石割り桜の開花は遠く ー 「浜の一揆」判決報告
本日、盛岡地裁にて、「浜の一揆」訴訟の判決言い渡し。残念ながら、思いもかけない「完敗」である。裁判所構内の石割り桜、蕾も堅く開花は遠かった。
事案は、「サケ」「刺し網」許可申請を不許可とした岩手県知事の行政処分に対する取消請求訴訟である。判決は、訴訟の形式面では、原告側の言い分をほぼ全面的に認めた。被告が「そのような許可の制度は想定されていない」とした、原告らの「年間漁獲量を年間10トンに限定した」「サケ」「刺し網」漁業許可申請を適法なものと認めた。つまり、門前払いとはせずに、適法な訴えとして行政訴訟(取消請求訴訟)の土俵には乗っけたのだ。
その上で、裁判所は、本件申請を不許可とする実質的理由が認められるとして、取消請求を棄却した。
固定式刺し網漁業によるサケの採捕を禁止することについては,
(1) 漁業調整上の必要性が認められる。
(2) サケ資源の保護培養上の必要性も認められる。
というのだ。
到底納得しがたく、原告らとともに控訴審を闘う決意だが、本日の感想のいくつかを述べておきたい。
原告らは「浜の一揆」の心意気でこの訴訟を提起した。このネーミングは、幕末の南部三閉伊一揆を意識したものである。三閉伊一揆は、「弘化の一揆」と「嘉永の一揆」の2度の蜂起からなる。「弘化の一揆」は大きな成果を上げて収束したかに見えたが、やがて南部藩は、一揆衆への約束を反故にする。弘化の一揆を「失敗」と総括した農民たちが、再度結集し作戦を練り上げて7年後に「仙台藩への強訴」を敢行し、今度は一揆の犠牲者を出すことなく、49か条の要求のほとんどを実現させたという。いわば、「弘化の失敗を嘉永で挽回した」のだ。
また、思い出す。私は、岩手靖国訴訟を担当して盛岡地裁で敗訴した。「最悪にして最低」の判決だった。あの敗訴判決には足が震える思いをした。その後、2年を経て、仙台高裁で「天皇や内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は違憲」という、実質勝訴の判決を得た。「盛岡の仇を仙台で討った」のだ。
あのときもそうだったが、幸いにも、原告らが代理人の無念と失意を慰めて意気軒昂である。再び、「盛岡の仇を仙台で返したい」と思う。
「弘化の一揆」の指導者として知られるのが、浜岩泉村牛切の牛方・弥五兵衛(またの名を万六)。彼は、老齢の身を押して三閉伊一帯を再度の蜂起のために単身オルグして歩く途上で、身元が割れて捕らえられる。藩都盛岡の牢内で、法によらず斬首されたと伝えられている。「嘉永の一揆」の指導者として知られるのが、田野畑村の太助。彼は明治期になって、維新政府に再び蜂起を試みて失敗。新政府に拷問され、自ら命を断っている。
文字どおりに命を懸けた、彼ら一揆指導者の決意の凄まじさに、たじろがざるを得ない。原告たちは、まさしくその子孫である。今の時代、裁判に負けても命に関わることはないが、「浜の一揆」と言うにふさわしい、気合いのはいった控訴審にしなくてはならない。
(2018年3月23日)