澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ギグワーカーを労働者として保護すべきは、民主主義社会の責任である。

(2022年11月26日)
 昨日、東京都労働委員会は、ウーバー配達員が結成した労働組合の申立を認め、「ウーバーイーツ」運営法人の団体交渉拒否を不当労働行為とする救済命令を出した。いわゆる「ギグワーカー」を労働組合法上の労働者と認めた初めての判断だという。まずは、この命令を歓迎し、労働委員諸氏に敬意を表したい。

 資本の横暴に、法が是正を命じた一場面である。「社会主義革命の必然性」についての確信は持てなかった私も、「資本主義の矛盾」については、大いに腑に落ちた。幾分なりとも、資本の横暴を抑えて資本主義の矛盾を緩和する装置が正常に機能しているのだ。

 かつては身分制度によって、人が人を支配した。今の時代は契約の自由によって、持てる者が持たざる者を搾取し支配している。この不合理の是正のために、法の支配や民主的な政治の発展が役に立つはずと思ってきた。社会法分野での法制度の充実と、法の理念を現実の社会に生かす必要を思い続けている。とりわけ、労働法の分野において、法制度のあり方とその運用の適正が重要であるが、当然のことながらこれに対する資本の側の抵抗は熾烈である。

 可能な限り労働力を安価に調達したいとする持てる者の側にとっては、労働者保護法制のすべてが利潤追求の阻害物である。労働運動や民主主義運動が作ってきた労働者保護法制を、できることなら骨抜きにしたい。規制のない形で、安価に労働力の調達を図りたい。それが、今、偽装請負となり、フリーランス契約となり、ギグワーカーの採用となっている。

 資本主義が本質的に持つ非人間的な苛酷さを、法の支配や民主主義がどこまで是正できるか。そういう視点から、昨日の都労委命令は大きな意義をもっている。

 労働組合法では労働者を、「職業の種類を問わず、賃金、給料などで生活する者」(3条)と定義しているが、一般的に、経済的従属性の有無を中心として判断されており、労働基準法上の労働者概念よりは広くとらえられている。

 都労委は、「(ウーバーの)評価制度や(配達員の)アカウント停止措置等により行動を統制し、配達業務の円滑かつ安定的な遂行を維持しているとみられる」とし、「事業は(配達員の)労務提供なしには機能せず、不可欠な労働力として確保されていた」などと認定した。さらに都労委は、配達員が注文を受けるアプリには「個別に交渉できるような仕様にはなっていない。対等な関係性は認められず、会社らが一方的、定型的に決定している」などと断じた。これらの点などから、配達員は労働組合法上の労働者に該当すると結論付けた。

 ギグワーカーと呼ばれる人たちは、形式上は個人事業者である。自身の判断で請負契約の主体となる。それゆえ、労働力を提供していながら、労働保護法制の外に置かれる。労基法も、最低賃金制度も、労災補償も、厚生年金も埒外である。ウーバーイーツの全国の登録店舗数が15万店を超えたとの発展に比して、収入が少なく不安定な働き方を余儀なくされる配達員は少なくない。

 さて、最もハードルの低い、労組法上の労働者性を認めた昨日の都労委命令は、大きな意義あるものではあるが、もちろん第一歩でしかない。問題は、欧米に比べて遅れているといわれるギグワーカーの今後である。

 以下は毎日新聞に掲載された、脇田滋龍谷大名誉教授のコメントである。
 「フランスの最高裁は20年3月、業務における運転手の自己管理の度合いを基準に、運転手はウーバーに対して従属的、雇用関係にあると判断した。自ら客を管理したり、価格を設定したりできず、業務を遂行する方法を決定していない点などが重視されたという。イタリアやスペイン、英国でも、同様の司法判断が出ているという。日本のプラットフォーム労働者についても、団体交渉を通じた労働条件の改善を重視し、偽装個人請負の形態をとるなど、脱法的に労働者を扱うのではなく、実態に応じて労働者であることを認め、保護や透明性のある働き方にすることが求められている」

 ウーバー労働者の、会社に対する従属性が問題なのだ。自ら客を管理したり、価格を設定したりできず、業務を遂行する方法はもっぱら会社が決めている。ならば、全面的な労働者性を認めてよいではないか。その点を明確にする立法措置が採られてしかるべきではないか。資本主義の非人間的な苛酷さを民主主義が是正すべき、絶好の局面ではないか。

裁判所も、都教委も、小池百合子も、この教員の声を聴け。

(2022年11月25日)
 昨日、《東京「君が代」裁判5次訴訟》での第7回口頭弁論が開かれた。満席の709号法廷で、原告のお一人が、再処分の不当を「イジメ」だとする意見陳述を行った。まったく、おっしゃるとおりだと思う。裁判官3人は、きちんと耳を傾けている様子ではあったが、どれだけ身に沁みてお分かりだろうか。
 下記に、その意見陳述の要旨を掲載する。

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  東京「君が代」裁判五次訴訟 第7回口頭弁論 原告意見陳述要旨

                                  原告 F(都立J高校全日制勤務)

 私は2005年3月に、卒業式での2回目の不起立を理由として東京都教育委員会によって減給処分を受けました。この減給処分は、2013年9月の最高裁判決によって取り消されましたが、同じ年の12月には、改めて処分を出しなおすということで、新たに戒告処分を受けています。

 都教委は再度の処分を発令した理由として、「誤った処分を正し、正しい処分へと訂正した」と主張しているとのことですが、この理由づけは後付けの言い訳にすぎません。処分の真の目的は、都教委の意に従わない者に対する攻撃の徹底であって、強大な権力を背景にした、少数者に対する「いじめ」であるとしか私には思えません。
 都教委は、いじめ防止に取り組むように各学校に指導を続けてきていますが、その中でいじめの存在を認定する根拠の一つに、「被害者が「いじめ」と捉えていること」というものがあります。君が代不起立者に対する都教委の取り扱いは執拗で理不尽な「いじめ」であると捉えている被害者は、私だけではありません。

 私の不起立に対する減給処分は最高裁で違法と判断されて処分の取消が命じられました。都教委の職務が違法と断じられたにもかかわらず、関係した職員は誰もその責任を取ることがなく、また、私たちに対する、そして都民に対する謝罪ないしは釈明のコメントを出すことも一切ありません。この係争事件に対して、都教委は裁判担当職員や顧問弁護士に多大な人件費や経費を支出し、原告には遅延損害金を支払いましたが、この財源は言うまでもなく都民の税金です。違法な処分を発したことによって都民に間接的に損害を与えたことにっいて、何ら説明もなされなかったことは、都民の信頼を裏切る信用失墜行為に相当するのではないでしょうか?

 一方、都教委は私たちに減給処分を出した時には、報道機関に対して発表を行い、処分情報を長期にわたってホームページで公開しました。これらのことは、私たちの不起立を非違行為として世間にさらす一方で、自らの不祥事には蓋をする全く不公正な行為ですし、私たちに加えられた不利益や名誉棄損が回復されていないことは、非常に残念です。そしてこのような状態の中で、再処分としての戒告処分が発令され、再び非違行為があったとして、都教委のホームページ上に晒されたのです。

 2013年9月の最高裁判決では「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべきである」と裁判官の補足意見が付け加えられました。はたして、このような再処分の発令が「謙抑的な対応」と言えるでしょうか?
 
 最高裁は、都教委に対して良識的な対応をやんわりと求めたのかもしれませんが、都教委は、使える手は何でも使うという姿勢で権力を行使している状態にあると思います。そしてとことん処分で不起立教員を追い込むことを全都に晒すことによって、教育現場はさらに萎縮していきました。私は、このような負のサイクルに歯止めをかけ、教育現場の改善のためにも再処分の取り消しを求めます。

 再処分について改めて強調しておきたいことがあります。都教委は「減給処分は違法とされたから、裁判所が認めた戒告処分を出し直す」と主張していますが、再処分として出された戒告処分による経済的損失が、2005年当時に私が受けた減給処分より実質的に重い処分に変えられたという事実です。「10 ・23 通達」による「日の丸・君が代」の強制に対し、処分を振りかざされても異を唱えた教職員が膨大な人数に及んだと見るや、2006年に都教委はそれまで何十年も変えなかった懲戒処分に伴う給与支給に関する規定を変更し、勤勉手当の減額率を倍増させ、昇給率を下げることを決定し、戒告処分でもそれまでの減給処分を上回る経済的不科益を伴うものとしました。さらに、2012年1月、「裁量権の逸脱濫用により違法」として減給処分が取り消された最高裁判決が出されたのちの2013年には、処分量定に関する規定の再改定を強行しました。このことは、戒告処分を従来の減給処分より実質的に重い懲罰とすることで、都教委が裁判で負けても教職員に従前以上の圧力をかけることができもので、実質的に最高裁判決の効力を失わせ、判決に抗う行為であるという他はありません。

 2003年の「10.23通達」発出から20年が経とうとしています。都立高校は大きく変わってしまいました。「日の丸・君が代」処分のことも、この処分以前の卒業式や入学式のことも知らない教員や生徒が多くなってきました。既に若い教員たちにとって、卒入学式における「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱、職務命令による式の実施、座席の指定等は当たり前、2006年の通達から始まった職員会議での挙手裁決禁止も当たり前のことになっています。

 2003年当時は、ほとんどの教員は「日の丸・君が代」の強制に反対しており、卒業式や入学式の開始前に、生徒や保護者に対して「式次第には国歌斉唱とありますが、強制ではありません」と説明することが多くの学校で行われていました。しかし「10.23通達」によって起立斉唱の職務命令が出され、命令に背けば処分となり、何度も命令違反を繰り返すと、累積加重で懲戒免職もあり得ると言われ、ある種のパニックが起きました。私たち教員は職務命令に対してどうするべきか、態度決定を迫られました。多くの教員は、処分を恐れ理不尽ながら起立する道を選びましたが、不起立を選択した教員も少なくおりませんでした。

 異例の大量処分が発令された2004年、都教委は、処分された教員だけではなく、処分された教員のいる学校に対して、非違行為の再発を防止すると称して、全教員の参加を強制する「再発防止研修」を命じました。あたかも連帯責任を取らせるような研修ですが、その背景には、起立を強いられた教員の僻屈した思いを不起立教員に向けさせ、命令に従った教員と命令に背き処分された教員との間を分断する狙いがあったのだと思いますL言い換えれば、都教委が率先して同僚へのいじめに加担させる行為を行ったのです。
 この研修に関し、学校によっては不起立教員を非難する事例もあったとは聞きますが、多くの場合は、不起立者に同情的で、理不尽な仕打ちをする都教委に対する抗論や怒りの声が上がっていました。

 しかし、職務命令体制と職員会議での議決禁止体制が浸透していく中で、教育現場では、関連に意見を言い合い、協力して学校運営を行う日常は次第に失われていきました。現場の意見を聞く耳を持たなくなった東京の教育行政は硬直化して、誤ったことを行っても誰も正すことができない状態となっています。これまで20年間にわたって「10.23通達」の撤回を求めてきた私たちですが、謙抑的な姿勢も、柔軟な発想も持てなくなっている都教委に対しては、裁判所が「10.23通達は違法である」と判断していただく他はないと考えています。

 裁判所には、この20年間の経過をよく確認していただき、慎重かつ公正な審理を進めていただくことをお願いいたします。

中国国歌と「香港準国歌」仁川で対決

(2022年11月24日)
 昨日に続いての、国歌の話題。香港を押さえ込んだ中国は香港の民衆に中国国歌(「義勇行進曲」)を強制した。中国への国家忠誠(即ち、習近平共産党への忠誠)を刑罰をもって強制したのだ。これが、中国の人権弾圧体質を物語っている。その中国国歌が、いま韓国でのできごとで話題となっている。

 昨日の当ブログ記事同様、こちらも国際スポーツ大会を舞台にした国歌の扱い。会場に中国国歌(「義勇行進曲」)が流れるべき時に、「香港民主化デモの歌」(「香港に栄光あれ」)が、「誤って」流されたという椿事である。

 11月13日韓国・仁川でのこと。7人制ラグビー国際大会「2022 アジアラグビーセブンズシリーズ」で、香港と韓国が対戦した。その試合前セレモニーでの国歌斉唱時に、中国国歌の伴奏が流されるはずのところで、「誤って」「香港に栄光あれ」が流されたのだ。香港当局や中国にとっては仰天動地のハプニング。香港の民衆や韓国の民主派は、内心ほくそ笑んだに違いない。

 この曲「香港に栄光あれ(Glory to Hong Kong)」は、「2019年の香港での逃亡犯条例改正案をめぐるデモをきっかけに制作された楽曲で、デモ参加者らの間で非公式の国歌のような位置づけにされている一方、香港当局や中国当局などは香港独立をあおるなどとして批判している」(Record China による)という曰く付きのもの。民主化運動の賛歌だったが、香港国家安全維持法が施行された現在は、演奏は事実上禁止されているという。それでも中国に帰属意識のない香港の民主派には、「国歌」に準ずるものだという。

 この事態に、香港政府は過剰に反応した。そうせざるを得ないのだろう。14日、韓国政府に厳重抗議した。「中国国歌の代わりに、暴力的な抗議活動や『独立』運動と密接に関連する曲が演奏されたことに強い遺憾の意を表し、抗議する」というもの。

 アジアラグビーと大韓ラグビー協会は、香港ラグビー総会および香港政府、中国政府に「心からの謝罪」を表明しているというが、問題の余波は広がっており、まだ収束していない。

 興味深いのは、「たかが国歌」についての、関係者のこの大仰な反応である。中国派で固められた香港立法会の某議員は「主催機関は直ちに謝罪したが十分ではない。これは取り返しのつかないミスだ」「国歌演奏と国旗掲揚は厳粛かつ神聖であり、いかなる場合でもミスは許されない。問題の曲は香港人に動乱の傷を負わせたものだ」などと指摘。駐香港大韓民国総領事館に手紙を送り、韓国政府に対し、主催者が過失を厳正に検討するよう促すと同時に、中国人民に謝罪するよう要請するとした。

 香港警察は、国歌条例や香港国家安全維持法(国安法)に違反しないか調査に乗り出す方針だという。香港特別行政区行政長官の李家超は、「現場でこの曲が流されたことに政治的な意図があることは誰もが知っている」「本件が香港国家安全維持法や国歌法に違反するかどうか徹底的に調査を行う」「警察は十分に経験を積んでおり、調査の進展に応じて適切に対処する」と述べている。

 また、政府報道官は、「国歌はわが国の象徴だ。大会主催者は、国歌に正当な敬意が払われるよう保証する義務がある」と述べたという。もっと正確には、こう言いたいのだ。

 「国歌はわが国の象徴だ。我が国の国歌を疎かにすることは絶対に許さない。大会主催者は、我が国の国歌を疎かに扱ったことに、もっと恐縮して見せなければならない。中国国歌には大国中国にふさわしい、特別の敬意が払われてしかるべきなのだから」

 国旗や国歌には常に、こういう七面倒臭さと胡散臭さがつきまとう。

国歌を拒否する選手の爽やかさと、国歌を唱わせようとする権力者の醜さ。

(2022年11月23日)
 臭気芬々のカタールから、一陣の爽やかな風。21日の対イングランド戦の試合前、イラン選手が国歌の斉唱を拒否したとして、大きな話題となっている。これは、イラン政府に対する、「ヒジャブ抗議デモ」への連帯行動なのだ。同時に、「政治問題とは切り離して、サッカーに集中しよう」という、FIFAの姿勢に対する抗議でもあろうか。

 周知のとおり、イランでは、22 歳のマフサ・アミニさんの死をきっかけに、全土で大規模な政府への抗議活動が続いている。アミニさんは9月13日、ヒジャブで髪をしっかり覆っていなかったというだけの理由で風紀警察に身柄を拘束され、警棒で殴打され車両に頭を打ちつけられて、3日後の16日に亡くなった。

 このあと、10代を含むイランの女性たちが、ヒジャブを着けずに外出したり衣服を燃やしたりして抗議の声をあげている。警察の暴力記録した動画の投稿が繰り返されてもいる。これに対する治安部隊の暴力的な取り締まりは凄まじく、イラン・ヒューマン・ライツによると、これまでに少なくとも378人が殺害されたという。

 絵に描いたような、自由を求める国民の運動とこれを弾圧する国家権力との対立の構図。その渦中での、国旗と国歌である。国旗も国歌も、権力側のものであって、自由の象徴ではない。イランでは、この抗議の動きが広がって以降、国歌を唱わないことが政府を批判し、デモに連帯を示すための態度だと広く受け止められているという。

 そのような事態でのワールドカップ。イラン代表の行動に対しては、国内外から注目が集まっていたと報じられている。注目の選手たちは、団結して一致した「国歌斉唱拒否」に踏み切った。国内で続く抗議デモに連帯を示したのだ。それゆえの爽やかな風という印象。

 無邪気に国歌を斉唱できる人は、国家に従順であることに疑問をもたぬ人である。あるいは、国家に従順であることをことさらに示したい人。意識的な国歌斉唱拒否は、国家に対する不服従である。あるいは、国家に対する異議申立て。

 国家の側から見れば、国歌を斉唱する者は、御しやすい歓迎すべき国民像。斉唱せざる人は歓迎すべからざる、国民の国旗国歌に対する姿勢は、権力者側からする反抗心や従順さを計るバロメータなのだ。国家への従順を拒否して自由と人権の陣営の側に就いた、イランの選手団に敬意を表したい。

「W杯・開会式放送せずのBBC」と「大はしゃぎのNHK」、どうしてこんなに違うのか。

(2022年11月22日)
 カタール発の報道は、うさんくさいことばかりでウンザリさせられる。この世にはびこる商業主義は、何にでも手を出してしゃぶりつくす。営利のためには、なにものをも犠牲にして恥じない。汚い金にまみれた東京オリンピックがまさにその典型だったが、その腐敗ぶりにおいてワールド・カップも負けてはいない。

 さらには、現代の奴隷制とされる外国人出稼ぎ労働者に対する極端な虐待・搾取の問題である。ガーディアンが報じたところによれば、ワールドカップ開催が決定して以来、カタールでは6500人もの外国労働者が死亡しているという。ジェンダー問題も、性的少数者に対する侮蔑の法制度も問題視されている。夜郎自大に自国のルールに固執することは、文明世界では恥ずべきことと知らねばならない。

 人権侵害を批判する世界の声に、FIFAはどう応えているか。ほぼ、IOCと同じだ。「サッカーと政治は切り離すべきだ」という、あの論法。「サッカーに集中しよう!」「すべてのイデオロギーや政治闘争に巻き込まれないようにしてほしい」という姿勢なのだ。オリンピックもワールドカップも、スポーツを通じて平和で公正な世界をつくろうという理念を捨て去ったようではないか。

 ヨーロッパでは、人権問題の視点からカタール大会に批判が強い。それを象徴するものが、英・BBCの「11月20日、開会式を放送せず」であった。BBCは、その時間帯には、敢えて「カタールW杯が環境に与える悪影響」の番組を放映した。権力に忖度するところのない、硬骨なポリシーの表現である。開会式を大はしゃぎで放映したというNHKとは、好対照となった。

 BBCとNHK、どちらも国内では最大の影響力を誇る公共放送メディアである。どちらも視聴者からの受信料収入で成り立つ。だが、国際的な評価は大きく異なる。一口で言えば、「BBCにはジャーナリズム精神が横溢しており、NHKにはそれが欠けている」ということ。「BBCには政府批判に遠慮がないが、NHKには忖度の姿勢に満ちている」「BBCには人権尊重のポリシーがあるが、NHKにはそれがない」とも言えるだろう。

 「国民は、そのレベルにふさわしい政治しかもてない」をもじって、「国民は、そのレベルにふさわしいメディアしかもてない」とも言われる。BBCを今のBBCに育てたのは英国の国民であり、NHKを今のNHKに育てたのは日本の国民と言わざるを得ない。

 私は、「消費者主権」という言葉を、この局面でも使いたい。もの言う消費者こそが、その消費市場の選択を通じて、企業のあり方を統制する力をもっている。主権者である日本国民は、スポンサーたる視聴者として、NHKにものを言わねばならない。オリンピックの放映のあり方についても、ワールドカップにおいても。そして、政権への忖度の姿勢においても。

宗教活動とマインドコントロール、いったいどう違うのだろうか。

(2022年11月21日)
 統一教会問題を契機に、ことあるごとに宗教が話題となる。が、宗教問題は難しい。そもそも、宗教とはなんぞやが皆目分からない。分かっているのは、宗教とは論理で説明できる領域にはなく、論理での説明を越えた世界に宗教があり信仰があるということ。だから、言語や論理での説明ができようはずもない。従って、「我が教えこそ正しい」と人に説得することは原理的にできることではない。

 人がなぜ、それぞれの信仰をもつのか、おそらくは自身も分からず、他人に分かるはずもない。他人の信仰への理解も共感も難しい。尊重や敬意はさらに困難である。

 しかし、確実に信仰は深く強く人を捉える。場合によっては熱狂的にである。歴史的に、多くの権力が民衆の宗教的情熱を一面では恐れ、また一面ではその利用を画策した。宗教は、権力によって弾圧もされ、権力と一体となって権力者を支えもした。いまなお、そのような現実がある。

 さて、民主主義の時代の、社会のマナーやルールとして、宗教をどう取り扱うか。間違うと危険な、重要課題となっている。結論は、人は相互に他人の信仰への不介入を心得るしかない。他人の信仰を邪魔してはならない、自分の信仰を他人から邪魔されることがあってはならない、という社会合意を作るしかない。信仰をもつ人も、もたざる人も。

 とは言え、宗教の多くは自己増殖の衝動をもっている。それ自体を非難することはできないが、布教活動名目のマインドコントロールによって対象者の自己決定権を侵害してはならない。この点に警戒を要するのだが、憲法で保障されている信教の自由と、唾棄すべきマインドコントロールの本質的な違いがよく分からない。信教の自由の一分枝である「宗教教義の教化伝道の自由」とマインドコントロールの差異はどこにあるのか。

 本日の「毎日デジタル・政治プレミア」に、釈徹宗の「宗教者が問う 旧統一教会問題の本質」という論稿。この人、本願寺派の僧侶だという。「旧統一教会問題の本質」という表題に惹かれて、読んではみたものの、やはり、門外漢には分かりにくい話。「旧統一教会問題の本質」を解明し得ていない。混沌は深まるばかり、という印象。

 文中に、「信仰とマインドコントロールは違う」という小見出しがある。どう違うんだろう。この違いを宗教者がどう説明しているのだろう。興味津々で注意深く読んではみたが、どう違うかはやっぱり分からない。分かるようには語られていないということか、あるいは分かりようもないテーマということなのだろうか。

 この小見出しでの解説の最後が次の文章で締めくくられている。

 「信仰心とマインドコントロールは、一見よく似ている。ただし、一方は個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩みで、他方は個人を支配する手段だ。」

「一見よく似ている。」は分かり易い。どちらも、人の精神に働きかけて、特定の価値観を植え付け、あるいは精神構造を形作ろうという営為である。一方、両者の違いは分かりにくい。本当に、「信仰とは、個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩み」なのだろうか。個人の自立を求めず、「自らの生きる道筋を宗教指導者に委ねよ」と説く宗教は巷に溢れているのではないだろうか。宗教ないし信仰に、支配・被支配の関係はないだろうか。マインドコントロールに、限りなく近似しているのではないか。

この僧侶はこうも言っている。
 
 「カルトには、「熱狂的に信じる」という意味がある。熱狂的な反社会集団を規制するのは、社会の維持にとって当然だと思う。ただし、宗教一般にも熱狂はつきものだ。つまり、カルト性をハナから欠く宗教もない。」

 カルトと宗教、マインドコントロールと布教活動、截然と分離することは難しかろう。論者は、こう言う。

「問題を根本から解くには、社会を構成する個々人が、宗教についてしっかりと考察すべきなのである」

また、こうも言う。

「宗教は人を救う力をもつが、あっさりと日常を破壊する力にもなる。今回を機にしっかり宗教について取り組むことが肝要だ。スキャンダラスなトピックだけに目を奪われていては、単に消費されていく話題のひとつになってしまう。問われているのは、この社会の宗教観なのである。」

 この頃、はやりの「しっかり」だが、どうしっかり考えて、どのような結論に至らねばならないというのか、さっぱり分からない。

 おぼろげながら分かることは、巨大宗教団体の信者や民衆に対する精神的支配力には警戒を要するということである。個人の自立と宗教的帰依とは両立しがたいのではないか。ましてや、意識的に人の精神を支配しようとたくらむ『宗教』や『擬似宗教』に対する批判を躊躇してはならない。

「東京・教育の自由裁判をすすめる会」第18回(2022年度)総会の報告

(2022年11月20日)
 昨日開催された、「すすめる会」第18回(2022年度)総会の報告である。略称「すすめる会」とはなんぞや。当日配布のパンフの一部をご紹介する。

『東京・教育の自由裁判をすすめる会に入会して、原告団を支援しましょう』

 “すすめる会”は、「10・23通達」に起因する多くの裁判を支援し、学校に自由と人権を取りもどすことを目指して、2005年7月に発足し、活動を続けています。
◆これまでに支援してきた裁判
○東京「君が代」裁判(不当処分撤回を求める裁判)
  第1次訴訟(?2012.1)、    第2次訴訟(?2013、9)、
  第3次訴訟(?2016.7)、    第4次訴訟(?2019.3)
○「君が代」強制解雇撤回裁判 ?20117
○嘱託・再雇用採用拒否撤回裁判
  第1次訴訟(?2011.6)、第2次訴訟(?2018.7)、第3次訴訟(?2018.7)
○「授業してたのに処分」裁判(?2013.12)
○国歌斉唱義務不存在確認等請求裁判(予防訴訟)(?2012.2)
◆次のような活動をしています
 ○裁判原告団への財政援助  ○通信『リペルテ』発行(年4回)
 ○裁判傍聴・要請行動  ○国際人権活動  ○関係団体との連携
 ○他にもいろいろ
◆会員になってください
 (年会費) 個人 2000円   団体 5000円
 (払込先)郵便振替 口座番号 00190-2-668820
   口座名 東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会

東京・教育の自由裁判をすすめる会
〒102-0071東京都千代田区富士見1-7-8 第五日東ビル501
e-mail kyouseihantai@gmail.com

 総会プログラムに「会員からの声」が掲載されている。その数、およそ40通。会の性格と会員の真面目さが良く表れている。いくつかご紹介したい。

Sさん(松戸市)「日の丸・君が代」強制反対運動は、戦争反対運動と連帯しています。ロシアのウクライナ侵攻の今、特に大事な運動になっています。

Oさん(赤磐市)自由な教育こそ生きる力を育みます。応援しています。

Aさん(豊橋市)「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会の皆様に敬意を表します。

Kさん(調布市)お手数をおかけしました。私は一般事務地方公務員でした。退職後数年たち、購読、どうしようか…と思った事もありますが、広い意味の支援になるかな?何もしないよりは…と考え直しました。ひろい読みする程度です。

Nさん(狭山市)また子供達を戦争に行かせないように頑張って頂きたいです。

Aさん(八王子市)いつも貴重な情報ありがとうございます。起立する、しないで良心をためすようなことをしては民主国家ではしてはいけないこと。憲法を守りぬきましょう!

Nさん(尼崎市)思想良心の自由、教育の自由・独立を守る不屈のだたかいに心から敬意を表します。

Iさん(武蔵野市)いつもお世話になりありがとうございます。67号の小森さんの論調参考になりましたが、2ページ上段の「なぜなら?」のつながりが理解できませんでした。

Wさん(横浜市)6/6に映画「教育と愛国」107Mを見ました。おすすめです。過去30年のことがわかり易く…。

Yさん(三芳町 町議会議員)小森陽一氏の文章はその通りと感銘。君が代斉唱時、私も座った。議長や教育長が問題と言ってくる。戦争は反対だから君が代は歌えない。原告??は涙が出る。勝訴を望む。高校生署名も勇気をもらいました。

Iさん(大田区)大阪高裁判決良かったですね。

Iさん(長崎市)市民活動からの報告を読みながら、ほんとうに大変な日本社会になったと思います。

Hさん(板橋区)大能先生のお話には胸がつまります。

Nさん(鳥取市)運動を続けるしか展望は切り開けません。

Tさん(北社市)マスメディアでは報道されない責重な情報を知ることができます。ありがとうございます。

Tさん(相模原市)連載「今夜も……」楽しく拝読させていただいています。

Kさん(川崎市)編集、発行大へんな仕事ですが、引き続きがんばってください。

Oさん(四街道市)音楽・文学などの情報も載せて下さい。楽しい誌面作りも大切です!

Hさん(立川市)集会・傍聴への参加、すっかり遠のき申しわけなく思ってます。「石原通達」破棄まで見届けるまでは…と思う日々です。

Iさん(横浜市)毎号のニュースで運動の状況がよくわかります。ありがとうございます。

Oさん(八王子市)山藤たまきさんの陳述にぐっと心が締めつけられる思いでした。私は息子の卒業式では立ちませんでした、保護者として(私達夫婦だけ座っていました)。でも職場では立ちました。ただロを真一文字にして歌わないことで自分を納得させていました。皆さんの強さに頭が下がります。

Kさん(八王子市)お互いに決してあきらめずに。

Aさん(豊橋市)かつては小生もへっぴり腰で君が代・日の丸に反対してきました。皆様のがんばりに敬意を表します。

Hさん(川越市)大阪府の敗訴、うれしく思います。

Mさん(杉並区)憲法を変えさせない波を大きくしていく力です。

Nさん(常緑市)粘り強い“闘い”を陰ながら応援しています。

Iさん(町田市)あきらめずにがんばっていただきありがとうございます。せめて会費を払うことで連帯していきます。

Sさん(足立区)原告の方々の不屈の精神に勇気づけられます。どうかコロナ禍の中、お身体に気をつけて下さい。これから年金生活者となりますので、会費のみになります。ごめんなさい。

Kさん(流山市)労働組合とくに教員組合へ共闘するよう申し入れ活動を展開してほしい。ニュース紙面に出ることを期待します。その様子を知って、ぼくの方から訴えができます。

Kさん(習志野市)いつも励まされています。

Nさん(草加市) 夫Tは本年3月20日他界しました。12月をもって貴会を退会させていただきます。長い間ありがとうございました。(妻Y)

Nさん(神戸市)母、Nは21年5月2日に満102歳で永眠いたしました。長い間お世話になりありがとうございました。連絡が遅くなり申し訳ありません。(K)

Hさん(足立区)10月17日にH本人が他界しました。本年度をもちまして退会とさせていただきます。皆様の活動に心から敬意を表します。頑張って下さい。(妻)

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 なお、本会の現在の<共同代表>は下記のとおりである。
 市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
 尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)    
 小森陽一(東京大学大学院教授)         
 斎藤貴男(ジャーナリスト)           
 醍醐 聰(東京大学名誉教授)          
 鈴木敏夫(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
 暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)          
 野田正彰(関西学院大学教授)          
 堀尾輝久(東京大学名誉教授) 

そのうちのお二人メッセージを引用する。

醍醐聡さん
 『東京新聞』11月5日朝刊に「叙勲奈良県警など受賞せず 安倍氏銃撃で推薦見送りか」という記事が掲載されました。行政私物化の限りを尽くした安倍音三氏の国葬となればなおさらですが、万人の死に軽重はないと考える平等原理主義者の私にとって、特定の個人の死を別格扱いする国葬に納得しません。加えて、主義のいかんにかかわらず、権威主義を拒否する私からすれば、行政当局が人間の価値に序列をつける叙勲などもってのほかです。そうした代物に「あの人が」と思うような人まで嬉々として与る光景は見るに堪えません。
 その一方で、さわやかな出来事もありました。広島県府中町議会議員の二見信吾さんは、自分が所属する政党の「上意」にも逆らって、2019年9月の町議会に提出された「天皇陛下御即位を祝す賀詞の決議案」に毅然と反対しました。二見議員は反対討論のなかで、反対の理由の第一として、「天皇陛下におかれましては」、「令和の御代が幾久しく続きますよう」などという賀詞は国民主権の原理と相容れないからだと語りました。
 現行憲法に天皇の地位を定めた条項がある以上、新天皇が即位した時に祝意を表すのは社会的儀礼だという意見があります。しかし、これは学校行事の場で日の丸に向かって起立して国歌を斉唱するのは儀礼的所作だという議論と重なります。
 また、憲法に天皇条項があるからといって、その効力が人間の内心の自由を侵すところまで及んでよいはずがありません。と同時に、「憲法の番外地」と解されている天皇によって、君主としてであろうと象徴としてであろうと、「統合」されてはたまらないというのが私の思いです。
 平等は人間が自分自身の「主」となるための不可欠の条件であり、自律した個人は本物の民主主義の支柱です。日の丸・君が代強制は根津公子さんがいみじくも指摘されたとおり「調教」であり、自律した個人をはぐくむ民主主義社会の教育と相容れません。(2022年11月7日稿)

野田正彰さん
 皆さんの抵抗運動がどれだけ教育の保守化・右傾化を警告する役割を果たしてきたか、感謝にたえません。
 今、学校では発達障害・自閉症スペクトラムのでたらめなラベリング、支援学級の増設で子どもたちが苦しめられ、不当な向精神薬の服用で自殺しています。いじめ問題は、「発達障害の子どもへの支援ができていないから」と偽りの説明が拡がり、自殺する子どもは500人ほどまで増えているのに、問題がすりかえられています。
  「教育に自由を」、自由に子どもだちと接する教師は、苦しむ子どもの本当の支えになるはずです。闘いを深めましょう。

小学校校門の「日の丸」に大きな違和感。

(2022年11月19日)
 本日は、「東京・教育の自由裁判をすすめる会」の第18回(2022年度)総会。会場は後楽園の全水道会館で、私の事務所からは徒歩の距離。歩いている途中に、突然に大きな日の丸が目に飛び込んできた。何だ、これはいったい。

 文京区立本郷小学校の校門に堂々たる一旒の「日の丸」である。これは、戦前の風景ではないか。何ごとならんと、思わず足を止めた。教員であるかはよく分からぬが、近くにいた男性と女性が「なにか御用でしょうか」と声をかけてきた。「日の丸に驚いています。何があるんですか。右翼の集会にでも、学校を貸しているんですか」と聞くと、「今日は、子どもたちの学習発表会なんです」という返事。なるほど、「日の丸」ほどには目立たぬながらも、その旨の看板が立っている。

 「どうしてまた、子どもの学習発表会に、日の丸なんですか」 答はない。クレーマーだと思われたのかも知れない。「日の丸の掲揚に、だれも異論を述べないのですか」 答はない。「なんと、世の中も変わったもんだ。小学校に日の丸か」と、声を出してはみたが、無表情の二人の耳にはいっただけ。

 私が本郷に法律事務所を構えて27年になる。この間、祝日でも民家に日の丸を見たことはない。けっして、「日の丸」大好き地域ではない。なのになぜ、本郷小学校の学習発表会に「日の丸」なのだろうか。旗を立てたきゃ校旗でいいじゃないか。

 この学校、元は「真砂小学校」だった。地元の評判は悪くない、ごく普通の公立小学校。そこに、どうして「日の丸」なのだろう。もしかして、校長が日の丸大好きなのだろうか。あるいは、「日の丸・君が代」大好きの振る舞いが、教育委員会の校長の出世に役立つと思わせる雰囲気があるのだろうか。教職員は、何も言わないのだろうか。父母からの疑問の声は出ないのだろうか。

 ネットで調べて見ると、溝畑直樹校長の実に細かい「学校経営方針」を読むことができる。この校長の熱心さが伝わってくる。が、「日の丸」掲揚方針は出てこない。疑問は深まるばかりである。

 経営方針によれば、目指す学校像は、「子供を自立に導く学校」で、経営理念は、「自らが主体者となって生きる力を育む本郷オリジナルの教育の推進」だと言う。結構ではないか。それが、どうして「日の丸」に結びつくのかが分からない。

【行動面の目標】(おそらくは、生徒についてのものだろう)として、
● 私たちは自立します。
● 私たちは社会と調和して暮らします。
とある。「自立」と「調和」の両立は難しい。「日の丸」は、国家や民族や現行秩序との「調和」の象徴といってよい。明らかに「自立」の目標とは矛盾する。

「先生、どうして校門に「日の丸」なの?」と問い質す子どもこそが、「自立」した子ども像であろう。2000年3月の国立二小卒業式当日、子どもたちは屋上に「日の丸」を掲揚した校長を囲んで質問している。「どうして「日の丸」なのですか」「どうして卒業式に「日の丸」を揚げなければならないのですか」「ボクたちの意見を聞いてくれてもよかったのではありませんか」。校長の回答に納得できない子どもたちの質問が続き、校長は子どもたちに謝罪している。

 後日、このときの様子が、センセーショナルな産経の記事になり、右翼の街宣車が学校に押しかける騒ぎになった。右翼と「日の丸」は、常に好一対なのだ。

 校長の「学校経営方針」の中には、「地域…町の誇りであり、シンボルであり、いつまでも関わり続けたくなる学校」という記述もある。今日は、突然のことで、私も上手にものを言えなかった。今度、本郷小学校の「日の丸」を見たら、落ちついて、この地域にふさわしくないことをアピールしてみよう。

 「本郷小は、『地域社会に開かれた教育』を謳っていますが、この地域に「日の丸」はふさわしくありません。私は長く本郷におりますが、この地域に「日の丸」を歓迎する雰囲気はありません。むしろ、「日の丸」アレルギーの人々を数えることができます。この町の誇りでありたいとする学校に、「日の丸」掲揚は逆行するものでしかありません」

 溝畑校長の方針には、立派なものもたくさんある。たとえば、次の一節。
※ 人権尊重の教育 ー 学校の教育活動全体を通して人権尊重の精神を培い、どの命も等しく大切にし、差別や偏見、いじめを許さない良好な人間関係を築くために主体的・協働的・創造的に行動できる児童を育成する。

 立派なものだ。が、人権とは優れて国家権力からの自由権として機能する。小学校から、国家の象徴である「日の丸」に馴染ませることは、けっして人権尊重の教育とは調和しない。人権よりは国家秩序に従順たれという、国家主義の刷り込みにしかならない。だから、小学校の校門に「日の丸」は、戦前の風景と思わせるのだ。

 はからずも、日の丸・君が代強制反対の裁判を支援する集会に出席する途上での、「日の丸」遭遇記となった。

果たして、中国にジャーナリズムは存在するか。

(2022年11月18日)
 昨日、タイのバンコックで、3年ぶりとなる日中首脳会談が実現した。「両首脳は、今後の日中関係の発展に向けて、首脳間も含めあらゆるレベルで緊密に意思疎通することで一致した」と報道されている。結構なことだ。習近平とも、プーチンとも、金正恩とも、機会があればではなく、機会を作って旺盛な対話を重ねることが大切だ。笑顔で握手できればもっとよい。懸案解決の合意ができなくても、合意の形成に向けて協議を継続すること自体が重要な意味をもつ。外交は、とにもかくにも対話から始まるのだから。

 もちろん、昨日の会談が両国間の懸案を解決するものではない。穏健なNHKニュースも、「尖閣諸島をめぐる問題などの懸案が残る中、今後、関係改善を具体的に進められるかが課題となります」「岸田首相は、中国が日本のEEZ=排他的経済水域を含む日本の近海に弾道ミサイルを発射したことなど日本周辺の軍事的活動に深刻な懸念を伝えるとともに、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。」と報道している。笑顔での対話の舞台に、懸案事項解決の糸口を探らねばならない。

 本日の毎日新聞朝刊トップは、もう少し突っ込んで、「首相は沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海情勢や、中国による弾道ミサイル発射など軍事的な活動に『深刻な懸念』を表明し『台湾海峡の平和と安定の重要性』を強調した」「岸田首相は中国での人権問題や邦人拘束事案などについて日本の立場に基づき、申し入れをした。日本産食品に対する輸入規制の早期撤廃を強く求めた。」などと報じている。日本側が中国との関係で抱える、懸案事項はいくつもあるのだ。

 この会談が中国側では、どう報じられているか。中国事情に詳しい知人が「習近平・岸田文雄日中首脳会談の新華社報道」を送信してくれた。次のような添え書きがある。「今回はマイクロソフトのワードにある翻訳ソフトを利用しました。原文が先で日本語訳は後になっております。以前よりかなり進歩した翻訳結果が出ている気がします。」

 ややたどたどしい日本語だが、新華社の報道の内容はほぼ分かる。驚いたのは、「習氏は」で始まる部分が圧倒的な分量で、「岸田文雄氏は」の部分は、4分の1もなさそうである。その全文(訳文のママ)が次のとおり。

「岸田文雄氏は、昨年 10 月に電話に成功し、新時代の要求に合致した日中関係の構築に合意したと述べた。現在、様々な分野での交流と協力が徐々に回復しています。 日中は隣国として、互いに脅威をもたらさず、平和に共存する必要がある。
 日本の発展と繁栄は中国と不可分であり、その逆も同様である。
 日本は、中国が自らの発展を通じて世界に積極的に貢献することを歓迎する。 日中協力は大きな可能性を秘めており、両国は地域及び世界の平和と繁栄に重要な責任を負っており、日本側は日中関係の健全かつ安定的な発展を達成するために中国と協力する用意がある。」

 これに、主語不明の次の文章が続いて終わる。

 「台湾問題については、日中共同声明で日本側が行った約束に変化はなかった。 中国との対話とコミュニケーションを強化し、日中関係の正しい方向を共にリードしたいと思います。」

 これでは、日中間の懸案事項はまったく存在しないがごとくではないか。日本側の安全保障や人権問題、とりわけ台湾海峡や尖閣の問題についての切迫した問題意識は中国国民に伝わるはずもない。

 一昔前のことだが、シンガポールの新聞記者で、日本語が上手な陸培春(ルー・ペイ・チュン)さんからアジア各紙のジャーナリズム事情について話を伺ったことがある。韓国・台湾・香港・タイ・インドネシアなどの話を聞いた後、「中国のジャーナリズムはどうなんでしょうか?」と聞いた。彼は怪訝そうな顔をして、「中国にジャーナリズムは存在しません」との記憶に残る一言。フーム。なるほど。

 新華社の記事は党が、国民に知らせたいことだけを伝えているのだ。情報の統制によるマインドコントロールではないか。

 念のために、習近平発言報道部分も、掲載しておく。これが中国流のメディアのあり方なのだ。

 「習近平国家主席は現地時間 11 月 17 日午後、タイのバンコクで日本の岸田文雄首相と会談した。
 習氏は、今年、中国と日本は国交正常化 50 周年を記念すると述べた。
 過去 50 年間、双方は 4 つの政治文書と一連の重要な合意に達し、様々な分野での交流と協力が実りある成果を挙げ、両国の国民に重要な幸福をもたらし、地域の平和、発展、繁栄を促進した。 中国と日本は隣国であり、アジアと世界の重要な国であり、共通の利益と協力のための多くのスペースを持っています。 日中関係の重要性は変わらない。
 中国は、戦略的観点から二国間関係の方向性を把握し、新時代の要求に合致した日中関係を構築するために、日本側と協力する用意がある。
 習氏は、双方が誠実に接し、信頼を交わし、中国と日本の 4 つの政治文書の原則を堅持し、歴史的経験を総括し、互いの発展を客観的かつ合理的に捉え、「パートナーとして、互いに脅威を与えない」という政治的コンセンサスを政策に反映すべきであると強調した。歴史、台湾、その他の主要な原則の問題は、二国間関係の政治的基盤と基本的な信義に関係しており、その約束を堅持し、適切に対処しなければならない。
 中国は他国の内政に干渉せず、いかなる口実で中国の内政に干渉も受け入れない。

 習氏は、中国と日本の社会システムや国情は異なっており、双方は互いに尊重し、疑念を払拭すべきであると強調した。
 海洋・領土紛争については、合意された原則的な合意を堅持し、政治的知恵を示し、相違を適切に管理するための責任を担うべきである。双方は、地理的近接性、人的交流、政府、政党、議会、地方、その他のチャネル間の交流と交流、特に長期的な視点で青少年交流を積極的に行い、相互の客観的かつ前向きな認識を醸成し、人々の心と心の共通性を促進するべきである。
 習氏は、両国の経済相互依存は高く、デジタル経済、グリーン開発、金融・金融、医療、年金、産業チェーンの安定的かつ円滑な運営の維持など、対話と協力を強化し、相互利益とウィンウィンの状況を実現する必要があると指摘した。
 両国は、それぞれの長期的な利益と地域共通の利益に焦点を当て、戦略的自律性、良好な隣人関係、紛争との対立に抵抗し、真の多国間主義を実践し、地域統合プロセスを促進し、アジアを発展させ、構築し、地球規模の課題に共同で取り組むべきである。」

国葬という愚行は一切不必要だ。けっして繰り返してはならない。

(2022年11月17日)
 安倍晋三元首相の「国葬」を検証する衆院各派代表者による協議会が、14日、会合を開き、参考人の意見を聴取した。
 川上和久麗澤大教授、西田亮介東工大リベラルアーツ研究教育院准教授、そして、宮間純一中央大教授が意見陳述をした。

 その席で、宮間教授は、今後の国葬実施の「基準づくり」ではなく、「国葬自体の是非が議論されてしかるべきだ」「一人の人間の死を国家が権威付けする理由や目的が不明瞭だ。現代の自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会の中で、特に価値の是非が分かれる政治家の国葬が必要なのか根本的に疑問だ」と述べたという。

 さらに、「戦前の国葬は大日本帝国憲法下で天皇から下賜され、民衆の思想・言論を抑圧する装置として機能し、「植民地支配や戦争へ国民を動員することに利用された儀式だ」と指摘し、「日本国憲法下ではそのまま使い回すことはできない」「戦前とどう違うのか国会で本格的に議論されることなく吉田茂元首相の国葬が強行され、『安倍国葬儀』も国葬と何が違うのか不明確なまま実施され、混乱を招いている」とも主張。(以上、主として赤旗による)まったくそのとおりだ。

 そもそも「国葬」なんて、国家主義時代の遺物。安倍国葬で終わりにしなければならない。国葬は、本質的な矛盾をはらんでいる。国家・国民の総意としての弔意表明なくしては、「国葬」も「国葬儀」も成立し得ない。さりとて、国民個人には、思想・良心の自由が保障されている。弔意の強制は憲法上許されない。

 結局は、「形式上強制は避けつつも、自主的な弔意の表明を要請する」という形で、事実上の弔意の強制が行われることになる。社会的同調圧力という権力のもつ武器が有効に働いて、「事実上の強制」がまかり通ることになる。

 なお、常識的に「国葬」といえば、国民の圧倒的な多数が敬愛する人物を対象とする。国民的な敬意と弔意を確認することによって、全国民の一体感を高揚させるに足りる人物。多くの場合には、国葬を通じて偉大な被葬者の意思に沿った国家運営の正当性を確認し、国民を鼓舞することを目指すことにもなる。

 安倍晋三は、そのような国葬対象者像とは対極にある。遠慮した物言いでも、毀誉褒貶定まらない人物。そして、人格的な問題を指摘されこそすれ、けっして尊敬される人格者ではない。しかも、政治家稼業三代目のボンボン。庶民の苦労とは無縁でもある。とうてい国民の圧倒的な多数が敬愛する人物ではない。この人物の葬儀を通じて、国民の一体感を確認し高揚することなど、夢想だにしえない。

 安倍晋三に限らず、「自由な思想、価値観、多様性を重んじる日本社会」に、国葬にふさわしい人物がいるとは考え難い。国家が特定の個人を、国を挙げて弔意を表するという必要がどこにあるだろうか。

 天皇や皇族も含めて、一切の国葬を廃絶しよう。弔意の強制なぞまっぴらご免だ。

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