参院選9日目ー教育公務員の選挙運動への威嚇(その2)
昨日述べたとおり、公立校に勤務する教育公務員には、政治活動と選挙運動に関する特別の制約が付されている。政治活動については、一般の地方公務員には地公法36条で、そして教育公務員には教特法を介して「国公法102条・人事院規則14-7第6項」が適用規定となる。また、選挙運動については一般公務員が公選法136条の2(1項1号)で、教育公務員は137条で、「その地位を利用した選挙運動」が禁止されている。
ではなにもできないか。そんなことはない。昨日述べたとおり、教育公務員も人権享有主体であり、政治活動も選挙運動も憲法21条で保障された権利として尊重しなければならない。その人権制約の規定は限定して解釈されなければならない。昨年暮れに、このことを確認する恰好の最高裁判決が言い渡されている。大きな話題となった堀越事件である。
10年前の総選挙のさいに、「社会保険庁東京社会保険事務局目黒社会保険事務所に年金審査官として勤務していた厚生労働事務官(係長職)」であった堀越さんは、共産党の支持を目的として、しんぶん赤旗号外(『いよいよ総選挙』『憲法問題特集』など)や東京民報などを配布した、として起訴された。罰条は、国家公務員法102条と同法の委任によって制定された人事院規則14-7第6項7号と13号である。
これまで、リーディングケースとされたものは、1974年の猿払事件大法廷判決。形式的にこの判例による限りは有罪間違いないのだだが、東京高裁は堀越さんを無罪とし、最高裁第二小法廷も検察側の上告を棄却して無罪とした。無罪の理由は、高裁判決がよりすっきりしてはいるが、最高裁判決の論理を確認しておこう。
(A)「国家公務員法102条1項は,公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持することを目的とするものと解される。」
(B)「他方,国民は,憲法上,表現の自由(21条1項)としての政治活動の自由を保障されており,この精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利であることに鑑みると,上記の目的に基づく法令による公務員に対する政治的行為の禁止は,国民としての政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきものである。」
(B)における「国民」とは、公務員である堀越さんのこと。公務員も国民として人権享有主体であり、しかも「選挙に際して赤旗号外を配布するという政治活動」について、「表現の自由(21条1項)として保障されており,その自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の基本的人権であって,民主主義社会を基礎付ける重要な権利」とされている。しかし一方、(A)に言う「公務員の職務の遂行の政治的中立性を保持することによって行政の中立的運営を確保し,これに対する国民の信頼を維持すること」も、法の目的として肯定しうるところ。
そこで、(A)の目的を『必要やむを得ない限度ギリギリにその範囲を限定して』理解することによって、大切な(B)の権利を擁護せざるを得ない、というのだ。
その基本原則のもと、具体的には「『禁止された政治的行為』とは,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが,観念的なものにとどまらず,現実的に起こり得るものとして実質的に認められるもの」と解するのが相当である。
「本件(「赤旗」および「東京民報」)配布行為は,管理職的地位になく,その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって,職務と全く無関係に,公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり,公務員による行為と認識し得る態様で行われたものでもないから,公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると,本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである」というのが結論。
論理の構造は、公務員と言えども憲法の眼目と言うべき21条の政治的表現の自由を有している。その権利の重要性から、制約は『必要やむを得ない限度にその範囲が画されるべきもの』ということになる。しかも、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが観念的なものであっては制約の理由たり得ない。実質的に認められるものでなくてはならないというのである。
この判断枠組みの基本構造は、国公法102条・人事院規則14-7の事件にだけでなく、地公法36条にも、教特法にも、そして公選法136条の2、137条にもあてはまる。
もちろん、堀越事件における無罪理由の具体的な射程距離については今後の判例をまたねばならないが、猿払大法廷判決が巾を利かせていた時代は終わった。教育公務員を含めた公務員の政治活動、選挙運動の一律禁止を墨守しておられる時代ではない。
おそらくは、都教委は、そのこと故に焦っての通知を発出しているのだ。
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『ルソン戦ー死の谷』(阿利莫二著 岩波新書)より
私たちはバナナはあの黄色い実だけを食べるものと思っている。しかし、実は花も茎の芯も食べられる。「菜はスープがほとんど。スープというより、日本の鍋汁である。汁の実にしていたバナナの花は、缶詰の貝柱に似た舌ざわりでおいしい。」
食べられるのはほかにもある。
「一度だけ、脂気のある柔らかい筍のようなものを口にした。聞くとヤシの芯だという。若芽だったかもしれない。高級な味である。ヤシの実はトンコンマンガにもあったが、入院中最もよく口にした。若い実は半透明でとろりとし、熟するほどに固くなる。若すぎず、熟しすぎないこのココナッツは、炒めると、半ばいか焼き、半ば南京豆のような味と舌ざわりがする。」
1944年11月マニラへ上陸し、待ち受けている、ルソン島の東北山地を逃げ回らなければならない運命を知らなかった、「学徒兵阿利莫二」のつかの間の幸せな食生活。その後すぐ、45年1月には米軍がレイテ島に上陸をはじめ、「ルソン決戦」どころか、泥沼の「ルソン持久戦」に突入することになった。これが戦争といえるのだろうか。あてどもない、ボロボロの日本軍逃避行である。
食料も薬もなく、盲腸の手術も手足の切断も麻酔無し、目が覚めたら隣の友兵が冷たくなっている。米軍の砲爆撃は熾烈をきわめ、空からのガソリン攻撃、地上の火炎放射機で、森も林も草原も焼き尽くされ、手も足も出ない。
「傷病者はとくに負け戦さの戦場では足手まとい。捕虜になることを軍紀が許さぬ以上、動けぬ者は死ぬよりほかは道がない。隊の足手まといになるよりは死を選ぶ方がいさぎよい。これが美徳。・・戦況が悪化すればするほど、当然のことのように自決や処置が行われた。」
「死相」「幽鬼の宴」「人肉食」「餓鬼の図」これが今から68年前のちょうど今頃の7月、フィリピンのルソン島でくり広げられた地獄図である。
「油虫は炒めると香ばしいが、何しろ死体をバリバリ囓る大物、動きの鈍い者には捕らえるのが難しい。アシン谷でお目にかかったのは、野ねずみ、小鳥、小さい蛇一匹、オタマジャクシ、地虫、わらじ虫、小さいバツタ、それに小さな巻貝くらいである。」お目にかかっても、ヨタヨタの身体で捕まえられるのは、わらじ虫やヤスデ、カナブンの白い地虫ぐらい。飯ごうで煎って食べると香ばしい味で、地虫は甘みがある。オタマジャクシは煮ると溶けて、苦い汁になる。串に刺してあぶって食べる。
そして8月15日。栄養失調の下痢で「生きたい」という気持ちもなくなって、立つこともできない状態で、9月8日米軍の捕虜として収容される。
「アメリカ軍のレーション(携行糧食)を見たとたん、これだけで勝負は決まっていたと思う。日本軍の携帯食料は内地にいた時でも金平糖が少し混ざった乾パン一袋である。レーションにはチーズ、ビスケット、コーヒー、チョコレート、缶詰、シガレットなどが、完全密封の箱に見事にコンパクトされている。」
フィリピン島戦の犠牲者は50数万人。うちルソン島は20数万。大戦中最大の戦死者を出したこのフィリピン島戦全体の兵員生還率は約23パーセントだった。
(2013年7月12日)