日の丸の赤は何を象徴しているか
バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が、昨日(5月27日)早稲田大学で講演した。同大学が「シェイク・ハシナ首相プロフィール」として紹介するところによれば、「バングラデシュ独立の父・初代大統領ムジブル・ラーマンの長女として生まれる。父、母、兄弟ら一族十数人を軍事クーデタで失い、自身も英国、及びインドで亡命生活を余儀なくされるが、1981年に帰国。野党・アワミ連盟の総裁に。史上最年少で就任し、反政府運動を主導。軍事政権を打倒する。貧困撲滅による社会的公正の達成を信条とした献身的な活動を続けており、1996年に同国首相に就任。2009年から再び首相を務めており、2014年より3期目」とのこと。
同氏は昨日の講演において、亡父ラーマン氏が、独立に伴う1972年の国旗制定時に「日本に魅せられ日の丸のデザインを取り入れた」と述べたそうだ。そのように述べることが、日本への親近感をアピールになるとの思いがあってのことだろう。
以下は毎日新聞の報道。
「バングラデシュ国旗は日の丸とほぼ同じ柄で、豊かな自然を表す緑の地に、独立のために流した血を示す赤い丸が描かれている。ラーマン氏は『農業国だった日本が工業国に発展したように、バングラデシュも将来は工業国になるべきだ』と話していたという。日本とのつながりを強調したハシナ氏は『貧困削減や経済発展には教育が不可欠。日本の援助は喜ばしい』と述べ、友好と経済協力を呼びかけた。」
注目すべきは、バングラデシュ「独立の父」にも、日の丸の赤は血の色を連想させたということである。バングラデシュの「日の丸」は、独立運動家たちが流した尊い血の象徴とされたようだが、さてわが国ではどうだったろうか。
「日の丸の旗はなどて赤い かえらぬ息子の血で赤い」は、よく聞かされたフレーズ。栗原貞子の詩の一節にも取り入れられている。近隣諸国の人々には、侵略戦争の犠牲になった同胞の血の色に見えるだろう。それは、清算され風化した過去のことではない。「かえらぬ息子の血」の色は、まだ拭い去られてはいないのだ。
しかし、もとより白地に赤の「日の丸」は、白い人民の骨の色、赤い人民の血の色をイメージして作られたものではない。素朴な太陽信仰の象形といってよかろう。
異説もあるが、天武朝のころに皇室は太陽を神格化したアマテラスという女性神を皇祖とした。同じ頃、先進国中国に対抗意識をもって日本という国号を使用するようにもなった。後年、そのような歴史的経緯から、「日」のデザインが国旗としての地位を占めるようになる。もっとも、国家の象徴とは無関係に、日の丸のデザインが使用されてはいたようだ。しかし、白地に赤とは限らない。
有名なのは、平家物語「那須与一」の段。ここで弓射の標的とされ射落とされて海に散る日の丸に、神聖なイメージはない。そして、デザインこそ日の丸だが、色は「白地に赤」ではなく、「赤地に金」というのが通説的理解。
平家物語には、「皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたる」が2か所に出てくる。「地の色が『紅』の扇に、金箔で『日』が押し出されているもの」というまだるっこい表現は、日の丸がまだ人々の意識に定着していないことを表しているのではないか。ちなみに、赤ではなく紅。実は、国旗国歌法でも、日の丸の彩色は赤ではなく「紅色」となっている。
いずれにせよ、語り物「平曲」の一番の聞かせどころである。
「沖の方より尋常に飾つたる小舟一艘、汀へ向いてこぎ寄せけり。磯へ七、八段ばかりになりしかば、舟を横さまになす。『あれはいかに』と見るほどに、舟の内より齢十八、九ばかりなる女房の、まことに優に美しきが、柳の五衣に紅の袴着て、皆紅の扇の日出だしたるを、舟のせがいにはさみ立てて、陸へ向いてぞ招いたる。」
「与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」
金色の丸は頭上に輝く太陽で、日の出の太陽を表すものではない。平家物語を日の丸の起源とすることには無理があろう。日の丸は、その出自において宗教色濃厚なものではあるが、血の色と結びつく好戦的なものではなかった。「日の出の色」を「血の色」のイメージに変えたのは、天皇制政府の責任である。
(2014年5月28日)