本日(6月9日)、DHCと吉田嘉明から、内容証明郵便による「回答書」(6月8日付)が届いた。私からのDHCと吉田嘉明への5月12日付各内容証明郵便による損害賠償請求に対する返答である。予想されたとおりの内容ではあるが、あらためてDHCと吉田嘉明が自らの行為をまったく反省していないことが確認できる。
私が発送した5月12日付損害賠償請求書は、「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第105弾」(5月12日)としてアップしているが、これを再掲してDHC・吉田の回答書を掲載する。
なお、第102弾のURLは下記のとおりである。
https://article9.jp/wordpress/?p=8539
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損害賠償請求書
2017年5月12日
住所
被通知人 株式会社ディーエイチシー
代表者代表取締役 吉田嘉明殿
通知人 澤 藤 統一郎
2014年4月16日、被通知人は、吉田嘉明とともに原告となって、通知人を被告とする東京地方裁判所平成26年(ワ)第9408号損害賠償等請求事件を提起した。その請求の趣旨は、相原告と併せて2000万円の支払い請求と、通知人のブログ記事の削除ならびに謝罪文掲載の各請求であり、その請求原因は、通知人のインターネット上のブログ記事が被通知人らの名誉を毀損し侮辱するものとの主張であった。
同事件の訴状は同年5月16日に通知人に送達され、7月11日の進行協議を経て、8月20日が事実上の第1回口頭弁論期日となったが、その直後の同月29日請求の拡張がなされ、請求金額は相原告と併せて6000万円となった。
同事件は、2015年9月2日に請求を全部棄却した判決言い渡しとなったが、被通知人ら両名は東京高等裁判所に控訴し、控訴審は第1回口頭弁論期日に結審して、2016年1月28日控訴棄却の判決言い渡しとなった。
被通知人らはさらに最高裁に上告受理を申立てたが、同年10月4日の同裁判所不受理決定によって、本件は確定した。
以上の被通知人の本件提訴と提訴後の訴訟追行の経過は、被通知人らが民事訴訟本来の権利の救済や回復を目的として提訴したものではなく、明らかに通知人の正当な言論を嫌忌して、これを妨害し封殺しようとしたものと断じざるを得ない。何人にも裁判を受ける権利が保障されているとはいえ、かかる民事訴訟本来の趣旨目的を逸脱濫用した提訴は違法というしかない。
したがって、被通知人は、故意又は過失によって通知人の法律上保護される利益を侵害した者として、民法709条および同719条1項に基づき、吉田嘉明と連帯して通知人に生じた全損害を賠償する責任を負うものであるところ、通知人に生じた損害は、応訴の費用や職務への支障、ならびに高額賠償請求を手段とした恫喝的態様による表現の自由侵害による精神的損害等を合算して、その金額は600万円を下回るものではない。
よって、通知人は被通知人ならびに吉田嘉明に対し、連帯して、600万円の支払いを求める。
なお、仮に、被通知人が本損害賠償請求に応じない場合には、損害賠償請求の提訴をすべく準備中であることを申し添える。
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平成29年6月8日
澤藤統一郎殿
吉田嘉明及び株式会社ディーエイチシー代理人
弁護士今村憲
当職は、吉田嘉明及び株式会社ディーエイチシー(以下「当方」といいます。)の代理人として、貴殿作成の平成29年5月12日付け損害賠償請求書について、次のとおり回答します。
貴殿は、当方の提訴は、貴殿の正当な言論を忌避して、これを妨害し封殺しようとしたものと断じざるを得ないなどと主張し、同様の主張を裁判においてもしていました。
しかし、東京地方裁判所平成27年9月2日判決は、かかる貴搬の主張について、次のとおり判示しました。「被告は、本件訴訟について、いわゆるスラップ訴訟であり、訴権を濫用する不適法なものであると主張する。この点、本件訴訟において名誉毀損となるかが問題とされている本件各記述には、断定的かつ強い表現で原告らを批判する部分が含まれており、原告らの社会的評価を低下させる可能性があることを容易に否定することができない。また、本件各記述が事実を摘示したものか、意見ないし論評を表明したものであるかも一義的に明確ではなく、仮に意見ないし論評の表明であるとしても、なにがその前提としている事実であるかを確定し、その重要な部分が真実であるかを確定し、その重要な部分が真実であるかなどの違法性阻却自由(澤藤註・事由の間違い)の有無等を判断することは、必ずしも容易ではない。そうすると、本件訴訟が、事実的、法律的根拠を全く欠くにもかかわらず、不当な目的で提訴されたなど、裁判制度の趣旨目的に照らして許容することができないものであるとまで断ずることができず、訴権を濫用した不適法なものということができない。このことは、本件各記述が選挙資金に関わることによって左右されるものではない。したがって、本件訴訟をスラップ訴訟として却下すべき旨をいう被告の主張は、採用することができない。」
以上のとおり、貴殿の主張は、2年前に既に裁判所において排斥されており、今更これを蒸し返すことは信義則により遮断されるものです。
そもそも、貴殿は、第1審の当初に提出した平成26年6月4日付け「事務連絡」において、「次々回(第2回期日)の日程は、2か月ほど先に指定いただくようお願いいたします。その間に、弁護団の結成と反訴や別訴等の準備をいたします。」などと書き、訴訟係属中も反訴すると言いながら、結局反訴しませんでした。
当方が名誉毀損だと指摘した貴殿のブログの記述は、違法性阻却事由により裁判においては違法でない旨判示されたものの、同時にその大半の記述が、当方の社会的評価を低下させるとも判断されており、貴殿が弁護士でありながらも当方の名声や信用を一般読者に対して著しく低下させたことは事実であり、このような事実無根の誹膀中傷をネットに書き散らす行為が許容される事態は社会的に問題であり、当然600万円を支払えという貴殿の不当な請求にも応じられないことをここに回答します。 以上
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私は、DHC・吉田によって、6000万円請求の民事訴訟の被告とされた。その訴訟の提起とその訴訟追行のあり方が違法で、不法行為にあたるということでの損害賠償を請求した。
この不当・違法な提訴による損害は600万円とした。6000万円を基準額とする提訴への応訴の弁護士費用(地裁・高裁・最高裁各審級の着手金と成功報酬)だけで、600万円を下らない。通常、このくらいはかかる。
もとより、裁判を受ける権利は誰にも保障されている。民事訴訟を提起して敗訴したからというだけで、その提訴が違法で被告に生じた応訴のための損害賠償の責任が生じるわけではない。しかし、飽くまで民事訴訟という制度は、侵害された権利の救済を目的とするものである。その趣旨・目的を逸脱して、正当な言論を抑圧し封殺して、萎縮効果をねらった恫喝的な提訴となれば違法というしかない。不法行為が成立して因果関係が認められる限りの全損害を賠償しなければならないのだ。
DHC・吉田の、私に対する6000万円請求は、典型的なスラップであり、その濫発は連鎖的に模倣者を輩出しかねない。言論の自由に対する脅威であり、民主主義の基礎を揺るがしかねない大きな問題でもある。
本日受領した回答では、DHC・吉田は、この点についての反省も自覚もない。敗訴判決を受けて、自らの提訴について反省の弁を述べるところはない。
DHC・吉田のもの言いは、相変わらず、「このような事実無根の誹膀中傷をネットに書き散らす行為が許容される事態は社会的に問題」などという、独善きわまるものである。
なお、回答書において、一審判決が引用されているのは、被告が「本件提訴は不適法として却下を求める」とした部分の判断で、提訴が損害賠償の対象となるか否かの判断ではない。
むしろ、確定判決において、私の問題とされたブログでの言論は「いずれも意見ないし論評の表明であり」「公共の利害に関する事実に限り」「その目的がもっぱら公益をはかることにあって」「その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており」「前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ」「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」と認定されている。
この期に及んで「事実無根の誹膀中傷をネットに書き散らす」などと言い募るDHC・吉田の態度は、敗者の潔さに欠けている。吉田は敗訴に至った自らの提訴の不当を理解していない。もちろん、表現の自由の意義も、表現の自由を妨害する不当・違法もまったく分かっていないようなのだ。
もっとも、DHC・吉田が「当方が名誉毀損だと指摘した貴殿のブログの記述は、…その大半の記述が、当方の社会的評価を低下させるとも判断されており、貴殿が弁護士でありながらも当方の名声や信用を一般読者に対して著しく低下させたことは事実」というのは、そのとおりである。
表現の自由とは、誰をも傷つけない無害の言論を表明する自由のことではない。そのようなものは、権利とも自由ともいうに値しない。権力者や社会的強者を批判し、その名声や信用を傷つけることが許容されることを言うのだ。まさしく、私の吉田嘉明についての言論はそのようなものだった。法は、吉田の名声や信用よりも、その批判の言論に優越的な価値を認めたのだ。
実は、そのことは自明なことであった。にもかかわらず、DHC・吉田は敢えて高額な訴訟提起の恫喝をもって、自分への批判を封じようとしたのだ。これについての制裁がなければならない。
102弾でも申しあげたとおり、訴訟開始の暁には、経過を当ブログで逐一ご報告したい。民主主義を大切に思われる多くの方々に、関心をお寄せいただきたい。そして、応援していただきたい。
(2017年6月9日)
電車では、中吊りの広告に目が行く。週刊誌の見出しが、いやでも目に飛び込んでくる。現代の「流言飛語」の震源。井戸端会議ネタの提供元。
売れればよいの週刊誌、売らねばならない週刊誌である。その作り手が、いまなにが売れ筋か、世間が何を求めているのかを、中吊り広告の見出しで語っている。なにが見出しに表れているか、そのテーマに好意的か否定的か。そしてその活字の大きさに意味がある。これで情報量の90%だ。残りの10%の情報を求めて金を払って記事を読むほどのことはない。
木曜日は、「新潮」と「文春」。
文春の広告は、とりわけ目を惹く。思わず、「オー」と声を上げるほど。だからといって、買う気にはならないが。
トップが、大きな文字で、「驕るな! 安倍」である。「安倍」に小さく「首相」と付けられているのがご愛敬。そして、【緊急特集】『読者調査では「前川喚問」賛成86% 内閣支持率22%』の文字が躍る。
さらに、『現職文科幹部が本誌に激白「不満を持っている人は大勢いる」』
トップの次が、これも大きな字で「読売『御用新聞』という汚名」。「読売記者『出会い系記事はさすがにない』」「首相と『会食30回』でダントツ」と小見出しが並ぶ。
新潮の広告もかなかなかのもの。
「安倍総理」を辞任させたい「麻生太郎」!
▼「前川前次官」が怯える「守秘義務違反」逮捕
▼実姉が証言! 「加計理事長」20歳年下女性との再婚で家族断絶
▼文科省「設置審」が認可ダメ出しの鳴動
これに、
「準強姦『安倍総理』ベッタリ記者『山口敬之』の金満」と続く。「家賃は月130万円!? 部屋の真下にスパ&プール!!」と書き添えられている。イヤミたっぷりだ。
両誌とも、トップは安倍批判だ。文春の「驕るな!安倍」は、読者層の代弁だろう。「内閣支持率22%」という調査結果が、編集者を強気にしている。そして、両誌とも、「安倍ベッタリメディアへの批判」を大きく扱っている。文春が読売、新潮が山口敬之を標的にしている。これまでは得意満面だった御用評論家や「スシロー連」の面々は、首筋が寒い思いではないか。
新潮の「文科省『設置審』が認可ダメ出しの鳴動」は、興味がある。今治市に建設中の「岡山理科大獣医学部」。2018年春開校を条件に、国家戦略会議諮問委員会(安倍晋三会長)は強引に押し通したが、文科省の認可を得たわけではない。当然に文科省は認可を下ろすだろうと思われていたが、雲行きが変わってきた。「文科省『設置審』が認可ダメ出し」が現実となれば、アベ政治への大きな打撃となろう。
そんなことで興味ある記事だが、やっぱり新潮は買わない。私には、産経・読売にびた一文も払うものか、というささやかな矜持がある。新潮・文春も、まだ私的経済制裁を解くには至ってない。
週刊朝日最新号トップは、「安倍官邸に巣くう 加計人脈」。「忖度や謀略の裏でお友達優遇!」と、これも手厳しい。
ともかく、風が変わってきた。アベ友・腹心の友両学園の、「もり・かけ問題」がアベ政権を揺るがしている。アベ一強の歪みが、私益のための政治の歪みとして露呈しつつあるのだ。これに加えての共謀罪強行は、アベ政権の命取りになりかねない。
(2017年6月8日)
日民協の機関誌「法と民主主義」に、「あなたとランチを」という見開き2ページの続きものコーナーがある。佐藤むつみ編集長が、毎号しかるべき人物を選定してランチをともにしつつインタビューを行い、その人の来し方や現在の活動を紹介する。ランチをともにしつつと言う、くだけた雰囲気が売りもので、なかなかの評判。
さて、2017年6月号(6月下旬刊)の「あなた」(ランチ・メイト)は、明治大学商学部教授(会計学)の野中郁江さん。本日、明治大学リバティタワー23階のレストランでの、「ランチ」となった。私も、佐藤編集長の付録としてランチをともにした。
初めてお目にかかった野中さん。そのインタビューは陪席していて楽しいものだった。この方、東洋史専攻の学生だったが、労働組合運動に役立とうと志して会計学の専門家になったという。実践と学問とがマッチした、稀有な幸せの人。その詳細は「法民」に譲るとして、私が臨席した理由は、野中さんがスラップ訴訟の被告として闘った方だからだ。私の関心は、もっぱらその件。読者の立場からではなく、同じスラップの被害者としての立場からの聞き役。職権を濫用しての役得だった。
昭和ホールディング(の役員)から5500万円の損害賠償請求訴訟を提起されて最高裁まで争って勝訴した野中さんと、DHC・吉田から6000万円の損害賠償請求訴訟を提起されて同じく最高裁まで争って勝訴した私とは、戦友にほかならない。けっして、同病相憐れむの仲ではない。
野中さんは、雑誌『経済』(2011年6月号)に掲載した、学術論文「不公正ファイナンスと昭和ゴム事件 問われる証券市場規制の機能まひ」と、東京都労働委員会に提出した鑑定意見書の記述が「名誉毀損にあたる」とされた。これはひどい話。(「昭和ゴム」は、現「昭和ホールディング」の旧商号)
政治家への8億円裏金提供を批判されてスラップに及んだDHC・吉田嘉明も相当にひどいが、学術論文をスラップで訴えた昭和ホールディングもひどさでは負けていない。名誉毀損訴訟実務では、違法と主張された表現を、「意見ないし論評部分」と「事実摘示部分」とに分類する。前者は、根拠とした事実が真実である限り原則として違法性がないとされる(表現の自由が最大限尊重される)。後者は、公共性・公益性・真実性(ないし相当性)が備わっている限り違法性が阻却される。
学術論文は、明らかに「意見ないし論評」にあたる。その「意見ないし論評」の根拠となる事実の真偽は問題となり得るが、会社が発表した財務諸表や有価証券報告書等を資料として分析を行う限り、名誉毀損の問題が生じうるとは考え難い。よくもまあ、提訴をしたものだ。
野中さんは、昭和ゴム労組の依頼を受けて、昭和HDなどが発表する投資家向けの資料や有価証券報告書などをもとに、約30億円もの金が、短期間に昭和ゴムからAPFにわたったその資金の流れやからくり、経営実態などを分析・研究し、同論文をまとめた。
この件で、野中分析によって違法行為を炙り出されたのは、昭和ホールディングス(HD)と同社を事実上支配する親会社アジア・パートナーシップ・ファンド(APF、所在はタイ)。HDの資金約30億円が流出しこれがAPFに還流している。
訴状で「名誉毀損」とされたのは、たとえば同論文の次の個所。
「昭和ゴム事件の特徴は、ファンドによる企業からの財産収奪が行われている、あるいはその危険性が高いという点にあり、その被害者は一般投資家であるとともに、200名余の労働者、さらには取引先、地域経済である」
こんな研究論文の一節が高額損害賠償請求のターゲットになって、研究発表が萎縮したのでは、大きな社会的損失ではないか。どのスラップにも特徴がある。野中事件では、「学問研究とその発表の自由」阻害の問題なのだ。
一審段階の赤旗に野中さんのコメントが紹介されていた。
「ファンドにかかわっていま、証券市場の規制がどういう役割を果たせるか、が問題になっています。この分野の研究は、私の従来の研究テーマであるとともに、大学教員としての社会貢献活動でもあります。こうした不当な訴えを許せば、研究も社会貢献活動もできなくなります」「ファンドの問題点について論文を書いて訴えられれば、研究そのものが萎縮させられます。学問の自由を守るためにも、社会的に包囲する運動をすすめたい」
また、科学者会議の米田貢事務局長(中央大学教授)のコメントも紹介されている。
「学問は、自由な知的な活動と研究成果の自由な発表、それに基づく学術的な討論によって発展してきました。自分に不利な内容の研究成果の発表を、高額な損害賠償請求で抑え込もうとする今回の提訴は、典型的なスラップ訴訟です。真理の探究をめざす学問の自由に対する許しがたい挑戦であり、野中氏個人ではなく、学術世界、研究者全体にかけられた不当な攻撃です」
野中さんは、最初に訴状を手にしたときの気持をこんな風に語った。
「こんな裁判に絶対に負けるはずがないとは思いましたよ。しかし、これからいったい何年こんな裁判に付き合わなければならないのか。どれだけ、時間と労力をとられるのか。それを考えると暗澹たる気持になりました」「以来、最高裁で勝訴確定するまで、仲間や支援のみんなに『よろしくお願いします』と頭を下げっぱなし。このストレスも大きかった」
こんな気丈な方にして、スラップはいやなもの。スラップはストレス。そして、それゆえにスラップは社会に言論萎縮効果をもたらす。言論の萎縮効果は文明の敵、人類進歩の阻害物だ。スラップを退治して一掃しなければならない。
(2017年6月7日)
日本民主法律家協会の理事会で、アベの九条改憲論がひとしきりの話題となった。アベ自身が、5月3日の改憲派集会において、ビデオメッセージで発表した提案。御用新聞として読売を指名し、「詳しくは読売をよく読んで」と言って物議を醸したあの改憲論。「9条1・2項はそのままにして、3項(あるいは、9条の2)に、自衛隊を明記する」というあの加憲的改憲論。
いわゆる「新9条論」者の対応や、日本会議の伊藤哲夫論文(月刊「明日への選択」)が、「こうすれば、(護憲派の)反対の大義名分はあらかた失われるであろう」「護憲派から、現実派を誘い出すきっかけにもなる」との主張をどう見るか。
見方はいろいろだ。大別すれば、アベの譲歩と焦りの側面を大きく見て、現行の自衛隊が憲法上公認されるだけでそれ以上の意味はないという楽観論と、実は憲法論上も9条2項を死文化してしまう危険な策謀だという警戒論と。
楽観論に立つと、運動論的に危惧が生ずることになる。これまでの「自衛隊違憲=集団的自衛権・個別的自衛権ともに違憲」論者と、「自衛隊合憲=集団的自衛権違憲・個別的自衛権合憲」論者(専守防衛派)との緊密な連携に楔が打ち込まれるのではないかとの危惧である。
しかし、警戒論は「現にある自衛隊がその装備と編成において軍隊としての実態を持つ以上、自衛隊を合憲化するとは、9条2項を死文化することになる」「なによりも、集団的自衛権行使を容認した戦争法とともにある自衛隊を憲法上の組織とすれば、集団的自衛権行使を憲法上容認することになる」。さらには、「自衛隊を憲法に書き込むことは、これまでは憲法9条2項に縛られていた自衛隊が、その縛りから脱することだ。際限なく、『自衛隊という名の軍隊』が肥大化する恐れがある」「米軍との連携も、軍法会議も、集団的自衛権行使の要件も、大きく変わることになる」という。この意見が多数派。
森英樹理事長からは、以下の指摘があった。
まずは、「自衛隊を明文で書き込む」という、その書きぶりが問題。伊藤哲夫・日本政策研究センター代表(日本会議常任理事・政策委員・安倍ブレーン)は、「最優先すべきは護憲派陣営への反転攻勢である…。そのために改憲はまず加憲から、である。これは護憲派に大々的な『統一戦線』を容易には形成させないための積極戦略である。加憲なら、反対する理由はないのではないか。憲法第9条に3項を加え、『但し前項の規定は確立された国際法に基づく自衛のための実力の保持を否定するものではない』といった規定を入れることである」(同センター機関誌『明日への選択』2016年9月号)と言っている。
なるほど、書きぶりが問題だ。伊藤が提案する9条3項案の文言、「但し前項の規定は確立された国際法に基づく自衛のための実力の保持を否定するものではない」は、集団的自衛権行使容認を憲法上明文化するものではないか。アベが5月3日にビデオメッセージで言った「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」とは、まったく違ったイメージ。こちらがホンネと言わざるを得ない
指摘されてみると、新たに書き込むという9条3項の文言をどうするかは、一義的ではなく、改憲派の合意形成も容易なものではなかろう。
幅の大きな書きぶりのうち、「護憲派に『統一戦線』を形成させない」という目標に徹すれば、集団的自衛権行使容認につながる文言は極力押さえなければならない。しかし、改憲派の目指すところは、結局のところ自衛隊を憲法上認知して堂々たる国防軍としたいのだ。アベの加憲的9条改憲論を甘く見ていると、足をすくわれかねない。
仮に自衛隊の存在容認だけの加憲であったとしてもなお、9条2項の自衛隊に対する縛りが失われる。自衛隊の質的量的増強につながるとになる。まさしく、アリの一穴をこじ開けることになりかねないのだ。
アベのホンネを警戒するに越したことはない。うっかりアベ提案を、譲歩と妥協の産物とだけ甘く見ていると欺されかねない。アベのやることだ。ずるくて、あくどいに決まっていると見ておくべきが正解であろう。とすれば、「護憲派の『統一戦線』破壊」はあり得ぬことなのだ。
(2017年6月6日)
一昨日(6月3日)中谷元・前防衛相(高知1区)が、高知県南国市で開かれた自民党支部大会での挨拶で、「安倍首相に『あいうえお』の5文字を贈りたい」としたことが話題となっている。
「あせらず・いばらず・うかれず・えこひいきをせず・おごらず」の忠告だとか。
中谷は、本心こう言いたいのだ。
「アベさん、あなた最近
あせっているよ。
いばってもいる。
うかれてもいるね。
えこひいきも見ちゃおれん。
おごっている証しじゃない?」
あせっているのは、共謀罪と改憲だ。
いばっているのは生来の体質で、つける薬がない。
うかれているのは首相在位が長くなった、それだけのこと。
えこひいきの一角が、アベ友学園・腹心の友学園事件に露見している。
おごっているのは、アベと取り巻きの一味。
実は、自民党幹部の目からも、アベ一強体制の現状は苦々しいということ。自民党全体が、いつまた国民に見捨てられるかも知れないという危惧が見て取れる。
この日、中谷は「加計学園や森友学園を巡る問題に触れ、『もりそば、かけそば。忖度したのかという問題があるが、しっかり政府が答えを出すべきだ。李下に冠を正さずで、政治に公正性がなければ国民の理解は得られない』」と述べている。また、大会後、取材に「首相のご意向とか、それを読んで指示するとか、一部の官僚、首相補佐官が首相の名をかたって行政を動かしているとしたらよろしくない。決しておごることなく政治をしていかなきゃならんという思いで言った」と述べた(朝日)という。
防衛大学校卒で元自衛官の中谷だが、アベと比較するとずっとマシに見えてくる。ようやく、党内からもアベ批判が言えるようになったとすれば、アベ衰退の予兆なのかも知れない。
私も、アベに忠告しておこう。まずは「か・き・く・け・こ」で。
かってな振る舞いいけません。
きりすて御免も許されない。
くるしむ民を救うには、
憲法しっかり携えて
こうへい公正、これ政道。
もひとつ、「かきくけこ」を。
かごいけ捨てて、かけひいき
気心知れた友人に
くれてやりましょ大学を
権力持っているんだぜ
こんな程度でなぜさわぐ
今度は「あ・い・う・え・お」で。
アベのあんちくしょうは やることずるい
いかさま、まやかし、なんでもありで
うえから目線のいやなやつ
栄枯盛衰世のならい
おちたシンゾー はよ見たい
ホンニ ホンニ
もひとつ、ついでに「あいうえお」。
あまりに隠せばかえって怪し
いますぐヤメロの声まきおこる
うそつき、自己ちゅう、人でなし
えんりょもえしゃくもあらばこそ
「おとせシンゾー」民の声。
(2017年6月5日)
野蛮なトランプが、パリ協定からのアメリカ離脱を表明した。この歴史的愚行の傷は深い。「愚かなアメリカ」「手前勝手なアメリカ」「国際倫理をわきまえぬアメリカ」「ごろつきアメリカ」の刻印が深い。かつてのアメリカの威信回復は、もはや不可能かも知れない。あんな大統領を選出した、アメリカの「デモクラシー」の質が問われている。さて、振り返って日本はどうだろうか。こんな首相を権力の座から引き下ろすことのできない日本の「民主主義」は、アメリカと兄たりがたく弟たりがたい。
アベ政権は、参勤交代よろしく発足直後のトランプに擦り寄って、アメリカとの価値観の共有を強調して見せた。なるほど、野蛮で知性に乏しい、似た者同士。さて今後、両者の関係はどうなることやら。
「デンデンのアベ」に代わって、「ミゾユウのアソウ」が、えらそうにコメントした。
「もともと国際連盟をつくったのはどこだったか。アメリカがつくった。それでどこが入らなかったのか。アメリカですよ。その程度の国だということですよ。」
「この程度の政権」の副総理であるアソウによる、「その程度の国」への批判の言。だが、忘れてはならない。1933年3月、国際連盟脱退という愚挙を犯して国際的孤立化への道を歩んだのが、ほかならぬ日本だった。その程度の国だったのだ。
そしていま、日本は確実に国連との軋轢を拡大しつつある。世界の良識に背を向けつつあることにおいて、連盟脱退の時代に似て来たのではないか。これ以上再びの孤立化への危険な道を歩んではならない。
まずは、シチリア島におけるアベとアントニオ・グテーレス国連事務総長との懇談内容公表問題。日本側の公表内容を国連報道官側が否定した。国連側に、日本の公表内容は我田引水に過ぎるとのニュアンスが感じられる。問題となったテーマは、極めて重要な2点。「慰安婦問題に関する日韓合意評価」と、「『共謀罪』への懸念を表明した国連特別報告者の地位」に関するもの。
アベも、自分の都合のよいことについては、国連の権威を利用したいのだ。そこで、「安倍総理から慰安婦問題に関する日韓合意につき,その実施の重要性を指摘したところ,先方(グテーレス国連事務総長)は,同合意につき賛意を示すとともに,歓迎する旨述べました。」と発表した。しかし、国連側はこれを否定した。「(事務総長は、)慰安婦問題が日韓合意によって解決されるべき問題であることに同意した」が、「事務総長は、特定の合意内容については言及していない」、「問題解決の方向性や内容を決めるのは日韓両国次第だという原則について述べた」だけだという。
また、日本側は「(事務総長は、)人権理事会の特別報告者は、国連とは別の個人の資格で活動しており、その主張は、必ずしも国連の総意を反映するものではない旨述べました。」と発表した。しかし国連側は、「事務総長は安倍首相に対し、(人権理事会の特別報告者とは、)国連人権理事会に直接報告する独立した専門家であると述べた」という。
日本側は、反論しているようだが、無駄だし無意味だ。懇談の席でどう話されたのかが問題ではない。いま、オープンな場で、事務総長が日本側の公表内容を否定していることが重要なのだ。アベが深追いすれば、みっともなさの傷は深くなるばかり。
次に、デービット・ケイ報告問題。国連人権理事会の特別報告者であるこの人。担当は、表現の自由だ。昨年来日して、日本における言論の自由状況を精力的に調査して、深い懸念を表明した中間報告書を作成している。特定秘密保護法問題、担当大臣の停波発言等報道の自由の萎縮、そして教科書検定のあり方など問題とされた内容は具体的だ。この人の報告に接して襟を正さなければならない政権が、逆ギレしてしまっていることが異常な事態である。
さらに、プライバシー担当のジョセフ・カナタチ特別報告者の共謀罪に関するコメント。首相宛ての書簡が話題を呼んでいるが、政府は自らの姿勢を反省する姿勢はさらさらなく、抗議に及んでいる。国連の言うことなど聞く耳もたないという如くである。
そして、思い起こそう。世界の潮流が反核に動いているこのときに、被爆国日本が、核兵器禁止条約に反対の立場を鮮明にしていることを。日本政府は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明して実行している。国連の圧倒的多数国が、6月15日から7月7日まで、後半の交渉スケジュールで核兵器禁止条約を作り上げる交渉の予定だが、ここに日本政府が姿を見せることはない。
他国から日本政府の行動を見たら、日本は反人権国であり、反国連・反国際協調主義の国柄と映るだろう。そして、原水爆禁止にもまったく熱意のない国であるとも。
世界からこのように見られている日本が共謀罪を成立させれば、そして9条改憲を実現させれば、国際社会は1933年の過ちを再び繰り返す日本を想起することだろう。アベ内閣自身が、そのような「印象」をもたれるよう、せっせと「操作」を積み重ねているのだ。
(2017年6月4日)
天皇(明仁)が自ら発案した生前退位希望を実現する皇室典範特例法案は、昨日(6月2日)の衆院本会議で賛成多数で可決された。残念ながら、本格的な議論を抜きにしてのことである。
「採決は起立方式で行われ、自民、民進、公明、共産、日本維新の会、社民の各党が賛成。自由党は棄権した。自民党の斎藤健副農相や、民進党の枝野幸男前幹事長、阿部知子氏が棄権した。無所属の亀井静香元金融担当相、上西小百合、武藤貴也両氏の計3人が反対した。」(毎日)と報じられている。
棄権や反対票の理由はさまざまであろう、よく分からない。憲法上の理念からの発想もあろうし、「陛下のお気持ちに反する法案だから」というものもあるようだ。それでも、全会一致でなかったことは、国民の天皇制に関する意見の多様性を示すものとして評価したい。
降って湧いたような天皇制に関わる法案審議である。遠慮なく主権者代表の侃々諤々の議論があってしかるべきである。結論がどう収束するかよりは、国民が自らの意思で天皇制をどう取り扱うべきか、忌憚のない意見交換をすること自身が重要なのだ。「静かな環境」での、奥歯に物がはさまったような意見交換であってはならない。
せっかくの機会。徹底して天皇制の功罪を洗い出してみるべきであろう。そもそも、国民主権原理や人権尊重の憲法体系下に天皇とはいかなる存在なのか。はたして、核心的な憲法理念と矛盾することなく存在しうるものであるのか。21世紀の日本社会に天皇とは必要な存在なのか。皇位の存続は望ましいのか否か。また、国民主権に矛盾しない象徴天皇のあり方とはいかなるものか。象徴天皇としての公的行為というものが認められるのか。認めるとしても、どの範囲でどのような手続で認めるべきものか。さらに、天皇個人の人権やプラバシーをどう考えるべきか。皇室や皇族の予算は、どの範囲なら許容できるのか…。
今回の法案審議の発端は、天皇自身による生前退位希望のビデオメッセージであった。有り体にいえば、「自分は齢も齢。この仕事を自分流で続けていくのはもうしんどい。辞めさせてもらい、若い者へバトンを渡したい」という意思の表明。その希望を叶えるための法改正が進行しているのだ。これは、はたして憲法が認めるところなのだろうか。
この点に関して、誰もが意見を述べればよい。「天皇にだって、人権がある。その意に反する苦役を押しつけてはならない。」「皇位継承者にも職業選択の自由を認めてあげてよいと思う。希望しない者に、天皇という公務員職を押しつける必要はないし、辞職希望者の辞職は認めてあげるべき」という意見もあろうし、「天皇は特別な地位。皇位継承者はいやでも天皇になるべきだし、生涯その地位から離れることは認められない」「それが現行憲法が予定しているところ」「そのように理解して初めて、日本国民の一体感が醸成され、国民統合の機能が発揮される」という意見もあろう。どちらでもよい。どう考えることが、国民全体の利益になるかだ。最初に天皇ありきではない。国民が天皇制のあり方を制度設計するのだ。こんなことに専門家も素人もない。遠慮なく意見を言えばよいのだ。
この審議の過程で、象徴天皇のあり方に関する意見分布に、奇妙なねじれが顕在化している。リベラルを自認する少なからぬ人々が、天皇の公的行為ないし象徴的行為の拡大を歓迎する見解を表明している。現天皇(明仁)が、憲法理念に親和的だとして、戦没者慰霊や被災の国民に対する慰藉の行為を積極評価しているのだ。
これに対して、ウルトラ保守派が伝統的な天皇像を信奉して、「天皇は皇居のなかで祈るだけでよい」としている。当然に、天皇個人は、リベラル派に親和的にならざるを得ない。
しかし、現天皇(明仁)が憲法に親和的だとして、それは偶然の産物。どんな人物が天皇に就位しても、国民主権や民主主義に影響がないように制度設計をしておかねばならない。
天皇の戦没者慰霊も実は問題なしとしない。たまたま、天皇の靖国参拝は途絶えて久しい。現天皇(明仁)が靖國神社の参拝をすることはあるまいとは思う。しかし、戦没者慰霊のあり方として、次代の天皇が、同様の姿勢を堅持するかどうかは疑問の残るところ。仮に、A級戦犯の分祀が実現したときには、微妙な問題が起こりうる。海外派兵自衛隊員の戦死者に対する天皇の慰霊の可否に関しても、国論を二分する問題が起こりうる。天皇の公的行為の拡大、ないしは象徴天皇としての行為の曖昧な拡大はけっして歓迎すべきことではない。
さて、この衆院通過の法案。参院では特別委員会で6月7日に審議し、9日にも成立する見通しだという。そんな程度の議論でよいのだろうか。なお、6月1日に衆院議院運営委員会で採択された付帯決議は「女性宮家」創設などの「検討」を政府に求めている。これに、自民党内の保守派からは不満が出ているという。こんな程度の法案が、右から攻撃されているのだ。
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ところで、昨日(6月2日)衆院で可決となった、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(案)」第1条は、以下のとおりである。
第1条(趣旨)「この法律は、天皇陛下が、昭和六十四年一月七日の御即位以来二十八年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、八十三歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに、皇嗣である皇太子殿下は、五十七歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられることという現下の状況に鑑み、皇室典範(昭和二十二年法律第三号)第四条の規定の特例として、天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。」
私は、この条文を読むだに気恥ずかしさを払拭できない。近現代の文明国の常識人がこれを読めば、到底現代の法の条文とは思わないだろう。古文書のなかから発掘した古代法の一片と思うであろう。私も日本国民の一人。こんな恥ずかしい法律が作られることに、幾分かの責任を持たねばならない。
この条文をかたち作っているものは、明らかに古代日本のメンタリティである。冒頭一箇条に「陛下」を5度繰り返している、臣下の態度。昭和・平成は、養老・天平当たりに置き換えてちょうど良かろう。
被支配者が支配者に抵抗するとは限らない。成功した支配者は、被支配者の精神の奥底まで支配する。被支配者は、支配者を「敬愛」するに至るのだ。「1984年」のビッグ・ブラザーのごとくに。また、慈悲深き奴隷主が奴隷に接するがごときにである。万葉集に詠われた古代日本の天皇讃歌も同様である。
このメンタリティを19世紀に復活させたのが、維新後の神権天皇制政府。20世紀中葉、その無理が破綻して合理的な国民主権国家が誕生したはずが、21世紀にまで引きずられたこのカビの生えたメンタリティ。やはり恥ずかしいというほかはない。
例のごとく、文意をとりやすいように、段落をつけてみる。
「この法律は、
(1)天皇陛下が、昭和64(1989)年1月7日の御即位以来28年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地のお見舞いをはじめとする象徴としての公的な御活動に精励してこられた中、83歳と御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、
(2)これに対し、国民は、御高齢に至るまでこれらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、
(3)さらに、皇嗣である皇太子殿下は、57歳となられ、これまで国事行為の臨時代行等の御公務に長期にわたり精勤されておられること
という現下の状況に鑑み、
皇室典範第4条の規定の特例として、
天皇陛下の退位及び皇嗣の即位を実現するとともに、
天皇陛下の退位後の地位その他の退位に伴い必要となる事項を定めるものとする。」
大意は、「特例として、天皇の退位及び皇嗣の即位を実現する」ということ。その特例を認める趣旨ないし理由が、もったいぶった「現下の状況」として、上記(1)(2)(3)に書きこまれている。
(1)は、現天皇(明仁)の事情である。高齢のため、「国事行為」と「象徴としての公的な活動」の継続が困難になったことを「案じている」という。
(2)は、国民の側の事情である。天皇を敬愛し、天皇の気持ちを理解し共感している、という。
(3)は、皇太子(徳仁)の事情である。57歳になり、国事行為の臨時代行等の経験がある、という。
この3点を根拠として、「だから、生前退位の特例を認めてもよかろう」という趣旨。しかし、問題山積といわねばならない。
(1)は、天皇(明仁)の強い意向を忖度して、わざわざ立法するということを宣明している。天皇の意向を忖度し尊重するとは、天皇の威光を認めるということではないか。なんの権限も権能も持たず、持ってはならない天皇の意向の扱いとして、明らかに憲法の趣旨に反する。これは大きな問題点。
高齢のため「国事行為」に支障をきたすのなら摂政を置けばよい。「象徴としての公的な活動」はもともとが憲法違反なのだから、しないに越したことはない。この特例法が、天皇の「象徴としての公的な活動」を公的に認めることは、違憲の疑い濃厚な、最大の問題点である。
(2)は、主権者国民をないがしろにすること甚だしい。天皇を敬愛し理解し共感する国民もいるだろう。しかし、敬も愛もせず、理解や共感とも無縁な国民も現実に存在し、けっして少なくはない。このような人々に、敬愛や理解・共感を押しつけてはならない。仮に天皇を敬愛しない者がたった一人であったとしても、このような価値観に関わる問題について、国民を一括りにしてはならない。国民一人ひとりに、思想・良心の自由があり、その表現の自由がある。全国民が天皇を敬愛しているなどとの表現は、厳に慎まなければならない。法律に書き込んではならない。
(3)は、訳が分からない。忖度すれば、「皇太子も、もう齢も齢だし、これまでの経験もあるから、天皇の役割が務まるだろう」ということのようだ。しかし、天皇とは憲法上決められた形式的な事項を行うだけの存在で、何ら資質や能力を要求されるない。だから、わざわざ(3)を書く必要はまったくない。
天皇は、日本国憲法における本質的構成要素ではない。国民主権や、民主主義や、精神的自由や平等原則と矛盾せぬような存在でなくてはならない。そのためには、いささかも権威や威光を認めてはならない。国民からの敬愛や理解・共感の押しつけもである。その観点からはこの法案は問題だらけ。もっともっと議論が必要だ。
(2017年6月3日)
豊穣な日本語の言語空間の片隅に、「藪蛇」という言葉がある。この「藪を突いて蛇を出す」の出典が分からない。小学館の「故事・俗信・ことわざ大辞典」にも、用例は出て来るが出典の記載はない。
出典など分からなくても、「しなくてもよいことをしたことで災難を招いて臍を噛む」ことは、誰にも憶えのあること。とりわけ、イナダさんご夫妻には、思い当たることが多々ありそう。
夫君稲田龍示弁護士の「藪蛇」については、当ブログに「『弁護士バカ』事件で勇名を馳せたイナダ防衛大臣の夫は防衛産業株を保有」(2016年9月18日付)の記事を書いた。
https://article9.jp/wordpress/?p=7458
もっとも、このブログは揶揄の記事ではない。防衛大臣の家族が、特定の防衛産業企業株を購入していることの問題点の指摘と恐ろしさへの警告である。ではあるが、見事に藪を突いて立派な蛇を、突つき出した好例でもある。この人の「弁護士バカ」なる一語への反応と提訴がなければ、稲田龍示の蛮名がとどろくことはなかっただろう。
さすがは教育勅語信奉者の防衛大臣。「夫婦相和シ」の精神で、こちらも夫と同様、損害賠償請求訴訟で大いに藪を突ついた。そして、夫君同様の敗訴。敗訴の都度、何度も「藪」を突ついて、さらなる「蛇」を出した。
この訴訟事件の発端は、サンデー毎日2014年10月5日号「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」と題する記事。この記事が、イナダの資金管理団体「ともみ組」への献金者の中に在特会幹部らとともに活動する人物が8人いて、その献金額合計が21万2000円となると指摘し、「在特会との近い距離が際立つ」と書いた。
これがイナダのお気に召さなかった。翌15年3月になって、「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられた」として、「サンデー毎日」の発行元の毎日新聞社に550万円の慰謝料と謝罪記事の掲載を求めた訴訟を大阪地裁に提起した。
これが、最初の「藪を突ついた」という行為。「サンデー毎日」の読者は限られている。しかし、この提訴で「サンデー毎日」記事が指摘した「イナダと在特会との蜜月」は広く知れ渡った。このことが、一匹目の「蛇」だった。
2016年3月11日に大阪地裁で言い渡された一審判決は、当然のことながら原告イナダ側の全面敗訴だった。「記事は論評の域を逸脱しない」「論評の前提となった事実には真実性の証明がある」「しかも記事の内容は公共の利害に関わるもので、公益を図る目的で掲載された」との認定。これが2匹目の「蛇」。人々は、イナダと極右レイシスト集団との深い関わりをあらためて思いだすこととなった。アベ政権自身が、このような輩と親密な集団だとも。
さて、これでやめておけばよかったのに、イナダは敢えてもう一度もっと深く、2度目の藪を突ついた。大阪高裁に控訴したのだ。その控訴審判決が、2016年10月12日に出た。当然のごとく控訴棄却である。またまたのイナダ全面敗訴。これが3匹目の「蛇」だ。常識的には訴訟はこれで終わり。
ところが、防衛大臣は事態の収束も撤兵も考えなかった。「藪がある限り、徹底して突つきまくる」「撃ちてし止まん」以外の策をもたないのだ。彼女は、またまた果敢に藪を突ついた。3度目である。それが上告受理申立。ウワバミが針の穴を通るくらいに困難な作戦。
そして、昨日(6月1日)の報道によれば、あえなく作戦は失敗。上告受理申立は最高裁第三小法廷(木内道祥裁判長)が5月30日付で不受理としてその旨を通知した。訴訟は、予想のとおりに、イナダ敗訴で確定した。この報道が4匹目の「蛇」である。「グリコは一粒で2度美味しい」、「イナダは一件で4度も蛇を出す」。たいしたものだ。
この事件は、DHC・吉田が私(澤藤)を被告として提起した「DHCスラップ訴訟」に酷似している。標的とされた「サンデー毎日」の記事の題名が「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」であり、私のブログが「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」というもの。
両事件の判決はともに、「記事は原告(イナダ・吉田嘉明)の社会的評価を低下させ名誉を傷つけた」と認めた。そのうえで、表現の自由保障の観点から、記事は公共にかかる事項について公益目的をもってなされた「論評」であり、論評の基礎となった事実は真実であると認定して、その言論に「違法性はない」と結論づけた。
判決の帰趨は、提訴前から分かっていたというべきであって、なにゆえむやみに何度も藪を突ついて、何匹も「蛇」を出し続けたのか。信じがたい愚挙と言わざるを得ない。これが、わが国の防衛大臣。
「むやみに何度も藪を突ついて、何匹も「蛇」を出し続けた」については、DHC・吉田もまったく同じこと。だから、スラップであり、不当訴訟といわれるのだ。
それにしても、在特会は形無しだ。イナダに擦り寄って政治献金をしたにもかかわらず、「在特会と近しいなんて言われるのは名誉毀損」とイナダに袖にされた。加えて、裁判所の判決でも「在特会と近しいなんて言われたら社会的評価は下がる」とお墨付きをもらったのだ。自業自得とはいえ、少々気の毒でもある。
(2017年6月2日)
私は教育者ですよ。籠池さんと同業だ。もっとも、スケールはウチの方がはるかに大きい。権力との結びつきも、格段に深く緊密だ。森友学園問題と、ウチの問題とが同列というわけはないよ。格が違うんだから。影響の大きさも、うんと違うだろうね。
私のことを、「教育者ではなく『教育屋』じゃないか」とか、「学校屋」「授業料商売人」「教育産業経営者」、あるいは「補助金経営者」とかの悪口をいう人ももちろんいるさ。しかし、あれはすべてがやっかみ。気にしている暇はない。
ときおり、どんな教育理念をもっているのかと人から問われたりもする。ウチの学園歌というものがあってね、1番から6番までの最後のフレーズがリフレインになっている。「求めてやまぬ 建学の 理想の花に 酔いしれん」というんだ。あの歌詞、恥ずかしながら私と親父が作った。だから、「求めてやまぬ建学の理想」とはなんでしょうか、と聞かれるわけ。
でも、こいつは愚問。ウチに建学の理念も精神もない。真理の探究とか、学の独立とか、豊かな情操とか、人格の陶冶とか、主権者としての教養とか、そんなきれいごとのタテマエで生徒が集まるはずはなかろう。
大切なのは、「時代の流れを見据えながら、社会のニーズを先取りした特色ある教育」。これに尽きるね。飽くまで、社会が望む人材を育てることで、これ以外にはない。「長い物には巻かれろ」「出る杭は打たれる」という処世訓があるだろう。だから、我慢して「巻かれよう」「引っ込もう」と自制する人材ではダメなんだ。我慢などすることなく、心底、権力にも企業にも従順で、迎合的で、忖度が的確で、上のご意向に逆らわず、社会からはみ出ることのない人間。そのような、現体制・現政権が望む人物、企業が理想とする人材を育てること。それが、ウチの教育理念といえば言えるかも。
人権だとか、労働者の権利だとか、俺にもプライドがあるだとか、自分でものを考えようなんて、そんな人物を企業が喜んで採用すると思うか。現実的に考えてもみていただきたい。時代は21世紀。私たちを取り巻く社会は、とても複雑なものになっている。到底、凡夫ごときがこの複雑な世を自らの意思や理念を貫いて生きていくことなどできるはずもない。だから、学校教育も、徹底して社会に適応できる人材育成を心がけなければならない。そのような教育指導、カリキュラム編成、さらには教育環境の整備がウチの教育方針。
もう少し有り体に言えば、「社会に適応」とは「世渡り上手」であること。世の表と裏とを見分けて、上手に生きていく術を教えること。それこそがあるべき教育であり、社会から求められている教育であり、なによりも経営として成功する教育なんだね。当たり前のことだ。
大事なのは、このカネの世を生き抜く手練手管。政治や中央行政や地方自治体にどのように食い込んで、ビジネスチャンスとし金儲けの道具とするか、それこそが私の実践を通じて、子どもたちに教えていること。これは実に教育的なことがらではないかね。
何しろ、時の総理大臣が私のことを「どんな時も心の奥でつながっている友人、まさに腹心の友だ」という仲。これをビジネスに活かさぬ手はなかろう。学校教育は、緊密に認可行政と結びついている。事業拡大の要諦は、人脈を最大限に活用して、チャンスを逃さないことだ。これも当たり前のことだがね。
このたびは、晋ちゃんにはよく働いていただいた。もとはと言えば、ウチの学園の監事だったひと。それだけでなく、やはり腹心の友だ。たよりになる。晋ちゃんのえらいところは、敢えて瓜田に沓をいれて律儀に友情の証しを示してくれたことだ。なかなかできることではない。
そして、晋ちゃんの奥さんにも世話になった。ウチが経営する保育園の名誉園長におさまっている。これは、行政への睨みをきかすのに貴重な存在。それだけでなく、萩生田官房副長官も元はウチの大学の客員教授として録を食んでいた人。井上義行元首相秘書官も同じ立場だ。それだけじゃない。異例の人事として話題となった木沢克之最高裁判事も元は加計学園監事だ。また、元文部官僚で内閣参与だった木曽功が、現在はウチの大学の学長に就任し、ウチの法人理事にもなっている。そりゃあ、文科省の元高級官僚がいれば、なにかと便利だし心強い。今回の獣医学部設立認可問題でも、役人時代には後輩だったという前川事務次官に「よろしく」と声をかけてもらった。ウチの貴重な戦力だ。
どうだ。ウチと権力中枢との結びつきは縦横無尽。全てがメシのタネになっているというわけだ。たった一つの計算違いは、これまでは誰の目にも触れずに、闇の中でことを進めていくことができたんだ。ところが、このたびだけはどういうわけかすっかりことが露見して、私と晋ちゃんが、私利私欲のために政治を汚した、行政をまげたと、悪者になったような報道姿勢。いったい突然に何があったのだろう。やはり陰謀以外には考えられないな。
とはいうものの、これまでは順調にうまくやってきた。なにもかにも、究極はカネの力だ。そして、権力と結びつき、権力を利用しようという意思の力だ。ウチの学園で学ぶ子どもたち、若者たちは、このことをよく身につけて社会に出る。どう。やっぱり私は、教育者だろう。
(2017年6月1日)