心して聴いた、内橋克人の「記者三訓」
今朝、たまたま聞いたNHK第1放送で経済評論家の内橋克人が語っていた。若いジャーナリストに語りかける内容。この人の言うことには常に耳を傾けることにしている。
内橋は1957年に神戸新聞の記者として、ジャーナリスト人生を歩み始めた。そのとき、尊敬する先輩記者から「記者三訓」を叩き込まれたという。
その先輩記者は、「あの戦争の末期には、特高が同席する新聞社となってしまった」「たくさんの部下が治安維持法違反で検挙された」「再びあの時代を繰り返してはならない」と述懐する人だった。
その人から叩き込まれた記者三訓とは、
「現場で自分の目で確かめろ」
「上を向いて仕事をするな」
「攻める側ではなく、攻められる側に身を置け」
というもの。
「現場で自分の目で確かめろ」とは、権力の発表を垂れ流すな、風評を記事にするな、ということ。「現場に出向いて、自分の目で真実を見極めて記事を書け。それこそが記者だ」ということでもあろう。まさしくジャーナリストの原点。その姿勢あればこそ、われわれはメディアを信用してものを考え発言することが可能となる。その姿勢に対する信頼がなくなれば、ジャーナリズムは崩壊する。それは、民主主義の危機だ。
「上を向いて仕事をするな」の「上」については、「社の内外を問わず」と解説が繰り返された。社外の「上」とは、権力であり、権威であり、社会の多数派であろう。そして、社内にあっては記者としての自分の人事権を握っている上司のこと。真実を伝えることにおいて、権力におもねるな、自社の社長にも遠慮するな、というのだ。
そして、「攻める側に身をおいて、攻められている者の写真を撮るな」「最後まで、攻められる側に身を寄せて、攻められている者のまなざしで攻めている者の表情をカメラに収めよ」という。誰の立場から真実を見つめるべきか、誰の立場にたてば伝えるべき真実が見えてくるか、含蓄のある言葉である。
面白いエピソードが紹介された。
「『社長におもねるな。社長の顔色を見るな』って、ペイペイの私が、社長よりもえらいというのでしょうか」と聞いたら、躊躇なく先輩が答えたという。「そのとおりだ。現場で取材し、事実を把握しているオマエの方が、社長よりエライのだ」
ジャーナリスト魂、というべきだろう。内橋は、この上ない先輩に恵まれて記者修業をしたことになる。今、さてどうだろう。各社にこんな上司がどれだけいるのだろうか。司会を務めているNHKのアナウンサーに聞いてみたい。
「政府が右と言っているのに、左というわけにはいかない」という会長が君臨するNHKにジャーナリズムは健在ですか?
「ジャーナリズムのなんたるかを知らず、知ろうともしない会長よりも、現場で格闘している職員の方がエライのだ」と言ってくれる上司はいますか?
あなたは、政権や会長の意向を意識することなく、ジャーナリストとしての任務をまっとうしている自信がありますか?
内橋は、懐旧談を披露したわけではない。特にNHKを名指しすることはなかったが、現今のジャーナリズムの萎縮を嘆いた。萎縮の結果としての「忖度報道」が横行しているという。
ジャーナリズムの鉄則である権力批判を放棄して、権力(政権)の意向を忖度して自主規制し、書くべきことを書かず、言うべきことを言わず、あるいは切れ味に手加減をする報道。「上を向いて仕事をするな」の記者第2訓に、真っ向から反する姿勢の報道。
記者にしてみれば、「そんな政権批判のガチンコ記事を書けば、上司が渋い顔をするだけ。社が守ってくれる保障はない。危ない橋を渡れるはずがないではないか」ということになるのだろう。上司の方は、「社に権力と事を構える覚悟がないのだから波風立てずにやるしかない」と言い、社の幹部は「官邸からの圧力は相当なものだ。業界が一丸となってこれと闘う雰囲気ではない。時代の空気を読むしかない」とでも言うのだろう。報道の自由も国民の知る権利も危機にある時代なのだ。
それでも、内橋はジャーナリズムの神髄を説いてやまない。東京新聞のコラム「筆洗」を例に挙げて、権力におもねらず「再び戦争を起こしてはならない」「原発再稼働の愚を繰り返してはならない」という気概で一貫している、という。私はジャーナリストではないが、権力や経済力と闘うことを使命とする職業を選んだ者だ。内橋や「筆洗」子の姿勢と覚悟を学びたいと思う。
その上で言いたい。時代の空気は、一人安倍晋三だけが作っているものではない。積極消極の差はあれ、責任の大小の差はあれ、この空気を作ることに国民みんなが加担してはいないか。「上」を忖度することなく、みんなが言うべきことを言わねばならない。でないと、いつの間にか言うべきことを言えなくなる時代がやってこないとも限らない。内橋は、ジャーナリストだけではなく、国民すべてに語りかけているのだと思う。
(2015年4月14日)