沖縄本土復帰46周年ー沖縄タイムスの怒りの社説紹介
5月15日。1972年のこの日、米軍統治下にあった沖縄の施政権が日本に返還された。沖縄が本土に復帰して、あれから46年となった。
「核抜き・本土並み」が米日両政府の建前であった。県民の願いは、「基地のない平和の島としての復帰」と表現された。基地に囲まれ、核の脅威にさらされ、戦争と隣り合わせの沖縄から、平和・人権・地方自治が重んじられるはずの本土への復帰である。それが、46年前の5月15日に実現した、…はずだった。
法的には、沖縄の本土復帰は、沖縄への日本国憲法の全面施行を意味する。であればこそ、平和・人権・地方自治の実現への高い期待があった。ところが、既に当時、日本国憲法体系が大きく安保法体系に虫食いされて多くの空洞を抱えた状態にあった。だから、沖縄の本土復帰は、県民が思い描いた日本国憲法体系への復帰ではなく、安保法体系によって虫食い状態となった憲法の適用を余儀なくされたのだ。
しかも、時の佐藤政権はいざというときの沖縄への核持ち込みの密約を結び、「核抜き」については誰もが不信と不安を持っての本土復帰だった。
凄惨な地上戦を経て、戦後も苛酷な米の軍政下におかれた沖縄が反米であることはよく分かる。アメリカの支配からの脱出を望んだことは当然であった。しかし、戦前本土によって差別され、本土温存の捨て石とされた沖縄が、なぜかくも熱意をもって、「本土復帰」を願ったのか、理解は必ずしも容易ではない。復帰運動のシンボルが「日の丸」であったことにも違和感を禁じえない。日本国憲法と「日の丸」、私の心裡では整合しない。
進藤栄一が、天皇(裕仁)の沖縄メッセージの存在を米国公文書館で発見して公表したのは復帰後5年を経た79年であった。もし、復帰以前にこの天皇の身勝手な酷薄が明らかになっていたら、「日の丸」が復帰運動のシンボルになっていなかったのではないか。
それでも、本土復帰が実現して46年が経った。果たして、復帰実現前に願った沖縄となったであろうか。本日(5月15日)の沖縄タイムスの社説を詠みやすいように組み替えて、引用したい。本土政権への沖縄の怒りが厳しく表現されている。
「復帰後生まれの人口が過半数を占め、米軍基地の形成過程を知らない人が多くなった。沖縄に基地が集中するようになったのはなぜなのか。
米軍普天間飛行場のように、
《沖縄戦で住民らが収容所に入れられている間に米軍が土地を接収し基地を建設》したり、
《本土から米軍が移転してきた》りしたケースがある。
共通しているのは日本政府が基地建設や米軍移転を積極的に容認していることだ。
在沖米軍の主力で、兵力の6割、面積の7割を占める海兵隊はもともと沖縄に存在していたわけではない。1950年代に反基地感情が高まった岐阜や山梨・静岡から米軍統治下の沖縄に移転してきたのが実態だ。
復帰後本土では基地が減ったが、沖縄の基地はほとんど変わらなかった。その結果、国土の0・6%を占めるにすぎない沖縄に米軍専用施設の7割が集中する過重負担の構造が出来上がったのである。
日米の軍事専門家らが認めているように、海兵隊が沖縄に駐留しているのは
《軍事的合理性》からではなく、
《政治的理由》からである。
クリントン米政権下で駐日米大使を務めたモンデール元副大統領が普天間の返還交渉で、1995年の少女暴行事件で米側は海兵隊の撤退も視野に入れていたが、日本側が沖縄への駐留継続を望んだと証言している。引き留めるのはいつも日本政府である。
橋本政権下で官房長官を務めた梶山静六氏が98年、本土での反対運動を懸念し普天間の移設先は名護市辺野古以外ないと書簡に記している。本土の反発を恐れ沖縄に押し付ける論理である。
屋良朝苗主席は復帰前年の71年、「復帰措置に関する建議書」で「従来の沖縄はあまりにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきた」と指摘している。46年後の現在も何も変わっていない。
辺野古新基地ができてしまえば、半永久的に残る。普天間にはない強襲揚陸艦が接岸できる岸壁や弾薬搭載エリアが計画され、負担軽減とは逆行する。米軍の排他的管理権によって国内法が及ばない基地ができるのである。
基地が集中する沖縄で、生物多様性豊かな宝の海を埋め立て、基地を建設するのは明らかな禁じ手だ。
北朝鮮情勢が劇的に動き始めている。日本政府は東アジア情勢を俯瞰する大局観をもって、辺野古新基地建設をいったん止め、海兵隊や不平等な日米地位協定の在り方を問い返す機会にすべきである。」
同感、おっしゃるとおり、というほかはない。
(2018年5月15日)