澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ジェンダーギャップを克服しえない日本とは

各紙が、世界経済フォーラム(WEF)の2016年版「ジェンダー・ギャップ指数」(Gender Gap Index:GGI)を報道している。国際比較における「男女平等ランキング」として定着しているものだが、日本は144か国中の111位と順位を下げたことが話題になっている。2014年が104位、15年が101位。そして、今年の111位は過去最低であるという。

もっとも、「ジェンダー・ギャップ」の比較は、指標のとりかたで変わってくる。
たとえば、国連開発計画(UNDP)のジェンダー不平等指数(Gender Inequality Index:GII)では、昨年発表のランキングで日本は、155か国中の26位であるというが、こちらはあまり話題にならない。GIIよりはGGIの方が、詳細なデータでの比較になっているからなのだろう。

GGIは、女性の地位を経済、教育、政治、健康の4分野で分析する。今年のランキングでは、日本は健康や教育では順位を上げたが、「経済」が118位と12ランクも下げている。その主たる理由は、収入の比較方法を改め実態に近づくように修正したからだという。その結果、「所得格差」が75位から100位に急落して、総合順位に反映したのだという。これまでが、やや上げ底だったというわけだ。これは、安倍内閣にとって由々しき数字ではないか。

GGIは、各比較項目について完全平等を1、完全不平等を0に数値化する。一昨年(2014年)の数値だが、総合指数1位は、アイスランド(0.8594)、2位フィンランド(0.8453)、3位ノルウェー(0.8374)、4位スウェーデン(0.8165)、5位デンマーク(0.8025)…と続いて、日本は104位(0.6584)。

興味深いのは、日本の分野別指数。経済0.6182、教育0.9781、健康0.9791、そして政治が0.0583と極端に低い。なお、日本と中国、韓国がいずれもよく似た平等後進国となっている。

なぜこうなのだろうか、と考える。なぜ、世界共通の現象として、ジェンダーギャップがあるのだろうか。そして、なぜ日本においてそのギャップが著しいのだろうか。

私にとってこの種の問題を考える際の基本書がある。若桑みどりの著書、なかでも「女性画家列伝」(1985年・岩波新書)。

この書の書き出しはこうなっている。
「美術史に残る女性の芸術家はきわめて少ない。人々はその理由として、女性は本来創造的行為や思索に向いていないのだと言ってきた。
 今日ではそのような説を頭から信じる人はいない。なぜなら、美術系の大学は圧倒的に女性によって占められており、その才能の優秀さには誰も目をつぶることはできないからである。私は都立の芸術高校から芸大の美術学部に進んだが、ここで天才的な能力を持って目立っていたのはみな女性の友人だった。では、いまその女性がどうしているかというと、私の友人の場合、みな現在は主婦になっていて制作はしていない。
 今でも芸大の美術学部の教授たちはみな男性である。男女共学になってからやがて半世紀近くになるというのに、芸大美術学部には唯一人の女の教授もいない」

また、同書に収録された女性芸術家との対談のなかで、若桑は自分の執筆活動と子育てについて、次のようにリアルに語っている。

「私は子供二人いますから最悪ですよ。私、論文に打ちこむと、その世界に浮かんじゃうわけですね。16世紀とか、シュール・レアリスムとか。論文を書いている時に「御飯」なんていわれると、カーッと来ますね。(笑) ま、しようがないから、立つんですけどね。水仕事しながら、この大学者がこんな茶碗なんか洗って。(笑) こんなすごい学者が魚なんて焼いてんだからって。(笑) そうすると子供が、何ブツブツいってるの、早く作ってよっていう。こんな大学者が御飯作るなんて、何てことだっていってんのよ、なんていうと、向こうは学者だなんて思ってませんからね。御飯作るおばさんだと思ってる。(笑) でも、子供ですから、親の世界を尊重して邪魔する。子供が小さい時、私の誕生日に沈黙券ていうのくれたんです、十分とか五分とか、子熊ちゃんとかいろいろ書いて、ホチキスでとじてあるんです。何って聞くと、私にそれ渡しておいて、私が五分って渡すと彼は五分黙って、私の勉強の邪魔しないって、そういう券で、(笑) それで私一度に全部渡して部屋に閉じこもりました。」
「自分で望んでつくった子供ですからね。育てあげるのは当然です。でも私は本当に男性と同じ時間がほしい。切実です。」

なるほど、そのとおりだろう。実によく分かる。男性としては耳が痛い。

同じ書に、「家父長制と女」という小見出しで、水田珠枝の『女性解放思想史』(筑摩書房)が引用されている。「私はこの本に書かれているいくつかの事実には反論があるし、また事実の解釈についても全面的に共感はしないけれども、…今までの思想史のなかで女性がどういう立場に置かれていたかを、明快に、わかり易く書いてある好著だと思う。」とのコメントしてのものである。

「歴史をおしすすめた原動力、それは生産力であった。生活資料を生産し増大させる能力が、人類を自然から分離し、生活水準を高め、私有財産を、階級分化を、権力を発生させ、文化をつくりあげていった」。しかし、出産という重荷を負う女性は、生活資料の生産において男性に劣り、その結果、生産の占有権は男性の手に握られる。こうして「物をつくりだす男性は尊敬されるが、命をつくりだす女性は軽視される。……生活資料の生産が生命の生産を、男性が女性を支配することになる」。

「こうした男女関係を制度として固定し、永続化したのが家父長制であった。そこでは、生活資料の生産と消費、そして生命の生産が家族を単位としておこなわれるために、生産活動で優位にたつ男性=家長が絶対権をにぎり、唯一の財産所有者となって、家族員の生活を保障するというかたちをとりながら、かれらの権利も人格も労働も、一身に吸収してしまう。……したがって、この制度の下では、女性の経済的、人格的自立の可能性はうしなわれる。階級支配とは異質な、しかも普遍的な性支配は、家父長制によってつらぬかれ、他人に依存する女性の性格もそこでつくりあげられる」。

ここで語られているのは、「物をつくりだす性」と「命をつくりだす性」の対比である。優位に立った前者が後者を支配する構造があるというのだ。おそらく、文明の進歩とはこの支配・差別を意識的に克服する過程なのだろう。

ヨーロッパ諸国がジェンダーギャップを克服しつつあるのに、中国(99位)、日本(111位)、韓国(116位)が揃って後塵を拝している。おそらくは、「女子と小人は養い難し」とする儒教文化の影響なのだろう。

戦後民主々義は、「父子有親。君臣有義。夫婦有別。長幼有序。朋友有信。」の五倫も、「男女7歳にて席を同じくせず」も、教育勅語も、銃後の婦徳も、みんな払拭したはずなのだが、この社会の根っこのところで脈々と生き残っているということなのだろう。
(2016年10月27日)

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