澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」へのお誘い ― 「君が代」強制と処分をはねかえすために

みなさま
 「君が代」裁判4次訴訟原告は、「日の丸・君が代」の強制に反対して処分を受け、その取り消しを求めて裁判を闘っています。

 学校現場では教員だけでなく生徒への締め付けも強まり、教育の自由が失われています。2020年東京オリンピックや来年の天皇代替わりに向けて、今後「日の丸・君が代」に敬意を払うべきだという圧力がさらに強まっていくのではないでしょうか。

 私たちは、主張します。
  「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
  「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
  学校に自由を取り戻したいということ、を。

 この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

 私たちと一緒に楽しく歩きましょう。
… … … … … … … …
日時 6月30日(土曜日)
 集会 18時半? ウィメンズプラザ・視聴覚室
          (表参道・青山学院大学前)
    報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
 デモ 原宿・渋谷を歩く予定
 主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

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リバティ・デモと名付けられたこのデモは、文字通り自由を求めての行進である。その要求は、「誰にも『日の丸・君が代』を押しつけないで」というだけのシンプルなもの。「子供たちに『日の丸・君が代』を強制する教育をしないで」「教師を愛国心強制の手先にさせないで」ということでもある。

「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」には、多くの人がそれぞれのイメージをお持ちのことだろう。国旗・国歌(日の丸・君が代)にどう向き合うべきかについても、いろんな考え方があるだろう。しかし、最も大切なことは、それぞれの多様な考え方が尊重されなければならないということではないか。多様な考え方を強引に一つにまとめて、「この考え方だけが正しい」と、すべての人に押しつけるようなことをしてはならない。とりわけ、権力を持つ国や自治体がそんなことをしてはいけない。また、明日の主権者を育む教育の場で、そのような押しつけが許されてはならない。

すべての人に最も大切なものは、のびのびとものを考える自由、何ものにもとらわれない考え方の自由だ。この自由を侵そうという最も危険な存在が国家ではないか。国家は、教育を通じて国民の考え方を統制したくてしょうがないのだ。常に、時の為政者にとって操りやすい従順な国民精神がお望みなのだから。

主権者である国民に対して、下僕たる国家が「国民よ、私を愛せ」と命令し強制することができるわけがない。国旗・国歌(日の丸・君が代)は、「国家の象徴」なのだから、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とは、国民に対して国家に敬意を表明するよう強制していることなのだ。この強制は、戦前のあの暗い時代の記憶を呼びさます。

15年前までは、都立校は「都立の自由」を誇りにしていた。自由とは何よりも、国家や東京都の強制からの自由のことだ。都立の自由は、「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」という強制を許さなかった。その事態を変えたのが、石原慎太郎という、あの都知事だった。その知事の時代に都教委が全都の教職員に「日の丸・君が代」への敬意表明の強制を命じた文書が「10・23通達」である。

いま都内の全公立校では「10・23通達」が猛威を振るっている。卒業式や入学式の直前に、各校長から全教職員に対して「起立・斉唱」を強制する文書による職務命令が発せられている。信じがたい光景ではないか。そして、教師としての信念において、自分の信ずる宗教の教義において、また「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史に鑑みて、どうしても起立・斉唱の強制に応じられないとする教員が懲戒処分とされているのだ。

悪名高い10・23通達後の懲戒処分件数は、既に延べ481件に達している。その処分取消を求める訴訟が数多く提起され、最高裁・高裁・地裁で確定した処分取消の件数(都教委敗訴確定)が73件・63名という大きな数に上っている。そしていま裁判途中の教員が、デモを呼びかけているのだ。その名も、リバティ・デモである。

この不自由な世で、自由を求めるデモである。ニギニギしく、楽しく、のびのびとやりたいものだ。是非、多くの方にご参加をお願いしたい。ついでに、私の話もお聞きいただけたら、とてもありがたい。
(2018年5月27日)

都教委に大きな衝撃 ― 東京「君が代裁判」4次訴訟・控訴審判決

本日(4月18日)13時15分。傍聴満席の東京高裁824号法廷で、第12民事部(杉原則彦裁判長)が、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決を言い渡した。

裁判長はボソボソと判決主文だけを読み上げて退廷した。
1 1審原告らの本件各控訴、及び1審被告の本件控訴をいずれも棄却する。
2 1審原告らの控訴費用は1審原告らの、1審被告の控訴費用は1審被告の各負担とする。
この間、20秒足らず。あっけなく控訴審は終わった。

判決主文がいう「1審原告ら」とは、学校式典の君が代斉唱時に起立しなかったとして懲戒処分を受けた13名の都立校教員。そして「1審被告」とは、処分をした東京都(教育委員会)である。双方とも、昨年(2017年)9月15日の東京地裁1審判決に服しがたいとして、控訴審の判断を仰いだが、当事者双方の控訴が棄却され、一審判決の判断が維持された。

多少の期待をもっていたから、当方にとっても残念な判決。最高裁判決の下級審裁判所にたいする縛りの硬さを再確認する結果となった。しかし、東京都(教育委員会)にとっては、教員側と比較して、はるかに大きな負のインパクトをもつ判決となったはずだ。形は双方の痛み分けのようだが、都教委の側の傷がはるかに大きくて深い。

本件は、「君が代」不起立の教員に対する懲戒処分の違法を争う事件。地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原審の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりであった。

停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計           14名 19件

1審係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)。そこで言いわたされた判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは、実はたいしたことというべきなのだ。しかし、一方同判決は戒告処分(9名についての12件)については、いずれも違憲違法との主張を否定して処分を取り消さなかった。

原告側は主として戒告処分の取消請求が棄却されたことを不服として控訴した。減給・停職の処分を受けて処分取消しの勝訴となった者も、慰謝料の支払いが棄却されたことを不服とする控訴を行った。(お一人が控訴を断念して、1審原告側控訴人は13名となった。)

被告(都教委)側は、敗訴の判決で取り消された処分7件のうち、5件については控訴をあきらめた。そして、残る2件についてだけ控訴した。被控訴人は2件ともQ教員である。

Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
2回目不起立 戒告
3回目不起立 戒告
4回目不起立 減給10分1・1月
5回目不起立 減給10分1・1月

公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。

1審判決は、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。

まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」

1審判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。

「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」

つまり、減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
(1)自らの信条等に基づくものであること、
(2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
ということを考えたら、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。

原判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。だから、我々にとっては、「中くらいの目出度さ」もある判決と評価した。

一方、都教委から見れば、原判決の衝撃は大きい。都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。

本日の東京高裁控訴審判決はこの、一審判決の判断を維持した点において、都教委にはさらに大きな衝撃を与えたことになる。

都教委は、再びの敗訴を恥じなければならない。思想・良心の侵害を反省しなければならない。教育の場に、国家主義やら愛国主義やらの偏頗なイデオロギーを持ち込むことを、きっぱりとやめなければならない。

以下は、控訴審判決を受けての原告団・弁護団声明である。

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?東京「君が代裁判」4次訴訟・控訴審判決を受けての声明

1 本日,東京高等裁判所第12民事部(杉原則彦裁判長)は,都立学校の教職員8名に対する卒業式・入学式の国歌斉唱時の起立斉唱の強制にかかわる懲戒処分(戒告処分10件,減給10分の1・1月2件)の取消しを求めていた事件について,一審原告1名に対する原審における減給10分の1・1月の処分の取消を維持して東京都の控訴を棄却し,他方で「戒告処分」については裁量権の逸脱・濫用には当たらないとした原審を維持し,一審原告ら教職員の控訴を棄却する判決を言い渡した。

2 本件は,東京都教育委員会(都教委)が,2003年10月23日に「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」との通達(10・23通達)を発令し,全ての都立学校の校長に対し,教職員に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出すことを強制し,さらに,国歌の起立斉唱命令に違反した教職員に対して懲戒処分を科すことで,教職員らに対して国歌の起立斉唱の義務付けを押し進める中で起きた事件である。
一審原告らは,自己の歴史観・人生観・宗教観等や長年の教育経験などから,国歌の起立斉唱は,国家に対して敬意を表する態度を示すことであり,教育の場で画一的に国家への敬意を表す態度を強制されることは,教育の本質に反し,許されないという思いから,校長の職務命令に従って国歌を起立斉唱することが出来なかったものである。このような教職員に対し,都教委は,起立斉唱命令に従わなかったことだけを理由として戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。
なお,このような懲戒処分は,毎年,卒業式・入学式のたびに繰り返され,10・23通達以降,本日まで,職務命令違反として懲戒処分が科された教職員は,のべ480名余にのぼる。この国歌の起立斉唱の強制のための懲戒処分について,2012年1月16日,最高裁判所第一小法廷は,懲戒処分のうち「戒告」は裁量権の逸脱・濫用とまではいえないものの,「減給」以上の処分は相当性がなく社会観念上著しく妥当を欠き,裁量権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示していた。

3 上記最高裁判決以降,都教委は3回目の不起立までを戒告とし4回目以降の不起立に対して減給処分とする取り扱いをしてきた。本判決は,4回目・5回目の不起立に対する減給処分を「減給以上の処分の相当性を基礎づける具体的な事情は認められない」として取り消した原判決に対する都の控訴を棄却したものである。
本判決は,不起立の回数が減給処分の相当性を基礎づける具体的な事情には当たらないとの判断を示したものであって,回数のみを理由とした処分の加重を否定したものである,本判決が,最高裁判決そして原判決に引き続き,都教委の過重な処分体制を厳しく戒め,その暴走に歯止めをかける判断として評価できる。

4 しかしながら,国歌の起立斉唱の強制が違憲・違法であるとの一審原告ら教職員の主張については原判決を維持しこれを認めなかった。さらに,処分が取り消された一審原告ら教職員の精神的苦痛は慰謝されるとして賠償請求を棄却した原判決を維持した。
控訴審において一審原告らは,国歌の起立斉唱行為について「儀式的行事における儀礼的所作」であって,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものではないとする一連の最高裁判決が,儀式・儀礼は宗教性と無縁ではなく,それが強制されるとき,個人の思想・良心・信仰と緊張関係を持つことを看過したものであることを論じ,さらに宗教学の研究者の証言により最高裁判決の誤りを明らかにしようと努めてきた。
にもかかわらず,裁判所が,証人を採用することなく1回の口頭弁論で結審して,従前の最高裁判決に漫然と従った本判決に至ったことは,十分な審理を尽くさず,事案の本質を見誤ったまま判決を下したものであって,控訴審の役割を放棄したものであって到底受け容れることはできない。

5 都教委は,この司法判断を踏まえて「国旗・国歌強制システム」を見直し,教職員に下した全ての懲戒処分を撤回するとともに,将来にわたって一切の「国旗・国歌」に関する職務命令による懲戒処分及びそれを理由とした服務事故再発防止研修を直ちにやめるべきである。
特に,都教委は,先行する訴訟において処分の取消しを命じる司法判断が確定した現職の教職員に対して,再度,同一の職務命令違反の事実について懲戒処分を科してきたが,都教委がした違法な懲戒処分が取り消された事実を重く受け止め,原告らに対して重ねての懲戒処分はやめるべきである。
わたしたちは,本判決を機会に,都教委による「国旗・国歌」強制を撤廃させ,児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための闘いにまい進する決意であることを改めてここに宣言する。
この判決を機会に,教育現場での「国旗・国歌」の強制に反対するわたしたちの訴えに対し,皆様のご支援をぜひともいただきたく,広く呼びかける次第である。

2018年4月18日
東京「君が代」裁判4次訴訟原告団・弁護団

皆さん、これが有名になった、釜山の「少女像」です。

日本領事館の正門側にあると思っている方が多いようですが、このとおり、領事館の裏側になります。この歩道に面した高い擁壁の上が領事館の裏庭です。いま、桜が満開ですね。あっ、桜の木の陰に隠れて領事館員がカメラで皆さんを見下ろして、写真を撮りましたね。そして直ぐに隠れました。皆さん、注目されているようですね。

この少女像の髪形は、当時の女性の短髪ですが、こんなに短くなっているのは、家族や社会から縁を切られたという悲しみを表現したものだそうです。また、靴がなく裸足で、しかも踵が浮いていますね。歩いて行く宛のない、不安定な気持と立場を象徴していると聞いています。となりには、椅子があります。力を貸してくれる方、寄り添っていただける方にお座りいたくための椅子です。どうぞ、あなたもこの椅子に座って写真を撮ってください。

ソウルに続いて、釜山のこの少女像が大変有名なりましたが、この像は全国にどんどん増えていますから、いくつあるのか誰も正確には分からないじゃないですか。国内だけで100近く。アメリカやヨーロッパなど、外国にもいくつかできていますよね。

2015年12月の日韓合意で、「韓国政府はこの少女像を撤去しなければならない」とされたようですが、それはもう絶対に無理なことですね。日本の安倍さんたちが韓国の政府に、「この像を撤去しなさい」と言えば言うほど、像の数は増えることになると思いますよ。

私思うんです。人間って、面白いもんですね。ああしろ、こうしろと、押しつけられれば、却って反発するじゃないですか。激しく燃え上がるじゃないですか。ロミオとジュリエットだって、両家に反対されたから、あんなに燃え上がったじゃないですか。

日本の安倍さんが、「国家と国家の約束を守りなさい」とか、「約束だから像を撤去しなさい」なんて言うのは、ますます韓国の人々を刺激するだけですね。何にも言わず、じっとしているのが、安倍さんにとっては、一番いい方法じゃないですか。どうして、そんなことが分からないですかね。

また安倍さんが何か言ったり、何かしたりすればですよ。その都度に「なぜ、こんな像が造られたのか」「こんな像を造らなければならない理由は何だったのか」と、韓国のみんなが、また改めて思い出すことになるじゃないですか。

あっ、韓国のポリスが2人出てきましたね。さっき上から皆さんの写真を撮っていた領事館員が通報して、ポリスが出てきたんですよ。皆さん、やっぱり注目されているんですね。
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4泊5日の韓国ピースツアーを昨夕で終えた。
韓国民衆のさまざまな運動を垣間見てきた。その熱気の一端に触れて、もらった熱い思いが冷めやらない。韓国の運動から、枯渇しかかっていたエネルギーの補充を受けた感がある。どこの運動にも、さまざまな歌と踊りがあった。ともに唱い踊ることで、自分を励まし連帯を確認するのだ。その歌と踊りが、底抜けに楽天的なことが、印象に残った。追々、当ブロクに韓国市民運動見聞録を掲載したいと思う。

上記は、釜山領事館の「少女像」についての、ガイドの解説の概要。軽妙で洒脱な日本語の語り口を堪能した。この「テーマのある旅」の充実度を決定する要素の半分は企画の出来具合で、あとの半分は現地ガイドの能力といってよい。韓国本土を担当したこの旅のガイドの通訳能力だけでなく、社会や政治の論評の確かさに脱帽した。

この旅行の企画は、ユーラスツアーズ
http://www.euras.co.jp/
http://www.euras.co.jp/tour/korea-peacetour2018/

もともとは、「旧ソ連・ロシアへの旅行、留学に特化したサービスで57年以上の実績」という旅行社で、「ロシア旅行を知り尽くした当社だけが出来る”わがままツアー”を実現します」と、ロシア旅行が専門だが、ヨーロッパも、中東も、中国も韓国もベトナムのツアーも企画している。

現地の運動体との連絡や交流の設定は難事だと思うがよくやってくれたと思う。そして得がたい現地ガイドも、この旅行社を通じて依頼できる。観光旅行ではない、テーマのある旅行を望む方にお薦め。

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旅を終えて、日常が戻ってきた。

本日(3月31日)は、都立学校教員らの「日の丸・君が代」強制問題についての、卒業式総決起集会。そこで、「憲法的価値の根源は個人の尊厳であって、国家ではない」「個人のために国家があるのであって、国家のために個人があるのではない」「にもかかわらず、国民個人に対して、国家の象徴である『国旗・国歌(日の丸・君が代)』に敬意表明を強制できるはずはない」と発言。

夕刻は、加藤良雄著「学校がキライな君へ」の出版記念会。

加藤さんは、東京「君が代」裁判・第4次訴訟の原告団代表。定時制高校勤務時代の生徒との交流を語り、その生徒との関わりが、生徒の卒業後も加藤さんが定年退職後も連綿と続くことに驚く。その本の帯に「先生の生徒で本当によかった」というある生徒からのメールの一節が記されている。この一言、教師の勲章と言ってよい。

「学校というものの存在価値の根源は生徒の学ぶ権利であって、経営主体ではない」「生徒のために学校があるのであって、学校のために生徒があるのではない」「だから、生徒に対して、学校の都合を押しつけてはならない」

私も、学校が好きではなかった。今にして思えば、その理由は束にされて扱われることに抵抗感があったからだ。

この著書に表れた教師・加藤良雄の、手のかかる生徒に対する向き合い方は、なかなかできることではない。束にしたクラスを相手にするのではなく、一人ひとりの生徒の人格に向きあう。その実践記録である。定時制とは、こうも個性にあふれた生徒を擁しているのだ。

「日の丸・君が代」強制に服することができないという教師には、このような真面目な教育実践をしている人が多いのだ。でもしかの教師には「日の丸・君が代」強制に服従しがたいという動機があり得ない。もちろん、訴訟にはこの書物を丸ごと書証として提出している。
(2018年3月31日)

これが、教育行政のやることか。都教委の再処分に抗議する。

 一昨日(2月21日)のこと、悪名高い都教委は「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制に服しがたいとした教員2名に、またまたの懲戒処分(戒告)を発令した。これで、「10・23通達」に基づく「不起立懲戒処分」は、延べ482件となった。

今は卒業式直前の時期、入学式も2か月先のことだ。この懲戒処分は、今年の学校行事に関してのものではない。実は昨年のことでも一昨年のことでもなく、驚くべきことだが、2009年と10年の卒業式における不起立が処分理由とされているのだ。8年前と9年前のことが今頃なぜ?

都教委の説明は以下のとおりだ。
「本件服務事故については、平成29年(2017年のこと。つまり昨年?澤藤註)9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。」

何を白々しい。正確にこういうべきなのだ。
「東京都教育委員会は、国家あっての個人という国家主義理念を徹底すること、また明治維新以来天皇制国家が進めた富国強兵の対外膨張政策の歴史的正当性を堅持することこそが都立学校の基本的な教育理念であり、都立校の教員にはこのような国家主義と大日本帝国憲法的歴史観にもとづく教育を積極的に推進する『正しい』思想の持ち主でなくてはならない。当教育委員会としては、かねてからこのような人事方針を明確にしてきたところであり、その見地から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明は極めて重要な集団儀礼として、これを強制してきた。この当教育委員会の施策は、政権政党である自由民主党の政策とも一致するものとして妥当と考えるべきである。
 都立校の教員には、このような都教委の思想と教育方針を受容するか、少なくとも面従腹背すべきことが求められるのであって、不幸にして面従腹背をなしえないという教員には、思想的な転向をしてもらわねばならない。このことは、国家観や、歴史観、教育観においてのことのみならず、自己の信仰上の理由から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意は表明しがたいとする者も当然に包含されるものである。
 そのため、当初当教育委員会は、不起立1回なら戒告とするが、2回目には減給1月の処分とし、3回目には減給6月、そして4回目には停職1月と処分量定を累進加重し、7回目には懲戒免職として、思想の転向ない限り当該教員を教育現場から追放することを企図していた。
 ところが、裁判所の判断がこれに横槍を入れ、最高裁も戒告はともかく減給以上は懲戒権の濫用として取り消しを命じるという、思いがけない事態となった。教員らが、いみじくも名付けた「転向強制システム」が崩壊したのだ。
 本件の2名の教員もその一場面なのだ。この2名には、当初減給1月と減給6月の各懲戒処分を発令したものであるが、人事委員会の口頭審理を経て行政訴訟に至り、平成29年(2017年のこと。つまり昨年?澤藤註)9月15日の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分を違法として取り消す判決が言い渡され、当教育委員会が控訴を断念したことから各処分の取消しが確定した。なお、同日の判決では6名・7件の減給・停職処分が取り消され、その内5名・5件の処分取り消しが確定している。
 これに対して、当然のことながら、各当事者からは過酷で違法な処分をしたことに対して教育委員会は謝罪すべきだという強い要請があったが、当教育委員会はこれを突っぱねて謝罪を拒絶し、在職教員2名について再処分に及んだものである。残念ながら、減給は取り消されたものの、戒告であれば裁判所も容認してくれるはずと考えている。
 当該教員らは、再び人事委員会の口頭審理を経て処分取消訴訟に至ることになって、過重な労力や時間あるいは費用負担を強いられることになると抗議を寄せているが、当教育委員会の知ったことではない。当教育委員会としては税金をもって争訟の費用をまかなうのであるから、闘争資金も労力も無尽蔵で痛くも痒くもないことを付言しておきたい。
 最後に、当教育委員会はこれまでどおり、国家主義にもとづく愛国教育の一環として国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を貫徹することで、自民党や右翼の皆様のご期待に応える所存であることを申し添える。」
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平成30年2月21日

教   育   庁

卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について

東京都立学校で実施された卒業式において、一部の学校で服務事故が発生したことに伴い、以下のとおり教員の懲戒処分を行ったので、お知らせします。

1 処分の事由
平成21年度及び平成22年度に実施された卒業式において、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し斉唱することを校長から職務命令として命じられていたにもかかわらず、起立せず職務命令に違反した。

2 処分の内容
職務命令違反を行った教員について、地方公務員法に基づく懲戒処分を行った。
処分の程度?? 戒告
該当者数? 2校 2名
学校名(当時)
都立○○○○高等学校
都立○○○高等学校

3 発令年月日
平成30年2月21日

4 その他
本件服務事故については、平成29年9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。

【問合せ先】
東京都教育庁人事部職員課 電話03-5320-6798(直通)

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「日の丸・君が代」強制・再処分に抗議する声明

 東京都教育委員会(都教委)は、私たちの「『再処分』を行わないこと」を求める申し入れ(2017年11月15日、2018年1月26日)にもかかわらず、東京地方裁判所(東京地裁)で減給処分を取り消された現職の都立高校教員2名に対して7年前、8年前の事案で、新たに戒告処分を出し直すこと(再処分)を決定し、2月21日付で処分発令を強行した。これにより「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく懲戒処分の数は延べ482名となった。

東京地裁は2017年9月15日、2010年?2013年に都教委が行った減給・停職処分6名・7件が「裁量権の逸脱・濫用」で「違法」として取り消した。都教委はこのうち1名・2件の減給処分取消のみを不服として控訴し、他の5名・5件の減給・停職処分取消については判決を受け入れ控訴を断念し、処分取消が確定した。
しかし都教委は、違法な処分をしたことを反省もせず、該当者に謝罪するどころか現職の都立高校教員2名に改めて戒告処分を出し直した(再処分をした)のである。私たちは、この暴挙に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。

周知のように、2012年1月16日の最高裁判決は、起立斉唱・ピアノ伴奏を命ずる職務命令が「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、減給以上の処分については、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」で「処分が重きに失し、社会観念上著しく妥当を欠き、懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給・停職の懲戒処分を取り消した。その後の最高裁、東京高裁、東京地裁の各判決もこれを踏襲して73件・63名の減給・停職処分を取り消した。

今回の再処分は、減給処分を違法としたこれらの司法の判断を重く受け止めるどころか、その趣旨を無視して、新たに戒告処分を出し直すことで教職員を萎縮させ「屈服」させようとする都教委の異常な「暴力的体質」を改めて露呈した。
今都教委のなすべきことは、東京地裁判決を謙虚に受け止め、違法な処分により筆舌に尽くしがたい精神的、経済的損害を被った被処分者への謝罪と名誉回復・権利回復を早急に行うことである。また、司法により違法とされた処分を行った組織の在り方を点検し、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講ずるとともに、10・23通達に基づく校長の職務命令、懲戒処分、再発防止研修など「日の丸・君が代」強制の一連の施策を抜本的に見直し、反省することである。

私たち被処分者の会・原告団と弁護団は、これまで何度となく、都教育委員会及び教育庁関係部署との話し合いを求めてきた。にもかかわらず都教委は、最高裁判決の補足意見が求めている原告団・弁護団との「話し合い」を拒否して問題解決のための努力を放棄する不誠実な対応に終始している。それどころか、司法の判断をもないがしろにして、処分を乱発しているのである。

私たちは、東京の異常な権力的教育行政の抜本的転換を求めると共に、自由で民主的な教育をよみがえらせるために、「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回まで闘い抜く決意である。「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!

2018年2月21日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会・東京「君が代」が代」裁判原告団

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◆かくも不当な再処分を許さないために、戒告処分の取り消しと損害賠償を求めて粘り強く闘っています。東京高裁判決に何としても勝利するため傍聴支援をお願いします。

◆東京「君が代」裁判第四次訴訟・控訴審判決
?いよいよ判決です。こぞって傍聴に来てください。
4月18日(水)13時15分 東京高裁824号法廷

(2018年2月23日)

「国旗・国歌」と「日の丸・君が代」と ― 違憲論における異なる位置づけ。

東京「君が代」裁判・第4次訴訟控訴審の始まりに際して、一審原告らの代理人澤藤から、一言申しあげます。

本件は、公権力が教育者である公務員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制し、これに服することができない者を懲戒処分にしたという乱暴きわまる事案です。
一審原告ら各教員は、公権力によるこのような強制も処分も、日本国憲法の許すところではないと確信して、何よりも違憲の判断を裁判所に求めてまいりました。裁判官のみなさまには、この原告らの思いを、つまりは日本国憲法と日本国憲法の砦である裁判所への信頼を裏切ることのないように、ぜひよろしくお願いします。

あまりに大きな問題を引き起こした都教委の「10・23通達」の発出が2003年10月です。この通達に基づく職務命令に従う義務のないことの確認を求める通称「予防訴訟」、国歌斉唱義務不存在確認請求訴訟と事件名を付した400人の大型無名抗告訴訟の第1陣提訴が2004年の1月でした。以来、14年にもなります。この14年間多くの教員が良心を鞭打たれる立場に立たされ、良心を貫いたことに対する苛酷な制裁を受け続けてまいりました。この14年間の法廷で、教員らは何を主張し何を争ってきたのか、その概要をご理解いただきたいと思います。

いうまでもなく国旗・国歌は、国家の象徴です。ですから、国民は国旗国歌を通して実は国家と向きあうのです。国旗国歌への敬意表明の強制とは、とりもなおさず、国民と国家が向きあう関係において、国家が国民に対して、国家の価値的優越を認めよと強制している構図なのです。近代立憲主義に則って制定されている日本国憲法の大原則は、個人主義・自由主義にほかなりません。個人の尊厳こそが、国家に優越する根源的価値であることは自明ではありませんか。そもそも、公権力には、いかなる国民に対しても、国家に敬意を払えと命令し強制する権限などないのです。

また、「日の丸・君が代」とは、戦前の神権天皇制の国家体制とあまりに深く結びついた歴史を背負っている旗と歌です。この否定しえない歴史的事実の記憶はまだ生々しくこの社会に生きています。世代を超えた、その記憶承継の努力も続けられています。そして日本国憲法は、「日の丸・君が代」が象徴する旧体制に対する深刻な反省から、その理念における対立物として生まれました。
 「日の丸・君が代」が深く結びついていた国家体制の理念とは、国家至上主義・天皇主権・皇統の神聖・天皇崇敬・軍国主義・侵略主義・植民地主義・人権の軽視・差別主義・全体主義・家制度と女性差別・中央集権…等々であって、いわば日本国憲法の価値的対立物の象徴と見うるものと言わざるを得ません。さらに、「日の丸・君が代」は、国家神道の宗教的シンボルでもありました。「日の丸」とは天皇の祖先神アマテラスの象形であり、「君が代」とは神なる皇統の永遠を願う祝祭歌でした。ですから、日本国憲法をこよなく大切に思う立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制には応じがたいとする原告ら教員の思想・信条・信仰・良心には、大いに理解すべきところがあるといわねばなりません。憲法19条・20条がこのような精神的自由を保障していることは明らかではありませんか。

にもかかわらず、処分の違憲性を認めなかった原判決と一連の最高裁判決にどうしても納得できません。とりわけ、なんの根拠を示すこともなく、卒業式等の儀式における国歌の起立斉唱行為について「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」と断定して、それゆえに、「かかる行為を強制することが思想良心の自由を直ちに制約するものではない」という非論理的な結論には、なんの説得力もありません。
儀式的行事における儀礼的所作とは、宗教にその典型を見ることができるものです。また、戦前の国家神道と密接に結びついた天皇崇敬行事もこれにあたるものなのです。さらに、宗教的にはまったく無色でも、集団的な儀式的行事における儀礼的所作の強制が、特定の思想を成員に刷り込む効果をもつことはよく知られているところです。国民精神の統一のために、集団的な儀式や儀礼を意図的に活用したのは、第三帝国のナチスだったではありませんか。

このことについて、一審原告らは宗教学界の第一人者というべき島薗進氏(東大名誉教授)の意見書(甲A374)を提出し、さらにその人証の申し出をしています。現在行われている卒業式等での「国歌斉唱」の強制が、いかなる政治的宗教的意味をもっているのか、また、教員と生徒たちの精神の自由をいかに蝕んでいるのか。是非とも、証人として採用のうえ、その説示に耳を傾けていただくよう、是非よろしくお願いいたします。
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本日午前10時の高裁824号法廷。この事件の係属裁判所は、東京高等裁判所第12民事部。先日、自衛官の安保法制違憲訴訟(出動命令服従義務不存在確認請求訴訟)で、原告敗訴判決を取り消して地裁に差し戻した杉原則彦裁判長の裁判体。

当事者(現職教員)2名と代理人弁護士2名の意見陳述はなかなかに聞かせる内容だった。裁判官は3名とも、熱心に真面目に耳を傾けている風だった。ところが、思いがけないことが起こった。島薗進氏の人証申請に関しては、「意見書はよく読ましていただきました。人証の採用までの必要はないと考え申請は却下します」「これで結審…」。

「それはなかろう」「納得できる裁判をお願いしたい。納得とは、判決内容だけではない。当事者にとって、裁判所がよく耳を傾けてくれたという手続的な納得が必要だ」「もっと、主張挙証の機会をいただきたい」と意見は言ったが、裁判長は「合議します」といったん退廷。再開廷して「やはり、これで結審し、判決言い渡しは4月18日午後1時15分」とだけ言って退廷した。

それ以来、今日はモヤモヤの気分のままだ。
(2018年2月7日)

「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況

なんともお寒い晩ですが、こんな日に雪の残る悪路を踏み分けて「『日の丸・君が代』強制に反対!板橋のつどい・18」に足を運んでいただき、まことにありがとうございます。本日は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟から見える憲法状況というタイトルで、1時間余のお話しをさせていただきます。

はじめに、「日本国憲法が危ない」ということについて認識を共有していただき、次いで「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と現在の課題を確認し、そこから見えてくる自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)の問題点や、天皇退位と「明治150年」問題、そして最後に「アベ9条改憲問題」との関わりについて触れたいと思います。

まず申しあげなければならないのは、いま憲法は危機にあると言うことです。とりわけ、9条が、つまりは平和主義が危ないということです。

これまでも、度々憲法は危機にあると言われてまいりました。自民党は、立党以来自主憲法制定を党是とする改憲指向政党です。政権与党が改憲指向政党なのですから、これまでも憲法は、恒常的に危機にあったとはいえるでしょう。しかし、今日のように具体的な改憲スケジュールが提示されたことは、かつてなかったことです。

今、国民投票法があり、それに伴う国会法も整備され、憲法改正案を作成し国民投票を発議する手続は調っています。しかも、衆参両院とも、改憲勢力が議席数の3分の2を超えています。改憲勢力は今がチャンスと意気込んでいるのです。

いま、アベ晋三は9条改憲案を提示しています。憲法の遵守に、最も忠実でなくてはならない人物が、憲法の攻撃に最も前のめりになっています。2017年5月3日、アベは右翼の改憲集会にビデオ・メッセージを送り、9条改憲を提案しました。9条の1項と2項はそのままとして、第3項を加えることで「憲法に自衛隊を明記する」という、「加憲的9条改憲案」です。

12月22日には、自民党は正式に改憲案の整理を行いました。そのとりまとめでは4項目についての改憲案が提示され、そのうち9条改正については2案が併記されています。2案の違いは、9条2項を残すか削除するかの点。2項を残すアベ9条改憲案は、対案と比較してマイルドに見える仕掛けとなっています。

この提案には、種本があります。右翼のシンクタンク日本政策研究センターの機関誌「明日への選択」16年9月号の伊藤哲夫論文。この日本会議常任理事という肩書を持つ人物が、加憲的9条改憲案の発案者です。

彼は、「加憲」を「あくまでも現在の国民世論の現実を踏まえた苦肉の提案でもある」「まずはかかる道で『普通の国家』になることをめざし、その上でいつの日か、真の『日本』にもなっていくということだ」と、現実主義の見地からの妥協案であるとしていますが、実はそれだけではない。彼は、その狙いが「護憲派の分断」にあると明言しています。

自衛隊違憲論者と、専守防衛に徹する限り自衛隊は合憲であると考える勢力の間に楔を打って分断するのだというのです。アベは、これに乗ったわけです。この点の警戒が重要だと思います。

本年1月4日、アベは伊勢神宮での記者会見の年頭所感で改憲に意欲を見せ、1月22日の施政方針演説でも、改憲の論議を活発にと言っています。3月25日の自民党大会には両案併記だった9条改憲案を党内で一本化し、改憲諸政党(公・維・希)と摺り合わせて、今国会中に改正原案を作成し、国会に改正原案発議をすることになります。

衆院には100人の賛成を付すことで、『改正原案』が発議されます。本会議で趣旨説明のあと、衆院の憲法審査会の審議に付され、過半数の賛成で本会議に報告となり、本会議で3分の2以上の賛成で衆院を通過し、参院に送られます。同じ手続を経て参院も3分の2以上の賛成で通過すると、改正原案は国会の『憲法改正案』となって発議されて、国民投票にかけられることになります。国民投票運動期間として、60日?180日が設定されて、国民投票での過半数の賛成で憲法改正が成立することになります。

しかし、実はこのスケジュールは極めてタイトだと言わざるを得ません。2019年の後半には、重要な政治日程が立て込んでいます。元号・退位・即位の礼・大嘗祭・参院選・消費税値上げなど。とすれば、勝負は今年ということになります。改憲勢力としては、来年4月頃までに国民投票の実施に漕ぎつけたいところ。

今、超党派で提起されている「9条改憲阻止の3000万署名」の成否が鍵となります。改憲にこだわっていたのでは、参院選には勝てないという空気を作り出さねばなりません。

そして、来年の参院選では、改憲反対を掲げる野党の共闘によって改憲勢力を3分の2以下に落とすことは、前回参院選の結果から見て十分に可能だと思われます。

そのような憲法情勢を念頭に、「日の丸・君が代」強制問題から見えてくるものをお話ししたいと思います。

第1は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の到達点と課題です。
私は、次のように、訴訟の時期の区分ができると思っています。
1 高揚期(予防訴訟の提訴?難波判決)
※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
2 受難期(最高裁ピアノ判決?)
※ピアノ伴奏強制事件の最高裁合憲判決(07年2月)
⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
3 回復・安定期(大橋判決?)
※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
君が代裁判3次訴訟最高裁判決(16年7月)
間接制約論(その積極面と消極面)
*「間接」にもせよ、思想・良心に対する制約と認めたこと
*2名の裁判官の反対意見(違憲判断) とりわけ宮川意見の存在
*多数裁判官の補足意見における都教委批判

残念ながら、「10・23通達」や懲戒処分の違憲判断は回避され、戒告処分の違法性は否定されました。他方、 減給・停職は裁量権濫用として違法とされ、裁判による取消が定着しています。これによって、当初石原教育行政がたくらんだ累積加重システムは破綻し、教員の抵抗は続いています。

訴訟が抱えている現在の課題について一言します。
第4次訴訟では、17年9月に一審判決があり、間もなく18年2月に控訴審第1回期日を迎えようとしています。
そこで、違憲判決を勝ち取る努力を続けています。
間接強制論は、国旗国歌への起立斉唱を、「儀式的行事における儀礼的所作」に過ぎないから、「思想良心への直接制約に該らない」といいます。しかし、果たしてそうでしょうか。今、権威ある宗教学者の助力を得て、「儀式的行事における儀礼的所作」が思想・良心の自由をいかに傷つけることになるかの意見書をまとめていただきました。近々、裁判所に提出し、これを基軸に判例を批判し違憲論を展開したいと考えています。

違憲論以外にも課題は山積しています。最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を求めなければなりませんし、国際人権論からのアプローチも必要です。

そして、石原や小池のような右翼に都政を任せるのではなく、都政を都民の手に取り戻して、憲法の生きる都政を実現する運動が不可欠だと痛感しています。

第2 自民党改憲案(「日本国憲法改正草案」)との関わり

2012年4月の自民党改憲案は、かなりの程度にまで、自民党のホンネを語るものとなっています。その自民党改憲案第3条は、「(国旗及び国歌)とされ、
第1項 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
第2項 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。と明記されています。

自民党の公式解説(Q&A)では、さらに次のようになっています。
「我が国の国旗及び国歌については、既に「国旗及び国歌に関する法律」によって規定されていますが、国旗・国歌は一般に国家を表象的に示すいわば「シンボル」であり、また、国旗・国歌をめぐって教育現場で混乱が起きていることを踏まえ、3条に明文の規定を置くこととしました。
当初案は、国旗及び国歌を「日本国の表象」とし、具体的には法律の規定に委ねることとしていました。しかし、我々がいつも「日の丸」と呼んでいる「日章旗」と「君が代」は不変のものであり、具体的に固有名詞で規定しても良いとの意見が大勢を占めました
また、3条2項に、国民は国旗及び国歌を尊重しなければならないとの規定を置きましたが、国旗及び国歌を国民が尊重すべきであることは当然のことであり、これによって国民に新たな義務が生ずるものとは考えていません。

国旗国歌法には盛りこむことができなかった国旗国歌(日の丸君が代)尊重の義務を憲法に書き込もうというのが、自民党のホンネなのです。
ここに見えるものは、「国権」と「人権」の相克における、国権至上主義にほかなりません。

そもそも、日本国憲法否定の「自主憲法の制定」が自民党本来の党是であり使命とされています。これを正直に述べた改憲草案こそがアベ自民のホンネ。石原・小池ら右翼のホンネでもあります。自民党の人権なし崩し策動に、一歩の譲歩も許してはならないと思っています。「日の丸・君が代」強制に対するたたかいは、そのような改憲勢力のホンネとの切り結ぶ局面だと思っています。

 

第3 天皇退位と明治150年
「日の丸」も「君が代」も、天皇制とあまりに深く結びついた歴史をもっています。否定されたはずの、天皇の権力や権威が再び利用されようとしている今、「日の丸・君が代」強制への闘いは新たな意味を持つに至っています。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。」

第4 アベ9条改憲問題との関わり
教育における国旗・国歌の強制とは、国家と国民の対峙の場において、国家の存在が国民の人権に優越するという全体主義思想の表れです。また、「日の丸・君が代」の強制とは、歴史的に國體思想(天皇崇敬)に無反省な公権力の行使として許されることではありません。

戦前の「日の丸・君が代」強制は、とりわけ戦時色が強くなって以来、学校と軍隊とで忠君愛国が強調され、「日の丸・君が代」は愛国のシンボルとなりました。

愛国心教育や民族差別教育とは、戦争をしようという国の常套手段です。「戦争は教場から始まる」という名言を今再度噛みしめなければなりません。戦争の歴史とあまりに深く結びついたこの旗と歌、その押しつけを許さないという抵抗は、アベ9条改憲への反対と通底するものがあるはずだと思います。

(2018年1月27日)

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」

一昨日(1月8日)の毎日新聞朝刊一面トップが、「山梨の国有地 日本航空学園に格安売却 評価の8分の1 財務省」という大見出しの記事。森友事件とよく似てはいるが、安倍政権との関係や、特定の政治家の介入は記事になっていない。格別に重要な記事とは思わなかった。印象は、「毎日のスクープだから扱いが大きいのだろう」「政権側からすれば、森友への国有地売却が特異な事例ではない、と言い訳に使うのだろうな」という程度。

毎日の視点も、政治との関わりではなかった。財務省(理財局)による国有地管理の杜撰さを問題にする内容だった。

「山梨県内の国有地を地元の学校法人が約50年無断で使い続け、管理する財務省関東財務局が把握しながら放置した末、2016年5月に評価額の8分の1で売却していたことが明らかになった。国は学校法人「森友学園」への国有地売却問題を機に国有財産の処分の適正化に着手したが、ずさんな管理と不透明な取引の実態が改めて浮かんだ」「日本航空学園に売られた土地は評価額の8分の1にまで割り引かれ、値引き幅は森友学園にも匹敵する。同省の幅広い裁量権を背景に、国民共有の財産が第三者のチェックを受けることなく、価格の妥当性を担保されないまま売り払われている実態が明らかになった」

ところが、その日(1月8日)の内に、リテラが追っかけ記事をアップした。これで、問題の風景がガラリと変わった。いつもながらのリテラの嗅覚の鋭さと筆の速さには脱帽するしかない。
http://lite-ra.com/2018/01/post-3725_2.html
リテラの記事のタイトルは、「何から何まで森友そっくり! 国有地疑惑の『日本航空学園』極右教育と安倍政権との関係」というもの。

小見出しに、「愛国心と国家防衛教育を謳う日本航空学園の極右ぶり」「日本航空学園と政治家の関係、安倍首相の盟友が理事、文科政務官が校長」など。これはただごとではない。

リテラの記事の一部を引用させていただく。
「じつはこの日本航空学園と森友学園にはもうひとつ共通点がある。それは、日本航空学園の理事長・梅沢重雄氏がゴリゴリの極右であるという点だ。たとえば、梅沢理事長は「日本文化チャンネル桜」の設立発起人に名を連ね、『日本航空学園アワー』なる番組が放送されていた。
さらに、『南京虐殺はなかった』などと主張する歴史修正本が国際的に問題となった元谷外志雄・アパグループ代表が塾長・最高顧問を務める『勝兵塾』にも、元文科大臣の馳浩議員や元航空幕僚長の田母神俊雄氏らとともに参加。…梅沢理事長はそこで『憲法についてのくだらない議論よりも教育勅語を教えることが必要』『我が国の伝統文化を教えれば10年後にはスムーズに憲法改正ができる』『国体をしっかり守りさえすれば憲法なんてどうでもいい』と話したという。」
「また、日本航空学園では、毎日の朝礼時には『君が代』とともに日の丸を掲揚、17時になると国旗降下をおこなうといい、梅沢理事長は〈この国旗掲揚と国旗降下のときは、学校中、教師も生徒も直立不動の姿勢で国旗に敬礼します。教師が会議中であっても、生徒がクラブ活動中であっても、そのときはいったん中断し、国旗に敬意を表するのです〉と胸を張っている。」「問題の国有地は、日本航空高等学校のキャンパス内だ。」「初代の義三氏による『航空教育を通して愛国の精神を培う』という建学の精神を、3代目の重雄理事長も継承しているというわけだ。」

もっとも、リテラも、米田建三・元内閣府副大臣や赤池誠章議員ら政治家の名前を挙げてはいるが、その廉価払い下げの具体的手口や、安倍政権との関わりを具体的に示し得てはいない。その記事の締め方は、「日本最大の極右団体のイベントにメッセージを寄せ、改憲をぶち上げるという前代未聞の総理大臣。その影響によって、安倍首相と同じ極右思想を掲げる団体は手厚い待遇が受けられる──。これはこの国が全体主義に近づいている証拠なのだろう。昭恵夫人の関与が決定的となっている森友問題と同じように、この日本航空学園への不当な取引にかんしても、背後関係の究明が待たれる。」となっているに過ぎない。

まさしく、背後関係に切り込むジャーナリズムの成果を今後に期待したいが、それにしても、この「学校」の異様さはただごとでない。

ゴリゴリの極右だという理事長・梅沢重雄が、日本航空学園のホームページにやたらに右翼思想を露わにしている。これが、たいへんな代物。安倍晋三の「云々(でんでん)」並みのレベルで、文章の修飾の技術に欠けるから、分かり易い点ではこの上ない。

「教育の淵源」という記事が、最もまとまっているもののようだが、かなり字数が多いので敬遠し、ブログとして31回にわたって連載された「教育勅語」解説を紹介したい。

ゴリゴリ極右・梅沢重雄が教育勅語を論じる基本姿勢は、以下の文章によくあらわれている。100年前の官製道徳を、今の世に語ることが恥だという感覚を欠如しているのだ。

「『教育勅語』は、今では時代遅れの教えであるなどという人がありますが、決してそうではなく、『教育勅語』で明治天皇がさとされた国民の本分は、昔も、今も、そして将来も変らず、永久に受けついて行かなければならない美しい道徳であり、国民の義務である、と仰せられているのであります。」

天皇の臣民などというと、時代遅れのように考える人があるかも知れませんが、日本の国体(くにがら)は万世一系の天皇をいただいていますから、天皇と国家とは一体でありますので、国民が天皇に忠実であることは、国家に対しても忠実な国民であるということです。だから立派な国民となるためには、皇室にも忠実でなければなりません。『教育勅語』は、忠孝の道からはじまって、国民の踏み行わねばならない本分を、いろいろとおさとしになったものでありますから、その教えを実行することが、立派な国民になることであります」

「前にも述べましたが、西洋や中国の歴史は、国民の皇帝に対する「反逆」の連続でありますが、日本の歴史は、このように天皇と、国民とが常に手をつなぎ合ってきた『君民一体』の伝統にかがやいています。戦前の『大日本帝国憲法』では、我が国は『万世一系の天皇が統治する』と定められていましたし、戦後の『日本国憲法』においても、『天皇は国民統合の象徴である』とされているのですから、わたくしたちは永久に天皇を中心とした、立派な国体を護持しなければなりません。

「『我カ臣民』というのは、『わが国民』と同じことで、天皇を中心とした日本の国体においては、君(天皇)と、臣(国民)とが一体であります。『克ク忠ニ』という『克ク』は『能ク』と同じ意味です。また『忠』というのは、天皇と国民が一体である美しい国がらにおいて、国民が天皇につくす道を『忠』というのですが、天皇は国民をわが子としてかわいがられ、また国民は天皇をわが親として尊敬するのですから『我カ臣民克ク忠ニ』というのは、『わが国民は立派に忠義をつくしてくれた』という、明治天皇の慈愛に満ちたお言葉であります。」

「外国の歴史を見ますと、皇帝は国民を苦しめ、国民は皇帝に反逆するという争いの連続でありますが、日本においては、天皇は日本民族の本家本元であり、国民はその分家という、切っても切れない深い血のつながりの中に、うるわしい天皇中心の日本の歴史と伝統があるのであります。

昔から日本国民は、ひとたび天皇の御命令が発せられると、みんなが一つ心になって仲良くとけ合ったり、力を合わせて団結したりして、日本の国を守ってきました。例えば、蒙古が中国を攻め取り、朝鮮半島の高麗国の軍隊をしたがえ、十数万の大軍をもって九州の博多湾に二度まで押し寄せましたが、その時の亀山上皇は、伊勢神宮にお参りになって、『身をもって困難に替えさせ給え』と天照大神の霊前にお祈りになり、また、国民もあらゆる困難に耐えて、敵軍を完全に追い払ってしまったことなどは、そのよい一例といえましょう。」

国民が常に、天皇のもとに一つ心になり、忠孝の道を、わが国の美風として守り、育ててきたのは、他の国々では見られない、日本の美点であることを、お述べになったのであります。
 そして、わたくしたち国民は、『万世一系』の天皇を、国の中心と仰いできたのでありまして、外国の歴史で見るように、国民が血を流して、力ずくで、皇帝の座を奪い取るようなみにくい争いは、二千六百年の長い日本の歴史において、今日までいちどもありません。これはほんとうに、世界に誇ることのできる、日本の美風であります。」

「国民は国に対しては、忠実に義務を守り、また親に対しては、孝行をつくし、国民全体が心を合わせて、美しい日本の伝統を、いつまでも受け継いで行くように心がけねばならないということを、国民に教え守らせるようにすることが、教育の根本でなければならない、と明治天皇はおさとしになっているのです。
ちかごろは、日本国民としての本文を守らず、国に対する責任もわきまえず、子としての親への孝養をつくさず、また、国民同士が互いに争いあっているのは、戦後の教育の根本方針が、間違っているからです。

「『国憲』というのは『国の根本の定め』の意味ですから『憲法』のことであるともいえます。また「国法」というのは、いろいろな「法律や規則」などのことです。
憲法は、国のあり方の根本の原則だけを定めたものでありまして、くわしい規則は、それぞれの法律や規則によって定められております。だからこの一句の意味は『国民は平時においてはもとより国のおきてを尊重し、法律の定めにしたがわなければならない』と、お示しになっているのです。
現在の憲法では、国民の個人の権利が非常に尊重されておりますが、しかし自分の権利を通すために、社会公共の福祉に反してはいけない、とも定められています。つまり他人に迷惑をかけても、自分の権利だけを押し通すのはいけないことなのでありまして、そういう無法者は、日本国民の恥さらしといわなければなりません。

「一旦緩急アレハ? 義勇公ニ奉シ
「一旦」は「ある日」とか「ひとたび」とかいう意味。「緩急」は「重大事変」のことです。だから「一旦緩急アレハ」というのは、前文の「常ニ」という言葉、すなわち「平時」における心得に対し、「もしもひとたび戦争などの非常時になったならば」という意味です。「義勇」というのは「正義と勇気」のこと。「公ニ奉シ」とは「お国のため、社会のために、国民としての義務をつくす」ということです。国民がお国を守ることは当然のことですから、決して「軍国主義」ではありません。
大東亜戦争までは、国民には兵役の義務が憲法で定められていましたから、戦争の時には軍人は勇敢に戦いましたし、また軍人でなくても、国民はみな一致団結して、国のために国民の義務を果たしてまいりました。」
「 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
「天壌無窮」という言葉は、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を「日向の国」におくだしになった時の神勅において、「宝祚の栄えまさんこと天壌と共に窮りなかるべし」と、おおせられたことをいうのであります。
日本は大東亜戦争に失敗して、みじめな目にあいましたが、「万世のために太平を開け」という天皇のお言葉にしたがって、一億国民が努力したために、今日では世界の人々がおどろくほどに立派な経済大国となったのであります。
これからも、われわれ国民は、力を合わせて日本を立派な国にしようではありませんか。」

「『教育勅語』は、戦前・戦後の教育のあり方の変遷のなかで誤解を受けてきました。でも、あらためて現在の私たちの生き方に照らし合わせてみると、人間の生き方の根本に関わる答えが、そこに見えてきます」

で、この「学校」の校訓5か条の最後は次のとおりである。
『敬神崇祖以て伝統を承継し祖国を興隆すべし』

これはもはや教育でも学校でもない。正確には「カルト集団」と呼ぶべきだろう。あるいは、「天皇崇拝精神鍛錬場」だ。いかにも、安倍晋三の気に入りそうな場ではないか。森友同様、このような極右集団に国有地が極めて廉価に払い下げられているというのは、単なる偶然にしては奇っ怪千万。リテラ同様、背後関係の究明を待ちたい。
(2018年1月10日)

「10・23通達」は、国際自由権規約18条に違反する。

本日(12月26日)が東京「君が代裁判」第4次訴訟弁護団の今年最後の会議。
12月18日に控訴理由書は提出済みで、控訴審の第1回口頭弁論期日に向けて、都教委側の控訴理由書への反論と、控訴審進行の構成についての意見交換。

その中で、国際人権論からの新たなアプローチが話題となった。
国連の自由権規約(正確には、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」。社会権規約(A規約)に対して「自由権B規約」とも略称される)の第18条は、外務省訳で以下のとおりである。

第18条
1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。
2 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
(3項・4項は略)

ここに掲げられているのは、「思想、良心及び宗教の自由」である。日本国憲法の19条(思想・良心の自由)と、20条(信教の自由)の両条を包括する規定となっている。国旗国歌への起立斉唱を強制する「10・23通達」は、日本国憲法19条・20条に違反するだけでなく、日本が批准した条約として裁判規範性をもつ「自由権規約」第18条違反でもある。かねてから、私たちはそう主張してきた。

とりわけ、同条第2項が、「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」としていることは、都教委の国旗国歌強制を違法とすることに、分かり易い根拠を与えている。

明らかに、「都教委による教員や生徒への国旗国歌(日の丸君が代)への敬意表明の強制は、教員や生徒自らが選択した信仰あるいは思想的信念を受け入れる自由を侵害するおそれがある」からである。

最高裁は、「神戸高専剣道実技受講拒否事件」(1996年3月8日)判決において、「エホバの証人」を信仰する神戸高専生徒に対する剣道の授業受講強制を違法と認めた。剣道の授業が宗教的な意味合いをもつかどうかを問題にせず、「剣道の受講を強制することは、この生徒が真摯に自ら選択した信仰に抵触し、生徒の信仰を選択する自由を侵害した」と認定したのだ。

憲法20条2項は「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」としているが、この最高裁判決以降この条項は「何人も、自己の信ずる宗教的信念において受容しがたい祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と読み替えねばならない。

さらに、自由権規約18条は、禁止される強制の範囲を、「宗教(信仰)」と抵触するものだけでなく、宗教(信仰)とは区別された思想・良心の分野における「信念」の領域にまで拡げた。

「『10・23通達』は自由権規約18条に違反する」とは、「10・23通達」に苦しめられた教員たちの年来の主張で、弁護団は法廷ではそのような主張を繰り返してきた。しかし、頑迷固陋な最高裁の壁はこの主張を受け付けず、はね返され続けてきた。

いっこうに進展しない法廷のありさまに業を煮やした原告団の人々が、法廷を離れた場での行動に立ち上がった。一つは、国連への直接の訴えである。そして、もう一つが、国に対する申し出である。たいへんな行動力だ。そして今、成果をあげつつある。

本日の弁護団会議で話題となったのは、「LOI」である。はて?
「ILO」(国際労働機関)ならなじみが深いが、「LOI」とは? 「リスト・オブ・イシュー」の頭文字だという。問題項目一覧表という意味だ。もっぱら「質問項目」と訳されている。そのリストのなかに、「10・23通達」がはいったという報告なのだ。

「2003年に東京都教育委員会によって発出された「10・23通達」を教員や生徒に対して実施するためにとられた措置の自由権規約との適合性に関して、儀式において生徒を起立させるために物理的な力が用いられており、また教員に対しては経済的制裁が加えられているという申し立てを含めて、ご説明願いたい。」という質問の形式。日本の政府は、国連の規約委員会に責任をもった回答をしなければならない。

よく知られているとおり、国連の活動は「平和と安全の維持」を目的とするものだけでなく、人権の擁護にも重きをおいている。国連憲章第1条3項の中に、「人種、性、言語または宗教による差別なく、すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること」と書き込まれている。

この国連憲章の目的条項に基づいて制定された、自由権規約の締約国は、規約の実施状況や国内における人権状況について定期的に国連に報告し、国連が設置する自由権規約委員会の審査を受けなければならない。

同委員会の審査手順は、事前審査と本審査からなる。
事前審査の段階で、委員会は各国NGOからのレポートに目を通して、リストオブイシュー(質問項目)を作成し、これを各国政府に提示する。この全項目について、各国政府は国家レポートを作成して委員会に提出する。また、各国NGOは、これに対抗したカウンターレポートを提出する。委員会は、本審査において両レポートを精査して総括所見を採択する。そして、これを各国政府に勧告するのだ。

事前審査の段階で作成されるのが「LOI」。数多ある人権諸問題と肩を並べて、「10・23通達」問題が、そのリストに掲載された。日本政府は、これに対する国家レポートを提出することになる。私たちは、これを徹底して批判するカウンターレポートを国連人権委員会に提出して、国際良識の判断を仰ぐことになる。もしかすると、ステキなことになるかも知れない。私たちにとってのステキなこととは、安倍晋三や小池百合子には、イヤ?なことに決まっている。

たとえば、国連人権委員会から日本国政府に対して、次のような勧告がなされるかも知れないのだ。
☆日本国政府は、公権力の行使によって、国民の思想・良心・信仰を侵害することのないよう、以下のことを遵守するよう勧告します。
*東京都教育委員会の「10・23通達」に基づいて、東京都内で行われてきた公立学校の教員や生徒に対する国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制について、今後一切くりかえすことがないよう禁止するとともに、これまでに国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制への不服従によって制裁を受けたすべての人に対する完全な損害回復の措置をとるよう指導すること。
*東京都に限らず、日本におけるすべての公立学校において、入学式や卒業式等の学校儀式における国旗国歌(日の丸君が代)への起立斉唱の強制を禁止することによって、学校内におけるすべての成員の思想・良心・信仰の自由を保障すること。
*すべての地方公共団体の知事、議会議員、教育委員会委員、ならびに教育委員会職員に対して、以下の各事項について周知を徹底するよう、十分な研修の機会を設けること。

1 日本国の国旗である「日の丸」は、その歴史的経緯から、これに接する人によっては、ナチスドイツの「ハーケンクロイツ」が戦後民主化されたドイツの国旗としてふさわしくないのと同様に、平和や民主主義・人権を基本理念とする日本国憲法下の現代日本にふさわしいものではなく、それゆえ国旗(日の丸)に対する敬意表明の強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

2 日本国の国歌である「君が代」は、その歴史的経緯から、これに接する人によっては、天皇を神とする国家神道のシンボルとして、宗教上の色彩が濃厚で、それゆえ自らが選択した宗教の信仰にもとづいて国歌(君が代)を斉唱せよとする強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

3 文明国においては、教育の内容に公権力の介入は抑制的であるべきが市民革命以来の確立された理念であって、それゆえ国家主義の鼓吹に基づく国旗国歌(日の丸君が代)への敬意表明の強制には服しがたいとする主張があるところ、その主張には十分な理由があるものとして尊重しなければならないこと。

**************************************************************************
以下は、被処分者の会からの報告の抜粋である。なお、「日の丸・君が代の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求めるー『ホットトーク』(144号)」にも、詳細な解説が掲載されている。

東京・教育の自由裁判をすすめる会国際人権プロジェクトチームは、2008年の第5回審査以来、日本における人権侵害として東京都の「日の丸・君が代」強制問題に関し日本政府報告に対するカウンターレポートを提出してきました。

第6回審査(2014年)では、「国旗・国歌」強制問題がはじめて委員会から日本政府への質問事項(リスト・オブ・イシュー)で取り上げられ、審査後の最終見解では、「思想・良心および表現の自由の制約は、規約に規定された厳しい条件を満たさない限り課してはならない」という主旨の勧告を得ました。しかし、都や各省庁はこれを一般的な勧告であるとして、私たちの要請に真摯に向きおうとはしません。

国連自由権規約委員会が「10・23通達」と明記して日本政府に回答を求める!?今回の画期的成果

あれから3年。第7回審査に向けての動きが始まっています。私たちは更に具体的な文言を含む勧告の獲得を目指して、7月にレポートを提出しました。そして、11月24日に発表されたリスト・オブ・イシューでは、第6回よりもはっきりした形で再びこの問題が取り上げられたのです。

第6回では一つのパラグラフで「公共の福祉」概念による人権制約と私たちの問題が一緒に取り上げられたました。しかし、今回はそれぞれ独立したパラグラフで取り上げられており、パラ26は「10・23通達」という言葉を明記しての質問となっています。これは画期的なことです。

政府は1年以内にこれに回答しなければなりません。私たちはその回答に対してまたカウンターレポートを提出し、具体的な勧告を獲得するまで取り組みを続けます。

<東京・教育の自由裁判をすすめる会、国際人権プロジェクトチームによる仮訳>

List of Issues Prior to submission of the seventh periodic report of Japan
(第7回日本定期報告に対する事前優先課題リスト)  未編集版・2017年11月24日

思想、良心および宗教的信念の自由、および表現の自由(規約第2、18、19、および25条)

《パラ23》 前回の総括所見(パラ22)に関連して、「公共の福祉」というあいまいで無制限な概念を明確化し、自由権規約18条および19条それぞれの第3項が許容する限定的な制約を超えて、思想、良心、および宗教の自由、または表現の自由への権利を制約することがない事を確保するために講じられた対策について、ご報告願いたい。

《パラ26》 2003年に東京都教育委員会によって発出された「10・23通達」を教員や生徒に対して実施するためにとられた措置の自由権規約との適合性に関して、儀式において生徒を起立させるために物理的な力が用いられており、また教員に対しては経済的制裁が加えられているという申し立てを含めて、ご説明願いたい。

原文
Freedom of thought, conscience and religious belief and freedom of expression (a
rts. 2, 18,19 and 25 )

23.? In reference to the previous concluding observations (para. 22), please rep
ort on steps taken to clarify the vague and open-ended concept of “public welfa
re” and to ensure that it does not lead to restrictions on the rights to freed
om of thought, conscience and religion or freedom of expression beyond the narr
ow restrictions permitted in paragraph 3 of articles 18 and 19 of the Covenant.

26.? Please explain the compatibility with the Covenant of measures taken to enf
orce against teachers and students Directive 10.23 issued by the Tokyo Board of
Education in 2003, including alleged application of force to compel students to
stand in ceremonies and financial sanctions against teachers.

文書は以下のサイト ↓
http://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CCPR/Shared%20Documents/JPN/INT_CCPR_LIP_JP
N_29588_E.pdf

ここまで事態を動かしてきた原告の皆さんの行動力に惜しみない敬意を払いつつ、ぜひともの成果を期待したい。最高裁のハードルよりも、国連人権委員会の方が低いかも知れないのだから。
(2017年12月26日)

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)控訴理由書完成

弁護団を組んでの大型訴訟は、学ぶところが多いし面白い。弁護士の経験の伝承の場でもある。しかし、弁護団には特有のマネージメントの負担が大きい。これだけで一苦労だ。この苦労を一身に背負うのが弁護団事務局長。誰かが引き受けなければことが進まないが、「車輪の下」で雑務の山の重荷を支えることには、覚悟が必要だ。

そもそも大半の者の弁護士志望の動機が、マネージメントは不得手、やりたくない、というものだ。不得手でも、やりたくなくても、必要だから誰かがやらざるを得ない。心ならずも私もそんな役回りをいくつも引き受けてきた。が、もうこの齢では務まらない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、一審判決の言い渡しがあり、今日(12月18日)が控訴理由書の提出期限だった。

先ほど、弁護団事務局長の平松真二郎弁護士から、「皆さまお疲れ様でした。控訴理由書無事提出しました。」との報告があった。ご苦労様、という以外に言葉がない。

議論して構成を考え、手分けして執筆し、執筆したものを持ち寄って討論してまた加筆し、ようやく完成した控訴理由書が、397ページの大冊となった。事務局長は、弁護団の校閲担当者とともに最後の調整を担当している。

東京地裁の原判決は、減給以上の全処分を取り消したが、戒告(9名についての12件)については処分取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。私たちはこの点を逆転したい。

本控訴理由書は何よりも違憲論を重視している。その違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

そして、主観的違憲論(思想・良心の自由保障、信教の自由保障違反)では、宗教学の島薗進教授の説示を援用して、新たな主張を展開している。同教授には、宗教学の立場から鑑定意見書を作成していただく予定である。

控訴理由書は、以下の全10章からなる。
序 章 原判決の基本的な問題点
第1章 事実関係に関する問題
第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること
第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること
第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること
第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること
第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること
第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること?
第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる
第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと

*******************************************************************
本控訴理由書の目次を掲載しておく。この目次をよく読み込めば、控訴理由の大意が把握できるはず。

序章 原判決の基本的な問題点?9
第1 原判決の事実認定の問題点?9
第2 原判決の法的判断の問題点?11
第3 貴裁判所に望むこと?13

第1章 事実関係に関する問題?15
第1 原判決の事実認定の問題点?15
1 原判決の事実認定?15
2 10・23通達発出の真の目的を見極めるために必要な事実の認定が欠落している?15
3 職務命令と10・23通達の関連性についての認定が欠落している?17
4 卒業式等において教師に創意工夫や裁量の余地がなく画一的な儀式を押し付けられたことに関する認定が欠落している?18
5 小括?19
第2 1989年学習指導要領改訂と学校における「日の丸・君が代」の取り扱い?19
1 はじめに?19
2 学習指導要領改訂前の学校の日の丸・君が代実施の状況?19
3 学習指導要領改訂時の議論?22
4 学習指導要領改訂後の運用状況?24
第3 10・23通達発出に至る経過?25
1 学習指導要領改訂後の都教委の指導?25
2 国旗国歌法制定とその立法趣旨?27
3 1999(平成11)年通達?39
4 都教委の方針転換?43
5 教育委員や教育長らの考え?55
6 都議会議員らとの迎合的関係?61
7 対策本部の議論?66
第4 10・23通達から職務命令発出に至る経過?69
1 10・23通達につき校長の独自の権限はなかった?69
2 管理職への事前指導による「職務命令発出」の徹底?70
4 卒業式当日の異常な監視体制?83
5 服務事故報告書,校長への事情聴取?84
6 都教委による10・23通達完全実施体制?85
第5 10・23通達下の卒業式等の実施?89
1 教職員に対する強制?89
2 生徒への強制?94
3 障害児学校での卒業式の変容?107
4 通常学校における卒入学式への影響?121
第6 教育現場の変容?124
1 上意下達の結果?破壊された教育現場?124
2 かつての教育現場?教師集団による闊達な議論?125
3 都教委が10・23通達前後に行った「教育現場改革」と教育現場への介入?126
4 上意下達体制の貫徹による「沈黙の教育現場」?131
5 「お上が望む教育へ」?教育内容への介入?133
第7 小括?139

第2章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが公権力行使の権限の限界を踰越していること?140
第1 「職務命令」と「信念等」との対比では抜け落ちてしまう重要な側面?140
1 原判決では控訴人らの主張が理解されなかったこと?140
2 職務命令と「歴史観・世界観・教育観」との対比?140
3 何が捨象されてしまうのか?141
4 等閑視された「求めること」と「強制」との隔絶した違い?143
第2 「公権力行使の権限踰越」の意味と判例上の位置づけ?145
1 公権力行使の権限踰越が本章の主題?145
2 職務命令が違憲という従前の主張とは異なる?145
3 南九州税理士会事件最高裁判決とそれが依拠した大法廷判決?146
4 アメリカ連邦最高裁のBarnette(バーネット)事件判決?149
5 憲法判断の客観的アプローチ?150
6 「権限がない」の意味についての補足説明?153
7 「権限の限界の踰越」の意味についての補足説明?153
第3 原判決に対する批判?154
1 「公権力行使の権限踰越」の主張に対する原判決の判示?154
2 判示?について?154
3 判示?について?155
第4 「国家シンボルと個人」から画される「公権力行使の限界」?157
1 国家と対峙する個人?157
2 国家シンボルに対する敬意表明の強制は権限を踰越した公権力の行使?157
3 公務員に対しても強制はできない?160
4 根拠とする憲法の条項?162
第5 「生徒の精神的自由」と「教職員の職務」から画される「公権力行使の限界」?163
1 精神的自由の内在的制約?163
2 単に法律に根拠があるだけでは人権の制約はできない?164
3 一連の最高裁判決による制約の正当化?164
4 調整すべき生徒の人権は抽象的で希薄な「学習権」だけではない?166
5 生徒と教職員は別という議論?166
6 「不利益処分の制裁をもって」が重要なのではない?167
7 現に起立斉唱できないという思いをもつ生徒の存在?169
8 教職員による起立斉唱の率先垂範は生徒の自律的な思考と判断を損なう?172
9 教育的配慮として生徒の気持ちに寄り添うことは教職員の職責?173
10 教職員の職責と矛盾する行為を教職員に強制をする権限は行政にない?174
第6 結語?175

第3章 通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが教基法16条1項の禁じる「不当な支配」に当たること?176
第1 教育委員会が教育内容に関する具体的な命令の発出が許されるとした原判決は,旭川学テ事件最高裁判決の判断に反していること?176
1 原判決の判示?176
2 旭川学テ事件最高裁判決の判断枠組み?177
3 原判決は旭川学テ事件最高裁判決を誤読していること?185
第2 教育委員会は「必要性,合理性が認められる場合には,適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的と認められる範囲内において,具体的な命令を発することもできる」と判断した誤り?186
1 原判決の判示?186
2 旭川学テ事件最高裁判決が示した教育委員会の権限行使の限界?187
3 具体的な命令を発しうる「特に必要な場合」はどのような場合か?189
第3 国歌の起立斉唱の義務付けが「適正かつ許容される目的のために必要かつ合理的であると認められるとした原判決の誤り?193
1 原判決の判示?193
2 具体的な命令を発する「必要」性を認めた原判決の誤り?194
3 起立斉唱命令の「合理性」を認めた原判決が判断を誤っていること?199

第4章 国歌の起立斉唱の義務付けが憲法19条に違反すること?205
第1 原判決は事案類型の把握が誤っていること?205
1 原判決の概要?205
2 控訴人らの主張?205
3 控訴人ら「教職員としての職責意識に基づく信条」の内容?207
第2 原判決は,「憲法が宗教儀式ならびにこれに準ずる世俗的儀式等への参加強制を禁じている」ことを看過している?211
1 原判決の違憲判断回避の構造?211
2 「間接制約」論の誤謬?214
3 儀式・儀礼による集団規律と宗教及び全体主義との関わり?216
第3 起立斉唱行為の義務付けの必要性及び合理性がないこと?221
1 原判決の判断?221
2 控訴人らの主張?221
3 そもそも10・23通達発出の必要性及び合理性はなかった?222

第5章 国歌の起立斉唱の強制は憲法20条2項,20条1項に違反すること?227
第1 憲法20条に関する原判決の判断?227
第2 「日の丸・君が代」の宗教性?234
1 「日の丸・君が代」の宗教性?234
2 国旗・国歌(日の丸・君が代)の儀式における役割?236
第3 憲法20条2項違反について?237
1 憲法20条の構造?237
2 強制の契機?238
第4 憲法20条1項違反について?240
1 内心に限定された自由ではない?240
2 「間接制約」論の誤謬?241
3 剣道実技拒否事件最高裁判決の射程?242
第5 教員の信教の自由とその限界?244
1 人権制約における厳格な審査基準?244
2 日の丸・君が代強制と厳格審査基準?245

第6章 本件通達及び職務命令による国歌の起立斉唱の義務付けが憲法23条,26条,13条が保障する教師の教育の自由を侵害すること?246
第1 原判決は教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決に反していること?246
1 原判決の判断?246
2 普通教育における教師の教育の自由に関する旭川学テ事件最高裁判決?247
3 小括?252
第2 教職員に対する起立斉唱の義務付けが国旗国歌条項の趣旨に沿うとした原判決の判断は誤っていること?252
1 原判決の判示?252
2 教職員全員の起立斉唱が国旗国歌条項の趣旨にかなうものではないこと?253
3 教職員全員の起立斉唱を命じることはできないこと?258
4 教職員全員の起立斉唱は子どもの学習権を侵害すること?262
5 小括?263
第3 本件通達及び本件職務命令は,教育の自由を侵害すること?263
1 原判決の判示?263
2 原判決の判示は事実誤認に基づくこと?264
3 小括 原判決は事実を誤認したものであること?270

第7章 卒業式等における国歌の起立斉唱の義務付けが国際条約に違反すること?272
第1 原判決の判断内容とその基本的問題点?272
1 原判決の判断内容?272
2 原審判断の特徴と問題点?273
第2 原判決が自由権規約18条の解釈を誤ったこと?275
1 自由権規約,児童の権利に関する条約の裁判規範性?275
2 国際条約における一般的意見,総括所見の持つ意味?277
3 条約法条約による解釈規則?277
4 規約人権委員会の人権規約18条に対する一般意見?278
第3 原判決は,自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見について誤った位置づけをしたこと?282
1 自由権規約委員会の日本政府の第6回報告に対する総括所見?282
2 第6回総括所見に至るまでの経過とその内容?283
3 第6回総括所見の意義?287
第4 原判決の自由権規約18条の解釈・適用の誤り?289
1 自由権規約18条の解釈の誤り?289
2 第6回総括所見の持つ意味?291
3 原判決の自由権規約18条の適用の誤り?292
第5 児童権利条約違反?301
1 原判決の内容とその問題点?301
2 控訴人らは,児童(子ども)の権利に関する条約違反の主張ができること?302
3 児童権利条約で保障された具体的権利の内容?304
4 10・23通達とそれに基づく卒業式等の実施が児童権利条約違反となること?309

第8章 本件各処分は裁量権の逸脱・濫用にあたる?312
第1 はじめに?312
第2 2012年1月16日最高裁判決は戒告処分の無条件容認ではない?312
第3 戒告処分が取り消されない限り,問題の解決は図られない?315
1 思想・信条,教職員としての職責意識を捨てない限り起立はできない?315
2 都教委は,教育現場で校長が教職員の思想・信条に配慮することを認めない?318
3 不起立による実害はない?320
4 懲戒処分を科すことにより発生する教育現場への弊害?321
5 まとめ?328
第4 本件の各戒告処分は取り消されなければならない?328
1 はじめに?328
2 本件職務命令は不当な動機・目的でなされたものであり違法である?328
3 戒告処分の裁量権の逸脱濫用を認めなかった原判決の誤り?333
4 都教委自身も認める戒告処分に付随する様々な不利益?349
5 標準的な処分量定との比較?364
6 国旗国歌をめぐる全国の懲戒処分の状況と東京都の突出?365
第5 結論?367

第9章 国賠法1条1項に基づく慰謝料等請求が認められるべきこと?368
第1 本件各懲戒処分に行った都教委には国賠法上の過失が認められること?368
1 原判決の判示?368
2 本件通達及び職務命令による起立斉唱の義務付けは違憲・違法であること?369
3 懲戒処分を行ったことにつき都教委に国賠法上の過失が認められること?370
第2 控訴人らに損害が生じていること?383
1 原判決の判示?383
2 処分の取消によっても慰謝されない精神的苦痛が残されること?384
3 懲戒処分による経済的不利益?389
4 結論?391   (付 別表)
(2017/12/18)

多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべき社会でなくてはならない。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

以下は、私の担当部分(憲法20条(信教の自由)違反)の原審での主張の一部の要約である。あらためて読み直して、紹介するに値するものと思う。原判決は、基本的にこれを反駁する説得力をもたない。
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☆公務員にも教員にも信教の自由が保障されなければならない
原告らは、訴状請求原因において、違憲判断手法における客観的アプローチと主観的アプローチを意識的に区分したうえ、主観的アプローチの典型として、原告らの信教の自由侵害(憲法20条1項・2項違反)を主張した。

その主張の根底にあるものは、個人の尊厳が尊重されるべきことであり、そのための個人の精神生活における自由が保障されなければならないとするものである。国民のすべてに、それぞれの生き方を自分で選び取る自由が保障され、選び取った生き方に従って生きることを最大限可能とすることの保障の必要でもある。そのため、公権力は、国民の精神生活の分野に立ち入り、これを侵害してはならない。
そのような、保障されるべき精神生活の典型分野として信仰がある。人格の中核をなすものとしての信仰の選択が保障されなければならず、いかなる形においても、公権力がこれを侵害することは許されない。

社会には多様な宗教が存在し、多くの人が信仰を自己の人格の基礎ないし中核として精神生活を送っている。多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重されるべきことが、社会の正常なありかたであり、憲法上の理念でもある。信仰を持つものが、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることがきわめて自然な社会のありかたであり、公務員にも、教員にも、当然に多様な信仰を持つ者が存在することが想定されている。公権力は、これを受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をすべきであり、これを侵害することは許されない。

ところが、このような原告の主張に対する被告(都教委)の反論に接して、公権力がかくも憲法理念に無理解であるばかりか、挑戦的ですらあることに一驚を禁じ得ない。
被告の主張は、公務員も国民の一員として信教の自由を持つことに理解なく、公務員に対しても可及的に信教の自由を保障しようという観点はない。信教の自由に抵触する虞のある職務命令を控えなければならないとする配慮は皆無である。むしろ、国家主義を受容し得ない信仰を持つ者は公務員である資格がない、教員として不適格である、と言っているに等しい。

信仰を持つ者が信仰にしたがいつつ公務員や教員として社会生活を送ることができるのか、それとも自分の信仰を殺して公権力に迎合せざるを得ないのか。400年前に踏み絵の前に立たされたキリスト教徒と同じ深刻な問題が、信仰を持つ教員に突きつけられている。

☆原告らの信仰とその侵害
原告らの内、すくなとも2名は、自分が信仰を持つ者であり、信仰ゆえに起立・斉唱をすることができないことを表明している。
ことの性質上、以下のとおり、事情はきわめて個別性が高い。

その内の一人は、自分にとって、信仰者(クリスチャン)であることの信念は、あるべき教員としての理念と一致し、教育活動のあり方の指針をなすものと認識している。信仰者としての信念とは、「隣人愛」「少数者・弱者への愛」「神の愛」ということである。その信念が、教育者として、生徒一人ひとりを大切にすること、とりわけ少数者や弱者を尊重する姿勢で生徒と接し、人格的な信頼関係を形成すべきこと、愛情溢れる教育活動をなすべきことの基底をなしている、との自覚である。

同原告にとっては、現在の教育行政は、到底クリスチャンとしても教員としても受け容れがたい。「日の丸・君が代」強制は、その顕著な具体例である。同原告にとっては、「日の丸」に向かって起立させ、一律に「君が代」を歌わせる行為は、国家神道と「神なる天皇」への賛美を強制するものであり、服従を強いるものでもある。それは、クリスチャンにとって禁忌とされている偶像崇拝に通じる行為として従うことができない。しかも、「神の子イエス・キリストが身を呈して私達の罪を償って下さったことを思えば、例え処分されようとも、いかなる不利益を受けようとも、最高裁がどのように判断しようとも、自分の信仰に照らして、私は従えない、従ってはならない」という強固な信念なのである。

もうひとりの原告は、カトリック信者として、偶像崇拝を避けるために、神道の象徴である「日の丸」の前で「君が代」とともに起立することはできない、との信念を有している。この信念は、かつての戦争で、「日の丸」「君が代」が多くの人を死に至らしめた役割を演じたことからの、平和を希求する思いと一体をなすものとの認識である。

また、同原告は、信仰を捨てなかったために火あぶりの刑に処せられた聖人の名を洗礼名として持っている。にもかかわらず、たった一度だけ、卒業式前の予行の際に、精神の不調から起立してしまった経験がある。このとき、激しい自責の念に駆られ、通院を余儀なくされるほど精神的に傷ついている。

以上のとおり、真摯な信仰者にとっては、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、深刻な信仰への侵害であり、耐えがたい精神的苦痛をもたらすものである。憲法は公権力に対して、このような信仰に対する侵害を禁止し、信仰を持つ者の権利を保障している。

☆ 憲法20条2項違反
「憲法は、『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。』(20条1項前段)とし、また『何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。』(同条2項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設けている。

注目すべきは、同条2項が、判例上明確に狭義の信教の自由を保障する規定に、つまりは政教分離という制度的保障とは区別された、人権保障規定そのものとされていることである。
この規定は、同条1項前段の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」の一部ではあるが、戦前に神社参拝や宮城遙拝などの宗教上の行為や、国家神道上の諸儀式に国民が強制動員されたことの苦い経験から、信教の自由侵害の典型事例として特別の規定を置いたものと解されている。

信仰をもつ原告らは,自己の信仰にしたがって「日の丸・君が代」を位置づけ,自己の信仰に背馳し抵触するものとして「日の丸・君が代」を受け容れがたいと主張しているのであって,それで20条2項の該当要件は充足されている。したがって,信仰をもつ原告に関する限りにおいて,被告が「日の丸・君が代」は一般的,客観的に宗教的意味合いがない,と反論することはまったく無意味である。問題は,「日の丸・君が代」が一般的客観的に宗教的意味合いを持つか否かではない。飽くまで,強制される信仰者にとって,自らの信仰ゆえに強制を受容しがたいと言えるか否かなのである。

☆神戸高専剣道実技受講拒否事件最高裁判決
この理は,基本的に剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996年3月8日最高裁第二小法廷判決)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制された『剣道の授業受講』は,一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為ではない。しかし,当該の生徒の信仰に抵触する行為として,その強制の違法を最高裁は認めた。本件でも同様の関係があり,しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は,剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

内心における信教の自由は,特定の宗教を信仰する自由,あるいは信仰をもたない自由として,絶対的に保障される。しかし,権力が国民の内心を直接に改変することはそもそも不可能であることから,純粋に内心に押し込められた信教の自由は,人権保障としての意味をもたない。憲法が実定的な人権保障規定として意味あるものであるからには,信仰の保障範囲を厳格に内心の自由として押し込めてはならない。

☆「日の丸・君が代」強制と「踏み絵」
江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。

事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。

☆ 信教の自由の限界
もっとも、信教の自由と言えども絶対不可侵ではない。必要不可欠な制約には服さざるを得ない。問題は、いったい何をもって必要不可欠な制約というかである。

教員であることが信仰上の信念と抵触することはあり得ないことではない。もっとも考え得るのは、自己の信ずる信仰上の教説が科学的検証に堪えるものではない場合である。飽くまで、次世代への真理の伝達をもって公教育の本質と考えるべきであって、教員の主たる任務である教科指導において教授すべきは検証された真理でなければならず、信仰上の教説であってはならない。真理性の検証を欠いた主観的な価値的教説の教育は許容されない。

ことは公教育の本質把握如何に関わるが、憲法的には「子どもの教育を受ける権利」を基礎として立論されることになる。

学校とは、その基本において、人類が真理として確認した知の体系を伝える場である。子どもには、そのような意味での知の体系、すなわち真理を学ぶ権利が保障されており、教員の基本的責務は、この子どもの知的要求を充足させることにある。

したがって、いかなる信仰信念を持とうとも、真理とされている知識、情報、思想を子どもに教授する義務を全うしなければならず、このことは、必要不可欠なこととして、教員の信教の自由を制約する。

☆ 「日の丸・君が代」強制は許容されない
このことは、真理教育を中核とする教科指導とは別異の学校生活の場では、自ずから別の基準が必要とされることを意味する。教科指導と離れれば真理性教授の問題はなく、教科以外の学校生活の場では、教員の信教の自由は最大限保障されなければならない。

卒業式等の国旗国歌強制、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、公教育における不可欠の要素ではない。当該各原告らの信仰を侵害することを合理化するいささかの根拠ともなり得ず、公権力による強制は憲法上許容される余地がない。

「多様な宗教が共存し、あらゆる信仰が、無宗教とともに平等に尊重され、信仰を持つ者も持たない者も、あらゆる社会階層において、あらゆる職業に従事していることが正常な社会のありかたであり、憲法上の理念でもある」ことを都教委は受容し、公務員や教員に対して、その信仰にもとづく精神生活を送ることができるよう相応の配慮をしなければならない。
(2017年12月13日)

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