東京都民諸君。愚昧なる1000万人有権者諸君。
私が諸君の民主々議の教師、石原慎太郎だ。諸君は、よくぞ私を4回にもわたって都知事に選任した。この間なんと13年6か月。それには礼を言わねばならない。おかげで面白くやらせてもらった。しかし、敢えて言おう。そのことは諸君が愚昧であることの証明にほかならない。
最初の選挙での後出しジャンケン、あのときの私の第一声を憶えておいでか。「裕次郎の兄です」というあの出馬宣言。あれで当選した。
その後は、差別発言、豪華出張旅行、無駄遣い、身内の優遇、日の丸・君が代強制、新銀行東京…と、好き放題にやらせてもらった。なんてったって、都民が私を選び、都民が私のすることを黙認したのだ。責任は私にではなく、都民諸君にある。
何をやっても、やらなくても、石原軍団みたいなサポーターと愚昧な都民が、私を持ち上げ、押し上げ続けてくれた。文句を言わない、甘い有権者ばかりで、ホントによいところだよ。東京は。
私なんぞを知事にして、好きなことをやらせてくれた都民諸君。人が好いにもほどがあろうというもの。このごろようやく、その身の無知と蒙昧に臍を噛んでいるのかも知れない。しかし、そりゃ遅すぎるし、滑稽というものだ。
都民の生活はいざ知らず、都知事って商売は楽でいいぞ。確実に週休4日はとれる。給料も退職金もがっぽりだ。物見遊山も税金でできる。仕事は、「ヨキニハカラエ」と言っておればよい。成果は自分のものにし、責任は部下に押しつける。あとから「あれはあんたの責任」といわれたときには、「もともと専門的で難しいことが分かるわけはない」と言って逃げればよい。まあ、都知事は3日やったらやめられない。
「いったい、あんたは在任中に何をやったのか」と? 私は、精一杯日本国憲法に悪罵を投げつけてきた。それについては、かなりの成果をあげたと思うね。なにしろ、憲法こそが諸悪の根源だ。国家をないがしろにして、個人の人権を根源的な価値とするなんて莫迦なことをいうもんだ。国を守る軍隊はいらないとかね。だから、「命がけで憲法を破る」と言ってきたわけだ。障害者に人権があるのかと発言をしたし、ババアをおとしめ、三国人を危険とも言ったし、ジェンダフリーも禁句にした。そして、あとは尖閣問題に首を突っ込んだ。日の丸・君が代の強制は、私が実現した最たる成果だ。
私はつくづくと、都の官僚組織はよくできていると思う。上意下達というのは、ありゃあ嘘だ。上意は下達されないね。そんなことをすれば、「上」の責任問題が残るじゃないか。上意は飽くまで、「下」が忖度するんだな。だから、責任はいつも「下」にあって、「上」は安泰だ。私にとって、こんなに都合のよい居場所は他にない。
もしかしたら、これが、日本文化の精髄なのかも知れない。天皇制というのは、まさしくこんなもんだ。天皇無答責だろう。戦争始めたのは自分じゃないって突っぱねたじゃあないか。戦争責任なんて、言葉のアヤだって。私は、天皇ほど国民を不幸にはしていないが、天皇の責任回避ぶりには、見習わねばならない。
ところが、このところ知事無答責の雲行きが少々怪しい。今年の9月の末に私は84歳の誕生日を迎えはしたが、いかにも憂鬱なんだ。豊洲の地にさまざまな不祥事が発覚しそのとばっちりが前々々任者の私にまで及んできて、ただの推測を元にした私自身の名誉にかかわりかねぬような中傷記事が氾濫している。心痛で健康まで損なわれた始末。私だって、頭も心も痛くなるのだ。
私は、若々しさ、乱暴さ、独断などを売り物に世渡りをしてきた。が、どうもこれがうまくいきそうにない。無理をして、舛添のような目に遇いたくはない。そこで、突然だが、「おいたわしや作戦」に切り替えようと思う。どうせ、甘い都民が相手だ。
「おいたわしや作戦」にしたがって、豊洲問題での事情聴取は文書にしてくれと言ったところ、小池知事から質問状が届いた。その最後の質問はこんなものだ。
「(1)一連の問題について、石原氏は当時の知事としての道義的責任があるとお考えか。(2)もし責任があるとお考えの場合、どのように対処しようと考えておられるのか。」
この質問は小意地が悪い。責任を否定すれば、傲慢と舛添のように叩かれる虞がある。さりとて責任を認めると次には法的追及が待っている。「厚化粧」なんて悪口を言わなきゃよかった。
回答は慎重を要する。低姿勢を決めこみつつ、法的責任は認められないと突っぱねなければならない。戦後の天皇と同じだ。基本は、「知らない」「記憶にない」「十分に報告を受けていない」と、逃げの一手だ。弁護士とよく相談して、次のような回答を拵えた。期せずして、天皇の戦争責任回避のものの言い方と似たようなものになったが、これはいたしかたない。
そもそも、都知事が最終決裁を行うべき事案は膨大かつ多岐にわたるところ、本件のように専門的な知識・判断が必要とされる問題については、私自身に専門的知見はないことから、都知事在任中、私は、知事としての特段の見解や判断を求められたり大きな問題が生じている旨の報告を受けたりしない限り、基本的に担当職員が専門家等と協議した結果である判断結果を信頼・尊重して職務を行っておりました。本書のご回答において、度々、私自身は関与していないとか、担当者に任せていたとか、担当職員が専門家の意見を聞いたり専門業者と協議したりしながら実質的に決定していくもの等お答えしている趣旨は、このような意味合いです。加えて、13年半という在任期間中に私が都知事として決裁をした案件数は膨大であることもあり、ご質問の各事項については、本書のご回答以上の記億はございません。
これで一件落着とは思わないが、なんとかこれで凌げるのではないか。ここで、せめて私のできることは、反面教師になって、愚昧な都民にもう少し賢くおなりなさい、ということだ。権力者への批判を忘れ、人の好いばかりの無知な有権者は、結局のところ、私のような知事を生み、私のような知事を育てる。だから、民主々義に不可欠なものは、権力に対する甘い好意の支持ではなく、辛辣な批判の姿勢なのだ。まあ、私が言うのもおかしなものだが…。
(2016年10月26日)