高校生たちの議論である。9条改憲でも、辺野古基地建設でも、モリ・カケでもない。政治性は希薄だが、大学受験生の深刻な問題。
大学入試のあり方をめぐる問題を通じて、多くの高校生が自分たちの生活や将来と、政治や行政とがつながっていることを意識し始めたのだ。そして、ツイッターで、高校生や教員が不満や反対意見を述べた。そのやり取りの中で、こんなツイートがあったという。

 教員 「次の選挙ではこの政策を進めている安倍政権に絶対投票しないように周囲の高校生の皆さんにご宣伝ください」
 高校生 「私の通う高校では前回の参院選の際も昼食の時間に政治の話をしていたので、きちんと自分で考えて投票してくれると信じている。もちろん今の政権の問題はたくさん話しました」

これに反応した柴山くんは考えた。これは、たいへん深刻な事態だ。大学入試のあり方などは些事に過ぎないが、高校生が日常政治の話をしていることは看過しがたい。「きちんと自分で考えて投票する」「今の政権の問題はたくさん」とはいったいなにごとか。こんなことを勝手に喋らせておいてはならない。大学受験問題をきっかけに、高校生が政治的に先鋭化しているとすれば、オレの失敗でオレの責任ではないか。ここは、押さえ込んで、高校生を善導しなければならない。

そこで、こんなコメントを発信し,これが「高校生が友人相手に政権批判、違法ですか? 柴山文科相のツイートに波紋広がる」と話題となった。

「こうした行為は適切でしょうか?」「公選法137条や137条の2の誘発につながる」「学生が時事問題を取り上げて議論することに何の異論もない。しかし未成年者の党派色を伴う選挙運動は法律上禁止されている」

重ねて、柴山くんは、9月10日の閣議後の記者会見でこう言っている。弁明でもあり、再度の挑発でもあろうか。

 「教育基本法は学校の政治的中立確保を求めている」「教員が規定に反する行為を行っていたとすれば不適切」「昼休みであっても生徒の選挙運動は禁止することがあり得る」「公選法に反する行為を誘発する恐れもあると考えたので問題提起した。高校生の政治談議を規制することは全く意図していない」

 これって、要するに「高校生諸君、諸君らの『昼食の時間にする政治の話』も、公職選挙法違反になることがある」「未成年者の選挙運動は法律上禁止されているのだから、政治に触れた話はせぬ方が無難だぞ」と脅しているのだ。文科大臣がこう言えば、これを忖度する教育委員会も校長もあるだろうとの思惑が透けて見えている。あるいは、「文科相の意向は、総理のご意向と承れ」とでも言いたいのだろうか。バカげた話、バカげた文科大臣というほかはない。

優れた文科大臣、気の利いた政治家ならこう言うところだ。
「民主主義は、主権者一人ひとりの政治的自覚を基礎にするものです。そして、民主主義の政治過程は自立した主権者の徹底した議論によってしか成立しません。民主主義社会の国民は政治的な自分自身の意見をもって、他の人びととの政治的な議論に習熟しなければなりません。そのためには、物心ついたときから息をするのと同じように、政治な会話ができなくてはなりません。高校生と言えども、また未成年者と言えども、常に政治に関心をもち、人の意見に耳を傾け、自分の意見を述べられるよう、ことあるごとに経験を重ねましょう」

優れていない文科大臣、気の利かない政治家も、これくらいのことは言わねばならない。
「高校生が政治に関心をもち、政治的な話題を口にすることは、犯罪でも何でもありません。公職選挙法違反だという脅かしは、民主主義大嫌いな右翼勢力や、自由な選挙運動を恐れる与党勢力の常套手段です。『18才になるまでは政治的な話題を口にしてはいけない』では、せっかくの18才選挙権を生かすことができません。校内でも校外でも、政治的なテーマの議論をすることに躊躇する必要はありません」

なお、毎日が解説しているとおり、「選挙運動とは『特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為』(総務省ホームページ)を指す。いつの選挙で、だれを当選させるための特定なければ、選挙運動には当たらない。教員のツイートが問題になる余地はない。公選法137条、137条の2違反のおそれなどというのは、「若者の政治参加や教育現場に萎縮を招きかねません」(広田照幸・日本教育学会長)との指摘のとおりである。

さて、本日(9月11日)発表の改造人事。柴山に代わる次の文科相は、萩生田光一である。愚かな文科大臣から、邪悪な文科大臣へ。嗚呼。
(2019年9月11日)

丸山穂高と斎藤隆夫。泉南と但馬、その有権者が問われている。

一躍勇名を馳せて《超有名政治家》となった維新公認当選の丸山穂高。なかなかユニークなお人のようだ。

北方領土返還実現のためには戦争が必要で、「戦争なんて言葉を使いたくない」などと生温いことを言っているようでは、「でも(そんなことでは)取り返せないですよね」「戦争をしないとどうしようもなくないですか」と言ってのけた。酔余の妄言か、幼児性の発露か、はたまた戦争賛美の確信に基づいた素面の発言か。いずれにしても、この上なく危険で、国会議員としてふさわしくない。

それだけではない。昨日(5月22日)には、丸山議員 ロシア女性紹介しろ」「大声で卑猥な言葉繰り返す(北海道新聞)と見出しを打たれる醜態も明らかとなっている。

ビザなし交流訪問団の一員として訪れた国後島で、戦争による北方領土の奪回に言及し、日本維新の会を除名された丸山穂高衆院議員(大阪19区)が、同島の宿泊施設「友好の家」に滞在中、団員に対し「ロシア人女性の店に行こう」という趣旨の発言をし、単独行動が認められていないにもかかわらず何度も外出しようとして政府関係者らに止められていたことが22日、分かった。」

「丸山氏は11日夜、友好の家の食堂で団員10人程度が懇談していた際、大声で卑猥な言葉を数回繰り返した。その後、丸山氏は食堂の端で同行記者2人の取材を受けていた大塚小彌太団長(90)に対し、『戦争でこの島を取り返すのは賛成か反対か』と語りかけた。」

週刊文春報道での丸山の言動は、さらにえげつない。
「丸山氏は“戦争暴言”の後、『俺は女を買いたいんだ』と禁じられている外出を試み、事務局スタッフや政府関係者ともみ合いになったという。売買春は日露両国で共に違法行為である。」

丸山穂高、その行為や恐るべし。もしかしたら、単なる常習泥酔者の「うっかり本音」なのかも知れないが、それならなおのこと、こんな人物が議員となっている現実が恐ろしい。

丸山穂高は、大阪19区選出の35歳だという。大阪19区とは、貝塚市・泉佐野市・泉南市・阪南市・熊取町・田尻町・岬町の、泉南地域4市3町。今や、泉南の恥である。こんな人物を当選させたことを地元有権者は真剣に反省しなければならない。もっとも、丸山だけではなく、維新の幹部・議員や候補者には問題人物山積である。維新の責任重にして、かつ大なるは、指摘するまでもない。

想起するのは、よく似ているようで真反対の事例。「反軍演説」で帝国議会を除名になった立憲民政党の斎藤隆夫のこと。1940年2月2日、帝国議会衆議院本会議において彼が行った演説は、日中戦争に対する根本的な疑問提起と、軍部批判を内容とする「反軍演説」として知られる。彼は、聖戦を冒涜したとして、同年3月7日の本会議決議によって議員除名となる。除名決議の票決内容は、賛成296、棄権121で、反対はわずか7票であったという。

しかし、彼の選挙区である兵庫県5区(但馬選挙区)の有権者は、反軍演説で除名の斎藤隆夫を誇りとした。次の1942年の翼賛選挙に斎藤は非推薦で立候補してダントツのトップ当選(当時は中選挙区・定員4名)を果たしている。当局や右翼の妨害をはねのけてのこと。

いま、有権者の質が問われている。丸山穂高を議会に送ったのも、斎藤隆夫を再び議員に押し上げたのも、地元選挙区の有権者である。泉南と但馬、いま国民の目は、雲泥の差ありとして両地域を見ている。
(2019年5月23日)

1890年第1回総選挙での、有権者達の知恵と熱意

「総選挙はこのようにして始まった 第一回衆議院議員選挙の真実(稲田雅洋著・有志舎、2018年10月刊)が滅法面白い。知らないことばかりが満載。いや、これまで関心を持たなかったが、なるほどと思わせられる記事で満ちている。

権力の抑制を担保するための三権分立。法の支配を前提に、立法権・行政権・司法権と分かれるが、これは立法⇒行政⇒司法という統治行為のサイクルの各部分でもある。そのサイクル始動の位置に選挙がある。民主主義的政治過程は、選挙から始まるのだ。選挙制度も運用も、それにふさわしいものでなくてはならない。

権力の正当性の根拠は人民の意思にある。神のご意思だのご託宣ではなく、選挙によって立法府の議席に結晶した人民の意思だけが権力行使を正当化する。だから、我が国の選挙の在り方に関心を持たざるを得ないが、これまで多く語られてきたのは、1925年「男子普通選挙」実施以後の選挙の歴史。

このときに、治安維持法と抱き合わせで「普選法」と通称される「衆議院議員選挙法改正」が成立し、これが日本の選挙制度戦後の骨格を形作って、戦後の公職選挙法につながっている。25年改正法で、初めて立候補の制度ができ、供託金の制度ができ、世界に冠たる「べからず選挙」の選挙運動規制法制ができあがった。

それ以前の選挙制度については語られることは少ない。ほとんど何も知らなかった。漠然と思い込んでいたのは、選挙権・被選挙権とも、直接国税15円以上の納入者に限られていた制限選挙。当時の税制は地租が中心だったのだから、地主階級が議席の大半を占めていたのだろう。そもそも、自由民権運動の敗北が天皇主権の大日本帝国憲法制定と制限選挙での帝国議会開設となったのだから、第1回総選挙も議会も熱い政治運動の舞台とはならなかったろう。

ところが違うのだ。どんな制度でも、良質な人々は、知恵を出しあい、汗も金も出しあって、制度を使いこなそうとするものだ、という見本のような話が発掘されている。人々の知恵の働かせ方が、滅法面白いのだ。

出版社の惹句は以下のとおりだ。
1890(明治23)年の第一回総選挙で当選して衆議院議員になった者の中には、実際には15円以上の国税納入資格を満たしていなかった者がかなりいた。彼らは、支持者たちの作った「財産」によって、資格を得たのである。中江兆民・植木枝盛・河野広中・尾崎行雄・島田三郎など、自由民権運動の著名な活動家をはじめとして、数十人は、そのような者であったといえる。本書は「初期議会=地主議会」という通説のもとで解明されずにきた「財産」作りの実態や選挙戦の有り様を、長年にわたる膨大な史料の博捜により解明、貴重な史実を明らかにする。

「財産作り」とは、著者の造語。名望ある者に被選挙者としての資格を得させるために、名義上の財産(多くは耕地)を集めて15円以上の納税者とし、議会に送り出したのだ。こうして、自由民権運動の著名な活動家の多くが議員となった。これは脱法得行為のごとくでもあり、そうでもないようにも見える。まさしく、知恵と工夫の賜物。

最初に、中江兆民の具体例が出てくる。保安条例で東京を追われて、大阪で「東雲新聞」の主筆を務めていたが、収入はわずか。その彼に、支持者が議員となることを勧める。「財産」作りは自分たちがするから、是非出馬を。固辞していた彼も、支持者たちの熱意に動かされて、「新平民の代表者としてなら出よう」ということになる。
こうして彼は、大阪4区(小選挙区)から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、被差別部落民らの「財産作り」で資格を得て、当選する。支持者にも、兆民にも頭が下がる。このような手法を、著者は「勝手連型」の「財産」作と呼んでいる。

また、高知県の例では、植木枝盛等民権活動家の議会出馬の意欲を支持者らが支え、用意周到に「財産」を作って全県の定員4名の自由派系候補者を擁立し、全員が当選している。著者はこれをwin-win 型」の「財産」作りと読んでいる。

自由民権運動のなかで培われた支持者たちの信頼という「人格的財産」が、全国至るところで「勝手連型」や「win-win」型の「財産」作りとして結実した。それが、次第に議会を天皇制政府の協賛機関に納まらない力量を付けることになる、というのが著者の見方。また、このような「財産」作りには、選挙権を持たない多くの市民が参加したともいう。

制度の改善は常に必要な課題だが、現行制度の中でできるだけの知恵を出しているか、と問われる思いがする。司法のあり方には、大いに不満がある。しかし、制度の責任にして実は個別事件の中で知恵を出し切っていないのではないか、と。

(2019年2月2日)

「1941年12月8日未明」と、「2018年12月8日未明」と。

12月8日である。1941年の本日早朝、全国民がNHKの臨時ニュースに驚愕した。「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」というのだ。

77年後の本日未明、幸いにして大本営発表はない。代わって報じられたものは、本8日未明における参院本会議での諸悪法案の可決成立である。国会前に集まった抗議の人々のプラカードの中に、「審議が足りない」「議論を尽くせ」「数の暴力を許すな」「生煮え法案反対」という文字が躍っている。哀しい事態と言わざるを得ない。議会制民主主義が壊れかかっている。

1941年の今日、天皇制日本は自滅への行動を開始した。恥ずべき奇襲攻撃をもって英米に対する戦争を開始したのだ。この日、多くの日本人は不安を抱えつつも昂揚した気分に包まれていたという。いま、歴史は繰り返さないと自信をもって言える事態だろうか。

本日、大本営発表はない。しかし近い将来の12月8日に、再びの悪夢はめぐってこないだろうか。また、本日が大本営発表の日の前年、あるいは前々年の12月8日と近似しているとは言えないだろうか。大本営が発表した開戦と、審議らしい審議のない議会制民主主義の実質的破壊との間に、どれだけの距離があるだろうか。

確認しておこう。満州事変にせよ、日中戦争にせよ、そして英領マレー奇襲も真珠湾攻撃も、すべて日本の方から仕掛けていることだ。日本は、けっして「やられたから、やむなく反撃した」のではない。常に征戦したのだ。だから、戦争の最終盤まで、戦地とは外地のことだった。近隣諸国が、いまだに日本の好戦性を危惧することには、歴史的に拭いがたい根拠があるのだ。

もう一つ。天皇制軍国主義における軍部の専横は、議会制民主主義の衰退と裏腹であった。議会制民主主義が国民の支持を失ったとき、天皇制とは軍国主義・侵略主義と同義になった。当時の政党政治がいかに未熟なものであれ、軍部の跳梁に対抗しうる貴重な機構だった。だが、議会制民主主義が自壊した。国民とメディアが議会を見限った。学校教育もである。こうして、軍部専横が、敗戦まで続くことになる。

2018年の12月8日。暗澹たる気持で、わが国の議会制民主主義の現状を見ざるを得ない。何たる自民・公明の体たらく、そしてこれに追随した維新。この3党の醜態と責任とを忘れてはならない。

ことの重大性は、入管法・水道法・漁業法・日欧EPA等の個別悪法の内容の問題だけではない。いつの間にかここまで忍び寄っている、議会制民主主義形骸化の恐怖である。

何年かあとに、「1941年12月8日未明」と同じニュアンスをもって、「2018年12月8日未明」が語られる日の来ることを恐れる。
(2018年12月8日)

通常国会最終盤。これからは、数の力でゴリ押しだ。

さあ、これからだ。第196通常国会は最終盤。これからが、アベ内閣と自民党の本領発揮の時期なのだ。これからが、数の力の見せ所だ。アベ一強はダテではないことを実証しなければ、アベ三選もおぼつかない。6月20日に会期終了の予定だが、もちろんこれは延長する。会期を延長して、その間に力づくでのゴリ押しだ。さあ、なんでもありだぞ?。

これまでが、われわれが萎縮せざるを得ない異常な国会運営だったのだ。森友事件と加計問題ばかり。そして、官僚の虚偽答弁や、公文書の隠蔽・改ざんの不祥事。それに加えて、官僚のセクハラ発言や財務大臣のセクハラ容認失言。アベの国政私物化だの、アベに対する忖度行政だの、さんざん言われはしたが、所詮は些末なこと。些末なことに時間を費やしすぎたのだ。

これまでの萎縮を払拭して、些事ではなく、もっと本筋の議会運営に舵を切り直さなければならない。今国会の本筋の第1は、「働き方改革法案」の審議だ。野党の世論の反対を押し切ってこの法案を成立にまで漕ぎつかせなければならない。なぜ、この法案が本筋か。当たり前のことだ。資本が強く要請しているからだ。資本という言葉が耳障りなら、財界と言い換えてもよいし、産業界の要請だと言い直してもよい。

資本主義の世の中だ。資本の儲けがあってはじめて賃金の支払いが可能となる。税収も潤沢となる。企業ファーストの政治は当然のことだろう。企業が儲かれば、おいおい貧乏人にもトリクルダウンのしたたりが期待できることになる。

そりゃあ、残業代をゼロにするのが目的の高プロだ。労働者が反対するのは当たり前だろう。だが、考えてもみよ。企業あっての労働者だ。企業の儲けが拡大しての世の中の安定だ。その企業が是非とも必要だという高プロであり、労働者の働かせ方改革じゃないか。労働者の都合ではなく、まずは企業優先。企業が望む経済政策、それこそがアベ内閣と自民党の使命。そんなの、分かりきったこと。

もう一つがカジノ法案。これも財界の要請だ。バクチを解放して経済発展。結構なことじゃないか。バクチで身を持ち崩す国民が数多く出てくるって? やって見なけりゃ、わからんだろう。そりゃ、どんな政策にも多少のデメリットはあるさ。でもね。そんなことを一々気にしていたら、政治家なんかやっていけない。ギャンブル依存症は自己責任だと切り捨てるしかないのさ。

それから、参議院の合区対策法案だ。定数6増の提案で乗り切ろうというものだ。これも、すこぶる評判が悪いが、乗り切れそうだ。何しろ、「我に数の力あり」なのだから。民主主義の世の中だ。数こそ力、数こそ正義ではないか。まさしく、これこそ民主主義ではないか。

えっ? これは民主主義ではないと? 民主主義とは理性に基づく熟議の政治だって? そんな青くさいことをいっているから、君たちいつまで経っても少数派なんだ。

われわれは選挙によって国民多数から支持を得たのだから、われわれが思うとおりの法案を作成して国会を通すことを考えて悪かろうはずはない。むしろ、そのことがわれわれの政治的責務だというほかはない。

ありがたいことがいろいろある。まずは、公明党さんありがとう。敢えて泥を被って、自民党と一緒に評判の悪い法案成立に協力してくれる。ホントにありがたい。

それから、維新だ。これも、少し餌をやることで飛びついて、与党だけの単独採決という汚名を着ないで済む強力な助っ人。ありがとう。

そして、こんな嘘つき内閣と、悪評さくさくの政権を支えてくださる30%の固定支持層。実は私アベにも、どうしてこんなに支持があるのか分からないけど、ありがとう。

最後に、忘れっぽい有権者の皆様ありがとう。今、強行採決を重ねでも、どうせ来年の参院選のあたりには、皆様きれいさっぱりお忘れになる。それこそが、私みたいなものが総理を続けておられる最大の理由。

この国会会期末。どさくさ紛れに憲法改正の原案発議までやっても、案外うまく行くかも知れない? いややっぱりやめておこうか?
(2018年6月16日)

捜査に影響という口実の政府答弁拒否を許してはならない

国会は、森友関連の文書改竄問題で揺れている。
朝日の報道によれば、「学園との土地取引の際に財務省近畿財務局が作成したものとして国会議員に開示された決裁文書は、実は問題発覚後に新たに作成された文書で、原文書は別にある。しかも、両文書の内容には違いがあり、開示文書は書き換えられた可能性がある」というのだ。

公平・公正な行政過程を検証するための公文書を、あとから都合よく書き直す。こんなことがまかり通ったのでは、行政に対する国民の信用は崩壊してしまう。

本日の「納税者一揆・第2弾」の最初のコールが、「(アベのお友達に税金を)横流しするな!」「納税者をなめるな!」「納税者の怒りを思い知れ!」だった。公文書改竄は納税者の怒りの火に油を注ぐものだ。こんな行政に納税者が怒るのは当たり前ではないか。

今ここに至って、政府が国民の信用をつなぎ止めるには、誠実に2通の文書を議会に明らかにして、誰がどのような経緯で2枚目を作成し人目につかぬように保管していたのか、包み隠さず丁寧に説明するしかない。アベ流の「丁寧」ではなく、字義のとおりの丁寧な説明が必要なのだ。

ところがどうだ。その説明は頑強に拒否されている。「大阪地検において背任のほか、公用文書等毀棄で告発を受けて捜査が行われている」。「お答えすることが捜査にどのような影響を与えるかということについては予測しがたいため、今のところは答弁は差し控えなければならないものだと思う」というのだ。不誠実もきわまれりと言わざるを得ない。

告発されたことをこれ幸いに、不都合な証言拒否の言い訳に使おうという奇妙な論理。これこそ詭弁である。こんなことで、国会答弁の拒否を許しては、議院内閣制の根幹が揺らぐことになりかねない。

「捜査に影響を与える」とは、いったい何を意味しているのか。証人を威迫し証拠を隠滅するなど捜査を妨害してはならないのは当然のことだが、議院での野党の質問に対して、誠実に真実を答弁することは捜査の妨害になりえない。

議院での質疑と、刑事司法における捜査とは、その目的も手続もまったく別のものである。それぞれが独立して行われるべきが当然で、刑事の捜査が始まったら国会は質疑を控えて捜査の進展を見守らなければならない、などというルールもマナーもない。むしろ、刑事の捜査着手を口実に、議会での不都合な質問を封じ、答弁を拒絶することなどあってはならない。場合によっては、司法当局の捜査名目による審議妨害に毅然と対決して、国権の最高機関である国会の正常な運営を確保する見識を示さなければならない。

法的に、国会審議において、国務大臣は「刑事捜査への支障が生じる虞れ」を理由に、議員の質問に対する答弁を拒否できるだろうか。

人は一般に質問されてこれに答えるべき義務は負わない。個人の人格を尊重する大原則から当然の事理と言ってもよいし、強いて憲法の条文を当て嵌めて21条の表現の自由が沈黙の自由を含むということにもなろう。

しかし、国会に呼ばれた大臣は、一般人ではない。国会議員からの質問に誠実に答弁する義務を負う。この義務は、議院内閣制という憲法上の制度の根幹を形成する重要な義務だ。

この義務の根拠条文を探せば、憲法63条と国会法74条ということになる。2012年4月4日、下記の政府答弁がこのことを確認している。
「憲法第63条において、『内閣総理大臣その他の国務大臣は、議院で答弁又は説明のため出席を求められたときは出席しなければならない』とされており、これは、国会において誠実に答弁する責任を負っていることを前提としていると認識している。また、国会法第74条に基づく質問に対し、政府としては、誠実に答弁すべきものと考えている。」

この大臣の「誠実答弁義務」は、議員の「質問権(=誠実答弁要求権)」に対応するものである。この議員の権利行使に対する国政担当者の誠実な義務の履行があって、政治と行政の民主主義過程が正常に展開することになる。この国政担当者の義務履行の価値を凌駕する何らかの免責事由が考えられるだろうか。

憲法38条1項の供述拒否権(黙秘権)が免責事由となるだろうか。
「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。」という文言を文字通りに、「自己に不利益な供述」の拒否権(「不利益供述拒否権」)と考えるのが通説判例だが、刑訴法198条2項が被疑者に、同311条1項が被告人に「包括的供述拒否権」を保障している。被疑者・被告人は、「終始沈黙し、又は個々の質問に対し、供述を拒むことができる」とされている。また、同法146条が刑事事件の証人について、「何人も、自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞おそれのある証言を拒むことができる。」と規定している。

また、民事訴訟法196条は、「証言が証人又は証人と『次に掲げる関係を有する者』(配偶者、四親等内の血族若しくは三親等内の姻族)が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれがある事項に関するときは、証人は、証言を拒むことができる。証言がこれらの者の名誉を害すべき事項に関するときも、同様とする。

そして、議院証言法第4条がこう述べている。
「1項 証人は、自己又は次に掲げる者(配偶者、3親等内の血族若しくは2親等内の姻族)が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受けるおそれのあるときは、宣誓、証言又は書類の提出を拒むことができる。
3項 証人は、宣誓、証言又は書類の提出を拒むときは、その事由を示さなければならない。」

アベ首相にも、麻生財務相にも、人権がある。自らの、あるいは一定の親族についての犯罪を認める内容の供述(国会答弁)までは強制されないと考えざるをえない。取調室においても、議院においても、自白の強要は許されない。その場合、虚偽の供述はできないが、黙秘はなし得る。

議院証言法の手続を類推して、「当該答弁が、答弁者自身(あるいは一定の親族)に刑事捜査が及ぶ虞ある場合に限って、その旨を明示して」答弁を拒否する余地があるというべきだろう。その場合に政治的な指弾を覚悟せざるを得ないことは当然である。

それ以外、たとえば、「捜査に支障の虞がある」「政治的に、内閣が持ちこたえられない」などを答弁拒否の口実としてもてあそぶことを決して許してはならない。

昨日の参議院予算委員会の質疑を通して、世間は「麻生も太田も、『開示された文書以外に原文書が存在し、開示文書は改竄されたもの』と承知している」と受けとめている。そのような国民の疑惑に敢えて挑戦するかたちで、なお太田が答弁拒否を継続すれば佐川の二の舞だ。しかも、もう国税庁長官の席はない。もちろん、麻生にとっても、もう行く先はない。
(2018年3月3日・連続1798回)

成人の日、若者に「脱保守化」を勧める

成人式を迎えた若者諸君。成人おめでとう。
君たちは、この社会を構成し運営していくメンバーとしての資格を手に入れた。これからは、この社会の構造や運営のあり方について、大いに意見を述べていただきたい。それによって、社会は変わるのだから。

君たちには多様な可能性が開けている。未来は、君たちのものだ。君たち自身の力で、未来を変えることができる。これから長く君たちが生きていくことになるこの社会をよりよく変えていくのは君たちだ。

若いということはそれだけで素晴らしい。若さとは、理想や純粋の別名でもある。真実や正義を希求し、理想を実現するための行動をいとわない。この社会の虚偽や不正に対する怒りのエネルギーに満ちている、それが若者だ。

この世の不正義、この世の不平等、権力や資本の横暴、人権の侵害、民主主義の形骸化…。平和憲法の蹂躙、核の恐怖、原発再稼働の理不尽、沖縄への圧迫、格差貧困の拡大…。この世の現実は理想にほど遠い。若さとは、この現実を変えて理想に近づけようという変革の意志のことではないか。

ところで、若さとは長い未来に生きることを意味する。社会が今より良くなればその利益は君たちが長く享受することになる。反対に社会が今より悪くなればその不利益は君たちが長く甘受しなければならない。

仮に、憲法が改正されて、自衛隊が国防軍となり、集団的自衛権行使の名の下、世界の至るところでアメリカと共同して開戦するようなことになれば、前線に立つのは君たちだ。周辺諸国と軍備の増強を張り合って抑止力の均衡という恐怖の中で長く生きることになるのは君たちだ。新自由主義という格差と貧困の元凶となる経済政策が続くようなら、一部の例外を除いて君たちの大部分が格差と貧困にあえぐことになる。

自由・平等・連帯・個性の顕現を実現すべく合理的な社会を求めてその仕組みを変えていこうという志向が「革新」の立場。世の中を今程度で良しとして妥協するのが「保守」の立場。現状に満足せず理想を掲げて現実を動かそうとするのが「革新」で、理想は措いて現実を肯定するのが「保守」。

古来、若者は常に革新派だった。純粋に理想を追求するのが若者なのだから。しかし、人は若さを失うとともに、社会のしがらみを抱えることになる。守るべき多くのものが幾重にも桎梏となって、守りの姿勢にはいらざるを得なくなる。その結果、年齢を重ねるに連れて、理想よりも現実、変革よりも現状の維持を選択する心情となる。これが保守化ということだ。

政党は、革新から保守の目盛りの中に点在し、その両極に共産党と自民党がある。これまで、常識的に、共産党の支持者は若者が、自民党の支持者は高齢者が多いと思われてきた。革新的な若者が社会で生きていくうちに保守化して、政権与党を支持するようになる。一昔前までは、世論調査の結果もそう語っていた。

ところがどうだ。昨今は様変わりだという。
昨年10月の総選挙におけるNHKの出口調査が話題となった。私には衝撃だった。自民党に投票した有権者の世代別割合は、20代が50%、30代42%、40代36%、50代34%、60代32%、70代以上が38%だったという。年齢が上がるほど自民党支持者が減っている。つまり、若年層ほど保守的傾向が強く、高年齢層ほど保守支持が弱まるというのだ。常識とは正反対の現実。

もしかしたら戦後の教育は失敗したのだろうか。若者は理想を語ることをやめ、社会を変革していこうという気概を失ったのか。不正義や理不尽を怒るエネルギーを持ち合わせていないのか。ひたすら社会の空気を読み、忖度に長けた成人になっているのだろうか。

「今の程度に就職できることがありがたい。」「無難に働けるなら、それ以上は望まない」「民主党政権時代の混乱よりは、アベ政権の安定が望ましい」というのが若者の言葉だろうか。それが本当のホンネか。願わくは、そのような投票行動は、若者の仮の姿であってほしい。いま流行の「面従腹背」の実行と受けとりたい。

本日成人式に出席の若者諸君。もう、君たちは自分自身の将来のために覚悟を決めねばならない。もう、素直だの忖度だのは不要だ。空気を読むことはやめよう。生涯面従腹背を貫ぬいてもおられまい。現状維持の姿勢から、抜け出そう。もう少しましな、多くの人々にとって居心地の良い、生きるに値する社会をつくるために。
(2018年1月8日)

リセットおばさんの「希望リセット党」綱領を読む

へぇ? 「日本をリセット」? いったいぜんたい、そりゃなんのことかね?

若狭と細野ら、おじさんたちのぐたぐたな協議を「リッセット」ということなら意味は明瞭だ。意味が明瞭なだけに、この「リセットおばさん」の人間性もよく見えてくる。希望の党とはなんたるものか、おぼろげながらもその体質やイメージがつかめる。新しくできる政党への投票の可否の判断材料にもなる。

しかし、「日本をリセットするために党を立ち上げる」となると、さっぱり分からない。「しがらみがないからリセットできる」と言われてもね。さっぱり分からないことを述べ立てるのは、有権者を愚弄することとは思わないか。

敗戦にともなう反省による「天皇制日本のリセット」。平和を求めて、「軍国日本をリセット」。財閥跋扈を許した経済体制をリセット。両性の平等を阻害してきた家父長制をリセット。歴史修正主義や民族差別を許容する日本の偏狭をリセット。臣民根性や官尊民卑思想の残滓をリセット…。などと、具体的に言ってもらわなければね。「日本をリセット」は意味がない。「日本のどの面を否定的なものととらえて、どのような日本を目指そうというのか」。それを明瞭にしないままの「リセットおばさん」の放言には辟易せざるを得ない。

この人の最大の関心事は、いま「民進党のリセット」であるようだ。実はそのことは、アベと同じく、戦後民主主義のリセット、社会的規制のリセット、福祉行政のリセット、もしや平和のリセットを考えているのではなかろうか。アベに代わって、庶民の希望をリセットすることにはならないか。リセットおばさんのリセットが、何に向けられることになるのか。この曖昧さが怖い。

一般論だが、カタカナ語を多用する文章には無内容なものが多い。曖昧な内容をイメージ先行でごまかそうとする魂胆。この人の言葉は、その典型だろう。眉に唾して聞かねばならない。

その「リセットおばさん」が新しい政党の綱領をこしらえた。公平に見て出来が悪い。読む人を感動させるものとなっていないのだ。共感も、勇気も、展望も呼び起こすものではない。もちろん、国民の希望を語るものとはほど遠い。

まず、前書きがある。
「我が党は、立憲主義と民主主義に立脚し、次の理念に基づき党の運営を行う。常に未来を見据え、そこを起点に今、この時、何をすべきかを発想するものとする。」

ここに述べられている意味ある言葉は、「立憲主義と民主主義」だけである。が、これとてあまりにも当然のこと。もっとも、アベ政権批判の市民と野党の主要なスローガンが、「立憲主義と民主主義を守れ」である。デモの中で官邸に向かって、アベ政権の具体的な悪政に突きつけられるときにこそ、「立憲主義と民主主義を守れ」は政治的に鋭く重い意味を持つ。「リセットおばさん」によって、新政党の綱領に平板に置かれたときに、何と軽い言葉となるのだろうか。

前書きに続く綱領本文は6項目である。

1 我が国を含め世界で深刻化する社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す。

最初から分からない。文意不明瞭の出来の悪さが際立っている。鉛筆をなめた人物の文章能力の問題もあろうが、集団的な検討を経ていない。推敲も不十分。流行り言葉を思いつきで並べてみたというしかない。あるいは、ことさらに曖昧な内容としたものだろうか。

「世界で深刻化する社会の分断」には、二種類考えられる。その一つが、民族・人種・宗教などによる理由なき差別である。「我が国」においては、在日外国人に対する民族差別、ヘイトスピーチデモの横行。しかし、周知のとおり、希望の党を主宰する小池百合子は、民族差別を克服する努力をしていない。むしろ、積極的に煽っているではないか。

今年の9月1日、関東大震災における朝鮮人虐殺犠牲者を追悼する式典に、これまで長年の慣行として都知事から寄せられていた朝鮮人犠牲者に対する追悼文は、今年はなかった。右翼・石原慎太郎ですら献じていた追悼文を、意識的に廃止したのだ。また、前知事が韓国大統領に約束した、都有地を韓国人学校の敷地として貸与するという約束も反故にした。

民族差別を糾弾しているのは、リベラル派であり左翼であって、保守陣営ではない。そこで、綱領起案者は、「社会の分断を包摂する保守政党を目指す」とだけ書いたのでは、座りが悪いと思ったのだろう。「保守政党」に「改革」を冠し、さらに「寛容な」と書き加えた。

しかし、もっと端的に、「民族や人種差別をなくして、人皆が平等に共生できる社会を作ろう」「ヘイトクライムを一掃しよう」「在日朝鮮人・韓国人・中国人に対する偏見をなくそう」となぜ言えないのか。

「我が国を含め世界で深刻化する社会の分断」のもう一つは、経済格差である。その原因は、新自由主義経済政策にある。「寛容な改革保守政党」は、まったくその矛盾解消策をもっていない。

2 国民の知る権利を守るため情報公開を徹底し、国政の奥深いところにはびこる「しがらみ政治」から脱却する。

細かい表現はともかく、この目標自体には全面的に賛成する。都民ファーストの会が自党の都会議員に箝口令を布いて、ブラックボックスを作るような愚を犯さぬよう願うのみ。

3 国民の生命・自由・財産を守り抜き、国民が希望と活力を持って暮らせる生活基盤を築き上げることを基本責務とする。

他党との差別化はまったく意識されていない。ほとんど日本国憲法に書き込まれていることだが、「憲法擁護」をなぜ言えないのか。

4 平和主義のもと、現実的な外交・安全保障政策を展開する。

アベ政権は、「積極的平和主義」という旗を掲げて集団的自衛権行使を容認する戦争法を作った。「平和主義に徹する」といわずに、「現実的な」外交・安全保障政策というのは、自衛隊の増強、軍拡路線に走る余地を残しているのではないかとの疑念を感じざるを得ない。

5 税金の有効活用(ワイズ・スペンディング)の徹底、民間のイノベーションの最大活用を図り、持続可能な社会基盤の構築を目指す。

「ワイズ・スペンディング」に、「イノベーション」。政党の綱領には不似合いのカタカナ語。「持続可能な社会基盤の構築を目指す」って、余りにも漠然ゆえに無内容。

6 国民が多様な人生を送ることのできる社会を実現する。若者が希望を持ち、高齢者の健康長寿を促進し、女性も男性も活躍できる社会づくりに注力する

ぐっとこらえて「ダイバーシティ」を使わなかったことだけを評価しよう。アベ政権の一億総活躍政策の物まねなのが情けない。

総じて、何ともお粗末というしかない。哲学がない。体系性がない。格調が低い。余りにも当たり前で特色が無い。政権と張り合う気概が見えない。どんな手法で、どんな社会を作っていこうというのか見えてこない。なによりも目玉とされた「原発ゼロ」と「消費税の増税凍結」はどうした。

希望の源泉であるはずの憲法擁護がない。希望を阻害している安心して働ける雇用環境の整備や雇用格差を解消する姿勢がない。教育の無償化への要求の切実さに理解がない。現政権の政策への批判の視点がない。こんな綱領しか掲げられない政党に、とうてい「希望」を語る資格があろうとは思えない。むしろ、リセットおばさんは、市民と4野党の選挙共闘を妨害することで、庶民の希望をリセットしようとしているのだ。
(2017年9月27日)

民主主義は、トランプ政権に打ち克てるか

トランプ新政権が発足して1か月。その行方が気になって仕方がない。民主主義という確立したはずの理念が揺らいでいるからだ。その妥当性や有効性があらためて問われている。アベ政権の暴走ぶりにも驚ろかされてきたが、トランプの乱暴さはそれに輪をかけたものになっている。

民主主義は、権力無謬の信仰とは無縁である。主権者無謬もない。国民の政権選択は常に暫定的なものに過ぎないとする。その暫定的な選択の誤りに対する修正の能力を、民主主義は期待しているのだ。ワイマール体制下でナチスドイツがやったことは、この「後戻りの道」を閉ざしたことだ。

いま日本もアメリカも、政権選択の誤りについての修正能力が試されている。アベにしてもトランプにしても、これだけ問題点が明確になれば、退陣を余儀なくされなければならない。ところが、コアな支持者として盲目的な右翼勢力のあることが不気味である。ポストトゥルースのこの時代、アナザーファクトしか見ようとしない支持者たちが、アベやトランプをのさばらせているのだ。

それでも、アメリカ側には幾つかの明るいニュースがある。最近の大統領が就任した日から数えて、不支持率が多数を占めるまでに要した日数は下記の通りなのだそうだ。(「お役立ち情報の杜」)http://useful-info.com/analyzing-president-trump-personality
 レーガン大統領  :? 727日
 ブッシュ大統領??:1336日
 クリントン大統領 :? 573日
 ブッシュ大統領??:1205日
 オバマ大統領   :? 936日
 トランプ大統領  :??????8日

支持率・不支持率には、いくつもの調査があるから、正確なことは言えない。それでも、トランプへのご祝儀蜜月期間が極端に短かったことは確かなようだ。

Gallup世論調査結果が発表された。2月13?15日の日程で行われたもの。トランプの支持率は40%で、就任1か月時点の調査としては、歴代の最低を記録したという。2大政党下での選挙の勝者である。当然過半数の支持があろうというもの。それが、40%でしかない。隠れトランプは、雲散霧消してしまったのではないか。

Gallupによると、アイゼンハワー大統領以来、就任1カ月目の支持率平均は61%で、トランプの支持率は平均を21%も下回るものとなっているのだそうだ。これまでの最低支持率は、ビル・クリントン大統領の51%。この最低記録を11%下回る新記録なのだそうだ。

アイゼンハワーからトランプまでの就任1か月後支持率は以下のとおり。
    Date        Job approval (%)
Trump 2017 Feb 13-15       40 %
Obama 2009 Feb 12-15      64 %
G.W. Bush 2001 Feb 19-21  ??  62 %
Clinton 1993 Feb 12-14      51 %
G.H.W. Bush 1989 Feb 28-Mar??  63 %
Reagan 1981 Feb 13-16       55 %
Carter 1977 Feb 18-21     ? ? 71 %
Nixon 1969 Feb 20-25    ?  60 %
Kennedy 1961 Feb 10-15   ??  72 %
Eisenhower 1953 Feb 22-27   67 %
Average(平均)         ?? 61 %

もう一つのニュースが、ニューヨーク・タイムズに載った精神科医連名の投書。「大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」とするもの。

投書はアメリカ精神医学会(APA)に所属する医師など専門家35人の連名で、2017年2月13日付けの紙面に掲載されたという。投書の見出しは、「精神保健の専門家はトランプ氏に警告する」。次のような翻訳が報道されている。

「トランプ氏の一連の発言や行動は、異なる意見を受容する能力に欠けることを示しており、彼は異なる見解に怒りの行動をとる。彼の言動は他者への共感能力に著しく欠けることを示している。こうした人物は自分の精神状況に合わせて現実を歪め、事実や事実を伝えようとする人物(ジャーナリストや科学者)を攻撃する」
「トランプ大統領の言動が示す重大な精神的不安定さから、われわれは彼が大統領職を安全に務めることは不可能だと信じる」

以下は、「J-CASTニュース」からの引用。その先の引用元は分からないが、信頼できそうな内容。

この投書が注目されたのは、反トランプの内容だけでなく、投書した医師たちが、アメリカ精神医学会の長年の倫理規定を意識的に破ったことにあるという。
? この規定はゴールドウォーター・ルールと呼ばれ、1964年に民主党のジョンソン大統領と共和党のゴールドウォーター上院議員が大統領選を争ったのを機に制定された。この選挙では、ある雑誌が「ゴールドウォーターのメンタル特集」というテーマで、各地の精神科医に大統領として適任かどうかを投票させた。ゴールドウォーター氏はすぐに雑誌を名誉毀損で訴え、裁判では勝訴した。
? このルールは精神科医がこうしたトラブルに巻き込まれないようにつくられた。「精神科医が自ら診察していない公的人物について、職業的意見を述べたり、精神状態を議論したりすることは非倫理的」と禁止した。1973年に制定され、今も有効だ。
? アメリカ精神医学会は2016年、「このルールを破って大統領候補の精神状態を分析することは「無責任で、レッテル貼りにつながり、非倫理的な行為だ」と厳しく戒めた。しかし、今回の医師らは投書の中で、「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」と規定破りの決意を述べている。

アメリカの1964年の事件で、言論の自由の旗を掲げる側が敗訴した裁判例あることが信じがたい。このような判例が今も生きているとは到底思えない。それはさておき、トランプは、35人の精神科医をやむにやまれぬ気持にさせたのだ。「これまでの沈黙は失敗だった。この非常時にもう沈黙は許されない」
メディアと医師が、トランプとたたかう姿勢を見せている。アメリカのこととはいえ、この動きに勇気づけられる。日本もかくあらねば、と思う。

(2017年2月20日)

暴君の暴走を許すな

太古の昔…。暴君がいた。
暴君の行動は、思うがままだ。
あたるをさいわいなぎ倒す。
何にでも襲いかかり、噛みつき、餌食にする。
だれもその暴走を止めることはできない。
暴君に定められた道はない。
暴君のすべての歩みが暴走だ。
この暴君の名をティラノという。
ティラノの力の源泉は、その膂力と牙とであった。

古代から中世…。人間社会に暴君がいた。
戦いの勝者がティラノになった。
権力と富を肥大化させるために、
略奪し、殺戮し、焼毀し、破壊した。
だれも、これを止められない。
この暴君を専制君主という。

専制君主は、自分を美化して宣言する。
朕は、神の末裔だ。
朕は、生ける神なのだ。
朕は国家なり。
だから、やりたいことをやってよいのだ。
この暴君の力の源泉は暴力でもあり、
その暴力美化のダマシでもあった。

そして、近代…。
文明の進展とは、暴君を押さえ込むことであった。
権力は、力をもつ者にではなく、
民衆の信任を得た者に与えることになった。
ところが、これがうまく行かない。
民衆から託された権力が暴走をするのだ。
だから、権力を押さえ込むさらなる知恵が必要になった。
ティラノに鎖を。軛を足枷を。
この願いが、法となった。
法の頂点に憲法を定めた。
暴君を縛れ、暴君の暴走を止めろ。
これが、文明社会の常識となった。

ところが、まさにこの今…。
文明の常識に反抗する権力者がいる。
たとえば、アベ・シンゾー。
「憲法嫌いだ」
「憲法なんぞに縛られるのイヤだ」
「そんな不都合な憲法、オレが変えてやる」

シンゾーの親分トランプもひどい。
ティラノへの先祖返りだ。
何でもかんでもやりたい放題。
あたるをさいわいなぎ倒す。
だれもその暴走を止めることはできない。
暴君に定められた道はない。
暴君のすべての歩みが暴走だ。
この暴君の力の源泉をポピュリズムという。

さあ、このティラノを躾けなくてはならない。
まずは、鎖だ。
手枷だ、足枷だ。
法の支配、権力の分立、司法権の優越。
あらゆる手立てが必要だ。
何よりも、民衆自身の抗議の声を大きくしなければならない。

文明史が、大きな試練のときにある。
民主主義が凶暴なティラノを生み落とした。

民主主義の子として育った専制を克服しなければならない。
暴君に勝手なことをさせてはならない。
暴君の暴走を許すな。

ポピュリズムではない、デモクラシーを取り戻そう。
(2017年2月1日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2017. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.