安倍国葬出席の最高裁長官、不見識ではないか。
(2022年10月12日)
安倍国葬という奇妙奇天烈な代物については、多方面にわたって問題山積である。今後長期にわたっての徹底的な検討で解明しなければならない。
私も、問題と思った一点を書き留めておきたい。戸倉三郎最高裁長官が当然のごとく「葬儀」に参列して追悼の辞を述べたことへの違和感である。これを違憲・違法とまでは言いがたいが、どう考えても不見識である。戸倉長官は、内閣からの参列要請を拒否すべきではなかったか。
もし、長官が司法の独立の観点から安倍国葬参列を拒否し、その理由を記者会見で明示でもしていれば、司法に対する世人の見方を変えることができたであろう。「司法の実態は行政権の一部でしかない」との社会に蔓延している固定観念を覆し、行政権からの、また政権与党からの、司法権の独立をアピールする絶好の機会であったが、無念なるかな、その機を逸した。
現実には、戸倉長官は、内閣から期待された役割を期待されたとおりに無難にこなした。内閣からも、政権与党からも無難な「番犬」との信頼を篤くしたところであるが、結局は何の問題提起もせず、国民には何の益するところももたらさなかった。
メディアの一部には、「国葬であるからには、三権の長の列席があって当然」という感覚がある。その感覚の前提として、「最高裁長官とは結局のところ行政官ではないか」「内閣に指名された長官ではないか。内閣の要請を受けて当然」という牢固たる認識がある。
しかし、日本国憲法の構造上、司法権の真骨頂は、内閣からの独立にある。確かに、最高裁長官は、内閣が指名し天皇が任命する。天皇の任命が形式的なものに過ぎないことは当然として、内閣が指名するから内閣に劣位する存在ではない。毅然として内閣の違憲・違法を糺すべき立場にある。
今回の安倍国葬は、憲法にも法律にも根拠をもたない。仮に、最高裁が内閣法制局が首相に進言したという法的根拠の屁理屈を是認するとすれば、不見識も甚だしい。国権の最高機関とされる国会の関与もない。このような閣議決定限りの国葬に、内閣の要請で出席することを不見識という。
「内閣の要請に応えて国葬の形を調えることに協力しても差し支えないのでは」との反論もあるかも知れない。しかし、最高裁は司法権の頂点に立ち、最高裁長官は大法廷の裁判長を務める。裁判体の長でもあるのだ。この国葬の違憲・違法をあらそう訴訟は既に数多く提起されており、これからも提起が予想される。それらの訴訟は最終的に最高裁の判断を仰ぐことになるのだ。
最高裁長官の公正中立に対する信頼は、行政権と対峙して怯むところがないという全ての裁判官の姿勢から生まれる。最高裁長官が、内閣からの要請で、総理大臣を長く務めたというだけの保守政治家の葬儀に列席することは、憲法の想定するところではなく、国民の期待するところでもない。