澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風

5月10日、沖縄戦の南部戦跡を訪ねた。これまでも何度か訪れてはいるが、そのたびに心が痛む。

最初に訪れたのは復帰前。学生のころに、このあたりを時間をかけて歩いたことがある。魂魄之塔が最も印象に深かった。
「糸満市米須の海岸近くにある沖縄戦戦没者の塔。戦後、同地に収容された真和志村民が散在する遺骨を集め、1946年2月に建立された。約3万5000柱を祭っていたが、その後国立沖縄戦没者墓苑に転骨された。設置管理者は県遺族連合会。」(琉球新報の解説)

その塔に隣接して歌碑があることに、今回はじめて気が付いた。

「和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」翁長助静詠

和魂は「にぎたま」。荒ぶる魂ではなく、安らかな死者のたましいという意味であろう。「おくつき」は奥津城、墓所のこと。この奥津城で、「み床の上をわたる潮風」を感じつつこの歌に接すれば、霊魂の存在を信じない私とて、「にぎたまよ、しずもりたまえ」と願わずにはおられない。

翁長助静は戦前は小学校長で、戦後那覇と合併以前の真和志市市長となった人。原神青醉の名で歌人としても知られる。現知事翁長雄志の父君である。

この人が、沖縄戦の模様について、次のような一文を残している。

(略)師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」

なるほど。この歌には、自分の父への鎮魂の思いも込められているのだ。
そして、「日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている」と言っていることが興味深い。父の死よりは、「兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景」こそが、日本必勝の精神を崩壊させたというのだ。

この思いが、沖縄の人々の戦後の原点であったろう。とりわけ翁長助静において、また翁長雄志においても。
(2018年5月16日)

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